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2016/03/27

北條九代記 卷第九 御息所御輿入 付 殺生禁遏

 

鎌倉 北條九代記   卷第九

 

      ○御息所御輿入  殺生禁遏

龜山院文應元年二月五日、故(こ)岡屋(をかやの)禪定殿下(ぜんじやうてんが)兼經公の御娘(おんむすめ)を、最明寺時賴入道の猶子(いうし)として、御年二十(はたち)に成(なら)せ給ふを、關東に申し下し、山〔の〕内に入れ參らせ、軈(やが)て將軍家の御息所に備へ奉らる。忍びて御輿入(おんこしいれ)ありけれども、穩敏(をんびん)なるべき御事にもあらざりける間、同じき三月に、御家人等、祝義(しうぎ)の進物、取り取(ど)りに捧け奉り、鎌倉の有樣、賑々敷(にぎにぎしく)ぞ覺えける。この比(ごろ)、世の人、殺生を縡(こと)とし、大名、高家(かうけ)より下々までも、獵漁(かりすなどり)を好み、鷹を臂(ひぢ)にし、犬を挽(ひ)き、山には蹄(わな)を懸け、水には網を布(し)きて、飛走鱗甲(ひさうりんかふ)、更に其所を得ず。夫(それ)、元々の雜類(ざふるゐ)は、汲々(きふきふ)として生を貪り、蠢々(しゆんしゆん)の群彙(ぐんい)は、孜々(しゝ)として死を畏る。暫く形は異なれども、含識(がんしき)、悉く命根(めいこん)を惜(をし)む事は、是(これ)、同じ。或(あるひ)は生擒(せいきん)の山獸(さんじう)は檻穽(かんせい)に囚(とらは)れて友を慕ひ、或は殺翎(さつれい)の野禽(やきん)は架桁(かかう)に繫がれて雲を戀ひ、身命を他の飼(やしなひ)に投じて、死生(ししやう)を自運(じうん)に任(まか)す。是は未だ殺さざるの者にして、愁ふる思(おもひ)に沈む計(ばかり)なり。彼(か)の漁獵(ぎよれふ)を好む輩(ともがら)、巣を傾(かたぶ)け、胎(はらごもり)を割(さ)き、鼓を擊揚(うちあ)げ、煙矢(けぶりや)を飛(とば)し、網を布(し)きて逃(にぐ)るを追ひ、漏るゝを捕へて、※(とが)なくして俎上(そじやう)に昇(のぼ)せ、過(あやまち)なくして鼎中(ていちう)に煮る。是に依て、綵羽翠毛(さいうすゐもう)は、飮啄(いんたく)するに怖れを致し、金鱗頳尾(きんりんていび)は游泳するに危(あやぶみ)を懷き、昊天(かうてん)高く、大地廣けれども、遁れ藏(かく)るに處なし。旦暮(たんぼ)に寒心(かんしん)し、晝夜に消魂(せいこん)す。是(これ)、十惡の中には殺生、最(もつとも)、大(おほい)なり。十善の中には、命(めい)を救ふを專(せん)とす。人天有頂(うちやう)、是(これ)を受生(じゆしやう)の緣とし、佛法修道(しゆだう)、是を入理(にふり)の門とする事なれば、大聖(しやう)はこの悲愁を憐み、君子はその庖厨(はうちう)を遠ざくと云ふ。現生(げんしやう)後世(ごせ)に渉りて、不殺放生(ふせつはうしやう)に過ぎたる功德(くどく)なし。大平長壽の基(もと)、道德仁政(じんせい)の首(はじめ)なりとて、時賴入道を初(はじめ)て評定一決し給ひ、在俗白衣(びやくえ)の輩(ともがら)、常には左(さ)もこそはあらめ、齋日(さいにち)の時節には忌憚(いみはゞか)りても然るべしとて、文書(もんじよ)を出して施行(しぎやう)せらる。

[やぶちゃん字注:「※(とが)」の「※」は(にんべん)+{上部(「替」-[日」)+下部(心)}

 以下の殺生制限の文書は底本では全体が二字下げ。元が漢文体なので、ここでは返り点のみの文を示し、後に【 】で訓読文を示すこととする。訓読では例外的に(ここまで本文は常に本文のままで、本文にない読みや送り仮名は送ってきていない)送られていない字を一部補填して読み易くし、句読点の一部も変更した。]

 

     六齋日 竝 二季彼岸殺生事

右魚鼈之類。禽獸之彙。重ㇾ命逾山嶽。護ㇾ身同人倫。因茲罪業之甚。無ㇾ過殺生。是以佛教之禁戒惟重。聖代格式炳焉也。然則件日々早禁魚網於江梅。宜レ停狩獵於山野也。自今以後固守此制、一切可ㇾ隨停止。若猶背禁遏。有違犯輩者。至御家人者。令ㇾ注進交名、 於凡下輩、可ㇾ加二罪科之由、可ㇾ被ㇾ仰諸國之守護竝地頭等。但至有ㇾ限神社之祭者非制禁之限矣。

【    六齋日 竝びに 二季(にき)彼岸(ひがん)に殺生をする事

右、魚鼈(ぎよべつ)の類(たぐ)ひ、禽獸の彙(たぐ)ひ、命を重んずること、山嶽に逾え、身を護ること、人倫に同じ。茲に因つて、罪業の甚だしき、殺生に過ぎたる無し。是(こゝ)を以つて佛教の禁戒、惟(こ)れ、重し。聖代の格式、炳焉(へいえん)なり。然れば則ち、件(くだん)の日々、早く、魚網を江海に禁じ、宜しく狩獵を山野に停(とゞ)むべきなり。自今以後、固く此の制を守り、一切、停止(ちやうじ)に隨ふべし。若し、猶ほ禁遏に背き、違犯の輩(ともがら)有らば、御家人に至つては、交名(けうみやう)を注進せしめ、凡下の輩に於いては、罪科を加ふべきの由、諸國の守護竝びに地頭等に仰せらるべし。但し、限り有る神社の祭に至りては、制禁の限りに非ず。】

 

是に依て、關東の諸國、暫く、修法齋日の間、非道の殺生を停止(ちやうじ)すといへども、死生不知(ししやうふち)の輩(ともがら)は、この施行(しぎゃう)を甘心(かんしん)せず。「枝葉(しえふ)の禁制かな。田畠(でんぱた)を荒す者は猪鹿(ちよろく)に過ぎたるはなく、堤(つゝみ)に穴ほり、陵(をか)を崩すものは狐兎(こと)に超(こえ)たるはなし。熊、狼の人を傷(そこな)ひ、雁(がん)、鴨(かも)の稻を食(くら)ふ、世の爲に害あり。いはんや、魚鳥の味は、人の口腹(こうふく)を養ふ。是を停止(ちやうじ)して、慈悲とせらるゝは、梁の武帝の修道(しゆだう)を學び、唐の僖宗(きそう)の政道を慕ひ給ふらん、無智の尼法師(あまはふし)の世を諂(へつら)ふて、申す事を信じ給ふも、嗚呼(をこ)がまし」と傾(かたぶ)き嘲けるも多かりけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十九の文応元(一二六〇)年二月五日、三月二十一日、及び正元二(一二六〇)年正月二十三日などに基づく。

「禁遏」「きんあつ」と読み、禁じて止めさせることの意。
 
「故岡屋禪定殿下兼經公の御娘」既注の近衛兼経(この娘の輿入れの前年に死去)の娘近衛宰子(さいし 仁治二(一二四一)年~?)。第六代将軍宗尊親王正室で第七代将軍惟康親王の母。まずは元執権北条時頼の猶子として鎌倉に入って同文応元年の三月二十一日に十九歳の将軍宗尊の正室となって御息所と呼ばれた。参照した
ウィキの「近衛宰子によれば、『時頼の猶子にすることで、北条氏の女性が将軍に嫁すという形を取っている』。先走って紹介してしまうと、文永元(一二六四)年四月に惟康王を出産するが、文永三(一二六六)年に宰子と、この惟康『出産の際に験者を務めた護持僧良基との密通事件が露見』、六月二十日、良基は逐電、『連署である北条時宗邸で幕府首脳による寄合が行われ、宗尊親王の京都送還が決定されたと見られる。宰子とその子惟康らはそれぞれ時宗邸などに移された』。『鎌倉は大きな騒ぎとなり、近国の武士たちが蜂のごとく馳せ集った』。七月四日、『宗尊親王は将軍職を追われ、女房の輿に乗せられて鎌倉を出』て帰洛、京には『「将軍御謀反」と伝えられ、幕府は』未だ三歳であった『惟康王を新たな将軍として擁立した』。『その後、宰子は娘の倫子女王を連れて都に戻った。都では良基は高野山で断食して果てた、または御息所と夫婦になって仲良く暮らしているなどと噂された』とある。

「高家」中世では武士団の中でも、相対的に見て、由緒ある武士の家柄や名門の武将を指して用いられた。

「蹄(わな)」兎を捕えるための罠(わな)。

「飛走鱗甲」鳥類・獣類・魚類・貝類。

「雜類(ざふるゐ)」これは「衆生の雑類(ぞうるい)」で古くより、貴賤を問わず、仏法を信じていない人間総体を広く指す語である。ここは単に生物、獣の一雑類たる「人間」の謂いで採ってよい。

「蠢々の群彙」ただただ蠢(うごめ)いているばかりの、生物として人間よりも下等な動物・虫魚の群れの類(たぐ)い。

「孜々(しゝ)として」ただひたすらに。

「含識(がんしき)」仏教用語で「衆生」の別訳。「心識」を有する者、感情や意識を持つと考えられる生物のことで、一般には「人間」と同義で用いられるが、ここはもっと広義に、生物の謂いで問題ない。

「命根(めいこん)」息の根。生命。

「生擒(せいきん)」生け捕り。

「檻穽(かんせい)」檻や監禁用の穴。

「殺翎(さつれい)の野禽(やきん」羽を傷つけられて飛べないようにされた鳥。

「架桁(かかう)」飼育用の止まり木。

「身命を他の飼(やしなひ)に投じ」自ら生きることを、ただ、人に飼育されることによってのみに委(ゆだ)ね。

「死生(ししやう)を自運(じうん)に任(まか)す」自分の精子の命運をそれ(飼育する人)に任せる。

「愁ふる思(おもひ)に沈む計(ばかり)なり」主語は人に飼育目的で捕縛された動物。

「胎(はらごもり)を割(さ)き」食に当てるためにむごたらしくも腹を裂いて内臓を抜き捨て去り。

「鼓を擊揚(うちあ)げ、煙矢(けぶりや)を飛(とば)し」鳥獣を捕獲するために、まず嚇(おど)しのための喧しい太鼓をばんばんと打ち鳴らしたり、煙を張ったり、火を放ったりするための「煙矢(けぶりや)」を射ったり。

「※(とが)」(「※」=にんべん)+{上部(「替」-[日」)+下部(心)})は咎・科(とが)で、「罪」と同じい。

「鼎」大きな金属の鍋。

「綵羽翠毛」美しい可憐な鳥たち。

「飮啄(いんたく)」水を飲み、餌を啄(ついば)む。

「金鱗頳尾(きんりんていび)」新鮮で鮮やかな赤い尾を持った美しい色の魚たち。

「昊天(かうてん)」大空。

「旦暮(たんぼ)」朝夕。毎日。日々。

「寒心(かんしん)」胆を冷やすこと。余りの恐ろしさに竦むこと。

「十惡」仏教で身・口・意の三業(さんごう)が生み出すとする、十種の罪悪。殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口(あっく)・両舌・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見を指す。

「十善」上記の「十悪」を成さないこと。

「人天有頂(うちやう)、是(これ)を受生(じゆしやう)の緣とし」人間界に生まれるか、天上界に生まれるか、或いは世界の最も清浄なる有頂天に生まれるかは、これ、総ては自らが最初から受けた縁(えん)によるものであって。

「入理(にふり)の門」仏道修行に入る最初のとば口。

「大聖(しやう)」優れた聖(ひじり)。大聖人。但し、ここは「君子」と下に繋がるので、仏教の有り難い上人さまではなく、儒教道徳上の「仁」を持った「聖人君子」の謂いが原義。

「庖厨(はうちう)」生きとし生けるものを殺生するところの台所。

「現生(げんしやう)後世(ごせ)」現世(げんせ)と後世(ごせ)

「評定一決」評定衆の全員一致の採決。

「在俗」「白衣(びやくえ)」は同義。宗教者や武士でない一般大衆を指す。

「常」普段の日常。

「左(さ)もこそはあらめ」生きるために食わねばならぬから、今までの最低限の習慣上の殺生に対しては、流石に取り立てて問題にはしないけれども。

「齋日(さいにち)」ここは仏教で言うそれ(「さいじつ」とも読む)と採り、在家(ざいけ)の仏教徒が「八戒」(はっかい:在家の者が一日だけ出家生活にならって守る八つの戒め。不殺生(ふせつしよう)・不偸盗(ふちゆうとう)・不邪淫(ふじやいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゆ)の五戒の中の不邪淫戒をより厳しい不淫戒とし、さらに装身・化粧をやめ、歌舞を視聴しない、高く立派な寝台に寝ない、非時の食(原則は午前中のみしか食事は出来ないとされる)を保って精進する日。毎月の八・十四・十五・二十三・二十九・三十日を「六斎日」と称した(本文に後掲される、それ)。

「二季彼岸」春秋二季にある彼岸の期間。春分・秋分を中日としてその前後各三日を合わせた各七日間であるから、一年で計十四日間となる。

「逾え」「こえ」(越え)。

「炳焉(へいえん)」はっきりとしているさま。明らかなさま。「炳」は「明らかな様子」で、「焉」は事物の様態 を形容する辞。

「件(くだん)の日々」六斎日と春秋の彼岸の期間。

「早く」速やかに。

「交名(けうみやう)を注進」氏姓通称名前を記名の上、報告し。

「凡下の輩」一般庶民の者ども。

「仰せらるべし」自敬表現であろう。屹度、周知しておかねばならぬ。

「限り有る神社の祭」限定的な期間で特別に催行されるところの神社の祭儀。

「死生不知(ししやうふち)の輩(ともがら)」生きとし生ける衆生の生命の至高の貴(とうと)さが分らぬ連中。

「施行(しぎゃう)」この禁制の厳格なる施行(しこう)。

「甘心(かんしん)せず」納得しない、同意しない、或いは、快く思わない。

「枝葉の禁制」枝葉末節の百害あって一利もない下らぬ禁制。

「人の口腹(こうふく)を養ふ」人の味覚を楽しませ、腹をくちくさせて呉れる。

「梁の武帝の修道(しゆだう)を學び」梁の武帝が、多分に仏教に帰依し、王としての人倫の道を修めようとしたことを指す。「梁の武帝」は、中国の南北朝期に江南にあった梁(五〇二年~五五七年)王朝の初代皇帝蕭衍(しょうえん 五〇二年~五四九年)のこと。創業当初は、疲弊した民政の回復を図って積極的な政治改革を行なって国家を安定させ、南朝の全盛期を生み出した。後、仏教への関心を強めたが、自らが建立した寺に「捨身」の名目で莫大な財物を施与、その結果、梁朝の財政は逼迫して民衆には苛斂誅求が齎された。武帝の仏教信仰は本格的で、数々の仏典に対する注釈書を著わし、その生活は仏教の戒律に従ったもので、特に菜食を堅持したことから、「皇帝菩薩」とも称された(主にウィキの「蕭衍及びそのリンク先の記載を参照した)。

「唐の僖宗(きそう)の政道を慕ひ給ふ」僖宗(八七三年~八八八年)は唐の第二十一代皇帝であるが、どの記載も「政道を慕ひ給ふ」姿は見られないので、これは筆者は誰か他の皇帝と勘違いしているのではあるまいか? 例えば、平凡社の「世界大百科事典」には、十二歳で即位したため、実権はほぼ宦官勢力に握られて、生涯、遊蕩の生活に明け暮れた。特に宦官田令孜(でんれいし)は禁軍(近衛兵団)の力を盾に僖宗を操り、宰相ら清流派(科挙試を経て成った役人で儒教的政治理念を持ち、蓄財や賄賂を拒絶して清貧を貫くことを体現した官僚グループの自称)と対立し、互いに藩鎮(強い軍事力を持つ地方行政組織の有力集団)の武力を借りようとしたため、混乱は地方にまで及び、王仙芝・黄巣に代表される諸反乱(黄巣の乱)を誘発、僖宗は都を逃れて陝西の各地を転々とする生活を強いられた、とある。少しもよいは書かれていない。識者の御教授を乞うものである。

「世を諂(へつら)ふ」この場合の「世」は増淵勝一氏が訳されておられるように、『お上(かみ)』と限定するのがよい。]

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