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2016/04/30

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 壁錢

Hiratagumo


ひらたくも 壁鏡

壁錢

      【比良太久毛】

ピツ ツヱン

 

本綱似蜘蛛形扁班色八足長作白幕如錢貼墻壁間亦

時蛻殼其膜色光白如繭咬人有毒至死惟以桑柴灰煎

取汁調白礬末傅之妙

此窠止金瘡諸瘡出血不止及瘡口不斂者頻貼之

按此窠幕圓白而恰似灸葢紙輙貼灸瘡不癒者良

 

 

ひらたぐも 壁鏡

壁錢

      【比良太久毛。】

ピツ ツヱン

 

「本綱」、蜘蛛に似て、形、扁〔く〕、班〔(まだら)〕色。八足ありて長し。白き幕を作〔(な)〕すこと、錢のごとく、墻壁の間に貼る。亦、時に、殼を蛻(ぬ)ぐ。其の膜、色、光白にして繭のごとし。人を咬めば、毒、有りて死に至る。惟だ、桑柴灰〔(さいさいばひ)〕を以て煎じて汁を取り、白礬の末を調へて之れに傅〔(つ)〕く、妙なり。

此の窠、金瘡〔(かなさう)〕・諸瘡の血を出〔(いだ)して〕止まざるを止む。及び瘡の口、斂〔(をさ)〕まらざる者を、頻りに之れを貼ず。

按ずるに、此の窠幕〔(そうばく)〕、圓白にして、恰かも灸の葢(ふた)紙に似たり。輙〔(すなは)〕ち、灸瘡〔の〕癒へざる者に貼じて、良し。

 

[やぶちゃん注:これは、

クモ目ヒラタグモ科ヒラタグモ属ヒラタグモ(平蜘蛛) Uroctea compactilis

或いは同科又は同属及びその近縁種と見てよかろう。ウィキの「ヒラタグモによれば、和『名の通り偏平なクモである。人家の壁面などに巣を作っているのを見かける。腹部にはっきりとした黒い斑紋があり、また、特徴的な巣を作るので見分けやすい。人家に生息することが多く、身近なクモでもある。巣は広い壁の真ん中にもあることが多いからよく目立つ。ただし、本体は常に巣にこもっていて出歩くことは少ない』。『頭胸部は卵形で偏平、八個の眼は先端近くの背面に集まる。足はほぼ中程度だが、第一・第二脚が前へ伸びながら先端がやや外向けに開く。頭胸部と足はほぼ黄褐色』。『腹部は後ろが尖ったホームベース型っぽい形で、やはり偏平。外縁は黒く、内側は真っ白で、その中央に大きな黒い斑紋がある。斑紋には個体差があり、まれに腹部に斑紋を全くもたない個体もある』。体長は八~一〇ミリメートルで、『形は雌雄ほぼ同じだが、やや雄の方がきゃしゃにできている』。『ヒラタグモの巣はテント型と言われることもあ』り、『巣は雨のあまり当たらない平らな広い面の上に作られる。外見はほぼ円形で中央が少し盛り上がる。輪郭は多数の突起を出していて、粗い歯車の形。この突起からは糸が出ていて、周囲の表面に張り付いている。また、巣の表面は、周囲のゴミ等をその表面につけて、周囲の色と紛らわしくなっている』。『巣その物は糸を重ねて作られた膜からなる。このような膜が上下に二枚重なったものが巣の本体であり、クモはその二枚の隙間に入っている。ヒラタグモの扁平な体はこのような巣に身を隠すのに都合がよい。上面の膜をはがすと、底面の膜の上にクモがいるのを見ることができる。クモは二枚の膜の隙間から出入りする』。『巣の外側の所々から壁面に糸が伸びる。この張られた糸は、ややジグザグになりながら巣から放射状に広がり、その面に張り付いたようになっている。この糸を受信糸と言い、これに昆虫等が引っ掛かると、振動が巣にいるクモに伝わることで、クモはえさの接近を知ることができる。えさが近づくとクモは巣から飛び出し、えさに食いついて巣に持ち込むか、えさの周囲をぐるぐる回りながら糸をかけ、動きを封じた後に噛み付いて巣に持ち込む』。『産卵は春から秋に散発的に行われる。卵は巣の中に柔らかな糸でくるんだ卵塊として生み付けられる』。『人家に見られることが多い。特に古い家屋でよく見られ、土壁に広く受信糸を張り広げるのを見かけることがよくある』。『野外では、あまり雨のあたらないようになった岩壁などに見かける』。『外見的にはっきりした特徴があり、日本では他に間違えそうなものはない。ただし、チリグモ』(クモ目チリグモ科 Oecobiidae の仲間か、或いはチリグモ属チリグモOecobius annulipes)『はその姿、網の張り方が共に非常に似ている。しかし大きさがはるかに小さく、成体でも』三ミリメートルほどしかなく、『目だった斑紋もなく、全身が灰色をしている』。『なお、この両者はヒラタグモが篩板』(しばん:クモ目の持つ糸を出す器官の一つで、板状のものである。篩板から出す糸を梳糸(そし)と称し、篩板を持つクモ類は他にも共通する構造を有する)『を持たず、チリグモは持っているため、かつては系統的には離れており、類似性は他人のそら似(収斂進化)だとする判断から別個の科とされていた。しかし篩板の意味の見直しのため、同一系統として両者をチリグモ科に含めることが多くなっている。しかし』、研究者の中には『やはり篩板の存在はそれなりに大きいとして、ヒラタグモ科を認めており、その扱いは確定していない』とある。

 

・「壁鏡」「壁錢」孰れも本種の巣を見知っていると、言い得て妙と感ずる。

・「人を咬めば、毒、有りて死に至る」何時も乍らにくどいが、誤り。

・「桑柴灰」東洋文庫版現代語訳に『桑の木を焼いた灰』と割注する。

・「白礬」東洋文庫版現代語訳には『みょうばん』とルビする。明礬は一般には硫酸カリウムアルミニウム十二水和物である AlK(SO4)212H2O を示す場合が多い。

・「傅〔(つ)〕く」貼り付ける。

・「瘡の口、斂〔(をさ)〕まらざる者」瘡蓋が治癒せずに何度も壊れて塞がらない症状。

・「頻りに之れを貼ず」これをこまめに張り付ける(と効果がある)。

・「窠幕〔(そうばく)〕」幕状に張り巡らされた巣。

・「圓白」丸く白くいこと。

・「灸の葢(ふた)紙」現行のお灸では、直接に灸を据えると、大きな痕(あと)が残ることから、皮膚の上に「灸点紙」なるものを貼って施灸するようである。これがそれと同じものを指すのかどうかは不明であるが、一応、参考までに記しておく。]

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 「朝の礫」 / 「幼年畫」~完

[やぶちゃん注:以下の「朝の礫」(本篇のエンディングの描写からこれは「あさのれき」と私は読む。朝の、石を粉砕したものを敷いた砂利道の景である)は唯一、戦後の昭和二三(一九四八)年八月号『饗宴』を初出とする。当時、民喜満四十二歳。この発表から二年七ヶ月後、民喜は自死した。

 冒頭、「雄二」は小学校の入学試験を受けているが、その際、兄「大吉」が同じ小学校にいることが明らかにされる。原民喜は明治四五(一九二二)年四月に満六歳五ヶ月ほどで広島県立広島高等師範学校(本文に出る「縣師」)付属小学校に入学しており、すぐ上の兄(三歳上)の守夫も恐らく同小学校在学中であった(後の守夫が同付属中学校に在学している事実から推定される)。]

 

 

 朝の礫

 

 竹藪や桃の花やギラギラ光る白い雲や繪の描いてある貝殼や、石筆、提灯、螢がくるくる、くるめきながら流れる。つい近所のお菓子屋、そこでは入學試驗の願書を賣つてゐるのだが、願書の紙と白い飴がちらつと見えたかとおもふと、橋の向の親類の戸口に來てゐる。石段を降りて行くと足もとに廣い庭園がある。藤棚のペンキ塗の窓際で菊子によく似た先生がオルガンを彈いてゐる。雨で柔らかになつた枯葉がするりと叢の上に落ちる。すると叢の方が急に暗くなり、いつのまにか雄二は廣い座敷に來てゐる。話では聞かされたが見たことのない、おぢいさんとおばあさんが坐つてゐる。おぢいさんは雄二のことを何でもちやんと知つてゐるらしい。ほう、今度から學校へ行くのかね、しつかりやるんだよ。おぢいさんは何だか非常に感心してゐる。おぢいさんの後には茶簞笥があつて、おばあさんが抽匣から繪本を出してくれる。あの繪本、おばけの繪本だ、さう思ふとあたりがだんだん薄暗くなつて稻妻が閃く。ばさばさばさ、雨のなかに、青く光る棕梠の葉。今ここは雄二の家の庭なのだ。しかし雄二は何處にゐるのやらわからなくなる。すぐ耳許でみんなが娯しさうに唱歌歌つてゐるし、雀まで元氣よく囀つてゐる。ぼくだけが睡つてゐるのかしら。生暖かい風が障子のまはりを走つてゐる。睡つてゐる間に庭の草の芽はずんずん伸びてゆく。雄二もずんずん大きくなつてゆく。ほら、といつてお母さんのところへ飛んでゆきたい。だけど、もつと隱れんぼしてゐようかなと雄二はおもふのだつた。

 鐘が鳴ると校舍も運動場も急に變つて行つた。雄二は二階の窓から下の運動場を見下ろしてゐた。廊下の下駄箱のところに生徒が一塊り黑くなつて揉みあつてゐる。それらの生徒は揉み合つて叫びあつて、そして雄二の知らない遊戲をしてゐた。「兄さんがゐるかもしれんよ」父が囁いたので、雄二は熱心に見てゐた。と、生徒の四五人が運動場を斜に突切つてこちらへ走つて來る。ゐた、ゐた。走つてくる大吉の顏は一瞬こちらの二階を見上げたが、すぐ建物の蔭に隱れた。また鐘が鳴ると運動場の生徒はみんな教室の方へ吸はれて行つた。それから暫くすると、雄二のシケンが來た。

「元氣よく行つてくるんだよ」

 父は雄二が立上つたとき小聲で囁いた。小さな袴を穿いてゐる雄二は廊下に出て、次の部屋の入口に立つた。すると、詰襟を着た、口鬚のある先生が彼の姿を見ると、まるで前から識つてゐるやうな顏つきで手招いた。先生は雄二の名前を訊ね、それから兄弟の數をきく。赤や綠の色紙を示して名前を云はす。雄二が一つ一つ先生の問に答へてゐるうちに、先生の顏は段々親密さが加はつて來た。雄二はその部屋にある面白さうな掛繪や標本に見とれてゐた。

「あれは何といふものかね」と、その時、先生は部屋の隅にある猿の標本を指差した。

「猿」と雄二は即座に應へた。

「猿さんだね、あのお猿さんを撫でてやつてみ給へ」先生は面白げに云ふ。雄二は猿の方へ近づくと、手を差伸べて何氣なくその頭に觸らうとした。と、その瞬間、「嚙みつくぞ」と、嚴しい聲が後でした。雄二は吃驚して手を引込め、猿の眼球を凝視した。その眼はキラキラ怒つてゐるやうだつたが微動だにしなかつた。先生の方を振向くと、先生は奇怪な顏つきで、「よろしい、歸つてよろしい」と頷いた。かうして雄二の入學試驗は濟んだ。

「どうだつた」と父はふと雄二を顧みて訊ねた。雄二と父は學校の門を出て川の近くまで來かかつてゐた。早速、雄二は猿のことを話した。

「それでは手を引込めたのだね……さうか、あれは標本といつて、死んだ猿の皮に棉を詰めて拵へたものなのだが」

 それは最初から雄二にも薄々わかつてゐたやうな氣がした。しかし、それなら何故先生は脅すやうな聲を出したのだらう、それに、あの時見上げた猿の眼はまるで今にも雄二の方へ挑みかからうとしてゐたのだ。

「眼球は」と彼は不思議さうに父に訊ねた。

「眼球か。あれはガラスで拵へてあるのだよ」

 恰度、二人は橋の上に來かかつてゐた。不思議なおもひに火照る頰を涼しい風が來て撫でた。

「まあ、いいさ、駄目だつたら、町の學校へ行けばいい」さういつて、父は橋の欄杆から水の上に唾液を吐いた。……

 一週間すると、試驗の發表があつた。雄二は安田に自轉車へ乘せてもらつて縣師へ行つた。雄二は二部へ合格してゐた。櫻並木の堤の路を雄二を乘せた自轉車は速く走つた。帽子に白線の入つてゐる附小の生徒たちをつぎつぎに追越して行つた。

 

「その筆入は女の子のだよ」

 隣にゐる子供が自分の筆入の模樣と見較べて云つた。たつた今、入學式が濟んで、はじめて教室へ這入り、先生から筆入を渡されたばかりのところだが、これはどうした間違なのだらう。前の席にゐる女の子も振返つて雄二の筆入を眺めた。その女の子の筆入と雄二の筆入は同じやうに菖蒲の模樣だが、雄二の隣にゐる男の子の筆入は竹の模樣だ。雄二は凝として居られなくなり、席を離れて先生の所へ行つた。

「これは違つてゐます」雄二は先生の目の前に筆入を差出した。猿を撫でてみ給へと云つた先生は一寸珍しげに雄二を眺めた。

「どうして達つてゐるのだね」

「これは菖蒲の模樣で女の筆入です」

 雄二は先生が「あ、さうだつたね」と云つてすぐ竹の模樣のと取替へてくれると思つた。ところが、先生は筆入を雄二の方へ押もどしながら、

「そんなことはない、菖蒲の模樣で、これはなかなかいいぢやないか」と平然としてゐる。急に雄二は眼の前が茫と暗くなるやうな氣持で、顏は赫と赤くなつて來た。いま教室の後方には講堂から戾つて來た時附添の父兄たちが一杯立つてゐるし、この教室の半分の席は二年生が占めてゐたが、それらの眼がみんなこちらへ注がれてゐるやうだ。そのなかから彼はとくに父の眼を感じた。「どうしたの」と父はこの失敗を後で訊ねるだらう。自分の席に戾ると、耳まで燃えてくる顏を冷たい窓ガラスの方へ向けた。すると、小さな山の姿が雄二の眼に映つた。すぐ近くにあるその山は線の襞がはつきり刻まれてゐる。それは何だか女のひとの顏のやうな氣がして、困りきつた雄二の顏を遠くからそつと靜かに慰めてくれてゐるやうだつた。……

 翌日から雄二は兄の大吉と一緒に學校へ行くことになつた。何でも分らないことは先生に訊くのですよ、はつきり云ふのですよ、母や菊子のいつてくれることはみんなもうわかつてゐたから何でも立派に出來さうだつた。兄の歩く足は速くて、雄二は穿きなれない靴でちよこちよこ從いて歩いた。學校までの路は長かつた。堤を通りすぎて橋を渡つて山が近くに見えてくると、漸く學校の近くらしくなる。彼はその路をもうすつかり憶えてゐると思つてゐた。

 その日は學校はすぐ終つたので、みんなはぞろぞろ門を出て行つた。雄二はまだ顏も名前もよく知らない子供達と一塊りになつて、とつとと橋の處まで來た。子供達はわいわい騷ぎながら橋を渡つたが、そこから路は三つに岐れてゐた。大概の子供がまつすぐ下り坂になつてゐる路の方へ行くので、雄二もついその方へ誘はれさうになつたが、ふと戸惑つて立どまつた。すると、女の子に附添つて歸る他所の小母さんが、「あなたもこちらへお歸りなの」と訊ねた。雄二は固くなつて首を振つた。「あ、さう、それならさよなら」小母さんは女の子を連れて堤の路を曲つた。「さよなら」小母さんに連れられてゐる二人の女の子も雄二の方を振返つて云つた。みんなが行つてしまふと、こんどはほんとにどちら側へ行つたらいいのか分らなくなつてしまつた。女の子たちの去つた堤の方角には見識らない赤煉瓦の建物がある。が、その反對の堤の入口のところには大きな榎のよぢくれた怕さうな姿がある。急にこれはこれまで彼の見たことのない場所のやうに思へだした。ふと氣がつくと、榎の裏側のところに人力車の小屋があつた。雄二はつかつかとそこへ行くと車夫を呼んだ。「N町の森まで行つてくれ」雄二が云ふと、日に焦げた顏の車夫はすぐ頷いた。雄二は膝に毛布を掛けられ、やがて俥は走りだした。俥が走りだすと彼はすぐ路の順序に氣づいてゐた。

 

 佐伯先生は不思議な話や面白い話をしてくれる。雄二は先生が彈みのある調子で話しだすので、つい釣込まれてゐるが、ふと氣がつくと先生の顏には短かい口鬚や光つてよく動く眼があつた。どうかするとその眼は「猿を撫でてみ給へ」と云つた時の奇妙なものを含んでゐたが、話は輕くおもしろく續いて行つた。前からよく知つてゐる話でも、先生の口から語られると不思議な生彩を帶び、話のいきれは雄二の頭に芯となつて殘つた。

 ある日、佐伯先生は二時間目の授業が濟むと、みんなを連れて門の外に出た。H山へ登るのだつた。彼が先日、筆入のことで氣まり惡いおもひをし窓の外を眺めた時、すぐ近くに見えてゐた靜かな山が、今は何かわくわくしながら向から見えてきた。列の先頭の方からも後の方からもみんなの聲や叫びが混りあつて、とつとと歩いてゆく雄二の傍に藁葺屋根や雞小屋のある小路が見える。とある小路から路はだんだん坂路になつた。麓の崖の赤土の皺やまはりの熊笹などが嶮しさうな氣持を誘ひ、佐伯先生の不思議な話の顏つきに似てくる。赤く燃えてる躑躅の花を見てふと雄二はカチカチ山にゐるやうな氣がした。雄二は眼を瞠つてあたりを眺めた。高いところにある梢の紅い花と葉に白い光が蒸れてゐて、その後の空は靑々と潤んでゐる。山は今、魔法に掛つてゐるのだつた。「……滑るぞ」「……蜂だ」「……赤い花よ」「ワアワアワア」櫻の花や山吹の花が生徒の喚き聲で渦を卷いて現れた。ふと川が見えて來た。小さな家や樹木がごつちやになつてゐる紫の塊のなかを川は白く這つてゐた。小さな橋の上を行く小さな人の影や、車の姿はひつそりしてゐた。が、川をめぐつて並んでゐる無數の屋根や樹木はそれぞれ何か賑やかに囁き合つてゐるやうだ。「僕の家あそこだ」「わたしの家見えるよ」さういふ聲に應じて、物干臺や火見櫓がゴタゴタしたなかから見える。甍や道路の色あせて行く果てに靑い山脈があつた。その山脈は靜かな空を支へて海の方へ續いてゐた。海も川のやうに白い色で靜かに島々を浮べてゐた。

 翌日、雄二は運動場に立つて、塀の向うに見えるH山をぼんやり眺めてゐた。昨日登つたその山は今もまだ何かわくわくしたものがあるやうだつたが、運動場の騷ぎが一頻り高まると山の松は妙にしーんとしてゐた。と突然、後から誰かがゴツンと彼の背を小衝いた。振向くと意地惡さうな男の子が挑戰の身構で立つてゐた。雄二はいきなり相手の手を拂ひ退けようとした。と、相手の顏は急におそろしく獰猛になつた。それから滅茶苦茶に飛掛つてきた。

「まあ、惡い子」と、その時、上級生の女生徒が二人を引わけた。それから女生徒は雄二を勞はるやうに眺めた。耳許で始業の鐘が烈しく鳴りだしたが、雄二は靑ざめた顏で立つてゐた。と急に淚が溢れだした。「淚を拭きなさい」女生徒はハンカチを差出した。「早く早く、教室へ行くのですよ」さう云ひながら女生徒は走り去つた。

 その喧嘩はそれきり終つてゐたが、ある日、學校が濟んでみんなが下駄箱の所で靴を穿きかへてゐると、ふと先日の相手が雄二に話しかけた。「君はN町の方へ歸るの。それなら僕と一緒に歸らないか」「君は――」「K町だよ、だけど大丈夫N町の方へ行ける」相手はいかにも大丈夫だといふ顏つきをした。「ね、一緒に來給へ、僕が町の方へ行く路教へてあげるから」雄二はまだT橋からまつすぐの路を通つたことがなかつたが、あの方へ廻つてもN町へ出られるといふのは何だか素晴しさうだつた。先日の憎惡はもうすつかり消えてゐたので、お互に名前を訊ねあつた。相手は矢野といふのだつた。T橋から坂路をまつすぐに降りて行くと、家並が狹くなつて人通りは繁かつた。兩側に並ぶ格子造の家や店もみんな雄二にははじめて見る處だつたが、「もう少し行くと看板が見られるよ」と、矢野は馴れた調子で歩いてゐた。やがて二人は芝居小屋の前の柳の木のある空地に來てゐた。矢野は小屋に近寄つて、頻りに芝居の看板を見上げてゐた。小屋の前にある幟はだらりと睡むさうに垂れ下つてゐた。暫くして二人は小屋の前を離れて、四つ角まで來た。この時急に矢野は、「ぢや、僕の家あそこだから失敬するよ」と云ひだした。雄二はびつくりして、顏が少しひきつつた。「N町の方へ行く道教へてやるといったぢやないか」「困つたよ、僕にもよく分らなくなつた」矢野はうろたへ顏であたりを見廻してゐた。それから矢野は震へ聲で「さよなら」と云つた。矢野が行つてしまふと、雄二は眼の前がずしんと靑ざめてしまつた。しーんとした氣持で暫くあたりを見廻してゐると、ふと人力車の小屋が見つかつた。「俥屋」と雄二は小屋の内に聲をかけたが、それから後はうまく言葉が出て來なかつた。老人の車夫は吃驚した顏つきで心配さうに、いろんなことを訊いた。それから漸く彼の云ふことを了解すると、俥に乘せてくれた。

 俥が雄二の家の玄關に着くと、彼は大急で母を搜した。母は風呂場で洗濯をしてゐた。「俥で戾つた」と云ふと、彼はわツとそのまま泣き崩れてしまつた。それから、力一杯、淚があとから、あとから溢れ出た。暫くして、母は雄二を宥め、玄關の方へ連れて行つた。車夫は叮嚀にしかし珍しげに母に話した。

「さうでしたか。お母さんはゐられたのですか。僕が『お母さんは』と、この坊ちやんに訊ねたら、お母さんはないと云はれましたので、それは大變だと思ひましたが、さうでしたか。道を迷はれたのでしたか。でもよかつたです。膿も隨分心配しました」

 

「瓣當を持つて來なかつた人は」と教生の先生がみんなを見廻した。午後から體格檢査があるので辨當を持つて來ることになつてゐたのだが、雄二は忘れてゐた。雄二はすぐに手をあげた。と、雄二の席から斜橫に見える女の子が手を擧げたかと思ふと、わツと泣きだした。教生の先生はその側へ行つて暫く慰めてゐた。それから先生は雄二と女の子にパンを持つて來てくれた。……體格檢査が濟んだ翌日、教室の座席の入替が行はれた。トラホームの生徒は赤いしるしを胸につけ、その赤いしるし同志で並ばされた。雄二の隣にゐた男の子も赤いしるしを貰つた。そして雄二の隣の席には宮内といふ女の子が來た。

 粗い髮の毛と、きつとした眼つきの宮内は絶えず雄二の隣でガサガサしてゐた。鉛筆の芯をせつせと尖らせてゐると、その折れ端が雄二の方へ飛んでくる。消ゴムをこね廻して小さなお團子を拵へる。そして彼女は時々こちらの机の方へ侵略の氣配を示す。雄二の帳面を覗き込んだり雄二が他所見してゐる隙にすぐ何かいたづらをする。彼がちよつと腹立てて相手を睨みつけても、宮内のきちんとした白い襟は女の子らしい冷たい抵抗を示した。……佐伯先生はみんなに圖畫の紙を配ると、教室の半分側にある二年生の方を教へてゐた。雄二と宮内は机の上の白い紙を見較べた。沈默のうちに何か始まりさうだつた。雄二は緊張して鉛筆を握り締めてゐた。宮内もぢつと眞面目さうな顏をして考へ込んでゐる。が、暫くすると彼女はすぐに、もぢもぢして、こちらを覗き込む。それからまた何か描かうと紙を視つめてゐる。それからまた雄二の方を覗ふ。雄二もいつのまにか宮内の眞似をして何も描けなくなつてゐた。と、そのとき宮内の鉛筆が雄二の畫用紙にやつて來て小さな點を打つて逃げた。雄二の鉛筆も早速、宮内の畫用紙に伸びて行つて點を打つ。それから戰鬪が始まつた。はじめはお互に用心して攻擊もまだ控へ目だつたが、紙面が縱橫に傷つけられてゆくに隨つて、鉛筆の速度と痛快さが加はつて來た。たうとう鐘が鳴つて時間が終るまで、この戰鬪は續いた。

 ある日、遠足の日がやつて來た。學校全體の遠足で、街はづれの山へ登るのだつた。H山よりももつと遠い、もつと高い山にくるのは雄二にははじめてだ。頂上登つて、辨當を喰べると、その後は勝手に遊んでいいことになつた。みんなは、てんでに好きな方向に散つた。雄二は、ふと何か元氣よく立上ると、ひとりで藪の方へ進んで行つた。何か素晴しいものが隱されてゐる。はじめて來たこの山の上にはお伽噺の寶があるにちがひない。彼は勇士のやうにづかづか歩いた。とすぐ上の枝に何か珍しい恰好の木の實のやうなものが目につくと、殆ど雄二はそれが何か確かめもせず手に取つて得意だつた。きつと寶だ、すばらしい寶だ、と彼は眼を輝かし、その寶を少し高く持ち上げ大急で佐伯先生を探した。佐伯先生は空地の處に女の生徒たちと一緒にゐた。もうみんなは雄二の獲ものを遠くから注目してゐるらしかつた。彼はわざと默つて少しゆつくりと先生の方へ近づいて行つた。すると宮内が雄二の側へ近寄つて、じろじろ手の中のものを眺めてゐた。

「それ蜂の巣よ」と彼女は吃驚するやうな大聲を放つた。雄二はパツと手のものを捨てた。と思ふと、宮内は「わあー」と歡聲をあげた。つづいて女の子たちは地に墜ちて碎け中から散つたものの方へ駐寄り、てんでに拾ひだした。それは木の實の中から跳ねだした白い小さな澤山の人形に似た粒々であつた。「お猿さんよ。お猿さんの子よ」と女の生徒たちはその粒々を帶にして喜んだ。……山の樹は若葉でかつと明るかつた。白い砂の小徑に枯葉が溜つてゐた。草原の傾斜には藤の花が咲いてゐた。雄二の時に映るものは油繪のやうにギラギラしてゐた。彼はあちこち歩いた揚句、ふとぼんやり立どまつた。それから滴るやうな靑空に見とれてゐた。さうしてゐると、すぐ側でする皆の騷ぎ聲も何か遙かな夢のやうだつた。何も考へてゐるのではなかつたが、空氣はふんわりと氣持よかつた。ふとそのとき雄二の方へ誰か近寄つて來ると「わあ」と頓狂な調子で、兩手で雄二の肩を搖さぶつた。それは雄二のよく知つてゐない他所の組の先生だつた。

「わあ、びつくりしただらう。おや、平氣なのかい」と先生は雄二が靜かな顏つきしてゐるので却つてびつくりした。「どうしたのだね」と先生は珍しげに訊ねる。すぐ側でこれを眺めてゐた紫の袴を穿いた女の先生も雄二の顏をぢつと見守つた。

「わかつた、あなたは少し氣分がわるいのでせう」女の先生はとても優しげに訊ねる。彼は默つて首を振つた。雄二はそれを説明する言葉を持たなかつた、だが、何だか今彼は先生とはもつと異ふ世界にゐるやうな氣持だつた。

 

 佐伯先生は雄二にとつて、友達のやうに思へたり、急に大人に變つたりした。讀み方の帳面にはいつも先生から罫を引いてもらつて書くことになつてゐた。雄二はその時、授業の途中で帳面の罫が無くなつてゐたので、席を離れると佐伯先生の所へ持つて行つた。先生は教室の後の机のところに陣どつて教壇の方の教生の授業を眺めてゐた。雄二が物尺と鉛筆と帳面を差出すと、「何故休みの時賴まなかつたのだ」と澁い顏で見返した。雄二は默つてもう一度帳面を差出すと、先生は物尺を把んで帳面の上をぴしつと彈いた。

「先生にものを渡すときお時儀しないとは何ごとか」

 雄二は全身が爆發しさうな怒りで震へてゐたが、やがてわツと泣き喚いた。と、あたりは眞暗になつて雄二の眼には何も彼も暫く見えなくなつた。しかし自分の席に戾ると間もなく泣き歇んでゐた。雷雨の後のやうに泣き歇むと氣分はからりとしてゐたが、その時間が終ると彼は廊下の階段のところに蹲つてゐた。すると後から佐伯先生がやつて來て雄二の横に腰を下ろした。

「森、どうしてさつきは泣いたの」先生の態度はさつきとは變つてゐた。「腹が立つたのかい」

「ああ」と雄二は大きく頷いた。

「さうか」先生は珍しげに雄二を眺めた。「罫を引いてあげよう、帳面を持つて來給へ」

 

 體操の時間だつた。先生はおどけた身振りで、ちよつと飛び上つた。

「さあさ、みんなで、みんなで先生にかかつて來い。負けないぞ。先生は一人、一人だが負けるものか」

 みんなわツと歡聲をあげながら、バラバラに攻擊して行つた。かかつて行くもの行くものが、みんな追拂はれてしまふのを雄二は遠くから見てゐたが、ふと負けないぞと思ふと突然、先生をめがけ彈丸のやうに全身で飛掛つて行つた。相手に烈しく衝突したかと思ふと、もう次の瞬間雄二はキリキリ舞ひして砂上に放り出されてゐた。向ではわツと歡聲があがつてゐた。雄二が砂を拂つて立上つた時には、みんなは逃げて行く先生を追つて、建物の向にある運動場の方へ消え去つてゐた。

 やがて、あたりはひつそりとしてゐた。見ると今ここの運動場には女の子が二人とり殘されてゐた。「ね、これから三人で、鬼ごつこして遊びませう」その一人が雄二の方に近づいて來ると親しげに頰笑んだ。もう一人の背の高い女の子は無表情に立つてゐた。雄二は誘はれるままに頷き、早速彼が鬼になつた。はじめから餘り氣乘しない樣子の女の子は、そのうちふいと別の運動場の方へ行つてしまつた。あとには雄二に頰笑みかけた女の子だけが殘つたが、彼女はいつまでも雄二を相手にうち興じた。雄二が追かけて行つて把へると、彼女ほニコニコ笑ひながら「ノウカウンよ、今のは」と少し甘えて云ふ。さう云はれると雄二はまた鬼にされてゐた。それからまた彼女を把へると、「ノウカウンよ、今のは」と首をかしげて云ふ。雄二は鬼にされてゐる。暫くして雄二は塀の近くの石の上に膜を下ろして休んだ。すると女の子も側にやつて來て腰を下ろす。ぽうつと上氣した頰に小さなハンケチをあてながら彼女は何か眩しげに頰笑んだ。何がうれしいのかわからないが、雄二も何かうれしいやうな氣がする。雄二は彼女のすぐ頭上に塀の方から展がつてゐる芭蕉の葉に透きとはる翡翠の光に見とれてゐた。…………學校が終つて、雄二がひとり門の方へ出て行かうとすると、小使室の前の池のまはりに女の生徒たちが群がつてゐたが、先刻の女の子がふと彼の方に走り寄つて來た。彼女は雄二について歩きだした。

「一緒に歸りませう。あなたはどちらへお歸り」門を出ると彼女は懷しげに訊ねた。「あなたはこの前お辨當忘れましたね、私もさうでした。それでパンを頂きましたね」

「あなたは何といふお名前? 私は若山です、若山いと子といひます」さういふ口をきく彼女は何か大人びて、きちんとしたところがあつた。その顏はさつき運動場で巫山戲た時とちがつて、ひどく眞面目さうだつた。T橋の袂まで來ると、二人はそこで別れなければならなかつた。「それではさよなら」と彼女は叮嚀に頭をさげてお時儀する。彼もひよいと帽子を脱つてお時儀した。…………若山と別れると、雄二は橋を渡つて堤に添ふ路をとつとと歩いてゐた。家並の杜切れたところに川が見え、ひどく曲つた路に添うて生垣がある。それから陰氣な工場の塀があつて材木屋の空地まで來ると、その向ひの石段を降りて行くところに、前に一度母と一緒に雄二が訪ねたことのある親類の別莊がある。彼が何氣なくそこまでやつて來た時、向から二三人の子供がどかどか走つて來た。「鬼が來た」「鬼が來た」と子供たちの興奮の囁がふと雄二の耳にはいつた。彼はどきりとして立ちどまつた。路が曲つてゐて、行手は見渡せなかつたが、材木屋の空地に立並ぶ竹竿や、あたりの破垣が、急に瞼しく目に迫つて來る。いつも鬼が出るのは秋のお祭り頃だつたが、雄二はまるで不意打を喰らつたやうに思つた。と彼の耳には鬼をそそのかす太鼓の音まで微かに聞こえて來るのだつた。靑ざめた顏で雄二はくるるりと蛙をかへし、石段を降りて親類の玄關の前に立つた。薄暗い奧から出て來た別莊番の老人は雄二の訴へをぼんやり聞いてゐたが、すぐに理解した。

「それではこちらからお歸りなさい。儂が連れて行つてあげる」

 老人は彼を導いて、靑い廣い庭を横切り、その邸の裏門の扉をあける。すると別の通りがそこには控へてゐた。その通りに出て、四つ角のところまで老人は從いて來た。…………老人に別れて家に戾ると雄二は吻としてゐた。それから暫くして彼は家の前に出て、往來を眺めた。つい先刻ひどく不安な思ひをしたこと、その少し前には女の子と仲よしになつてゐたこと、そのまた少し前に先生に跳ね飛ばされたことなど、今日半日のことがまるで遠い出來事のやうにおもへた。

 それから雄二が家に戾ると、玄關にお醫者の俥が留まつてゐて、そのピカビカ光る俥が何だか怕いやうな氣持だつた。お醫者は奧の部屋で雄二の弟を診てゐるのだつた。………‥その奧まつた部屋は、晝でも雨降のやうに薄暗かつた。弟の四郎は白い貌をして毎日そこに寐てゐた。その頃もう妹の芳子はものが言へて歩けだしてゐたのに、四郎はまだものを言へず、笑ひ顏も見せなかつた。いつも四郎は首を投げ出すやうにして枕にあほのけになつてゐる。「靜かにするのですよ、吃驚させてはいけません」母から教へられてゐるので雄二は靜かに弟の側に坐る。「四郎君、四郎君」雄二はそつと呼んでみる。たまに「うん」と返事してくれることもあるが、眼はぼんやり外の方を眺め、無表情の白い淚は年寄のやうに靜かだつた。時たま母に抱へられて緣側の方へ連れて行かれると、そんなとき彼の眼はちよつと眩しげに瞬き、額にひどい皺が寄つてゐた。

 

 その日、雄二は學校でちよつとお腹が痛くなつたが、その時から暗いものが眼さきに顫へたので、「病氣」かしらといふ氣がした。すると「病氣」はずんずん雄二を押しつけて來た。家に戾つてお醫者に診てもらふ頃には、雄二はすつかり病氣になつてゐた。すると「病氣」は更に彼をずんずん押しつけて行つた。いろんなものの形があらはれて流れた。熱と暈のなかに母の白い手が見えてゐた。と思ふと家を押し流しさうな雨が降りつゞいてゐる。學校の建物が薄暗い夢のなかで哀しげにふるへる。雨は毎日降りつづいてゐるやうにおもへた。「もう大丈夫」とある日母が云つてくれると、「病氣」は遠くへ行つてしまひ、雨はもう歇んでゐた。…………とある朝、座敷の方に雄二は呼ばれた。四郎が死んだのだつた。白い布で覆はれた四郎の枕頭に、父と母は坐つてゐた。「四郎さんよ、可哀相に」と父は眼に指をあてて泣いた。その光景は雄二にとつて何か新鮮で奇異な印象だつた。四郎の葬式は翌日行はれた。雄二はまだ元氣がなかつたので、女中の背に負はれて街角でその行列を眺めた。

 その翌々朝、雄二は父に連れられて外に出た。街はまだ淸々しい朝の空氣につつまれてゐた。簞笥や鏡臺など並べた同じやうな店のつづく細長い路を通り拔けて、橋を渡ると、そこからまた町は續いてゐた。その町を過ぎると、また橋があつた。そのあたりから靑々とした堤が見渡せた。堤に添つて暫く行くと、水の乾いた河に假橋が懸つてゐる。その橋を渡ると火葬場だつた。

 父は骨壺を求め、暗いガランとした建物の中に這入つて行つた。竃のやうな所に來て屈むと、黑い灰や白いものが見えた。默つて父は黑いものを搔き分けては白い骨を拾つてゐた。「四郎さんの骨を拾つてあげなさい」父は長い箸を雄二に渡した。彼が二つ三つ小さな骨を拾つて壺に入れると、父は穩かに頷き「さあ歸らう」と立上つた。歸りの路も雄二はあまり草臥れなかつた。「明日から學校へ行けるね」と父は滿足さうに云つた。

 

 雄二は久振りに朝禮前の運動場の藤棚の下に立つてゐた。すると、宮内が懷しげに近づいて來た。

「あんた病氣だつたの、弟さん死んだの」男のやうに意地惡の宮内も今はちよつと優しげだつた。

「うん、弟は死んだ。僕だつて死にさうだつたのだよ」宮内はひどく吃驚したやうに眼球をまるくした。雄二は少し得意だつた。

 學校から戾りの路がもう少し暑く眩しかつた。雄二は庭を通り拔け緣側の方から家に上らうとした。と、靴を脱いで上つて來る雄二の體を側から眺めてゐた父が、ふと急に橫に掬つて抱へた。

「大きくなつたね。今日は何といふ字おぼえた」父の目はひどく眞面目さうだつた。

「フネ」と雄二は元氣よく答へる。

「さうか、その字を書いてみせてくれ」雄二が緣側に指で書くと、父はただ大きく頷いた。

 

 簷の梅の木が薄暗く繁つて、透間に靑い小さな果が見えてゐた。雨が毎日降りつづいて、庭の雜草から奇妙な茸が生えだした。雨に濡れた錢苔や黑い苔が氣味わるさうだつた。そんなものを見てゐると、雄二はすぐ皮膚に寒氣を覺え鳥肌がたつ。父が飼つてゐるカナリヤの卵が孵つて裸の小さな生きものが藁の中で首を振つた。それも雄二には何か蒸苦しさうで怕かつた。――急にいろんなおそろしいものが土からも夢からも匐ひ出して來た。家の前をよく通る狂女は亂れ髮を雨に晒したまま、いつも慍つたやうな顏をしてゐた。牛乳屋のライオンに似た犬は、狂犬病流行のため、口のところに金網の筒を嵌められてゐた。その犬は利功な犬でよくおつかひをするといふのだが、雄二は兄の大吉や大吉の友達と一緒にその犬の前を通るとき、犬がこちらを見咎めはすまいかと心配だつた。夜は大吉が、

〈ねう、ねう、ねうねう坊主とつらつてねよう〉と奇怪な歌を歌つた。

 恐怖を暗示するやうな、兄の意地の惡い調子は、いつも雄二を眞靑にさせた。ほかの人達にはわからなくても、たしかに、ねうねう坊主は庭の闇を匐つて、ぬつと雄二の襟首のところまで來てゐるのだ。雄二は狂人のやうに身悶えして泣喚く。興奮が鎭まつても、餘波は噦りながら神經に殘つてゐた。日が暮れて薄暗くなると、彼はもうぢりぢりと何か不安に脅えるのだつた。殆ど毎晩彼は恐ろしい夢をみた。「夢をみるから今晩は寢ない」あるとき彼は苦痛のあまり菊子に訴へた。「胸の上に手をやらないでおやすみ、何も考へないで安心しておやすみなさい」と姉は靜かに宥めてくれた。だが、どうしたら、ほかの人達のやうにいつも安心してゐられるのか、雄二にはとてもわからなかつた。

 晝間、學校では夜の恐怖を忘れてゐることがあつた。しかし、どうかすると黑板の前の佐伯先生の顏つきが、がふと夜の怪物に見え、その顏は雄二の感じてゐる幽靈を知つてゐるかも知れないやうに思へた。

 二年生のいたづら小僧がよく雄二に喧嘩を挑んできた。彼は猛然と無我夢中で抵抗して行つた。そんなとき彼は殆ど何ものにも臆せず、ただ全身が赫と快く燃燒して行つた。「森の自棄ん坊 森のキチガヒ」二年生たちは罵倒して逃げるのだつた。…………帳面も本もひどく亂雜だつた。學課にはまるで無頓着でよく忘れものをした。それから毎朝遲刻するやうになつてゐた。遲刻は殆ど強迫のやうになつてゐた。靴の紐がうまく結べない、出際に生じるそんな一寸した障碍が忽ち雄二を絶望に突き陷す。そして、泣きだせば、あとはもう何も彼も滅茶苦茶になるのだが何も彼も滅茶苦茶になつたといふ心配が一層彼を泣き猛らせた。…………「森君 森君 眼がわるいのかい、眼赤いよ」と惡童たちは朝の運動場で訊ねる。大泣きして家を出て來たことをおもふと、雄二はまだ頭の蕊がまつ暗になつてゐるやうで、眼がうづうづするのだつた。

 

 恰度その頃、雄二は古川君といふ仲のいい友達が出來てゐた。古川君と雄二の家はあまり離れてゐないことが、ある日一緒に連らつて歸つたとき分つた。それから後はいつもお互に待ち合はせて一緒に歸つた。學校が終つて門の所までは、みんな騷ぎながらバラバラに出るが、その邊で二人はいつのまにかうまく落合つてゐた。

 古川君は皆とは違ふ羅紗の服着てゐて、丈は雄二と同じ位だつたが、賢こさうな黑眼といつも微笑してゐるやうな頰をしてゐた。毎日、古川君と一緒に並んで歸れるやうになつてから、雄二は不思議に心に張合ができた。雄二が幽靈を怕がつたり自棄起して大泣することを古川君は知つてゐるだらうか。入學以來、教室で演じた恥かしい失敗も古川君は覺えてゐるかもしれない。――しかし、そんなこと何でもないさ、といふ風に古川君の頰は雄二をいつでも微笑で迎へてくれてゐた。教室でも、古川君はよく先生から褒められた。彼が佐伯先生に褒められると、その後で雄二はよく學校の長い廊下や高い天井に一心に眼をやつた。すると雄二の氣持は遠くまで一杯に擴がつてゆくやうだつた。

 雨が霽れてからりとした日だつた。學校の近くで雄二は古川君と出逢ふと、二人は密着して歩いてゐた。そのまはりにゐた二年生や一年生たちがふと雄二を呼びとめた。

「やい、やい、少年」

 少年といふのは仲よしといふ意味だつた。雄二はさう云はれても少しもその言葉はわるく響いて來なかつた。急に心が高まり擴がつてゆくのを覺えた。

「やい、やい、少年」と彼等はまた聲をかける。

「少年だよ」雄二はさう返事すると、古川君の肩へ手をかけ、二人は肩に手を組みあはせて歩いた。雨で洗はれた礫の路が白く光つてつづいてゐる。遠い世界のはてまで潤歩して行くやうな氣持がした。

 

[やぶちゃん注:「棕梠」「しゆろ(しゅろ)」。単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus の類。「棕櫚」「椶櫚」などとも漢字表記する。葉が垂れるワジュロ Trachycarpus fortunei 或いは、垂れないトウジョロ(唐棕櫚)Trachycarpus wagnerianus であろう。

「二部」不詳。単に新入学の生徒を、ずらした二部授業としていた、その後の部(午前・午後の部かどうかは不詳)の意か。しかし、だとすると、後で兄の大吉と一緒に通学するのが不自然な気がする。或いは、一部というのは何らかの優遇措置を受け得る特待生レベルなのか。識者の御教授を乞う。【2016年5月7日削除・追記】昨日入手した二〇一六年岩波文庫刊「原民喜全詩集」巻末の竹原陽子氏の手に成る「原民喜年譜」によれば、『二部(男女共学クラス)』とある。一部が男子クラスなのであろう。

「赫と」「かつと(かっと)」と訓じておく。

「いま教室の後方には講堂から戾つて來た時附添の父兄たちが一杯立つてゐるし」「戾つて來た時附添の父兄たちが」の「時附添の」はママ。――「いま教室の後方には講堂から戾つて來た時」で、「附添の父兄たちが一杯立つてゐるし」――辺りの、脱字か誤植であろうか?

「N町」既に述べた通り、民喜の実家は幟町にあった。

「森」民喜の父は幟町で陸海軍用達の原商店を経営していた。

「K町」「けど大丈夫N町の方へ行ける」鶴見橋(「T橋」は「靑寫眞」既出の際、既に私は「鶴見橋」と推定している)から現在の平和大通りを西下すると、最初に「鶴見町」が、次に「田中町」の交差点がある。「鶴見町」では近過ぎ(鶴見橋西詰から百八十メートル程)、描写のロケーションに合わないので「田中町」のそれか。そこなら現在の「駅前通り」との交差を少し過ぎた位置の「四つ角」で四百メートル強あり、地図上ではここを北北東に一キロ弱直進すれば幟町に辿り着く位置ではあるから、小学一年生でも「N町の方へ行ける」ルートと距離と言える。決して、この少年が「雄二」に意地悪したものではあるまい。私は同じ小学一年生の頃、もっと陰湿ないじめを受け、何キロも歩かされ上、見も知らず、訊ぬべき農家もない山中に独り取り残されて、途方に暮れたことを思い出す。

「教生の先生」ここは広島師範学校付属小学校であるから、頻繁に教育実習生の大学生がいるのである。

「トラホームの生徒は赤いしるしを胸につけ、その赤いしるし同志で並ばされた」トラホーム(Trachoma:「トラコーマ」のドイツ語読み)は 真正細菌クラミジア門クラミジア綱クラミジア目クラミジア科クラミジア属クラミジア・トラコマチス Chlamydia trachomatis を病原体(感染経路などの別で非常に多くの型に細分される)とする感染症で、伝染性の急性及び慢性の角結膜炎を指す。参照したウィキの「トラコーマ」によれば、『直接接触による感染のほか、手指やタオルなどを介した間接接触による感染も多い。また、母親が性器クラミジア感染症を持つ場合、分娩時に産道で垂直感染することがある』。『先進国ではほとんど見られなくなったが、アジアやアフリカなどの発展途上国ではいまだに流行が見られ、年間』六百万人が『失明するといわれている。先進国でも見られるトラコーマはほとんどが垂直感染によるものである』。『病原菌は結膜上皮細胞内に寄生する。初期には結膜に濾胞や瘢痕を形成したり、乳頭増殖したりする。その結果、充血や眼脂が見られる。慢性期には血管新生が見られ、トラコーマパンヌスと呼ばれる状態になる』。『その後瘢痕を残し』て『治癒することもあるが、さらに重症となり、上眼瞼が肥厚することがある。その結果睫毛が偏位し、角膜に接触するため、瞬きするたびに角膜を刺激し、角膜潰瘍を引き起こす。そこに重感染が起こることで、失明や非可逆性の病変を残すこととなる』。『産道感染例では重症化することはほとんど無い』。私の小学校時代の保健室のムラージュ(Moulage)で未だに忘れられないのは、まさにこの――「トラホーム」のそれ――であった。にしても、「赤いしるし」とは、ナチス・ドイツ並みの恐るべき差別である。

『「それ蜂の巣よ」と彼女は吃驚するやうな大聲を放つた。雄二はパツと手のものを捨てた。と思ふと、宮内は「わあー」と歡聲をあげた。つづいて女の子たちは地に墜ちて碎け中から散つたものの方へ駐寄り、てんでに拾ひだした。それは木の實の中から跳ねだした白い小さな澤山の人形に似た粒々であつた。「お猿さんよ。お猿さんの子よ」と女の生徒たちはその粒々を帶にして喜んだ』私が馬鹿なのか、このシーンのそれが何か、分らぬ。本当に蜂の巣であるとすれば、種は何なのか? 何故、親蜂(働き蜂)は襲って来ないのか? 彼らが全滅したのであるなら、その理由は何か?「白い小さな澤山の人形」というのは蛹化して死んだ蜂の子であろうが、それを何故、可憐な女生徒たちは群がって平気なのか? いやさ、「その粒々を帶にして喜んだ」とは、何をどうしたというのか? 「雄二」ではないが、私は何かひどく恐ろしい気さえ、してくるのである。どなたか、私のこの恐懼の真相を解り易く説明して下さらぬか?

「ノウカウン」和製英語の「ノー・カウント」(nocount)。スポーツ競技などで得失点に数えないこと。

「前に一度母と一緒に雄二が訪ねたことのある親類の別莊がある」鯉」の中で描かれる長姉「淸子」の実家「石井」のそれである。

「囁」「ささやき」。

「破垣」「やぶれがき」。

「雄二の弟」「弟の四郎」民喜のすぐ下の弟六郎は明治四一(一九〇八)年生まれであったがまさに事実、明治四五年に享年五歳で夭折している。

「妹の芳子」民喜のすぐ下の妹である四女千鶴子(明治四三(一二一〇)年生まれ)がモデル。当時数えで三つであった。

「暈」「めまひ(めまい)」。

「慍つた」「いかつた」。

「狂犬病流行のため」ウィキの「狂犬病によれば、本邦では明治六(一八七三)年に『長野県で流行したのを最後にしばらく狂犬病被害は途絶えたが』、明治一九(一八八六)年頃から『再び狂犬病被害が発生するようにな』り、明治二五(一八九二)年には『獣疫豫防法が制定され、狂犬病が法定伝染病に指定されるとともに狂犬の処分に関する費用の国庫負担と飼い主への手当金交付が定められた』。『しかし狂犬病は』明治三九(一九〇六)年頃から『徐々に全国規模に広がり、特に関東大震災があった』大正一二(一九二三)年から大正一四(一九二五)年にかけての三年間、大流行を示し、全国で実に九千頭以上の『犬の感染が確認された』とある。本篇の設定のモデルは明治四五(一九一二)年である。

「利功」ママ。

「身悶えして」ママ。

「噦りながら」「しやくりながら(しゃくりながら)」。

「自棄ん坊」「やけんぼう」。

「蕊」経験上、原民喜はこれで「しん」(芯)と読んでいるものと思われる。

「連らつて」「つらつて(つらって)」。一緒になっての意の、中部から西日本での方言と思われる。

「羅紗」「ラシヤ(ラシャ)」。ポルトガル語 raxa で、羊毛を原料として起毛させた厚地の毛織物。]

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 「白い鯉」

[やぶちゃん注:以下の「白い鯉」は昭和一六(一九四一)年九月号『文藝汎論』を初出とする。当時、民喜満三十五歳。踊り字「〱」は正字化した。]

 

 

 白い鯉

 

 ある晩、雄二は兄達に連れられて、ガチヤガチヤを獲りに行つた。轡蟲は田森の爺さんの處の裏藪で喧しく啼いてゐた。爺さんは手燭に火をつけると、先頭に立つて、露次の方へ廻つた。皆の影法師が次々に大きく納屋の壁に映つて、手燭の灯が徑の叢を照した。ガチヤガチヤの聲が段々近づいて來ると、石崖の上の藪の闇に灯は搖れた。爺さんはそこで立留まつて、崖の上に手燭を置いた。雄二が息を潛めてゐる間に、爺さんはもう一匹捉へて居た。土に露出した竹の根や爺さんの顏が灯に照されてゐて、何となしに凄い容子だつた。二匹目はなかなか獲れないので、爺さんは家の方へ引返した。土間を這入つて、疊の上にあがると、雄二は吻とした。急に雄二は咽喉が乾いて、水を欲しがつた。婆さんが煮ざましを皆に注いで呉れた。それから皆は籠の中の蟲を覗き込んで、啼け、啼けと云つた。蟲は忙しさうに籠の中をはひ廻つてゐた。爺さんは次の間に立つて、何かごそごそ探してゐたが、やがて目鏡と、二枚の紙を持つて來た。「これをあげるから皆でして遊ぶといゝ」と、爺さんは大きな紙を疊の上に置いた。紙にはぎつしり四角な繪が詰つてゐた。いろはかるただ、雄二は眼を瞠つた。貴磨は鋏で繪を切つて疊に並べた。兄達は繪と字の關係をよく知つてゐた。花より團子、といふ繪には串に差した吉備團子があつた。闇夜に鐡砲といふのは獵師のやうな男が片膝を立てゝ空を覘つてゐた、――雄二は暫く家へ歸ることを忘れてゐたが、田森の爺さんの家を出ると、夜の路は眞暗闇だつた。「闇夜に鐵砲」と、大吉は號んだ。それから皆はワーと大急ぎで横腹が痛くなるほど家まで走つた。

 雄二は母に強請つて、いろはがるたを買つて貰つた。字は讀めなかつたが繪はもう解つてゐた。鋏で切つたのを疊の上に並べたり、搔集めて懷に收めたりした。父に見せると、繪を説明してくれた。犬も歩けば棒にあたるといふのは、犬でも歩けば棒にあたるんだよ、と父は笑つた。雄二は隣の染物屋の犬が通る度に氣をつけて見たが、棒にはあたらなかつた。いろはがるたの犬は前足の方に棒があたつてゐるのだが、雄二は棒が歩いて來て、犬にあたつたのだと思つた。――ある時も雄二はいろはがるたのことを考へながら柱に凭掛つてゐた。部屋には呉服屋が來てゐて、一杯反物を並べてゐた。母と姉の淸子は一つ反物を手にとつて眺めたり、疊の上に置いて見たりして思案した。「派手かしら」と母が云ふと、「地味な位ですよ」と呉服屋は云ふ。「やつぱし派手よ」と淸子は反對する。派手と地味といふ言葉の意味は雄二には分らなかつたが、何時までたつても皆は同じことを繰返してゐるやうに思へた。向を見ると飴色の陽ざしが軒の梅の樹へ迷ひ込んで來て、雄二は何となしに牛の涎といふ言葉が浮んだ。「あきなひは牛のよだれ」と大きな聲で云つてみた。「ワハハハ、全くさうですよ、さうですよ」と呉服屋は面白さうに頭をかいた。

 

 納屋の前に大工が雞小屋を持へた。それから大工は風呂場の外塀の續きへ小さな部屋を建てた。新築の部屋はこちらの緣側と對ひ合はせになつて、圓くくり拔かれた壁に障子が嵌められると、お月さまのやうだつた。その部屋へ行つてみると、障子窓の處に鏡臺が置かれ、前に雄二と大吉がよくその窓へぶらさがつた風呂場の塀(その塀はじめじめしてゐて、でで蟲がゐた。)は白壁になつてゐた。洗面所も出來た。毎朝、金盥へ水を汲んでもらつて庭さきで洗つてゐたのが、今度からは風呂場で洗へるやうになつた。雄二は朝起きてからの樣子が前と變つたので、以前のことが仄暗いところへ消えてゆくやうに思へた。「雨戸をあけてはいや、夜にしてくれ、夜にしてくれ、と大ちやんが小さかつた頃にはよく無茶云つて大泣きしたものですよ」と母は雄二に話してきかせた。兄の小さかつた頃は雄二は生れてゐなかつたが、その頃の朝は何だかよほど暗さうに思へる。

 雄二が難小屋へ行つてみると、雞たちは忙しさうにチヨコチヨコと往つたり來たりする。そのうち餌を食べてゐた白い牝雞のところへ、牡雞が近づくと、嘴でくゝと頭をつゝいた。おやと思つて、見てゐると、牡雞は白ばかりを目がけていぢめてゐるのだ。雄二は吃驚して、母のところへ引返した。「牡雞が白をいぢめるよ、惡い牡雞だよ」「ほう、それはいけません」と母はのんきさうに頷く。「ねえ、可哀相よ、別にしてやらなきや白は餌も食べられないもの」雄二は躍起になつた。それから女中に籠を出してもらひ、白をその籠に移すと、雄二は滿足さうに見守つた。一羽だけにされた雞は今度は安心して餌を食べてゐる。「雄二さん有難うと、白が云つてますよ」女中は面白さうに笑つた。「水もやらう」と雄二は臺所の方へ引返さうとした。すると、そこへ安田が白木の棒を澤山抱へてやつて來た。安田はその棒を莚の上に並べだした。「それは何」と雄二は珍しげに大きな棒を視つめた。一寸杵の恰好に似てゐるが、それとも違つてゐた。「なあに、こいつでね、お餠を搗くのですよ」と安田は笑つた。「いや、こいつはね、跛の人がかうやつて杖にするのですよ」と今度は棒を脇の下へ入れて、跛の眞似をする。「ほんとに何なの」と雄二は女中を顧みた。「さあ、多分、これは簞笥や長持を擔ぐ棒なのでせう」と女中は云つた。すると、安田は「鬼に金棒さ」と棒を大袈裟に振上げた。

 

 雄二は病氣して、二三日お醫者の藥を飮んでゐた。ぢつと寢かされてゐると、家にはよくお客があつたり、何となく忙しさうであつた。「今日は皆で寫眞撮すのだから、早く今泉さんのところへ行つて來なさい、そしてお醫者さんがもうよろしいと仰つたら、歸りにお菓子買つて貰ひなさい」と、母は雄二に着物着替へさせた。しかし、雄二はぐづぐづしてゐた。すると女中が「それではおんぶして行きませう」と云つた。雄二は女中に負はれて往來へ出た。二三軒さきの赤い門燈の出てゐる露次の奧が醫者だつた。その露次へ這入つて行く時、雄二は背の上から、その橫の菓子屋の方を眺めた。露次の奧は薄暗いが、お醫者の玄關も薄暗かつた。診察室の方へ行くと、硝子障子の向に明るい綺麗な庭が見え、大きなテーブルや戸棚の上にいくつも置時計があつた。翼のある子供が笛を吹いてゐて、それが振子になつて搖れてゐたり、圓い硝子函の中に金色の齒車を見せながら動いてゐる時計もあり、チクタクチクタクと賑やか音立てゝゐる。それで、雄二は時計に病氣みてもらつてゐるやうな氣持がするのだつたが、懷中電燈で口の中を調べてゐた今泉先生は「もう大丈夫ですな」と大きく頷いた。雄二は吻とした。――露次を出ると、すぐ橫の菓子屋へ女中と這入つた。光澤のいゝ赤や白や綠の小さな菓子(ゼリビンズ)が雄二の眼にはいつた。「何に致します」とおかみさんが訊ねると、雄二はその壺を指差して、「あの、綺麗な豆」と云つた。

 晝すぎに、大吉や貴磨が學校から歸つて來ると、もう寫眞師がやつて來た。雄二は姉の菊子に袴はかせてもらつた。はじめて足を通す袴で、菊子は紐を十字型に結んだ。座敷の緣側には、お嫁さんのやうな服裝した淸子が坐つてゐた。皆が揃ふと、庭の石燈籠のところへ並ばされ、角隱しした淸子を眞中に、その兩側に父母が立つた。雄二は父に手を引いてもらつてはじめて穿かされた袴が窮屈であつたが、寫眞師が三脚の大きな函を据ゑだすと、その方へ氣をとられた。寫眞師が黑い覆ひの中に頭をかくすと、裏地の赤がちらちら見え、雄二は今朝買つてもらつた菓子のことがふと思ひ出された。

 その翌朝は早くから家のうちが騷がしく、雄二が眼を覺すと、いつの間にか居間の方から座敷の方まで、簞笥や長持が並べられ、鏡臺や、盥や、提燈、雨傘、下駄など、その上に置かれた。衣桁や衣紋竿や綱を渡した處にまで衣裳が飾られた。ぎつしり詰つた陳列のため、家の内は薄暗くなり、疊の上に狹い通路が出來た。雄二はその狹い隙間を喜んで歩き廻つた。大きな菊の花の模樣のある羽織や、唐獅子の跳ねてゐる帶や、いろんな着物の中に眼の覺めるやうな紫色の晴着もあつた。雄二は用ありげに往來へ出てみては、また家のうちに引返すのだつた。安田が跛の眞似した白木の棒も壁の隅へ並べてあつた。――雄二はまた往來へ出て行くと、ばつたり叔父と出違つた。叔父は雄二の軀を摑へ、「おい、姉さんは何處へ嫁入するか知つてるか」と訊ねた。「まだしないよ」と雄二は云つた。「まだしない、うん、教へてやらうか、姉さんは今晩儂のところへ嫁入りするのだぜ」と叔父はほんとらしく云ふ。「噓だい」と雄二は叫んで逃げた。

 家のうちには福岡の祖母が來てゐた。そのうちに川崎の伯父、伯母や、いろんな大人が集まり、座敷の方では話聲が賑やかになつた。夕方から風が出て來て、庭の樹木はざわざわ搖れた。座敷の方にガス燈が灯された。雄二が居間の方で福岡の小さな伯母と遊んでゐると、母が呼びに來た。「一寸お客さんの前に出なさい」と、母は雄二を座敷の方へ連れて行つた。座敷では何か始まる前らしく、一寸靜かになつてゐて、貴磨や大吉は屛風の前に坐つてゐた。「こゝへ坐つてゐなさい」と母は大吉の隣の坐蒲團を指差した。雄二が坐つた席の其向ひには川崎の伯父の顏があつた。雄二がいゝお行儀して坐つてゐると、一しきり庭樹がざわざわ搖れる音が聞えた。氣がつくと紋附を着た女の人が雄二の前にやつて來て、盃に注ぐ眞似をした。そして、「姉さんを頂きますよ、下さいますか」と訊ねた。雄二が默つて頷くと、女の人は靜かにお叩頭した。間もなく菊子がやつて來て、「もう、あちらへ行つていゝのよ」と云つた。――雄二は座を立つと、玄關の方へ行つてみた。玄關脇の空地には大きな釜が据ゑられ、焚火が赤々と燃えてゐる。その火の側には田森の爺さんと安田が屈んで何かしてゐる。門の方には大きな提燈が吊され、往來からは絶えず人の顏が覗く。土間にはいろんな下駄が一杯集まつてゐた。ふと見ると門口の方から誰か小さな影が近寄つて來た。影は二人連れで、古着屋の姉妹だつた。彼女達はためらひ勝ちに玄關の方を眺めてゐたが、「お道具見せてもらひませう」と云ふと勝手に奧へ這入つて來た。

 

 翌朝、雄二が目を覺すと、もう嫁入道具はすつかり無くなつてゐた。昨夜、雄二が睡つてから、皆で擔いで行つたのだといふ。雄二はそれが見られなかつたのが殘念で、あの棒で擔がれて、陪い夜道を何處か知らない處へ運ばれて行つたやうに思へた。「今晩は子供はみんなお留守番だから早く寢なさい」と母は晝すぎに出掛けて行つた。夜になると、父の姿も淸子も見えなかつた。元どほりになつた家のうちは淋しく、雄二は眼が冴えて睡れなかつた。「今頃は賑やかでせう」と隣室で菊子と女中の話聲が聞える。すると雄二はあの嫁入道具がまた今夜も何處か知らない處へ運ばれてゐるやうに思へだした。暗い夜の嶮しい道にいくつも提燈が搖れ動き、安田や田森の爺さんの顏がいろはがるたの繪のやうに浮かぶ。それから川崎の伯父や伯母の顏がふつと現れ、父の顏も母の顏も、みんな少しづゝ奇妙に見える。と思ふと闇の中に大きな焚火が赫と燃え、大人達ほ手拍子を打ち、どつと物凄く笑ひ崩れる。「ギヤア」とその時、屋根の方で五位鷺が啼いた。雄二は吃驚して身を縮めた。

 

 その翌朝、雄二が目を覺すと、母はいつの間にか歸つてゐた。母は今度親類になつた石井の家のことを頻りに話した。それは昨夜招ばれて行つた家で、丁度大吉の學校へ行く道の途中にあると云ふ孝平さんといふ、名もよく出た。孝平さんは大學生ださうだが、雄二は大將中將の工兵さんを考へ、工兵さんのところへ姉は嫁入りしたのかと思つた。二三日すると、石井の小母と淸子と孝平さんが雄二の家へやつて來た。石井の小母は雄二の姿を見るとすぐに親しさうに手をとり、「今度遊びにいらつしやいね」と優しく云つた。孝平さんは大將中將の工兵の顏に似てゐたが、角帽を被り、薄い口髭を生してゐた。それから間もなく、淸子と孝平さんは汽車に乘つて東京へ行つた。東京といふ處は汽車で一日半もかゝる遠い遠い處だといふ。さう云ふ雄二の母はいかにも遠さうな表情をしてみせた。ところが、暫くすると、今度は母と菊子がまた東京へ行つてしまつたのである。――母の姿が見えなくなつた家のうちは急に薄暗く思へた。雄二はいつもよく母が納戸に隱れるので、納戸の方へ行つてみると、鐵格子の小窓から白い空が少し見え、何となく怕さうだつた。母ほなかなか歸つて來なかつた。雄二は段段淋しく、いつも泣き噦りたいやうな氣持だつた。

 ある夕方、父は「雄二一緒に散歩に行かう」と云つた。早速、雄二は父に從いてちよこちよこ歩いた。ふと父は思ひ出したやうに「お母さんが留守で淋しいのか」と訊ねた。雄二は「うん」と頷いた。「さうか、それでは今晩は活動寫眞といふものを見せてあげよう」と父は雄二の手を引いてくれた。柳の大木の並んだ邊から段々人通りは繁くなつて來た。やがて、小屋の前に二人は來た。「いゝかい、幻燈とは違つて、繪がずんずん動くのだから面白いぞ」と父は小屋の前で云つた。小屋のうちは眞暗だつた。雄二が椅子に腰を下すと、間もなく前の方が明るくなつて、ヂヂヂと音がし、寫眞が映りだした。「桃太郎だ」と父は云つた。爺さんと婆さんが小さな桃を俎の上に置いて眺めてゐる。と、繪はずんずん大きくなる。「わあ大きくなるな」といふ聲がした。やがて桃が割れ、子供が跳り出た。それから鬼退治まで寫眞は一氣に進んだ。それが終ると雄二と父は外へ出た。外へ出ると急にあたりが水々しく不思議であつた。「もつと散歩するか」と父は雄二の手を引いて、賑やかな通りへずんずん歩いた。それから父は玩具屋に立寄つて水鐵砲を買つてくれた。

 

 ある日とうとう母と菊子が歸つて來た。雄二は母や菊子の顏が嬉しく珍しかつた。母は信玄袋から東京土産を取出した。綺麗な羽子板、繪の描いてあるゴム鞠は雄二の妹のだつた。雄二はぜんまいで動く馬の玩具と繪の描いてある小さな罐を貰つた。――繪を嵌めて覗くと、二つの繪が一つに見える眼鏡があつた。菖蒲の一杯生えて綺麗な池、大きな汽船の横づけになつてゐる波止場、釣竿の並んでゐる土手、鎧に似た橋、お祭のやうに雜沓する街、それが東京の繪だつた。家のうちは急に賑やかになり、東京の話で彈んだ。雄二はいつまでも母達の側にゐた。するとそこへ隣の染物屋の勇さんが遊びに來た。雄二は早速、玩具の馬を持つて玄關へ出た。「こんなもの貰つた」と、雄二は馬を動かせてみせた。勇さんは默つて暫く見とれてゐたが、ふと「そんなものつまんないや」と云ひすてゝとつとと走つて行つた。

 

 一日、母は雄二を連れて石井の家へ行つた。石井の家は川の堤の路へ出て、竹竿の澤山立並んだ處を過ぎ、材木屋の前だつた。石段をとろとろ降りると、大きな玄關があつた。玄關から座敷の方まで薄暗い部屋がいくつもあり、座敷に來ると廣々とした庭が見えた。石井の小母は雄二を見ると親しさうに笑顏した。雄二は座敷へ坐つた時から庭の方に氣をとられてゐた。大きな池もあり、築山もあり、橋も掛つてゐる。母と小母は何か頻りに話し合つてゐたが、ふと「庭の方を見せてもらひなさい」と云つた。雄二は緣側から草履を穿いて、庭石つたひに他の方へ行つてみた。深い池で底の方は眞暗だつた。橋のところまで來て、座敷の方を振かへると、母と小母の坐つてゐるのが小さく見え、藤棚の藤がわづかに搖れてゐる。ふと足許の岩に大きな蜻蛉が來て止つた。と思ふと、池の底から何か白いものが浮んで來た。雄二は吃驚して眼を瞠つた。よく見ると、それはたしかに鯉であつた。大きな白い鯉は雄二の見てゐる側を、金色の眼を光らせ、ゆつくり泳ぎ去る。

 雄二はとつとと座敷の方へ戻つて來た。座敷では蟲干の綱が張られ、着物がとり出されてゐるところだつた。雄二はナフタリン臭い着物を展げてゐる母の側へ近寄り、「白い鯉がゐるよ」と云つた。母は默つて頷き、「これ、みんな淸子姉さんの着物ですよ」と云つた。そこへ、菊子位の女の人がやつて來た。「雄二さん、こちらへいらつしやい」と、女の人は彼を本箱や机のある部屋へ連れて行つた。女の人は手箱の中から江戸繪をとり出し、「これをあげませうね」と云つた。江戸繪は大演習の勇しい繪だつた。

 

 雄二は近所の子供達と遊んでゐた。勇さんは皆で何處か遠くへ行つてみようと云ひだした。「親類へ行つてみようか」と雄二は云つた。「大きな池があつて、白い鯉がゐるよ」「行つてみよう、行つてみよう」と勇さんの弟が云つた。「行く道知つてるのか」と勇さんは訊ねた。「こないだ行つたから知つてる」と雄二はもうその方向へ歩きだした。「よし行かう」と勇さんが贊成すると七八人の子供もみんな從いて來た。皆はワイワイと賑やかに曲り角を過ぎた。暫く行くと、柳並木のある變つた通りへ出た。鋸の看板の掛つた鑪屋の處まで來ると、急に勇さんは「歸らう」と云ひ出した。「歸へらう」「歸へらう」と子供達は口々に唱へ、そのうちにバタバタと走りだした。雄二が振向くと、皆はもう遠くの方へ逃げてゐた。と、たつた一人、呉服屋の福子が側に立留まつてゐた。雄二が歩きだすと、福子は默つて從いて來た。「行つてみるか」と雄二は訊ねた。すると福子はこつくりと頷いた。

 それから二人は急ぎ足で堤の方の路へ出た。竹竿の並んだ處を過ぎ、目じるしの材木屋の前に來た。「こゝだよ」と云つて雄二はとろとろと石段を降りて行つた。大きな玄關に這入つて行くと、奧はひつそりしてゐた。「御免下さい」と雄二は大聲で叫んでみた。暫くすると、奧から甚平を着た老人が出て來た。「森です」と雄二はお叩頭した。福子も並んでお叩頭した。「さうですか、森さんですか。私はこちらの留守番の爺やですが、お歸りになつたらよろしく云つて下さい」老人は穩かにお叩頭した。すると、もう雄二は用事がなかつたが、何か滿足した。「歸らう」と福子を顧みた。

 

[やぶちゃん注:本篇は「雄二」の長姉である「淸子」の婚礼のシークエンスで、これは民喜の姉で長女の操のそれと思われる。ただ、私は既に操が結婚したものとして、前の注で類推していたが、それらは一応、誤りということになる(本「少年畫」が完全に厳守された時系列に基づくものとしての話である)。しかし、「淸子」は今までの諸篇に於いて、「雄二」の日常生活場面に出ることが有意に少なく、やや疑問を覚えるものではある。しかし、操の婚姻前の職業(就いていたと仮定して)及び婚姻時期が不明なため、確述することは出来ない。されば、先行する注も変更する気に今一つならないのである。私の注の矛盾は矛盾のままにしておき、後に識者の御指摘を受けた際に改稿したいと思っている。どうか、識者の御教授を乞うものである。……しかし……何だろう……私はこの掌篇の、この最後の「福子」と二人の「旅」が……言いようもなく美しいと感ずる人間なので、ある――

「ガチヤガチヤ」「轡蟲」直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス科 Mecopoda属クツワムシ Mecopoda nipponensis

「いろはがるた」「犬も歩けば棒に当たる」ここで「雄二」の買って貰ったそれは「犬も歩けば棒にあたる」で始まることから、基本を「江戸かるた(犬棒かるた)」としたものであることが判る。但し、「あ」の「あきなひは牛のよだれ」だけは、その内容からも判る通り、西の「大阪かるた」系のものである。ウィキの「いろはがるた」によれば、「かるた」「歌留多」「加留多」「嘉留太」「骨牌」などと表記し、語源はポルトガル語で「手紙」の意の Carta、或いは「紙板状のもの」「トランプ」などを意味するcartaに由来するものの、『同様の遊戯は日本とポルトガルとの接触前からあったものと考えられている。元々は、平安時代の二枚貝の貝殻をあわせる遊び「貝覆い(貝合せ)」である。これとヨーロッパ由来のカードゲームが融合し、元禄時代頃に今日の遊び方となった』。『日本のかるたは』、十六世紀末頃、『筑後国三池(現在の福岡県大牟田市)で作り始められたと言われて』いるとある。

「花より團子」花見に行っても美しい花よりも団子を食うことのみを好むことから、風流よりも実益、外観よりも実質が大事とすることやそうした現実主義的人間の喩えとするが、そこには風流をまるで解さないことへの批評を強く含む。

「闇夜に鐵砲」目標の定まらずに当てずっぽうに行うこと。また、やっても効果のないこと。闇夜の礫(つぶて)とも。

「強請つて」「ねだつて(ねだって)」。

「犬も歩けば棒にあたる」物事を行う者は時に思わぬ災いに遭う、或いは逆に、やってみればと思わぬ幸いに出会うことの喩えとも言う。

「あきなひは牛のよだれ」商売をする際には、目先の利益に捉われることなく、牛の涎れの如く、細く長く常時、切れ目なく辛抱強く気長に続けねばならぬという謂い。

「雞小屋」「雞」は底本の用字。

「でで蟲」腹足綱直腹足亜綱 Apogastropoda下綱異鰓上目有肺目真有肺亜目 Eupulmonataの内、柄眼下目マイマイ上科オナジマイマイ科 Bradybaenidae 及びニッポンマイマイ科Camaenidae に属する種群を代表種とするカタツムリ類を指す。

「一寸杵の恰好に似てゐるが」「ちよつと(ちょっと)」/「杵」(きね)の恰好に似てゐるが」の意。不詳であるが、原民喜の父が軍の用達を職としていたことを考えると、これは松葉杖、T字型杖なのかも知れないが、どうも、次で女中が竿状であることを表現しているところ、安田が「鬼に金棒さ」と言ってのけるところからは寧ろ、T型ではない、棒状の、かの帝国陸海軍で用いられたおぞましい懲罰用の「精神棒」のような気も私はして来るのである。

「鬼に金棒」強い鬼にさらに武器を持たせる意から、ただでさえ強いものに、一層の強さが加わることの喩え。

「泣き噦りたい」「なきじやくりたい(なきじゃくりたい)」。

「鑪屋」そのままなら「たたらや」であるが、これで「いものや」(鑄物屋)と訓じているようにも私には思われる。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 一つ脱ひで後ろに負ひぬころもがへ 芭蕉

本日  2016年 4月30日

     貞享5年 4月 1日

はグレゴリオ暦で

    1688年 4月30日

 

 

   更衣

 

一つ脱ひで後ろに負ひぬころもがへ

 

吉野出でて布子(ぬのこ)賣りたしころもがへ  萬菊

 

「笈の小文」。厳粛な(俳諧に於いても季詞の季の分岐となるべき指標たる)「衣更え」の行為を、汗かいたそれを、ざっと一枚脱ぎ去って背中に引っ掛けておしまい! またずんずんと「同行二人」で歩いてく、という漂泊者のロケーションが、実に健康な滑稽――「軽み」――のワン・ショットとして爽快である。無論、それを十全に汲み取った「萬菊」丸杜国が――「布子」(木綿の綿入れ)なんぞ、もう、いらね! 売りってえ!――と答えるのも、その芭蕉の「軽み」をよく判ってのもの――コール・アンド・レスポンス――なのである。しかし、馬鹿にしてはいけない。「新潮日本古典集成 芭蕉文集」の富山奏氏の注を見るがよい。この同月の『芭蕉の書簡(貞享(じょうきょう)五年四月二十五日付惣七(そうひち)』(伊賀の門人窪田意専)『宛によると、万菊は実際に布子を売ってその代金を孝女伊麻(いま)』(この後に訪れた奈良の竹の内(現在の奈良県北葛城郡当麻町)にいた孝女として知られた老婆(この時既に六十五歳だったとされる。芭蕉は二度目の邂逅であった)で芭蕉と杜国はその家を訪れている)『にあたえている』とあるのである。これこそ、まことの漂泊の風狂人の真骨頂ではないか。

2016/04/29

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 「靑寫眞」

[やぶちゃん注:以下の「靑寫眞」は昭和一五(一九四〇)年六月号『文藝汎論』を初出とする。当時、民喜満三十四歳。

 「靑寫眞」とは所謂、「日光写真」のことである。見たい型紙(種紙)に感光紙を重ねて硝子窓を持った枠(箱・カメラ)に仕込んで、数分間、太陽光線に当てた後、水に漬けた後に乾かして出来上がりとなる。個人サイト「コレクター天国」の「日光写真」を参照されたい。途中で春休みとなるから、冒頭は晩冬から初春と読める。因みに「青写真」は冬の季語である。]

 

 

 靑寫眞

 

 夜、雨戸のところの欄間に、大吉が靑寫眞の道具を出しておいて、翌朝、裏側の板を開けて羅紗をめくつてみると、黃色な紙のなかに夢のやうに河童の顏が浮んでいる。大吉はそれを又もと通りにして、柱を攀登り欄間に据ゑると、學校へ出掛けて行つてしまつた。雄二は欄間の靑寫眞を見上げ、暫くぽかんとしてゐた。夜でも寫るのかしら――「夜でも寫るぞ」とさつき大吉は大得意だつた。夜でも――。しかし夜は眞暗で、何が何やら雄二には、燒けすぎた寫眞のやうで、よくわからない。

 夜でも寫るのかしら、と雄二は硝子板の下の黑地に白で浮出てゐる河童の顏を視凝めた。河童はおどけて、庭の方を瞰下してゐた。すると雄二は、突然素晴しいことを思ひついた。ここの家の硝子戸の方が庭に出て、板雨戸の方が内にあつたら、そしてそこへ寫眞の紙をやつておいたら、夜の庭だつて寫眞になるかもしれない。見ると、今も硝子戸には軒の梅の枝が靑空と一緒に映つてゐるのだつた。この家がそつくり寫眞器かもしれないぞ、――大きな家ほどもある寫眞器。それで何でも彼でも寫して、世界中の景色を寫して、寫眞は天井まで積重ねる。雄二はうつとりして天上を見上げた。それから急に我に返ると、日向を探しに裏へ行くのだつた。

 お日さんが家の大屋根の向にあるので、臺所の邊はまだ蔭になつてゐた。隣の二階の窓のところの白壁にはいい具合に日があたつてゐる。そして、雀が窓の閾に留まつて、二人で嬉しさうに囀つてゐる。雀なんか寫眞も出來ない癖に、と思ふと雄二はワーイと大聲で號んだ。雀は平氣でいよいよお喋りになる。ワーイ、ワーイ、と雄二が二三度號んでゐると、急に雀はパツと飛立つて行つた。見ると、そこの大屋根に今、鳩が來て留つたのだ。鳩は樋にそつて、ちよこちよこ歩いて行く。すると、日向が薄らぎ始め、瓦が寒さうな色になつて、鳩は樋の端で暫く考へてゐる。あの鳩は魔法かもしれないと雄二も鳩と空を見較べてゐる。鳩はゆつくり翼を開き、ぱつと飛立つ。その時、薄い光が洩れて來て、鬼瓦の頭が微かに輝き出すと、ずんずん日の光が濃くなり、また前と同じ日向が出來上つた。雄二は納屋の方へ行つてみたが、納屋の前もまだ日向が出來てゐない。葉の落ちた杏の樹の上の枝に薄い日向が見えるばかりだ。それで、玄關の方へ廻つてみると、露次の向の往來には今、立派な日向がある。そこを花賣や鹽賣の女が通つて行く。

 表に出てみると、日はK橋の方からあたつてゐた。その日向の路の片方を工夫が五六人並んで頻りと地面を掘つてゐる。毎日、K橋の方から段々雄二の家の方へ近づいて來て、今は角の菓子屋のところを掘つてゐるのだつた。菓子屋の前には掘返された土塊の山に大きな立札が斜に突立つてゐる。それでそこを通る自轉車などは、人が降りて少し難しさうに傾いて通つた。明日は雄二の家の前まで掘つて來るかもしれない。鶴嘴が日向でピカピカ光つた。暫くして、雄二はちらつと彼の抽匣を思ひ出した。昨夜、雄二はその抽匣が開かなくなつた夢をみたのだつた。抽匣の底には繪葉書、靑寫眞、獨樂、打紐、石塊、繪本などが靑い闇に包まれて苦しげに蠢いてゐた。思ひ出すと遽かに雄二は玄關脇のランプが置いてある部屋へ走つて歸つた。小さな箪笥の一番下の抽匣を引張ると、抽匣はごとごとと輕く軋みながらあいた。雄二はそのなかから、靑寫眞の道具と、好きな繪本と繪葉書を取り出して懷中に收めた。

 

 晝頃になると、雄二の家の緣側にもぱつと日があたつた。厠へ曲る緣側の壁に、湯殿の屋根の方から日は射して來て、手洗鉢の水の影が天井に映つて搖れた。その手洗鉢のなかには、さつき肴屋が折に入れて持つて來た白魚を二匹、雄二は母から貰つて放してやつたのだ。雄二は白魚と一緒に靑寫眞が出來るので大變氣に入つた。それで日向には繪本をひろげ、暫く寫眞の焦げるのを待つた。寫眞を洗ふ時、雄二は手洗鉢の底を凝と覗き込んでみた。白魚は水に透き徹つてゐて、なかなか見つけにくかつた。ふと、天井で搖いでゐる水の影を見てゐると、何だかかぼそい白魚に似た形があるやうに思へた。それで、靑寫眞器の硝子を天井の方へ對けると、鋭い四角形の反射はすぐ天井の呆けた水の形に飛びつく。靑寫眞の硝子は屋根の方へでも、床の下へでも滅茶苦茶に飛んで行き、その中に小さな太陽が燃えてゐる。

 雄二は水で洗つた寫眞は側の硝子戸にぺたぺた貼りつけておいた。轆轤首、がたろ、赤穗義士と寫眞はつぎつぎに出來上つて行つた。しかし、ふと、緣側の日向が薄らぎ始ると、間もなく日向はすつぽり消えて行つてしまつた。湯殿の屋根の空を見上げると、細長い雲がお日さんを隱してゐる。日が隱されたあたりの雲は、皺を寄せて特に靑黑い。綠の板の温みもさめて來て、雄二はすつかりつまらなくなる。でも、雲はたしかに動いてゐるので、やがて、薄い日向がこぼれて來た。見ると、細長い雲を拔けて、日がずんずん現れて來る。やがて雲で洗はれたお日さんの顏がにつこりと笑ふ。緣側も庭も、賑やかに甦つた。緣側の板の間は間もなく温もつて來て、段段日向くさくなる。雄二は懷から手を出し、又もう一枚寫眞を始め、それがうまく日に焦げる間を、側にもつて來てゐる繪本や繪葉書を見て暮すのだつた。

 

 〈雄二の繪葉書〉

1 これは雄二が父に連れられて見物した共進會の繪葉書です。中央の枠のなかに寫されてゐるのが、共進會の建物で、まはりには豚や牛の模樣がついてをります。徽章のやうに金で浮出てゐるのは共進會のマークです。共進會は去年の春、練兵場で開催されました。地面に杉の丸太を埋め立て、その柱には赤と白のだんだらの布が卷いてありました。そのやうな柱が縱にも橫にも澤山あつて、入口へ導く通路がしつらへてありましたが、途中の柵には、豚や、牛や、馬が並んでゐて、人々はそれを見ながら歩いて行きました。雄二も馬や、牛や豚を、そんなに近くで見たことは初めてでしたから、馬が大きな鼻で温かい息をするのに驚かされました。會場へ入ると、頭上にはテントが張つてありましたが、下は土ですから下駄のまま歩いて行けました。雄二はその柔かい黑い土の上を歩いて行くのが何だか愉快でした。陳列品は赤い毛布を敷いた壇の上に並べたり板壁に貼着けたりしてありました。お盆や茶碗や鏡臺があるかとおもへば、樽や鍬や盆栽もありました。いろんな貝釦を綺麗に並べて額に容れたものや、軍人の肩章を一揃收めた額もありました。出口に隨分澤山の一文錢を額に容れて掛けてありました。父はその額の前で立留まつて、頻りに一文錢を眺めてゐました。そこにはいろんな形の一文錢がありましたが、何が面白いのやら雄二にはわかりませんでした。

2 これは先日、神戸の小父さんが送つてくれた繪葉書です。神戸の小父さんといふ人を雄二はまだ見たことがないのです。しかし母に訊くと、その人は雄二がまだ赤ん坊だつた頃、度々家へやつて來たさうです。さう云はれれば何だか氣持だけは浮んで來るのでした。雄二がまだ赤ん坊だつた頃は、朝がとびぬけて綺麗でした。澤山の花が咲揃つてゐる朝の花壇のむかふから、ミルク色の顏がいくつも微笑んで浮んだものです。その一人が神戸の小父さんだつたのでせう……。さて、この繪葉書は松明を持つた侍が三人、川のなかに這入つて、何か搜してゐるところです。侍は膝のところが脹らんでゐる股引を穿き、足は足で、しつかり布を卷いてゐて、顏はきりつと勇しさうです。松明の影が水に映つてゐるので、岸の杉の大木や、そのむかふの闇空も、みんな大變美しくあります。松明を掲げて立つてゐる侍が靑砥藤綱といふ人だと雄二は父から話してきかされました。あの水のなかにはお魚もゐるのかしら、と雄二はそんなことも氣にかかるのでした。

 

 雄二が繪葉書に見とれてゐると、また日が翳つて來た。見ると今度は黑ずんだ大分大きな雲がやつて來たので、雄二は一寸おどろいた。湯殿の煙出の後にその大きな雲は意地惡く展がり、お日さんの顏は悲しげに靑ざめて來る。それでも時々、雲の薄いところから光が洩れさうになるのは、少しづつ雲が流されてゐるためなのだらう。手洗の石の苔の色がどす黑くなり、水の面には冷たさうな皺がよつた。雄二は辛氣になるのを我慢して待つてゐた。暫くすると、向ふの方から靴の音がして、大吉が學校から歸つて來た。大吉が庭のところまで姿を現すと同時に、さつとうまく日が照りだした。雄二はわあと嬉しくなつて、得意さうな顏をした。

 

 春休みが來た。貴麿も大吉も菊子もみんな上の兄姉が朝から家にゐて賑やかになつた。貴麿は緣側に机を持出し、新しい圖畫の手本を展げて、水彩繪具を溶いた。仕切のある筆洗や繪具皿を雄二は側にゐて、よく眺めた。筆洗の綺麗な水に筆の穗の繪具がさつと散つてゆき段々濁つて來るのも珍しかつた。

 或朝、貴麿はやはり繪を練習してゐたが、ふと筆を置いてやめてしまふと、「これから瓦斯會社見に行かないか」と云つた。そこで、雄二も行くつもりで姉に着物着替へさせてもらつた。貴麿は瓦斯會社の招待券を持つて、大吉と雄二を連れて出掛けた。雄二は會社がどちらの方角にあるのか、まだ知らなかつた。貴麿はK橋の方へ歩き出した。途中から別の小路に折れて、お藥師さんの前を通つた。雄二はずつと小さかつた頃、貴麿や貴麿の友達の後に從いて、兄達が靑寫眞のピヤピイをこの邊まで購ひに來たのを憶えてゐる。それはまつ暗な晩のことで、どの邊にそんな店があつたのか、今通つてもわからなかつた。

 柔かい風が頻りに吹き、軒々にある用水桶の水に日が反射してゐた。やがてI橋の袂を曲ると堤に添つた家並を歩いて行つた。その邊はもう雄二にとつて今始めて歩く路だつた。竹竿が一杯に空高く立ててあるところを過ぎると、處々に石段があつて下の方に家が瞰下せた。片方の家並は時々、杜切れ、川の姿が覗いた。雄二達は急いでずんずん歩いた。川が何度も覗き、いろんな恰好をした家々が現れた。路と一緒に曲つてゐる竹垣を過ぎると、大きな護謨の樹が家の上に見えた。そしてT橋の袂へ出ると、雄二は大分歩いたやうに思へた。橋を渡ると間近にH山が見えて來た。路は徒廣くなり、菜畑もあつた。やがて、黑い塀の小學校を過ぎた。そこが大吉の行つてゐる學校だつた。雄二は隨分遠くまで來たと思ひながら、行手を見ると、一本道に並んだ遠くの家々は段々小さくなつてゐた。それが貴麿の畫面の手本に描いてあつた繪と似てゐた。屋根の上に大きなセピア色のタンクが聳えてゐた。「あれが瓦斯會社だ」と貴麿は云つた。家並がまばらになつて、白い路はよく埃が立つた。麥畑で雲雀が囀つてゐた。日の光が強く、空は靑く焦げ始めた。そして、とうとう雄二達は瓦斯會社の門までやつて來た。

 門の正面で見ると、さつきから見えてゐたタンクは更に大きかつた。大きな日の丸の旗が中央に掲げられ、廣場に萬國旗が飾つてあつた。門のところに受附の机が置いてあつた。貴麿はそこで招待券を出すと、皆は菓子折と繪葉書を一つ宛貰つた。小さなトロツコを乘せたレールがタンクの方まで敷いてあつた。雄二達はまづタンクの方へ近づいて行つたが、近づいて行くと、何だか怕いやうな感じがした。タンクの下で上を見上げると、上の方は金網が張つてあつて、茫とした靑空であつた。それから皆はタンクに添つて、ぐるりと周圍を廻つて見ることにした。タンクの裏側の草原には、圍がして石炭が山のやうに澤山積まれてゐた。其處からもレールが堤の方へ伸びてゐた。今度は雄二達は工場の方を見物に行つた。大きな黑い機械が据ゑてある床は、ひつそりとしてゐた。そこの窓硝子からタンクの麓が見えた。工場を出ると、雄二達は門の方へ歩いて行つた。門のところで振返つて、雄二はまたタンクを眺めた。

 歸りは長くひだるい路だつた。橋のところで見ると、タンクが小さく堤に立つてゐた。見憶えのある路まで來て、雄二は吻として、お腹のなかが熱くなつた。その時、小路からキセル掃除の車の笛がピピと鳴り出し、次いでドンが鳴つた。家へ歸つてボール箱の菓子折を開けてみると、赤と白のちちだいの菓子で、繪葉書はタンクと工場を寫した寫眞だつた。

 

 ある日、雄二の家にも瓦斯會社の人がやつて來て、床下を掘つたり、天井に這入つて行つたりした。大きな錐のやうなもので、天井の眞中に穴をあけ、眞鍮管をとりつけ、瓦斯會社の人は一寸栓を捻つて、燐寸で火を點けると、長い焰が下に垂れた。その人は火を消して、小さな紙箱からマントルをとり出して管に嵌めるをまた火を點けた。すると、その白い柔かな袋はぼーつと赤く燃えてゐたが、栓を止めると縮んで小さく固まつてしまつた。その次に燐寸をやると、マントルは微かに白い光を放ち出した。會社の人はそれに硝子のホヤを被せた。

 座敷と玄關と居間と臺所、湯殿の五ところにガス燈はとりつけられた。座敷のホヤは三つあつて、靑白い花瓣に似て一番綺麗だつた。臺所の竈の上には、瓦斯コンロが置かれ、柱にはメートル器が据ゑられた。家のうちの模樣が急に改つたやうであつた。雄二は早く夜になればいいと思つた。

 夜になつた。まづ臺所と居間のガス燈が點され、部屋は明るくなつた。父は蠟燭と燐寸を持つて、玄關や湯殿のガス燈を試してみた。皆は父の後にぞろぞろ從いて行つた。すーつと瓦斯の洩れる音がして、燐寸の焰が一生懸命マントルの方へ近づくと、ぽつと燈がついて明るくなる。その度に雄二も吻として、感嘆の眼を瞠つた。最後にいよいよ父は座敷のガスを點しに行つた。マントルは一つづつ明るくなり、やがて三つの燈りが揃ふと、座敷は晝よりも美しかつた。疊の目や、襖の模樣や、優しい靑い光のなかにあつて、母の顏も姉の顏も白く微笑んだ。父は浮かれて緣側を走り出した。雄二も大吉も歡聲をあげて父の後を追駈けた。

 

[やぶちゃん注:「瞰下してゐる」「みおろしている」と読む。

「K橋」既出既注。私は既に京橋川に架かる「京橋」と踏んでいる。京橋西詰から推定される原民喜の実家までは二百メートルもないと考えられる。

「抽匣」「ひきだし」と読む。

「打紐」篦(へら)で打ち込んで組み目を堅く作った紐。打緒(うちお)。独楽回しなどに使う。

「石塊」「いしくれ」と訓じていよう。

「白魚」これは高い確率で、条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科シロウオ属シロウオ(素魚) Leucopsarion petersii と考えられる新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科 Salangidae のシラウオ(白魚)類ではないということである)。まず、「雄二」が母から分けてもらって手水鉢に入れて活かしているという事実から私は後者ではないと考える。シロウオは踊り食いで知られる通り、死ぬと急速に鮮度が落ちることから、業者は生かして売ることを第一とするからである。また、ウィキの「シロウオ」の地方名の記載に『シラウオ(関西・広島)』とあるからである。孰れも死ぬと白く濁った体色になって見分けがつきにくくなるが、生体の場合はシロウオ Leucopsarion petersii の方には体にわずかに黒い色素細胞があり、幾分、薄い黄味がかかる。主に参照したウィキの「シラウオ」の記載と、シロウオ漁で知られる和歌山県湯浅市公式サイトの「シロウオとシララウオ」のページが分かり易い。その図を見ても判然とするように、シラウオの口は尖っていて、体型が楔形をしていて鋭角的な印象であるのに対し、シロウオはそれに比較して全体が丸味を帯びること、シラウオの浮き袋や内臓がシロウオの内臓ほどにははっきりとは見えないこと、また形態的な大きな違いとして、シラウオには背鰭の後ろに脂びれ(背鰭の後ろにある小さな丸い鰭。この存在によってシラウオガアユ・シシャモ・ワカサギ(総てキュウリウオ目 Osmeriformes)などと近縁であることが分かる)があることが挙げられる。

「轆轤首」「ろくろくび」。或いは「ろくろっくび」と読んでいるかも知れない。

「がたろ」河太郎で河童の主に西日本での異称としてはかなりポピュラーなものである。

「共進會」産業振興を目的として産物や製品を集めて展覧し、その優劣を品評したり、製品紹介とともにそれを売り込んだりする会。明治初年より各地で開催された。競進会とも言った。

「靑砥藤綱」鎌倉地誌その他で散々注してきたが、モデルはいるであろうが、実在は疑われる人物である。取り敢えず、私の耳嚢 巻之四 靑砥左衞門加増を斷りし事をリンクさせておく。

「あの水のなかにはお魚もゐるのかしら」雄二君、その川はね、鎌倉を流れる滑川(なめりかわ)という川でね、宝戒寺というお寺の傍がロケ地とされるんだけどね、お魚はね、ちゃんといるよ。もう先(せん)にはね、稚鮎も遡上したらしいんだよ。

「煙出」「けむだし」或いは「けむりだし」。

「辛氣」「しんき」で「心気」とも書く。ここは、心が晴れ晴れしないこと、くさくさすることを言う。

「K橋の方へ歩き出した。途中から別の小路に折れて、お藥師さんの前を通つた」京橋方向に歩いて直ぐに皆に折れると、浄土宗一法山(いっぽうざん)淸靜院廣教寺(中区橋本町に現存し、ここは民喜の実家のある幟町のごく直近である。現行でも「廣」の字を用いているので院号も正字化した)があり、ここは浄土宗にしては珍しく本尊は薬師如来でかつては「広島のお薬師さん」として信仰を集めた。

「靑寫眞のピヤピイ」不詳。「ピヤピイ」は「ペーパー」で、印画紙・感光紙のことか? 識者の御教授を乞う。

「I橋」京橋川の京橋の下流に架かる稲荷橋か。

「T橋」鶴見橋か。この橋の南東直近に「H山」、即ち、比治山が南北に広がるのである。ここで彼ら橋を渡って京橋川右岸を南下する。

「黑い塀の小學校」これは「そこが大吉の行つてゐる学校だつた」と出ることから、当時民喜の兄の守夫が通っており、最後の「朝の礫」で「雄二」受験するシークエンスの出る、広島高等師範学校付属小学校であることが判る。現在の広島大学附属東雲(しののめ)小・中学校,は広島市南区東雲三丁目に移転しているが、沿革を調べると、同師範学校は明治三四(一九〇一)年に広島市内の皆実(みなみ)村(現在は比治山本町内で、現行ではその南に皆実町がある)に校舎を新築移転しているから、この付近に広島高等師範学校付属小学校もあったと考えてよい。

「瓦斯會社」前の現在の比治山本町から少し京橋川を下った皆実町一丁目にある「広島ガス」広島ガス本社で、ガス・タンクも健在で、ウィキの「皆実町広島市によれば、現在でもこのガス・タンクが『皆実町地区のランドマークともいうべき建造物である』とある。

「圍」「かこひ(かこい)」。

「見憶えのある路まで來て、雄二は吻として」「見憶えのある路まで來」たのだから「吻」(ほっ)としたのである。

ちちだいの菓子」不詳。識者の御教授を乞う。但し、紅白のお乳の形をした饅頭だろうなんどというお馬鹿な私も妄想したような推論なぞでは困る。決定的正答をお願い申し上げる。

「マントル」ガス・マントル(gas mantle)。ガス灯などのガス器具に於いて炎を覆い、発光させる器具で、ある程度の耐火性を持つ(交換は不可欠)ガラス繊維など出来ている。「白熱套(とう)」。]

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 「招魂祭」

[やぶちゃん注:以下の「招魂祭」(「せうこんさい(しょうこんさい)」と読んでおく。「せうこんのまつり」とも読めるが、採らない)は昭和一三(一九四八)年九月号『三田文学』を初出とする。当時、民喜満三十二歳。ここで描かれる招魂祭は所謂、招魂社(明治維新前後以降に国家のために殉難した戊辰戦争などの内戦及び日清・日露戦争の英霊を奉祀した神社。「東京招魂社」は明治一二(一八七九)年に明治天皇の命名により「靖国神社」と改称し、地方の「招魂社」も昭和一四(一九三九)年に名を「護国神社」と改められたものの、明治末期になっても「招魂社」という名で庶民には親しまれ続けた(広島のケースは後述)。元来、王朝期に於いては死者に対する陰陽道の「招魂祭(しょうこんのまつり)」は禁止されており、死者・生者に対する神道儀礼は「鎮魂祭」と称されていた。例えば、靖国神社の旧称である「東京招魂社」の「招魂社」という号は『元來國家多端の際に起りし名にして、在天の神靈を一時招齋するのみなるやに聞えて万世不易神靈嚴在の社號としては妥當を失する』(賀茂百樹編「靖国神社誌」明治四四(一九一一)年靖国神社刊の「名稱」一節。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像にリンク)可能性があるために廃されたという。但し、名称変更後も「招魂祭」は続けられたと、ウィキの「招魂社」及びそのリンク先にはある)での祭りのようには思われない。終始、シークエンスはN練兵場(現在の広島市基町の広島県庁がある附近にあった広島西練兵場であろう)内での競馬や見世物が描写されるばかりで、実際の神社や祭祀儀礼が描かれない。さて、当時の広島の「招魂社」(ここは公式に「護国神社」となるのは実はずっと後である。後述)は明治元(一八七二)年に戊辰戦争で没した軍人七十八柱を「二葉の里」に新しく造営された「水草霊社」に奉祀されたのが創建であるが、これは現在の広島県広島市東区二葉の里に鎮座する饒津神社の境内内にあった明治八年に「官祭招魂社」明治三四(一九〇一)年(民喜出生の四年前)には「官祭広島招魂社」と改称されている)。しかし、饒津神社は西練兵場からは東北へ一キロメートル以上離れている実は後に、この招魂社はまさにこの西練兵場西端に移転されるのであるが、それはずっと後の昭和三(一九三四)年のことである(同神社については同神社公式サイト内の「由緒」に拠る。さらにその後の昭和一四(一九三九)年に「広島護国神社」と改称されたが、至近距離上空に於いて原子爆弾が炸裂、社殿総てが焼失した。その後、同地に小祠を設けて祭祀を続けたが、広島市の復興に伴い、移転を余儀なくされた。現在の広島城跡にある新社殿が造営され復興したのは、敗戦から十一年後の昭和三一(一九五六)年秋のことであったとある)。

 以上から考えて、この「招魂祭」は当時の広島の軍部(練兵場は陸軍)内で行われた表向きは戦没軍人らへの鎮魂を標榜しつつも(実際に招魂社で招魂祭は行われたのであろうが)、その実は現役軍人や市民の慰労交流を主とした軍主催の練兵場を市民に解放した「祭り」であったのではなかろうか? 識者の御教授を乞うものではある。なお、過去に注したように、原民喜の父信吉は陸海軍官庁用達を勤めた人物でもあった。]

 

 

 招魂祭

 

 お夏は雄二にお話をして呉れた。權現さんの森にしひしひどんぐりを拾ひに行つた姉妹が日が暮れて路を迷つてゐると、山姥が出て來て、怕い怕い顏をする。お夏の眼はほんとに淚が溢れさうで、山姥に追かけられてゐるのはお夏のやうだ。あんまり熱心に雄二が彼女の顏ばかり視凝めてゐると、お夏は氣がついて一寸をかしそうに宙をみて笑ふ。するともうお話は終つてゐた。いいあんばいに姉妹は助かつたので吻とする。温かいお話のいきれが段々さめて行き、障子に嵌められた硝子板から庭の梅の靑葉が綺麗に見える。たつた今、雄二は何だか夕暮のやうな氣がしてゐたが、外は美しい朝なのだ。「さあ少し外へ出て遊びませう」とお夏は膝に抱へてゐた妹を背の方へ廻し、黃色な帶を後にあてがつて、胸のところで十文字にくくりつける。

 外へ出ると、雄二は權現さんの方角が氣にかかつた。あそこには、お仁王さんや、唐獅子や白い石の鳥居や松などがあつて、山姥が隱れてゐさうな藪もある。しかし、今權現さんは見えないし、山に日があたつてゐて、街は明るかつた。笹を積んだ車が笹の音させながらやつて來ると、雄二は權現さんの笹かとびつくりする。チンチンチンとお供賣の爺さんが後から來ると、雄二はちよこちよこ歩き、お夏は時々立留まる。三人の影が日南の路に映つている。日南はゆらゆら夢のやうに動く。

 繪はがき屋の前で雄二とお夏は暫く立留まつた。四十七士の繪はがきが額に入れて吊下げてある。雄二は首をあげて見上げるのだが、お夏の顏は恰度、討入の雪景色とすれすれのところにある。池に墜ちてゐる義士がどうなるのかしらと雄二は氣にかかり、額の硝子板が冷やりとして來る。やがてお夏は雄二を促してまた歩き出す。もう練兵場の入口が向に見え、枳殼垣の上に銅像の背中が覗いてゐる。

 銅像の兵隊は喇叭を口にあてて、高い石段の上にゐる。石段の下の石柱は鐵の鎖で繫がれてゐて、そのあたりにクローバが一めんに繁つてゐる。雄二は跣になつて、クローバの上を跳ね歩いた。銅像の兵隊を見上げると、銅像はぢつと空氣のなかを突進してゐるやうだ。遙か眩しい白雲のなかにとんびが一羽舞つてゐる。雄二は鐵の鎖の上に腰掛けて、ぶらんぶらん搖さぶり出した。お夏はクローバの上に坐つて、雄二の妹を膝へ下ろしてゐる。むかふの方はひつそりとして、今日は兵隊の姿が見えない。中央にある大きな松が頭に一杯日の光を受けて、一人で威張つてゐる。すると、急に松の頭が悲しさうにちらりと曇つて來た。と思ふと、向ふの草原一めんがさつと滅入るやうに暗くなる。ぎしり、ぎしり、鐵の鎖は搖れる。やがて、ちらりと草の面に明りが射し、次いで忽ち、さつと日南が走り出す。もうすつかり日南になつてしまつた練兵場はいよいよ日南が濃くなる。お夏はクローバの花を毮つて、花束を作つてゐた。雄二が隨分永い時間がたつたやうに思へて來た時、お夏は妹を背に負つて立上り、「これから私の親類へ行つてみませう」と云つた。

 練兵場の出口の溝の石橋を渡り、廣い往來へ出ると、お夏は小路へ曲つた。それから細い暗い壁と壁の間を拔けて行くと、柿の葉が光つてゐる裏庭へ出た。敷石の上で洗濯をしてゐた女が雄二が來たのを見ると、にこにこ笑つた。その知らない女の人はお夏の方振向いて、「二錢あげるから何か買つてあげなさい」と、云つた。「何がお好きかしら」と、お夏に尋ねた。「はじき豆がいいわ、ね、さうでせう」と、お夏は雄二に云つた。雄二は何が好きなのか一寸考へてゐたのだが、お夏にさう云はれると頷いた。雄二は暫く緣側に腰を下ろして休んだ。やがて、お夏と雄二はそこを出て、往來を歩いた。それから今度は小學校の運動場へ這入つて行つた。下駄箱の處で眺めると、運動場では小さな生徒達が帽子とりをしてゐる。雄二はしかしもう家へ歸りたくなつた。その時、ドンが鳴ると、教室の方で鐘が鳴り、廊下も教室もみんな騷しくなつた。

 午後(ひる)からもお夏と雄二はまた外へ出た。お夏は二錢ではじき豆買ふと、「お寺へ行つて食べませう」と云つた。お寺はすぐ雄二の家の近くにある。門を這入ると、カンカンカンと響のいい鐘が鳴つてゐた。本堂の方にはもう大分人が集つてゐて薄暗かつた。高い緣に登つて、お夏は人々の後にぺつたり坐つて、背を屈めて合掌した。それで背の上の妹も前屈みになつて難しさうだつた。雄二は立つたままお夏の肩に片手をおいて、ぼんやり奧の方を眺める。隅の高い臺の上に黑い衣を着たお坊さんが坐つてゐて、何か云つてゐるのだ。お坊さんの聲は嗄れてゐるが、よく聞える。一人の漁夫(れふし)が海へ行きました。……何だか雄二はお坊さんが皆にお話してきかせてゐるのだなと思ふ。皆は大人しく坊さんのお話を聽いてゐる。しかし雄二には漁夫が海へ行つてどうしたのか解らなくなつてしまふ。するとお夏のすぐ隣にゐた婆さんが、急に南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛と云ひ出した。あつちでもこつちでも低い聲で念佛が始まる。お夏もまた掌を合せて、何だか淚が溢れさうな眼をしてゐる。それで雄二はもうお坊さんのお話は終つたのかと思つて、豆を食べてゐると、またお坊さんは聲をはり上げて何か云ひ出した。それから聲は段々ゆつくりなり、何時までも續いて行く。雄二は坐つてゐる人と人の隙間を少しづつ歩いて行き、婆さんの顏や爺さんの顏を見て廻る。が、そのうち退屈してしまふ。疊の上にごろりと寢轉んで、外の方を眺め出す。恰度、屋根の處に鳩の羽根の音が靜かに近づいて來て、ふと天井の欄間に目をやると、蓮の花を持つた天人がふわりふわりと浮いてゐるのだつた。

 

 雄二は緣側に寢轉んでぼんやりしてゐた。昨夜の嵐で吹散らされた靑い木の葉に陽が斜にあたつてゐた。空は眞靑に澄んで、庭は靜かだつた。ふと障子の向ふの室がその時、安田の聲で騷しくなつた。「S橋の處までそつと自轉車でつけて行きましたが、後振返るとあいつは靑くなつて逃げてしまひましたよ」「ふん、それならもういい」と、父の聲もする。「しかしどうも、また歸つてでも來たら一つはりまはしてやりませう」と、安田は頻りに興奮してゐる。「はじめからあのお夏の野郎はけしからんと思つてゐた通りでしたよ」

 雄二はそれを聞くと始めて何事が起つたのかぼんやり解り出した。しかし、話聲はそれきりもう續かなかつた。何だかをかしいので臺所の方へ行つてみると、そこでは安田と母と菊子が今頻りに喋り合つてゐた。「あれもをかしな女ね、近所などでは評判よかつたのに」と菊子は云つてゐる。「子守の癖に白粉つけたり、お寺まわりしたり、そりやあ生意氣でしたよ」と安田はまだ惡口云つてゐる。「大した何でもないのに、あんなことさへしてくれなきやねえ」と母も云ふのだつた。

 側で聞いてゐる雄二にはお夏がどんなことをしたのかよくは解らなかつたが、皆がお夏のいけないことを喋り合つてゐるのだつた。それではお夏はいけない女だつたのかと雄二は不思議な氣持がした。その日はたうとう日が暮れてもお夏は歸つて來なかつた。床の中にゐると雄二は何だか睡れなく、ふと權現さんの森が浮んで來た。S橋の向ふが權現さんだから、お夏は到頭あの森の中で山姥に出逢ふ。お夏は眼に淚をためて慄へてゐる。可哀相なお夏は掌を合せて縮んでしまふ。そこへ自轉車に乘つた安田がまるで天狗のやうな顏をしてふわりふわりとやつて來る。すると、お夏はハツと氣がついて逸散に走り出す。もう、お夏の姿は向ふの草原に消えて、闇にちらちら狐火が燃えてゐる。お夏の田舍には螢が澤山ゐるさうだから、もしかすると、あれは螢かも知れないな。安田はぼんやりと途方に暮れて、ちらちら燃える焰を見てゐる。ふと、安田は急に大きなハクシヨンをする。柱時計が時を打つたのだ。チクチクと後は振子の音がする。雄二にはまたお夏の顏が見えて來る。

 お夏はその翌日も歸つて來なかつた。雄二は往來に立つて、ぼんやり外を眺めてゐた。すると「雄二さん」と呼ぶ聲がして、何時の間にか雄二の側に尋常二年生の伯母さんが立つてゐた。福岡の小さな伯母さんは懷から栗を出すと、雄二の手に握らせた。それから、いかにもお轉婆らしく飛ぶやうにして走つて行つた。

 暫くして、雄二は家に戻ると、二階でぼんやりと栗を食べてゐた。すると、微かに「雄二さん」と呼ぶ聲が聞えた。雄二は喫驚して、あたりを見廻した。しかし誰も呼んではゐないのだ。何だか今の聲はお夏の聲に違ひなかつた。雄二はもつとよく探してみようと思つた。柱の隅や窓の方を見て、天井まで見上げた。ふと、雄二は欄間の額に氣がついた、それは草競馬の繪で、棚にぎつしり人々が並んでゐた。もしかするとお夏はあのなかにゐるのだな、と雄二は思つた。すると、ワーワーワーと渦卷く人聲が聞え出した。そのうちにパシリ、パシリと馬が走り出す。樂隊が鳴り、鐘が響く。ワーワーワーと熱狂は增して來る。眞白な埃と日の光と馬が入亂れる。赤、白、靑、靑勝て! 靑勝て! と、雄二はすつかり招魂祭のつもりで應援し出した。……ふと氣がつくと、馬も人も動いてはゐなかつた。雄二は何だか草臥れて、目をつむつた。それから又目を開けた。欄間の方を見上げると、忽ちワーワーワーと繪が動き出す。パシリ、パシリ、日の光と馬の渦卷だ。妙に雄二は悲しくなつたが、早く招魂祭が來ればいい――と一心に思つた。

 

 ある日たうたう招魂祭は來た。朝、寢床にゐると、ヒヤ(花火)がポンポンと元氣よく鳴つた。次いで緣側の雨戸はガラガラ開けられて、パツと光が部屋に差込んだ。寢間着のまま雄二は眩しげに庭の方を見てゐた。屋根の上に黃色い朝の日があたつてゐて、空は綺麗に晴れてゐた。そこへいつもの通り菊子がやつて來て、雄二に着物着替へささうとした。はじめ雄二は素直に突立つてゐたが、急にあばれ馬のつもりで、バタバタと手足を動かした。するともう嬉しくて走り廻らねば氣がすまなかつた。「まあ、まあ」と云ひながら菊子は暫くあきれてゐる。「もうおとなしい、かしこい馬になるのよ」と云はれて雄二はふと靜かになつた。表の方をゴロゴロと車が通り、遠くには娯しげなぞよめきがもう渦卷いてゐた。雄二よりさきに起出た大吉は學校服を着て居て、頻りに帽子の庇を黃色な固い蠟で磨いてゐた。上の兄の貴麿も學校が休みなので、緣端で搔繰獨樂を練習してゐた。

 朝の御飯が濟むと、雄二は待ち遠しくて往來へ出てみた。軒毎に國旗が立ててあつて、路を行く人はみんな招魂祭へ行くのかと思はれた。赤いケットと竹竿を積んだ大八車がガタガタ搖れながら過ぎて行つた。在郷から出て來たらしい色の黑いお婆さんが、何か珍しげに雄二の方を眺めて通つた。何時も雄二の家の前を通る跛の男の人がやつて來ると、その時また練兵場の方でパリパリとヒヤが鳴つた。跛の男の人は恰度姿勢が低くなつてゐたので、頤を突出して花火の方を眺めた。雄二は氣が急いて、玄關の方へ引返すと、父と大吉が今出て來るところだつた。父は新しい赤の編上靴を穿いて立上つた。歩き出すとキユキユと靴の皮が鳴つた。「さあ、三人がさきに行つてゐよう」と、父は云つた。それから三人はすつすつとN練兵場の方へ急いだ。大吉の足が速いので雄二は小走りに歩いた。

 練兵場の附近はもう人がぞろぞろしてゐて、入口の處には杉の葉で造つた大きなアーチが聳えていた。アーチの下まで來ると杉の葉のなかに金柑で黃色な文字が浮出されてゐるのだつた。そこからずつと露店に並んでゐて、いつもの練兵場とはすつかり變つてゐた。廣場の方は棧敷でぐるりと圍はれてゐた。雄二の家の棧敷もそのなかにある筈だつた。幕を張つた棧敷の方では、もう競馬が始まつてゐるのか、時々歡聲が揚つた。棧敷の床下の隙間から、柵を巡らした砂地が見え、雄二はわくわくして來た。

 露店は遠くまで賑やかに續いてゐた。玩具のサーベルや鐵砲や馬の首を吊つてゐる店があつた。眞黃な油菓子と並んで石菓子が積んであるのも眼についた。少し露店が疎になつた頃、桶に插して蓮の實と砂糖黍を賣つてゐた。雄二はそれを食べたことがなかつたので珍しさうに眺めた。向ふの雜沓のなかから、カンカンカンと人懷つこい鐘の音がしてゐた。と思ふと、樂隊の響も波打つてゐた。見世物小屋の灰色の天幕と幟が遠く人々の頭上に見えてゐた。父はその邊の棧敷の札を見て歩いてゐたが、すぐに雄二の家の札を見つけて、短い板梯子を登つて行き、幕のなかを覗いた。するとなかから安田の顏が現れた。大吉は靴のまま登つて行き、雄二は下駄を脱いで登つた。棧敷にはまだ安田しか來てゐなくて、莚は廣々してゐた。隅の棧敷の處に下駄を置いて、雄二は一番前の竹の手摺に凭掛つた。そこからは廣場がすつかり見渡せた。正面の遠くの棧敷には人が黑々と見えて、そこから左右にずつと棧敷が續いて、ぐらぐらと人聲が搖れてゐる。

 左手の棧敷の上の空に、森が見え、大きな鉾のやうなものや幟がキラキラ輝いてゐた。ふと右手の方を見ると、今遠くの出發點の旗の處に馬が現れて並んだところだつた。白いシヤツに色とりどりの帽子と襷をしてゐる騎手は一塊りになつて見えた。と、思ふと、鐵砲が鳴つて、馬は跳り出た。ワーと遠くの棧敷で喚聲が起ると、見る間に聲援はこちらに傳はつて來る。もう先頭の馬は雄二の近くまで現れ、白だなと、雄二は帽子見て思つた。大きな馬は飛去り、次いで五六頭の馬が目の前を過ぎて行つた。白! 白! 白! と雄二は先頭の馬を視線で追つてゐると、曲り角の處で拔かれさうになつて來た。が、正面の棧敷の方に見えて來た時、やはり先頭は白だつた。がそのうちに紫が速くなり、紫! 紫! と思ふうちに、紫は白に追着いてしまつた。そして、紫と白の間はずんずん離れて行つた。ワーワーワーと雄二の方の棧敷が搖れて來ると、紫は風を切つて現れた。それから白、赤、綠、黃が、だだあ……と通り過ぎた。間もなくカンカンカンと決勝點で鐘が鳴つた。雄二は吻として遠くの紫を眺めた。勝負の濟んだ馬は直ぐに外へ出て行つて、場内の騷ぎも少し衰へた。すると、その時ズドンと花火が揚り、左手の棧敷の上の空でパリパリと裂ける音がした。靑空にさつと白い煙が伸び、それが三つに岐れ、黑い小さな點がひらひらと蠢いてゐたが、次第にふわふわと落ちて來ると、小さな達磨の人形らしかつた。

 遠く右手の席では樂隊が頻りに鳴出した。眞鍮の喇叭がキラキラ光り、赤と白の幕がふわりと脹らんでゐた。そして又旗の處に馬が並んだ。「今度は何が勝つ」と、大吉は雄二に尋ねた。「紫」と、雄二は答へた。その時もう鐵砲が鳴つて馬は走り出した。次いで、白、黃、綠、靑が走つてゐる。そのうちに馬は雄二の前を過ぎ、遠くの柵に姿を現した。雄二は一生懸命紫を探したが、紫は居さうになかつた。馬はまた雄二の前に現れて來た。「ワーイ、紫は居ないぢやないか」と、大吉が云つた。そして間もなくカンカンカンと鐘が鳴つた。入替つて又別の馬が現れて來るらしかつた。「今度は何が勝つ」と、雄二は大吉に尋ねた。その時、雄二の棧敷には上の兄の貴麿と商業學校の生徒の從兄がやつて來たところだつた。從兄は立つた儘、遠くを見てゐたが、「やあ、これは面白いぞ」とニコニコした。鐵砲が鳴つて馬は走り出した。すると、棧敷はぐらぐらと笑ひに搖れてしまつた。普通の騎手に交つて走り出した一匹の馬はおどけた人形を乘せてゐるのだつた。人形の手足がブランブランと馬上で搖れ、馬はとつとと走つて來た。騎手達は笑ひながら振返つてゐたが、そのうちに到頭その馬はまごついて留まつてしまつた。すると別當がやつて來て、その馬を引張つて行つた。場内はすつかり沸返つてしまつた。

 競馬はそれからずつと續いて行つたが、何回見ても雄二は見倦きなかつた。雄二の棧敷の前の狹い地面にも、人が一杯立つて見物してゐるのだつた。場内はいよいよ賑やかになり、太陽が眞上に輝き、時々パツと砂煙が立昇つた。一番賑やかな競馬が終つた時、ドンが鳴つて、休憩になつた。すると、恰度母と菊子がやつて來て、辨當持つて來て呉れた。雄二は咽喉が渇いてゐて、一升壜から水を貰つて飮んだ。辨當と食べてからも休憩は長くて、なかなか競馬は始らなかつた。雄二が少し退屈してゐると、そこへ叔父さんがやつて來た。叔父さんは酒臭い息をして、いい機嫌だつた。「これから輕業の看板見に行かうぢやないか」と、雄二の手を引張つて立上つた。雄二は叔父さんに引張られて雜沓の中に出た。叔父さんは睡むさうな顏して、ふらりふらり歩くので雄二は何だか心細かつた。

 見世物小屋の並んだ處へ來ると、人が一杯だつた。輕業小屋の前では、鎖に繫がれた小猿が頻りに豆を剝いて食べてゐた。肩の上に梯子を置いて澤山の人を乘せてゐる繪や、火の輪の中を走つてゐる馬の繪を雄二は見上げてゐた。すると、チリンチリンチリンとベルが鳴つて、パツと眼の前に垂下つてゐた紺の幕が上つた。今、小屋のなかでは白い顏の小さな女の兒が扇を持つて綱の端に立つてゐた。その時するすると幕は下つてしまつた。内では三味線が鳴つて拍手が頻りに起つた。雄二はふと氣がつくと、側にゐたはずの叔父さんがゐなかつた。叔父さんが誰かの後に隱れてゐるやうに思へて、そこへ立つてゐる人の顏を見廻した。それから、あつちこつち探して歩いた。そのうちに雄二の眸には人の顏がごつちやになつて映り、叔父さんはいよいよわからなくなつた。もう雄二は見世物小屋から離れて、露店の並んだ空地に出てゐた。そこも人で一杯だつた。風船玉を持つた子を連れた女の人や飴をしやぶつてゐる男の子や、黑い着物を着た年寄や、みんな知らない人ばかりだつた。雄二は胸の邊が痺れたやうになり、眼の前がしんと靑ざめて來た。藁に插した澤山の風車がヒラヒラ廻つてゐた。ビユーと奇妙な笛の鳴る音がした。ふと向ふの日向から何か色の着いたものが近寄つたやうに思へた。そして「雄二さん」と、はつきり眼の前で聲がした。氣がつくと、小さな伯母さんが立つてゐるのだつた。尋常二年生の伯母さんは雄二を珍しさうに眺めた。雄二は情なくなつて淚が零れてしまつた。「まあ、迷子になつてたの、あんたのうちはすぐそこなのに」と、伯母さんはハンケチ出して、雄二の顏を拭いて呉れた。雄二はまだ心細かつたが、見ると、側に蓮の實を賣る店があつて、もう知つてゐる處だつた。その時、後から叔父さんが周章てた顏で近寄つて來た。「おやおや、ここにゐたのか、一寸煙草買ひに行つた隙に消えてしまつて、隨分探したんだよ」と叔父さんは雄二を摑へて、「もう離さないぞ」と、抱へ上げた。

「あめ買つてやるから行かうな」と叔父さんは露店の菓子屋へ雄二を連れて行つた。そして、瓶に入つた仁丹のやうな菓子を買つて呉れた。

 棧敷へ戻ると、福岡のお祖母さんや、川崎の叔父や、雄二のよく知らない親類の人の顏なども見えた。雄二はまた一番前の手摺の處に行つて坐つた。廣場では今、騎兵が澤山旗を持つて並んでゐるところだつた。棒の先に附いた赤、靑、黃の旗が風にひらひら靡き、馬も人も美事によく揃つて動いた。遠くの棧敷で拍手が頻りに起り、樂隊が夢のやうに思へた。やがて數十頭の馬はパカパカと靜かな蹄の音を殘して退場した。それから今度は競馬が始まるらしかつた。雄二はまたすつかり活氣づいた。空にパツと花火が揚り、くるくると何か動いた。それに氣を奪られてゐるうちに馬は走り出した。ワーワーワーと棧敷の聲援が捲起つた。雄二の後に立つてゐた從兄は、棧敷の軒に手を掛けて、身を乘出して號んだ。馬の吐く息や、持運んで來る風や、鞍の鳴る響が、次々に目の前を飛去り、雄二のゐる棧敷も一緒に搖れながら走るやうな氣持だつた。競馬は次から次へ續いて、赤も白も紫も、勝つたり負けたりした。日が西の方へ傾いて、雄二の棧敷の前は、黃色い光が立並ぶ人の顏を染めてゐた。そこに立つてゐる人の顏を雄二が何氣なく見下してゐると、飴をしやぶつてゐた女の兒が雄二を見上げて、鼻に皺を寄せた。しかし雄二の注意はすぐ遠くへ走つた。今度はバタバタ自轉車(オートバイ)の競爭だつた。

 赤、黑、黃などのジヤケツを着た男が遠くに並んでゐた。やがてスタートが切られると、棧敷は遽かに騷しくなつた。物凄い唸りとともに雄二の前を走つて行く車上の人は、みんな凄い顏をしてゐた。オートバイは一回、二回、三回と、場内を廻つた。そのうちに煙を吐いて倒れてしまふ車もあつた。唸りのいい凄いのが二臺どちらも同じ速さで進んで行く。夕日にギラギラ輝いて、オートバイは死物狂であつた。たうとう一臺の方が少し勝つて、進み出した。五回目に入ると、距離がもつと大きくなつた。そして、先頭は決勝點に入つてしまつた。ポンと花火が揚り、雄二は吻とした。

 何時の間にか場内は薄暗くなり、もう棧敷を離れて歸つて行く人ばかりだつた。雄二はぐつたりして、棧敷の上に寢轉んでみた。すると、空の方には星がちらちら輝いてゐるのだつた。大吉や貴麿はさきに歸つてしまつた。雄二は母と菊子と、他所の小母さんと四人で歸つて行つた。露店はアセチレン瓦斯が點されてゐて、路次は埃と闇だつた。提灯を持つた人がぞろぞろと通つた。雄二の母も提灯を提げて、雄二の手を引いて歩いてゐた。「もう蜜柑が出たさうな」と、母は一軒の露店の前で立留まつた。そして葉の着いた靑蜜柑を買つた。その隣に燒栗屋があつて、火の子がパチパチと闇に跳ねてゐた。急に、ドスーン……と大きな響がした。頭上の空にパツと花火が擴つて、赤い火の玉が賑やかに亂れ落ちて來た。「まあ綺麗」と菊子は見上げながら晴々と呟いた。――明日もまだ招魂祭なのだ。

 

[やぶちゃん注:「お夏」「雄二」の家の子守り女中であるらしい。

「しひしひどんぐり」これはこれで一語で、食用にするブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の椎の実を指しているものと思われる。私も大好きである。最近はあれが食べられるということさえ知らぬ人々が沢山いる。何とも哀しい気が私はするのである。

「山姥」「やまうば」或いは「やまんば」と訓ずる(「やまおんな」という読みもあるが、私は一度もそう読んだことはないので採らない。個人的には「やまんば」で読む)。伝説や昔話で一般には奥山に棲んでいるとされる女怪で、背が高く、髪が長く、口は大きく、目は光って鋭いなど、醜怪な老婆として造形されることが多い。

「吻として」ここは既出既注の「ふん」ではなく、文脈から「ほつとして(ほっとして)」と当て読みしているように思われる。

「いきれ」「熱れ」「熅れ」熱気。ほてり。

「外へ出ると、雄二は權現さんの方角が氣にかかつた。あそこには、お仁王さんや、唐獅子や白い石の鳥居や松などがあつて、山姥が隱れてゐさうな藪もある。しかし、今權現さんは見えないし、山に日があたつてゐて、街は明るかつた」諸条件を考慮すると民喜の幟町の実家から午前中に出た少年が見上げ得る「山」で、「權現」「仁王」「唐獅子」「白い石の鳥居」「松」「藪」となると、多くの寺社仏閣が存在し、「權現」さん、即ち、東照宮があるとなると、幟町の東北一・二キロメートルにある東照宮(JR広島駅北側の二葉山中腹に当たる現在の広島市東区二葉の里)か。

「笹を積んだ車が笹の音させながらやつて來ると、雄二は權現さんの笹かとびつくりする」今の今まで「權現」のことを夢想し、そこの「山姥が隱れてゐさうな藪」のことを考えていた「雄二」にしてみれば、「藪」「笹」「山姥」と連想が直列で働き、山積みの「笹」、その中には実は「山姥」が潜んでいるのではないか、「とびつくりする」のであろう。

「お供賣」「おそなへうり(おそなえうり)」。

「三人の影が日南の路に映つている。日南はゆらゆら夢のやうに動く」「日南」は何と読むのか。意味も判らず(南方向から射す暖かな陽光?)「ひなみ」と訓じようとしたが、この訓読例が思いの外、ない。しかも辞書類に当たっても見出し語としては出て来ない。されば、この二つの描写から考え得る自然な読み方は、最早、「ひなた」しかないのではないか? 「飯田蛇笏 靈芝 明治四十年(十句)」の「雷やみし合歡の日南の旅人かな」の私の注を参照されたい。

「銅像」「の兵隊は喇叭を口にあてて、高い石段の上にゐる」恐らくは戦前・戦中の小学校の修身教科書にあった「シンデモ ラツパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」で知られる日清戦争で戦死した日本陸軍兵士で喇叭手であった木口小平(きぐちこへい 明治五(一八七二)年~明治二七(一八九四)年)のそれと思われる。彼は岡山県川上郡成羽町新山(後の高梁市)の農家の長男として生まれであるが、明治二五(一八九二)年十二月に広島歩兵第二十一連隊に入営、歩兵二等卒となり、明治二七(一八九四)年六月に日清戦争に歩兵第二十一連隊第三大隊第十二中隊の喇叭手として従軍、同年七月の「成歓の戦い」(「成歓」は「せいかん/ソンファン」で朝鮮半島忠清道成歓付近)の最中、同月二十九日に敵弾を受けて戦死した。所属連隊の関係から、現在の広島県広島市南区の比治山公園にある旧陸軍の比治山陸軍墓地にある日清戦争合同碑には、「木口小平」の名が刻まれてある。戦没時は未だ満二十一歳であった(以上はウィキの「木口小平」他に拠った)。

「雄二の妹」民喜には妹が二人いるが、五女の恭子は大正元(一九一一)年生まれで民喜は既に七歳になってしまっているから、これは明治四三(一九一〇)年生まれの四女千鶴子(民喜とは五つ違い)がモデルであろう。

「毮つて」「むしつて(むしって)」。

「その知らない女の人はお夏の方振向いて」「お夏の方振向いて」はママ。「お夏の方へ振向いて」か「お夏の方を振向いて」の脱字であろう。

「小學校」不詳であるが、「雄二」は直ぐに家に帰りたくなっており、この直後にモデルである幟町の実家に帰っているから、現在も同町内にある、当時の広島市立幟町尋常小学校ではないかと思われる。因みに、この小学校には、後に広島平和記念公園内に建立された、かの「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんが在籍することとなる小学校である。

「お寺はすぐ雄二の家の近くにある」民喜の生家の一部は現在の「広島世界平和記念聖堂」の敷地内に含まれるという情報を得たので、さらに調べてみると、現在の幟町カトリック教会(広島市中区幟町四丁目一)の『世界平和記念聖堂の南の方角』(ブログ「団塊の世代一代記(Akimasa Net)」の「原民喜(はら・たみき)」より引用)とある。そこで地図上で同聖堂の南直近の寺院を調べると、「正光寺(しょうこうじ)」という寺院を南南西七十メートル位置に現認出来る(幟町八丁目)。しかもこの寺は浄土真宗本願寺派であるから、法話を拝聴する老婆が念仏を唱えるのと、上手く合致する。

「難しさう」「むつかしさう」(むつかしそう)」(或いは「むづかし」)でもよいが、ここは「くるしさう(くるしそう)」の当て読みをした方が朗読にはよい。

「一人の漁夫(れふし)が海へ行きました。……」知られた蓮如の「御文章」には「獵漁(りよう・すなどり)」の一章がある。

   *

 まづ當流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、獵・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業(ざいがふ)にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします彌陀如來の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、彌陀一佛の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如來の御たすけにあづかるものなり。

 このうへには、なにとこころえて念佛申すべきぞなれば、往生はいまの信力(しんりき)によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念佛申すべきなり。これを當流の安心決定(けつじやう)したる信心の行者とは申すべきなり。あなかしこ、あなかしこ。

   *

がある。これを元にした喩え話であろうか。

「安田」「雄二」家の使用であるらしい。

「S橋」「S橋の向ふが權現さん」私が先に推定した「權現」東照宮方面に幟町からなるべく直行して向かった場合、京橋川が猿猴川に左岸で分岐する直前の橋を渡りのが近道である。この橋の名は「栄橋」である。

「はりまはしてやりませう」「はりまはす(はりまわす)」は「撲り回す」とも書き、「ところ構わず殴る」の意。ここは相手は少女だからさんざんどついてやりましょう、というのであろう。

「逸散に」「いつさんに(いっさんに)」。「一散に」が普通の表記。一目散に、脇き目も振らずがむしゃらに(走る・逃げる)の意の副詞。

「尋常二年生の伯母さん」「雄二」の「福岡」にいる「伯母」に当たる婦人が「尋常二年生」(七歳)というのはあり得ないことである。ここから既にこの日の白昼夢は始まっている。栗が実在化していて、次のシークエンスでそれを食っているというのが面白い。

「ぞよめき」沢山の人々の声などが騒がしく聞こえること。また、その声。「ざわめき」に同じい。

「搔繰獨樂」「かいぐりごま」と読ませているか、或いは後述するようにこれで「ばいごま」又は「べえごま」と当て読みしているのかも知れない。「搔い繰る(かいぐる)」とは、原義は左右の手を交互に用いて糸や綱などを手繰り寄せる動きを指すが、ベーゴマに紐を巻いて振り出すという一連のその動きは「かいぐる」という動詞に似ている。しかも「かいぐる」の「かい」は「貝」かも知れず、平安の古えに始まったそれは、元来は巻貝の「ばい」(腹足綱吸腔目バイ科バイ属 Babylonia(或いはバイ Babylonia japonica))の死貝の貝殻に砂や粘土を詰め、紐で回したのを始まりとするとされ、ウィキの「ベーゴマによれば、『関西から関東に伝わった際に「バイゴマ」が訛って「ベーゴマ」となった。後に鋳鉄製のものに取って代わられた。形は比較的浅い円錐形で、底にも上面にも軸が飛び出していないことが多い。特に上面はほぼ平らである。底側には、貝を思わせる螺旋の盛り上がった模様が着いている。また、周囲は角張っているものがある』とある。

「ヒヤ(花火)」「火箭(ひや)」或いは「火矢」であろう。

「跛」「びつこ」。

「石菓子」恐らく、砂糖と寒天で作った石に似せた砂糖菓子であろう。

「雄二は吻として遠くの紫を眺めた」雄二は「白」が一着と思っていた予想が外れてしまうのであるから、ここの「吻」は文字通りの、不満の「ふん」で読むべきである。

「別當」「べつたう(べっとう)」。馬の飼育係。馬丁(ばてい)。中古の、院司・家司(けいし)・国司などの下にあった「厩(うまや)の別当」(常用馬の飼育調教の長官職)から転じた語。

「氣を奪られてゐるうちに」「奪られて」は「とられて」と訓じていよう。

「號んだ」「さけんだ」。

「ジヤケツ」ジャケット(jacket)。

「雄二は吻とした」ここは轟音と物凄さが止んだので、「ほつとした(ほっとした)」と訓じたい。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 紀み井寺着(本文のみ) 芭蕉

本日  2016年 4月29日

     貞享5年 3月29日

はグレゴリオ暦で

    1688年 4月29日

 

   紀み井寺

 

跪(ひざ)はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しを思ひ、馬を驅(か)る時は、いきまきし聖(ひじり)の事、心に浮ぶ。山野、海濱の美景に造化の工(たくみ)を見、あるは無依(むえ)の道者(だうじや)の跡を慕ひ、風情(ふぜい)の人の實(じつ)を窺ふ。猶、栖(すみか)を去つて器物の願ひなし。空手(むなで)なれば途中の憂ひも無し。寛歩(くわんぽ)、駕(が)に換へ、晩食、肉よりも甘(あま)し。泊るべき道に限り無く、立つべき朝(あした)に時無し。唯だ一日の願ひ、二つのみ。今宵、好き宿、借らん、草鞋(わらぢ)の我(わが)足に宜しきを求めんとばかりは、聊かの思ひなり。時時(じじ)、氣を轉じ、日々に情(じやう)を溫(あたた)む。若し僅かに風雅ある人に出あひたる、喜び限り無し。日頃は古めかしく頑ななりと、憎み捨てたる程の人も、邊土の道連れに語り合ひ、埴生(はにふ)、葎(むぐら)の中(うち)にて見出したるなど、瓦石(ぐわせき)のう中(うち)に玉を拾ひ、泥中に黃金(こがね)を得たる心地して、物にも書き付け、人にも語らんと思ふぞ又、是れ、旅の一つなりかし。

 

「笈の小文」。句はない。「紀み井寺」は「紀三井寺(きみいでら)」で、現在の和歌山県和歌山市紀三井寺にある救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)総本山。正式名は「紀三井山(きみいさん)金剛宝寺護国院と称する。但し、勘違いしてはいけないのは、これは同寺で詠んだ句をこの後に載せることを企図した前書であって(句は現存しない)、以下の文章は実は紀三井寺とは関係がない。但し、この三月二十九日に同寺を参詣しているものとは推定され、以下の文章もその日辺りに書したものという意識で配されてはあるのである。

・「跪(ひざ)」諸本「踵(きびす)」(とすれば「かかと」)と書き換えるのが圧倒的である。「やぶれ」るのは肉体としてのその箇所であるから、「踵」がよいようには思われる。

・「天龍の渡しを思ひ」西行の生涯を多数の歌をまじえて記した鎌倉時代の作者未詳の「西行物語」などで知られる逸話。西行が天龍川の渡しで船に乗った際、満席で危ないと船頭が西行に降りろと命じ、無視した西行は頭を鞭で打たれて下ろされたが、西行はこれも修行の内と思うて平静としていた、という故事を踏まえる。この話は既に阿仏尼の「十六夜日記」(群書類従版)に割注附きで、

   *

 廿三日、天りうのわたりといふ。舟にのるに、西行がむかしもおもひいでられていと心ぼそし〔「西行法師繪詞」云、「東のかたざまへ行ほどに、遠江國天龍のわたりにまかりつきて舟にのりたれば、「所なし。おりよ。」と鞭をもちてうつほどに、かしらわれてちながれてなん、西行うちわらひて、うれふる色もみえておりけるを」〕

   *

と記されており、事実如何は別として、早い時期から知られて信じられていた西行伝説の一つであることが判る。

・「馬を驅(か)る時は、いきまきし聖(ひじり)の事、心に浮ぶ」「驅る」は諸本は「借る」とする。以下の故事を考えると、確かに走らせる時にではなく、借りようと思うた折りにはの方が穏やかで自然ではある。これは「徒然草」の以下の第百六段の話に基づく。

   *

 高野の証空上人、京へ上りけるに、細道にて、馬(むま)に乘りたる女の、行きあひたりけるが、口(くち)引きける男、あしく引きて、聖(ひじり)の馬を堀へおし落してけり。聖、いと腹惡(はらあ)しくとがめて、「こは希有(けう)の狼藉(らうぜき)かな。四部(しぶ)の弟子はよな、比丘(びく)よりは比丘尼(びくに)に劣り、比丘尼より優婆塞(うばそく)は劣り、優婆塞より優婆夷(うばい)は劣れり。かくのごとくの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴いれさする、未曾有(みぞう)の惡行なり」と言はれければ、口引きの男、「いかにおほせらるるやらん、えこそ聞きしらね」といふに、上人、なほいきまきて、「なにといふぞ、非修非學(ひしゆひがく)の男」とあららかに言ひて、極まりなき放言(ほうげん)しつと思ひける氣色にて、馬ひき返して逃げられにけり。尊かりけるいさかひなるべし。

   *

以上の引用文中の注。「証空上人」は伝未詳。「四部の弟子」以下に出る仏弟子の四種の区別。「比丘」出家して具足戒を受けた男性僧。「比丘尼」同前の儀を受けた尼僧。「優婆塞」俗人の中で五戒を受けて仏門に帰した男性在家信者。「優婆夷」同前の女性信者。「極まりなき放言しつと思ひける氣色」がポイントで、はっと、自身こそがが無智蒙昧(「非修非學」)なる貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)に他ならぬ三毒を口にしてしまったことに気づいたからこそ、そそくさと「馬ひき返して逃げ」てしまったのである。「尊かりけるいさかひ」の仏法の理(ことわり)に叶のうた、まことの勝者とは実は「口引きの男」であったという訳である。

・「無依(むえ)の道者(だうじや)」あらゆる依るところの対象を無くした、即ち、執着を捨て去った古えの仏道の修行者。限定した特定の人物を指しているのではない。

・「風情(ふぜい)の人の實(じつ)を窺ふ」まことの風雅を愛する人のその心の核心を少しでも垣間見んと努める。

・「空手(むなで)」諸本「くうしゆ」と音読みするが、この「むなで」の訓は、よい。無一物の意。

・「寛歩(くわんぽ)、駕(が)に換へ」物見遊山の常套たる楽な駕籠に乗るのに換えて(乗らずに)、ゆっくりゆったりと徒歩(かち)の旅をして(行くと)。

・「晩食、肉よりも甘(あま)し」(すっかり健康に腹も減って)食う宿の晩飯は粗食であっても、美味高価なる魚肉のそれよりも甘く美味い。前とこれは西晋の学者皇甫謐(こうほひつ)の「高士伝」の中の「晩食以當肉、安步以當車」に基づく謂いである。

・「泊るべき道に限り無く」一日に歩いてもここまでだといった限りなんどは設けることなく。

・「聊かの思ひ」ささやかな唯一の思い。

・「時時、氣を轉じ、日々に情(じやう)を溫(あたた)む」その時その時に自在に応じ、気の向くまま風の向くまま、好き勝手に歩き廻り、その日その日に偶然に出逢った対象から受けた、鮮やかな情趣情感の温もりを味わう。

・「邊土」片田舎。

・「埴生(はにふ)」貧しい小屋。

2016/04/28

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 「鳳仙花」

[やぶちゃん注:以下の「鳳仙花」(はうせんくわ(ほうせんか))は昭和一二(一九四七)年十一月号『三田文学』を初出とする。当時、民喜満三十二或いは三十一歳(彼は明治三八(一九〇五)十一月十五日生まれであるからである)。]

 

 

 鳳仙花

 

 勢子の家へ行くと、雄二はすぐ彼女を泣かして逃げた。自分よりも小さい、それも女の子がゐるのが珍しくて、泣かしても泣かしてもすぐまた行つてみたくなる。勢子は行李の底に座布團を敷かれて、そのなかに紙風船入れてゐて、船に乘つてゐるやうだ。その脇の戸棚の上には博多人形や鹿の人形や麥藁細工の綺麗な小函が飾つてあり、置時計がチクタク鳴つてゐる。大概、勢子はひとりでおとなしく遊んでゐるのだが、雄二の姿が側に近寄ると、急に白いひからびたやうな顏になる。雄二は行李の舷に掌を掛けて、勢子の顏をのぞき込む。勢子は眼で頻りに雄二の掌が行李の緣にあるのを嫌つてゐる。勢子の涎掛はよぢれて歪んでゐる。雄二はそれをまつすぐに直してやらうとする。と、勢子は待構へてゐたやうにワーと大聲を放つ。雄二は手を引込めて、ふと後に坐つてゐる婆さんの方を振向く。婆さんは口をあけて叱りはしないのだが、雄二のすることを何時も見張りしてゐる。婆さんの眼と行きあたると雄二は困つてしまふ。婆さんは黃色な眼をしてゐて、勢子はまだ火のやうに泣き立つ。ふいと紫色の天井を見廻してゐると、雄二は家のうちが暗いのに段々氣づく。そこで遽かに往來の方へ飛出してしまふ。往來には恰度、豆賣の男が西の方へ過ぎて行くところだつた。何時も面白い節のある呼聲で通り過ぎて行くのに、今默つて行く後姿が雄二には一寸殘念だつた。雄二はぼんやり立留まつてゐたが、思ひ出したやうに小走りに走り出す。そして玄關へ來ると、閾のところへ腰を下して、また暫くぼんやりしてゐる。往來は明るいのに家へ這入ると暗い、――それだけのことがまだ雄二の頭にある。ふと次の間から柱時計の振子の音がひつそり聞えて來る。雄二はそつと隣の部屋へ這入つて行つた。すると緣側の方から母の笑顏と行きあたつた。母は雄二の顏を珍しさうに見てゐて、雄二はどうしたことかわからない。「ほら、ほら、鳶と鴉」さう云つて母は小さな爪のやうなものを疊の上に置く。「これは烏賊の口から出たのだよ」と母は眼を大きくする。黑い爪に似たものが二つ、よく見るとちよつと鳥に似てゐる。「どうして、これが鳶と鴉なの」と雄二は不思議さうに摑んでみる。「ええ、この尖つた嘴の方が鴉で、圓い嘴の方が鳶」「それでもどうしてこれが鳶なのかしら」「ほんとはね、これ烏賊の口なのです」しかし雄二は考へ出す。空を飛ぶ鳶や鴉が海に墮ちて死んで、烏賊に喰はれて、――そのためにこんなに小さな鳥の恰好になつたのかもしれない。「ぢやあ、これ綿のなかに入れておいたらほんとの鳶と鴉になるの」と雄二は奇妙なことを尋ね出す。母は面白さうに笑つて、「さあ、それはどうなるかしら」雄二は母が屹度さうなると云つてくれないので物足りない。が、もうすつかりなることに決めてしまつた。「ぢやあ綿を出して、綿を」

 綿を出してもらふと、雄二は二羽の鳥をそつと綿のなかに埋めて、前掛のポケットに收めておいた。もういくつ寢たら、鳶と鴉になるのだらう。今に鳶と鴉は雄二の家來になつて、何でもお使ひをしてくれるやうになる。しかし大吉には隱しておかないと、まだなりもしないうちに、見せろと云つて取上げてしまふ、そして、こんなものつまるかいと惡口云ふにちがひない。さうされては、もう鳶だつて鴉だつて腹を立てて、なりかけてゐてもあともどりしてしまふ。雄二はもう少しはなつたかしらと思つて、綿を明けてみた。氣の所爲か少し大きくなつてゐるやうだ。今になる、今になるぞ、――雄二は段々浮々して、たうとう部屋の中でくるくる舞をやり出す。鳶はくるくる廻つても眼をまはさない、眼をまはさない、――と鳶のつもりで廻つてゐるうちに、柱や壁がもう薄黑い一塊になつてしまつて、雄二はぱつたり疊の上に倒れてしまつた。すると、天井の上に壁が流れ、壁の上に柱が倒れ、障子や襖が入替つて走り、時々明るい庭の方の綠が現れて來る。早い、早い速度で疊や閾が廻る。まだ廻る、まだ廻る、と思つてゐるうちに、やがて、ふわりと止つてゐる。雄二は疊の上に落ちてゐる身體を起して立上る。

 雄二は玄關の方へ廻つて下駄を穿いた。それから何時の間にか勢子の家の玄關へ來てゐる。勢子はもう泣いてゐない。何だか靜かなので默つて這入つて行くのが氣まり惡い。雄二は態と大きな音をたてながら座敷の方を覗いてみる。すると、緣側で勢子は母の懷で乳を飮んでゐるのだ。雄二は急に大人らしく威張つた顏になり、勢子の側へ歩いて行く。母の乳房を含んでゐる勢子は落着拂つて、もう雄二を怕がらうとしない。指で片方の乳房を持ちながら、橫目で雄二を眺めたりする。婆さんは部屋の隅で壁の方へ向きながら洗濯物を疊んでゐる。雄二は勢子の母に鳶と鴉みせてやらうかしらと思ひながら、つい勢子の有樣に見とれてしまふ。乳が足りて、氣持よくなつたらしい勢子の眼は生々して來る。「さあ、もうおしまひにして、雄二さんと遊びなさい」と勢子の母は彼女を行李の底へ入れた。勢子はいい機嫌をしてゐる。母は安心して臺所の方へ行つてしまふ。すると初めて微かに勢子の顏に淋しさうな氣配が動く。雄二はポケットから綿を取出して勢子の眼の前に突出す。「そら、そら、鳶と鴉だぞ」勢子ははじめ喫驚したやうな顏で、それからちよつと笑つたかと思ふと、掌を出して綿を摑んでしまつた。「いけない、離せ」雄二は勢子が無茶をして鳶と鴉を潰してしまひさうなので氣が氣でない。しかし勢子は強情に握締めてゐる。雄二は勢子の掌を無理に捩ぢあけてしまふ。綿を奪ひ返したかと思ふと、その時にはもう勢子の泣聲であつた。あんまり烈しい泣き方なので、勢子の母がやつて來る。「まあ、まあ、どうしたのです」は驚ゐてゐる。雄二は譯を話さうと思つても、勢子の泣聲で云えない。「ほんとにほんとに雄二さんは惡い子ね」と勢子の母は泣喚く勢子に對つてきかせてゐる。雄二は急に腹が立つ。「勢子の馬鹿、馬鹿」と云ひ捨てて、逃出してしまふ。

 夜通し雨が降續いた翌朝だつた。雄二がまだ蚊帳のなかに寢てゐると、玄關の方で頻りに賑やかさうな人の聲などがしてふと目が覺めたのだつた。その時蚊帳の外で姉の菊子が、「早く起きておいで、田森の爺さんが大きな鯉を三匹獲つて來たのだから」と大聲で云つた。雄二は喫驚して、起上つたが、また目がよく覺めきらなくて、足もとがふらついた。寢間着のまま、目をパチパチさせながら玄關の方へ行くと、大きな盥を取圍んで、父も母も兄弟もみんなの顏があつた。少し離れた柱のところで田森の爺さんは着物の裾を端折つたまま手拭で頭を撫でながら、キセルを弄つてゐた。盥の中の三匹の黑い鯉は皆がガヤガヤ覗き込むので、水のなかを逃惑つた。逃げるたびに水に脈がついて、盥に映つてゐる大吉の着物が搖れた。三匹の鯉は一ところに集まつて、鰓を動かせたり、短い口鬚のある口を開いてゐた。大吉が面白がつて水の面を突くと鯉は大吉の指を怕がつた。

 雄二はすつかり目が覺めてしまつた。盥の底にゐる鯉はどうしてこんなところへ入れられてしまつたのか、わからないやうな顏つきだ。薄暗がりの水のなかに金色の眼球が光つてゐた。「手で摑んで獲つたの」と雄二は爺さんに尋ねてみた。爺さんはもう何度も皆からそれを尋ねられたらしく、ニコニコ笑つた。それから大袈裟に手を擴げて、手拭をぴんと兩手で引張ると、「これでかうやつて、かうしてつかまへたのですよ」と空中でその眞似をしてみせてくれた。すると菊子はをかしさうに聲をたてて笑つた。――今朝、雄二がまだよく睡つてゐる時、田森の爺さんは薄暗い往來へ散歩に出た。すると道路に添つた深い溝が昨夜の雨で一杯になつて、路ばたに溢れごんごんと音をたてて勢よく流れてゐたが、そのなかに四五匹の鯉が面白さうに鬼ごつこやりながら走つて來た。そこで爺さんは電信柱の陰に隱れてゐて、走つて來たところを手拭でくるりと卷きつけては懷へねぢこみ、ねぢこみしては三匹つかまへたといふのである。

「それではそろそろ池へ放してやりませうか」と爺さんは盥を抱へて庭の方へ廻ると、皆も後からぞろぞろ從いて行つた。爺さんは盥を池の飛石の上におろすと、もう一度盥の中の鯉を眺めて、「さあ、これからはお前達もここで仲よく暮すのだぞ」と鯉に對つて話しかけた。それから盥を傾けて、水ごと池の中に流し込んだ。池の靑い水が渦卷いて、もう三匹の鯉の姿は見えなくなつた。暫くして、大吉が、「やあ、あそこに居ら」と羊齒の影の映つてゐるあたりを指差した。たつた今放たれたばかりの黑鯉が一匹、靜かにそこに潛んでゐるのだつた。そこへ大きな緋鯉を先頭に、七八匹の緋鯉と緋鮒が走つて行くと、その黑鯉は喫驚したやうに逃げ出した。すると先頭の緋鯉は何でもなささうな顏で、くるりと向を變へて進んで行き池のまんなか邊に浮いて上ると、パクリを口をあけて水の上の木の葉を呑まうとした。その時、爺さんが盥を提げて立上がつたので、大きな緋鯉は急にぽしやつと音をたてて底の方へ潛り込んだ。後につづいてゐた鯉も周章ててちりぢりになつた。暫くして雄二が甕の方を眺めると、緋鯉はそこからまたそろそろ出掛けようとしてゐた。一番大きな緋鯉は甕の口から頭を出したり引込めたりして、ぐづぐづしてゐたが、中位の緋鯉が思ひきつて出て來ると、後から後からみんな飛出してしまつた。そして、先頭の緋鯉は先頭になつたのが嬉しいのか、大變急いで走り出し、池を一まはりすると、すぐに甕のところへ戻つてしまつた。甕のあるところは特に深いので、水が靑々と層をなしてゐたが、水の面には松の梢がさかしまに映り、梢の方を流れて行く雲も動いて、雄二が何時までも眺めてゐると、池もまた動いて行くやうに思へた。雄二は黑い鯉が何處に隱れてゐるのか氣にかかつた。早く出て來て皆と一緒になれと待ちつづけた。ふと氣がつくと、庭にはもう誰も居なかつた。雄二はもう一度甕の方を眺め、それからとつとと走つて家の奧へ行つた。

 その次の朝もまた早くから大變なことがあつた。雄二は母が起きたのと同時に目を覺ましたが、池の方へ行つてみたいので、母にねだつて背に負はれた。庭はまだ仄白い靄に鎖されてゐた。母は何氣なしに薄暗い池の面を眺めてゐたが、五六匹の緋鯉が浮いたまま動かないのに氣づいた。雄二も母の背中から覗き込むと、緋鯉は腹をかへしてゐて大きく見えた。二人は早速まだ雨戸の立ててある薄暗い家の奧へ引返した。「鯉が死にかけてるよ」と雄二は父の枕頭で何度も云つた。父は目をぼんやり開いて少し笑つてゐるやうな顏をしてゐた。「鯉が腹をかへしてるよ」と雄二はまた云つた。始めて父は氣がついたやうに寢卷の袖からぎゆつと兩腕を突出した。それから父はすつと立上つて庭の方へ歩いて行つた。雄二が後から從いて行くと、父は池の面をぢつと視凝めてゐた。「六匹やられてるな」と父は呟いた。

 間もなくそこへ安田といふ若衆がバケツと盥を持つてやつて來た。安田は池の側の井戸から水を汲んで、六匹の鯉を盥に移した。すると母が唐辛を持つて來て、盥の中に撒いた。しかし、緋鯉は腹を反したまま水に浮んで、手で突かれても動かなかつた。「これは爪の跡があるから鼬鼠にやられたのでせう」と安田は一匹の鯉を父の方へ差出した。「うん、とにかく、水を換えてやらう」と父はまだ生殘つてゐる鯉の方を氣遣つた。安田と父とはバケツで池の水をどしどし土の上へ汲出した。そこへ、貴麿を大吉と淸子と菊子とがどかどかやつて來て、盥の中を覗き込んだ。腹を上にして浮いてゐる緋鯉を取圍んで、皆はいろんなことを云つた。「もうどうしても生返らないのかしら」と菊子は安田に尋ねた。「まあ、鼬鼠にやられたのだつたら駄目でせう」「いたちつて何だい」と大吉は不審がつた。「いたちがわからないのか、まねしまんざいる、いたちに負はれて、藪の中ごそごそ」と雄二は唄つた。「ハハハ」と默つてバケツで水を換へてゐた父が、急に噴き出した。雄二は却つて喫驚した。

 夕方になると、父と安田とは池のまはりに鼬鼠のおどしを作つた。松の枝に瓢簞を吊したり、築山の岩の上に石で造つた大きな蝦蟇を据ゑたり、鮑の貝殼を樹の根方に置いた。庭には恰度夕日が白く射してゐて、鋸のやうな格好をした木の葉など暑さうであつたが、石の蝦蟇はもう池を見張りしてゐるやうな樣子だつた。「これが夜になるとみものですよ」と安田は云つた。夜になると雄二はひとりで庭の方へ行つてみた。闇のなかに蹲つてゐる蝦蟇は見えなかつたが、松の枝に懸つてゐる瓢簞は仄白くてふはりと動きさうな氣がした。鮑の貝殼が幽かに靑く光つてゐた。雄二は何だか怕くなつて、走つて戻つた。「鮑が光つてるよ」と雄二は大吉を誘つた。そして二人はまた庭の方へ行つた。大吉は默つて庭の闇を見てゐたが、急に「そら幽靈」と叫んで一人でとつとと逃げ出した。

 翌朝、池の鯉はみんな無事だつた。瓢簞も蝦蟇も雄二が昨夜見た時とは變つてゐて、今は目が覺めたやうにはつきりしてゐた。朝食が濟むと、菊子は小さな甕を持出して、臺所の裏にある花壇の方へ行つて、キリコ(蟋蟀)を採つてゐた。菊子は甕に入れてキリコを飼つてみるつもりだつた。雄二も大吉もそれを手傳つてゐた。「伯母さん、伯母さん」と勢子の兄は洗濯をしてゐるところへ來て大聲で云つた。「勢子が今、ひきつけて白い眼してゐますよ」母は洗濯の手をやめて立上つた。菊子も勢子の兄の言葉に喫驚して、もう遊びを止めてしまつた。母は勢子の兄と一緒に出かけて行つた。菊子は甕をうつちやらかして、心配さうに溜息をついた。そして家の方へ這入つてしまつた。菊子がうつちやらかして行つた甕からは、折角採つたキリコが跳ね出して鳳仙花の根元の方へ逃げて行つた。大吉は逃げて行くキリコを掌で捉へやうとした。雄二もそれを手傳つたがなかなかうまく採れなかつた。大吉は躍起になつて雄二を叱つた。雄二はつまんなくなつて家の方へ引返した。すると、家には母も菊子も留守だつた。ほかの皆もどこかへ行つてゐて、今、家のうちはしーんとしてゐた。

 雄二はもう大分永い間、勢子の家へ行かなかつた。勢子は加減が惡くて寢てゐるのだから行つてはいけません、と云ひきかされてゐた。それで自然に勢子のことは忘れてゐた。しかし今、大變なことがおこつてゐるのがわかつた。雄二は誰もゐない家のうちが遽かに淋しく耐へがたくなつた。早く母が歸つてくれればいいと思つた。家のうちは次第に暗くなるやうな氣がした。壁に貼つてある戰爭の繪の鬚を生して軍刀をつつさげてゐる軍人が、不意にワーと叫びさうな氣もした。しかし間もなく母と菊子は連れだつて歸つて來た。菊子はもう普通の顏をしてゐて、歸つて來るとすぐにオルガンを彈き出した。それで雄二もまた裏の方へ行つて大吉と遊んだ。

 晝間一日遊び、夕方の風呂が濟むと、雄二は上の姉の淸子に糊著の浴衣を着せられた、何時もの癖で、ピンと張つた浴衣の肩を雄二は手で揉んでやはらげながら、晝間キリコを採つた裏の畑の方へ行つた。そこにはさきに風呂から上つた菊子や大吉がゐた。夕映のなかをかなぶんぶん飛んでゐて、臺所の軒には一かたまりの蚊の聲が縺れてゐた。ふと向の薄暗い納屋の角から母の姿が現れた。母は薄闇のなかで頻りに菊子の名を呼んだ。菊子が返事して走行くと「早く行つて勢子さんの顏みておきなさい、もう駄目らしいのです」と小聲で云つてゐるのが雄二にも聞えた。菊子と母は一緒に出掛けてしまつた。しかし二人はすぐに歸つて來て、それから間もなく夕食が始まつた。

 食事が終りかけた頃、勢子の兄がやつて來た。「伯母さん、勢子は今、死にましたよ」と彼は暗いところに立つたまま云つた。母も淸子も菊子も貴麿も皆驚いたやうな顏ですぐに出て行つた。雄二と大吉と父とは取殘された。父は食卓からランプを茶棚の上に移すと、ランプの蕊を出して明るくした。雄二は何かなし怕くて、父の顏を眺めた。「小さいものは行くのぢやない、すぐにお母さんは歸つて來るよ」と父は云つて雄二を膝に抱へた。

 勢子の葬式は翌日の夕方だつた。菊子は昨夜歸つて來てからも、「可哀相に」と云つて泣いてゐた。「生きてる時とそつくりの顏で、小さな手組み合はせてるの」と菊子は切なさうな顏で話した。「勢子さんはもう居ない」と母は何氣なく雄二に話した。雄二は不思議に自分がとがめられてゐるやうな氣持だつた。

 勢子の家の門には四時頃から葬式屋が屯して居た。雄二は自分の家の前の電信柱に縋つて、その方を眺めてゐた。黑い法被を着た人夫は氣の荒らさうな顏をして路に立つて居た。黃色い上下を着た近所の人の顏もちらついた。槍のやうなものの先に龍の首があつた。黑い重箱のやうなものや、蓮の葉を抱へてゐる人夫もゐた。それらの人々が勢子を連れて行かうとしてゐるのだ。勢子はもう生きては居ないから、今は雄二よりも強くなつてゐた。西の空の方に銀で緣どられた薄墨色の雲が大きく擴つて居て、今にも恐しいことが始まりさうだつた。そのうちにいよいよ整列が終つて、先頭の方が進み出した。すると自轉車で雄二の眼の前までやつて來た洋服の人がひらりと飛降りて、雄二のすぐ側に立留まつて見物し出した。行列はのろのろと進み、遠くに小さくなつてからも、なかなか消えなかつた。雄二はまだ暫くぼんやりと往來を見て居た。今、大きな地響をたてながら赤い郵便車が走つて來た。それを牽いて走つてゐる男は夢中で勇しさうに飛んで行くのだつた。その車は葬式とは反對の方角に忽ち消えて行つた。雄二はまだ電信柱のところに立つて居た。突然、四五軒向の家の屋根の上で稻妻が光つた。次いで、バリバリと空を裂くような響がした。眞黑な雨の塊りが一どきに往來を襲つて來た。今は烈しい雨の音ばかりであつた。その雨のなかでまた稻妻が光つた。「憶えておけ!」といふ聲が耳にきこえるやうだつた。

 

[やぶちゃん注:「鳳仙花」フウロソウ目ツリフネソウ科ツリフネソウ属ホウセンカ Impatiens balsamina 。因みに執筆時の民喜がそれを意識していたかは別として、ウィキの「ホウセンカによれば、『触れるとはじける果実は非常に目を引く特徴である。花言葉の「私に触れないで」もそれに由来する』とある。さて、どうであろう。

「勢子」不詳。

「舷」「ふなばた」。「行李」を小舟に譬えた。

「遽かに」「にはかに(にわかに)」。

『「ほら、ほら、鳶と鴉」さう云つて母は小さな爪のやうなものを疊の上に置く。「これは烏賊の口から出たのだよ」と母は眼を大きくする。黑い爪に似たものが二つ、よく見るとちよつと鳥に似てゐる』通称、「からすとんび(烏鳶)」と呼称するところの、軟体動物門頭足綱鞘形亜綱 Coleoideaの八腕形上目 Octopodiformes の八腕(タコ)目 Octopoda のタコ及び十腕形上目 Decapodiformes のイカの顎及び顎板部或いはその周囲の筋肉や口球の部分、更にはそれを加工した食材を総称する俗称。ウィキの「カラストンビによれば、『口を前後から閉める位置に』一対存在し、『それぞれ「上顎板」と「下顎板」と呼ばれる。外から見える部分は黒色であるが、奥へ行くにしたがって色が薄くなる。キチン質からなる硬い組織である。この顎板自体は食用に適さないため、カラストンビという名称で売られている加工食品は、顎板を取り除いて周囲の肉のみ食べるか、すでに取り除いて肉のみとなっているかである。ただし、一部の製品によっては製造工程や加工方法を工夫すると顎板自体が煎餅のようにパリパリになることから、その歯ごたえに注目した製品も売られている』とある。

「勢子の泣聲で云えない」「云え」はママ。

「田森の爺さん」不詳。

「弄つてゐた」「いぢくつてゐた(いじくっていた)」。

「周章てて」「あはてて(あわてて)」(慌てて)。

「唐辛」「たうがらし(とうがらし)」。

「鼬鼠」「いたち」。哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属ニホンイタチ Mustela itatsi 

「まねしまんざいる」不詳だが、西日本のおちゃられける人を罵倒する言葉に、「真似し、万歳、田舎の乞食」という語を見出した。イタチが化ける(人に二似たものに変化する)と関係する語か?

「キリコ(蟋蟀)」直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科 Grylloidea 類ののコオロギ類の異名としては、「日本国語大辞典」で「きりご」を確認出来る。古くは。江戸後期、安永四(一七七五)年刊の方言辞書の越谷吾山 (こしがやござん)著の「物類称呼」に出るとし、兵庫県・岡山県・鳥取県・広島県・愛媛県・島根県などを採集例として掲げるので、同定上の問題はない。

かなぶんぶん」狭義には鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科ハナムグリ亜科カナブン族カナブン亜族:カナブン属カナブン亜属カナブン Rhomborrhina japonica (緑色と銅色の個体がよく見られる)を指すが、一般人はコガネムシ科Scarabaeidae 全般、特に金属光沢のあるものをひっくるめてこう呼ぶから(ここまではウィキの「カナブン」に拠る)、コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ Mimela splendens (成虫の体色は時に赤紫の混ざった光沢の強い緑色・赤紫色・黒紫色のものもある。ここはウィキの「コガネムシ」に拠る)などのコガネムシ類全般としておくのが無難であろう。

「蕊」はママ。これは花の「しべ」の意であるから、厳密には「芯」が正しい。

「屯して」「たむろして」。]

閑吟集より(千葉の旅の途次に)

 
 

誰(た)が袖ふれし梅が香(か)ぞ 春に問はばや 物言ふ月に逢ひたやなう

   *

 
老(おい)をな隔てそ垣穗の梅 さてこそ花の情(なさけ)知れ 花に三春の約(やく)あり 人に一夜(ひとよ)を馴れそめて 後(のち)いかならんうちつけに 心空(そら)に楢柴(しば)の 馴れは增さらで 戀の增さらん悔やしさよ
 
   *
 
それを誰(た)が問へばなう よしなの問はず語(がた)りや
 
   *
 
年々(としどし)に人こそ舊(ふ)りてなき世なれ 色も香も變らぬ宿の花盛り 誰(たれ)見はやさんとばかりに まためぐり來て小車(をぐるま)の 我とうき世に有明の 盡きぬや恨みなるらん よしそれとても春の夜の 夢の中(うち)なる夢なれや 夢の中なる夢なれや
 
   *
 
吉野川の花筏(はないかだ) 浮かれてこがれ候(そろ)よの 浮かれてこがれ候(そろ)よの
 
   *
 
面影ばかり殘して 東(あづま)の方(かた)へ下りし人の名は しらじらと言ふまじ
 
   *
 
さて何(なん)とせうぞ 一目(ひとめ)見し面影が 身を離れぬ
 
   *
 
いたづらものや 面影は 身に添ひながら獨り寝(ね)
 
   *
 
見ずはよからう 見たりゃこそ物を思へただ
 
   *
 
な見さいそ な見さいそ 人の推(すゐ)する な見さいそ
 
   *
 
思ふ方(かた)へこそ 目も行き 顏も振らるれ



 

千葉行

結婚記念日のフラヰングで千葉の携帶圏外の大多喜町山中にある「童子(わらべ)」にて竹の子料理を堪能、「總元(ふさもと)」に下つて、「いすみ鐡道」に乘った。行き歸りの田舍道では白藤がとても美しかつた。私は鐡道好きなのではないが、この路線の風景は何かひどく懷かしい思ひを掻き立てさせたのだつた。今は無くなつた亡き母の鹿兒島の山中のかの大隅町岩川の實家邊りと全く違はぬ自然の愛しい景觀が髣髴と浮かび上がつた。無人驛に入ると、向かひの田に鯉幟が翻り、野生の雉子の啼く聲が頻りにしてゐた。見てゐると、雄々しい雄が田の畦をゆつくらと歩んでゐた。妻は野生の雉子の啼き聲も姿も始めて見るのであつた。私は、其から又、次の驛にあつても、田圃の脇の叢にやはり雄の雉子のすつくと佇む姿を認めたのであつた。妻の好きなムーミン谷の連中が其處此處に佇んでゐた。鴨川に出でて、海を見下ろす温泉に浸つた。私の好きな海をとくと見つめるのは二年振りのことだつた。昨年の夏に嗅覺を失ひ、潮の匂ひを感じとれないは少し哀しかつた。五十數年も前のことだ、父と亡き母と父の祖母と唯一度、此處いらを旅した思ひ出が甦つた。歸りの電車の中の――母の優しい言葉を――ふと思ひ出した……

2016/04/26

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 「不思議」

[やぶちゃん注:以下の「不思議」は昭和一三(一九三八)年一月号『日本浪曼派』を初出とする。当時、民喜満三十二歳。]

 

 不思議

 

 毎朝、父は臺所の外で眼白の餌を拵(こしら)へた。小さな擂鉢を立つたまま胸のあたりに抱へて、へずりと糠を水に溶いて擂り廻す。その音が輕快に葡萄棚の下のすきとほつた空氣に響いた。するとバケツで水浴をさされた小鳥は、翼をぶるぶる顫わせて、籠のなかを飛び移る。眼白の動作と、餌を作つてゐる父の呼吸が不思議に合つて娯しさうだ。それで雄二は父の傍に立つて、父の口鬚を眺める。父は野菜畑の方を見廻しながら、胡瓜の實を見つけて捩ぎに行く。

 朝食が濟んで父が出掛けて行くと、間もなく肴屋がさつき眼白の餌を拵へたところへ、籠を置き、俎の上ではげの皮を剝ぐ。その皮は側の柱に貼られて、カラカラに乾かすと、それで着物の糸屑などが掃除出來るのだ。籠のなかには、鯛に鰈に赤鱏(あかえひ)にめばる。たひにかれひにあかえひにめばる――と母は籠を見下してゆつくり口遊(くちずさ)む。あかえひさんにかれひさんにと魚屋は庖丁を動かしながら呟く。ついでにあかえひさんを貰ひませうか、と母は云ふ。雄二は母の背中の上からその景色を眺めてゐる。魚屋が歸ると、母は雄二を負つたまま庭の方から緣側へ行く。便所の屋根の上に石榴の花が咲いて、眞靑な空に雲が浮いてゐる。「お前がひとり子だつたら、かうして毎日負つてあげるのだがね」と母は雄二を緣側に下しながら云ふ。兄姉達がみんな伯母に連れられて避暑に行つてしまつたので、雄二は當分ひとり子のやうなものだつた。家のうちが廣くなつて、樣子がちがつてゐた。

 雄二は父が大阪から土産に買つて來て呉れた獨樂を憶ひ出す。豆粒ほどの大きさのなすびにひようたんに西瓜にかぼちやにかぶに大根の獨樂。なすびが一番よく廻つて、廻つて澄むときは影のやうだ。それがよろよろと緩くなつて疊の上に倒れると、再びなすびになる。雄二はあの獨樂を出して見ようとしたが何處へやつたのかわからなかつた。それで臺所へ行つて母に尋ねる。母は何時ものやうに、魔法に訊ねて見なさいと云ふ。それで雄二は家の中をぐるぐる廻りながら、……魔法が隱した、他人(ひと)のもの隱した、と歌ふ。その聲を何處かの隅で魔法は聽いてゐて、今に恥しくなつて出して呉れるのだらう。しかし、なぜそんないたづらをするのだらうか。雄二は眼に見えない魔法の姿を考へる。座敷の机の下は暗く、床の間の天井はもつと暗い、魔法はそんなところに隱れて聽いてゐるのかもしれない。暗いところに隱されてしまつた、美しい獨樂が可哀相でならない。そのうちに雄二の眼にはふと、床の間の置物が映る。二人の支那人が一匹の牛に乘つてゐる、鐵の置物だ。支那人は牛の背の上でゆつくり何か考へてゐる。支那人は牛に乘つて進んでゐる積りなのだらうが、何時まで經つても同じ姿だ。その二人の大人の顏を見てゐるうちに雄二は獨樂のことを忘れた。そしてお菓子が欲しくなつた。すると、また獨樂のことが一寸頭に浮んだ。しかし、和田屋の婆さんが賣つてゐる、赤や靑のボンボン(bonbon)が、今は頻りに欲しい。雄二は臺所へ行つてみると、母の姿がない。そこで、急に淋しくなつて大聲で母を呼んでみる。「ほい」と何處かで聲がする。雄二は前よりもつと切なさうな聲で母を呼ぶ。「ほい」と母の聲は微かで賴りない。三度目に雄二の聲は大分曇つて來る。すると、ほつと、母の顏が臺所の入口に現はれた。雄二はまづ安心して、それから思ひ出したやうに五厘ねだる。五厘玉を貰ふと、早速表へ飛出して、和田屋の方へ歩いて行く。和田屋の橫には交番があつて、巡査がゐる。あんまり買食をするとおまはりさんが連れて行くと云ふので、雄二は一寸心配なのだ。そろつと交番の方を見ると、おまはりさんは涼しさうな顏でゐる。知らない顏をしてゐて、みんな憶えておくのかもしれない。それでも雄二は和田屋の土間へ這入つてしまつた。足音を聞いて、薄暗い奧から、婆さんが出て來る。雄二は五厘玉を握つた手で、硝子戸の上から bonbon を指差す。婆さんが新聞紙で作つた小さな袋に拾ばかしボンボンを入れて呉れると、雄二は受取つて、懷にしまひ込む。それから大急ぎで和田屋を飛出すと、とんとん走つて家へ歸る。

 菓子を食べながら雄二は庭さきを眺めてゐた。風呂場の硝子戸にまつ靑な空と雲が映つてゐる。簷には梅の靑葉が深々と茂つて、葉洩陽の縞が美しい。むかふの垣根のあたり、大きな櫻の樹に藤が絡みついてゐる。その傍に小さな井戸があり、庭梅と山吹が茂つてゐる。井戸のところへ、陽の光が照りつけて、雜草の綠がかあつと明るい。微風が樹の葉を動かしてゐるので、樹の葉が、飜る時光線が動く。見てゐるうちに庭がずんずん動いてゐるやうな氣がする。その時、一羽の揚羽蝶が微風に乘つて、漾つて來た。蝶はふんわり庭を橫切り、間もなく隣の方へ行つてしまふ。ふと、雄二は先達(せんだつて)、父に連れられて見に行つたパノラマを憶ひ出す。西の方の賑やかな街で、切符を買つて、地下室のやうなところへ這入ると、左右の窓の景色がずんずん動いて行つた。家も樹も人も、輕快な音樂につれてぐるぐる廻つた。雄二はまるで夢中で恍惚としてゐたが、其處を出ると外は普通の夜の街だつた。父は雄二に、「汽車に乘つたのだよ」と云つて笑つたが、雄二は未だに不思議でならない……

 ぢつと、眼を宙に漾はせてゐると、何だか透明な輪のやうなものが浮ぶ、それが暫くすると、少しづつ空間を動き出して、おやつと思つてゐるうちに簷の方へ去る。また暫くすると、何處からか別の輪が生れて來て、雄二のすぐ眼の前を悠々と泳いで行く。あれが魔法かもしれない、と思ふと、雄二は急に心細くなる。そこで座敷を掃除してゐる母のところへ大急ぎで行く。母は頭に手拭をかむつて片手にはたきを持つてゐる。

 

 或朝、父は雄二を連れてI(アイ)島へ行くのだつた。陽がまだ高くならない、朝の街を通つて、K橋を渡つて、驛の方へずんずん二人は歩いて行つた。雄二は生れて始めて今日、汽車に乘れるので、大變緊張した顏をしてゐた。父の手をひつぱるやうにして、一生懸命、父より速く歩かうとした。打水をされた路は、朝日でピカピカ光り、時々、泥が下駄に跳ね上げた。砂糖屋の前には、荷馬車が停めてあり、その荷馬車には白い馬が繫いであつた。何時も見たことのある馬が今日も雄二の眼に映つた。そのうちに父と雄二はE橋の上まで來た。すると、むかうから乘合馬車が勇しい喇叭を鳴らしながらやつて來た。もう向うの河岸には、驛の松原が見えるのだつた。橋を渡つて松原に入ると、大きな洞穴の出來てゐる松や、眞中から二つに裂けた松があつた。鳴神が落ちて裂けたのだといふ松には爪の跡らしいものもあつた。間もなく、驛の廣場へ出て、人力車の並んだ驛の入口が見えてゐた。父は餠の家で、「兄さん達に餠を買つて行つてやらう」と云つて、餠を買つた。そこの餠は雄二も大好きだつた。

 やがて、驛の待合室に這入ると、壁の大きな鏡に雄二と父の姿が映つた。父は浴衣を着て、カンカン帽をかむつてゐた。雄二は白い布の帽子を目深にかぶり、片手にハンケチを持つてゐた。鏡に映る父の眼は、雄二を連れてゐるので微笑してゐたが、雄二の眼は氣ばつてゐた。鏡の橫には、大きな額があつて、綠草の上に鹿の群がゐる繪だつた。父が切符を買つてからも、なかなかまだ汽車には乘れなかつた。雄二は赤帽が荷車を押して行くのを見とれたり、もうむかふの線路には機關車が留つてゐるのに、どうして乘れないのかと不審に思つた。その機關車だけの車は、急にピーと大きな響を發して、シユツシユツと白い湯氣を吐きながら、勝手に走り出してしまつた。そのうちにまた汽車が來て留まつた。見ると、黑い箱のなかには牛が乘つてゐるので、雄二は驚いた。牛は橫に嵌められた板の隙間から一寸鼻を覗かせて、ごそごそしてゐた。すると、その時、ベルが鳴つて、改札が始つた。雄二は父に手をひかれて、牛の箱の前を通り過ぎ、高い木の階段を昇つて行つた。昇りつめると、そこには小さな明るい窓があつて、線路が遠くまで見渡せた。階段を降りると、今度はホームの洗面所のところに立つて待つた。雄二は汽車がどちらからやつて來るのか解らなかつたので兩方をかはるがはる眺めた。「そら來たぞ」と父が云ふ方角へ目をやると、汽車は黑い塊のまま、突進して來るのだつた。もう雄二の眼の前には汽車が留まつた。ドアが開いて、雄二と父は一つ箱へ乘つた。始め何とも云へない、にほひがそこにはあつた。父は雄二を窓の側へ腰掛けさせた。室内を見渡すと、大人ばかり七八人ゐた。

 そして、汽車は到頭動き始めた。段々速くなつて、響が大きくなつた。家々の瓦がピカピカ光つて、窓の下を過ぎた。「そらN公園だよ」と云ふ父の聲で、氣がついた時は、もうN神社の石の鳥居は後方にあつた。そして、鐵橋へ出た。下を見ると、白い河原砂の上に草が茂つてゐて、靑い水の流れにボートが浮んでゐた。轟々といふ響が消えたかと思ふと、今度は窓の外で、ばたり、ばたりといふ音が聽えた。薄暗い軒の下で、織物をしてゐる人の姿が一寸見えた。段々、眺めは廣々として來た。もう雄二の知らない處を汽車は走つてゐるのだつた。

 藁葺の屋根や瓦の屋根が入混じつてゐるところに次の驛があつた。汽車はその驛にちよつと停つた。驛の廣場には荷馬車が幾臺も留められてゐた。ホームの圍には石炭が山と積まれてゐて、黑くギラギラ光つてゐた。また汽車は走り出した。「そら、電信柱やら、田が、みんな後へずんずん走つて行くだらう」と父は窓の外を指差して雄二に語つた。雄二はもう前からそれに氣づいてゐたのだが、さう云はれると、一層注意して外を眺め出した。窓の近くにある電信柱はすぐに目の前を掠めて行く。遠くの電信柱は比較的ゆつくりと現はれては移つて行く。一つが去つても、またすぐ後から現はれて來る。電線が氣持よく靑田の上に續いてゐて、時々、風にちぎられて汽車の煙は、その邊まで飛んで行つた。はじめ、行手にぽつちりと靑い塊が見えると、それが段々大きくなり、幅が擴つて三角になり、やがて眞四角な靑い田となつて、正面に現れるが、後へ去るに隨つてまた段段歪んで小さくなるのを、雄二は熱心に眺めた。どの田もどの畑も、汽車が來るとまるで大騷ぎして動いてゐるのであつた。畝道のなかに、小さな茅葺の祠(ほこら)が見えた。その屋根は見る見るうちに、指で捻られるやうにぐるぐる廻りをした。やがて、白つぽい路に、大きな松が次々と現はれた。

 そして汽車は間もなく次の驛に停つた。すると、胸に大きな函を吊した男が、雄二の窓のところへやつて來て、「ビールに正宗に保命酒」と云つた。函のなかにはサイダーもあつた。汽車が再び動き出した。松原路は何時か橫の方へ外れて、また田や畑が見えて來た、蓮芋畑や南瓜畑がところどころにあり、靑い田には水がちらちら光つた。空を涼しげな白雲が飛んでゐた。その雲は隨分長い間汽車に隨いて走つてゐた。それでも到頭汽車の方が勝つて、雲が無くなつた。すると、靑田のまんなかに、大きな次亞燐の瓶を抱へた、相撲取の廣告が現れた。その次には葡萄茶(えびちや)の袴を穿いた、庇髮の女が現れた。廣告板の上を燕が氣輕さうに飛んで行つた。庇髮の女の眼は雄二を默つてじろじろ視てゐるやうに思はれた。そのうちに汽車はまた驛に這入つた。そこには石灰(いしばひ)の俵がいくつも積んであつて、黃色な花が咲いてゐた。驛を過ぎると窓の近くに山の崖は見えて來た。崖に生えてゐる雜草は露で濡れ、處々、花崗石がキラキラと光つた。そして、突然、海が見え出した。

 雄二は始めてみる海を眩しさうに眺めた。沖の方にはいくつもの島があつて、綠色の水が一めんに續いてゐた。それは父が旅から持つて歸つた『大阪パツク』の繪にある海とよく似てゐた。汽車の窓に、頻りに涼しい風が吹寄せて來て、海の匂ひがした。その時、父は沖に見える、まん圓く盛上つた小島を指差して、「あれが、あまのじやくの流された島だよ」と云つた。雄二はその島を一生懸命視凝めた。すると、まん圓く盛上つた、松林の髷(まげ)のやうで、一本だけ高く伸びてゐる松が簪に似てゐるので、雄二はふと怖くなつた。不思議なことに、その島のまはりは、透明な暈が茫と光つてゐるのだつた。しかし、やがて、天邪鬼の島も他の島に隱されてしまつた。そして不意と、海は無くなつた。汽車は畑のなかを過ぎて行き、また驛に停まつた。雄二はまだ、あまのじやくのことを考へてゐた。

「そら、今度はトンネルがあるよ」と、汽車が動き出した時、父は云つた。すると、雄二はまた生々と目を輝かした。汽車もトンネルを潛らうとしてゐるので、大變、活氣がついて來た。しかし、なかなか、トンネルへは來なかつた。田や、畑や、人家が縺れては、ほどけた。そのうちに、ピーと鋭い汽笛が鳴つたかと思ふと、窓の兩側は薄暗くなり、窓硝子がガタガタ搖れた。が、すぐにあつけなく明るいところへ出てしまつた。「今のは短かつたね、この次のはもつと長いよ」と父は云つた。ふと、向うに、トンネルの入口が見え、そこを今汽車の頭の方がずんずん近寄つて行くのが見えた。間もなく、ピーと汽笛が鳴つた。窓硝子がガタガタ搖れ、兩側は薄暗くなつた。と、思ふと、天井には電氣が赤く點されてゐるのだつた。雄二は窓の闇に眼を据ゑ、まるで自分ひとりがトンネルを潛つて行くやうにぢつと息を殺してゐた。開いてゐる窓から煙が迷ひ込んで來た。次第に窓の外は靑白くなり、やがて、ハツと明るいところへ出た。急に窓の外の景色が美しく思へた。窓には靑々とした松や、白い路があつた。反對側の窓には低い禿山が見え、その中腹あたりに、小さな家が二三軒あつた。そのうちに、再び海が現れた。今度はすぐ近くに、かなり大きな靑々とした島があつた。陽の加減で、その島は多少煙つてゐた。「あれがI島だよ」と父は指差した。「そら、あそこに汽船が浮んでるだらう、あの船に乘つて行くのだよ」汽船は恰度、陸とI島との眞中あたりの海に、玩具のやうに浮んでゐた。「そら、あそこに赤い鳥居が見えるだらう、あれがI神社」さう父が説明する鳥居は、I島の海に小さく浮んでゐた。雄二は、どうして、ここから直ぐ汽船へ乘つていけないのか、不審に思つた。海は再び姿を消した。雄二はいよいよわからなくなつた。が、間もなく、汽車はM驛に這入つた。「さあ、ここで降りるのだ」と、父は雄二の手を引いて立上つた。汽車を降りると、雄二は今更のやうに振返つて、機關車を眺めた。キラキラ光る管(くだ)や、圓く黑い頭のやうなものや、まだ煙を吹いてゐる煙突が、變に暑さうであつた。雄二は藤棚の下を通つて、廣場に出た。すると、左右に並んでゐる旅館には白い布を掛けたテーブルが置いてあつて、盆にはサイダーやビールが並べてあつた。しかし、汽車から降りた人々はみんな、ぞろぞろと、棧橋驛の方へ急いだ。その棧橋驛の向うにはさつき見たI島があつた。雄二が其處まで來ると、あんまり眞近かにI島が見えるので、ちよつと變な氣がした。父はその石垣から、海を見下ろしてゐたが、ふと、雄二を手招いて、眞下を指差した。「そら、隨分澤山魚がゐるだらう」靑い水の層にパツと一群の小魚がチラチラ腹を光らせながら泳いでゐた。

 ボーと大きな汽船が鳴つたので雄二は振向いた。何時の間にか、そこには汽船が大きな姿で近寄つて來た。黃色の煙突、キセルのやうな大きな管、汽船の腹には、人が並んでゐて、その汽船には二階もあつた。やがて、汽船は棧橋に着き、そこからぞろぞろと人が降りて來た。雄二は驛に這入つて暫く腰を下した。すぐ前の棧橋に汽船は橫づけにされてゐるのに、なかなか改札は始らなかつた。驛の柱時計は振子のところが古びた金網で圍はれてゐた。振子はゆるゆると暗い網のなかを往來した。そのうち到頭、改札が始つた。雄二は父と一緒に海に突出た石の道へ出て歩いた。兩側の石垣の上には、ところどころ植木鉢が置いてあつた。雄二はふと、ハンケチが氣になつて、左手を眺めると、やはり忘れないで持つてゐた。父が雄二の手を引いて、鐵の橋を渡り、大きな板の棧橋に出た。棧橋と船との間には、四五寸靑い隙間があつた。雄二はそこを跨いで、甲板へ渡つた。すぐ目の前に機關室に通じる階段が口を開いてゐて、エンヂンのいきれがそこから這つて來た。雄二は父に導かれて、船室へ這入つた。綠色のソファの上には硝子窓があり、海が見えてゐた。そこに腰を下ろしてゐるうちに、ボーと汽笛が鳴り、床の上がガタガタ搖れ出した。雄二は立上つて、父と一緒に舷(ふなばた)の方へ出てみた。すると、今、するすると纜が解かれ、船は出て行くのだつた。やがて、棧橋を離れたかと思ふと、ガタガタと變な音をたてながら、船は方向を更へ始めた。白く泡立つ波が、盛に舷に嚙みついた。ふと、雄二の眼の前には、I島が見えて來た。雄二が不思議がつてゐると、父は雄二を船尾(とも)の方に連れて行つた。と、さつきの棧橋はもう遠くに去つて、今は靑々とした水が續いてゐた。船は白い三角形の波を曳いて進み、その白い波は後から後から追つて來た。靑い水の面は高く低く搖れて、それから段々穩かになるのだつた。雄二の肩には頻りに風が吹いて來た。時々、日向くさいニスの臭ひや、汽船の臭ひが風に運ばれて渡つた。ふと、雄二の眼の前を、黃色い蝶がヒラヒラ掠めて行つた。蝶は波の上を風に煽られながら、今にも沈みさうだつたが、すぐに見えなくなつてしまつた。雄二は船尾に据ゑられた大きな浮袋をぼんやり眺めてゐた。暫くして、父に促されてまた船首(へさき)の方へ行つた。すると、もうI島は眼の前に大きく近づいていゐた。海のなかにある赤い鳥居も大きな頭の方に日があたつてゐるのが、今ははつきり見えた。その後には神社の朱塗の建物が見え、それを抱へるやうにして、綠色の山が茂つてゐた。こんもりと茂つた山が刻々と近づいて來ると、雄二は多少の不安を覺え出した。ボーと雄二の背後で汽笛がゆるく鳴つた。船は速度を緩めて、棧橋に對つて、ずんずん近づいて行つた。やがて、ボウボウボウと續けざまに汽笛が鳴り、白い湯氣の輪が管から吐き出された。纜は、むかふにゐる人にむかつて投げられた。汽船はすつかり板とすれすれに橫腹を接した。人がぞろぞろと降り始め、雄二も父に手を引かれて、四五寸の海を一跨ぎした。改札口を出ると、すぐ橫の方には山の崖があり、松が茂つてゐた。

 久しぶりに雄二は土地の上を歩くやうな氣持がした。小粒の砂利が下駄の下でさらさらと齒ぎれよく鳴つた。非常に明るい空氣や、爽やかな匂ひが、そこには滿ちてゐるやうだつた。路傍の芝生に日があたつてゐるのを見ると、雄二はふと元氣になつた。海岸の片側に並んでゐる旅館からは、軒毎に人が出て雄二の父に聲をかけた。海岸の路を過ぎて、日蔭の小路に入ると、兩側は土産物を賣る店で、賑やかだつた。貝細工や杓子や彫刻が、どの店にも一杯に飾られてゐた。雄二はそのなかに眼の飛出るだるまや、硝子玉のなかに鏤められた造花や、張子の虎などが吊るしてあるのを珍しさうに眺めた。汽車の玩具も、積木細工も、竹馬の首も、雄二が玩具屋で見憶えてゐるものが次々と現れて來た。小さな陶器でI神社の風景を模造したものや、レンズのついた函にI島の繪はがきを嵌めたものなどあつた。どの店からも、おかみさんが雄二達に聲を掛けるのであつたが、父はとりあはない顏でさつさと通り過ぎて行く。それで、雄二も努めて、何にも欲しくないのだ、といふやうな顏で父について歩いた。小路を曲ると、稍々廣い路に出た。そこには旅館や、飮食店や、土産物を賣る店がなほ兩側に並んでゐた。玄關から座敷の方に海を見通せる旅館もあつた。

 片側の家が跡切れて、海が見えるところに來ると、父は立止つた。そこは、和船の荷揚場になつてゐて、石段の下の引込んだ海には帆船や傳馬船が群がつてゐた。そしてそのむかふに、今、眞黑なぼろぼろの汽船が碇泊してゐた。斜めに傾いた二本の煙突や、風に靡く汚れた旗が、何か雄二には物凄く思へた。その汽船を浮べてゐる海と空は、漲ちきれるほどの光で滿ちてゐたが、今にもくらくらと崩壞しさうな景色だつた。しかし、父は一向平氣で、遠くの方を指差しながら雄二に云つた。「そら、さつき乘つた船があすこにゐるよ」遙か遠くを走つてゐる、その小さな汽船は、玩具のやうに優しく雄二の眼に映つた。間もなく、父は歩き出した。家並が盡きて、左に山の崖が聳え立ち、右手に海が見える路へ出た。むかうには鳥居も見え、神社の建物もあつた。海は鳥居の邊まで潮が退いて、そのむかうは眞靑だつた。海の側(がは)に二三間置きに石燈籠があり、松が並んでゐた。崖の方の上からは、松が這ひ、枝に蛁蟟(つくつくほうし)が啼いてゐた。枯松葉や松毬の落ちてゐる、白つぽい道だつた。明るすぎる眼の前を時々、鹽辛蜻蛉が掠めて行つた。石の鳥居を潛ると間もなく、I神社の入口が控へてゐたが、左手には高い石段が聳えてゐて、その上の方に、鳶色の五重の塔が空に突出してゐるのを、雄二の父はまづ指差した。塔の先端は針のやうに光つて、油つぽい靑空にあつた。

 それから父は雄二を、神馬(じんめ)のところへ連れて行つた。格子窓の暗い奧では、元氣のない白い馬が、人の姿を見て、ゴトゴト蹄を動かせた。二人は石段を降ると、I神社の廊下で、下駄を脱いで、手に持つた。廊下の下の海は水が退いて濡れた砂を橫たへ、ところどころに水溜もあつた。下の方の柱に、牡蠣殼が白く着いてゐるのを雄二は眺めた。濡れた砂の上を小さな蟹が這つてゐたり、砂にまじつて、がうな貝があつた。廊下を進んで行くと、朱塗の柱と欄干はつぎつぎに現はれた。ふと一つの曲り角まで來ると、其處には竹の仕切がしてあつて、むかふに反(そり)橋があつた。あんな反り返つた橋が渡れるかしらと、雄二は感心して眺めた。少し行くと、欄干の外に、大きな手洗鉢が据ゑてあつた。靑銅で拵へられた龍が、その手洗鉢に首を突出し、木片を銜へた腭(あぎと)からは頻りに水が流れてゐた。その、むかふの砂地に、凹んだ水溜があり、そこに白い鶴の姿があつた。はじめ雄二はほんとの鶴かどうかわからなかつたが、見てゐるうちに脚を動かし出した。何時の間にか、雄二と父は廊下の出口へ來てゐた。そこには鹿が澤山集まつてゐた。側の店で、乾芋を一袋買ふと鹿はすぐに父の側へ集まつて來た。黑い眼をした鹿は、お腹のあたりを、ピクピク動かして、乾芋を食べた。そして紙袋まで、一匹の鹿は食べてしまつた。雄二は始めて視る鹿に瞳を凝した。「そら、あんなに小さな鹿もゐるね、あれは鹿の子供だよ」父がさう云つて指差す小鹿は、お母さんらしい鹿のほとりを何時までも離れやうとしなかつた。

 そこから、海に突出た岬のやうな路を進んで行くと、松の上では鴉が啼いてゐた。松の間にところどころ石燈籠が置かれ、片方には水のちよろちよろ走つてゐる小川があつた。やがて、二人は石の橋を渡つて、向ふ岸に來た。山がすぐ海岸まで迫つてゐるところを曲ると、また廣々とした眺めに出た。片方には山に登る路が見え、片方には入江のやうな海があつた。別莊らしい玄關の橫では、噴水の池があつた。父は路傍の叢を指差して、「そら、鹿のふん」と云つた。黑豆のやうな糞は、ぽろぽろと草の中にあつた。なだらかな芝生の傾斜が行手に見えてゐた。

 その時、「姉さんが迎へに來た」と父が云つたので、雄二は始めて氣がついた。淸子は麗かな笑顏で、もう雄二のすぐ眼の前にゐた。姉は父に一寸お叩頭して、また嬉しさうに笑つた。雄二は姉さんがこんなところにゐるのが、まだ不思議な氣持だつた。急にやつて來たので、どうもをかしかつた。そのうちに、むかふの藁屋根の格子窓から兄の大吉の「わーい」とおらぶ聲がした。すると、父は「わーい」とおらびかへした。窓には、上の兄の貴麿や、伯母の顏も覗いた。と思ふと、表に菊子姉の姿が飛出して來た。次いで從姉の弓子の姿があつた。それで、雄二は淸子姉と父に兩方の手を引かれながら、悠々と進んで行つた。

 家へ這入ると、六疊の部屋は薄暗かつたが、正面の格子窓から見える景色は大變明るかつた。格子窓には、隅にランプやら釣竿が置かれてゐた。雄二は暫く、賑やかな部屋の中央で、ぼんやりしてゐたが、そのうちに、格子窓のところへ行つて、大吉の眞似をして外を眺めた。「カ、カ、カ、カ」と大吉は得意さうに鹿を呼ばうとするのであつた。鹿はすぐ前に海岸の路をすつすつと歩いて行つた。「今に可哀相な鹿が通るよ」と菊子は雄二に説明した。「その鹿はね、首のところへバケツがひつかかつてとれないの、あんまり、いやしんぼうした罰なの」さう云つてゐるうちに、五六匹の鹿の群が左手から現れた。

「やあ、あの鹿がゐらあ」と大吉は遠くからそれを認めて、大聲で喚いた。「やつて來ましたか」と伯母も立上つて格子のところへ覗いた。すると他の皆も格子のところへ出て、その鹿を見ようとした。鹿の群はぞろぞろと前の道にやつて來た。そのなかの一匹は、首にバケツをぶらんぶらんさせながら、如何にもつらさうな姿だつた。皆が大聲で「カ、カ、カ、カ」と呼ぶと、鹿は窓の下まで近づいて來て、投げてやる菓子を拾つて食べ出した。首にバケツを吊した鹿も今窓のすぐ下までやつて來た。バケツの柄は骨の肉に食込んで、首は痛さうに傷ついてゐた。「あのバケツとつてやれないものでせうか」と父は伯母に話した。「さあ、やはり駄目なのでせうね」と伯母は云つた。そのうちに他の鹿が去り出すと、哀れな鹿も皆について行つてしまつた。

 鹿が去ると、父や伯母はまた格子を離れた。そして父は今朝驛で買つて來た餠を皆に分けた。菊子は相變らず雄二にいろんな説明をして呉れた。「そら、今、そこに通つてゐるのは、支那人で、乳母車のなかにゐるのは西洋人の赤ちやんよ」黑い服を着た支那のお婆さんは、小さな靴を穿いてゐて、綺麗な乳母車を押して行つた。すると、その後から胸の突張つた西洋婦人が日傘をさして歩いた。「やあ汽車が通るぜ」と大吉は云つて、「雄二、見えるか見えないか」と尋ねた。「ほら、このまつとほり」と菊子は指差した。向ふの岸を今、汽車は玩具よりも小さな姿で這つて行つた。「ね、あそこにトンネルがあるのよ、それで一寸見えなくなるでせう」雄二はさつき通つて來たトンネルが、もう隨分昔のことのやうな氣がした。「あ、トンネルなら知つてる」雄二は云つた。「いくつトンネル通つて來たか憶えてゐるかい」と大吉は尋ねた。「一つ」と雄二は答えた。「やあい、やあい、一つださうだ」大吉は囃し立てた。「ううん、二つだつた」と雄二は云ひ直した。「云ひ直したつてもう駄目さ、やあい、やあい、トンネルが一つとは呆れたもの」「大吉、大豆、大嫌」と雄二も云ひかへした。すると、大吉は拳固を振上げて、雄二に挑みかかつた。「こら、こら、來るとすぐ喧嘩しちやいかん」と父は二人を制して、「皆で海へ行つて少し遊んでおいで」と云つた。すると淸子が、「さあ、みんなで貝拾ひに行きませう」と誘ひかけた。

 雄二も大吉も、菊子も、淸子について前の砂濱へ行つた。後から貴麿と弓子もすぐにやつて來た。「この貝殼お母さんに土産にするといいわ」と淸子は美しい爪のやうな貝殼を雄二のハンケチに包んだ。すると、菊子も弓子もいろんな貝を拾つては雄二に呉れた。大吉は雄二達と離れたところで、貴麿を相手に、水にむかつて石の飛ばし競爭をしてゐた。時々、大吉の投げる石は水の面を一つ二つ掠めてうまく跳ねて行つた。雄二は時々、陸の方の藁葺の屋根に眼をやつた。そこの屋根にはぺんぺん草が生えてゐた。屋根の下に父がゐるのかどうかが不思議に氣になつた。「そらむかふに靑々と茂つた杉林があるでせう」と菊子は指差した。「あそこはO(オー)公園なの、毎朝みんなで、あそこの林の奧の谷へ、顏を洗ひに行くと、とても氣持いい水が流れてるのよ」と云つて菊子は氣持よささうな表情をした。その時ふと、沖の方を大きな汽船が通つて行つて、ボーと緩い汽笛が鳴つた。「くれなゐ丸、くれなゐ丸」と大吉は汽船の名を呼んで騷ぎ出した。雄二がまた家の方を氣にし振返ると、恰度、伯母が戸口に出て來て、遠くから手招いてゐた。そこで皆は家へ歸つた。

 晝食には罐詰が開けられ、それとぎざみの燒いたものだつた。晝食が濟むと、父は皆をひきつれて、N濱の海水浴場に行つた。さつきの棧橋の驛の方まで歩いて行き、そこから更に山坂を越えると、N濱へ出た。父は水鳥の恰好をした浮袋を脹らし、それに雄二を乘せて、手を引いて海に入つた。父の肩の邊りまで水は浸り、浮袋はふわふわ搖れた。すると、大吉が側へやつて來て、父に水を掛け出した。父は片手で雄二の身體を支へながら、片手で大吉に應酬して、うまく大吉を撃退した。

 水を上ると、雄二は白い砂濱で休んだ。大吉は忙しそうに、水から何か獲つて來て、石段のとこへ置いた。雄二が不思議がつて見に行くと、「これはくらげといふものだよ」と大吉は得意さうに説明して呉れた。「見てゐるうちに溶けてしまふぜ」と云ひ殘して、大吉はまた海へ行つた。雄二がその半透明な生物を視凝めてゐると、何時の間にか、その生物は日の光で乾いて、消えてしまひ、石の上には薄い影が殘るのであつた。大吉はまたもう一匹、前よりも大きな水母を獲つて來た。その水母も暫くすると、じりじりと、日の光に溶けて行つた。

 雄二は父に呼ばれて、棧橋の方へ行つた。葦簾(よしず)張の、日蔭の、筵の上にあがると、急に何だか睡むくなつた。隨分長い間睡つたやうな氣がした、が再び目が覺めてみると、あたりはまた騷々しい晝間の海岸であつた。何時の間にか皆も棧敷でごろごろと晝寢してゐるのであつた。雄二は隨分長い間、かうして海岸にゐるやうな氣がした。「さあ、そろそろ歸るとしよう」と父は皆を搖り起した。皆は着物をきちんと着てからも、しかし、なかなか座を立たなかつた。雄二は頭上の松の枝の日蔭をぼんやり眺めた。すると、不思議なことに、その空間には、何時かも浮んだことのある、輪のやうな透明なものが泳いで行つた。「お父さんは今日歸るのだが、ゐたかつたらお前はも少し泊つてもいいよ」と父は雄二を顧みて尋ねた。傍から菊子は雄二に云つた。「ね、泊つて行くといいわ、朝、家の前をボーつて汽船が通つて、とても面白いよ」大吉も云つた。「もつと、もつと面白いことが一杯一杯あるのだぜ」雄二はどうしようかと、ぼんやり思案した。ふと、隣の棧敷を見ると、その時、反齒の男がサイダーを瓶ごと、喇叭飮みにしてゐた。雄二はその反齒が不思議に思へた。「どうする? やつぱしお父さんと一緒に歸るかい」と父は再び尋ねた。「歸る」と雄二は答へた。すると、皆はつまんなさうな顏をした。

 それから皆はぞろぞろ歩いて棧橋の方へ行つたが、まだ汽船が出るのには間があつたので、少し町を歩いた。雄二は歸ると云つてからは、もう時間を待ち侘びるのだつた。足どりが鈍くなり、顏が疲れてゐた。夕日が白壁を黃色く染め、町はぐつたりしてゐた。すると、一軒の店の前で、父は立止つて、積木細工を買つて呉れた。大きな旅館の橫へ來ると、噴水の池があつて、岩の中央には龍が赤い硝子玉を爪で抱いてゐて、その硝子の玉は水で濡れて光つてゐた。そこから少し行くと、朱塗の橋が、ささやかな溪流に懸つてゐて、谷には楓が澤山あつた。皆はその橋のところまで來て、棧橋へ引返した。雄二が皆に見送られて、父と一緒に汽船に乘つた時はもう、波も光を失つて、あたりは薄暗かつた。燈のついた島が段々遠ざかつて行つた。雄二は船室のソフアに腰掛けてゐるうちに、上と下の瞼が自然にとろんと重なつて行つた、父に搖り起された時、汽船はもうM驛の棧橋へ着いてゐた。

 それから、雄二は何時の間にか父に引かれて、汽車の驛の橋を渡り、汽車に乘つたのだつた。汽車の窓には涼しい風が吹込み、雄二はちよつと氣分がはつきりした。そのうちに天井にある電燈の燈に、浮塵子(うんか)が澤山群つてゐるのを、ぼにゃり眺めてゐると、雄二はまた草臥れて睡つた。雄二は何時、驛に着いて家へ歸つたのか、さつぱり氣がつかなかつた。恐らく、父が俥で家へ連れて歸つたのだらう。氣が着くと、雄二は父の手に抱へられて、自分の家の座敷にゐた。そこには黃色なランプがあり、ランプの火かげに母の顏が浮んでゐた。

 

 翌日、母は雄二にI島の話を尋ねた。雄二は澤山の不思議を見て來たやうな氣がしたが、順序よく話せなかつた。あまのじやくの流された島、口から水を噴いてゐる龍、可哀相な鹿、それらを喋る度に母はよく呑込んだ顏をした。母は雄二においしい豆を煮いて呉れた。それを臺所で食べてゐると、高窓に一杯赤い夕燒が射し込んで來た。雄二は大變遠くへ行つて來たなと、思つた。

 

[やぶちゃん注:「へずり」春の七草の一つであるハコベ(「繁縷」「蘩蔞」)、ナデシコ目ナデシコ科ハコベ属 Stellaria のハコベ類の方言名。小学館「日本国語大辞典」によれば、出雲・山口県大津郡・讃岐・香川県の用例採取が載り、他に「へずる」で岡山県児島郡山田を挙げるので広島での方言としても全く問題がない。

「捩ぎに」「もぎに」と訓じていよう。当て読みであるが「捩(ね)じ切る」のであれば、違和感はない。

はげ」一般には、顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目スズキ系フグ目カワハギ科カワハギ属カワハギ Stephanolepis cirrhifer の通称である。カワハギ科ウマヅラハギ属ウマヅラハギ Thamnaconus modestus をこう呼称する場合もあるようだが、後者は古くは一般的な流通魚ではなく、また現行でもカワハギ釣りの外道とされるし、ここのシチュエーションでは間違いなく、前者である。

「鯛」スズキ系スズキ目スズキ亜目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major を一応、挙げておくが、「鯛」自体はタイ科 Sparidae の魚類の総称であり、多様な「鯛」を実際には我々は食べている。

「鰈」スズキ系カレイ目カレイ科 Pleuronectidae のカレイ類の総称であるが、ツノガレイ属マガレイ(真鰈)Pseudopleuronectes herzensteini を挙げておく。

「赤鱏(あかえひ)」顎口上綱軟骨魚綱板鰓亜綱エイ区エイ上目トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei 。尾部の長い棘は毒腺を有し、刺されると激しく痛むので注意が必要である。刺身・湯引き・煮付け・煮凝りなどにして食用とし、エイ類の中では最も美味とされる。

「めばる」狭義には顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科(別に「メバル科」とする場合もある)メバル(眼張)属 Sebastes の内、アカメバルSebastes inermis・シロメバル Sebastes cheni・クロメバル Sebastes ventricosus の三種を指す。

「ボンボン(bonbon)」フランス語。ここは中に果汁や香料液を包みこんだ安物の砂糖菓子。

「I(アイ)島」後のロケーションから厳島である。

「K橋」京橋川に架かる京橋か。

「E橋」京橋川が左岸に分かれて広島駅の南直近で猿猴川となるが、そこに架かる猿猴橋か。

「N公園」「N神社」直ぐに「鐵橋へ出た」とあるから、これは山陽本線が京橋川を渡るその北直近(京橋川左岸)にある、現在の広島市東区二葉の里の饒津(にぎつ)神社のことと思われ、ウィキの「饒津神社」によれば、『境内の東から東照宮参道に至る区域が「饒津公園」として整備された(現在の鶴羽根神社境内を含む)』とあるから。この「N公園」も「饒津公園」のことと判る。同ウィキにはまた、『原爆の爆風により本殿や唐門が瞬く間に破壊され、直後に本殿より出火、他の建物も類焼した。この時、石灯籠、手水桶などの石造物が残るだけ、樹木は』十数本の『松の木を残すのみという甚大な被害を受けた。また、境内の楠の大樹は、トンネルのようになって県道に覆いかぶさった状態になった。また原爆で傷つき市中心部から逃れてきた多数の被爆者の避難所となったが、人々の多くはこの境内で落命した。被爆後、京橋川を渡ってこの神社近くに避難し』、『野宿した原民喜は、戦後発表した小説「夏の花」において、被爆当日の夜の状況を描写している』ともある。

「藁葺の屋根や瓦の屋根が入混じつてゐるところに次の驛があつた」現在の広島市西区横川町にある横川(よこがわ)駅か。

「ホームの圍」厳密に読むなら「圍」は「かこひ」「かこみ」であろうが、ここは「まはり」と当て読みしていると読むのが自然であろう。

「そして汽車は間もなく次の驛に停つた」当時の己斐(こい)駅、現在の西広島駅か。

「保命酒」「ほうめいしゆ(ほうめいしゅ)」と読む。広島県東端の福山市鞆町(ともちょう)名産の薬味酒(リキュール)。生薬を含むことから「瀬戸内の養命酒」などと言われることもあるが、養命酒とは異なり、医薬品ではない。参照したウィキの「保命酒」によれば、『保命酒は大坂の医師中村吉兵衛が考案した薬用酒で』万治二(一六五九)年に『備後国鞆で製造を始め代々中村家が独占的に製造・販売を行っていた。明治時代になると複数の業者が類似の酒を製造し保命酒として販売し始め、現在は』四社が『製造を行っている。中村家の保命酒は製造法を門外不出としたまま明治時代に廃業したことなどから、近年まで正確な成分は不明となっていたが』、二〇〇六年に『中村家の古文書から保命酒の製法についての記述が見つかり、地黃、当帰など』十三種類の『生薬が用いられていたことが明らかになった。このため、保命酒の正式名称とされる「十六味地黃保命酒」はこれに醸造成分の焼酎、もち米、麹を加え』、十六味と『していたことになる』。『現在の保命酒は中村家の保命酒の模造から始まり、各社とも』十六種類の『生薬が用いられているが、前述のように本来の保命酒は』十三種類の生薬であるため、十六味=十六種という『誤った解釈から成立したものである。使用される生薬は、製造元によりやや異なり、中村家の保命酒で用いられていた梅花、いばらの花は使用されていない。製造法は味醂(みりん)の工程を基本として、もち米、米麹、焼酎を加味し生薬を原酒に浸して造られる』とある。

「蓮芋」単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科サトイモ属ハスイモ Colocasia gigantean 。塊根は小さく食用にならないが、長い葉柄を食用とする。

「次亞燐の瓶を抱へた、相撲取の廣告」「次亜燐」(じありん)は大阪の小西久兵衛が発売元である栄養剤。「内藤記念くすり博物館」公式サイト内のトピックス「<その13>看板 立派な体格をめざして-次亜燐(じありん)-」によれば、『その看板には望ましい体格として力士の姿が描かれ、「人体の肥料 牛乳の数十倍」と効能がうたわれている。ちらしは、薬瓶をかたどったデザインで、効能として肺病・貧血病・胃病の際、消化を助け、体格を強固にすると書かれている』。『もともとは医師の処方により使われていたが、顧客の要望により』、明治三三(一九〇〇)年に『市販された。ちらしには次亜燐酸カルシウムを配合したシロップ剤であると記され、江戸時代の効能のみの表記から化学成分の効能表記への過渡期であったことがうかがえる』とある。リンク先には小さいが、「雄二」の見た力士の看板画像もある。

「葡萄茶(えびちや)の袴を穿いた、庇髮の女」の「廣告板」は不詳。識者の御教授を乞う。

「そのうちに汽車はまた驛に這入つた」五日市駅か。

『大阪パツク』明治三九(一九〇六)年十一月から昭和二五(一九五〇)年三月まで刊行された日本の漫画雑誌。月二回刊。ウィキの「大阪パックによれば、『創刊当初の発行元は大阪・船場の輝文館で、後に「大阪パック社」へ社名を変更。末期には大阪新聞社の発行となっていた』。明治三八(一九〇五)年に『北沢楽天の主筆で創刊した風刺漫画専門誌『東京パック』に対抗する形で洋画家・赤松麟作が中心となって』翌年に創刊され、『駅売りを充実させることで部数を伸ばし、過当競争や太平洋戦争の激化に伴う出版統制で他の風刺漫画専門誌が相次いで休廃刊した中に在っても「健全漫画雑誌」を掲げ定期刊行を継続』、昭和一八(一九四三)年には英語禁止令に伴って、誌名を『漫画日本』に改題したが、戦況悪化よって昭和二〇(一九四五)年一月には一時休刊を余儀なくされたが、実に敗戦後から一ヶ月後の昭和二〇(一九四五)年九月に早くも復刊、翌年には『読物と漫画』と改題して再出発を図ったが、昭和二五(一九五〇)年三月を以って廃刊、四十三年四ヶ月の歴史に終止符を打った。なお、『この発行期間は長らく』、『日本の漫画雑誌としては最長記録であった』。

「沖に見える、まん圓く盛上つた小島」五日市の沖合四キロメートルほどの位置にある非常に小さな無人島津久根島。

「あまのじやくの流された島」この伝承については、こちらの囲み記事を参照されたい。或いはサイト「あまんじゃく伝説」の「広島に伝わる『あまんじゃく伝説』」(三ページ有り)も非常に参考になる。

「汽車は畑のなかを過ぎて行き、また驛に停まつた」廿日市駅か。

「トンネル」現在の阿品(あじな)附近に二箇所のトンネルがあるが、手前のトンネルの方が長い。或いは、当時は路線が違ったか、或いはトンネルが別にあったものか。

「I神社」厳島神社。

「M驛」宮島口駅。

「四五寸」十二から十五センチメートル強。

「纜」「ともづな」。

「跡切れて」これで「とぎれて」と読む。「途切れて」に同じい。

「傳馬船」「てんません」と読む。木造の小型和船で、通常は櫓 か櫂 で漕ぎ、本船と岸との間を往復して荷などの積み降ろしを行うのに用いる、所謂、「艀(はしけ)」である。

「二三間」三・六四メートルから五・四五メートルほど。

「蛁蟟(つくつくほうし)」半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera

「松毬」「まつぼつくり(まつぼっくり)」。

「がうな貝」「がうな」は「寄居虫」(ごうな)で、これで軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea のヤドカリの古名の一つ。古語の「かみな」が転じたもので「かむな」「かうな」などとも呼ばれた。

「腭(あぎと)」顎(あご)。

「姉淸子」既に「貂」に出た「姉の菊子」(ここにも以下に出る)を私は次女ツル(明治三〇(一九〇五)年~大正七(一九一八)年。民喜と八つ違い)に措定した。とすると、ここに出るこの「姉」は、私は長女の操(明治二四(一八九一)年~大正一三(一九二四)年。民喜とは十四も離れる)ではないかと推定する。但し、そうすると三女の千代(明治三五(一九〇二)年生。民喜と三つ違い)が登場しないのは如何にもおかしいことになるので、或いは「菊子」は三女の千代で、「淸子」がツルであるかも知れないのであるが、どうもここで「雄二」が姉の「淸子」が「こんなところにいるのが」「不思議」と感じるのは、或いは既に他家へ嫁していた彼女に、この避暑地で逢えたからこその感懐ではないかとも思うからである。

「お叩頭」「おじぎ」(お辞儀)。

「黑い服を着た支那のお婆さんは、小さな靴を穿いてゐて」この老婆は纏足である可能性が高いように思われる。

「ほら、このまつとほり」「ほら、あの松通りのところよ」の謂いか。

「O(オー)公園」大元(おおもと)公園のことであろう。現在の宮島水族館の西にある大元神社周辺で、海浜でありながら樅(もみ)の大木が植生する珍しい場所である。

「くれなゐ丸」これは初代の「瀬戸内海の女王」とも言うべき明治三三(一九〇〇)年竣工で、明治四四(一九一一)年に大阪商船が購入し、運航した貨客船「紅丸」ではないかと思われる。ウィキの「紅丸によれば、大阪・神戸と別府温泉を結びつける大きな契機となった貨客船であったとある。昭和二〇(一九四五)年三月からの米軍の瀬戸内海機雷投下(飢餓作戦(Operation Starvation))により、運航を停止、同年六月二十六日、大阪港停泊中に空襲で至近弾を受けて損傷を生じたが、敗戦を浮いたまま迎えることが出来たものの、一ヶ月の九月十八日、大阪港内で座礁沈没している。

ぎざみ」スズキ目ベラ亜目ベラ科カンムリベラ亜科キュウセン属キュウセン(求仙) Parajulis poecilopterus の瀬戸内海での地方名。「ぎさみ」とも。は体長二十センチメートルほどで黄褐色に背面中央と体側に黒色の太い縦帯が入り、黒帯の内外に点線状の赤い縦線を持つ(和名は、この線の数を計九本とみたことに由来するという)。一方、は体長三十センチメートルとよりも有意に大きく、体色は鮮やかな黄緑色を呈するものの、体側の縦帯はよりも広く不明瞭で、胸鰭の後方に大きな藍色の斑点を一つ有する。派手な色が関東では好まれないものか、まず流通では見かけないが、富山で六年過ごした私は、キス釣りの外道でよく釣れ、ぬめりがあるものの、白身で癖はなく、結構、焼き魚にして美味かった記憶がある。参考にしたウィキの「キュウセンによれば、『新鮮な大型個体は刺身が美味で、ワサビ、シソなどの薬味を添える。他に煮付け、塩焼き、唐揚げ、南蛮漬けなど様々な料理に利用される』とある。

「N濱」現在の宮島フェリー・ターミナルの東北に位置する長浜か。

「くらげ」大吉が素手で触っており、簡単に干からびるところ見ると、刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属ミズクラゲ Aurelia sp.(タイプ種Aurelia aurita)の稚クラゲと思われる。

「すると、不思議なことに、その空間には、何時かも浮んだことのある、輪のやうな透明なものが泳いで行つた」本篇の題名の「不思議」の一つでもあるのであるが、これは恐らく健常者でもしばしば見られる(私は小さな頃からよく見る)、生理的飛蚊(ひぶん)症と考えられる。眼球内のガラス体内に生じた混濁(古い視細胞の繊維などの流出物)が網膜上に影を落とすことで発生する現象で、視界内に糸屑のようなもの、黒い影のようなもの、小さな蚊や虫や海月のようなものが見え、視点を移すと、それが動き回るように感じられるものである。明るい場所で白いものや空を見た場合によく見える。多くの場合は加齢により自然発生するもので、問題はないが、網膜剥離や糖尿病網膜症の前兆や初期症状として急激に多量に出現する場合もあり、その際は直ちに眼科の受診を受けることを強くお勧めする。

「反齒」「そつぱ(そっぱ)」。出っ歯。

「浮塵子(うんか)」半翅(カメムシ)目ヨコバイ亜目 Homoptera に属する稲の害虫となる成虫体長が五ミリメートルほどの昆虫類を漠然と総称するもので、ウィキの「ウンカによれば、『アブラムシ、キジラミ、カイガラムシ、セミ以外の』昆虫類に相当する広汎な『範疇の昆虫のいわば典型の一つがウンカであるため、この仲間にはウンカの名を持つ分類群が非常に多い。なお、「ウンカ」という標準和名を持つ生物はいない』とあり、『セジロウンカ(Sogatella furcifera)、トビイロウンカ(Nilaparvata lugens)、ヒメトビウンカ(Laodelphax striatellus)などがイネの害虫で』、『これらはいずれも良く跳びはね、また良く飛』び、燈火に集まる。

「煮いて」「たいて」。]

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 「小地獄」

[やぶちゃん注:以下の「小地獄」(「しやうぢごく(しょうじごく)」と読んでおく)は昭和一五(一九四〇)年五月号『三田文学』を初出とする。当時、民喜満三十四歳。]

 

 小地獄

 

 私は臺所で老婆が御飯を焚くのを見てゐた。焰の中に突込まれた割木の皮が、ぢぢぢと泡を吹いて、松葉の煙が三和土に流れて來るのを、老婆は滿足さうに屈んで眺めてゐる。

 私はその老婆が何時から私のうちへ來たのか知らなかつたが、何となしに厭な氣持だつた。「婆あ、婆蟲」と、私はとうとう口をついて罵つてやつた。その老婆は聾なのか、汚れて光る筒袖の下に火吹竹をやつて、素知らぬ顏でゐる。「婆蟲、婆蟲、バツサバサ」と、私は大聲で板の間を踏鳴らした。

 すると、老婆はそつと私の方へ笑顏を向けた。見ると、老婆の唇の中には眞黑な蟲がむじやむじや蠢いてゐるのだ。私はわあと大聲で泣喚いた。母が喫驚して駈つけて來ると、老婆は頻りに口をあけて何か云つてゐた。

 もう何も怕いことはないと、漸く私は母に宥められた。そこで、おづおづと老婆の方を視ると、今度はその眞黑な蟲の中に小さな赤い蛇がめらめらと動いてゐるのだつた。

 

 私は女中に負はれて、地獄極樂を見に行つた。蓆で圍はれた掘立小屋の前まで來ると、カンカンカンと小さな鉦が鳴つてゐて、線香の煙がまつすぐ立昇つてゐた。

 木戸口を入ると、ささくれ枯木のむかふに、忽ち大きな靑鬼がゐた。暫く私の眼は不思議な鬼の顏に吸込まれてゐたが、そのうちにもう足がガタガタ慄へ出した。私は女中の耳に口を寄せて「歸らう」と、小聲で囁いた。しかし、女中の手は私の軀をしつかり締めつけてゐて、「まだ、これからですよ」と、冷淡に云つた。

 女中は私を無理矢理に三途の川へ連れて行つた。私が背で泣喚けば喚くほど、女中は態と強情になつた。「見ておきなさい、見ておくものですよ」と、どうしても女中は私に地獄を見せようとするのだつた。煮え滾る泪の中で、私はもう何も見えなかつた。「そら、今度は極樂だからもうそんなに泣くのぢやない」と、女中はきつく私を叱つた。

 外へ出てからも、まだ嗚咽の痙攣が續いた。明るい眞晝の光が眼に沁みて何も彼も前とは變つてゐるやうであつた。女中はぶらぶらと練兵場の方へ歩いて行き、なかなか家へは連れ戻してくれなかつた。

 

 私は風呂場の前の空地で土いぢりをして遊んでゐた。そこの土を掌で掘ると、いくつもいくつも婆蟲が出て來た。婆蟲といふのは蟬の幼蟲で、暗闇から出て來ると白い恨しさうな顏をするのだつた。私はもうそんなことはやめにして、早く家へ歸らうと思つたが、どういふものか婆蟲は後から後から出て來た。

 そのうちに氣がつくと、風呂場の方はもう日が暮れてゐて眞暗になつてゐた。ふと耳許で家の中にある筈の柱時計がヂヤランヂヤランと鳴りだした。私は何だか妙な氣がした。

 それから私が土を拂つて、立上ると、その瞬間、私の足に何か觸れたものがあつた。見ると土の下からによつきり生えてゐる老婆の手だ。あつと思ふ間に老婆は土を割つて、全身を跳ね起した。

 

 私は遲くまで寢そびれて、めそめそ泣いてゐた。とうとう父が私の身體を摑んで、雨戸の外へ放り出した。雨戸の外は濡れた緣側で、葉の落ちた楓の白い幹が屋根の方へ突立つてゐた。庭はキヤツと冴えてゐた。

 殆ど私は死にもの狂ひで泣いた。咽喉がヒリヒリ痛み、そのうちに聲はかすれて行つた。首筋に夜の冷氣が感じられると。また新しい涙が湧いて來た。私は身を縮めて、今度は聲もなく泣いた。

 その時、緣側の月の光がくらくらと搖れ、どたんと、何か私に突當たるものがあつた。次いで私は空の方へ攫はれて行くやうな氣持がした。見ると、庭の池が段々遠くなり、月光に濡れた屋根が小石のやうに飛んで行くのだつた。眞晝のやうに明るい白雲や、大きな松の枝がいくつもいくつも見えて來た。

 暫くして、私は嶮しい山のてつぺんに降された。叢には六七人の天狗が焚火を圍んで蹲つてゐた。私がぶるぶる慄へてゐると、大將らしい天狗が凝とこちらを視つめた。私はその顏が何だか父に似てゐるやうに思へた。その天狗は急に柔和な笑みを湛へた。「これをやるから泣くのぢやないぞ」さう云つて、天狗は團栗の實を一握り、私の掌に渡してくれた。

 

 私は蒟蒻屋の前に立つてゐた。雨の上つた朝で、蒟蒻屋の大きな鐵の釜は頻りに湯氣を吹いてゐた。釜のところの壁は竜が匍上つたやうに黑い跡が着いてゐて、天井は時々稻妻を放つた。

 奧の方から棍棒を持つた若衆が出て來ると、釜の蓋を開けて湯氣の中を搔混ぜ出した。湯の中の蒟蒻はぐらぐらと搖れた。それから別の若衆が笊に一杯白い塊を抱へてやつて來ると、釜の中に放り込んだ。蒟蒻はあーん、あーんと可哀相な聲で泣いた。見ると、白い手をした蒟蒻や、赤い小さな口をした子供が湯氣の中に積重つてゐる。

 私はそつと壁のところの鐵管の下に置いてある大きな桶の方を眺めた。その中にはもう死骸になつた蒟蒻が一杯詰められてゐる。しかし、あの殘骸もこれから何囘となく虐められるのだらうと思へた。あーん、あーんと泣聲は店頭に滿ちた。私も耐らなくなつて、あーん、あーんと泣き出した。

 泣きながら私は、湯氣の向で棍棒を振つてゐる若衆が今に怒つて私に飛掛つて來さうな氣がした。泣きながら私は逃げて行つた。指物屋の前まで來ると、恰度奧では頰骨の突出た瘦せ男が、固い木に鑿を打込んでゐたが、ふと私の逃げてゆくのを見咎めて、慍つと顳顬に靑筋が泛んだ。やにはに指物師は鑿を振上げ、跣で追駈けて來た。

 

 私は父に連れられて、伯父の家へ行つた。初夏の宵の水々しい風が二階の窓に吹いてゐて、二階では澤山の大人が酒盛を始めた。私も父の側にちよこなんと坐つてゐたが、酒盛はなかなか終らず、終には欠がいくつも出た。

 父は私に次の間に行つてやすめと云つた。次の間と、酒盛の部屋とは襖が一枚開けてあつて、燈がそこから洩れてゐた。私は伯母に羽根布團を掛けてもらふと、すぐうつらうつらと睡つた。暫くして、隣室で盛んに手拍子を打つ音がおこつた。手拍子が歇むと、わあと猛烈な笑ひがつづき、何となしに物凄い感じがした。

 私は目をあけて、次の間の方を覗ふと、赤鬼や靑鬼がてらてらとランプの光に映されてゐるのだ。その中に馬の首をした鬼もゐて、その鬼は伯父さんの顏とそつくりだつた。私は喫驚して息を潛めてゐると、馬の首をした鬼は目ざとくも私の方に氣が着いた。その鬼は隣の鬼に何か囁いた。すると囁かれた鬼はすぐ頷き、小聲で皆に何か云つた。次いで、パチパチと皆は掌を打鳴らした。さうすると忽ち鬼は消えて、そつくり以前の酒盛の光景に變つてゐた。

 

 私は母が裁縫する側に寢そべつてゐた。ふと見ると、針差の針の山にてんとう蟲が一匹這登つてゐるのだつた。てんとう蟲は一本の針を傳つて段々てつぺんに登つて行く。針のてつぺんの針のめどに妖しげな光が洩れてゐて、それを眺めてゐると、何だか氣が遠くなるやうだつた。

 その時、母は糸切齒で赤い絹糸をぷつりと食ひ切つた。と、私は母の齒がなんだか怕く思へた。突然、母はホイと奇妙な聲を放つた。私は喫驚して跳ね起きると、改めて母の顏を眺めた。

 母は一寸裁縫の手を休めて、私の動作を不審さうに眺めた。それから少し心配さうな眼で私を眺めた。私は何だか悲しく焦々して來た。恰度その時、表の方をゴロゴロと車の這入つて來る響がした。火の車が迎へに來たらしい。私は一そう焦々した。

 すつと母は靜かに立上つて玄關の方へ行つた。私も急いで母の後を追ふと、玄關には頰被りをした大男が大八車を止めて立つてゐた。車には莚が被せてあつたが、莚の下には、赤い人參や、白い大根や、黑い牛蒡が繩で嚴しく縛附けて隱されてゐた。

 

 私は老婆に風呂桶に入れられて、上から大きな石の錘を置かれた。「今に煮殺しにしてやるわい」と老婆は竈の處に屈んで呟いた。それからごそごそ松葉を搔集めてゐる音が聽えた。やがて燐寸を擦る音がした。火がぽつと燃えだしたらしい。パタパタと澁團扇で煽ぎだすと、竈は轟々と鳴り響いた。

 私は無我夢中で暴れ廻つた擧句、どうやら、緣側のところまで逃げだすことが出來た。日はとつぷり暮れて、庭は眞暗だつた。私の脚はぺつたり緣に吸着いてしまつた。頰を板に橫へて、私は死んだやうになつてゐた。見るともなしに緣の下の方を見ると、何時の間にか小さな川が出來てゐて、暗い水の中を何やら奇怪な顏が流れて行つた。

 生首はつぎつぎに浮び、押流されながら私の方を睥んだり、げらげら笑ひかけたりする。私はそれを見たくないので目を閉ぢてしまつた。「早くランプをつけて明るくしてくれえ」と、私はいつまでも泣き悶えた。

 

[やぶちやん注:「三和土」老婆心乍ら、「たたき」と読む。叩き土に石灰・水などを加えて塗り、叩(たた)き固めたて仕上げた土間のこと。現行は多くがコンクリート製。作業の「叩き」が語源。

「私はとうとう口をついて罵つてやつた」の「とうとう」(到頭)はママ(正しい歴史的仮名遣は「たうとう」)。二箇所出るが、以下は注を略す。

「喫驚して」音なら「きつきやう(きっきょう)」であるが、ここは「びつくり(びっくり)」と訓じていよう。「吃驚」と同じい。

「怕い」「こはい(こわい)」(怖い)。

「團栗」「どんぐり」。

「蒟蒻屋」「こんにやくや(こんにゃくや)」。

「指物屋」「さしものや」は「差物屋」「挿物屋」とも書き、板を細かに差し合わせて作る家具や器具、机・簞笥・障子・箱などの類を作る店のこと。

「慍つと」「慍」は音「ウン」で、恨む・怒る・憤るの意であるが、ここは、そうした心中の不満や怒りが表情へ出たものであるから、「むつと」(「むっとして」の意)と訓じていよう。

「顳顬」「こめかみ」。

「泛んだ」「うかんだ」(浮かんだ)。

「終には欠がいくつも出た」「欠」は「あくび」と訓ずる。正字化しなかったのは多くの作家が「あくび」の場合には、「欠」の字を用いて「缺」を使用しない例をしばしば見てきたからである。

「燈がそこから洩れてゐた」の「燈」は底本の用字である。

「歇む」「やむ」。

「てんとう蟲」はママ。漢字表記は「天道蟲」であるから、歴史的仮名遣としては正しくは「てんたう」でなくてはならない。

「針のめど」「めど」は漢字表記すると「針孔」で針の糸を通す穴のこと。「はりのみみ」「みず」「みみ」などとも呼称する。

「焦々」「いらいら」。

「錘」「おもり」。

「燐寸」「マツチ(マッチ)」。

「澁團扇」「しぶうちは(しぶうちわ)」表面に柿渋を塗った丈夫な日用として実用されるうちわ。夏の季語でもあり、風呂桶に押し込められるところや、後の生首の出現など、まさに夏を意識している感じがする。

「睥んで」「にらんで」。前の蝦獲りに既出既注。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 土蜘蛛

Tutigumo

つちくも  跌蝪 跌母

1蟷  土蜘蛛

      顚當蟲

テタン   【豆知久毛】

[やぶちゃん字注:「1」=「虫」+「窒」。]

 

本綱1蟷形似蜘蛛土中布網其窠深如蚓穴網絲其中

土葢與地平大如楡莢常仰捍其葢伺蠅蠖過輙翻葢捕

之纔入復閉與地一色無隙可尋而蜂復食之

 

 

つちぐも  跌蝪〔(てつたう)〕 跌母〔(てつぼ)〕

1蟷  土蜘蛛

      顚當蟲〔(てんたうむし)〕

テタン   【豆知久毛〔(つちぐも)〕。】

[やぶちゃん字注:「1」=「虫」+「窒」。]

 

「本綱」、1蟷は、形ち、蜘蛛に似て土の中に網を布〔(し)〕く。其の窠〔(す)〕、深く、蚓〔(みみず)〕の穴のごとく、其の中に網絲〔(まうし)〕す。土の葢(ふた)、地と平〔(たひら)か〕なり。大いさ、楡莢〔(ゆきやう)〕のごとし。常に其の葢を仰捍〔(ぎやうかん)〕し、蠅・蠖〔(しやくとりむし)〕の過ぐるを伺ひて、輙〔(すなは)〕ち葢を翻して、之を捕ふる。纔かに入れて、復た、閉づ。地と一色、隙ま、無し。尋ねて、蜂、復た、之れを食ふべし。

 

[やぶちゃん注:これは、

クモ亜目トタテグモ下目カネコトタテグモ科トタテグモ科 Ctenizidae(カネコトタテグモ科 Antrodiaetidae トタテグモ科 Ctenizidae に分かれるものの、主要な種群は後者のトタテグモ科 Ctenizidae に属する)

のトタテグモ(戸立て蜘蛛)類である。ただ、「土蜘蛛」から真っ先に連想するのは「地蜘蛛」で、確かに名の通り、

クモ亜目トタテグモ下目ジグモ科ジグモ属ジグモ Atypus karschi(本邦には本種一種のみ)

ではある。彼らも同様に地下に穴を掘って営巣するものの、その巣は地上部が先細りの袋状のものとして地面上部の遙か上方まで張り出しており(近くの木の幹や壁などに沿って伸び、先端部はそれらに付着する)、明らかに見た目の巣の形状がトタテグモ類とは異なる。しかし、ここに記された内容はそうしたジグモ系の特殊な地上部に営巣形状を描いていないので、ここでは含まれないと考える方が無難かもしれない。但し、本記載は「本草綱目」のみであるから、中国産のジグモ類の営巣法がやはりトタテグモ類と有意に異なることを確認しないと同定候補からの排除は出来ない。また、個人的には「顚當蟲」という呼称が気になっている(後の「顚當蟲」の私の注を参照のこと)なお、「本草綱目」の本種の全記載は以下の通り。

   *

1蟷【「拾遺」】

釋名 蜴跌【「爾雅」】。顚當蟲【「拾遺」】。跌母【綱目】。土蜘蛛【藏器曰、1蟷音窒當。「爾雅」作跌蜴音湯。今轉爲顚當蟲。河比人呼爲跌蟷。音姪唐。鬼谷子謂之跌母。】

集解 藏器曰、1蟷是處有之、形似蜘蛛、穴土爲窠穴、上有葢覆穴口。時珍曰、跌蝪、即「爾雅」土蜘蛛也。土中布網。按段成式「酉陽雜俎」云、齋前雨後多顚當窠、深如蚓穴網絲、其中上盖與地平、大如楡莢、常仰捍其蓋伺蠅蠖過、輙翻蓋捕之。纔入閉、與地一色、無隙可尋。而蜂複食之。秦中兒謠云、顚當顚當匕匕牢守門蠮螉、寇汝無處奔。

氣味 有毒。

主治 一切疔腫、附骨疽蝕等瘡。宿肉贅瘤、燒爲末、和臘月豬脂傅之。亦可同諸藥傅疔腫、出根爲上【藏器】。

   *

良安はここでは全く自己の見解を附言していない(「本草綱目」引用と訓点を附しただけの特異点)。彼は実はトタテグモを見たことがなかったのかも知れない。以下、ウィキの「トタテグモ」を引いておく。『原始的なクモ類で』、『地中に』『トンネル状の』『穴を掘り、その入り口に扉を付けること』『からその名がある』。『日本で最も普通の種は』トタテグモ科トタテグモ属キシノウエトタテグモ Latouchia swinhoei typica である(現行は亜種扱い。以下の記載を参照)。『本州中部以南に分布し、人家周辺にも普通に生息する。コケの生えたようなところが好きである。地面に真っすぐに穴を掘るか、斜面に対してやや下向きに穴を掘る。穴は深さが』約十センチメートル程度、『内側は糸で裏打ちされる。巣穴の入り口にはちょうどそれを隠すだけの楕円形の蓋がある。蓋は上側で巣穴の裏打ちとつながっている。つながっている部分は狭く、折れ曲がるようになっていて、ちょうど蝶番のようになる。蓋は、巣穴と同じく糸でできている。そのため、裏側は真っ白だが、表側には周囲と同じような泥や苔が張り付けられているため、蓋を閉めていると、回りとの見分けがとても難しい』。クモ本体は体長一センチ五ミリほどしかない。『触肢が歩脚と見かけ上』では『区別できないので十本足に見える。これは原始的なクモ類に共通する。鋏角は鎌状で、大きく発達していて、穴掘りに使用する。全身黒紫色で、腹部にはやや明るい色の矢筈(やはず)模様がある。クモは巣穴の入り口におり、虫が通りかかると、飛び出して捕まえ、巣穴に引きずり込んで食べる。大型動物が近づくと、蓋を内側から引っ張って閉じる。さらに接近すると、巣穴の奥に逃げ込む。巣穴の奥に産卵し、子供としばらくを過ごす。子供は巣穴を出てから空を飛ぶことなく、歩いて住みかを探す』。『環境省のレッドデータブックでは、「準絶滅危惧」とされる』。本キシノウエトタテグモ Latouchia swinhoei typical は『近年、近似種のオキナワトタテグモ Latouchia swinhoei swinhoeiの亜種とされた』。『オキナワトタテグモは沖縄本島に、さらに周辺諸島ではそれぞれ固有種が分化している』。『同じように地中に穴を歩って巣を作り、入り口に扉をつけるものにキムラグモ』(クモ目ハラフシグモ亜目ハラフシグモ科キムラグモ属 Heptathela に属する種或いは同属キムラグモ Heptathela kimurai)『があるが、巣穴の裏打ちに糸を使用しない点が異なる』。『両開きの扉を作るものもある。カネコトタテグモ科』(Antrodiaetidae)『に属するもので、日本では本州の固有種であるカネコトタテグモ』(カネコトタテグモ科カネコトタテグモ属カネコトタテグモ Antrodiaetus roretzi)『がそれである。多くは苔の生えた斜面に巣穴を掘る。その巣穴の入り口は、左右に開くようになっているが、キシノウエトタテグモの場合のように、蝶番部がはっきりしている訳ではないので、あまり扉らしくは見えない。閉じている時には、中央に、縦に閉じ目がわずかに見えるが、蓋の表面は周囲と同じ苔などで覆われ、発見するのは大変困難である。北海道のエゾトタテグモ』(カネコトタテグモ属エゾトタテグモ Antrodiaetus yesoensis)『も同様の巣を作る』。『近縁なものであるが、生息環境が変わっているのが、キノボリトタテグモ』(トタテグモ科キノボリトタテグモ属キノボリトタテグモ Conothele fragaria)『である。このクモは、ほかの仲間と異なり、巣穴を掘らない。苔むした樹や、岩の上に生息し、樹皮や岩の上に、指貫き状の短い袋を糸で作る。そしてその口に一枚扉をつける。蓋の表と同様に、巣の表面にも周囲の苔や泥などをつけるため、発見はやはり難しい。クモは蓋の裏側に留まっており、餌が通りかかるのを待っている。蓋を無理やり開けてやると、蓋の裏側に身を縮めて留まっているのが見える。神社など、古い森林に見つかるが、近年は減少が著しい』。『キシノウエトタテグモには、冬虫夏草の一種であるクモタケ』(菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ボタンタケ亜綱ボタンタケ目オフィオコルジケプス科 Nomuraea 属クモタケ Nomuraea atypicola)『がよくつく。クモタケがクモにつくと、巣穴の底で死んだクモからキノコの子実体が伸び、扉を押し上げて地上にその姿を現す。キシノウエトタテグモの巣はなかなか発見しづらいので、キノコが出現したことで、初めてクモの存在に気が付くという場合がある』。『トタテグモの仲間は、他のクモが』二齢虫期(一回目の脱皮後の幼虫期)に『行なうバルーニングを行なわない。そのため、オキナワトタテグモは沖縄本島とその周辺諸島で固有種が分化していると考えられている』とある。

 

・「土蜘蛛」良安がストイックなのが気に入らねえ。大脱線も構わず、本邦のまつろわぬ民「つちぐも」を語ろう。ウィキの「土蜘蛛」より引く。『本来は、上古に天皇に恭順しなかった土豪たちである。日本各地に記録され、単一の勢力の名ではない。蜘蛛とも無関係である』が、大和朝廷に逆らった者たちの常道として、後世では『蜘蛛の妖怪』に零落させられ、『別名「八握脛・八束脛(やつかはぎ)」「大蜘蛛(おおぐも)」』などと呼んだ。『八束脛はすねが長いという意味』である。『なお、この名で呼ばれる蜘蛛は実在しない。海外の熱帯地方に生息する大型の地表徘徊性蜘蛛』類の一グループである節足動物門鋏角亜門クモ(蛛形)綱クモ目オオツチグモ(大土蜘蛛)科 Theraphosidae (所謂、タランチュラ(tarantula)の類)の和名の一部は、『これらに因んで和名が付けられている』ものの、『命名は後年近代に入ってからであり、直接的にはやはり無関係である』。『古代日本における、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称。『古事記』『日本書紀』に「土蜘蛛」または「都知久母(つちぐも)」の名が見られ』、『陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など、各国の風土記などでも頻繁に用いられている』。『また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、朝廷から恐れられていた。ツチグモの語は、「土隠(つちごもり)」からきたとされ』、『すなわち、穴に籠る様子から付けられたものであり、明確には虫の蜘蛛ではない(国語学の観点からは体形とは無縁である)』。『土蜘蛛の中でも、奈良県の大和葛城山にいたというものは特に知られている。大和葛城山の葛城一言主神社には土蜘蛛塚という小さな塚があるが、これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる』。『大和国(現奈良県)の土蜘蛛の外見で特徴的なのは、他国の記述と違い、有尾人として描かれていることにもある。『日本書紀』では、吉野首(よしののおふと)らの始祖を「光りて尾あり」と記し、吉野の国樔(くず)らの始祖を「尾ありて磐石(いわ)をおしわけてきたれり」と述べ、大和の先住民を、人にして人に非ずとする表現を用いている。『古事記』においても、忍坂(おさか・現桜井市)の人々を「尾の生えた土雲」と記している点で共通している』。「肥前国風土記」には『景行天皇が志式島』(ししきしま:現在の平戸南部地域)『に行幸した際』、『海の中に島があり、そこから煙が昇っているのを見て探らせてみると、小近島の方には大耳、大近島の方には垂耳という土蜘蛛が棲んでいるのがわかった。そこで両者を捕らえて殺そうとしたとき、大耳達は地面に額を下げて平伏し、「これからは天皇へ御贄を造り奉ります」と海産物を差し出して許しを請うたという記事がある』。「豊後国風土記」にも『五馬山の五馬姫(いつまひめ)、禰宜野の打猴(うちさる)・頸猴(うなさる)・八田(やた)・國摩侶、網磯野(あみしの)の小竹鹿奥(しのかおさ)・小竹鹿臣(しのかおみ)、鼠の磐窟(いわや)の青・白などの多数の土蜘蛛が登場する。この他、土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)の話もあり、山に居構えて大和朝廷に抵抗したが、全滅させられたとある。八十(やそ)は大勢の意であり、多くの女性首長層が大和朝廷に反抗して壮絶な最期を遂げたと解釈されている』。『この土蜘蛛八十女の所在を大和側に伝えたのも、地元の女性首長であり、手柄をあげたとして生き残ることに成功している(抵抗した者と味方した者に分かれたことを伝えている)』。「日本書紀」の記述でも景行天皇一二年』の冬十月、『景行天皇が碩田国』(おおきたのくに:現在の大分県。「おおいた」はこれが訛ったものとも言われる)『の速見村に到着し、この地の女王の速津媛(はやつひめ)から聞いたことは、山に大きな石窟があり、それを鼠の石窟と呼び、土蜘蛛が』二人住んでおり、『名は白と青という。また、直入郡禰疑野(ねぎの)には土蜘蛛が』三人いて、『名をそれぞれの打猿(うちざる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ・国麻呂)といい、彼ら』五人は『強く仲間の衆も多く、天皇の命令に従わないとしている』とある(以下、彼らを零落させた(と私は思っている)妖怪の記載は不快なので省略する)。

・「顚當蟲〔(てんたうむし)〕」これは「頭(頭胸部)と腹部がひっくり返っている虫」、或いは「ひっくり返って頭が腹を打ち当てる虫」という雰囲気が伝わってくるくるように私には思われる。すると、ここに同定を留保してしまった「ジグモ」(クモ亜目トタテグモ下目ジグモ科ジグモ属ジグモ Atypus karschi(本邦には本種一種のみ))の特殊な習性が想起されてくるのである。ウィキの「ジグモ」によれば、その形状は、は『大型で、メスは体長が』二センチメートルにも『達する。頭胸部は正中線の隆起が弱く扁平である。また、触肢はやや小型化しており、歩脚との区別が明瞭である。歩脚は太いが』、『トタテグモ科ほど太くはなく、その色彩は頭胸部と同じで暗黄褐色化しない。腹部は無紋』。『鋏角が非常に大きく発達し、ほとんど頭胸部と同じくらいの長さがある』。『触肢は小さく、四対の歩脚は中程度。全身は黒褐色で、模様はない。腹部は楕円形で柔らかい。なお、雄は基本的な特徴は同じだが、腹部が小さく歩脚が細長いため、かなり異なった印象を与える』。このの形状は写真を見ると、頭胸部と腹部がほぼ同じぐらいか遙かに腹部が大きいことが判る。これは静止個体を一定の距離をおいて見ると、どっちが前後か素人には分らないようにも見える。さらに着目すべきは「人間との関係」の項で、そこには、『鋏角が長大なため、鋏角を腹部の方に曲げてやると自分の腹を切り裂いてしまう事から、かつては子供が「ハラキリグモ」「サムライグモ」などと呼んで遊んでいた』とあることである(下線やぶちゃん)。以上から、もしかすると「顚當蟲」という「土蜘蛛」の異名は実はトタテグモ(トタテグモ科 Ctenizidae)の類にではなく、このジグモ科 Atypidae の誰彼に対して冠せられたものではなかったかとも思えてくるのである。識者の御教授を乞う。

・「網絲〔(まうし)〕す」網をかける。

・「楡莢〔(ゆきやう)〕」バラ目ニレ科ニレ属 Ulmus に属する広葉樹の種子。扁平な堅果で膜質の翼を持つ風散型の種である。実際にトタテグモ類の巣の蓋に色も形状も似ている。

・「仰捍〔(ぎやうかん)〕し」巣の奥から仰いで見守って。

・「蠖〔(しやくとりむし)〕」鱗翅シャクガ科 Geometridae の蛾類の幼虫の総称。

・「纔かに」この場合は時間が頗る短いことであるから、瞬く間に、の意。

・「地と一色、隙ま、無し」主語は「蓋」である。

・「尋ねて、蜂、復た、之れを食ふべし。」この箇所がどうも気になる。東洋文庫版現代語訳は「尋ねて」の訓読を上に回し(そこに関してはそれが正しいと私も思う)、「蜂をも復た、之れを食ふ」の訓読をしたものらしく、『蜂をもまた食べる』と訳してあるのである。この前後の「本草綱目」の原文を今一度、見よう(推定の切れ目を総て句点に変えた)。

   *

常仰捍其蓋。伺蠅蠖過。輙翻蓋捕之。纔入閉。與地一色。無隙可尋。而蜂複食之。

   *

これ、私なら、

   *

常に其の蓋(ふた)を仰捍(げうかん)し、蠅・蠖(しやくとりむし)の〔近きを〕過ぐるを伺ひ、輙(すなは)ち、蓋を翻して之れを捕る。纔(またた)くまに入りて閉づ。〔其の蓋は〕地と一色にして、尋ぬべき隙(すきま)も無し。而して蜂、複た、之れを食らふ。

   *

 どうもおかしい。

 通常の摂餌対象である「蠅・蠖」の位置から、ずうっと離れた最後の最後に、あの強力な毒針を持つ「蜂」だって食べるのだ、というのは何となく気になるのである。

 無論、蠅を食うなら、蜂を食っても(逆に針で対抗されて命を落とすリスクはあっても)おかしくはない。

 おかしくはないが、翻って言えば、肉食性の蜂類も当然、蜘蛛類を捕食する。中型種であるトタテグモは相応に蜂にとっても豊かな摂餌対象とは言えよう。しかも、どうだろう? この直前の箇所は、

――土蜘蛛の巣の蓋は地面「と一色にして、尋ぬべき隙(すきま)も無」く、見分けることも出来ぬほどに巧妙に作られている。――

とあるのだが、「而」は「しかモ」或いは「しかれドモ」と訓じて、逆接で訳し

――而れども、蜂も復た、之れ(土蜘蛛)を食ふ。――

とは読めないか?……さらに私の妄想は続くこの土蜘蛛を襲う蜂はそれを食うのではないのではないか? それに麻酔針を打ち込み、不動状態とし、卵を埋め込み、まさに土蜘蛛の巣に戻し入れ、蓋の部分を開かないように封鎖する寄生蜂なのではないか?……但し、残念ながら、そのようなトタテグモ類に特化した寄生バチの記載をネット上で見出すことは出来なかったから、このトタテグモの巣まで利用してしまうチャッカリ寄生バチはヤッパリ私の妄想の域を出ないのであった。大方の御叱正を俟つものである。

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― ちちははのしきりにこひし雉の聲 芭蕉

本日  2016年 4月26日

     貞享5年 3月26日

はグレゴリオ暦で

    1688年 4月26日

 

   高野

ちちははのしきりにこひし雉の聲

 

散る花に髻(たぶさ)はづかし奥の院   萬菊

 

「笈の小文」。サイト「俳諧」の「笈の小文」では、三月二十四日に吉野山を発ち、翌二十五日に五條宿から不動坂を経、その夕刻に高野山に着き、その翌二十六日に高野山奥の院にて本句を詠じたと推定されている。

 松尾家の宗旨は真言宗で、実の父母(この前月二月十八日の祥月命日には伊賀上野の実家にて十三の時に亡くなった父松尾与左衛門三十三回忌法要を営んでおり、この年の六月二十二日は亡母の五回忌に当たった)を含め、先祖の鬢髪(びんぱつ)はここに収められており、しかも若き日に自ら仕えた故主蟬吟藤堂良忠(この一ヶ月後は寛文六(一六六六)年四月二十五日没した彼の二十三回忌に当たる)の遺骨を抱いてここに納めに参ったのも芭蕉自身であり、しかもその後に、彼は無常を感じて故郷を出で、かく漂泊風狂の俳諧人生へと旅立ったのでもあった。彼にとって、高野とはまさに芭蕉という精神現象の常に岐路にあったのだと言えるのである。

 ずっと後のことながら、加藤暁台門下で名古屋の俳壇を主導した井上士朗(寛保二(一七四二)年~文化九(一八一二)年)の「枇杷園随筆」(文化七年刊)の「秋挙夜話」には「高野山端書」と仮題した芭蕉の遺文が載り、そこには、

   *

高野の奥に登れば、靈場盛んにして法の燈(ともしび)消ゆる時なく、坊舎、地を占めて、仏閣、甍を並べ、一印頓成(いちいんとんじう)の春の花は、寂寞(じやくまく)の霞の空に匂ひておぼえ、猿の聲、鳥の啼くにも腸(はらわた)を破るばかりにて、御庿(ごびやう)を心しづかに拜み、骨堂(こつだう)の邊りに佇みて、倩(つらつら)思ふやうあり。此(この)處(ところ)は多く人の形見(かたみ)の集まれる所にして、我が祖先の鬢髪(びんぱつ)を始め、親しき懷しきかぎりの白骨も、此の内にこそ思ひこめつれと、袂(たもと)もせきあへず、そぞろにこぼるゝ淚をとゞめて、

 

  父母のしきりに戀し雉の聲

 

   *

と出る。この印象的な前書を信ずるならば、この句のロケーションは納骨堂に参り入った際の詠と読めよう(山本健吉氏もそう、とっておられる)。さればこそ、雉子の声は直に耳に入る鋭い声ではない。そのSEでこそ私は、よい、と考える。

 この一句は行基菩薩が高野山で詠んだとされる(伝承に過ぎず、少なくとも詠地は高野ではあるまい。事実とすれば高野山金剛峯寺建立の遙か七十年以上前ということになるからである)「玉葉集」の一首(第二六二七番歌)、

 

     山鳥のなくを聞(きき)て

 

  山鳥のほろほろと鳴く聲きけばちちかとぞ思ふははかとぞ思ふ

 

に基づく。その程度で考証は、もう沢山だ。諸家の「焼け野の雉(きぎす)夜(よる)の鶴」なんぞをしたり顔に挙げる注は、句の深く沈潜した芭蕉への共感的「感傷」を妨げるだけの退屈な「鑑賞」に過ぎぬ。

 なお、添えられた「萬菊」丸杜国の「散る花に髻(たぶさ)はづかし奥の院」という句は、金剛峯寺の、弘法大師が今も生きて居らるるとされる聖域「奥の院」を訪れた髻(もとどり)のある杜国が、その俗体(彼はまた、現世で、現に今、追放を受けている罪人でもあるが故にここは妙にさらにさらに相応しい気がしてくるのである)を忸怩たるものとして恥じ入る――花散る無常の季節の理の下で、である――という句である。芭蕉の句の構造と美しい対句を成していることにも着目されたい。杜国――こいつ――ただ者(もん)じゃあ、ない――

2016/04/25

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 「蝦獲り」

[やぶちゃん注:以下の「蝦獲り」(「えびとり」と読んでおく。【二〇一六年五月八日追加】が、二〇一六岩波文庫刊「原民喜全詩集」の竹原陽子氏の手に成る「原民喜年譜」には「(えびど)り」というルビが振られており、敢えてここにそう振るというのは確信犯である。但し、その根拠は明らかにされていない)は昭和一〇(一九三五)年十二月号『メッカ』を初出とする(当該雑誌の詳細は不詳)。当時、民喜満三十歳。]

 

 蝦獲り

 

 馬車はK橋の方からやつて來て、雄二の家から一町ばかり手前の菓子屋の角を曲つてゆく。その角のあたりを通る時には、トウ、テト、テトウ……と喇叭が鳴つた。雄二の家の前を通らないのは殘念だつたが、それでも雄二は兄とよく馬車の眞似をして遊んだ。喇叭の響は雄二に勇しく氣持のいい夢想を抱かせた。雨が降つても馬車はびしよぬれになつて走つた。馬の背に白い煙があがり路の小石が淸々しかつた。夜遲く、女中につれられてお使ひに出たら、その時も馬車は走つてゐて、ピシリと薄闇に鞭が鳴つた。雄二は外から家へ歸る時には、走つて、トウ、テト、テトウ――と喇叭の眞似をするのだつた。しかし、その馬車は、何處から何處へ行くのやら、雄二はまだ一度も乘つたことがなかつたので知らなかつた。

 雄二は兄の大吉に祕術を打明けてみた。眼を閉ぢて、何でもいいから見たいと思ふもののことを考へると、すぐその見たいものの形が浮んで來ると云ふことである。が、大吉は前からそのことを知つてゐたので雄二は一寸驚いた。それからはこの祕術を一そう頻繁に用ゐた。掌の上に顏を置いて眼を閉ぢると、始めは何だか灰色の球のやうなものがいくつもぐるぐると浮んで來る。そのうちに赤い塊が一寸現れて、暗闇になる。カードのことを想ふと、あの繪ハガキ屋で賣つてゐる、草花や鳥の形をした綺麗な形が出て來る。馬車のことを想ふと、眼隱しされた馬の首が出來て、箱は搖れながら走つてゆく。

 手洗鉢の水に太陽が照りつけて、それが緣側の天井に反射するので、天井には四角な光が映つてゐた。微風で水に波が出來ると、忽ち天井の方も動き出すのだ。雄二は手洗鉢を杓でかきまはした。すると、もう茫とした大きな薄い光(かげ)が縱橫に天井を走り、何のことだかわからない。が、やがて、段々形が縮まつて光が濃くなる。そして、光はまだ頻りに足搔き廻つてゐる。その不思議な馬車は到頭疲れて動かなくなる。

 

 庫さんは雄二の家から四五町離れた家に棲んでゐた。大將中將や、三角の袋を賣つてゐる子供屋の角を廻ると、そこの通りには一間幅の溝が流れてゐる。大雨の時には鯉や鮒などが流れて來ると云ふ話だが、何時もは靑い藻などが浮んでゐて黑い水だ。溝につたつて少し行くと、白い障子に達磨の繪を墨で描いた家がある、何をする家なのか雄二にはわからなかつたが、達磨が通る人を睥んで威張つてゐた。そこから少し行つて小路に入ると、庫さんの家だ。庫さんの姿を見ると雄二は吻として、庫さんの手にもつれつく。すると兄の大吉も負けずに庫さんの手にからみつく。兩方からひつぱられても庫さんはびくともしない。

 庫さんの家は前に一度燒けた。その時は藁屋根だつたので火の粉が雄二の家の庭までも飛んで來て、明るかつたさうだ。雄二はよく睡つてゐて火事を知らなかつた。

 庫さんと云ふのは何故庫さんと云ふのか、雄二には飮込めなかつた。雄二達は少し位無茶しても庫さんは怒らないから、それで庫さんかとも思つた。

 

 ある日、庫さんは大吉と雄二を連れて蝦を獲りに連れて行つて呉れた。

 三人が家を出た時、陽はK橋の方の空から照つていた。雄二は庫さんの手にぶらさがりながら、近所の子供の前を通る時得意であつた。今日は急に自分が偉くなつたやうで少し眩しかつた。大吉は網を提げて先にとつとと歩いた。角の菓子尾の前で三人は立留つた。間もなく雄二はもう大分家を離れたやうな氣がし出した。すると、トウ、テト、テトウ……と喇叭の響きがして、馬車がそこに留り、馬車の後方に乘つてゐる若い洋服の男がひらりと飛降りて、ドアを開けた。兄が一番に乘り、それから庫さんは雄二を抱へて乘つた。箱のなかは薄暗く、腰掛は狹かつた。雄二は嬉しく怖く淋しかつたが、すぐに馬車は動き出した。砂利に車輪が軋む音がして、車は搖れた。窓から射込む光線で、低い天井から塵がこぼれてゐた。やがて蹄の音もかつかつとして速力は增して來た。庫さんは窓を少し開けて二人を覘かせた。家々が目の前を通過して行く。その家の奧は薄暗いが、道路は赫と明るい光線なのだ。風が頰にあたり、樹木が屋根の方から現れる。窓のすぐ側を燕がやつて來て、衝突しさうになつたので、雄二はびつくりした。が、燕は下へ落ちると、地面とすれすれになつて、忽ち遠方へ飜つて行つた。急に速力が緩くなり馬車は留つた。すると、老人が一人乘込んで來た。また喇叭が鳴つて馬車は走り出した。馬車は片方に溝の流れてゐる廣い道路へ出てゐた。溝の泥がピカピカ光つた。何處かの物干棚には白いシャツが一枚吊つてあるので、それがひらひら風に搖れてゐた。小さな犬が路傍にぼんやり立つて、雄二の馬車を見送つた。雄二は得意になつて、汗ばんだ掌をしつかり握り締めてゐた。何時の間にか馬車は町はづれに來てゐた。堤のところで停つた。庫さんはそこで二人を降ろした。馬車は三人をおいて、走り去つてしまつた。

 堤の入口には大きな樹が聳えてゐて、その側にはまた黑い大きな倉庫があつた。堤の石段を登ると、川が見えた。庫さんは雄二の手をひいて堤を歩いた。何處まで行つても堤は續いてゐるやうに思へた。低い方の地面には畑や家の屋根が見えた。砂埃が歩く度にあがり、下駄が埃まみれになつた。隨分長い間さうして歩きつづけたので、雄二はあくびが出て氣持がぼんやりして來た。ところが、いよいよ三人は目的地へ來た。工兵隊の兵舍を過ぎると、川へ降りる石段があつて、雁木には舟が二三艘つないだままになつてゐた。庫さんはその舟へ雄二を乘せた。大吉と庫さんは跣になつて水に浸つた。雄二が乘つてゐる舟は繫いであるのに、下を見ると流れて行くやうな氣がした。底まで透き徹る水で、底には眞白な砂があり、それに舟の影が映つてゐた。低い枳殼垣のむかふでは兵隊が體操をしてゐた。向岸は樹木が濃く繁り、その上に白い雲が浮んでゐたが、それらは絶えず流れて行くやうに思へた。もう雄二は珍しさに退屈しなかつた。庫さんは、獲つたぞと笑つて、雄二の舟へやつて來た。懷からガラス壜を出すと、川の水を汲んで、それに掌のなかのものを移した。壜のなかでは小さな蝦がピンとして泳いだ。壜を雄二に渡すと、庫さんは獲りに行つた。半分透き徹つた身躰をした、この小さな蝦は悠々と進みながら壜のガラスに衝きあたつては、むきをかへた。蝦は細い髭を動かして頻りに不思議がつてゐた。その時兄の大吉が聲をかけて舟に近寄つて來た。その拍子に壜が搖れて、蝦がピンと飛出してしまつた。あつと思つたらもう蝦は川に落ちてゐた。「馬鹿」と大吉は雄二を呶鳴りつけた。驚きと兩方で、雄二は大聲をあげて泣き出した。庫さんがかけつけて來た。「なに、蝦が逃げた、ほら、まだこんなに獲つてるのだから大丈夫だよ」さう云つて、庫さんは腰の獲物を見せた。大吉はそれでも逃したことを不平がるし、雄二は急に家が戀しくなつて泣いた。そのうちに大吉は氣をかへて川の方へ行つた。庫さんは舟に乘込んで暫く雄二の側に坐つてゐた。雄二の涙は風ですつかり乾いた。

 雄二たちが家に歸ると、持つて戻つた蝦を母が串にさして燒いて呉れた。蝦はみんな小さかつたが、いい色に焦げておいしさうに匂つた。

 

[やぶちゃん注:「一町」一〇九・〇九メートル。

「喇叭」「らつぱ(らっぱ)」。

「眼隱しされた馬」馬具の一つである「遮眼革(かく)」「遮眼帯(たい)」「ブリンカー(blinkers)」「ブラインダー(blinders)」のこと。乗馬・馬車・競馬などに於いて馬の目の外側に装着して視野を遮り、前方しか見えないようにする器具(マスク状のものもある)。

「手洗鉢」「てうづばち(ちょうずばち)」。

「光(かげ)」この読みは以下の一文の「が、やがて、段々形が縮まつて光(かげ)が濃くなる。そして、光(かげ)はまだ頻りに足搔き廻つてゐる。その不思議な馬車は到頭疲れて動かなくなる。」でも有効と読まなければならない。

「庫さん」「くらさん」と読んでおくが、「雄二達は少し位無茶しても庫さんは怒らないから、それで庫さんかとも思つた」というのは今一つ、この読みを明瞭にはして呉れない。無茶しても怒らない、どっしりと構えている、だから「倉」=「庫」だというのか?

「四五町」四百三十七~五百四十五メートル。

「大將中將」軍人将棋のことであろう。

「三角の袋」不詳。そうした形の中に入っている駄菓子なら、私はポン菓子が真っ先に浮かぶが。

「一間」一メートル八十三センチ弱。

「白い障子に達磨の繪を墨で描いた家がある、何をする家なのか雄二にはわからなかつた」私にも分からない。

「睥んで」「にらんで」。「睥睨(へいげい)」の「睥」で、厳密には横眼で睨(にら)むの意。
 
「吻として」ここは既出既注の「ふん」ではなく、文脈から「ほつとして(ほっとして)」と当て読みしているように思われる。これは後の「招魂祭」などにも推定で認められる用法である。

「K橋」民喜の実家の東(出発を午前中と採る)にある橋でイニシャルが「K」となると、現在ある橋では京橋川に架かる「京橋」或いはその川上にある「上柳橋」になる。

「雄二は嬉しく怖く淋しかつたが」分らないではないが、表現としてはただ「嬉しく」を「怖く淋しかつた」に並列で繋げるのは、私には抵抗がある。

「赫と」光り輝いて眩しいさまで、音なら「カク」であるがここは「かつと(かっと)」と訓じておきたい。

「シャツ」拗音表記はママ。

「いよいよ三人は目的地へ來た。工兵隊の兵舍を過ぎると、川へ降りる石段があつて」ここが唯一、本ロケーションを特定出来る叙述である。海が描かれず、終始、「川」と言っていることから考えて川の河口附近ではないと判断、「工兵隊の兵舍」を調べてみると、現在の広島市中区白島北町(はくしまきたまち)に陸軍工兵隊兵舎があったことをつきとめた。ここは太田川が左岸で京橋川に分岐するところで、この京橋川分岐部分に架かっている橋は現在も「工兵橋」と称する。幟町からは直線で二・三キロメートル圏内である。

「雁木」「がんぎ」と読み、この場合は、道から狭い磧などに降りるために棒などを埋めて作った階段、或いは船着き場や桟橋の階段を指す。

「跣」「はだし」。

「枳殼垣」「からたちがき」。ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Poncirus trifoliata 。樹高は二~四メートル程になり、枝には稜角があって三センチメートルにもなる鋭い刺が互生している(この刺は葉の変形したものとも枝の変形したものとも言われる)。軍施設であるため、有刺鉄線代わりに、棘のあるそれを垣根にしているのである。

「半分透き徹つた身躰をした」「細い髭を」持った「小さな蝦」はロケーション(現在の太田川河口から計測して七キロメートル近く上流で、干拓などを差し引いて考えても、六キロメートルほどはある)にから見て、純淡水域をフィールドとするエビである可能性が高い。同定候補としては、

節足動物門軟甲綱十脚目抱卵(エビ)亜目コエビ下目テナガエビ科テナガエビ亜科スジエビ属スジエビ Palaemon paucidens

を挙げておけば問題はあるまい。所謂、「川蝦(かわえび)」である。ウィキの「スジエビから引いておく(下線やぶちゃん)。『広義にはスジエビ属 Palaemon に分類されるエビ類の総称としても用いられるが、日本産の種類のうち淡水産なのはスジエビくらいで、ほとんどの種類が汽水域や浅い海に生息する』体長はで三・五センチメートル、で五センチメートルほどで、『メスの方が大きい。体には黒の帯模様が各所に入り、和名もここに由来する。帯模様の太さは個体や地域で若干の変異がある。生きているときは体がほぼ透明で内臓が透けて見えるが、瀕死になったり、死ぬと体が白く濁る。体型は紡錘形で、頭胸甲・腹部の境界と腹部中央(いわゆる「腰」)が曲がり、頭部が上向き、尾部が下向きになっている』。『額角は細長い葉状で、眼柄や触角』、五対の『歩脚も細長い。歩脚のうち前の』二対は『先端にはさみがある鋏脚となっている』。テナガエビ亜科テナガエビ属 Macrobrachium のテナガエビ類に『近縁で、テナガエビ類の若い個体とスジエビはよく似ているが、テナガエビ類には複眼後方の頭胸甲上に「肝上棘」(かんじょうきょく)という前向きの棘があり、肝上棘がないスジエビと区別できる。また、同じく淡水にすむヌマエビ類』(コエビ下目ヌマエビ上科ヌマエビ科 Atyidae)『とは大きさが同じくらいで混同されることもあるが、スジエビは明らかに脚が長く、上から見ると複眼が左右に飛び出す』。分布は『樺太、択捉島、国後島、北海道から九州、種子島、屋久島、朝鮮半島南部』に及び、『川や池などの淡水域に生息するが、汽水域にもまれに生息する。釣り餌などの利用もあって本来分布していなかった水域に持ちこまれ、分布を広げることもある』。『沖縄には本来は分布がなかったが』、一九七五年に沖縄本島西部中に位置する中頭郡(なかがみぐん)の西原町(にしはらちょう)の『池田ダムで最初に確認された。侵入経路としては、コイの養殖種苗と共に関西方面から持ち込まれたと考えられている』。一九九七年時点では『沖縄島中部の幾つかの河川とダムで確認されている。沖縄島には本種は分布せず、代わりにテナガエビ類が河川にいる。この種がそれらを押しのけて定着出来た理由は幾つか挙げられる。例えば比屋良川』(ひやらがわ:宜野湾市内の河川)『の場合、川の下流域の汚染がひどく、幼生期に海に下るテナガエビ類は遡上出来ないのに対して、本種は淡水域で生活史を終えられるために定着が可能であった。そのため、その上流の貯水池やダムでもテナガエビ類はおらず、侵入が容易だったと思われる』。『昼間は石の下や水草、抽水植物の茂みの中にひそみ、夜になると動きだす。藻類や水草も食べるが、食性はほぼ肉食性で、水生昆虫や他の小型甲殻類、貝類、ミミズなど様々な小動物を捕食する。大きな個体はメダカなどの小魚を捕食することもある。動物の死骸にもよく群がり、餌が少ないと共食いもする。餌を食べる際は鋏脚で餌を小さくちぎり、忙しく口に運ぶ動作を繰り返す。また、小さな塊状の餌は歩脚と顎脚で抱えこみ、大顎で齧って食べる。一方、天敵はスッポンなどの淡水性カメ類、ウナギやカワムツ』(コイ目コイ科 Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii)、外来侵入種として問題となっているブルーギル(スズキ目サンフィッシュ科ブルーギル属ブルーギル Lepomis macrochirus:本来の原産地は北米大陸東部の淡水域)などの『淡水魚、サギなどの鳥類がいる』。『繁殖期は春から秋までで、初夏に盛んに産卵する。交尾を終えた』メスは直径一~二ミリメートルほどの『緑褐色の卵を産むが、これはテナガエビ類やヌマエビ類に比べて大粒・少数である。産卵したメスは卵を腹脚にかかえ』、約一ヶ月ほど『保護する。卵から孵化した幼生はゾエア幼生の形態で』二〇~三〇日ほど『プランクトン生活をした後』、体長ミリメートルほどの『稚エビとなって着底する。寿命は』二~三年ほど、とある。『スジエビ類は発生に塩分を必要とせず、ミナミヌマエビ』(ヌマエビ科ヒメヌマエビ亜科カワリヌマエビ属ミナミヌマエビ Neocaridina denticulata denticulata)『と同じく閉鎖した淡水でも繁殖できる』。但し、『地方によっては発生に塩分が必要な両側回遊型の個体群がある可能性も指摘されている』。『日本では各地でモエビ(藻蝦)、カワエビ(川蝦)などと呼ばれ、淡水域では比較的馴染み深いエビとなって』おり、セルビン(セルロイド製の小魚捕獲用具:昔は硝子壜(びん)を使用していたことからの呼称)・『タモ網などで漁獲され、唐揚げや佃煮、菓子など食用に利用される。殻も軟らかく、食用の際はまるごと使用される。滋賀県には、琵琶湖産のスジエビと大豆を煮たえび豆という郷土料理がある』。但し、『他の淡水性甲殻類と同様に寄生虫の危険もあり、生食はされない。食用の他にも釣りなどの活餌として利用され、地方や時期によってはヌマエビ類などと共に釣具店で多数販売される』とある。]

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 起動 / 貂

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 起動

 

[やぶちゃん注:本作品群全体は昭和二八(一九五三)年三月角川書店刊の「原民喜作品集 第一巻」に纏めて所収された。

 底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 」を用いたが、最後の「饗宴」以外が総て戦前(昭和一〇(一九三五)年から昭和一六(一九四一)年九月)の発表であること、底本が歴史的仮名遣によって記されていること、また何より、既にブログで述べてきたように、原民喜は終生、基本、自筆稿では正字を使用していた事実から、「饗宴」を含む総ての作品を恣意的に正字化して示すこととする。それが原民喜の記した本来の作品の姿により近いと考えるからである。

 各篇の初出の書誌は同底本に拠る。各篇末に私オリジナルの注を附してある。]

 

[やぶちゃん注:以下の「貂」(「てん」と読む)は昭和一一(一九三六)年八月号『三田文学』を初出とする。当時、民喜満三十歳。「灯」の字は民喜がしばしば「燈」と使い分けているので、ママとした。傍点「ヽ」は太字とした。]

 

 貂

 

 杏(あんず)の實が熟れる頃、お稻荷さんの祭が近づく。雄二の家の納屋の前の杏は、根元に犬の墓があつて、墓のまはりには雜草の森林や、谷や丘があり、公園もあるのだが、杏の實はそこへ墮ちるのだ。猫が來て墓を無視することもある。杏の花は、むかし咲いた。花は桃色で、花は靑空に粉を吹いたやうに咲く。それが實になつて眼に見え出すと、むかし咲いた花を雄二は憶ひ出す。「來年は學校へ行くのだから、今のうちに遊んでおくのよ」と母は云ふが、雄二は色鉛筆が欲しいと云つて泣いた。大吉の石筆をもらつて石に繪を描いたことはあつても、白い紙に色鉛筆でやつてみたいのだ。到頭夜遲く、妹の守に連れられて、小學校の前の文房具屋へ買ひに行つた。歸り路の屋根の色は靑く黑く、灯は黃色だつた。「夜、色鉛筆を使つても駄目よ、黃色なんか白と間違へるから」と姉の菊子は云ふ。雄二は、しかし、白と間違つてみたかつた。鉛筆を持つてから、雄二は大變緊張した。「さあ、これから二階へ行つて何か描いておいで、晝御飯の時見せてもらふから」と、母が云つた。雄二は獨りで二階の窓際の机に坐つた。獨りで坐つてゐると、朝日が窓のところの櫻靑葉を照らした。大屋根の邊では雀が、ち、ち、ち、と囀つてゐる。風が吹いて靑葉の光が飜つて、しばらく物音がしない。と、また、ち、ち、と雀は喋り出す。雀の卵があるのかな、と、櫻の枝を見ると、ある。白い殼が枝の叉についてゐる。(それは刺蟲の殼だが、父が雀の卵だと教へた。)そこで雄二は眞白な紙に茶色の芯で櫻の枝を描く。どうも櫻が電信柱のやうな恰好になつてしまつた。雀の卵を一つくつつけようとしたが、今度はそれが杏の實ぐらゐの大きさになつた。杏なら熟れる。雄二は赤鉛筆で杏の實をくるくる塗つた。が、あんまり勢がよくて遠くまで線がはね出した。すると、これは杏が熟れてゆくしるしだと考へた。大へんいい考へなので、赤い線は四方へ跳ねて行つた。雄二は暫く夢中で何が何だかわからない線を引いてゐた。氣がつくと、眞白な紙が火事のやうになつてゐる。ち、ち、ち、と雀はまた囀る。隣の染物屋の草原で、こ、こ、こ、こ、こ、と急に牝鷄が啼き出したのは、卵を産んだのだらう。しんし張りの布に茶褐色の粉が白い模樣を殘して一めんに塗つてある。布はピカピカ光つて、風に搖れる。そのむかふに黑く茂つてゐる椎の木は怖いのだ。夜、あの樹でふくろふが啼いたことがあるのだから。雄二はお母さんがもう御飯だよと呼んでくれないかと思ふ。まだ、ドンは鳴らない。隨分長い間、獨りでゐるやうな氣がする。「舟を描くのが一番やさしいわ、まつすぐ橫にかうやつて、帆をつければいいでせう」と菊子が教へてくれたのをふと憶ひ出す。それで火事のやうな繪の餘白へ舟を走らす。一艘、二艘、三艘、四艘描いたら舟が衝突して、舟火事のやうな光景になつた。いよいよ消防隊が飛出して、上から靑鉛筆で雨を降らす。雨が何時の間にか、鐵砲の彈丸になつて、大砲の砲彈になつて、大戰爭が始まつた。地雷火が爆發すると、もう舟なんか木端微塵だ。雄二は吻として、繪を投出した。丁度、その時、階下から母の呼ぶ聲がした。雄二は繪を持つて、臺所へ行き、母の前につき出した。奇妙な顏をして、母は繪を眺めてゐるので、説明しなきやわからないらしい。これが舟で、杏で、櫻の枝で、地雷火で、杏の實が熟れるところで、雨が降つて、そして舟が衝突したから、大戰爭になつたのだよ。母は頤で頷きながら眼で不審がつてゐる。

 雄二の眼にはお椀のなかの豆腐のお汁が映る。小人(こびと)だつたら豆腐なんか島のやうなものだし、お椀のなかは海だ。その海には帆立貝も浮んでゐるが、帆立貝は豆腐とくつついてゐるところもある。靜かな海は暫くして搔き亂された。「その繪に名前を書いておきなさい」と母は云ふ。「ユウジつて字かう書くの」と母が箸をさかしまにして、お湯でしめし、食卓の上に片假名で書くと、見てゐるうちに乾いてしまふ。もう一ぺん、母は今度は人差で消えないやうに書く。雄二は指で何度もその上を眞似てみる。憶えた。その拍子に臺所の窓から微風が飛込んで來る。雄二は黑の鉛筆で自分の名を書く。それから、繪を懷中にして納屋のところへ行き、杏の樹を仰いで見る。靑い空に杏の樹は兩腕をぐいと伸ばして、一本足で立つてゐる。うん大分熟れた、と杏は自分の頭を吹く風にむかつて話す。風に誘はれて縞蜂がやつて來た。すると、杏はまた兩腕をぐいと伸して、蜂に話掛ける。川崎の庭の杏も大分熟れたかね。蜂は知らないよと云つて飛んで行つてしまふ。ハハハ、蜂の阿呆は川崎の庭知らないのだわい、と杏は兩腕を搖すつて、くすぐつたさうに笑つた。どすん、と杏の實が墮ちて、犬の墓にあたり、その實はころころ轉んで、谷底へはまり込んでしまつた。雄二はあの谷へ丸木橋掛けたらいいと思ひつき、そこで納屋へ這入つて、橋になりさうな割木を探すのだつた。割木は山のやうに納屋の壁に積重ねてある。その山の上には小さな穴があつて、隣の家が覗けるのだ。雄二は割木の上へ登つて、何時かのやうに穴から覗いてみようと思ふ。隣の緣側の籃のなかには頭の大きな、福助のやうな子供がゐたが、まだゐるのか氣になる。割木は足もとから崩れて、身躰が墜落しさうだ。生々しい木のにほひと、黴のにほひと、暗い冷たい空氣が、雄二の頰に迫る。天井の梁に一本の繩が輪にされて、ぶらさがつてゐる。その梁には、白墨で、クビツリと書いてある。この間大吉が梯子を掛けて落書した場所なのだ。雄二は到頭割木の山へ登り着いた。すぐ上は天井で、山は狹く暗い。腹這ひになつて、柱の脇の赤土の隙間に、雄二は眼をあてた。すると、むかふの家の庭はとても明るい。苔が靑々と生えてゐる地面を葉洩陽が色彩つてゐる。しかし、緣側には、籃が出てゐないし、障子は閉めてある。手洗鉢の脇に、水からくりが放り出してある。あの玩具、頭の大きな子供の玩具なのかもしれない。誰もゐない庭に風が吹くと、楓の葉が搖れて、さつと、庭の景色が變つた。誰か來るのではないかしらと、雄二はまだ眼を離さないでゐる。その時、また、さつと、庭の樣子が變るやうな氣がしたかと思ふと、何かがちらりと現れた。金色の毛をした、燃えるやうな變な動物は、庭を橫切つて、すぐに見えなくなつた。あ、あれは貂だ、貂だ。雄二は眼を丸くして、壁から離れた。ちよつとも音を立てないで、滑るやうに消えて行つた。全身が金色に輝いてゐた。だから、あれは、やつぱし貂にちがひない。

 納屋を出て、ぶらぶら歩いて、雄二はやつぱし貂のことを考へてゐる。そのうちに雄二は向ひの酒屋の店さきへ這入つてゐた。薄暗い奧の間から、酒屋のをばさんが雄二の姿を認めた。雄二は下駄を脱いで、三疊の間に上る。をばさんは雄二が片手に持つてゐる繪を受取り、默つて感心しながら眺める。「をばさん、貂がゐるのだよ」と雄二はまだ貂のことを忘れない。「貂、なるほど、貂がゐますわね」「あ、貂がゐるんだよ、貂は金色で、つーつーつーと走るんだね」「あ、なるほど、ここのところにゐるのが貂でせう」をばさんは繪のなかから黃色い塊を見つけて指差した。雄二はびつくりした。大砲の彈丸が貂によく似てゐて、今は貂になつてしまつてゐるのだ。「うん、貂がゐるから、皆がドンドン、鐵砲やら大砲やらで擊つたのだよ」「あ、それで、貂は赤い血を流したのね」「うん、さうすると、舟が出て來て、貂を助けようとしたのだ」「ほ、ほ、舟がどうして貂を助けるのでせう」「だつて、貂が助けてくれえ、とおらんだからさうなつたのだよ」「それで貂は助かりましたの」「やつぱし駄目さ、舟だつて大砲に擊たれて沈んでしまふのだ」「ぢやあ、貂は死んでしまつたのでせう」「ううん、逃げてゐるところなのだよ」「ぢやあ、やつぱし貂は助かつたのでせう」「ううん、まだ助からないのだ」「ほ、ほ、むつかしいのね」

 その時、前の往來をゴロゴロと大砲を繫いだ馬や、兵隊がやつて來たかとおもふと、軒の前で、立留つてしまつた。雄二は兵隊を見に下駄を穿いて出た。兵隊はずつと向うの四つ角の方から酒屋の四五軒さきまで列んで立つてゐる。帽子を脱いで、額の汗を拭いてゐる者や、ぼんやりと側の家を眺めてゐる兵隊だ。馬は暫く休めるので、頻りに尻尾を振つてゐた。革と埃と日向のにほひがそこにはあつた。雄二が珍しげに兵隊達を視てゐると、雄二のすぐ側にゐる兵隊も彼の方を眺めた。そして、ふと、兵隊は雄二に口をきいた。「坊やはいくつ」雄二は一寸どぎまぎして「六つ」と答へた。さうすると、雄二に口をきいた兵隊のまはりにゐる二三人の兵隊も、何か感心したらしく微かに頷くのであつた。そのうちに兵隊の列はまた動き出した。ゴロゴロと車馬の響がして、埃があがり、兵隊の列は遠ざかつた。雄二は早速大急ぎで家のうちへ駈けつけた。家の簷には恰度陽が差込むので、カーテンが張つてあつた。雄二は緣側へ腰を下ろすと、そこに母がゐた。何と云つて、さつきの出來事を話していいのか雄二は暫く眼を簷のカーテンにやつた。「今、兵隊さんと話したのだよ」と雄二は急込んで話した。「兵隊さんが僕をいくつかと尋ねたから、六つだと答へた」すると、何時の間に學校から歸つて來たのか、大吉が次の部屋で聞いてゐた。「六つ! 噓だい、お前は五つだよ」と大吉は次の間から現れて來た。雄二は不圖心配になつた。「お母さんが六つだと云つたよ」「五つだよ、お前は滿五歳さ」雄二はそれではやつぱし間違つてたのかと思ひ、さつきの兵隊さんを追駈けて行つて、云ひ直して來ようかと思ふ。しかし、もうさつきの兵隊は隨分遠くへ行つたに違ひない。雄二は心配相に暫く遠くの空に眼をやつて、何だか情なかつた。さつきの兵隊さんは何時までも雄二を六つだと思つてゐるに違ひない。すると、その時母が云つた。「滿なら五つだけど、數へ歳は六つなのだよ」雄二は急に安心して、「やつぱし六つだ、どうだ、六つだよ、六つだよ」すると大吉は雄二の持つてゐる繪をひつたくつて、逃げ出した。雄二が泣き出すと、大吉は遠くで繪を面白さうに眺めながら、「ふん、こいつは火事の繪だな」と勝手に決めてしまふ。「ははん、舟もあらあ」と大吉は雄二に聞かさうとして云ふ。雄二は大吉の云ふことが聞きたくもあるし、腹も立つので、わーと泣いては暫く默つてゐる。「ははあ、この黃色いけだものは狐だな」と大吉はまた云ふ。「狐ぢやない、貂だ」と雄二はつい釣込まれて返事する。「わーい、泣いてゐた烏がものを云うた、狐ぢやない、貂だつて、貂なんかがゐるかい」と大吉はけげん相な顏をする。「ゐるとも、今日、納屋のところで見たんだ」「そりや猫か犬の間違ひだらう」「貂だよ、金色の毛をしてキラキラ光つてたもの」「ぢやあ、三毛猫さ」「見ないものだからあんなこと云つてら」「見たとも、僕だつて見たよ、お前なんかがまだ赤ん坊の時、練兵場の方に澤山ゐたんだぜ、貂は毎晩しつぽへ靑い火をつけてコンコンつて啼いて騷いで、時々、人をばかすのだよ」「やあ、そいつは狐ぢやないか」「そら、狐にばかされただらう」大吉は得意さうに笑ひ出した。

 

 杏がまだ花を持つてゐた頃、雄二は上の兄の貴麿に連れられて、日曜日に川崎の家へ行つた。兄は賑やかな通りの書店で本を買ひ、雄二に「幼年の友」を買つて呉れた。それから石の敷詰められてゐる、ひんやりした橫路へ這入ると、兩側に肴屋ばかりが並んでゐて、店頭の桶の水がピカピカ搖れ、底には泥鰌やら、鰻が泳いでゐた。その軒のなかに石垣をめぐらしたお稻荷さんがぽつんとあつた。赤い小さな鳥居や、旗が奧の方に見えたが、兄が注意してくれなければ雄二は見落したかも知れない。やがて、小路が四つ角になると、一軒の家は鷄屋で、裸にされた白い死骸がいくつも臺の上に重ねてあつた。そこから右に折れると、路は少し明るくなり、小鳥屋の軒が目につく。その小鳥屋の前が川崎の家だつた。門を這入る拍子に、庭の竹垣の戸が開放たれてゐたので、綠の樹木が眺められ、雄二は綺麗だな、と思つた。薄暗い玄關から、廊下を傳つて、居間の方へ行くと、伯父はゐた。伯父は雄二の顏を見ると、ニコニコ笑ひ、笑ふと、舌が唇から食み出す癖があつた。雄二はそこへ坐つて「幼年の友」の畫を見た。居間には大きな鐵の引手のついた古びた簞笥やら、長持やら、紙の剝げかかつた屛風などがあり、すぐ次の間は臺所で、臺所の晒天井は、煤けて何か恐しいやうな氣持がした。臺所の中央に大きな井戸があり、つるべで汲み上げる度に、井戸はキリキリキリと鳴つた。奧の間には緣側があり、そこに杏が花をつけてゐた。雄二の家の杏よりかもつと大きく、庭全體を壓して、咲いてゐた。廊下の橋を渡つて、離れの間に行くと、そこの窓には無花果が茂つてゐた。大變暗い部屋で、壁には西洋畫の額が掲けてある。女の人がスプーンで牛乳を少女に飮ませてゐる繪で、顏の色が靑ざめてゐるので、顏までが牛乳のやうに思へた。貴麿と一緒に伯父の家を辭して、表へ出ると、黃色の蝶々が何時までも雄二達の前をヒラヒラ飛んで行つた。餘程、長い間、外へゐたやうな氣がしたが、家へ歸ると恰度、ドンが鳴つて晝御飯だつた。

 

 川崎の庭の杏、もう熟れただらう、と、雄二の家の杏が蝶に尋ねた。ああ、熟れてるよ、と蝶は氣輕に返事して風に乘つて去つた。雄二の家の杏は滿足さうに兩腕を搖すつて、ぢやあ今日はお稻荷さんの祭だな、と呟いた。

 夕方から雄二達は新しい着物を着せられた。着物の上にきちんと三尺を緊く結ばれたので雄二は急に窮屈になり、脇の下のところを引張つて難がらうとした。すると、菊子は脇の下のところを直してやりながら、「そら、今晩はのぞきが見られるのよ、だからのぞきを見る人はきちんと着物着てゐないとをかしいでせう」と雄二の注意を遠くへやらうとするのだつた。大分前から菊子はもう、杏と蝶に話させたりして、お祭のことで一杯だつた。それで、もう雄二も行かないさきから緊張してゐた。いよいよ、俥が門のところへやつて來た。子供達がさきに川崎の家へ送り屆けられるのだつた。雄二が一番に俥の上の方へ乘せられ、その前に大吉が乘り、その次に貴麿が乘せられた。雄二は一番上の方で手足が押し潰されさうで、今にも泣きさうな氣がした。しかし、往來のことではあるし、ぢつと我慢してゐると、そのうちに俥はもう轅を上げて、走り出した。雄二の身躰は上で搖れ、氣持は不安だつたが、やがて、俥が二三丁も走ると、いくらか慣れて來た。初夏の夕方の風が熱かつた頰を少しづつ撫でた。糸杉を植えた西洋料理店の門口にはもう灯が點いてゐた。やがて練兵場の堀に添ふ路へ出て、暫くすると、もうお祭の提灯やら露店が並んでゐるところへ來た。人もぞろぞろと集り始めた路を俥は角の鷄屋を過ぎて、川崎の前に留つた。川崎の橫にはもうのぞきが設けられ、人がたかつてゐた。雄二は俥の上から、のぞきの看板をちらと見た、戰爭の繪で、地雷火が爆發してゐる草原で、一人の兵卒が銃を逆にして、銃の臺で敵兵の頭を撲りつけてゐるところだつた。赤々と燃える空は物凄く、敵の兵卒は靑ざめて身悶えてゐた。雄二は川崎の家の玄關を潛るまで、その繪が氣になつた。雄二達は暫く二階で休んだ。格子窓から下を覗けば宵闇のなかをぞろぞろと人は賑はつてゐた。大人達はなかなかやつて來さうになかつた。そこで、三人は表へ出てみた。雄二はさつきののぞきの場所へ立留つて、また看板にあきれた。竹の笞で、臺を叩きながら、男が何か聲高に喋つてゐた。しかし、迷子になるといけないので、すぐ兄達の後を追つた。道傍の露店には、海酸漿や、茱萸の實や、肉桂、粕(かす)などが並べられ、風船玉や、風車が、絶えず動いてゐた。角の鷄屋の前の人だかりには、車に乘せた檻があり、金網のなかをゴソゴソと狐が動き廻つてゐた。狐は何か不思議な臭氣をあたりに漾はせ、それにアセチレンガスの臭ひが鼻に強く來た。雄二はまた迷子になりはすまいかと心配になつた。しかし、兄達はそこで引返すと、すぐに川崎の家へ歸つた。と、玄關には恰度、母と菊子が着いたところだつた。他所行の着物着てゐる、母や菊子の姿が珍しく、雄二は母が急に一段と優しくなつたやうな氣がした。「さあ、皆、二階へいらつしやい」と母は云つた。それで、四人がどかどかと梯子段を昇つて行くと、二階の格子のところに伯父がゐた。伯父はひよいと首を皆の方へむけると、ニコニコ笑ひ、「やあ、大將、賢(え)らしこだね」と大きな聲で、雄二と大吉の頭を撫でた。大吉がをかしがつて、そつと雄二の身躰をつつき、皆は何時もの伯父の癖をくすくす笑ひ出した。すると、伯父の眼の色だけ、微かにてれたが、相變らず磊落な態度でニコニコ笑ひ、「皆、よく來たね、ほう、皆、隨分大きくなつたぞ」と獨りで面白がつては、舌をなめづつた。そのうちに、親類の人々や、大人達が次第に集まつて來た。皆がそれぞれ壁に添つて坐ると、部屋は賑やかになつた。膳が運ばれ、酒が廻されて、話聲や笑聲が湧いた。そこへ、雄二の父が這入つて來た。父がやつて來ると、雄二は遠くから父の方ばかり氣になつた。父は皆にはきはき口をきき、時々娯しさうに笑つたりしてゐて、顏が大變涼しさうだつた。不圖、父は大きな嚏を立てつゞけに二つ三つした。寒くもないのに嚏をすると云つて伯母が笑つた。ガヤガヤといふ大人達の話聲のなかから、今、雄二は誰かがのぞきの看板の話をし出したのを聽きとつた。あの看板の繪は何時もの戰爭のものでせうか、などと云つてゐる。雄二はその返事が聞きたいのだが、生憎よく聞えない、そしてもうのぞきの話は終つたらしい。大人達の顏は段々醉ぱらひらしく光り、座敷には白い靄のやうなものが立籠めた。すると、母が雄二と大吉を手招いた。母は膝のところのハンケチを直しながら、「秋子さんと一緒に少し外の方を見て來なさい」と云つた。母のすぐ側にはおさげの女がにこにこ笑つてゐた。雄二にははつきり憶えのない顏だつたが、その女は雄二を識つてゐるらしく、はじめ彼を見る時、わざと目を大きく瞠つた。大吉の方は彼女を憶えてゐるので、すぐ彼女を一緒に出掛けやうとした。秋子は雄二を顧みて、「さあ、手を引いてあげませう」と云つた。三人が門口を出ると、秋子はすぐ前ののぞきのところへ立留つた。雄二は愈々それが見られるのかと娯しみにしてゐると、「こんなものつまんないわ、八百屋お七か不如歸なら面白いけど」と秋子は云つた。そして、大吉を顧みて、「ねえ、あつちののぞき見に行きませう」とずんずん人混みのなかを足早にわけて進んだ。雄二はその女の足が早いので、弱つてゐると、ふと、露店の鬼灯屋の前で彼女は立留り、鬼灯を買ふと、早速唇に入れて鳴らし鳴らし歩いた。「なにか、あんた達も買ふといいわ、ね、あの辣韮の形した飴がおいしさうだわ、あれがいいわ、あれ買ひませう」と、彼女は菓子屋の前で立留ると、大吉にその飴を買はせた。雄二はその隣のガラス函のなかに煙むる桃色の綿菓子を視凝めて、それが欲しいのだつた。が、秋子はずんずん、雄二の手をひいて行つた。やがて、もう一つののぞきのところへ來ると、秋子はもう氣が變つたとみえて、そこには立留らず、とつとと通り過ぎた。それから狹い、敷石の露路の方へ折れて、お稻荷さんの方へ行つた。太鼓の音が洩れて來るあたりまで來ると、人混みでなかなか進めさうになかつた。すると、彼女は、「もう、ここでおまゐりしたことにしておきませう」と云つて、くるりと引返し、橫の路へ折れた。そこは人通りもあまりなく、石の敷詰められた暗い路だつたので、雄二はさつきから、この女がもしかすると狐ではないかしらと少し心配になつてゐた。しかし秋子は平氣で、流行歌を口遊んだりして、歩いて行つた。間もなく、廣い賑やかな明るい通りに出た。吻として雄二は秋子の姿を見上げた。秋子は通行人の一人一人に敏捷な視線を投げながら、ひよいと人を振返つて見たかとおもふと、その次にはもう店先の呉服を眺めてゐたりするのだつた。人通りはぞろぞろとあつたが、そこにはお祭りの提灯がないので、雄二は何處へ連れて行かれるのやらわからなかつた。隨分長い間、秋子は雄二と大吉を連れて勝手に歩き廻つた。もうお祭なんか見たくない、のぞきも見たくない、早く家へ歸りたい、と雄二は思つた。その時、やつと、また提灯や露店の並んでゐる通りへ來た。秋子は二人を連れて川崎の家へ歸つた。玄關を入ると、二階の騷ぎも止んでゐて、夜は大分遲かつた。

 

[やぶちゃん注:本作が民喜の「幼年」時の実体験に基づくとすれば、民喜満五歳は明治四三(一九一〇)年、杏の実が熟れる頃とあるから、六~七月の初夏の設定(途中で稲荷祭りがあり、そのシチュエーションに限るなら、後で考証するように六月二十九日辺りを想定出来る)と考えられる。母ムメは三十六、父信吉(陸海軍官庁用達を勤めた)は四十四、「姉の菊子」は言葉遣いから当時十九の長女操か或いは十三歳であった次女のツルであろう(雰囲気からは後者と採りたい)。主人公「雄二」の次兄として登場する「大吉」は四男の守夫(当時八歳)、「上の兄の貴磨」は三男(長男英雄と次男憲一は夭折)信嗣で十一歳と、作品内設定と各人の雰囲気に照らし合わせても全く矛盾を感じない。

「貂」哺乳綱ネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属亜種(本邦固有種)テンホンドテン Martes melampus melampus。夏季は毛衣が赤褐色や暗褐色で、顔や四肢の毛衣は黒、喉から胸部が橙色、尾の先端が白い(これが「夏毛」で「冬毛」は毛衣が赤褐色や暗褐色で頭部が灰白色(これを「煤貂(すすてん)」と呼ぶ)か、毛衣が黄色や黄褐色で頭部が白い。後者は「黄貂(きてん)」と呼ぶ)。原生地域である本州・四国・九州では現在、絶滅危惧種に指定されているが、人為的に移入された個体が北海道南部と中央部と佐渡島で野生化して棲息している。冬眠はせず、年中、活動し、その活動時間帯も特に定まらず昼夜活動する(夜行性とする認識は誤りである)。繁殖期以外は基本的に単独で行動し、身体は柔軟性に富む。警戒心が強く、よく後肢で二本足立ちし、周囲を見回すことがある。この行動を「目蔭(まかげ)」と称する。爪が鋭く、木登りが非常に上手い。このことに着目して、名称「キテン」の語源は「黄色い貂」ではなく「木貂」であるという説もある。雑食性で動物質のものはネズミ・リス・鳥・爬虫類・両生類・昆虫類・ムカデなどを摂餌し、植物質のものではヤマグワ・マタタビ・サクラ・ヤマブドウ・コクワ(サルナシ)などの実を食うらしいので、アンズの実を食いに来てもおかしくはない気がする。交尾期はまさに夏で、出産は翌年の春であるから、初夏の日中に姿を見せたのも自然である。活動場所としては沢や川付近が多いが、穴や樹洞・建造物の床下や屋根裏にも巣を作る(以上はウィキの「ホンドテン」に拠った)ので、ここが広島の町中の、民喜の生家、広島県広島市幟町(のぼりちょう)(現在の中区幟町)であったとしても、必ずしもこの当時ならば全く有り得ぬ話ではないと私は思う。

「白い殼」「刺蟲の殼」「雀の卵」鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目ボクトウガ上科イラガ科イラガ亜科イラガ属 Monema に属するイラガ類或いはその近縁種の作る繭である(「白い殼」とあるので以下のイラガのそれではないか、或いは羽化したそれの後の色褪せたものを指すか)。イラガ Monema flavescens を例にとると(同ウィキのから引用するが、毒棘を持つ幼虫の画像があるので例外的にリンクは張らない)。『終齢幼虫(前蛹)で越冬し、そのための繭を作る。独特の茶色い線が入った白く固い卵状の殻で、カルシウムを多く含み日本の昆虫がつくる繭の中で最も固いとみられる』。『春先に中で蛹化し』、六月に『羽化する。羽化時には繭の上端が蓋のように開き(小さな穴は寄生蜂の脱出口)、地方によりスズメノショウベンタゴ(担桶)とも呼ばれる。玉虫と呼んで釣り餌(特にタナゴ釣り)に用いられる』とある。有毒危険生物の場合は必ず注するのが私のポリシーなので以下、附記しておくと、『幼虫に知らずに触れると激しい痛みに飛び上がる。地方名のひとつ「デンキムシ(電気虫)」の由来である。これは外敵を察知した幼虫が、全身の棘の先から毒液を一斉に分泌するためである。体を光にかざすと、すべての針の先から液体が分泌されていることがわかる。刺激はかなり強く、場合によっては皮膚に水疱状の炎症を生じ、鋭い痛みの症状は』一時間程度、『かゆみは』一週間程度、『続くことがある。卵をつぶしたり触れたりしてもかぶれるので注意が必要。又、種類によっては繭に毒毛を付けている物がある。刺された場合は、直ぐに流水で毒液と棘を洗い流すこと。棘が残っていれば粘着テープなどで棘を除去する(患者はかなりの痛みを感じているので配慮が必要)。その後、市販の虫刺されの治療薬を塗るとよい。症状が酷い場合や目に入った場合は医師の治療を受ける。正確な毒性分は解明されていないが、ヒスタミンやさまざまな酵素を成分とした非酸性の毒だとされている。中和目的にアンモニア水を塗っても効果は無く、抗ヒスタミン剤やアロエの葉の汁を塗布するのが有効であるとされる。ひどい場合は皮膚科等で処置をする必要がある』とある。さらに付け加えておかなくてはいけないのが、『食樹の樹幹についている繭は』イラガ亜科 Parasa 属ヒロヘリアオイラガ Parasa lepida『のものであることが多い。ちなみに、ヒロヘリアオイラガに限っては繭にも毒がある』という点である。魚の餌にするくらいだから、雑食性の雀が啄まないとも限らぬ。ただこれ、繭の感じが雀の卵に似ていることによる勝手な連想のようにも私には思える。見た目は青緑色に輝く虹色のグラデーションも美しいものではあるが、ゆめゆめ触ってはならない。興味のある方は、詳しくは私の和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 雀甕や、同「和漢三才図会」虫部のその前後の項(カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」)を参照されたい。

「しんし張り」「伸子張り」或いは「籡張り」(「籡」は国字)で、布や反物を染織或いは洗い張りすること。「しんし」とはその際に布幅を一定に保つための道具を指す。両端を尖らせるか、針を植えた細い竹の棒(又は木の棒)で、左右両端に強く引き張った布を固定して布を縮ませずに幅を保たせて支える。「しいし」とも呼称する(以上は、ウィキの「伸子」に拠った)。

「地雷火」水中の機雷を明治中期までは「水雷火」と呼んでいたので、その誤用であろう。

「吻として」「ふんとして」で「ふん」は感動詞に、しばしばそれらの遺志を示すのに口を尖らすことから「吻」の字を当てたもの。通常は同輩以下の者(自分自身を含む)に対し、軽く了解・承諾・納得などの意を表わしたり(「うん」に同じ)、或いは不満や軽視などの気持ちを表すところの「ふん(フン)!」である。ここは前者であるが、民喜はこの漢字の当て字をしばしば用い、本作でも最後に「吻として雄二は秋子の姿を見上げた」と、後者の意味でも用いている。

「縞蜂」地方名では全く異なった種(刺ことがないものから刺されると危険なものまで頗る多種多様)を指すが、ネットの検索上では現行では膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科クロスズメバチ Vespula flaviceps を指す記載が多い。恐れられるスズメバチ類の中では見た目も獰猛にはあまり見えず、実際に比較的、攻撃性も高くなく、毒性もそれほど強くない(但し、アナフラキシー・ショックは毒性の強弱とは別なので要注意)ので、雄二が一向に恐れなくても、それほど不審ではないように私には思われる。

「川崎」不祥。現行の広島県内・広島市内には「川崎」の地名を見出だせない。これは以下を読むに、思うに「川崎」というのは川に突き出た、或いは川の中州の突端のような場所のことではなかろうか? しかも、後半の稲荷祭りのシークエンスでは「伯父」の家に実家の幟町から「練兵場」の脇を通って、「川崎」の「伯父」へ辿りつくのであるが、その「伯父」の家の比較的近くに稲荷神社があるということが判ってくる。この「練兵場」を現在の広島市基町の広島県庁がある附近にあった西練兵場と仮定するなら、そこを西に少し行くと、太田川が左岸で分岐して元安川と二つに分かれる場所、非常に巨大な中洲を形成している所に出る。その太田川の分岐する手前(上流)の対岸(右岸)の少し北には空鞘稲生(そらさやいなお)神社があり(中洲の北の尖端からは直線で五百メートル圏内である)、この「稲生」は「いなり」と同義である。ここの夏越祭(なごしさい)は六月二十九日である……そうして……一度でも広島を訪れたことがある人は、ここで私が「川崎」の「伯父」の家があると仮定している巨大な中洲の北の尖端が現在の何に当たるか……お分かりであろう……そう……平和記念公園の北端である。――その元安川河畔に建つのが原爆ドームなのである――(無論、私の推理は机上の空論に過ぎないかも知れない。もっと別なぴったりくる場所を推定出来る方は是非、御教授戴きたい。私の仮説が弱い点は、川を渡る)

「おらんだ」「おらぶ」は「叫ぶ・哭ぶ」で、大声で叫(さけ)ぶ、喚(わめ)くの意。

「急込んで」「せきこんで」。

「幼年の友」実業之日本社が明治三九(一九〇六)年から明治四一(一九〇八)年の間に創刊した子供雑誌(他に『日本少年』『少女の友』)の一つと、「実業之日本社」公式サイトの「会社小史」の記載にあり、そこには同誌の明確な創刊年が書かれていない。ところが、国立国会図書館の「国際子ども図書館主催の展示会」の「童画・絵雑誌関連年表」に拠れば、上記の刊行会社のデータと異なり、明治四二(一九〇九)年創刊とある。はて? どちらが正しいのか? 書誌データを確認したに違いない後者の方が正解か? 孰れにせよ、創刊からそれほど経っていない(明治四十二年なら作中推定設定の翌年である)、それこそ子どもが咽喉から手が出るほど欲しがる少年誌に違いない。兄「貴磨」の優しさが伝わってくる、いいシーンではないか。

「開放たれて」「あけはなたれて」。

「晒天井」「さらしてんじやう(さらしてんじょう)」で、天井板を張っていない屋根裏が剝き出しになっている構造を指すのであろう。田舎ではごく当たり前であったが、都会育ちの「雄二」には薄暗く人体の骨が見えるような奇体なものであったのであろう。

「三尺」三尺帯のこと。但し、この「尺」は着物の仕立てに用いた鯨尺(くじらじゃく)なので、約百十四センチメートルの長さの並幅(なみはば:反物の普通の幅。鯨尺九寸五分(約三十六センチメートル)の帯を指す。古くは職人などがそのまましごいて一重(ひとえ)まわりの帯とし、左右どちらかの脇結びにして用いていたが、明治以後はやや長めにして子供帯として使われた(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「難がらう」恐らく「むずがらう(むずがろう)」と訓じている。帯がきついので、いやいやしているのである。

「川崎の店の杏、もう熟れただらう、と、雄二の家の杏が蝶に尋ねた。ああ、熟れてるよ、と蝶は氣輕に返事して風に乘つて去つた。雄二の家の杏は滿足さうに兩腕を搖すつて、ぢやあ今日はお稻荷さんの祭だな、と呟いた。」というこの一段は続く以下の「大分前から菊子はもう、杏と蝶に話させたりして」という叙述から、姉の「菊子」が「雄二」にお話している、彼女の創作した、おとぎ話であることが判る。この「菊子」も何か実に懐かしい思いがしてくる(私には兄弟はいないのだけれども)。

のぞき」のぞきからくり(覗絡操)。発祥は古く、江戸前期の寛永年間(一六二四年から一六四五年)とされ、社寺の祭礼や縁日に欠かせない見世物芸能の一つであった。当初は数個の覗き穴から、簡単なからくり細工や浮絵を覘く簡素なものであったが、明治・大正期になると、二十個にも及ぶ覗き穴を備え、内部も畳一畳ほどもある重い絵に、細かな押し絵を施した豪勢なものが現われるようになった。竹の棒を叩きながら、調子よく唄われるのぞきからくりの語りは、人々も口ずさむほどに流行したという。大正の活動写真の流行とともに衰退した(以上は「はてなキーワード」の「のぞきからくり」に拠った)。以下のジオラマ風の戦場風景は本文でも大人たちによって「あの看板の繪は何時もの戰爭のものでせうか」などと疑問が呈されているが、これは高い確率で、推定設定の五年前に終わった明治三七~三八(一九〇四~一九〇五)年の日露戦争の旅順攻囲戦のそれであろうと私は類推する。

「轅」「ながえ」原義は「長柄(ながえ)」牛車・馬車・人力車などの前に長く突き出た出した二本の棒。その前端に軛(くびき)を渡して牛馬や人が車を引く。

「二三丁」

「糸杉」球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ亜科イトスギ属 Cupressus に属する木本類の総称。「サイプレス」(英名:Cypress)「セイヨウヒノキ(西洋檜)」とも呼ぶ。ヒノキ科Cupressaceae の模式種である。

「雄二は俥の上から、のぞきの看板をちらと見た、戰爭の繪で、地雷火が爆發してゐる草原で、一人の兵卒が銃を逆にして、銃の臺で敵兵の頭を撲りつけてゐるところだつた。」この「のぞきの看板をちらと見た、」の読点はママ。なお、この「地雷火」は普通の地雷のことである。

「海酸漿」「うみほほづき(うみほおずき)」と読む。これらを懐かしいものとして想起出来るのは恐らく私の世代がぎりぎりかも知れない。「海鬼灯(うみほおずき)」は広く海産の軟体動物門腹足綱前鰓亜綱中腹足(新腹足)目の巻貝類の卵嚢を指す。平凡社の「世界大百科事典」の記載を参考にしながら示すと、半透明な革質で卵はこの中で孵化して貝類のライフ・サイクルのステージであるベリジャー幼生に成長し離脱する。種によってこの卵嚢の形や大きさは異なり、

・フジツガイ科ボウシュウボラ Charonia sauliae の卵嚢は「トックリホオズキ」(卵嚢の図はポルトガル語のこちらのページの図が「徳利」の形状をよく描いて分かり易い)

・イトマキボラ科Fusinus属ナガニシ Fusinus perplexus のそれは「サカサホオズキ」(米司隆氏の「ナガニシ(ヨナキ)種苗生産の手引き」(PDF版)の冒頭に出る産卵写真と末尾の「ナガニシの生活史」の図を参照)

・テングニシ科テングニシ Hemifusus tuba のそれは「ウミホオズキ」又は「グンバイホオズキ」(「下関海洋科学アカデミー 海響館」の「ウミホウズキ(テングニシの卵嚢)」 taibeach 氏のブログ「今日も渚で日が暮れて」の「海酸漿」を参照)

・アッキガイ科アカニシ Rapana venosa のそれは「ナギナタホオズキ」(私と同じ鎌倉在住の方のブログ「打ち上げ採取日記・ブログ版」にある材木座海岸でのビーチ・コーミングのこの写真はなかなか立派で色もよい)

などと呼称される。図のそれはテングニシHemifusus tuba のそれであろう。……一九七六年の七月……江の島の陸側の鼻の射的場(今もこれはある)の前の土産物屋の前……陽光の降り注ぐ店先に並んでいたのは海酸漿と薙刀酸漿だった……店の女の人が薙刀の方を指さして「これはちょっと鳴らすのが難しいんですけど、こっちはね」と言い、海酸漿の方を取って口に含んで――キュキュ――と鳴らして呉れた……海酸漿を二つ買って僕たちは海辺を歩いたのだった……僕は上手く鳴らせたけれど……彼女はなかなか鳴らなかった……すると「癪だわ」と言って彼女は僕を見て微笑んだのだった……あの海酸漿……僕は何処へやってしまったんだろう……遠い……遠い日の……思い出である…………

「茱萸の實」バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus の実。ウィキの「グミ(植物)」から引く。『常緑または落葉の低木でつる性のものもある。また常緑性種は耐陰性があるが耐寒性は弱く、落葉樹性は強い。葉は互生し、葉や茎には毛が多い。また茎にはとげがある。花は両性または単性、がくは黄色で筒状、先が』四裂し、雄蕊(おしべ)が四本つく。『花弁はない。挿し木、取り木、接ぎ木などで簡単に増やせる』。『虫媒花で』、『前年枝の節から伸びた新梢に開花結実する。開花後、萼筒の基部が果実を包んで肥厚し核果様になる。果実は楕円形で赤く熟し、渋みと酸味、かすかな甘味があって食べられる。形はサクランボに似る。リコピンを多く含むが、種によってはタンニンを含むため、渋みが強いことがある。ときおり虫が入っていることもあるので注意が必要である』。『根にフランキア属』の放線菌が共生し、『窒素固定を行うので、海岸などのやせた土地にも育つ』。『方言名に「グイミ」がある。グイはとげのこと、ミは実のことをさし、これが縮まってグミとなったといわれる。その他に中国地方ではビービー、ブイブイ、ゴブなどとも呼ばれている』。お分かりとは思うが、『グミは大和言葉であり、菓子のグミ(ドイツ語でゴムを意味する“Gummi”から)とは無関係である』。『ユーラシアから東南アジアにかけて』五十から七十種ほどが現生し、Elaeagnus trifloraだけが『オーストラリアにまで分布している』。ギンヨウグミ Elaeagnus commutate は『北アメリカ唯一の固有種で』、本邦にはナツグミ Elaeagnus multiflora・アキグミElaeagnus umbellata・ナワシログミ Elaeagnus pungens・ツルグミ Elaeagnus glabra など『十数種がある。商業的にはあまり利用されないが』、『庭などに栽培される』。但し、『首都圏に自生することはない』とある。

「肉桂」「につき(にっき)」或いは「ニツキ(ニッキ)」「ニツケ(ニッケ)」と読んでいるはずである。恐らくはニッキ飴である。本来は常緑高木クスノキ目クスノキ科ニッケイ属ニッケイ(肉桂) Cinnamomum sieboldii(インドシナ原産であるが、本邦には古く享保年間(一七一六年~一七三六年)に中国から輸入された)の緑黒色の樹皮を乾燥させたものを「桂皮(けいひ)」と称し、生薬や香料として用いる。ここはそれを風味として加えた甘い飴、駄菓子である。

「粕(かす)」アルコール分を飛ばした甘味を帯びた酒糟。

「漾はせ」「ただよはせ(ただよわせ)」。

「賢(え)らしこ」広島弁の「えらい」「えらぁ」は「苦しい」「しんどい」「非常に」という意味で「偉い」「賢い」という意味は持たないとウィキの「広島弁」にあるが、この場合、民喜が「賢」の字を当てていること、「川崎」の「伯父」がこの言葉を笑って言いながら、小学生の大吉雄二の頭を撫でていることからは「賢(かしこ)い子」というよりは「全く以って可愛いらしい子」という謂いが伝わってくる。調べてみると、近県である大分の方言に、「えらしー」があり、「こん子(こ)はだーねーえらしーなー」(この子は非常にかわいらしいなぁ)と、「かわいらしい」の謂いがある。或いはこの「伯父」なる人物は大分出身であるのかも知れぬ。

「嚏」「くさめ」。くしゃみのことであるが、これで訓じたい。

「瞠つた」「みはつた」。

「八百屋お七か不如歸なら面白いけど」この「秋子」というお下げの、彼らよりも年嵩ではあるものの、それでも十五ぐらいであろうが、しかし、これ、言ってのける二つの演目からは、如何にも――ませた――少女である雰囲気がよく出ていると言える(後で「雄二」が「この女」は「もしかすると狐ではないかしらと」猜疑するシーンには私は激しく共感するものである)。言わずもがな乍ら、「不如歸」は「ふじよき(ふじょき)」で、かの徳富蘆花のベスト・セラーとなった結核悲劇家庭小説である(初出は『国民新聞』の連載で明治三一(一八九八)年十一月から翌年五月)が、同作は早くも三年後の明治三四(一九〇一)年二月には大阪朝日座で(並木萍水脚色/秋月桂太郎(川島武男・役)/喜多村緑郎(浪子・役)で初演され、その後も何度も上演された。「ああつらい! つらい! もう――もう婦人(おんな)なんぞに――生まれはしませんよ。――あああ!」という死に際の言葉を出すまでもあるまい。

「鬼灯屋」この「鬼灯」(ほほづき(ほおずき))は本物のナス目ナス科ホオズキ属ホオズキ変種ホオズキ Physalis alkekengi var. franchetii の方である。私の亡き母は、鬼灯を鳴らすのが、上手かった。

「あの辣韮の形した飴」先に出したニッキ飴はしばしば二等辺三角形を成していたように私は記憶している。

「露路」はママ。「ろぢ(ろじ)」で「路地(ろぢ(ろじ))」のつもりであろう。
 
「口遊んだり」「くちずさんだり」。]

 

2016/04/24

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 草蜘蛛 蠨蛸

Asidakagumo_2

あしたかくも 喜子  蟢

       長踦

蠨蛸    【和名阿之太

        加久毛】

 

小蜘蛛長脚也詩豳風云蠨蛸在戸無人出入則結

網當之

按蠨蛸其大不過四五分瘦細脚長青色而多在萵苣

 葉有毒相傳云無故蟢子舞降以爲喜瑞也西京雜記

 曰乾鵲噪而行人至蜘蛛集而百事喜者是乎

                 衣通姫

       我せこかくへき宵也さゝかにのくものふるまひこよひしるしも

一種有青蜘蛛大四五分頭脚青色身圓而白【與蟢不同】

 

 

あしだかぐも 喜子〔(きし)〕  蟢〔(き)〕

       長踦〔(ちやうき)〕

蠨蛸    【和名、阿之太加久毛。】

 

小蜘蛛。長脚なり。「詩」の「豳風〔(ひんぷう)〕」に云く、「蠨蛸、戸に在り」と云ふ有り。戸に人の出入、無き時は、則ち、網を結びて之に當〔(あ)〕つ。

按ずるに、蠨蛸は、其の大いさ、四、五分〔(ぶ)〕に過ぎず、瘦〔せて〕細く、脚、長く、青色にして多くは萵苣〔(ちしや)〕の葉の在りて、毒、有り。相ひ傳へて云ふ、故〔(ゆゑ)〕無くして、蟢子、舞(ま)い降(さが)る、以て喜瑞と爲すなり〔、と〕。「西京雜記〔(せいけいざつき)〕」に曰ふ、「乾鵲〔(かささぎ)〕、噪〔(さは)ぎ〕て行人〔(まちびと)〕至る。蜘蛛、集まりて百事、喜あり。」とは是れか。

        衣通姫〔(そとほりひめ)〕

我〔(わが)〕せこがくべき宵也さゝがにのくものふるまひこよひしるしも

一種、青蜘蛛、有り。大いさ、四、五分、頭・脚、青色、身は圓〔(ゑん)〕にして白し【蟢と〔は〕同じからず。】

 

[やぶちゃん注:これは記載一読、現在の和名「アシダカグモ」である大型種で網を張らない、

蛛形(クモ)綱クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモ Heteropoda venatoria

或いはその近縁種では毛頭ないことが誰にも判る。そうなると、和名が「あしだかぐも」酷似し、しかも人家に網を張る種、脚が長い種となると、これは、

クモ目アシナガグモ科アシナガグモ属アシナガグモ Tetragnatha praedonia

ではなかろうか? ウィキの「アシナガグモ」から引く。『体も足も細長く、顎が大きく発達する』『アシナガグモは、やや短めの頭胸部と、前が膨らんだ棒状の腹部を持つ、前身が灰色のクモである。足はそれぞれに細長く、特に前足は長い。鋏角は』、第一節は『こん棒状で横に張り』、第二節は『鎌の先となってとがっている』。第一節には第二節と『咬み合うように歯が並ぶほか、特に雄では外側に向けても刺が出ている。幼虫では鋏角は未発達である』。『この鋏角の刺は、獲物を捕らえるためよりは、配偶行動に用いるためのもののようである。雄は雌と交接するとき、雌の鋏角に自分の鋏角をからませて、相手の動きを封じるようである』。『アシナガグモは、目の粗い水平円網を作る。アシナガグモの成虫で』は網の直径は五〇センチメートル程度が『普通である。特に、網中央の蜘蛛がとまる部分であるこしきを、網が完成する時に食い破って穴にするため、無こしき網と呼ばれる。昼間から網を張っている場合もあるが、多くは夕方から網を張りはじめ、夜に虫を捕らえる』。『しかし、違った形の網をはる場合もある。普通、丸網は枠の内側に邪魔なものがない空間に網を張る。例えば』、二本の『枝の間に何もないような状態である。ところが、アシナガグモの幼虫は、時折』、二本の枝の間に、もう一本、枝が『入っている状態でも網を張る。この場合、網は中断され、中央の網の両側に丸網を半分ずつ張った形になる。クモは中央の枝の裏側に止まって身を隠す』。『また、他のクモの網の枠糸を利用するのも見られる。ジョロウグモ』(この前後は前の「絡新婦」の項を参照のこと)『の網の枠糸に、小さなアシナガグモが網を張っているのが時に見られる。渓流では夕方から夜にかけて、』真正のカゲロウ類(有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea上目蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeroptera)やカワゲラ(襀翅(せきし/カワゲラ)目 Plecoptera)のなどの『水生昆虫の成虫が羽化するため、水面上に網を張ると多くの餌が得られる。そのような場所では、タニマノドヨウグモ』(アシナガグモ科 Metleucauge 属タニマノドヨウグモ Metleucauge kompirensis)『など、渓流の両岸の間に網を張ることのできる種が中央を占めるが、アシナガグモはそれらの網の隙間、網を構成する枠糸の間に糸を引いて網を張ることがある。さらに、富栄養の溝などのように、ユスリカ』(ユスリカ上科ユスリカ科 Chironomidae のユスリカ(揺蚊)類)『など、より多くの昆虫の発生が集中するところや、明かりの下など虫が集まってくる場所では、網を張らずに直接に虫を捕まえることも行なう』とある(下線やぶちゃん)。ここには、アシナガグモの体長が記されていないが、信頼出来る他の学術サイトには一~一・五センチメートルとあって、本文の「四、五分」(約一・二~一・五センチメートル)に一致する。更に私が下線を引いた部分に着目して戴きたいのであるが、こうした習性があると、朝出た主人が帰って来頃に、玄関へと向かう植え込み辺りに本種が網を張っていて、思わず、顔に触れるなどすると、まさに「戸に人の出入、無き時は、則ち、網を結びて、之に當〔(あ)〕つ」(この最後の部分は東洋文庫版現代語訳では前から『網を張りめぐらしている』とするのであるが、どうも気になる。寧ろ、「戸に人の出入、無き時は、則ち、網を結びて」人が帰って来ると「之に」當〔(あた)り〕つ』れば、ぎょとするという風に私には読めぬではない)というのとも、頗る一致するように思われるが、如何?

 

・『「詩」の「豳風〔(ひんぷう)〕」』「詩経」の「豳風」の「東山」の一シーンで、長い東征から帰った兵士が故郷の荒廃を眼前にする以下の場面に出る(「raccoon21jpのブログ」の以下のページを一部参考にさせて戴いた。リンク先には現代語訳もある)。

   *

我徂東山 慆慆不歸

我來自東 零雨其濛

果臝之實 亦施于宇

伊威在室 蠨蛸在戸

町畽鹿場 熠燿宵行

不可畏也 伊可懷也

   *

我れ 東山に徂(ゆ)き 慆慆(とうとう)として歸らず

我れ 東より來たり 零雨 其れ 濛たり

果臝(から)の實 亦た宇(う)に旋(めぐ)り

伊威(いい) 室に在り 蠨蛸(しようしよ) にあり

町畽(ていたん)は鹿場(ろくじやう)となり 熠燿(いふえう)は宵を行く

畏るべからず 伊(こ)れ 懷しむべし

   *

以下の語注も一部、参照先に拠った。

 「慆慆」長く久しいさま。

 「零雨」小雨。

 「濛」一面に立ち込めた雨気ではっきりしないさま。

 「果臝」烏瓜。スミレ目ウリ科カラスウリ属カラスウリTrichosanthes cucumeroides

 「宇」家の軒(のき)。

 「伊威」甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目 Ligiamorpha下目Armadilloidea上科ワラジムシ科 Porcellio属ワラジムシ Porcellio scaber 或いは同じArmadilloidea上科オカダンゴムシ属オカダンゴムシ亜種オカダンゴムシ(ダンゴムシ)Armadillidium vulgare rufobrunneus と考えられる。

 「蠨蛸」諸注は「あしだかぐも」とするけれども、この場合も、やはり荒れ果てた家屋に網を張っている景の方が、大型のアシダカグモがただ室内を這うよりも(ただ這うなら今の私の家の中でも日常的に普通に這っているのであるが、私の家は豪家ではないものの茅屋でもない)荒廃を伝えるにはより効果的であると思う。

 「町畽」村や田の小道。

 「鹿場」鹿の遊び場。

 「熠燿」現代仮名遣は「イウヨウ」で蛍の意。

・「青色にして」これは少し困る。アシナガグモは青くないないからである。但し、一般に古典で言う「青」は多分に「緑」「碧」「青」の謂いを含み、美しい緑色を呈する種には、アシナガグモ属ウロコアシナガグモTetragnatha squamata がおり、本種は本邦では北海道から九州までと伊豆諸島・南西諸島に広く分布していて、私もよく見かけるから、ここはこれと見て、結論的には問題ないと私は思う。

・「萵苣〔(ちしや)〕」キク目キク科アキノノゲシ属チシャ Lactuca sativa。聞きなれないかも知れないがレタス(“Lettuce”英名)の和名である。地中海沿岸原産で本邦には既に奈良時代に伝来している。但し、現在、我々が馴染んでいる結球型のレタスはアメリカから近年持ち込まれたもので、家庭の食卓に普及したのは一九五〇年代と新しい。それまでのチシャは巻かない(結球しない)タイプであった。キク科に属すことから分かるように本来の旬は秋である。なお、学名もレタスもチシャも語源は同根で、英名の語源となった属名のLacutuca“Lac”はラテン語で「乳」を意味し、チシャは乳草(ちちくさ)が訛ったものである(因みに、イネOryza sativa の種小名と同じsativaはラテン語で「栽培されている」の意)。これは新鮮なレタスを切った際に白い乳状の苦い液体が滲出することに由来する命名であるが、これはラクチュコピクリン(lactucopicrin)と呼ばれるポリフェノールの一種で、これには軽い鎮静作用や催眠促進効果があり、十九世紀頃までは乾燥粉末にしたレタスが鎮静剤として利用していたという。

・「毒、有り」くどいが、本邦のアシダカグモには毒は、ない。

・「故〔(ゆゑ)〕無くして」誰かか何かが嚇したりしたのでも何でもないのに。

・「喜瑞」吉兆。

・「西京雜記〔(せいけいざつき)〕」本邦の書ではないので注意。晋の葛洪(かっこう)が、前漢末の劉歆(りゅうきん)の原著書を編したと歴史故事集とされるが定かではない。全六巻。「西京」とは前漢の都長安を指し、前漢期の著名人の逸話や宮室・制度・風俗などに関するエピソードが載り、文学的にも価値が高いとされる。以下は「第三卷」の「八六 樊噲問瑞應」に載る。

   *

樊將軍噲、問陸賈曰、「自古人君皆云受命於天、云有瑞應、豈有是乎。」賈應之曰、「有之。夫目閏得酒食、燈火華得錢財、乾鵲噪而行人至、蜘蛛集而百事喜。小既有徴、大亦宜然。故目閏則咒之、火華則拜之、乾鵲噪則餧之、蜘蛛集則放之。況天下大寶、人君重位、非天命何以得之哉。瑞者、寶也、信也。天以寶爲信、應人之德、故曰瑞應。無天命、無寶信、不可以力取也。」。

   *

・「乾鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ(鵲)Pica pica 。現代中国語でもまさに「喜鵲」と呼ぶ。ウィキの「カササギ」の注に『「かちかち(勝ち勝ち)」と鳴くのが縁起が良いとされ、この鳴き声から「かちがらす」と呼ばれるようになったといわれている』という本邦の伝承が載る。

・「噪〔(さは)ぎ〕」啼き騒ぐ。前注参照。

・「行人〔(まちびと)〕」この訓は東洋文庫版現代語訳のそれを援用させて戴いた。待ち人。

・「百事、喜あり」東洋文庫版現代語訳は『百事(なにごと)にも喜ぶよいことがある』と訳す。

・「衣通姫〔(そとほりひめ)〕」「そとほしひめ(そとおしひめ)」とも読む。ウィキの「衣通姫から引く。『記紀にて伝承される女性。衣通郎姫(そとおしのいらつめ)・衣通郎女・衣通王とも。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。本朝三美人の一人とも称される』。『記紀の間で衣通姫の設定が異な』り、古事記では、『允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)』とし(ウィキの「衣通姫伝説」をリンクさせておいた)、「日本書紀」では、『允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹・弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移り住み、天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという』。『紀伊の国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌三神の一柱であるとされる。現在では和歌山県和歌山市にある玉津島神社に稚日女尊、神功皇后と共に合祀されている』とある。

・「我〔(わが)〕せこがくべき宵也さゝがにのくものふるまひこよひしるしも」これは「日本書紀」の允恭天皇八年二月の条に、

 

わが背子が來べき宵なり小竹(ささ)が根(ね)の蜘蛛(くも)の行ひ今宵しも

 

と出、「古今集和歌集」の巻末「卷二十」の「卷第十四」の最終歌である紀貫之の歌から一つ前に、(第一一一〇番歌。前書の現存在位置を示す「思ふてうことのはのみや秋をへて下」は見た目が煩わしいので略した)

 

   衣通姫の、ひとりゐて帝をこひたてまつりて

 

わが背子がくべきよひなりささがにの蜘蛛(くも)のふるまひかねてしるしも

 

と、衣通姫の和歌として記されている、古今集の方の句形である。――愛しいあのお方が今宵必ず来ることを、ほら、あそこで網を張ろうとしている蜘蛛の振る舞いが、確かに予兆しているわ――というのである。夜行性で夕暮れに網を張るアシダカグモであってこそ、これぞ! 相応しいではないか!!!

・「青蜘蛛」クモ亜目カニグモ科ワカバグモ属 Oxylate は鮮やか緑色(「青」については前の「青色にして」の注を参照されたい)で頭胸部が有意に丸い種(「身は圓〔(ゑん)〕にして白し」というの腹部が白いことを指すのではないか。同種は写真を見ると相対的に腹部が白い個体を現認出来るのである)がいるが、あれか。「蟢と〔は〕同じからず」も現行の生物学上も科のタクソンで異なる全くの別種であるから、合致すると言えば言える。]

 

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 草蜘蛛

Kusagumo

くさくも

草蜘蛛

ツアウ ツウ チユイ

 

本綱艸蜘蛛在孔穴中及草木稠蜜處作網如蠺絲爲蔕

就中開一門出入形微似蜘蛛而斑小也最毒能纏斷牛

尾有人遺尿絲纏其陰至斷爛也

 

 

くさぐも

草蜘蛛

ツアウ ツウ チユイ

 

「本綱」に、艸蜘蛛は孔穴の中及び草木の稠蜜〔(ちうみつ)〕なる處に在り。蠺〔(かひこ)〕の絲のごとく網を作り、蔕〔(へた)〕を爲す。中に就て、一門を開き、出入〔り〕す。形、微に蜘蛛に似て、斑、小なり。最も毒あり。能く纏(まとひ〔つき〕)て牛尾を斷つ。人、有りて、遺尿(すばり)す〔れば〕、絲、其の陰(へのこ)に纏(まとひ)〔つき〕て、斷〔(たた)〕れ爛るるに至るなり。

 

[やぶちゃん注:これは

クモ目タナグモ上科タナグモ科クサグモ属クサグモ Agelena sylvatica 或いは同クサグモ属 Agelena の類

かと思われる。ウィキの「クサグモ」より引く。『ミャンマー、中国大陸の華南から東北、朝鮮半島、日本の北海道から九州までに分布する。人家周辺や道端の低木に巣を作り、日本ではごく普通に見られる』。♂♀ともに体長は一・五センチメートルほどで、『クモとしてはやや大柄で、雄は雌よりややきゃしゃな体つきをしている。体はやや前後に細長く、灰褐色、全身に細かい毛がはえている。頭胸部は楕円形で、中心線を開けて両側に濃い褐色の縦線が入る。腹部は前方がやや丸い卵形で、背面には左右に数対の濃い褐色の斑紋が並ぶ。なお、幼虫は色が全く違っていて、前身が赤に近い赤茶色をしている。亜成体になると、次第に成虫の色に近づく』。『クサグモの網は棚網と言われる型である。糸を重ねてできた膜を低木の枝先に水平に張り、クモはその上に乗る。網の奥には糸でできたトンネルがある。このトンネルはクモの巣に当たり、トンネルの奥は穴が開いている。クモは普通トンネルの入り口にいて、外敵に襲われた時は、トンネルに逃げ込み、さらに奥の出口から外へ逃げることができる』。『トンネルの口から広がる糸の膜は、トンネルの前方に水平に広がり、周囲はやや上に反る。トンネルの口の周辺はやや漏斗型になっている。糸の膜を支えるように、上に向かって籠状に組まれた糸が膜の上部に広がる。つまり、巣の入り口に網が広がったものである』。『クモは餌の昆虫が膜の上に落ちると、素早く駆け寄り、小さな虫の場合は、そのまま食いつく。大きい虫の場合、周囲を回りながら糸を掛け、次第に糸をからめてから食いつく。その後、トンネルに引きずり込んで食べる』。『秋の終わりに産卵する。産卵はトンネルの中で行ない、卵は袋状の卵嚢に包まれる。袋は多方向に糸で引っ張られて中空につるされ、引っ張られる方向へ表面がとがっている。卵は年内に孵化するが、幼虫は袋の中に止まり、翌年春に外に出て、秋に成熟する』。『市街地の植え込みや街路樹などでは、ネットのようなものがかかっていることがよく見られ、その正体はおおむねコクサグモ』(クサグモ属コクサグモ Agelena opulenta)『と思われるが、山間部では、崖地にさらに巨大な棚網とその上数メートルの吊るし糸のようなものが見られ、コクサグモよりも一回り巨大なクサグモの姿が見られる』。『クサグモは、よくイソウロウグモ』(ヒメグモ科イソウロウグモ亜科イソウロウグモ属 Argyrodes bonadea の類)『を住まわせている。特に』チリイソウロウグモ(イソウロウグモ属チリイソウロウグモ Argyrodes kumadai)とフタオイソウロウグモ(Argyrodes fur。但し、Neospintharus fur とする記載もあり、その場合はNeospintharus という別属として立てるということであろう)が『住み着いている事が多い。このうち、チリイソウロウグモは家主を襲う性質が強く、時に網を乗っ取られている。ヤリグモ』(イソウロウグモ亜科ヤリグモ属ヤリグモ Rhomphaea sagana)『が侵入しているのを見ることも多い。またクサグモヒメバチ』(種限定の寄生蜂であるが、この種群は分類に変更が行われており、よく判らないものの、ヒメバチ科ヒラタヒメバチ亜科 Ephialtes 属(旧クモヒメバチ族Polysphinctini)の一種かとも思われる)『の捕食寄生を受けることが知られている。クサグモヒメバチは巣の中に進入し、クモを麻酔して体表に卵を産み付ける。麻酔から覚めたクモは卵から孵化した幼虫に体液を吸収され、最終的に食べつくされる』。『ごく近縁なものにコクサグモがある。クサグモより小柄だが外見も習性もよく似ており、区別はちょっと難しい。胸の背面にある二本の黒い縦線が、コクサグモでは灰色の横線で区切られているのが区別点である。形態、習性がよく似ているにもかかわらず、産卵習性は大きく異なる。コクサグモは地上の石の下面で産卵し、卵嚢は上面に盛り上がった円盤状で、平坦な面を石の面に密着させる。卵嚢内の卵はクサグモと異なり、越冬後に孵化する』。『より寒冷な地域に多いイナヅマクサグモ』(クサグモ属イナズマクサグモ Agelena labyrinthica)『は、コクサグモに似て、全身が黒っぽい』。『このほか、草の上に棚網を張るクモとしてはヤマヤチグモ』(タナグモ上科ヤチグモ科ヤチグモ属ヤマヤチグモTegecoelotes corasides)『がある。ヤチグモ属のものは普通、地上や朽ち木の下面などに網を張っているが、ヤマヤチグモとその近縁種は背の低い草や低木に棚網を張る。山間では見かけることがある』。『ヤマヤチグモは他のヤチグモと比べると、飼育時にすかさず空間の上方に営巣する傾向が見られ、それによりヤマヤチグモのグループと認識されることが多い』。『コクサグモ、クサグモ、イナズマクサグモは幼体期の色が違うことが知られる』。『都市部では冬はシモフリヤチグモ類』(ヤチグモ科シモフリヤチグモIwogumoa 属)『の幼体が樹皮下で越冬しているものが見られる。また、人家の水周りでは小型のコタナグモ』(タナグモ科Cicurina属コタナグモ Cicurina japonica)『が出現しやすく、シモフリヤチグモまたはメガネヤチグモ』(ヤチグモ科Paracoelotes属メガネヤチグモ Paracoelotes luctuosus)『と思われるものは、雌雄ともに屋内に侵入することも多い』とある。

 

・「稠蜜」「蜜」はママ。稠密。隙間なく多く集まっていること。

・「蔕〔(へた)〕」。先の引用中の巣の前方の描写、『トンネルの口から広がる糸の膜は、トンネルの前方に水平に広がり、周囲はやや上に反る。トンネルの口の周辺はやや漏斗型になっている。糸の膜を支えるように、上に向かって籠状に組まれた糸が膜の上部に広がる。つまり、巣の入り口に網が広がったものである』を喩えたものであろう。

・「一門を開き、出入〔り〕す」上記の通り、実際には奥にももう一つの出入り口が開口している。

・「最も毒あり」くどいが、これもまた有毒種ではない。

・「纏(まとひ〔つき〕)て」こう訓じないとどうも座りが悪い。

・「牛尾を斷つ」無論、こんなことはあり得ない。前に私の経験を記したように、牛の尾の先の体毛が切れたり、牛の尾に擦過傷が生ずることはあろう。或いは、そうしたもののように見える傷(或いは別の生物の攻撃を受けたものであると考えた方がよりよいとは思う)から感染症を起こして壊死して截ち切れたのを、蜘蛛の糸の「毒」と誤認したのかも知れない。

・「遺尿(すばり)す〔れば〕」草蜘蛛が巣を張っているところで不用意に立小便をすると。

・「陰(へのこ)」陰茎。

・「斷〔(たた)〕れ爛るるに至るなり」蚯蚓の小便の類いの不衛生な場所での不届きな排尿を暗に禁ずる迷信である。]

2016/04/23

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 絡新婦

Jyorougumo

ぢよろうくも   斑蜘蛛

絡新婦   【俗云女郎蜘蛛】

ロ スイン プウ

 

本綱赤斑色蜘蛛名絡新婦昔有張延賞爲斑蜘蛛咬頭

上一宿有二赤脉繞項下至心前頭靣腫如數斗幾至不

救一人以大藍汁入麝香雄黃取一蛛投入隨化爲水遂

以點咬處兩日悉愈又云蜘蛛咬人遍身成瘡者飮好酒

至醉則蟲於肉中似小米自出也

按絡新婦俗稱女郎蜘蛛者是也黃黒綠赤斑美而却

 醜其毒最甚故也形長於蜘蛛細腰尖尻手足長而黒

 其絲黏也如黐而帶黃色布網于樹枝及家檐人捕打

 之則性脆潰而出血死其他蜘蛛及無血其尻尖兩處

 隨動揺光閃閃然不如螢火毎夜鮮明也老者能生火

 闇夜或微雨中遇見之大可小碗圓而帶微青色其行

 也徐不致遠其高也亦不過於家檐蓋鵁鶄之火乃遲

 速高卑不定焉鳥與蟲之異以然矣

酉陽雜俎云深山有大如車輪蜘蛛能食人物

 

 

ぢよろうくも   斑蜘蛛〔(まだらぐも)〕

絡新婦   【俗に云ふ、女郎蜘蛛。】

ロ スイン プウ

 

「本綱」、赤斑色の蜘蛛を「絡新婦〔(らくしんぷ)〕」と名づく。昔、張延賞と云ふ人、有り。斑蜘蛛の爲めに頭上を咬まれ、一宿して、二つ、赤き脉(すぢ)有り、項〔(うなじ)〕の下を繞(めぐ)り、心〔(しん)〕の前に至る。頭靣〔(づめん)〕、腫るゝこと、數斗のごとし。幾〔(ほと)〕んど救はざるに至る。一人、大藍汁〔(だいあゐしる)〕を以て麝香〔(じやかう)〕・雄黃〔(ゆうわう)〕を入れ、一蛛を取て投げ入るれば、隨ひて化して水と爲る。遂にこれを以(も)て咬まれたる處に點ず。兩日、悉く愈ゆ。又、云はく、蜘蛛、人を咬(かん)で、遍身、瘡〔(かさ)〕と成る時は、好〔き〕酒を飮み、醉〔(ゑひ)〕に至れば、則ち、蟲、肉中に於いて小〔さき〕米に似、自〔(おのづか)〕た出づるなり。

按ずるに、「絡新婦」は、俗に「女郎蜘蛛」と稱する者、是れなり。黃・黒・綠・赤〔の〕斑〔(まだら)〕、美なり。而れども却て醜(みにく)し。其の毒、最も甚しき故なり。形、蜘蛛より長く、細き腰、尖れる尻。手足、長くして黒。其の絲、黏(ねば)きこと、黐(とりもち)のごとくにして、黃色を帶ぶ。網を樹枝及び家の檐〔(ひさし)〕に布〔(し)〕く。人、捕(とら)へて之れを打てば、則ち、性、脆(もろ)く、潰れて血を出だして死す。其の他の蜘蛛は、及〔(すなは)〕ち、血、無し。其の尻、尖り、兩處、動揺するに隨ひて光り、閃閃(ひかひか)とす。然れども螢火〔(ほたるび)〕の毎夜〔(よごと)〕、鮮明(あざや)かなるには若かず。老する者、能く火を生ず。闇夜或いは微雨の中、遇(たまたま)、之れを見る。大いさ、小さき碗〔(わん)〕ばかり、圓〔(まる)〕くして微青色を帶び、其の行くこと、徐(しづか)にして遠〔(ゑん)〕を致さず、其の高きことも亦、家の檐より過ぎず。蓋し、鵁鶄(ごいさぎ)の火は、乃〔(すなは)〕ち、遲速・高卑〔(たかひく)〕定まら〔ざるは〕、鳥と蟲との異、以て然り。

「酉陽雜俎〔(いうやうざつそ)〕」に云ふ、深山に、大いさ、車輪のごとくなる蜘蛛、有りて、能く人・物を食ふ〔と〕。

 

[やぶちゃん注:この蜘蛛は、

節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属Nephilaのジョロウグモ類

及び、同属の代表種で一般に我々がよく目にするところの、

ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata

それに加えてここでは特に、奄美大島以南に棲息する同属の本邦産クモ類の最大種とされる、

オオジョロウグモ Nephila pilipes

も挙げておきたい。このオオジョロウグモは最大体部が五センチメートルにも及び、脚部を含めると、何と、二十センチメートルにも生長するというとんでもない大きさの種であり、時には小鳥をさえも捕食することが知られている恐るべき巨大蜘蛛である。

 但し実は、以下の引用にも出るが、我々の殆んどは、このジョロウグモ属Nephilaのジョロウグモ類でない、しかしジョロウグモに似た黄色の斑紋を持つところの

大型のコガネグモ科 Araneidae

をも、古典的博物学上(実際には現在も)に於いて「女蜘蛛」と呼称していた/いるので、このコガネグモ科も掲げておく必要があると言える。しかし以下の引用でも解説される通り、

良安はまさにほぼ限定的に、真正のジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata をここでは記載しているらしい

良安先生! ヤッタね!!!

 以下、ウィキの「ジョロウグモ」より引く。『夏から秋にかけて、大きな網を張るもっとも目立つクモである。大型の造網性のクモで、コガネグモと共に非常によく知られたクモである。コガネグモと混同されることが多いが、系統的にはやや遠いとされる。コガネグモよりはるかに大きくて複雑な網を張り、網の糸は黄色を帯びてよく目立つ』。『和名は女郎に由来すると一般的には考えられているが、一方で』は真逆の「上臈」(じょうろう:「上臈女房」のこと。「臈」と「﨟」は同字(古文原典では後者の方が多い)。身分の高い女官の意)『から来ているとも言われている』。『性的二形が大きく、成体の体長は雌で』十七〜三十ミリメートルであるのに対し、雄は六〜十三ミリメートルと実に雌の『半分以下である。形はほぼ同じで、腹部は幅の狭い楕円形で歩脚は細長い。成熟した雌の腹部には幅広い黄色と緑青色の横縞模様があるのが特徴であり、腹部下面に鮮紅色の紋がある。ただし、成熟する寸前までは雄のような斑模様が見られる。雄は雌に比べて小さく、色も褐色がかった黄色に濃色の縦じま混じりの複雑な模様がある。歩脚は暗い褐色に黄色の帯が入る。

幼体と亜成体は複雑な斑模様を持つ』。『春に孵化し、雄で』七回ほど、雌で八回ほど『脱皮を繰り返して成体となる。成熟期は』九〜十月頃で、『この時期に交尾が行われる。交尾は雌の脱皮直後や食餌中に行なわれる。これは、交尾時に雌が雄を捕食してしまう危険があるため』である。十〜十一月頃に『産卵、樹木や建物等に白色の卵嚢をつくり、卵で冬を越す。幼体は春に孵化し』、「団居(まどい)」と『呼ばれる集団生活を送った後、糸を使って飛んで行くバルーニングを行う』。『造網性のクモで、垂直円網を張るが、その構造は特殊で、通常のそれより複雑になっている。それについては後述する。クモは網の中央に常時滞在している。網は全体を張り替えることはあまりせず、通常は壊れたところなど、部分的に張り替える』。『視覚はあまりよくないため、巣にかかった昆虫などの獲物は、主に糸を伝わる振動で察知するが、大型の獲物は巣に近づいて来る段階で、ある程度視覚等により捕獲のタイミングを整え、捕獲している。巣のどこにかかったのか、視覚では判別しづらいため、巣の糸を時々足で振動させて、そのエコー振動により、獲物がどこに引っかかっているのか調べて近づき、捕獲している。捕獲された獲物は、毒などで動けないよう処置をされたあと、糸で巻かれて巣の中央に持っていかれ吊り下げられ、数日間かけて随時捕食される。獲物は多岐にわたり、大型のセミやスズメバチなども捕食する。捕食は頭から食べていることが多い。成体になれば、人間が畜肉や魚肉の小片を与えてもこれも食べる』。『ジョロウグモの網は、とても大きく』、直径メートルほどになるのものもある(先のオオジョロウグモでは倍の二メートルと言われる)。『横糸が黄色いので、光が当たると金色に光って見える』。『ジョロウグモの網は、いわゆるクモの網として、普通に知られている網の形、円網の一種だが、特殊な部分がたくさんある。円網は、ふつう、外側に「枠糸」があり、その枠の中に、中心から放射状にのびた「縦糸」と、同心円を描くように(実際には螺旋)張られた「横糸」からなり、横糸に粘液がついているものである。隣り合った縦糸の間の空間は扇形になり、そこに張られる横糸は、当然ながら中心から遠いほど長くなる。ところが、ジョロウグモの網の場合、それぞれの縦糸間の横糸の長さが、中心近くでも、外側でもそれほど変わらない。これは、ジョロウグモの縦糸が、外に行くにつれて二又に枝分かれするように張られているからである』。『横糸は黄色で』、五〜六本おきに『間隔が開いているため、まるで楽譜のように見える。横糸の間隔をよく見ると、透明なジグザグの横糸が入っている。これは、横糸を張る前に張られる「足場糸」が残っているためである。この楽譜模様・ジグザグ模様は作りたての新しい網にはハッキリと見て取れるが、古くなり形が崩れると、ただの格子模様になってしまう。横半分だけを作り直す習性もあり、このため、左右で模様が若干異なる網も見られる。また、上の方に、横糸の張られていない縦糸の間がある。つまり、ジョロウグモは、横糸を張るときにぐるぐる回るのではなく、往復運動だけで横糸を張る。しかも、下の方で往復を繰り返すので、網全体は下へ伸びた形になっている』。『網全体を見れば、円網に近い中心の網の前後に、立体的な補助の網を持っているのも特徴』であると記す。『ジョロウグモの網の端の方や前後の補助の網に、仁丹のような銀色の粒の形のクモが見つかることがある。これは』ヒメグモ科イソウロウグモ亜科イソウロウグモ属シロカネイソウロウグモ Argyrodes bonadea という全く別な種で、『網に捕らえられたジョロウグモが相手にしないような小さな昆虫を拾って食べているとも言われている。南の地域では、一回り大きくて朱色の』同イソウロウグモ属アカイソウロウグモ Argyrodes miniaceus も『見掛ける』(私が使用に不服であるところの所謂、「片利共生」か)。『また、枠糸の間に小さなアシナガグモ』(クモ目アシナガグモ科アシナガグモ属 Tetragnatha の類)『の幼虫が網を張ることがある。小型のクモは狭いところでしか網を張れないから、枠糸を利用すれば広い空間に出ることができる。つまり、ジョロウグモの網が小型のクモのための足場として利用されている』(これもどう見ても「片利共生」だ)。『ジョロウグモの摂食中の餌には、小さなハエが集まって、クモの反対側から餌をしゃぶっているのを見掛けることもある』。『ジョロウグモは JSTX-3 という毒を持っており、興奮性神経の伝達物質であるグルタミン酸を阻害する性質がある。ただし、一匹がもつ毒の量は微量であり、人が噛まれたとしても機械的障害もない場合がほとんどである』(但し、これには注意書きがあって例のオオジョロウグモ類から咬傷を受けた場合は軽度の機能的障害が起こる場合があるとある)。『日本では本州から九州では普通種だが、北海道にはおらず、南西諸島では沖縄本島北部までに知られる。国外ではインド、台湾、中国、朝鮮に分布する』。以下、「ジョロウグモとコガネグモ」の項。『かなり多くの地方で、ジョロウグモと同様に黄色の斑紋を持つ大型のコガネグモ類(コガネグモ科)も含めて「ジョロウグモ」と呼んでいるので注意を要する。次のように違いははっきりしているので、見分けるのは簡単である』。

ジョロウグモ

『夏以降に成熟し、秋に産卵する。網は大きくて下に長い馬蹄形で、白い帯はつけない。腹部は長い楕円形で、黄色と灰青色の横帯模様』である。

コガネグモ

『初夏から夏にかけて成熟し、卵を産んで死んでしまう。網は標準的な円網で、そこにX形に白い帯(隠れ帯)をつける。腹部は丸みを帯びた五角形に近く、黄色と黒の横帯模様。なお、コガネグモには数種の近似種がいる』。『文献には、「ジョロウグモ」の名は江戸時代から見られ、方言や誤用を含め、以下のような種を表していた。『和漢三才図会』の「ぢょらうぐも」は、内容や漢訳「絡新婦」からして Nephila clavata のこととされるが、他には Argiope(コガネグモ属)と思われる記載がされた文献もある』(下線やぶちゃん)。

 ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata

 コガネグモ科コガネグモ属コガネグモ Argiope amoena

       コガネグモ属ナガコガネグモ Argiope bruennichii

       コガネグモ属コガタコガネグモ Argiope minuta(稀)

       コガネグモ属チュウガタコガネグモ Argiope boesenbergi(稀)

なお、明治四〇(一九〇七)年、『岸田久吉は Nephila clavata にジョロウグモの和名を当てた。しかし』、大正五(一九一六)年に山鳥吉五郎はコガネグモ科コガネグモ属の『Argiope bruennichii(現在の和名はナガコガネグモ)がジョロウグモであるとした。最終的に岸田の命名が広まり、現在に至』っているとある(最後の部分は和名の本来の「じょろうぐも」が何であったのかという、生物和名の同定論争である)。

 

・「ぢよろうくも」訓読でも「くも」には敢えて濁点を打たなかった。「ぢ」に濁点を打って「く」に打たないのは、良安が「じょろうくも」と清音で読んでいたことを意味すると判断したからである。東洋文庫版現代語訳は「じょろうぐも」とする。採らない。

・「絡新婦」驚いた! ワード(マイクロソフトIME2010)で「じょろうぐも」と打って変換して御覧なさい! 「女郎蜘蛛」じゃあ、なくて! この文字列が! 出る!

・「張延賞……」以下は時珍が劉禹錫(りゅううしゃく 七七二年~八四二年:「詩豪」と称せられた中唐の名詩人にして政治家)の処方集「伝信方」から引いたもので、

   *

判官張延賞、爲斑蜘蛛咬頸上、一宿有二赤脈繞項下至心前、頭面腫如數斗、幾至不救。一人以大藍汁入麝香・雄黃、取一蛛投入。隨化爲水。遂以點咬處、兩日悉愈。

   *

とあるのに拠るのだが、お気づきになったように「本草綱目」では「頭上」ではなく、「頸上」である。これは私は良安の誤写と思う。病態から見ても、脳天を嚙まれたんではなく、首筋の上であろう。頸動脈を嚙まれて急速に毒が廻ったからこそ、一夜で病態が危篤状態にまで達したに違いない(頭頂部ではこんなに簡単に毒は廻らないと思いますよ、時珍先生)但し、中国でもこんな強烈な有毒種のクモがいるとは思われないから、何か別な毒虫か毒蛇に咬まれたと考えるのが自然である。病態から見ると、すこぶるヘビ毒っぽいのである。

・「心」心臓。

・「頭靣」頭部と顔面。

・「數斗」斗は唐時代の体積単位では約五・九リットルであるが、ここはまさに頭部が一斗升(現行は十八リットルだから三分の一の大きさ)の数倍の大きさに腫れ上がったというのだから、それこそ有意に見た目が二回りほどには腫脹したというのであろう(それ以上デカくなると、動脈破裂で即死するか、気管閉塞で窒息死してしまうから現実的でない)。

・「一人」ある人。本草学に詳しいのであろう。

・「大藍汁」「藍汁」ならばタデ目タデ科イヌタデ属アイ Persicaria tinctoria の葉を発酵させて石灰乳を混和し、藍染めの材料として青藍(せいらん)を沈殿させた状態の液を指す。「大」の意は不詳。アイの類の当時の種別(「大藍」という名)か。その場合でも要は「犬蓼」の中の大きな葉を持つ「藍」で同種(アイ Persicaria tinctoria)のことを指すのではなかろうかと私は思う。

・「麝香」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ(麝香鹿)属 Moschus の仲間のの成獣がを誘うための性フェロモンを分泌するために持つ麝香腺(陰部と臍の間にある)の嚢を抜き取って乾燥させたもの。現在では主に媚薬として知られる。

・「雄黃」鶏冠石。毒性が強いことで知られる三酸化二砒素(As2O3 :英名 Arsenic trioxide)を含む。

・「一蛛を取て投げ入るれば」気になるのはこの治療薬に混入する蜘蛛はその「斑蜘蛛」なのか、それとも違う種なのかの記載がない(原典も)。毒を以って毒を制す式なら、同一種でないとあかんと私は思うが、如何? ともかくも処方としては杜撰じゃろが!

・「隨ひて化して水と爲る」投げ入れるとその蜘蛛が、その水溶液に速やかに溶け、完全に水、姿形を失ってしまった、というのである。

・「點ず」点滴した。

・「兩日」二日で。

・「遍身」全身。

・「好〔き〕酒」恐らくはアルコール度数の高い酒であろう。

・「蟲、肉中に於いて小〔さき〕米に似、自〔(おのづか)〕た出づるなり」思うのだが、ここは恐らく、鋏角亜門蛛形(クモ)綱ダニ目 Acari のダニ類の寄生による炎症或いはそのダニが寄生することで引き起こされた(ダニが媒介した)感染症を指しているように思われる。例えば全身性のものとなると、皮膚に穿孔して寄生するコナダニ亜目ヒゼンダニ科Sarcoptes 属ヒゼンダニ変種ヒゼンダニ(ヒト寄生固有種)Sarcoptes scabiei var. hominis によって引き起こされる疥癬がまず頭に浮かぶ(百万から二百万個の虫体が免疫力低下したヒトに寄生するノルウェー疥癬(過角化型疥癬)は見るだに物凄い)。但し、酒を飲んでも、出ては来ず、寧ろ、堪え難い掻痒感が襲うだけと思われるので、この療法はパス!

・「黃・黒・綠・赤〔の〕斑〔(まだら)〕、美なり。而れども却て醜(みにく)し」色彩は絢爛でその色だけを漫然と眺めるとならばとても美しいのであるが、逆によく観察してみるとその形状とその色の組み合わせといい、これは頗る醜い、というのである。ちょっと「じょろうぐも」が可哀想な気がしてくる。

・「其の毒、最も甚しき故なり」既に引用した通り、誤り。但し、噛まれるとやはり少し痛いようだ。昆虫食を研究する「ブログ女郎蜘蛛の恋の季節」によった。この人は採取した本種を食べている。そこには『クモを食べるとなると毒は大丈夫かという話になる。ジョロウグモ毒は微量だし、茹でたりすれば流失する。しかも食べる部位は毒牙を有する頭胸部を取り去った腹部である。だから安全である。むしろ採取の際かまれると少し痛い。でもセアカゴケグモのような強いショック症状を起こすことはない』とあり、また、講談社刊の川合述史著「一寸の虫にも十分の毒」(これ、私も読んで持っているはずなのだが見当たらない)からの引用と指示があって、『毒も有効に用いれば薬になる。ジョロウグモ毒は痴呆症の予防薬として研究されている。脳で血流障害が起きるとグルタミン酸が多量に放出され、神経細胞が過剰に興奮し、細胞外からカルシウムイオンが流入して神経細胞が死んでしまう。ジョロウグモ毒はこの過剰なグルタミン酸の作用を抑制する働きがある。このため細胞死を抑える薬として期待されている』という記載もある。本来ならリンクを張るのでるが、採取したジョロウグモの写真とその食べるという内容から、やめておくことにした。以下がアドレスである。自己責任でご覧あれ(http://insectcuisine.jp/?p=24)。

・「黐(とりもち)」以下、ウィキの「鳥黐」より引用する(形容部なので細部の学名補填は最小限に留めた)。『鳥黐(とりもち)は、鳥や昆虫を捕まえるのに使う粘着性の物質。鳥がとまる木の枝などに塗っておいて脚がくっついて飛べなくなったところを捕まえたり、黐竿(もちざお)と呼ばれる長い竿の先に塗りつけて獲物を直接くっつけたりする。古くから洋の東西を問わず植物の樹皮や果実などを原料に作られてきた。近年では化学合成によって作られたものがねずみ捕り用などとして販売されている』。『日本においても鳥黐は古くから使われており、もともと日本語で「もち」という言葉は鳥黐のことを指していたが、派生した用法である食品の餅の方が主流になってからは鳥取黐または鳥黐と呼ばれるようになったといわれている』。『原料は地域によって異なり、モチノキ属』(ニシキギ目モチノキ科モチノキ属 Ilex)の植物であるモチノキ Ilex integra・『クロガネモチ・ソヨゴ・セイヨウヒイラギなど)やヤマグルマ』(ヤマグルマ目ヤマグルマ科ヤマグルマ Trochodendron aralioides)やガマズミ(マツムシソウ目レンプクソウ科ガマズミ属ガマズミ Viburnum dilatatum)などの樹皮、ナンキンハゼ(キントラノオ目トウダイグサ科トウダイグサ亜科 HippomaneaeHippomaninae亜連ナンキンハゼ属ナンキンハゼ Triadica sebifera )・ヤドリギ(ビャクダン目ビャクダン科ヤドリギ属ヤドリギ Viscum album )『などの果実、イチジク属』(バラ目クワ科イチジク属 Ficus )の『植物(ゴムノキなど)の乳液、ツチトリモチ』(ビャクダン目ツチトリモチ科 Balanophoraceae)『の根など多岐にわたる。日本においてはモチノキあるいはヤマグルマから作られることが多く、モチノキから作られたものは白いために「シロモチ」または「ホンモチ」、ヤマグルマのものは赤いために「アカモチ」と呼ばれる。鹿児島県(太白岩黐)、和歌山県(本岩黐)、八丈島などで生産されていた』。『鳥黐の製法は地域や原料とする植物によって異なるが、モチノキなどの樹皮から作る場合は、樹皮を細かく砕いて水洗いし、水に不溶性の粘着質物質をとりだすことで得られる。商品として大量に生産する場合は、まず春から夏にかけて樹皮を採取し、目の粗い袋に入れて秋まで流水につけておく。この間に不必要な木質は徐々に腐敗して除去され、水に不溶性の鳥黐成分だけが残る。水から取り出したら繊維質がなくなるまで臼で細かく砕き、軟らかい塊になったものを流水で洗って細かい残渣を取り除く。得られた鳥黐は水に入れて保存する。場合によっては油を混ぜることがある』。『主要な鳥黐であるモチノキ属植物、ヤマグルマ、ヤドリギの果実などから得られるものの主成分は高級脂肪酸と高級アルコールがエステル結合した化合物であるワックスエステル、つまり蝋である。逆に言うと化学的には、植物から得られ、常温でゴム状粘着性を示す半固体蝋が鳥黐であるともいえる』。(中略)『こうした化学的組成により、非水溶性であり、また二硫化炭素、エーテル、ベンゼン、石油エーテルといった有機溶媒には溶けるが、アルコールには溶けない』。『鳥黐は強力な粘着力があることから、職業として鳥を取る鳥刺しなどによって使用される。食用に鳥を捕獲する場合は黐竿と呼ばれる長い竿の先に鳥黐をぬりつけたものを使い、直接小鳥をくっつける。一方、メジロなど観賞用の鳥は直接くっつけると羽が抜けて外見が悪くなるため、枝などに鳥黐を塗っておいて囮や鳥笛をつかっておびき寄せ、足がくっついて飛べなくなったところを捕らえる』。『また、子供の遊びとして虫捕りにもよく使用される。この場合、黐竿をつかってトンボなどを捕獲する。ただし粘着力が強すぎ、脚や翅に欠損を生じることがあるため、標本用途には向かない』。『鳥黐は水につけると粘着性がなくなるため、保存や取扱いの際には水で湿らせておくか、少量の場合は口中で噛んでおく。枝などに塗りつけたあと乾かすと再び強い粘着性を示すようになる』。『日本においては、鳥屋や駄菓子屋などで販売されていたが、鳥獣保護法の施行によって鳥類の捕獲が難しくなってからはあまり販売されなくなっている』。『かつては鳥獣保護法において法定猟具に鳥黐は含まれており、これを利用した黐縄(もちなわ。鳥黐を塗った縄を湖面に張り巡らせることで水鳥を捕獲する。参照流し黐猟)や、はご(木の枝や竹串に鳥黐を塗布して鳥を捕獲する。おとりの鳥を入れた鳥篭を高所に配置して、近づいてきた鳥を捕獲する猟法は高はご、多数のはごを配置するものは千本はごと呼ばれた)などの猟具が存在した』。『高はごは、メジロ、カワラヒワ、マヒワなどを捕獲するのに用いる。 長い竿、高樹などの頂に竹竿を結びつけ、これにおとりの籠をつるし、これとは別に黐を付けた竿または枝をこずえに固定し、滑車と綱を利用して黐付きの竿を上下するようにしておく。竿は』『近くのこずえよりも高くし、または一本樹を利用する。はごは矢竹、クワ、柳などのやわらかな枝を用いる。おとりは小型の籠を複数、かさねておく。おとりに誘われた鳥は樹枝と誤認して黐付きの枝にとまり、黐が付着し、地上に落下する。このときいっぽうの手縄をゆるめ、他方の手縄を引き、竿をおろして捕獲する』。千本はごは、『割り竹、細ひごなどに黐をぬりつける。その太さ、長さは鳥種によって異なる。 雁鴻を捕獲するには、夜、鳥が集まる水田、池、沼に黐を塗っていない部分を』『挿し立て、ところどころに空き場をつくっておく。おとりを置き、誘致する。雁鴻はおとりに誘われて着地し、徒渉するとき黐が羽毛に付着し、これを捕獲する。千葉県手賀沼でさかんに使用された。カケス、ヒヨドリなどを捕獲するには、あらかじめ鳥が来る樹上に小型のはごを設置し、黐が鳥に付着し、地上に落下するのを捕獲する』。『現在ではかすみ網やとらばさみ、あるいは雉笛などとともに禁止猟具に指定されており、鳥類の捕獲自体も銃猟若しくは網猟に限定されていることから、鳥黐を使用して鳥類を捕獲する行為は、禁止猟具を用いての捕獲およびわなを用いての鳥類の捕獲に該当し、鳥獣保護法違反で検挙対象となる』とある。以上、長々と引いたのは私自身が実は鳥黐を見たことも使ったこともないからである。私は私の注で何よりも私自身が十全に学びたいのである。

・「潰れて血を出だして死す。其の他の蜘蛛は、及〔(すなは)〕ち、血、無し」ジョロウグモがヘモグロビンを持つとは聴いたことがない。何か、体内に赤色を呈する内臓などがあるかどうかも不詳(外部の赤いのは模様であって器官ではない)。識者の御教授を乞う。

・「其の尻、尖り、兩處、動揺するに隨ひて光り、閃閃(ひかひか)とす。然れども螢火〔(ほたるび)〕の毎夜〔(よごと)〕、鮮明(あざや)かなるには若かず。老する者、能く火を生ず。闇夜或いは微雨の中、遇(たまたま)、之れを見る。大いさ、小さき碗〔(わん)〕ばかり、圓〔(まる)〕くして微青色を帶び、其の行くこと、徐(しづか)にして遠〔(ゑん)〕を致さず、其の高きことも亦、家の檐より過ぎず。」訳してみよう。――その尻は尖っており、そこに二箇所、顫動するたびにぴかぴかと光り輝く部分がある。しかしそれは、夏場にかの蛍の尾部が夜ごと、極めて鮮やかに明滅するのには及ばない(相対的には遙かに幽かである)。絡新婦(じょろうぐも)の中でも老成した大型個体は、極めてよく、そうした「火」を発生させる。それは特に闇夜、或いは、ごく小雨の中にあって、たまた見かけることがある(蛍のようにはそれほどこの発光は頻繁には現認出来ない)。その光(火)の大きさは、凡そ小さな食事用の椀(わん)ほどのもので、全体が丸く、微かに青みを帯びており、それは見かけ上は、空中と思われる位置を移動するのであるが、その動きはごくゆっくりと静かであり、それほど遠いところまでは移動しないし、その高さも、凡そ人家の庇(ひさし)よりも高ところまでは昇っては行かない。――実に奇っ怪な話である。ジョロウグモ類に発光器官はない。……しかし……いる! いる! その名も妖怪「絡新婦(じょろうぐも)」じゃ! ウィキの「絡新婦から引く。『絡新婦(じょろうぐも)は、日本各地に伝わる妖怪の一種。美しい女の姿に化けることが出来るとされていることから、本来の意味からの表記は「女郎蜘蛛」で、「絡新婦」は漢名を当てた熟字訓である。鳥山石燕の「画図百鬼夜行」では、火を吹く子蜘蛛達を操る蜘蛛女の姿で描かれている』(本注の最後に同ウィキのパブリック・ドメイン画像を掲載する。但し、以下に解説されるそれは、少なくともこの絵のような小蜘蛛を操る妖怪蜘蛛女の内容ではない。以上の下線はやぶちゃん)。「太平百物語」や「宿直草」など『の江戸時代の書物にも、女に化ける絡新婦の名がある』。「宿直草」には、『「急なるときも、思案あるべき事」と題し、以下のように述べられている。ある青年武士の前に』十九~二十歳の女が子供を抱いて現れ、子供に「あれなるは父にてましますぞ。行きて抱かれよ」と言い、武士が女の正体を妖怪と見抜いて刀で斬りつけると、女は天井裏へ逃げ込んだ。翌日には天井裏に』一~二尺の『絡新婦が刀傷を負って死んでおり、その絡新婦に食い殺された無数の人間の死体があったという』。「太平百物語」の「孫六女郎蜘(じょろうぐも)にたぶらかされし事」は以下の通り。『作州(現・岡山県)高田での夏、孫六という者が家の縁側でうとうとしていると』、五十歳代ほどの『女性が現れ、自分の娘が孫六に想いを寄せていると言い、自分の屋敷へ孫六を招いた。そこには』十六~十七歳の『娘がおり、孫六に求婚した。孫六は妻がいるので断ったが、娘は「母は一昨日あなたに殺されかけたにもかかわらず、あなたのもとを訪ねたというのに、その想いを無にするのか」とすがりついた。孫六が当惑して逃げ惑っている内に屋敷は消え、自分は自宅の縁側にいた。妻が言うには、孫六は縁側で眠っていたとのことだった。夢だったかと思って周囲を見ると、小さなジョロウグモがおり、軒にはびっしりとクモの巣が張られていた。孫六は一昨日クモを追い払ったことをはっと思い出したという』。以下、「各地の伝承」の項。『静岡県伊豆市の浄蓮の滝では、滝の主として絡新婦の伝説がある。ある男が滝壺のそばで休んでいると、無数の糸が脚に絡みついてきた。男がその糸を近くの木の切り株に結び付けてみると、株はメリメリと滝に引き込まれた。絡新婦が男を滝に引き込もうとしていたのである』(これと全く同じ内容でロケーションを鶴岡八幡宮の源平池池畔に移した昔話が鎌倉に残る)。『以来、里の人々は絡新婦を恐れてその滝に近づかなかったが、よその土地から来た木こりが事情を知らずに木を刈っていたところ、誤って愛用の斧を滝壺に落としてしまった。木こりが斧を取り戻すために滝壺に潜ると、美しい女が現れて斧を返してくれ「ここで見たことを誰にも話してはいけません」と言った。木こりは以来、言いつけを守りながらも胸に何かがつかえたような日々を送り、あるときの宴の席で、酒の勢いで一部始終を話してしまった。胸のつかえがとれた安心感で木こりは眠りこけたが、そのまま二度と目を覚ますことはなかったという』。『別説では、話し終えた木こりがまるで見えない糸に引かれるかのように外へ出て行き、翌日には浄蓮の滝の滝壺に死体となって浮かんでいたという』。『また、この浄蓮の滝の木こりの伝承には、悲恋物語ともいうべき別説もある。それによれば木こりは滝壺で出会った女に恋をし、毎日のように滝に通うが、それにつれて体が衰弱していった。近隣の寺の和尚は「滝の主の絡新婦に取りつかれたのでは」と疑い、共に滝へ行って読経した。すると滝から木こりへと蜘蛛の糸が伸びたが、和尚が一喝すると糸は消えた。木こりは女の正体が絡新婦と知ってもなお諦めず、山の天狗に結婚の許しを得ようとしたが、天狗はそれを許さなかった。なおも木こりは諦めず、滝に向かって走った。すると彼は滝から伸びた蜘蛛の糸に絡め取られ、滝壺の中へと消えて行ったという』。『絡新婦により滝に引きずり込まれそうになった人が切り株を身代りにするという伝説は各地にあるが、中でも仙台市の賢淵がよく知られる。ここの伝説では切り株が水中に引きずり込まれた後、どこからか「賢い、賢い」と声が聞こえたといい、賢淵の名はそれが由来とされる』。『以来、賢淵では絡新婦が水難除けの神として信仰され、現在でも「妙法蜘蛛之霊」と刻まれた記念碑や鳥居がある』。『あるときに賢淵のそばに住む源兵衛という男のもとに、淵に住むウナギが美女に化けて訪れた。彼女が言うには、明日は淵の絡新婦が攻めてくるが、自分の力ではわずかに及ばないので、「源兵衛ここにいる」と声をかけて助力してほしいとのことだった。源兵衛は助力を約束したものの、いざ翌日になると怖くなり、家に閉じこもっていた。結局』、『ウナギは絡新婦に敗れ、源兵衛も狂死してしまったという』。『徳島県に伝わる昔話。ある村の庄屋では息子の婚礼が決まり父親である庄屋様はとても喜んだ。そんなある時、その庄屋の家に旅をしている盲目の美しい女が「道に迷ったので一晩泊めて欲しい。」と尋ねて来た。それを聞いた父親と息子は女を気の毒に思って泊めることを承知した。その日の翌日の朝には女は旅立った。しかしそれ以来、息子は日一日と顔色が悪くなり、痩せ衰えていった。そして村では「毎晩、丑三つ時になると息子の部屋に訪ねてくる女がいる。」という奇妙な噂が広まっていた。心配になった父親は息子に何があったかを尋ねた。すると息子は「女が毎晩、自分を訪ねて来て優しい目で自分を見つめられる幸せな夢を見ているんだ。」と話した。それを聞いた父親はその夜に隠れて様子を見ていると以前、家に泊めてあげた旅の女が息子の部屋に入っていった。次の日になると父親は村中で腕の立つ猟師を何人も呼び集めると息子の部屋の天井などに隠れさせた。そして夜になるとやはり女が来た。すると女は巨大な女郎蜘蛛の正体を露わにし、寝ている息子の生血を吸いだした。隠れていた猟師達は恐ろしさに震えながらも女郎蜘蛛に向かって一斉に矢を放った。女郎蜘蛛は悲鳴を上げ、無数の矢が刺さりながらも逃げようとしたが、猟師達は止めを刺そうと女郎蜘蛛を取り囲んだ。だがその時、目を覚ました息子は「殺すのだけはやめてくれ!」と必死にお願いした。それを見た父親は猟師達を下がらせると女郎蜘蛛に「息子が言うから命は助けてやる。しかし、山に帰ったら二度と里には下りて来るんじゃない。」と言った。それを聞いた女郎蜘蛛は一度、息子の方を見ると傷ついた身体を引きずりながら山へと帰って行った。そして次の日、父親は自分が幼い頃に聞いたある話を息子に話して聞かせた』。『昔、美しい女がおり』、『その女には嫁入りを約束した男がいたが』、『嫁入りの前日になって女は男の心変わりが理由で捨てられてしまった。女は深い山に入り男への恨みと悲しみから巨大な女郎蜘蛛になってしまったという。それ以来、その女郎蜘蛛は婚礼前の男がいると取り殺してしまうという話だった』。『そして庄屋の息子を殺そうとした女郎蜘蛛は命を救ってくれた息子を殺そうとした我が身の浅ましさを恥じたのか二度と里に姿を現す事はなかった』。

鳥山石燕「画図百鬼夜行」より「絡新婦(じやらうくも)」の図[やぶちゃん注:ここでも「くも」は清音である。]

Sekienjorogumo

・「蓋し、鵁鶄(ごいさぎ)の火は、乃〔(すなは)〕ち、遲速・高卑〔(たかひく)〕定まら〔ざるは〕、鳥と蟲との異、以て然り。」訳してみよう。――思うに、知られた五位鷺の怪火には遅いものや速いもの、高い所を飛ぶものや低い所を行くものなど、さまざまにあって不定であるのはこれ、こうした怪火現象の元が、鳥であるか虫であるかの違いである、ということは最早、明確である。――またまた奇っ怪なる話である。鳥であるゴイサギ類(ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax:和名は醍醐天皇が『神泉苑に行幸(ぎやうかう)なつて、池の汀(みぎは)に鷺の居(ゐ)たりけるを、六位をめして、「あの鷺取つて參れ」と仰ければ、如何(いかん)が捕らるべきとは思へども、綸言(りんげん)なれば歩み向ふ。鷺羽づくろひして立たんとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひらんで飛びさらず。即ちこれを取つて參らせたりければ、「汝が宣旨に隨ひて參りたるこそ神妙(しんべう)なれ。やがて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされける。「今日より後、鷺のなかの王たるべし」といふ御札を、自ら遊ばいて、頸にかけてぞ放たせ給ふ。全くこれは鷺の御料(おんれう)にはあらず、只(ただ)王威(わうい)の程を知(しろ)し召さんが爲なり』と「平家物語」の「朝敵揃(てうてきそろへ)」に載るのに拠るとされる)に発光器官なんどは無論、ない。……しかし……いる! いる! その名も妖怪「別名五位の火(ごいのひ)」或いは「五位の光(ごいのひかり)」、別名「青鷺火(あおさぎび)」じゃ! ウィキの「青鷺火より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した。下線やぶちゃん)。『青鷺火(あおさぎび、あおさぎのひ)は、サギの体が夜間などに青白く発光するという日本の怪現象』。『「青鷺」とあるが、これはアオサギ』(サギ亜科アオサギ属アオサギ Ardea cinerea)『ではなくゴイサギを指すとされる』。『江戸時代の妖怪画集として知られる鳥山石燕』の「今昔画図続百鬼」や竹原春泉画「絵本百物語」にも取り上げられており(本注の最後に以上の二枚の同ウィキのパブリック・ドメイン画像を掲載する)、『江戸時代にはかなり有名な怪談であったことがわかる』。また、江戸後期の戯作者桜川慈悲功の「書変化物春遊」にも、『大和国(現・奈良県)で光る青鷺を見たという話がある。それによると、化け柳と呼ばれる柳の大木に毎晩のように青い火が見えて人々が恐れており、ある雨の晩、一人の男が「雨の夜なら火は燃えないだろう」と近づいたところ、木全体が青く光り出し、男が恐怖のあまり気を失ったとあり、この怪光現象がアオサギの仕業とされている。新潟県佐渡島新穂村(現・佐渡市)の伝説では、根本寺の梅の木に毎晩のように龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が飛来しており、ある者が弓矢で射たところ、正体はサギであったという』。『ゴイサギやカモ、キジなどの山鳥は夜飛ぶときに羽が光るという伝承があり、目撃例も少なくない。郷土研究家』更科公護の「光る鳥・人魂・火柱」にも、昭和三(一九二八)年頃、『茨城県でゴイサギが青白く光って見えた話など、青鷺火のように青白く光るアオサギ、ゴイサギの多くの目撃談が述べられている。サギは火の玉になるともいう。火のついた木の枝を加えて飛ぶ、口から火を吐くという説もあり、多摩川の水面に火を吐きかけるゴイサギを見たという目撃談もある江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも、ゴイサギが空を飛ぶ姿は火のようであり、特に月夜には明るく見え、人はこれを妖怪と見紛える可能性があるとの記述がある』(その内、鳥類の電子化注もやらずんばなるまい)。『また一方でゴイサギは狐狸や化け猫のように、歳を経ると化けるという伝承もある。これはゴイサギが夜行性であり、大声で鳴き散らしながら夜空を飛ぶ様子が、人に不気味な印象をもたらしたためという説がある。老いたゴイサギは胸に鱗ができ、黄色い粉を吹くようになり、秋頃になると青白い光を放ちつつ、曇り空を飛ぶともいう』。『科学的には水辺に生息する発光性のバクテリアが鳥の体に付着し、夜間月光に光って見えるものという説が有力と見られる。また、ゴイサギの胸元に生えている白い毛が、夜目には光って見えたとの説もある』。また、「吾妻鏡」の『建長八年(一二五六年)六月十四日条に、「光物(ひかりもの)が見える。長(たけ)五尺余(百六十五センチほど)。その体、初めは白鷺に似ていた。後は赤火の如し。その跡、白布を引くが如し」という記述がある。「本朝においてはその例なし」と記されていることから、光るサギのような怪異という意味では、現存記述として最古のものと見られる。ただし、この怪異は、「サギの形をした怪光」という話である(また、最後には赤くなったとある)』。根岸鎭衞の「耳嚢」には、『文化二年(一八〇五年)秋頃の記録として、江戸四谷の者が夜の道中で、白衣を着た者と出くわしたが、腰から下がなく、幽霊の類かと思い、振り返ると、大きな一つ目が光っていたので、抜き打ちで切りつけ、倒れたところを刺し殺すと大きな五位鷺であったという話が記述されている。なお、そのサギはそのまま持ち帰られ、調味されて食された。そのため、「幽霊を煮て食った」ともっぱら巷の噂となったという。人が妖怪に食べられる話は多いが、人間に食べられてしまった稀な例といえる』とあるが、最後の話は私の耳嚢 巻之七 幽靈を煮て食し事で子細に読める。未見の方は、どうぞ。

Aosagibi

(上)鳥山石燕「今昔画図続百鬼」より「青鷺火」の図

(下)竹原春泉画「絵本百物語」より「五位の光」の図

Shunsengoinohikari

・「酉陽雜俎」唐代の八六〇年頃に成立した段成式(八〇三年~八六三年)撰になる、古今の異聞怪奇を記した随筆。二十巻に続集十巻がある。これはその「卷十四」「諾皐(だくこう)記上」末尾に載る蜘蛛の怪の一つである。以下に示す。底本は元禄一〇(一六九七)年井上忠兵衞ら刊「酉陽雜俎」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した。

   *

○原文

相傳、裴旻山行。有山蜘蛛、垂絲如疋布。將及旻。旻引弓射殺之、大如車輪。因斷其絲數尺收之。部下有金創者、剪方寸貼之、血立止也。

○やぶちゃんの自在勝手書き下し文

 相ひ傳ふ、裴旻(はいびん)、山行す。山蜘蛛、有りて、絲を垂るること、疋布(ひつぷ)のごとし。將に旻に及ばんとす。旻、弓を引きて射て、之れを殺す。大いさ、車輪のごとし。因りて其の絲を斷つに、數尺、之れを收む。部下、金創の者、有れば、方寸を剪りて之れに貼れば、血、立ちどころに止るとなり。

   *]

2016/04/22

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜘蛛

Kumo

くも     
2 次

蜘蛛【音誅】4蝓  5蟱

       蟠蜍

       【和名久毛】

ツウチユイ

[やぶちゃん字注:「1」=(上)「知」+(下)「黽」。「2」=(上)「朱」+(下)「黽」。「3」=「蠹」から下の「橐」から「石」と「木」を除去して「石」位置に「口」、「木」の位置に「虫」。「4」=「虫」+「屬」。「5」=「虫」+「出」。]

 

本綱此蟲設一靣之網物觸而後誅之知乎誅義者故曰

蜘蛛布其網絲右繞其類甚多大小顏色不一囓人甚毒

惟深灰色身小尻大腹内有蒼黃膿而人家簷角籬頭空

中作圓網者去頭尾用藥蜘蛛遺尿着人令人生瘡蜘蛛

能制蜈蚣以溺射之節節斷爛又能制蛇

有人喜忘者七月七日取蜘蛛網置衣領中有効【勿令病人知】

又以蜘蛛網纏疣贅七日消落有驗

按蜘蛛二手六脚尻圓大而出絲其絲能黏着人物而

 夏秋布網於空處經緯區區實如用規矩者毎居正中

 或竄檐間有諸蟲罣之者則走出捕之若可敵于己者

 則遠以絲繞其周匝使蟲不能動揺竟推丸之捕入檐

 間恣食之知誅之名義相合焉如塵芥罣之則以手悉

 振拔之天將風則預知之呑絲収網

 

 

くも       2〔(ちちゆ)〕 次3〔(じしゆう)〕

蜘蛛【音、誅。】4蝓〔(しよくゆ)〕 5蟱〔(せつぼう)〕

         蟠蜍〔(ばんしよ)〕

         【和名、久毛。】

ツウチユイ

[やぶちゃん字注:「1」=(上)「知」+(下)「黽」。「2」=(上)「朱」+(下)「黽」。「3」=「蠹」から下の「橐」から「石」と「木」を除去して「石」位置に「口」、「木」の位置に「虫」。「4」=「虫」+「屬」。「5」=「虫」+「出」。]

 

「本綱」、此の蟲、一靣の網を設け、物、觸〔れて〕後、之れを誅し、「誅」の義を知る者なり。故に蜘蛛と曰ふ。其の網を布(し)くこと、絲、右に繞(まと)ふ。其の類、甚だ多し。大・小、顏色、一ならず。人を囓む。甚だ毒あり。惟だ、深灰色、身、小さく、尻、大にして、腹の内、蒼黃なる膿(うみ)有りて、人家の簷(のき)の角(すみ)・籬(まがき)の頭(ほとり)〔の〕空中に圓き網を作る者、頭尾を去りて藥に用ふ。蜘蛛の遺尿、人に着けば、人をして瘡を生ぜしむ。蜘蛛、能く蜈蚣(むかで)を制す。溺(すばり)を以て之れを射すれば、節節、斷(き)れ爛(ただ)る。又、能く蛇を制す。

人の喜(この)んで忘るる者、有り。七月七日、蜘蛛の網を取て衣領の中に置く。効、有り【病人をして知らしむる勿れ。】。

又、蜘蛛の網を以て疣(いぼ)・贅(こぶ)を纏(まと)へば、七日にして消え落つ。驗〔(げん)〕、有り。

按ずるに、蜘蛛は二手・六脚、尻、圓く大にして絲を出だす。其の絲、能く、人・物に黏(ねば)り着(つ)く。夏・秋、網を空處〔(くうしよ)〕に布(し)く。經(たて)・緯(ぬき)、區區(まちまち)、實に規矩(すみがね)を用ひる者のごとし。毎〔(つね)〕に正中(まん〔なか〕)に居て、或いは檐〔(のき)〕の間に竄(かく)れて、諸蟲、之れに罣(かゝ)る者、有れば、則ち、走り出でて之れを捕ふ。若〔(も)〕し、己〔(おのれ)〕に敵すべき者には、則ち、遠く、絲を以て其の周匝(めぐり)を繞(まと)ひ、蟲をして動揺すること能はざらしめ、竟に之れを推丸〔(おしまる)〕め、檐の間に捕へ入れて、恣(ほしいまゝ)に之れを食ふ。「知誅」の名義、相ひ合ふ。如〔(も)〕し、塵芥之れに罣〔(かゝ)〕れば、則ち、手を以て、悉く之れを振り拔く。天、將に風〔(かぜふ)〕かんとすれば、則ち、預(あらかじ)め、之れを知りて、絲を呑んで、網を収む。

 

[やぶちゃん注:節足動物門鋏角亜門クモ上綱蛛形(クモ)綱クモ亜綱クモ目 Araneae はハラフシグモ亜目 Mesothelae・クモ亜目 Opisthothelae の二亜目に分類される。私は実は蜘蛛類に対しては生理的嫌悪性が殆んどない。恐らくは小学校の低学年時に古本屋で母に買って貰った古いけれど、かなり分厚い青少年向けの蜘蛛の科学書を擦り切れるほど読んだからだろうと思う。教員時代に好んで扱った阿部公房の「蛇の話」ではないが、日常を細かに知り得ると(知的に理解すると。しかもそれが幼少期であればあるほど、である)、その対象は遮断された異界の恐るべき化け物ではなくなるというのは、全面的に正しい見解である。阿部公房は残念なことに好きな作家ではないのであるが。

 

・「2〔(ちちゆ)〕」(「1」=(上)「知」+(下)「黽」。「2」=(上)「朱」+(下)「黽」)以下、異名の読みは最早、お手上げなので、東洋文庫版現代語訳のルビを参考にしながら推定して、歴史的仮名遣で附してある。

・「一靣」一面。

・『「誅」の義を知る者なり』「誅」は「廣漢和辭典」によれば、形声で「朱」は「殳」に通じて「討(う)つ」の意であり、「言」葉を以って責め立てる、の意と解字する。意味は、討つ。武力で罪ある者を討つ。滅ぼす。罪を家族に及ぼして皆殺しにする。殺す。除く。伐り払う。治める。責める。罰する、或いは罪(つみ)・罰。敗れる、とある。この場合、「義」とする以上、或いはの意味である。多分に中国特有の載道史観的な解釈であるように私には思われる。

・「其の網を布(し)くこと、絲、右に繞(まと)ふ。其の類、甚だ多し」とあるが、これは観察を最後までちゃんとしていない杜撰な謂いである。新海明氏のクモの「円網の張り方」という素晴らしいページをご覧あれ。そこに『観察会などでよく聞かれる質問のひとつに、「ヨコ糸を張るときは右回りか左回りか」というのがあります。答えはどちらでもなく、右に回転していたクモはあるところまで来ると、今度は左回りに逆回転してヨ糸を張っていきます。種類によって異なるでしょうが、ヨコ糸を張り終えるまでに』一~二回は『回転の向きを変化するものが普通のようです』とある。

・「人を囓む。甚だ毒あり」ウィキの「クモ」の「毒性」によれば、『ほとんどのクモは虫を殺す程度の毒を持っているが、人間に影響を持つほどのものは世界でも数種に限られる。人間を殺すほどの毒を持つクモは、人間に影響を持つ種の中でもさらに限られる。また在来種のほとんどのクモは、人の皮膚を貫くほど大きな毒牙自体を持っていない。なお、ウズグモ科』(クモ綱クモ目ウズグモ科 Uloboridae)『は毒腺そのものを失っている』。『毒グモとして有名なのは、日本に侵入してニュースとなったセアカゴケグモ』(クモ目ヒメグモ科ゴケグモ属セアカゴケグモ Latrodectus hasseltii)や『ハイイロゴケグモ』(ゴケグモ属ハイイロゴケグモ Latrodectus geometricus)『をはじめとするゴケグモ類』(ゴケグモ属 Latrodectus)『である。それ以外にも世界でいくつかが危険視される。在来種でそれほど危険視されるクモは存在しないが、コマチグモ科』(Eutichuridae)『の大型種(カバキコマチグモ』コマチグモ科コマチグモ属カバキコマチグモ(樺黄小町蜘蛛)Chiracanthium japonicum)『など)は毒性が強く、噛まれるとかなり痛み、人によってはしばらく腫れ上がる。逆に毒グモとしてのイメージが強いオオツチグモ科』(Theraphosidae)『の別称であるタランチュラ』(

   *

 tarantula:ヨーロッパの伝説に登場する毒蜘蛛。ウィキの「タランチュラ」によれば、『語源はイタリアの港町、タラントであるとされる。その地方には毒グモの伝説があり、それに噛まれるとタランティズムという病を発症するといわれた。タランティズムの患者は死なないためには、タランテラという踊りを踊ればいいという伝承があり、この伝承に触発されて多くの音楽が作られ』、南イタリアでは十六世紀と十七世紀に『タランティズムがしばしば報告された』。『伝説のクモは、この地方に産する大型のコモリグモの』一種であるコモリグモ科コモリグモ属タランチュラコモリグモ Lycosa tarantula『あるとされた。タランチュラコモリグモは、雌が体長』約二センチ七ミリ、雄が体長約一センチ九ミリと『コモリグモの中では大型であるが、実際には毒は恐ろしいものではない。同じ地域には人間にも危険な猛毒の』ヒメグモ科 Latrodectus 属ジュウサンボシゴケグモ Latrodectus tredecimguttatus『が生息しており、全長が』約一センチメートルの『ジュウサンボシゴケグモよりも、より大きなタランチュラコモリグモの方が目に付きやすいため、誤解が広まったようである。ジャン・アンリ・ファーブルは』タランチュラコモリグモの方の近縁であるナルボンヌコモリグモLycosa narbonensis の『毒の強さを調べるためにひよこを噛ませたところ、死んでしまったと記録しているが、直接に毒で死んだと言うより、足が動かなくなり、餌が食べられなくなったのが原因だろうと言われている。かつてはコモリグモ科はこの伝説のためにドクグモ科と呼ばれていたが、クモの中でも特に毒性が強いわけではなく、母グモは子グモを腹部の上にのせて守る習性があるため、コモリグモ科と名前が変わった経過がある』。『タランチュラの伝承を知るヨーロッパ人が新大陸に渡ってから、恐ろしい姿の大きなクモを見るとタランチュラと呼んだ。当初はアシダカグモ類』(アシダカグモ科 Sparassidae)『もその名で呼ばれることがあったようだが、次第にオオツチグモ科』(オオツチグモ科 Theraphosidae)『のクモなどをタランチュラと呼ぶようになった』とある)

   *

『は、強い毒を持つものは稀である。しかしながら全ての毒グモの毒にはアナフィラキシーショックを起こす可能性があり、注意が必要である』。『毒性の有無・程度にかかわらず、人間など自身より遥かに大きなサイズの動物に対しては、ほとんどのクモは攻撃的でなく、近寄れば必死に逃げようとする。能動的に咬害を与えることも基本的にないが、不用意に素手で掴むなどすると、防衛のために噛みつかれる恐れがある』。『捕食時に獲物へ注入する消化液には強い殺菌能力があり、また自身の体もこの消化液で手入れを行っている。このためクモ自体や、獲物の食べ殻が病原体を媒介する可能性は低い』。『クモの糸が目にはいると炎症を起こすことがある。汚染によるものではなく、毒成分が関与しているともといわれる』。最後の部分であるが。私の経験では高校の頃に山野を跋渉した際、多量の蜘蛛の糸がコールテンのズボンに附着したところ、その附着部分の表面が美事に溶けたようになったことがあったのを思い出す。但し、これは今思えば、その毒成分によるものではなく、非常に強靭な糸の張力(私がかつて読んだ記事では、そのまま巨大化させればジャンボ・ジェット機でさえ突き破れないとされ、ペンタゴンは現在も蜘蛛の糸を応用した最強の防弾チョッキを開発中のはずである)による摩擦で焼き切れたのだと思っている。

・「深灰色、身、小さく、尻、大にして、腹の内、蒼黃なる膿(うみ)有りて、人家の簷(のき)の角(すみ)・籬(まがき)の頭(ほとり)〔の〕空中に圓き網を作る者」深い灰色を呈し、身は小さくて尻は大きく、腹の内部に蒼みがかった黄色い膿状の臓物を持っている種で、人家の檐(ひさし)の角及び垣根の上の方の空中に円い網を作る種である。あんまり小さくては生薬にならないから、コガネグモ科オニグモ属オニグモ Araneus ventricosus 辺りか? ウィキの「オニグによれば、『背甲は黒褐色から赤褐色、歩脚は黒褐色でより暗い色の輪紋があ』体長はで三~二センチメートル、で二~一・五センチメートルほど、『人家周辺に見られ、神社や寺院など建物周辺に多く見られる』、『ごく普通な種であり』、研究者は『「もっとも普通のオニグモ」』『(建物の)「外壁の空間や外壁と植え込みの間に」大きな垂直円網があれば、多分本種である』と記す。また、『大きな垂直の正常円網を張』り、『その大きさは横糸の張ってある範囲で』、径一メートルを『越えることもある。幼生は比較的低いところに網を張り、成長するに連れて次第に高いところへ張るとも言われる』とある。しかし私は門外漢、それにこれは「本草綱目」でロケーションは中国、さても、蜘蛛好きの方の同定を乞うものではある。

・「藥に用ふ」「本草綱目」には後に出る百足や毒蛇に咬まれた際の処方に用いる他に、附方がぞろぞろ載るが、良安は全然、採用していない。これは当時にあっても正式な漢方生薬としては蜘蛛類はメジャーでなかった証左と思われる。

・「遺尿」排泄した尿。

・「瘡」かさ。ここは、広く皮膚のできもの・腫れものを指す。

・「能く蜈蚣(むかで)を制す。溺(すばり)を以て之れを射すれば、節節、斷(き)れ爛(ただ)る」蜘蛛がその「すばり」、即ち、尿をムカデに射かけると、ムカデはその節毎に、急速に爛れて断ち切れてばらばらになってしまう、というのである。無論、こんな現象は起こらない。次に続いて「能く蛇を制す」とあるように、「毒を以て毒を制す」というより、私に言わせればフレーザーの言うところの類感呪術の典型的発想法である。

・「人の喜(この)んで忘るる者」健忘症のかなり重度の者。

・「七月七日」牽牛織女の特に蜘蛛を直ちに連想させるところの織姫伝説と、何か根源の意味はありそうである。

・「衣領」「領」は和語では「くだり」などと読み、衣類の数詞であるから、衣類一揃い(のその中)の謂い。

・「病人をして知らしむる勿れ」蜘蛛の網を仕込むところ、仕込んであることなどを決してその着衣の主(重度の健忘症患者)に知られてはならない(効果がなくなる)というのである。

・「蜘蛛の網を以て疣(いぼ)・贅(こぶ)を纏(まと)へば、七日にして消え落つ」これは小さな頃に、私も誰彼から聴いた記憶がある。

驗〔(げん)〕、有り。

・「緯(ぬき)」織物の横糸のこと。「ぬきいと」と呼び、これは「貫」と同語源である。

・「區區(まちまち)」ここは糸によって仕分けられた空間、「区」それぞれの謂いであり、現行で用いる形容動詞の「まちまち」(ばらばらでまとまりのないさま)の謂いではなくて、区切られた区画部分それぞれを指す語である。

・「規矩(すみがね)」「墨矩」「墨曲尺」とも書く。古くは「すみかね」とも言った。所謂、直角に曲がった金属製の物差しである曲尺(かねじゃく)を用いて、建築用木材に工作用の目印としての墨付けをする技術或いはその道具を指す。

・「罣(かゝ)る」網に引っ掛かる。

・「己〔(おのれ)〕に敵すべき者」自分と同等か、或いは、強い力や攻撃器官を有する者。

・「周匝(めぐり)」「周匝」の二字に「めぐり」とルビする。「匝」は音は「ソウ」で訓は「めぐる」周囲をぐるりと一回りするの意で、ここは畳語である。

・「繞(まと)ひ」最初は遠くから、徐々に近づきつつ、糸でぐるぐる巻きにしてゆく。

・「恣(ほしいまゝ)に」抵抗不能となっているので、思う存分、ゆっくりじっくりと。

・『「知誅」の名義、相ひ合ふ』これはやはり、前二注した「誅」の討つ。武力で罪ある者を討つ。滅ぼす。罪を家族に及ぼして皆殺しにするの意に、殺す・責めるを附加させたサディスティクなニュアンスが込められているように思われる。

・「手」頭胸部の四対の歩脚及び一対の触肢、さらには口にある鎌状になった鋏角(上顎)をも駆使する。

・「振り拔く」払い散らして落す。

・「天、將に風〔(かぜふ)〕かんとすれば、則ち、預(あらかじ)め、之れを知りて、絲を呑んで、網を収む」一旦、設営した捕捉網を再び体内に吸収収納という習性がクモ類にあるとは私には思われない。逆に生まれた子がある程度まで大きくなって草の先まで登って行き、風を利用してそれに乗り、出生地から有意に離れた場所へと移動したり、網の張り初めに、風に乗せて上手く糸を流すのならば、実際に私も観察したことが幾らもある。]

原民喜・昭和二五(一九五十)年十二月二十三日附・長光太宛書簡(含・後の「家なき子のクリスマス」及び「碑銘」の詩稿)

[やぶちゃん注:発信は神田神保町(当時、民喜は丸岡明の実家であった「能楽書林」に間借りしていた)。宛先は札幌市の長光太。当時、民喜満四十五。この九十日後、民喜は自ら命を絶った。

 底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」の「書簡集・遺書」に拠ったが、終生、民喜が諸原稿を基本的に正字で記していた事実に鑑み、恣意的に正字化した。

 「先日の本」不詳。

 本書簡に出る詩篇は後の「魔のひととき」(民喜自死後四ヶ月後の昭和二六(一九五一)七月細川書店刊の「原民喜詩集」に所収)に(同底本のものを恣意的に正字化)、「家なき子のクリスマス」及び並んで載る「碑銘」として発表されたものと基本的には大きな差はない。以下に示す(同底本のものを恣意的に正字化)。

   *

 

  家なき子のクリスマス

 

主よ、あはれみ給へ 家なき子のクリスマスを

今 家のない子はもはや明日も家はないでせう そして

今 家のある子らも明日は家なき子となるでせう

あはれな愚かなわれらは身と自らを破滅に導き

破滅の一歩手前で立ちどまることを知りません

明日 ふたたび火は空より降りそそぎ

明日 ふたたび人は灼かれて死ぬでせう

いづこの國も いづこの都市も ことごとく滅びるまで

悲慘はつづき繰り返すでせう

あはれみ給へ あはれみ給へ 破滅近き日の

その兆に滿ち滿てるクリスマスの夜のおもひを

 

 

 

  碑銘

 

遠き日の石に刻み

    砂に影おち

崩れ墜つ 天地のまなか

一輪の花の幻

 

   *

字配・字空け送り仮名を問題にしなければ、前者の六行目が本稿の「明日 ふたたび火は空から降りそそぎ」の「空から」が「空より」と変えられている点だけが有意に異なる。但し、字配に関して言うなら、私は個人的には「碑銘」はこの二つの折衷である、

 

  碑銘

 

遠き日の石に刻み

    砂に影おち

崩れ墜つ 天地のまなか

  一輪の花の幻

 

としたい人間である。]

 

 

主よ、あはれみ給へ、家なき子のクリスマスを

今家のない子はもはや明日も家はないでせうそして

今家のある子らも明日は家なき子となるでせう

あはれな愚かなわれらは身と自らを破滅に導き

破滅の一歩手前で立ちどまることを知りません

明日ふたたび火は空から降りそそぎ

明日ふたたび人は灼かれて死ぬでせう

いづこの國もいづこの都市もことごとく滅びるまで

悲慘はつづき繰返すでせう

あはれみ給へあはれみ給へ破滅近き日の

その兆に滿ち滿てるクリスマスの夜のおもひを

 

 先日の本探してゐますがまだ見つかりません

 

遠き日の石に刻み

  砂に影おち

崩れ墜つ天地のまなか

  一輪の花の幻

原民喜・昭和二三(一九四八)年五月二十九日附・長光太宛書簡(含・詩稿「感淚」)

[やぶちゃん注:発信は神田神保町(当時、民喜は丸岡明の実家であった「能楽書林」に間借りしていた)。宛先は札幌市の長光太。当時、民喜満四十二。

 底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」の「書簡集・遺書」に拠ったが、終生、民喜が諸原稿を基本的に正字で記していた事実に鑑み、恣意的に正字化した。読み難いので、詩篇の最後に一行空けを挟んだ。

 「ティボーデ」優れたマラルメ論などで知られる、二十世紀前半のフランスの批評家アルベール・チボーデ(或いは「ティボーデ」と音写 Albert Thibaudet 一八七四年~一九三六年)知られた文芸誌『NRF』(フランス評論)で活躍、評論に「マラルメの詩」「批評の生理学」「フランス文学史」などがある。

 「Write  more,  read  Less!」「より多く書け、そして多くは読むな!」という謂いか? 出典未詳。

 「潮流」昭和二一(一九四六)年一月に吉田書房(後に潮流社)から発行された月刊総合雑誌のことであろう。群馬県伊勢崎市の印刷工場主吉田庄蔵の手で創刊された。創刊号の特集テーマは「日本民主主義は如何に確立すべきか」で、その後も毎号特集形式をとり、連載された井上晴丸・宇佐美誠次郎の共同研究「国家独占資本主義論」は後に単行本に纏められて話題となった。第二次大戦敗戦直後の民主主義昂揚期が齎した総合雑誌ブームが去り、昭和二五(一九五〇)年の三月号を以って廃刊した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

 「フロイド左派」新フロイト派(NeoFreudian)の別称。一九三四年頃から第二次大戦後にかけて、アメリカ・ニューヨーク精神分析研究所のK・ホーナイらを中心に興った新しい精神分析学の一派。「文化学派」とも呼ばれる。従来の正統的精神分析学が生物学主義に立脚してリビドー仮説を重視したのに対し、人間を取り巻く環境や文化的条件を、より重視し、神経症の原因のみならず、精神分析的諸概念をも、比較文化論的・社会学的・人間関係論的見地から批判的に検討し直した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。個人的には民喜が新フロイト学派を「面白」いと感じていることを大変興味深く思う。

 「來年の三月頃、短篇特集號を出したい」前に注した通り、当時の民喜は『三田文学』の編集に従事していた。

 なお、本書簡に出る「感淚」は後の「魔のひととき」(民喜自死後四ヶ月後の昭和二六(一九五一)七月細川書店刊の「原民喜詩集」に所収)に(同底本のものを恣意的に正字化)、

 

  感淚

 

まねごとの祈り終にまことと化するまで、

つみかさなる苦惱にむかひ合掌する。

指の間のもれてゆくかすかなるものよ、

少年の日にもかく淚ぐみしを。

 

おんみによつて鍛へ上げられん、

はてのはてまで射ぬき射とめん、

兩頰をつたふ淚 水晶となり、

ものみな消え去り あらはなるまで。

 

   *

と出る。結果的に民喜自身が本書簡で語っている通りになっていることが判る。]

 

 

 速達で「どん底」の原稿有難う。九月號はエッセイ特集として異色あるものが出來さうだ。狂氣について渡邊一夫、孤獨について草野心平、こんないい原稿が集まつてゐるよ。

 小説を讀むと睡むたくなるといふのは、いろんな場合があるだらう。こちらが疲勞してゐて讀書に耐へない場合は別としても、紙や活字や文體があんまりうまく整つてゐて抵抗のないとき、ふと睡むくなることがあるやうだ。それからまたこちらの氣分が一向に從いてゆけない場合も人によつていろんな譯があるのだらう。だが小説を讀む面白さといふものは作者の面魂が文體やマヤカシの底から透視できるやうになつてこそ始めて張りあひが出てくるのだらう。そんな仁術がほんとにあるかどうかは疑はしいが、正宗白鳥などどうもそんな興味で熱心にひとの小説を讀んでゐるのではないかとおもへる。だがティボーデが小説の美學(これはとても面白い小説論だが)のなかで、作家に Write  more,  read Less!  云つてくれてゐるのは原則としては正しいことだらう。僕などつまらぬ持込原稿を讀まされるお蔭で頭の調子が亂され勝ちだ。讀むならやはり立派な作品を靜かに讀みたいね。

 

   感淚

 

まねごとの祈り 終にまことと化するまで、

つみかさなる苦惱にむかひ 合掌する。

指の間をもれゆくかすかなるものよ、

少年の日にもかく淚ぐみしを。

 

   *

 

おんみによつて 鍛へ上げられん、

ほてのはてまで射ぬき射とめん。

頰をつたふ淚の水晶となり、

ものみな消え去り あらはなるまで。

 

 この詩の字句について君に相談があるのだが

  (合掌する)を(合掌す)に

  (頰をつたふ淚の)を(兩頰をつたふ淚)

と訂正した方がいいかどうか判斷してくれ給へ。作者は僕です。合掌の方は、合掌するがいいと思へるが、頰の方は、兩頰の方がよささうに思へる。

 潮流といふ雜誌でフロイド左派の紹介文を讀んだがとても面白かつた。アメリカにゐる精神分析學者の學説がもつともつと讀んでみたくなつた。

 來年の三月頃、短篇特集號を出したいと思ふが二十枚の名作を書いてくれないか。十人位あつめるつもりだが、そのなかで光る奴を、お願ひする。締切はまだずつとさきです。

原民喜・昭和二二(一九四七)年八月二十三日附・長光太宛書簡(含・散文詩稿「私語」)

[やぶちゃん注:発信は中野区打越(当時、民喜はこの中野の甥の下宿に転がり込んでいた)。宛先は札幌市の長光太(詩人で民喜生涯の盟友であった)。当時、民喜満四十一。

 底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」の「書簡集・遺書」に拠ったが、終生、民喜が諸原稿を基本的に正字で記していた事実に鑑み、恣意的に正字化した。但し、彼の自筆原稿を起こした経験からは、例えば「乱」は「亂」ではなく「乱」の可能性の方が高い。書簡中の「私語」という散文詩は底本では全体が二字下げである。なお、本詩はざっと縦覧する限りでは、青土社版の原民喜全集には定稿や拾遺などに相同相似形のものを見出し得ない

  通信文冒頭の「靑」云々は来信がないので不明であるが、ずっと後の彼との書簡の中を読む限り、詩篇(或いは文芸作品)の題名のようである。

 「春鶯囀コンプレツクス」の「春鶯囀」は民喜満二十歳となる大正一五(一九二六)年の、春一月に発刊した詩の同人雑誌の名。発行所は東京都東中野の熊平清一(民喜の中学時代からの盟友である武二の兄)で、同人には彼ら兄弟の他、長新太や石橋貞吉(山本健吉の本名)らが参加しているが、同年五月発刊の四号で廃刊となった。その「コンプレツクス」というのはやはり来信がないので不詳。

 「定形」後に「自由律」とあるので分かるように、「定形」俳句(及び「自由律」俳句)のことである。

 「三田文學」民喜はこの前年の昭和二一(一九四六)年十月より『三田文学』の編集に携わっていた(辞任するは昭和二四(一九四九)年末)。

 「眞善美社」この出版社、この翌年にまさに最後に出る、埴谷雄高「死霊」、安部公房「終りし道の標べに」などを出版していることは調べ得た。

 「佐々木君」民喜の義弟(妻貞恵の弟)である文芸評論家佐々木基一(以下に続く人物は知られた連中なので注しない)。

 「文祭」不詳。正式雑誌名を省略しているか。次の「新浪漫派」もありそうで、分らぬ。識者の御教授を乞う。

 「近代文学」敗戦直後に刊行された文芸雑誌。昭和二〇(一九四五)年に荒正人・平野謙・本多秋五・埴谷雄高・山室静・佐々木基一(既に述べたように民喜の義弟)・小田切秀雄の七名の同人によって創刊され、昭和二二(一九四七)年七月に第一次同人拡大によって久保田正文・花田清輝・平田次三郎・大西巨人・野間宏・福永武彦・加藤周一・中村真一郎が加わり、その後も同人拡大が行われている。創刊時の同人たちの多くは戦前のプロレタリア文学運動の末端にいた作家たちであったが、戦時経験を通して文学の自律性を訴えることの大切さを主張とした。彼らの独自の切り口は、創刊号及び第二号で小林秀雄・蔵原惟人という文学的に対極にあると思われていた二人の座談を設定したことなどにもよく表われている。後に彼らの多くは「新日本文学会」に加わったが、会の主流であった旧プロレタリア文学の流れとは距離を取った。昭和三九(一九六四)年、終刊(以上はウィキの「近代文学に拠った)。]

 

 

 長光太樣

「靑」についての君の説明よくわかるやうだ。春鶯囀コンプレツクスなどといふことを云つてゐるのを讀んでおやおやと思つた。君の疵は大きかつたのだが、その疵の上に恐らく今後も大きなものを築いてゆけるだらうと思ふ。

 定形のことについては、僕は今のところ何といつていいのかわからない。今日のやうな混亂期には定形が求められてゐることもわかるし、すぐれた自由律をつくるためにももう一どここへ立戾つてくる人はゐるだらう。しかし、僕自身、詩についての意見はあまり纏まらないのだ。僕の詩は自分であまり高く評價してゐないし、僕が今後詩でどんな仕事をするかもあまり抱負するところはない。三田文學の詩のペイジもあれはただ今後日本にすぐれた詩人が出てくるための後への温床的意味なのだし、ほかに適當な人がないので僕がその勞をとつてゐるだけのことだと思ふ。

 生活に追ひつめられてゐるので、どうしても僕は小説で道をひらくより他はないがその小説もなかなか思ふやうには捗らない。この夏は暑さに負けて一枚も書けなかつた。弱い體質と相談しながらも、仕事をしようなどと考へてゐるとインフレの虎に笑はれるかな。月三十枚書いてそれで飯が食へるやうになるといいのだがね。

 眞善美社で君の詩集の話を佐々木君が持出したところ花田淸輝氏が原稿を見せてほしいと云つてゐるさうだ。凡そ二百頁位になる原稿を纏めて花田氏なり佐々木君あてに送り給へ。もつとも二百頁分以上の原稿を送り、その選を先方に任してもいいだらう。序文は小野十三郎氏なり草野心平氏あたりに書いてもらふといい。詩集は賣れないからねと花田氏は云つてゐたさうだが、思ひきつて出してくれるといいね。それでは又。

 君の詩「野火」は「文祭」に「霰」は「新浪漫派」にそれぞれ送つてみました。もつと有力な雜誌もねらつてはゐるのですが。

 近作一つお目にかけます。

 

   私語

 

はかなげな心のなかに描かれてゐた街はまだ生きのこつてゐるが 眼のあたり街は一ふきの風で散りうせた。たとへどんなものが現れようともはや儚いものばかりだ 心のなかの幻のほかは。

 

 埴谷雄高は偉いね、近代文學からもらふ三百円の月給と「死靈」の稿料のほか收入はないのに頑張りつづけてゐるのだから敬服する。
 

原民喜・昭和二〇(一九四五)年十二月十二日附・永井善次郎宛書簡(含・句稿「原子爆彈  即興ニスギズ」)

[やぶちゃん注:発信は被爆後に次兄守夫とともに身を寄せていた広島郊外の八幡村。宛先は松戸市の義弟(妻貞恵の実弟)永井善次郎(文芸評論家佐々木基一(きいち)の本名。民喜より九歳年下)。民喜、満四十歳。被爆・敗戦から四ヶ月後の書簡。

 底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」の「書簡集・遺書」に拠ったが、終生、民喜が諸原稿を基本的に正字で記していた事実に鑑み、恣意的に正字化した。句は読み易くするために、句間を一行空けとした。「※れし」の「※」の字は表記不能で、

 「※」=(へん)「血」+(つくり)「卜」

の字体である。これについては後の句の異同で注するように、決定稿の「杞憂句集」では「倒れし」の字に変わっていること、さらに私の原民喜「淡章」(恣意的正字化版) 南風』でも「仆」(たふれる(たおれる))の字と同じ用法をしていると推定されることから、歴史的仮名遣で「たふれる」と訓じてよいと判断される。「個所」はママ。句「水をのみ死にゆく少女蟬の聲」の、「蟬」の用字は底本のママである。

 なお、通信文中の「本郷へはまだおいでになりませんか」という「本郷」は、恐らく、彼や民喜の妻貞恵の故郷である広島県豊田郡本郷町(現在の三原市)のことを指すと思われる。

 問題はこの句稿がどう扱われたであるが、これがはっきりしない。ここに出る句群を頭に置いたまさに「原子爆弾」という標題の句群は確かに原民喜の句集「杞憂句集」にある(総て後掲する)。しかし、この「杞憂句集」なるものは、原民喜の自死後の昭和四〇(一九六五)年に刊行された芳賀書店版「原民喜全集第一巻」に初出するという書誌情報以外には私は知らない(青土社版の底本の初出一覧に拠る)。ということは、これらの句稿は結局、原民喜の生前には公にされていないというのが、現在通行の共通認識であると考えられる。即ち、少なくともこちらの句稿は佐々木基一によって筐底に保管されていただけであって、どこかの雑誌などには公開されなかったのであり、原句稿も、この書簡発送からは二十年の後、民喜の自截から十四年後になって初めて日の目を見たのである。而も、本書簡及び句稿に至っては本底本で初めて公開されたのであるから、実に民喜の自死からは遠く二十七年後にやっと明らかにされたものなのである。

 現行の知られる原民喜の「杞憂句集」の「原子爆弾」との句の異同を最後に注で示した(リンク先は私の電子化したもの)。]

 

 お變りありませんか。

 新しい原稿書きかけたのですが纏まらないので原子爆彈の方を速達で送つておきました。十七文字十二行になつて居て字もきたなく意に滿たない個所もありますが、適當に御取扱ひ下さい。

 本郷へはまだおいでになりませんか。

 寒くてやりきれない年末がやつて來ます。

          十二月十二日 原民喜

 

   原子爆彈  即興ニスギズ

 

 夏の野に幻の破片きらめけり

 

 短夜を※れし山河叫び合ふ

 

 炎の樹雷雨の空に舞上がる

 

 日の暑さ死臭に滿てる百日紅

 

 重傷者來て呑む淸水生温く

 

 梯子にゐる屍もあり雲の峰

 

 水をのみ死にゆく少女蟬の聲

 

 人の肩に爪立てて死す夏の月

 

 魂呆けて川にかがめり月見草

 

 廢虛すぎて蜻蛉の群を眺めやる

 

 

[やぶちゃん注:句の異同その他について注する。私は既に自身のサイト内で「原民喜句集(杞憂句集)」を公開しているが(底本は本電子と同じであるが、収録は別の箇所である「杞憂句集 その二」である)、そこに示した「原子爆弾」のパートを、本電子化ポリシーに基づいて正字化して示して見ると、以下のようになる(前記と同様に「水をのみ死にゆく少女蟬の聲」の「蟬」は元の用字)。

   *

 

   原子爆彈

 

 夏の野に幻の破片きらめけり

 

 短夜を倒れし山河叫び合ふ

 

 炎の樹雷雨の空に舞上がる

 

 日の暑さ死臭に滿てる百日紅

 

 重傷者の來て呑む淸水生温く

 

 梯子にゐる屍もあり雲の峰

 

 水をのみ死にゆく少女蟬の聲

 

 人の肩に爪立てて死す夏の月

 

 魂呆けて川にかがめり月見草

 

 廢墟すぎて蜻蛉の群を眺めやる

 

 秋の水燒け爛れたる岸をめぐり

 

 飢ゑて幾日ぞ靑田をめぐり風そよぐ

 

 飢ゑて幾日靑田をめぐり風の音

 

 里とんぼ流れにうごき毒空木

 

 もらひ湯にまた新しき蟲の聲

 

 秋雨に弱りゆく身は晝の夢

 

 薄雲の柿ある村に日は鈍る

 

 小春日をひだるきままに歩くなり

 

 霜月の刈田のはての嚴島

 

 吹雪あり我に幻のちまたあり

 

 こらへ居し夜のあけがたや雲の峰

 

 ある家に時計打ちをり葱畑

 

 山は近く空はり裂けず山近く

 

    *

 これと、本書簡との間には二つの問題がある。まず一つはたいしたことのない、句の微妙な異同である。というよりも、標題自体が、

 

「原子爆彈  即興ニスギズ」から「原子爆彈」

 

に変えられている事実には私は着目しておかねばならぬと思う。「即興ニスギズ」の附加文は、私は、原爆の惨状をろくに伝えることの出来ぬ、たかが俳句/されど俳句、という民喜の苦渋の思いが含まれているのであって、あって然るべきであると私は個人的に思うのである。以下、異同のある句に就いて、前に○本書簡句稿を、後に◎現行の改稿定稿(恣意的に正字化変換したもの)を示す。

 

○短夜を※れし山河叫び合ふ(「※」=(へん)「血」+(つくり)「卜」)

   ↓

◎短夜を倒れし山河叫び合ふ

 

○炎の樹雷雨の空に舞上がる

   ↓

◎炎の樹雷雨の空に舞ひ上がる

 

重傷者來て呑む淸水生温く

   ↓

重傷者の來て呑む淸水生温く

 

廢虛すぎて蜻蛉の群を眺めやる

   ↓

廢墟すぎて蜻蛉の群を眺めやる

 

この内、有意な異同は「重傷者來て呑む淸水生温く」を敢えて字余りに確信犯で変えた「重傷者の來て呑む淸水生温く」だけである。これは、まさに描くところの熱戦に焼かれた重症者の奇妙な運動のリズムを伝えるものであり、字余りの真骨頂というべき卓抜な推敲と思う。「※」の変更は高い確率で編集者によるものであり、「舞上る」「廢虛」(これは誤字ではない。かくも書くのである)の変更は民喜の与り知らぬ各全集編者の仕儀ともとれぬことはない。

 しかしもっと大きな問題がここにはある。それは本書簡にない句が、現行の「杞憂句集」には実に十三句も後に続いているという事実である。

 しかも現在、この「杞憂句集」を読む読者は、その十三句も「原子爆彈」のパート内のものとして百人が百人読んでいる事実である(実際に青土社版の「杞憂句集」には「廢墟すぎて蜻蛉の群を眺めやる」の句と「秋の水燒け爛れたる岸をめぐり」の間には、行空けも何もなく、そのまま最後まで続いているのである。

 私は別に――「秋の水燒け爛れたる岸をめぐり」以降の句は――被爆後の句群でない――などと言おうとしているのでは――ない。

 確かに「秋の水燒け爛れたる岸をめぐり」は被爆後の景として腑には確かに落ちる。

 ところが――である

 この内の、

 

ある家に時計打ちをり葱畑

 

は、被爆以前、その十九年も前の、戦前の民喜二十の頃の句であることが判明しているのである。

 私の原民喜「春眠」十五句 (山本健吉撰)大正一五(一九二六)年十月発行の生原稿を綴った回覧雑誌『四五人会雑誌』一号(萬歳号)掲載)を御覧戴きたい。そこで私は以下のように注した。

   *

[やぶちゃん注:この句、実は民喜の「杞憂句集」の最終パートである「原子爆弾」の終りから二つ目に、完全な相同句がさりげなく配されている。私は被爆後の句とばかり思っていた。或いは、被直後に移った広島郊外の八幡村(恐らくは広島県の旧山県郡八幡村。現在の北広島町内)で同じ景色を再体験して完全なフラッシュ・バックが起ったものかも知れないが、実際には実に十九年前の句であったのである。しかしこれは恐らく、民喜の恣意的な仕掛けではない、と私は思う。杞憂が現実となって太陽が地に落下したあの日――彼の意識はまさに遙かにあの原爆の閃光のように――意識のフラッシュ・バックが起こっていたのではなかったか?――自分個人は永遠に取り戻すことの出来なくなった、青春の日の至福の、田園風景のスカルプティング・イン・タイムに向かって――]

   *

この句は少なくとも――元は原子爆弾とは無縁な句であった――のである。そうしてそういう観点から、再度、「秋の水燒け爛れたる岸をめぐり」以降の句を虚心に読んでみるならば、概ね、被爆後に身を寄せた八幡村の景と読めはするものの、それは冒頭十句の強烈な被爆実景からは急速に離れていくことが判る。寧ろ、虚脱した中で、被災現状を幻であったかのように見せる、避難した同村の田園風景を基調としていることが判る。それでも「秋の水燒け爛れたる岸をめぐり」「飢ゑて幾日ぞ靑田をめぐり風そよぐ」「飢ゑて幾日靑田をめぐり風の音」「もらひ湯にまた新しき蟲の聲」「秋雨に弱りゆく身は晝の夢」「小春日をひだるきままに歩くなり」「吹雪あり我に幻のちまたあり」「こらへ居し夜のあけがたや雲の峰」「山は近く空はり裂けず山近く」といった句には、原爆被災の後景を確かに看取することは出来る。

 しかし、例えば「薄雲の柿ある村に日は鈍る」はどうか? 「霜月の刈田のはての嚴島」はどうか? そうしてこの遙か戦前の日の詠である「ある家に時計打ちをり葱畑」を「原子爆彈」のパートの一巻に配するは――原民喜自身の矜持として――よいかどうか? という疑問が私には残るのである。

 私は、これら十三句を一連の「原子爆彈」群としたのは初出の芳賀書店版全集の編者の恣意ではなかったか? と実は疑っているのである。

 私は個人的には――「杞憂句集」のこの十三句は、「廢墟すぎて蜻蛉の群を眺めやる」の後にアスタリスクなどを挟み、前の「原子爆彈」群とは間隙を挟んで掲載されるべきもの――と大真面目に感じている人間であることを最後に表明しておく。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― さくら狩奇特(きどく)や日日に五里六里 / 日は花に暮れてさびしや羅漢柏 / 扇にて酒酌むかげや散る櫻 / 春雨の木下につたふ淸水かな 芭蕉

本日  2016年 4月22日

     貞享5年 3月22日

はグレゴリオ暦で

    1688年 4月22日

 

   櫻

 

さくら狩奇特(きどく)や日日に五里六里

 

日は花に暮れてさびしや羅漢柏(あすならう)

 

扇にて酒酌むかげや散る櫻

 

   苔淸水

 

春雨の木下(こした)につたふ淸水かな

 

吉野の花に三日とどまりて、曙(あけぼの)、黃昏(たそがれ)の景色に向ひ、有明の月の哀れなるさまなど、心に迫り胸に滿ちて、或るは攝政公の詠(ながめ)に奪はれ、西行の枝折(しおり)に迷ひ、かの貞室(ていしつ)が是れは是れはと打なぐりたるに、我が云はん言葉も無くて、徒(いたづ)らに口を閉ぢたる、いと口惜し。思ひ立ちたる風流いかめしく侍れども、ここに至りて無興(ぶきやう)の事なり

 

「笈の小文」。以上の四句は掲げた後文と、いつも本電子化で月日同定のお世話になっているサイト「俳諧」の「笈の小文」から、二十一日から二十三日の吉野滞在中の句と推定出来る。中をとって二十二日に配した。因みに、今年は既に吉野は奥千本に至るまで葉桜である(因みに今年の満開日は下千本・四月 五日/中千本・四月 七日/上千本四月九日/奥千本・四月十二日であった。三百二十八年前とは言え、温暖化は恐るべきである。

 

《一句目「さくら狩奇特(きどく)や日日に五里六里」》

・「奇特」表面的には一般的な「おこないが感心なさま」「けなげなさま」 に、なんともまあ、風狂人の愚かなる非生産的行動という自己韜晦としての「珍しいさま」「不思議なさま」の皮肉なる滑稽の諷喩を込めつつも、実は、句作もおろそかにして(後文に「徒らに口を閉ぢたる」とある。「奥の細道」の松島のように感極まった対象には芭蕉は張りあうような句をあえて詠もうとはしないのである。「奥の細道」の旅の事前の想定上の風雅のクライマックスが「松島の月」であったのにである。なお、実はこの「笈の小文」の旅に相当する草稿類の芭蕉生前の推敲改稿は「奥の細道」の旅以降に成された箇所が有意にあると考えられている)、憑りつかれたように「櫻狩」をして黙々と歩む芭蕉、彼をかくも惹くところの妖艶なる「桜の精」の「そぞろ神」的なる「不思議な効力」やその吉野山の「霊験」性(役小角はこの地で蔵王権現を本尊とする金峯山寺や修行道である大峯奥駈道を開いたとされる)をも裏に秘めたものと私は読む。なればこそ限られた山中でありながら「五里六里」と超人的に異空間的にこんなにも歩けるのである。いやさ、それだからこそ「きとく」でなく「きどく」なのだと私は感ずる種類の人間である。この句は諸注にけんもほろろに短評するような、ただの自省の滑稽諷刺のざれ句なんぞでは、ない。

・「五里六里」十九・六三~二十三・六四キロメートル。現在の近鉄吉野駅から奥千本までを往復しても凡そ九キロメートルであるから、その倍以上を一日にこの山中で桜狩りして逍遙したというのである。

 

《二句目「日は花に暮れてさびしや羅漢柏(あすならう)」》

 私は個人的にこの翳のある句が個人的に非常に好きである。真蹟懐紙や「笈日記」に、

 

    「明日は檜の木」とかや、谷の老

    木(おいき)の言へることあり。き

    のふは夢と過て、あすは未だ來らず。

    たゞ生前一樽の樂しみのほかに、明

    日は明日はと言ひくらして、終に賢

    者のそしりをうけぬ

 

 さびしさや花のあたりのあすならう

 

という句が載るが、これは本句の改作と思われる。私は中途半端な浪漫主義が漂うような改作よりも遙かに原形の方の冥さを愛する。

・「檜」 球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa

・「羅漢柏」日本固有種であるヒノキ科アスナロ属アスナロ Thujopsis dolabrata

 因みに改作の前書の中の「明日は檜の木」は「枕草子」(第三十七段)の、『あすはひの木、この世に近くも見え聞こえず、御嶽(みたけ)に詣でて歸りたる人などの持(も)て來(く)める。枝ざしなどは、いと手觸れにくげにあらくましけれど、何の心ありて、「あすはひの木」とつけけむ。あぢきなきかね言(ごと)なりや。誰(たれ)に賴めたるにかと思ふに、聞かまほしくをかし』(「御嶽」は吉野の金峰山、「あぢきなきかね言」は何のたしにもならぬつまらぬ予言の意)を指し、「生前一樽の樂しみ」は白居易の七言古詩の「勧酒」の中の「身後堆金挂北斗 不如生前一樽酒」(身後に金(こがね)を堆(うづたか)くして北斗を挂(さき)ふとも 如かず 生前一樽の酒に:死んでしまった後になって黄金を山の如く積んで北斗七星を支えたとしたって、それは、生きているうちに味わうこの一樽の酒には遠く及ばぬことだ)に拠る謂いである。

 

《三句目「扇にて酒酌むかげや散る櫻」》

 「駒掫(こまざらへ)」(芙雀編・元禄一五(一七〇二)年刊)には、

 

扇にて酒くむ花の木陰(こかげ)かな

 

で載ることから、掲げた句の「かげ」は「影」ではなく「陰」と読める。

 舞や能狂言の所作を引き出した夢幻的な句で、先の「花の陰(かげ)謠(うたひ)に似たる旅ねかな」と同様な発想に基づく。悪くない。無論、「扇にて酒酌むかげや散る櫻」の句形がよい。

 

《四句目「春雨の木下(こした)につたふ淸水かな」》

・「苔淸水」前書中のこれは固有名詞で、吉野にある西行庵跡近くにある清水、通称「とくとくの清水」を指す。西行が、

 

 とくとくと落つる岩間の苔淸水くみほすほどもなき住居かな

 

と詠んだとされることに基づく。但し、これは伝承であって、本歌は西行の歌集類には見出されない。芭蕉は既に「野ざらし紀行」の中でここを訪れて、

   *

 西(さい)上人の草の庵(いほり)の跡は、奥の院より右のかた二町ばかり分け入るほど、柴人(しばびと)の通ふ道のみわづかに有りて、嶮(さが)しき谷をへだてたる、いと尊し。かのとくとくの淸水は、昔に變らずとみえて、今もとくとくと雫(しづく)落ちける。

 

  露とくとく心みに浮世すすがばや

 

     若し是れ扶桑(ふさう)に伯夷あら

     ば、必ず口をすすがん。もし是れ許

     由(きよいう)に告げば、耳をあら

     はむ。

   *

と記している。

 以下、「笈の小文」の本文注。

・「有明の月」一六八八年四月二十二日の月の出は〇時一〇分、月の入りは九時三四分(月齢は一九・八)、翌二十三日なら月の出は一時〇二分、月の入りは一〇時四〇分である(月齢二〇・八)。やや膨らんだ半月。

・「攝政公の詠(ながめ)」後京極摂政藤原良経の「新勅撰和歌集」の「春上」所収の以下の和歌を指す。

 

 昔たれかかる櫻の種をうゑて吉野を春の山となしけむ

 

・「西行の枝折(しおり)」西行の「新古今和歌集」(第八六番歌)の以下の和歌を指す。

 

    花歌とてよみ侍りける

 

 吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ

 

・「貞室が是れは是れは」貞門七俳人の一人安原貞室(慶長一五(一六一〇)年~延宝元(一六七三)年:京の紙商人であった。芭蕉の師北村季吟は貞室の門弟から貞門に入っており、三十四も年下の芭蕉とともに改革派の一人として活躍した。芭蕉は彼を非常に高く評価している)の吉野での知られた句で「曠野」の巻頭を飾る、

 

    よしのにて

 

 これはこれはとばかり花の芳野山

 

を指す。

・「打なぐりたるに」その感銘を打ちつけ、ぶちまけるかのように吟じたのに。

・「我が云はん言葉も無くて」前掲の名吟群にすっかり圧倒されてしまって、私は詞にすべき吟詠の一つも産み出せず。

・「いかめしく侍れども」如何にもものものしく事大主義的であったのに。「笈の小文」の旅の事前の想定上の風雅のクライマックスはまさに吉野に設定されていたのである。

・「ここに至りて」こんな為体(ていたらく)と成り果てて。

・「無興」興醒め。

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― ほろほろと山吹ちるか瀧のおと 芭蕉

本日  2016年 4月22日

     貞享5年 3月22日

はグレゴリオ暦で

    1688年 4月22日

 

   西河(にじかう)

 

ほろほろと山吹ちるか瀧のおと

 

蜻蛉(せいれい)が瀧、布留(ふる)の瀧は布留の宮より二十五丁山の奥なり、布引の瀧、津の國幾田(いくた)の川上にあり。大和(やまと)箕面(みのおの)瀧、勝尾寺(かつをでら)へ越える道にあり。

 

「笈の小文」。後文を附した。

・「西河」現代仮名遣では「にじこう」。西河の滝のこと。吉野大滝とも称するものの、実際には滝ではなく、吉野川の急流につけられた名称である。現在の奈良県吉野郡川上村大滝(おおたき)にある。

・「蜻蛉が瀧」私の「笈の小文」の底本とする昭和三(一九二八)年日本古典全集刊行会刊正宗敦夫編纂・校訂「芭蕉全集 前篇」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)ではかくし、諸本は「蜻※」(「※」=「虫」+「鳥」)とし、諸注は「蜻螟」で「せいめい」と読みを振る。ところがネットを検索すると、川上村や観光協会の冊子及びそこにある説明板を見ると一様に「蜻蛉(せいめい)の滝」としているのでここはママとした。西河の近くにある滝である。さて、実はこの後文は一連の文章ではなく、この「蜻蛉が瀧」も句の標題であると推定されている。新潮日本古典集成富山奏校注「芭蕉文集」では、ここは実は以下のような感じに配字されてあるのである。〔 〕は小ポイントの割注。読み易くするために一部の配置を変えてある。

   *

 

   西河(にじかう)

 

 ほろほろと山吹(やまぶき)ちるか滝のおと

 

    蜻※(せいめい)が滝

 

布留(ふる)の滝は、布留の宮より二十五丁山の奥なり。

〔津の國幾田の川上にあり〕

    布引(ぬのびき)の滝

〔大和〕

箕面(みのお)の滝 勝尾寺(かつをでら)へ越ゆる道に有り

 

   *

富山氏はここに注されて、「蜻※(せいめい)が滝」の箇所は『次に句を掲出する予定であったものと思われる。即ち、この紀行が、芭蕉の完成した作品でないことを示す』という一文がある。多くの方は「笈の小文」が未完成作品であるとは認識されていないと思うので、特に引用させて戴いた。同氏の「笈の小文」冒頭の解説によれば、「笈の小文」という名は実は『芭蕉が別の』俳諧『選集名に予定した名称で、それをこの紀行の題名に流用したのは芭蕉没後における門人乙州(おとくに)の私意である。その内容も、芭蕉の未完の断片的な種々の草稿を乙州が編成したもので、芭蕉が一篇の紀行として完成したものではない』と記しておられる。

・「布留(ふる)の瀧」現在の奈良県天理市滝本町にある「桃尾(もものお)の滝」。

・「布留の宮」現在の奈良県天理市布留町にある石上(いそのかみ)神宮のこと。主祭神は「布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ)」(神体とする布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊)であるが、配神の一柱が「布留御魂大神 (ふるのみたまおおかみ)」であることによる別称であろう。

・「二十五丁」凡そ二・七キロメートル。

・「布引の瀧」これは場所違いの、旧摂津(本文の「津の國」)現在の神戸市中央区を流れる生田川(本文の「幾田(いくた)」)の布引渓流にある四つの滝の総称で日本三大神滝の一つ。これは一種のメモランダとして名と所在を記したものに過ぎない。

・「大和箕面瀧」これも場違いの、現在の大阪府箕面市にある淀川水系の箕面川にある箕面(みのお)の滝。「勝尾寺」は現在の大阪府箕面市粟生間谷にある真言宗応頂山勝尾寺(かつおうじ)。これも一種のメモランダとして名と所在を記したものに過ぎないが、富田氏は『紀行文の一節としては異常である』と特に記しておられる。確かに然り、である。

 真蹟自画賛には、

 

   きしの山吹とよみけむ、よしのゝ川か

   みこそみなやまぶきなれ。しかも一重

   に咲(さき)こぼれて、あはれにみえ

   侍るぞ、櫻にもをさをさをとるまじき

   や

 

と前書する(「をとる」はママ)。冒頭のそれは「古今和歌集」の「卷第二 春歌下」に載る紀貫之の和歌(第一二四番歌)、

 

 吉野川岸の山吹ふく風に底の影さへうつろひにけり

 

で、この一首によって吉野川に「岸の山吹」を詠むことが後の常套とはなったが、芭蕉のそれは「ほろほろと」という視覚上のアップの擬態語(オノマトペイア)を上五に配しながら、実は中七の「散るか」は、疑問の係助詞「か」によって視覚的現実性をよそながらに視線を外して微妙に留保しているのであり、しかも下五では「瀧の音」の音量を最大にしたSE(サウンド・エフェクト)のみによって聴覚的にコーダするという、まさに近現代のイメージ・フィルムのような手法が卓抜であると私は感ずる。私は中七では既にして芭蕉は――目をつぶって「瀧の音」のみを聴き乍ら――「ほろほろと」散る山吹の散るさまを心にイメージしてそれ――「ほろほろと」いう自然のシンボリックな聖なる「音」を聴いている――と感じるのである。

2016/04/21

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 花の陰謠に似たる旅ねかな 芭蕉

本日  2016年 4月21日

     貞享5年 3月21日

はグレゴリオ暦で

    1688年 4月21日

 

   大和國平尾村にて

 

花の陰(かげ)謠(うたひ)に似たる旅ねかな

 

「曠野」(同集では「草尾村」とするが、訂した)。真蹟懐紙に、

 

   大和の國を行脚しけるに、ある農夫の

   家に宿りて一夜を明かすほどに、ある

   じ情け深くやさしくもてなし侍れば

 

はなのかげうたひに似たる旅寢哉

 

とある(同前書では「濃夫」とするが、訂した)。現在の奈良県吉野町平尾。

 謠「に似たる旅寢」とは実に風狂の旅に生きた芭蕉ならではの実感であり、複式夢幻能の旅僧の姿を髣髴とさせて美事である。

 伝世阿弥作とする謡曲「二人静」(静御前の霊が菜摘女に憑依する)に、

クセ「さる程に、次第次第に道せばき、御身となりて此山に、分け入り給ふ頃は春。所は三吉野の、花に宿かる下臥(したぶし)も、長閑ならざる夜嵐に、寢もせぬ夢と花も散り、まことに一榮一落まのあたりなる浮世とて、又、此山を落ちて行く」

とあり、また「忠度」(桜の木の本に忠度の霊が現われ、回向を求める)に、

シテ「行き暮れて木(こ)の下蔭(したかげ)を宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならましと、詠(なが)めし人は此の苔の下。痛はしや、我等が樣なる海人(あま)だにも、常は立ち寄り、弔(とぶら)ひ申すに、御僧達はなど逆縁(ぎやくえん)ながら弔ひ給はぬ。愚かにまします人々かな」

とあり、諸注は他にも桜の花見に関わる「鞍馬天狗」「熊野(ゆや)」、旅僧が一夜の宿を求める「鉢の木」などを挙げる。山本健吉氏は『思いよせられる謡曲は多く、どれと決める必要はない。「花の陰」の旅寐であることが、謡の気分を導き出すのだが、杜国を伴っての吉野紀行は』(なるほど。ワキツレだ)、『芭蕉も日ごろに似ず気分が浮き立っているさまが見受けられる』とされる。さればこそ、私はこれはやはり、夢幻能であるのがよいと思う。そうしてそこに出る後ジテは桜の花の精であってよい。芭蕉の中の彼だけの秘密の謡曲であってよかろうとさえ思うのである。

「今昔物語集」卷二十八 越前守爲盛付六衞府官人語 第五

【相当に品位を欠くお下劣でリアルな描写が後半を占めるによって食前食後の通読はこれを厳に慎まらるるよう、お願い申し上げる 

[やぶちゃん注:底本は池上洵一編「今昔物語集」(岩波文庫二〇〇一年刊)の「本朝部 下」を用いたが、従来通り、恣意的に正字化し、読みは歴史的仮名遣で独自に附し(底本は現代仮名遣)、甚だ読みが振れるか或いは判読の困難なものにのみとした。一部の記号につき、追加変更も行った。]

 

「今昔物語集」卷二十八 越前守爲盛、六衞府(ろくゑふ)の官人(くわんにん)に付したる語(こと) 第五

 

 今昔(いまはむかし)、藤原の爲盛の朝臣と云ふ人有けり。越前の守にて有ける時に、諸衞(しよゑ)の大粮米(だいらうまい)を成さざりければ、六衞府の官人、下部(しもべ)に至るまで、皆、發(おこり)て、平張(ひらはり)の具(ぐ)共(ども)を持(もち)て爲盛の朝臣が家に行(ゆき)て、門(かど)の前に平張を打(うち)て、其の下に胡床(こしやう)を立(たて)て、有る限り居並(いなみ)て、家の人をも出(いだ)し不入(いれ)ずして、責め居たりけり。

 六月許(ばかり)の極(いみじ)く熱く日長(ひなが)なるに、未だ朝(つとめて)より未(ひつじ)の時許まで居たりけるに、此の官々(つかさつかさ)の者共、日に炮迷(あぶりまど)はされて、爲(せ)む方(かた)無かりけれども、『物不成(ものなさ)らざらむに返らむやは』と思て、念じて居たりけるに、家の門(かど)を細目に開(あけ)て、長(おとな)なる侍(さぶらひ)、頸(くび)を指出(さしいで)て云く、「守(かう)の殿の『申せ』と候(さぶら)ふ也。『須(すべから)く疾(と)く對面給はらま欲(ほし)けれども、事の愕(おびただ)しく被責(せめ)らるれば、子共・女などの、恐(お)ぢ哭(なき)侍れば、否(え)對面して事の有樣も申し不侍(はべ)らぬに、此(か)く熱き程に、無期(むご)に被炮(あぶられ)給ひぬらむに、定(さだめ)て御咽(のんど)共も乾(かはき)ぬらむ。亦、物超(ものご)しに對面して、事の由(よし)をも申し侍らむと思給(おもひたまふ)るを、忍(しのび)やかに御坂(ごはん)など參せむと思ふは何(いか)が。便不無(びんな)かるまじくは、先づ、左右近(さうこん)の官人達・舍人(とねり)など入給(いりたま)へ。次々の府の官人達は、近衞官(こんゑのつかさ)の人達の立給(たちたまひ)なむ後に可申(まうすべ)し。一度に可申けれども、怪(あやし)の所も糸狹(いとせば)く侍れば、多く可群居給(むれたまゐ)ぬべき所も不侍(はべ)らねば也(なり)。暫し待給へ。先づ、近衞官の官人達、入給なむや』となむ侍る」と云へば、日被炮(ひにあぶられ)て、實(まこと)に咽(のんど)も乾(かはき)たるに、此く云出(いひいだ)したれば、『事の有樣(ありさま)をも云はむ』と思て、喜びを成して、「糸喜(うれし)き仰事(おほせごと)也。速(すみやか)に參り入て、此く參たる事の有樣をも申し侍らむ」と答ふれば、侍、其の由を聞て、「然(さは)」とて、門を開(ひらき)たれば、左右近の官人・舍人、皆、入ぬ。

 中門の北の廊に、長筵(ながむしろ)を西・東(ひんがし)向樣(むかひざま)に三間(げん)許に敷(しか)せて、中机(なかづくゑ)二三十許を向座(むかひざ)に立(たて)て、其れに居(す)ふる物を見れば、鹽辛(しほから)き干(ほし)たる鯛を切(きり)て盛(もり)たり。鹽引(しほびき)の鮭(さけ)の鹽辛氣(しほからげ)なる、亦、切て盛たり。鰺の鹽辛・鯛の醬(ひしほ)などの、諸(もろもろ)に鹽辛き物共を盛たり。菓子(くだもの)には、吉(よ)く膿(うみ)たる李(すもも)の紫色なるを、大きなる春日器(かすがのうつはもの)に十(とを)許づゝ盛たり。居畢(すゑはて)て後に、「然(さ)は、先づ近衞官の官人の限り、此方(こなた)に入給へ」と云へば、尾張の兼時・下野(しもつけ)の敦行(あつゆき)と云ふ舍人より始めて、止事無(やんごとな)き年老(としおい)たる官人共、打群(うちむれ)て入來(いりきたり)ぬれば、「他(ほか)の府の官人もぞ入る」と云て、門(かど)を閉(とぢ)て、鏁(じやう)を差して鎰(かぎ)を取(とり)て入(いり)ぬ。

 官人共は中門に並居(なみゐ)たれば、「疾(と)く登り給まへ」と云へば、皆、登て、左右近の官人、東西に向座に着(つき)ぬ。其の後、「先(まづ)御坏(つき)疾く參(まゐらせ)よ」と云へども、遲く持來(もてきた)る程に、官人共、物欲(ものほしかり)けるまゝに、先づ怱(いそぎ)て箸を取つつ、此の鮭・鯛の鹽辛・醬などの鹽辛き物共をつゞしるに、「御坏遲々(おそしおそし)」と云へども、疾(とく)にも不持來(もてこ)ず。守(かみ)、「對面して聞(きこ)ゆべけれども、只今、亂れ風(かぜ)堪難(たへがた)くて、速かにも否罷出(えまかりゐで)ず。其の程、御坏(つき)食(めし)て後に可罷出(まかりいづべ)し」と云はせて、出來ず。

 然(さ)て、御坏、參らす。大なる坏の窪(くぼ)やかなるを二つ、各(おのおの)折敷(をしき)に居(すゑ)て、若き侍二人、捧(ささげ)て持來(もてき)て、兼時・敦行が向座(むかひざ)に居(ゐ)たる前に置(おき)つ。次に、大なる提(ひさげ)に酒を多く入(いれ)て持來(もてき)たり。兼時・敦行、各(おのおの)坏を取て、泛(こぼる)許(ばかり)受(うけ)て呑(のむ)に、酒少し濁(にごり)て酸(す)き樣(やう)なれども、日に被炮(あぶられ)て喉(のんど)し乾(かはき)にければ、(ただ)呑(のみ)に呑て、持(もち)乍ら三度呑(のみ)つ。次々の舍人共も、皆、欲(ほし)かりけるままに、二・三(さむ)坏(ばい)、四・五坏づつ喉(のみ)て、喉(のんど)の乾けるまゝに呑てけり。李(すもも)を肴(さかな)にして呑(のむ)に、亦、御坏を頻(しきり)に參(まゐら)せければ、皆、四・五度、五・六度づつ呑て、後に、守(かみ)、簾超(すだれごし)に居(ゐ)ざり出(いで)て云く、「心から物を惜むで、其達(そこたち)に此く被責(せめられ)申して、恥(はぢ)を見(みん)とに何(いかで)でか可思(おも)ふべき。彼(か)の國に、去年(こぞ)、旱魃(かんばつ)して、露(つゆ)徴得(はたりう)る物無し。適(たまた)ま露許(ばかり)得たりし物は、先づ止事無(やむごとな)き公事(くじ)に被責(せめられ)しかば、有(ある)限り成し畢(はて)て、努々(ゆめゆめ)殘(のこる)物無ければ、家の炊料(かしきのれう)も絶(たえ)て侍(はべり)。女(め)の童部(わらはべ)なども餓居(うゑゐ)て侍る間に、此(かか)る間(あひだ)、恥を見侍れば、可然(さるべ)き事思てなむ侍る。先づ其達(そこたち)の御料(おほむれう)に、墓無(はかな)き當飯(たうはん)をだに否不參(えまゐら)せぬにて押し量り給へ。前生(ぜんしやう)の宿報(しゆくほう)、弊(つたな)くて、年來(としごろ)、官(つかさ)を不給(たまは)らで、適(たまた)ま亡國(ばうこく)に罷成(まかりなり)て、此く堪難(たへがた)き目を見侍るも、人を可恨申(うらみまうすべ)き事にも非ず。此れ、自(みづから)の恥を可見(みるべ)き報(むくひ)也」と云て哭(な)く事、極(いみ)じ。

 音(こゑ)も惜しまず云居(いひゐ)たれば、兼時・敦行が云く、「被仰(おほせらる)る事、極(きはめ)たる道理に候ふ。皆、押量り思給(おもひたま)ふる事也。然れども、己等(おのれら)一人が事にも非ず。近來(このごろ)、府(ふ)に露(つゆ)物不候(さぶらは)で、陣(ぢん)・恪勤(かくごん)の者共、侘(わび)申すに依(より)て、此く發(おこ)り候(さぶら)へば、此れ皆、互(たがひ)にて候へば、糸惜(いとほし)く思ひ奉り乍ら、此く參(まゐり)て候ふも、極(きはめ)て不便(ふびん)に思ふ」など云ふ程に、此の兼時・敦行、近く居たれば、腹の鳴る事、糸(いと)頻(しきり)也。さふめき喤(ののし)るを、暫しは、笏(しやく)を以(もつ)て机を扣(たたき)て交(まぎら)はす。或(あるい)は、拳(こぶし)を以て斤□に彫入(ゑりい)れなどす。守(かみ)、簾超(すだれごし)に見遣(みや)れば、末(すゑ)の座に至るまで、皆、腹、鳴合(なりあひ)てすびき□合(あ)へり。

 暫(しばし)許(ばかり)有れば、兼時、「白地(あからさま)に罷立つ」と云て、怱(いそぎ)て走る樣(やう)にて行(ゆき)ぬ。其れを見て、兼時が立つに付(つき)て、異(こと)舍人共、追(おひ)しらがひて、座を立(たち)て、走り重なりて、板敷(いたじき)を下(おる)るに、或は長押(なげし)を下(おる)る程に、ひじめかして垂懸(たれか)けつ。或は、車宿(くるまやどり)に行(ゆき)て、着物をも不解敢(ときあへ)ず、痢懸(ひりかく)る者も有り。或は亦、疾(と)く脱(ぬぎ)て褰(かかげ)て、楾(はんざふ)の水を出すが如くに痢(ひ)る者も有り。或は、隱れも不求敢(もとめあ)へず痢(ひ)り迷(まどひ)たり。此(かくの)如くすれども、互に咲合(わらひあひ)て、「然(さ)は、思(おもひ)つる事ぞかし。此の翁(おきな)共、墓々(はかばか)しき事、不爲(せ)じ。必ず、怪(あやし)の事出(いだ)してむとは押量(おしはかり)つる事也(なり)。何樣(いかさま)にても、守(かう)の殿は※(にく)くも不御(おはせ)ず。我等が酒を欲がりて呑が至す所也(なり)」と云て、皆咲(わら)ひて、腹を病(やみ)て、痢合(ひりあひ)たり。

[やぶちゃん字注:「※」=(へん)「忄」+(つくり){(上)「覀」+(下)「心」}。「憎」と同義と採る。]

 而る間、門を開(あけ)て、「然(さ)は出給(いでたま)へ。亦、次々の府の官人達、入れ申さむ」と云へば、「吉(よ)き事なゝり。疾(と)く入れて、亦、己等(おのれら)が樣(やう)に痢(ひれ)よや」と云て、袴(はかま)共に、皆、痢懸(ひりかけ)て、巾(のご)ひ繚(あつかひ)て、追(おひ)しらがひて出るを見て、今(いま)、四(よつ)の府の官人共は咲(わらひ)て逃(にげ)て去(さり)にけり。

 早(はや)う、此の爲盛の朝臣(あそむ)が謀(たばかり)ける樣(やう)は、「此く熱き日、平張(ひらはり)の下に三時四時(みときよとき)、炮(あぶら)せて後(のち)に呼入れて、喉(のんど)乾(かはき)たる時に、李(すもも)・鹽辛き魚(うを)共を肴にて、空腹(すきはら)に吉(よ)くつゞしり入(いれ)させて、酸(す)き酒の濁(にごり)たるに、牽牛子(けにごし)を濃く摺(すり)入れて呑(のま)せては、其の奴原(やつばら)は不痢(ひら)では有(あり)なむや」と思(おもひ)て、謀(たばかり)たりける也(なり)けり。此の爲盛の朝臣(あそむ)は、極(きはめ)たる細工の風流(ふりう)有る物の、物云(ものい)ひにて、人咲(わら)はする馴者(なれもの)なる翁(おきな)にてぞ有(あり)ければ、此(かく)もしたる也(なり)けり。「由無(よしな)き者の許(もと)に行きて、舍人(とねり)共(ども)、辛(から)き目を見たり」とてなむ、其の時の人、咲(わら)ひける。

 其より後、懲(こり)にけるにや有らむ、物不成(ものな)さぬ國の司(つかさ)の許(もと)に、六衞府(ろくゑふ)の人、發(おこり)て行く事をば、不爲(せ)ぬ事になむ有(あり)ける。極(きはめ)たる風流(ひるい)の物の上手(じやうず)にて、追返(おひかへ)さむにも不返(かへる)まじければ、此(かか)る可咲(をかし)き事を構(かまへ)たりける也となむ語り傳へたると也(や)。

 

□やぶちゃん注(注には底本の他に、昭和五四(一九七九)小学館刊の日本古典文学全集馬淵・国東・今野訳注になる「今昔物語集 4」(第四版)も一部参考にした)

「付したる」標題であるが、意味不詳。「伏」(伏せたる:奇抜なる計略によって折伏(しゃくぶく)させて退散させたの意。腹を「折」り曲げて地に「伏」せるたぁ、文字通りと言えはすまいか?)辺りの語写が疑わられるのではなかろうか? されば訳では敢えてそう翻案した。

・「藤原の爲盛」(?~長元二(一〇二九)年)は平安時代の官人で藤原北家魚名(うおな)流。参議藤原安親(やすちか 延喜二二(九二二)年~長徳二(九九六)年)の子。万寿二(一〇二五)年に越前守に任ぜられ、その在任中に死去した。寛弘二(一〇〇五)年に左大臣藤原道長に馬二頭を献上している。長和二(一〇一三)年以前には加賀守を務めている。位階は従四位下まで昇ったが、散位(内外の官司の執掌を持たずに位階のみを持つ者。散官とも称した)の期間が長く、任官記録は上記の加賀守と越前守などに留まる。参照したウィキの「藤原為盛」によれば、本話では『狡賢い人物として描かれているが、実際には任符を無くしたりとミスが多かったようである』(「小右記」長元元年七月五日の条に拠るとの注有り)。『伊達氏ら有力武家がその末裔と称した』とある。

・「諸衞」天皇の日常や行幸時に付き添っての身辺警護・宮城警護・京内夜間巡回などを主な任務とした律令制下の中央軍事組織である「六衛府」(左右の「近衛府(このえふ)」及び左右の「衛門府(えもんふ)」と、左右の「兵衛府(ひょうえふ)」で六組織)。これは弘仁二(八一一)年以降でそれ以前は衛門府は一つで「五衛府」であった。

・「大粮米(だいらうまい)」「大粮」は古代律令制に於いて中央官司の下で働く仕丁・衛士・采女らに支給された糧米をいう。「公粮」(こうろう)とも称した。

・「官人」下級官吏。

・「下部」その官吏らの私的な下人。

・「發(おこり)て」決起して。「怒る」ではない。大挙して行動を「起こす」の「おこる」である。古典全集の冒頭注によれば、こうした六衛府が連合した強訴座り込みといった愁訴は『ケースは全く異なるが』、「小右(しょうゆう)記」(公卿藤原実資の日記で現在は天元五(九八二)年から長元五(一〇三二)年までが残る)『長和四』(一〇一五)『年七月五日の条にも見え、事と次第によっては、類似のことも間々(まま)行われていたものらしい』とある。長和四年は本シークエンスの推定年(後注参照)の十三年前に相当する。

・「平張(ひらはり)の具」直射日光や雨を防ぐための、天上の平たい天幕(テント)一式。

・「胡床(こしやう)」読みは底本のもので、古典全集版では「あぐら」とある。床几(しょうぎ)。折り畳み式の腰掛けのこと。

・「六月」新暦では六月下旬から八月上旬頃に相当であるが、彼が越前守であったのは万寿五(一〇二八)年で、翌年長元二(一〇二九)年閏二月五日以前に死去しているで(古典全集冒頭注に拠る)、この事件が事実とすれば、万寿五(一〇二八)年六月しかない。そこで同年の旧暦と新暦を見てみると(但し、総て現在との比較するために後のグレゴリオ暦での換算を示した。何時もお世話になっている「こよみのページ」に拠った)、

万寿五・長元元年旧暦六月  一日 → 一〇二八年七月  一日

万寿五・長元元年旧暦六月 三十日 → 一〇二八年七月 三十日

である。しかも、ここには「日長(ひなが)なる」頃、とある。これを文字通り、二十四季節の「夏至」ととるならば、これは、新暦では七月二十一日か二十二日辺りになるから、

万寿五・長元元年旧暦六月二十一日 → 一〇二八年七月二十一日

万寿五・長元元年旧暦六月二十二日 → 一〇二八年七月二十二日

で、まさしく、梅雨明けの「極(いみじ)く熱く」、しかも湿気も多くして、ジリジリとした照りつける暑さが、これ、ロケーションとしてはバッチ、グーではないか!

・「未だ朝(つとめて)より未(ひつじ)の時許まで」「つとめて」は早朝で、古典全集は『夜明け前』とする。ここにわざわざ「未だ」と冠したのは、暑い時期で涼しいうちに幕営作業はしたいから、これこそ正解で、漠然とした早朝ではなく、日の出前の曙の頃からとしたい(当時の平常の日常の開始は日の出を起点とするから、それより前に門前に天幕を設営すれば、まさにルーチンな生活活動を阻害し、制限することが可能となる。何より周囲からの外見(そとみ)も格好悪い)。因みに、今年(二〇一六年)の七月二十一日・二十二日の京都の日の出は午前四時四十三分である。「未の刻」は午後二時頃。仮に今年の七月の場合なら、天幕設営のために四時過ぎには現地に就いたとして、午後二時までは、押しかけて来てから確実に十時間は経過していることになる。今年(二〇一六年)の七月二十一日・二十二日の京都の太陽の正中時刻は十一時五十九分である(以上の時刻も「こよみのページ」に拠った)。

・「日に炮迷(あぶりまど)はされて」日射病・熱中症状態である。天幕の覆いがあっても輻射熱があるので、安心は禁物である。彼らは水分供給の用意さえもしていない。恐らくは、為盛は世間体を憚って直ちに交渉に応ずると安易に踏んでいたからであろう。

・『物不成(ものなさ)らざらむに返らむやは』反語。この《「物」「成」す》とは定められた糧米の納付分を直に徴収することを指す。

・「長(おとな)なる侍(さぶらひ)」爲盛の家臣で、如何にも分別のありげに見える年配の侍。為盛の交渉人選定も万全である。

・「守(かう)の殿」国守である主人。

・「愕(おびただ)しく被責(せめ)らるれば」如何にも仰々しくたいそうな御人数にて責め立てられましたによって。

・「否(え)對面して事の有樣も申し不侍(はべ)らぬに」家内では者どもが皆、恐懼して恐れ慄き大騒ぎとなってしまい、とてものことに、速やかに静かにそちらの方々とご対面申し、我らが方の申し開きなどを致そうと思うても、致しようがない状態で御座いますが。「に」は逆接の接続助詞で、これは絶妙の使い方である。

・「無期(むご)に」このように、きりもなく何時までも。一見、相手の苦痛に同情し、その痛みを深く慮ったかのようなニュアンスであり、実に巧妙な表現と言える。

・「物超(ものご)しに對面して」決起して交渉に来た連中は王家子飼の侍であるが、それより下級官吏の舎人も含まれているから、従四位下の為盛は直面(じきめん)はしないのが普通で、簾越しとなる。後に為盛は簾越しではあるが、彼らのすぐ近くにまでいざり出ている。それは為盛が、自分の企みの成果をまざまざと見たいという、やや変態的な欲求からのように私には思われる。

・「申し侍らむ」公家が下級官吏に謙譲語と丁寧語を用いている。老家臣が官人に対して用いているので、不自然ではないが、しかしやはり実に巧みな心理戦略ではある。

・「舍人」皇族・貴族に仕えて雑務を行なった下級官人の総称。律令制下には内舎人・大舎人・春宮舎人・中宮舎人などがあり、主に貴族・官人の子弟から選任された。ここでは一応、官人も舎人ではあるが、それらより地位の低い舎人を「舍人」として区別して用いている箇所もあるように思われる。

・「御坂(ごはん)」底本の池上洵一氏は『坏(つき)が正か。(酒など)一杯さしあげたが、如何ですか』と脚注し、古典全集頭注では『「御飯」の当て字と見るが、この当時、他に用例を見ない。ただし』、平安末期成立の古辞書「伊呂波字類抄」には「強飯(きやうはん)」『などの例もあり、字音語』としては『洒落た言い方か』とある。後のシークエンスから見ると、「坏」で池上氏の説がよい。それで訳した。

・「一度に可申けれども、怪(あやし)の所も糸狹(いとせば)く侍れば、多く可群居給(むれたまゐ)ぬべき所も不侍(はべ)らねば也(なり)」納得出来る謂いではあるが、しかし、敵方全部へ仕掛ける全面的「戦略」核攻撃による致命的「大核爆発(!)」を狙わず、小人数(こにんず)を懐へ入れて巧みに奇法で迎え撃つところの限定的な小振りの「小核爆発(!)」による「戦術」核攻撃という、如何にも小狡い上手さは、正に後の武家の戦法に通ずる実践的奇略であるとも言える(仮に途中で計略を見破られても、人数が少ないので、なんとか誤魔化せそうでもある)。美事!

・『事の有樣(ありさま)をも云はむ』自分らの切羽詰った事情と正当なる要求をはっきりと言上してやろう。

・「喜びを成して」饗応の申し出に礼(「喜び」)を述べて。喜んだのではないので注意が必要。

・「中門の北の廊」『寝殿造里の対屋』(たいのや)『と釣殿をつなぐ廊の中間に設けた門。玄関の役割を果たした』(池上氏注)。「北の」とあるから、その廊下の対屋寄り(北寄り)の辺り、とうことになる。

・「三間(げん)許」凡そ五メートル四十五センチ。

・「中机(なかづくゑ)」古典全集は『未詳』『「中ニ机」と解すべきか』とし、池上氏は『向き合って座る中に置く机の意か』とある。

・「鯛の醬(ひしほ)」鯛の身に麹や鹽・酒等を加えて発行させた魚醤(ぎょしょう)。やはり、一種の塩漬けと捉えてよい。

・「春日器(かすがのうつはもの)」春日塗り(表を朱、裏を黒の漆で塗ったもの)で、螺鈿細工(青貝を鏤めた)の高価な高坏(たかつき)或いは平盆(ひらぼん)。

・「尾張の兼時」尾張兼時(生没年不詳)は平安中期の官人で楽人。官職は左近衛将監。但し、池上氏の注に、彼の『活躍期は、村上朝から一条朝にかけてで、為盛の任越前守』『以前に没したと思われ、時代が齟齬する』とある。「今昔物語集」の他の笑話にも出る。

・「下野(しもつけ)の敦行(あつゆき)」下毛野(しもつけの)淳行(生没年不詳)平安中期、朱雀天皇朝(九三〇年~九四六年)に近衛府に出仕した官人。官職は左近将監。「今昔物語集」の他の段にも出るが、やはり彼も時代が齟齬する。

・「他(ほか)の府の官人もぞ入る」狭いので、これ以上、他の衛府の官人の方々に入られては(困りますので)。の謂い。

・「坏(つき)」盃(さかずき)。酒杯。

・「遲く持來(もてきた)る程に」無論、塩辛いものを先に多量に食わせて、喉をさらにからからにさせるための確信犯の作戦である。

・「物欲(ものほしかり)けるまゝに」空腹状態にあったので。「まゝに」は形式名詞に格助詞がついたもので、原因理由を表わす。

・「つゞしる」「嘰(つづし)る」(ラ行四段活用動詞)で、「少しずつ食う」の意。

・「亂れ風(かぜ)堪難(たへがた)くて」重い「風の病い」に罹患して堪え難いほどに腹が渋り、下痢をしているめに。「風」は「風邪」「風病(ふうびょう)」であるが、これは現在の流行性感冒よりも広い疾患・症状を指す。ここで「堪難(たへがた)くて」を「下痢をして」と訳したのは池上氏の注に拠るもの。後のシークエンスの伏線として、上手い、と思ったからである。

・「御坏(つき)食(めし)て」充分に御酒杯をお重ね戴いた上。

・「大なる坏の窪(くぼ)やかなる」古典全集頭注に『がぶがぶ多量に飲ませようとの魂胆』と注する。

・「折敷(をしき)」檜薄く剝いだ「へぎ」で作った縁附きの盆。多くは方形で食器などを載せた。

・「提(ひさげ)」動詞「ひさ(提)ぐ」(引き下ぐ)の連用形の名詞化したもので、銀・錫製などの、鉉(つる)と注ぎ口の附いた小鍋形の銚子。

・「酒少し濁(にごり)て酸(す)き樣(やう)なれども」伏線。濁っていて酸っぱいのは――ただの酒――では、ないからである。

・「心から物を惜むで」おのれのさもしい物惜しみの性質(たち)、吝嗇(りんしょく)故に。

・「恥(はぢ)を見(みん)とに何(いかで)でか可思(おも)ふべき」反語。かくも強訴せられて面目を失い、おぞましき恥を見せることと相い成ろうとは、思ってもいなかった。

・「露(つゆ)」副詞。少しも。

・「徴得(はたりう)る」「はたる」は「督促る」「徴る」(ラ行四段動詞)で「催促する」「促し責める」「とりたてる」の意。年貢として徴収し得る。

・「止事無(やむごとな)き公事(くじ)に被責(せめられ)しかば」古典全集では「公事」を『院や天皇、大寺社などから』賦課された何ものにも優先しなければならない賦役分で、『土地にかけられる年貢に対して、ホトに課せられる賦役』とある。それは本来なら実動の賦役分であるが、『ここは、それを物納に替えたケース』とある。目から鱗。

・「家の炊料(かしきのれう)」私たちの屋敷で必要とする食い扶持。

・「此(かか)る間(あひだ)、恥を見侍れば」現在只今、彼らから強訴を受けるという、おのれが眼前に於いて現に恥じを晒しているのを自覚致すにつけても。

・「可然(さるべ)き事思てなむ侍る」――最早、恥を雪ぐには、これ、それなりのことをせずんばならずと思うておりまする――というのである。『自害・死など』(古典全集注)や『出家遁世などをいうか』(底本池上氏注)とあるが、自害はちょっととは思うが、面白さから言うとそれもアリか。

・「墓無(はかな)き當飯(たうはん)」粗末な食事。口汚し程度の粗品。

・「弊(つたな)くて」徳が至らず愚かで。運悪くして薄命で。

・「官(つかさ)を不給(たまは)らで」為盛の注を参照。実際に彼は散位であった時期が長い。

・「亡國(ばうこく)」古典全集注に、『旱魃で収穫もないに等しい疲弊した状況の国。国守の収入も乏しく、上納義務も果たせないのも、まったくもってそのためです、お察しくださいとの含み』があるとする。若い読者のために老婆心乍ら言い添えておくと、彼は無論、現地に実際に赴く実務国守ではなく(それは中クラスの受領階級の連中が遣わされる)、遥任国守として京に居るのである。

・「哭(な)く事、極(いみ)じ」大いに派手に泣いている。無論、芝居である。

・「陣(ぢん)」衛府の詰所であるが、以下と並列の具合が悪い。「陣の者」で衛府の中での主構成員たる、衛府内部での相対的に上位にある官人(この場面での兼時や敦行クラスの者)の謂いで採るべきか。

・「恪勤(かくごん)」衛府に勤めている舎人。

・「近く居たれば」その時には、為盛のいざって出て来た、その近くに参って居たので。

・「さふめき喤(ののし)るを」古典全集注に『ごろごろ、ごにょごにょと回りにも聞えるのを』とある。よか、注じゃ!

・「笏(しやく)」官位者が礼服や束帯を着用の際に、儀礼として右手に持った細長い板。柊・桜・榊・杉などの白木で作られていた。サクとも。一種の強訴的なものとは言えど、従四位の越前守為盛に面会しに来ているのであるから、兼時・敦行は相応に礼服を着用しているのである。

・「斤□」池上氏の注がよい。『該当字は未詳だが、拳を腹に強く押し当てる場面ではあろう。「斤」を「片」の誤写とみて欠字に「腹」を想定する説もある』とある。この「腹」説に私は私の幼少の頃からの長いIBS(Irritable Bowel Syndrome過敏性腸症候群)体験から(私は小学校の朝礼で三度も大便を洩らした)全面的に極めてリアルに賛同出来るのである。それで訳した。

・「すびき□合(あ)へり」「すびく」は痙攣を起こし、痛み・苦しみが体中を走ることをいう。欠字は池上氏は不詳とし、古典全集は早くも『ヒリ』(放つ)か、とする。「ひり」はちょっと私としては早い気はするのだが。

・「白地(あからさま)に」ほんのちょっと……。少しばかり……。脂汗が見える。

・「追(おひ)しらがひて」先を争うようにして。我れ先きにと後を追うかのようにして。

・「長押(なげし)」下長押(しもなげし)。板敷の廂(ひさし)の間(建物の外方にある板張りの間)と簀子(すのこ:廂の外に細い板を並べて間を少し透かして打ちつけた、現在の濡れ縁に相当する部分)との境(床部)に横に渡した角材。

・「ひじめかして」古典全集は原文「ヒチメカシテ」とし、『擬音語。びちびちと音をたてて』と注する。

・「車宿(くるまやどり)」貴族の屋敷で中門の外につくられた牛車(ぎっしゃ)や輿(こし)を入れておく建物であるが、ここは中門と鍵で閉じてしまっているので不審。諸本は一貫して「車寄せ」とするが、これは牛車を寄せて地面に降り立つことなく、屋内から乗り降り出来るよう、建物の出入り口に庇などを張り出して造った場所をいう。そこは或いは目立たぬように建物の端にあり、しかも遮蔽物があったのかも知れない。とすれば、そこへと走るのは納得は出来る。私はしかし「車宿り」と「車寄せ」は違うものと思う。位置関係に齟齬があっても、私は「ひりだす」なら「車寄せ」ではなく、「車宿り」を選ぶ。それで訳した。

・「痢懸(ひりかく)る」古典全集は御丁寧に「痢懸(くそひりかく)る」とルビする。

・「褰(かかげ)て」巻き上げる。高く掲げる。ここのイメージは脱ぐ暇もなく、下部を絡め挙げて、褌の隙間からひり出すシチュエーションであろう。

・「楾(はんざふ)の水を出すが如くに痢(ひ)る者も有り」「楾(はんざふ)」は「半挿」「」「匜」などと書き、湯水を注ぐための器で、その柄が半分器の中にさしこまれてあるもの。柄に湯水が通ずるための溝がある。後に広く盥(たらい)の意ともなった。「はにそう」「はそう」などとも訓ずる。ここは所謂、強烈な下痢、水様便を勢いよくひり出すシーンである。

・「隱れ」名詞。隠れる場所。

・「此(かくの)如くすれども、互に咲合(わらひあひ)て」こここそが本話の眼目! これこそが「今昔物語集」という、至って健康な健全なる素晴らしき笑いの中にある素晴らしい世界の表出である! こういう古えの神話的な豪快な笑いの時空間を我々日本人は忘れてしまって久しい。それが私には淋しいのである。

・「翁(おきな)共」為盛を指す。じいさま。「共」(ども)は複数形ではなく、親しみを込めた接尾辞である。

・「墓々(はかばか)しき事」ちゃんとしたこと。際だってさえた誰もが感心するようなこと。

・「何樣(いかさま)にても、守(かう)の殿は※(にく)くも御ず」(「※」=(へん)「忄」+(つくり){(上)「覀」+(下)「心」}。古典全集版ではこの漢字は《「忄」+「惡」》である)――しかしまあ何だ、どんなことをされても、こんなことになってもだ、何つーか、この守(こう)の殿(との)は、何とも! 憎み申し上げることは、さて、出来ねえんだな! これが!――なんと、素晴らしい台詞であろう!

・「吉(よ)き事なゝり」「ななり」は懐かしいね! 「なるなり」(断定の助動詞「なり」の連用形+推定・伝聞の助動詞「なり」で、その撥音便「なんなり」の「ん」が平安期には表記字がなかったことによう無表記で「ななり」でも「なンなり」と読むんだと盛んに古文の授業でやったよね! ここは相手の話などを聴いてある判断を下し、「~であるというようだな。」「~であるということだわな。」の謂いであるから、皮肉を利かせた笑いのダメ押しの「そりゃまた! ごっつう! ええことやっうことやなあ!である!

・「巾(のご)ひ繚(あつかひ)て」大慌てで拭おうとするが、ひっきりなしに出て、そこらじゅうに飛び散っているものだから、結局、拭いかねて諦め。

・「追(おひ)しらがひて」我れ先にと後を追うようにして。

・「四(よつ)の府」残りのび左右の衛門府(えもんふ)と、左右の兵衛府(ひょうえふ)の面々。

・「早(はや)う」は、ずっと後の一文末の「謀(たばかり)たりける也(なり)けり」に呼応する。この「はやう」は詠嘆の助動詞「けり」と呼応する呼応の副詞で、「なんとまあ~だったことよ」「驚いたことには~であったのだなぁ」の意である。「なりけり」(断定の助動詞「なり」の連用形+過去・詠嘆の助動詞「けり」終止形)は、文末にあって今さらになって初めてその事実に気づいたことを示すのだったね。これも、まっこと、懐かしいね。

・「三時四時(みときよとき)」「一時」は現在の二時間相当であるから、六~八時間。前に十二時間としたのとは「炮(あぶら)せて」とあるのだから、何ら、矛盾しない。

・「つゞしり入(いれ)させて」前注で「つづしる」を「少しずつ食う」と注したが、「空腹(すきはら)」なんだから、少しずつ食わせるのは健康上の悪くはない。しかも少しずつ食わせて結果して腹一杯にさせると読んでも何ら、問題ない。古典全集には『「ツヾシル」はここでは必ずしも、少しずつ食べるの意ではない』とあるが、だったら古語辞典にもそう書いておいて欲しいもんだね。

・「牽牛子(けにごし)」ここの読みは古典全集に従った。底本は『あさがお』(あさがほ)とルビする。昨日(二〇一六年四月十九日)にアップした「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 芫青蟲/葛上亭長/地膽」でも書いた通り(というか、本電子化はそれに反応した私の古い秘蔵っ子の教え子のコメントを受けて急遽、行ったのである)、「牽牛子」は現行では「けんごし」と読み、漢方薬に用いる生薬の一つで、普通の朝顔(ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科 Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nilの種子を乾燥させて粉末にしたもの。強い下剤作用があり、利尿剤としても用いられるが、下剤効果が非常に強いので使用には注意を要する。「牽牛」となると多くの方は七夕の牽牛星を思い出すだろうが、あれとは関係ないらしく、ウィキの「アサガオ」には中国の古医書「名医別録」によると、牛を牽いて行って、『交換の謝礼したことが名前の由来とされている』とある。『種子は煮ても焼いても炒っても効能があるものの』、『毒性が強く、素人判断による服用は薦められない』とやはり注意書きがある。

・「其の奴原(やつばら)は不痢(ひら)では有(あり)なむや」確信犯の反語。

・「極(きはめ)たる細工の風流(ふりう)有る物の」「の」は同格の格助詞で次の表現と並んで「翁」にかかる。古典全集の現代語訳では『たいそう奇抜なことを考え出すのが特異な人物で』とする。

・「物云(ものい)ひにて、人咲(わら)はする馴者(なれもの)なる翁(おきな)」この読点はない方が分かりがいい。古典全集の現代語訳では『おかしなことを言っては人を笑わす老獪(ろうかい)なじいさん』とする。

・「辛(から)き目」無論、「えらい目」であるが、辛いものをたんと食わされたここと響き合って面白いではないか。

・「極(きはめ)たる風流(ひるい)の物の上手(じやうず)にて」ダブりはママ。

 

□やぶちゃん現代語訳

 

  越前守為盛、諸衛府(えふ)の官人を文字通り「折伏(しゃくぶく)」したこと 第五

 

 今となっては……昔のことじゃ……藤原為盛の朝臣(あそん)という人がおった。

 その御仁が越前守であられた折りのこと、近衛府(このえふ)と衛門府(えもんふ)と兵衛府(ひょうえふ)のそれぞれ左右、合わせて六つの衛府に、越前の国より給わることになっておった大粮米(だいろうまい)の分が、何時まで経っても、全く以って納められなんだによって、その六衛府の官人を始めとして、その下人どもまでが一丸となって、これ、用意万端整え、為盛朝臣の屋敷へと大挙して押しかけ、門前にものものしく天幕を張り巡らし、そこに腰掛けをずらりと並べ置いて、その総勢がこれまた皆(みんな)して、そこへザッと腰を下ろして居坐り、さればこそ、屋敷の者らも出入り出来んようにまでなってしもうて、大粮米不納の儀につき、激しく抗議致いて御座ったと申す。

 

 それは、まさにちょうど六月の、よう晴れ渡った、雲一つとない、えろう暑い、折しも最も日の長ごうなる夏至の頃おいで御座った。

 未だ日の出前の早朝から待ち構え、それから居続けとなって、今しもまさに未(ひつじ)の刻になんなんとしておった。

 天幕はあっても照り返しがきつい。梅雨も明けたばかりで、射るような陽光に下から上から炙(あぶ)られて、者どもは汗みどろ、もうすっかり頭がぼうーっとして仕方がのうなっておったと。

 それでもしかし、

「――納めるもん、納めて貰わんうちは、是が非でも、帰らんゾッツ!!!」

と、誰彼(たれかれ)となく、時に雄叫びのような奇声を挙げては、これ、熱暑がために意識の失いかけるのを堰(せ)いて御座った。

 と――正面の屋敷の門が少うし――開いた。

 そこから徐(おもむ)ろに、年配の侍が一人、首を出だいた。