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2016/04/21

「今昔物語集」卷二十八 越前守爲盛付六衞府官人語 第五

【相当に品位を欠くお下劣でリアルな描写が後半を占めるによって食前食後の通読はこれを厳に慎まらるるよう、お願い申し上げる 

[やぶちゃん注:底本は池上洵一編「今昔物語集」(岩波文庫二〇〇一年刊)の「本朝部 下」を用いたが、従来通り、恣意的に正字化し、読みは歴史的仮名遣で独自に附し(底本は現代仮名遣)、甚だ読みが振れるか或いは判読の困難なものにのみとした。一部の記号につき、追加変更も行った。]

 

「今昔物語集」卷二十八 越前守爲盛、六衞府(ろくゑふ)の官人(くわんにん)に付したる語(こと) 第五

 

 今昔(いまはむかし)、藤原の爲盛の朝臣と云ふ人有けり。越前の守にて有ける時に、諸衞(しよゑ)の大粮米(だいらうまい)を成さざりければ、六衞府の官人、下部(しもべ)に至るまで、皆、發(おこり)て、平張(ひらはり)の具(ぐ)共(ども)を持(もち)て爲盛の朝臣が家に行(ゆき)て、門(かど)の前に平張を打(うち)て、其の下に胡床(こしやう)を立(たて)て、有る限り居並(いなみ)て、家の人をも出(いだ)し不入(いれ)ずして、責め居たりけり。

 六月許(ばかり)の極(いみじ)く熱く日長(ひなが)なるに、未だ朝(つとめて)より未(ひつじ)の時許まで居たりけるに、此の官々(つかさつかさ)の者共、日に炮迷(あぶりまど)はされて、爲(せ)む方(かた)無かりけれども、『物不成(ものなさ)らざらむに返らむやは』と思て、念じて居たりけるに、家の門(かど)を細目に開(あけ)て、長(おとな)なる侍(さぶらひ)、頸(くび)を指出(さしいで)て云く、「守(かう)の殿の『申せ』と候(さぶら)ふ也。『須(すべから)く疾(と)く對面給はらま欲(ほし)けれども、事の愕(おびただ)しく被責(せめ)らるれば、子共・女などの、恐(お)ぢ哭(なき)侍れば、否(え)對面して事の有樣も申し不侍(はべ)らぬに、此(か)く熱き程に、無期(むご)に被炮(あぶられ)給ひぬらむに、定(さだめ)て御咽(のんど)共も乾(かはき)ぬらむ。亦、物超(ものご)しに對面して、事の由(よし)をも申し侍らむと思給(おもひたまふ)るを、忍(しのび)やかに御坂(ごはん)など參せむと思ふは何(いか)が。便不無(びんな)かるまじくは、先づ、左右近(さうこん)の官人達・舍人(とねり)など入給(いりたま)へ。次々の府の官人達は、近衞官(こんゑのつかさ)の人達の立給(たちたまひ)なむ後に可申(まうすべ)し。一度に可申けれども、怪(あやし)の所も糸狹(いとせば)く侍れば、多く可群居給(むれたまゐ)ぬべき所も不侍(はべ)らねば也(なり)。暫し待給へ。先づ、近衞官の官人達、入給なむや』となむ侍る」と云へば、日被炮(ひにあぶられ)て、實(まこと)に咽(のんど)も乾(かはき)たるに、此く云出(いひいだ)したれば、『事の有樣(ありさま)をも云はむ』と思て、喜びを成して、「糸喜(うれし)き仰事(おほせごと)也。速(すみやか)に參り入て、此く參たる事の有樣をも申し侍らむ」と答ふれば、侍、其の由を聞て、「然(さは)」とて、門を開(ひらき)たれば、左右近の官人・舍人、皆、入ぬ。

 中門の北の廊に、長筵(ながむしろ)を西・東(ひんがし)向樣(むかひざま)に三間(げん)許に敷(しか)せて、中机(なかづくゑ)二三十許を向座(むかひざ)に立(たて)て、其れに居(す)ふる物を見れば、鹽辛(しほから)き干(ほし)たる鯛を切(きり)て盛(もり)たり。鹽引(しほびき)の鮭(さけ)の鹽辛氣(しほからげ)なる、亦、切て盛たり。鰺の鹽辛・鯛の醬(ひしほ)などの、諸(もろもろ)に鹽辛き物共を盛たり。菓子(くだもの)には、吉(よ)く膿(うみ)たる李(すもも)の紫色なるを、大きなる春日器(かすがのうつはもの)に十(とを)許づゝ盛たり。居畢(すゑはて)て後に、「然(さ)は、先づ近衞官の官人の限り、此方(こなた)に入給へ」と云へば、尾張の兼時・下野(しもつけ)の敦行(あつゆき)と云ふ舍人より始めて、止事無(やんごとな)き年老(としおい)たる官人共、打群(うちむれ)て入來(いりきたり)ぬれば、「他(ほか)の府の官人もぞ入る」と云て、門(かど)を閉(とぢ)て、鏁(じやう)を差して鎰(かぎ)を取(とり)て入(いり)ぬ。

 官人共は中門に並居(なみゐ)たれば、「疾(と)く登り給まへ」と云へば、皆、登て、左右近の官人、東西に向座に着(つき)ぬ。其の後、「先(まづ)御坏(つき)疾く參(まゐらせ)よ」と云へども、遲く持來(もてきた)る程に、官人共、物欲(ものほしかり)けるまゝに、先づ怱(いそぎ)て箸を取つつ、此の鮭・鯛の鹽辛・醬などの鹽辛き物共をつゞしるに、「御坏遲々(おそしおそし)」と云へども、疾(とく)にも不持來(もてこ)ず。守(かみ)、「對面して聞(きこ)ゆべけれども、只今、亂れ風(かぜ)堪難(たへがた)くて、速かにも否罷出(えまかりゐで)ず。其の程、御坏(つき)食(めし)て後に可罷出(まかりいづべ)し」と云はせて、出來ず。

 然(さ)て、御坏、參らす。大なる坏の窪(くぼ)やかなるを二つ、各(おのおの)折敷(をしき)に居(すゑ)て、若き侍二人、捧(ささげ)て持來(もてき)て、兼時・敦行が向座(むかひざ)に居(ゐ)たる前に置(おき)つ。次に、大なる提(ひさげ)に酒を多く入(いれ)て持來(もてき)たり。兼時・敦行、各(おのおの)坏を取て、泛(こぼる)許(ばかり)受(うけ)て呑(のむ)に、酒少し濁(にごり)て酸(す)き樣(やう)なれども、日に被炮(あぶられ)て喉(のんど)し乾(かはき)にければ、(ただ)呑(のみ)に呑て、持(もち)乍ら三度呑(のみ)つ。次々の舍人共も、皆、欲(ほし)かりけるままに、二・三(さむ)坏(ばい)、四・五坏づつ喉(のみ)て、喉(のんど)の乾けるまゝに呑てけり。李(すもも)を肴(さかな)にして呑(のむ)に、亦、御坏を頻(しきり)に參(まゐら)せければ、皆、四・五度、五・六度づつ呑て、後に、守(かみ)、簾超(すだれごし)に居(ゐ)ざり出(いで)て云く、「心から物を惜むで、其達(そこたち)に此く被責(せめられ)申して、恥(はぢ)を見(みん)とに何(いかで)でか可思(おも)ふべき。彼(か)の國に、去年(こぞ)、旱魃(かんばつ)して、露(つゆ)徴得(はたりう)る物無し。適(たまた)ま露許(ばかり)得たりし物は、先づ止事無(やむごとな)き公事(くじ)に被責(せめられ)しかば、有(ある)限り成し畢(はて)て、努々(ゆめゆめ)殘(のこる)物無ければ、家の炊料(かしきのれう)も絶(たえ)て侍(はべり)。女(め)の童部(わらはべ)なども餓居(うゑゐ)て侍る間に、此(かか)る間(あひだ)、恥を見侍れば、可然(さるべ)き事思てなむ侍る。先づ其達(そこたち)の御料(おほむれう)に、墓無(はかな)き當飯(たうはん)をだに否不參(えまゐら)せぬにて押し量り給へ。前生(ぜんしやう)の宿報(しゆくほう)、弊(つたな)くて、年來(としごろ)、官(つかさ)を不給(たまは)らで、適(たまた)ま亡國(ばうこく)に罷成(まかりなり)て、此く堪難(たへがた)き目を見侍るも、人を可恨申(うらみまうすべ)き事にも非ず。此れ、自(みづから)の恥を可見(みるべ)き報(むくひ)也」と云て哭(な)く事、極(いみ)じ。

 音(こゑ)も惜しまず云居(いひゐ)たれば、兼時・敦行が云く、「被仰(おほせらる)る事、極(きはめ)たる道理に候ふ。皆、押量り思給(おもひたま)ふる事也。然れども、己等(おのれら)一人が事にも非ず。近來(このごろ)、府(ふ)に露(つゆ)物不候(さぶらは)で、陣(ぢん)・恪勤(かくごん)の者共、侘(わび)申すに依(より)て、此く發(おこ)り候(さぶら)へば、此れ皆、互(たがひ)にて候へば、糸惜(いとほし)く思ひ奉り乍ら、此く參(まゐり)て候ふも、極(きはめ)て不便(ふびん)に思ふ」など云ふ程に、此の兼時・敦行、近く居たれば、腹の鳴る事、糸(いと)頻(しきり)也。さふめき喤(ののし)るを、暫しは、笏(しやく)を以(もつ)て机を扣(たたき)て交(まぎら)はす。或(あるい)は、拳(こぶし)を以て斤□に彫入(ゑりい)れなどす。守(かみ)、簾超(すだれごし)に見遣(みや)れば、末(すゑ)の座に至るまで、皆、腹、鳴合(なりあひ)てすびき□合(あ)へり。

 暫(しばし)許(ばかり)有れば、兼時、「白地(あからさま)に罷立つ」と云て、怱(いそぎ)て走る樣(やう)にて行(ゆき)ぬ。其れを見て、兼時が立つに付(つき)て、異(こと)舍人共、追(おひ)しらがひて、座を立(たち)て、走り重なりて、板敷(いたじき)を下(おる)るに、或は長押(なげし)を下(おる)る程に、ひじめかして垂懸(たれか)けつ。或は、車宿(くるまやどり)に行(ゆき)て、着物をも不解敢(ときあへ)ず、痢懸(ひりかく)る者も有り。或は亦、疾(と)く脱(ぬぎ)て褰(かかげ)て、楾(はんざふ)の水を出すが如くに痢(ひ)る者も有り。或は、隱れも不求敢(もとめあ)へず痢(ひ)り迷(まどひ)たり。此(かくの)如くすれども、互に咲合(わらひあひ)て、「然(さ)は、思(おもひ)つる事ぞかし。此の翁(おきな)共、墓々(はかばか)しき事、不爲(せ)じ。必ず、怪(あやし)の事出(いだ)してむとは押量(おしはかり)つる事也(なり)。何樣(いかさま)にても、守(かう)の殿は※(にく)くも不御(おはせ)ず。我等が酒を欲がりて呑が至す所也(なり)」と云て、皆咲(わら)ひて、腹を病(やみ)て、痢合(ひりあひ)たり。

[やぶちゃん字注:「※」=(へん)「忄」+(つくり){(上)「覀」+(下)「心」}。「憎」と同義と採る。]

 而る間、門を開(あけ)て、「然(さ)は出給(いでたま)へ。亦、次々の府の官人達、入れ申さむ」と云へば、「吉(よ)き事なゝり。疾(と)く入れて、亦、己等(おのれら)が樣(やう)に痢(ひれ)よや」と云て、袴(はかま)共に、皆、痢懸(ひりかけ)て、巾(のご)ひ繚(あつかひ)て、追(おひ)しらがひて出るを見て、今(いま)、四(よつ)の府の官人共は咲(わらひ)て逃(にげ)て去(さり)にけり。

 早(はや)う、此の爲盛の朝臣(あそむ)が謀(たばかり)ける樣(やう)は、「此く熱き日、平張(ひらはり)の下に三時四時(みときよとき)、炮(あぶら)せて後(のち)に呼入れて、喉(のんど)乾(かはき)たる時に、李(すもも)・鹽辛き魚(うを)共を肴にて、空腹(すきはら)に吉(よ)くつゞしり入(いれ)させて、酸(す)き酒の濁(にごり)たるに、牽牛子(けにごし)を濃く摺(すり)入れて呑(のま)せては、其の奴原(やつばら)は不痢(ひら)では有(あり)なむや」と思(おもひ)て、謀(たばかり)たりける也(なり)けり。此の爲盛の朝臣(あそむ)は、極(きはめ)たる細工の風流(ふりう)有る物の、物云(ものい)ひにて、人咲(わら)はする馴者(なれもの)なる翁(おきな)にてぞ有(あり)ければ、此(かく)もしたる也(なり)けり。「由無(よしな)き者の許(もと)に行きて、舍人(とねり)共(ども)、辛(から)き目を見たり」とてなむ、其の時の人、咲(わら)ひける。

 其より後、懲(こり)にけるにや有らむ、物不成(ものな)さぬ國の司(つかさ)の許(もと)に、六衞府(ろくゑふ)の人、發(おこり)て行く事をば、不爲(せ)ぬ事になむ有(あり)ける。極(きはめ)たる風流(ひるい)の物の上手(じやうず)にて、追返(おひかへ)さむにも不返(かへる)まじければ、此(かか)る可咲(をかし)き事を構(かまへ)たりける也となむ語り傳へたると也(や)。

 

□やぶちゃん注(注には底本の他に、昭和五四(一九七九)小学館刊の日本古典文学全集馬淵・国東・今野訳注になる「今昔物語集 4」(第四版)も一部参考にした)

「付したる」標題であるが、意味不詳。「伏」(伏せたる:奇抜なる計略によって折伏(しゃくぶく)させて退散させたの意。腹を「折」り曲げて地に「伏」せるたぁ、文字通りと言えはすまいか?)辺りの語写が疑わられるのではなかろうか? されば訳では敢えてそう翻案した。

・「藤原の爲盛」(?~長元二(一〇二九)年)は平安時代の官人で藤原北家魚名(うおな)流。参議藤原安親(やすちか 延喜二二(九二二)年~長徳二(九九六)年)の子。万寿二(一〇二五)年に越前守に任ぜられ、その在任中に死去した。寛弘二(一〇〇五)年に左大臣藤原道長に馬二頭を献上している。長和二(一〇一三)年以前には加賀守を務めている。位階は従四位下まで昇ったが、散位(内外の官司の執掌を持たずに位階のみを持つ者。散官とも称した)の期間が長く、任官記録は上記の加賀守と越前守などに留まる。参照したウィキの「藤原為盛」によれば、本話では『狡賢い人物として描かれているが、実際には任符を無くしたりとミスが多かったようである』(「小右記」長元元年七月五日の条に拠るとの注有り)。『伊達氏ら有力武家がその末裔と称した』とある。

・「諸衞」天皇の日常や行幸時に付き添っての身辺警護・宮城警護・京内夜間巡回などを主な任務とした律令制下の中央軍事組織である「六衛府」(左右の「近衛府(このえふ)」及び左右の「衛門府(えもんふ)」と、左右の「兵衛府(ひょうえふ)」で六組織)。これは弘仁二(八一一)年以降でそれ以前は衛門府は一つで「五衛府」であった。

・「大粮米(だいらうまい)」「大粮」は古代律令制に於いて中央官司の下で働く仕丁・衛士・采女らに支給された糧米をいう。「公粮」(こうろう)とも称した。

・「官人」下級官吏。

・「下部」その官吏らの私的な下人。

・「發(おこり)て」決起して。「怒る」ではない。大挙して行動を「起こす」の「おこる」である。古典全集の冒頭注によれば、こうした六衛府が連合した強訴座り込みといった愁訴は『ケースは全く異なるが』、「小右(しょうゆう)記」(公卿藤原実資の日記で現在は天元五(九八二)年から長元五(一〇三二)年までが残る)『長和四』(一〇一五)『年七月五日の条にも見え、事と次第によっては、類似のことも間々(まま)行われていたものらしい』とある。長和四年は本シークエンスの推定年(後注参照)の十三年前に相当する。

・「平張(ひらはり)の具」直射日光や雨を防ぐための、天上の平たい天幕(テント)一式。

・「胡床(こしやう)」読みは底本のもので、古典全集版では「あぐら」とある。床几(しょうぎ)。折り畳み式の腰掛けのこと。

・「六月」新暦では六月下旬から八月上旬頃に相当であるが、彼が越前守であったのは万寿五(一〇二八)年で、翌年長元二(一〇二九)年閏二月五日以前に死去しているで(古典全集冒頭注に拠る)、この事件が事実とすれば、万寿五(一〇二八)年六月しかない。そこで同年の旧暦と新暦を見てみると(但し、総て現在との比較するために後のグレゴリオ暦での換算を示した。何時もお世話になっている「こよみのページ」に拠った)、

万寿五・長元元年旧暦六月  一日 → 一〇二八年七月  一日

万寿五・長元元年旧暦六月 三十日 → 一〇二八年七月 三十日

である。しかも、ここには「日長(ひなが)なる」頃、とある。これを文字通り、二十四季節の「夏至」ととるならば、これは、新暦では七月二十一日か二十二日辺りになるから、

万寿五・長元元年旧暦六月二十一日 → 一〇二八年七月二十一日

万寿五・長元元年旧暦六月二十二日 → 一〇二八年七月二十二日

で、まさしく、梅雨明けの「極(いみじ)く熱く」、しかも湿気も多くして、ジリジリとした照りつける暑さが、これ、ロケーションとしてはバッチ、グーではないか!

・「未だ朝(つとめて)より未(ひつじ)の時許まで」「つとめて」は早朝で、古典全集は『夜明け前』とする。ここにわざわざ「未だ」と冠したのは、暑い時期で涼しいうちに幕営作業はしたいから、これこそ正解で、漠然とした早朝ではなく、日の出前の曙の頃からとしたい(当時の平常の日常の開始は日の出を起点とするから、それより前に門前に天幕を設営すれば、まさにルーチンな生活活動を阻害し、制限することが可能となる。何より周囲からの外見(そとみ)も格好悪い)。因みに、今年(二〇一六年)の七月二十一日・二十二日の京都の日の出は午前四時四十三分である。「未の刻」は午後二時頃。仮に今年の七月の場合なら、天幕設営のために四時過ぎには現地に就いたとして、午後二時までは、押しかけて来てから確実に十時間は経過していることになる。今年(二〇一六年)の七月二十一日・二十二日の京都の太陽の正中時刻は十一時五十九分である(以上の時刻も「こよみのページ」に拠った)。

・「日に炮迷(あぶりまど)はされて」日射病・熱中症状態である。天幕の覆いがあっても輻射熱があるので、安心は禁物である。彼らは水分供給の用意さえもしていない。恐らくは、為盛は世間体を憚って直ちに交渉に応ずると安易に踏んでいたからであろう。

・『物不成(ものなさ)らざらむに返らむやは』反語。この《「物」「成」す》とは定められた糧米の納付分を直に徴収することを指す。

・「長(おとな)なる侍(さぶらひ)」爲盛の家臣で、如何にも分別のありげに見える年配の侍。為盛の交渉人選定も万全である。

・「守(かう)の殿」国守である主人。

・「愕(おびただ)しく被責(せめ)らるれば」如何にも仰々しくたいそうな御人数にて責め立てられましたによって。

・「否(え)對面して事の有樣も申し不侍(はべ)らぬに」家内では者どもが皆、恐懼して恐れ慄き大騒ぎとなってしまい、とてものことに、速やかに静かにそちらの方々とご対面申し、我らが方の申し開きなどを致そうと思うても、致しようがない状態で御座いますが。「に」は逆接の接続助詞で、これは絶妙の使い方である。

・「無期(むご)に」このように、きりもなく何時までも。一見、相手の苦痛に同情し、その痛みを深く慮ったかのようなニュアンスであり、実に巧妙な表現と言える。

・「物超(ものご)しに對面して」決起して交渉に来た連中は王家子飼の侍であるが、それより下級官吏の舎人も含まれているから、従四位下の為盛は直面(じきめん)はしないのが普通で、簾越しとなる。後に為盛は簾越しではあるが、彼らのすぐ近くにまでいざり出ている。それは為盛が、自分の企みの成果をまざまざと見たいという、やや変態的な欲求からのように私には思われる。

・「申し侍らむ」公家が下級官吏に謙譲語と丁寧語を用いている。老家臣が官人に対して用いているので、不自然ではないが、しかしやはり実に巧みな心理戦略ではある。

・「舍人」皇族・貴族に仕えて雑務を行なった下級官人の総称。律令制下には内舎人・大舎人・春宮舎人・中宮舎人などがあり、主に貴族・官人の子弟から選任された。ここでは一応、官人も舎人ではあるが、それらより地位の低い舎人を「舍人」として区別して用いている箇所もあるように思われる。

・「御坂(ごはん)」底本の池上洵一氏は『坏(つき)が正か。(酒など)一杯さしあげたが、如何ですか』と脚注し、古典全集頭注では『「御飯」の当て字と見るが、この当時、他に用例を見ない。ただし』、平安末期成立の古辞書「伊呂波字類抄」には「強飯(きやうはん)」『などの例もあり、字音語』としては『洒落た言い方か』とある。後のシークエンスから見ると、「坏」で池上氏の説がよい。それで訳した。

・「一度に可申けれども、怪(あやし)の所も糸狹(いとせば)く侍れば、多く可群居給(むれたまゐ)ぬべき所も不侍(はべ)らねば也(なり)」納得出来る謂いではあるが、しかし、敵方全部へ仕掛ける全面的「戦略」核攻撃による致命的「大核爆発(!)」を狙わず、小人数(こにんず)を懐へ入れて巧みに奇法で迎え撃つところの限定的な小振りの「小核爆発(!)」による「戦術」核攻撃という、如何にも小狡い上手さは、正に後の武家の戦法に通ずる実践的奇略であるとも言える(仮に途中で計略を見破られても、人数が少ないので、なんとか誤魔化せそうでもある)。美事!

・『事の有樣(ありさま)をも云はむ』自分らの切羽詰った事情と正当なる要求をはっきりと言上してやろう。

・「喜びを成して」饗応の申し出に礼(「喜び」)を述べて。喜んだのではないので注意が必要。

・「中門の北の廊」『寝殿造里の対屋』(たいのや)『と釣殿をつなぐ廊の中間に設けた門。玄関の役割を果たした』(池上氏注)。「北の」とあるから、その廊下の対屋寄り(北寄り)の辺り、とうことになる。

・「三間(げん)許」凡そ五メートル四十五センチ。

・「中机(なかづくゑ)」古典全集は『未詳』『「中ニ机」と解すべきか』とし、池上氏は『向き合って座る中に置く机の意か』とある。

・「鯛の醬(ひしほ)」鯛の身に麹や鹽・酒等を加えて発行させた魚醤(ぎょしょう)。やはり、一種の塩漬けと捉えてよい。

・「春日器(かすがのうつはもの)」春日塗り(表を朱、裏を黒の漆で塗ったもの)で、螺鈿細工(青貝を鏤めた)の高価な高坏(たかつき)或いは平盆(ひらぼん)。

・「尾張の兼時」尾張兼時(生没年不詳)は平安中期の官人で楽人。官職は左近衛将監。但し、池上氏の注に、彼の『活躍期は、村上朝から一条朝にかけてで、為盛の任越前守』『以前に没したと思われ、時代が齟齬する』とある。「今昔物語集」の他の笑話にも出る。

・「下野(しもつけ)の敦行(あつゆき)」下毛野(しもつけの)淳行(生没年不詳)平安中期、朱雀天皇朝(九三〇年~九四六年)に近衛府に出仕した官人。官職は左近将監。「今昔物語集」の他の段にも出るが、やはり彼も時代が齟齬する。

・「他(ほか)の府の官人もぞ入る」狭いので、これ以上、他の衛府の官人の方々に入られては(困りますので)。の謂い。

・「坏(つき)」盃(さかずき)。酒杯。

・「遲く持來(もてきた)る程に」無論、塩辛いものを先に多量に食わせて、喉をさらにからからにさせるための確信犯の作戦である。

・「物欲(ものほしかり)けるまゝに」空腹状態にあったので。「まゝに」は形式名詞に格助詞がついたもので、原因理由を表わす。

・「つゞしる」「嘰(つづし)る」(ラ行四段活用動詞)で、「少しずつ食う」の意。

・「亂れ風(かぜ)堪難(たへがた)くて」重い「風の病い」に罹患して堪え難いほどに腹が渋り、下痢をしているめに。「風」は「風邪」「風病(ふうびょう)」であるが、これは現在の流行性感冒よりも広い疾患・症状を指す。ここで「堪難(たへがた)くて」を「下痢をして」と訳したのは池上氏の注に拠るもの。後のシークエンスの伏線として、上手い、と思ったからである。

・「御坏(つき)食(めし)て」充分に御酒杯をお重ね戴いた上。

・「大なる坏の窪(くぼ)やかなる」古典全集頭注に『がぶがぶ多量に飲ませようとの魂胆』と注する。

・「折敷(をしき)」檜薄く剝いだ「へぎ」で作った縁附きの盆。多くは方形で食器などを載せた。

・「提(ひさげ)」動詞「ひさ(提)ぐ」(引き下ぐ)の連用形の名詞化したもので、銀・錫製などの、鉉(つる)と注ぎ口の附いた小鍋形の銚子。

・「酒少し濁(にごり)て酸(す)き樣(やう)なれども」伏線。濁っていて酸っぱいのは――ただの酒――では、ないからである。

・「心から物を惜むで」おのれのさもしい物惜しみの性質(たち)、吝嗇(りんしょく)故に。

・「恥(はぢ)を見(みん)とに何(いかで)でか可思(おも)ふべき」反語。かくも強訴せられて面目を失い、おぞましき恥を見せることと相い成ろうとは、思ってもいなかった。

・「露(つゆ)」副詞。少しも。

・「徴得(はたりう)る」「はたる」は「督促る」「徴る」(ラ行四段動詞)で「催促する」「促し責める」「とりたてる」の意。年貢として徴収し得る。

・「止事無(やむごとな)き公事(くじ)に被責(せめられ)しかば」古典全集では「公事」を『院や天皇、大寺社などから』賦課された何ものにも優先しなければならない賦役分で、『土地にかけられる年貢に対して、ホトに課せられる賦役』とある。それは本来なら実動の賦役分であるが、『ここは、それを物納に替えたケース』とある。目から鱗。

・「家の炊料(かしきのれう)」私たちの屋敷で必要とする食い扶持。

・「此(かか)る間(あひだ)、恥を見侍れば」現在只今、彼らから強訴を受けるという、おのれが眼前に於いて現に恥じを晒しているのを自覚致すにつけても。

・「可然(さるべ)き事思てなむ侍る」――最早、恥を雪ぐには、これ、それなりのことをせずんばならずと思うておりまする――というのである。『自害・死など』(古典全集注)や『出家遁世などをいうか』(底本池上氏注)とあるが、自害はちょっととは思うが、面白さから言うとそれもアリか。

・「墓無(はかな)き當飯(たうはん)」粗末な食事。口汚し程度の粗品。

・「弊(つたな)くて」徳が至らず愚かで。運悪くして薄命で。

・「官(つかさ)を不給(たまは)らで」為盛の注を参照。実際に彼は散位であった時期が長い。

・「亡國(ばうこく)」古典全集注に、『旱魃で収穫もないに等しい疲弊した状況の国。国守の収入も乏しく、上納義務も果たせないのも、まったくもってそのためです、お察しくださいとの含み』があるとする。若い読者のために老婆心乍ら言い添えておくと、彼は無論、現地に実際に赴く実務国守ではなく(それは中クラスの受領階級の連中が遣わされる)、遥任国守として京に居るのである。

・「哭(な)く事、極(いみ)じ」大いに派手に泣いている。無論、芝居である。

・「陣(ぢん)」衛府の詰所であるが、以下と並列の具合が悪い。「陣の者」で衛府の中での主構成員たる、衛府内部での相対的に上位にある官人(この場面での兼時や敦行クラスの者)の謂いで採るべきか。

・「恪勤(かくごん)」衛府に勤めている舎人。

・「近く居たれば」その時には、為盛のいざって出て来た、その近くに参って居たので。

・「さふめき喤(ののし)るを」古典全集注に『ごろごろ、ごにょごにょと回りにも聞えるのを』とある。よか、注じゃ!

・「笏(しやく)」官位者が礼服や束帯を着用の際に、儀礼として右手に持った細長い板。柊・桜・榊・杉などの白木で作られていた。サクとも。一種の強訴的なものとは言えど、従四位の越前守為盛に面会しに来ているのであるから、兼時・敦行は相応に礼服を着用しているのである。

・「斤□」池上氏の注がよい。『該当字は未詳だが、拳を腹に強く押し当てる場面ではあろう。「斤」を「片」の誤写とみて欠字に「腹」を想定する説もある』とある。この「腹」説に私は私の幼少の頃からの長いIBS(Irritable Bowel Syndrome過敏性腸症候群)体験から(私は小学校の朝礼で三度も大便を洩らした)全面的に極めてリアルに賛同出来るのである。それで訳した。

・「すびき□合(あ)へり」「すびく」は痙攣を起こし、痛み・苦しみが体中を走ることをいう。欠字は池上氏は不詳とし、古典全集は早くも『ヒリ』(放つ)か、とする。「ひり」はちょっと私としては早い気はするのだが。

・「白地(あからさま)に」ほんのちょっと……。少しばかり……。脂汗が見える。

・「追(おひ)しらがひて」先を争うようにして。我れ先きにと後を追うかのようにして。

・「長押(なげし)」下長押(しもなげし)。板敷の廂(ひさし)の間(建物の外方にある板張りの間)と簀子(すのこ:廂の外に細い板を並べて間を少し透かして打ちつけた、現在の濡れ縁に相当する部分)との境(床部)に横に渡した角材。

・「ひじめかして」古典全集は原文「ヒチメカシテ」とし、『擬音語。びちびちと音をたてて』と注する。

・「車宿(くるまやどり)」貴族の屋敷で中門の外につくられた牛車(ぎっしゃ)や輿(こし)を入れておく建物であるが、ここは中門と鍵で閉じてしまっているので不審。諸本は一貫して「車寄せ」とするが、これは牛車を寄せて地面に降り立つことなく、屋内から乗り降り出来るよう、建物の出入り口に庇などを張り出して造った場所をいう。そこは或いは目立たぬように建物の端にあり、しかも遮蔽物があったのかも知れない。とすれば、そこへと走るのは納得は出来る。私はしかし「車宿り」と「車寄せ」は違うものと思う。位置関係に齟齬があっても、私は「ひりだす」なら「車寄せ」ではなく、「車宿り」を選ぶ。それで訳した。

・「痢懸(ひりかく)る」古典全集は御丁寧に「痢懸(くそひりかく)る」とルビする。

・「褰(かかげ)て」巻き上げる。高く掲げる。ここのイメージは脱ぐ暇もなく、下部を絡め挙げて、褌の隙間からひり出すシチュエーションであろう。

・「楾(はんざふ)の水を出すが如くに痢(ひ)る者も有り」「楾(はんざふ)」は「半挿」「」「匜」などと書き、湯水を注ぐための器で、その柄が半分器の中にさしこまれてあるもの。柄に湯水が通ずるための溝がある。後に広く盥(たらい)の意ともなった。「はにそう」「はそう」などとも訓ずる。ここは所謂、強烈な下痢、水様便を勢いよくひり出すシーンである。

・「隱れ」名詞。隠れる場所。

・「此(かくの)如くすれども、互に咲合(わらひあひ)て」こここそが本話の眼目! これこそが「今昔物語集」という、至って健康な健全なる素晴らしき笑いの中にある素晴らしい世界の表出である! こういう古えの神話的な豪快な笑いの時空間を我々日本人は忘れてしまって久しい。それが私には淋しいのである。

・「翁(おきな)共」為盛を指す。じいさま。「共」(ども)は複数形ではなく、親しみを込めた接尾辞である。

・「墓々(はかばか)しき事」ちゃんとしたこと。際だってさえた誰もが感心するようなこと。

・「何樣(いかさま)にても、守(かう)の殿は※(にく)くも御ず」(「※」=(へん)「忄」+(つくり){(上)「覀」+(下)「心」}。古典全集版ではこの漢字は《「忄」+「惡」》である)――しかしまあ何だ、どんなことをされても、こんなことになってもだ、何つーか、この守(こう)の殿(との)は、何とも! 憎み申し上げることは、さて、出来ねえんだな! これが!――なんと、素晴らしい台詞であろう!

・「吉(よ)き事なゝり」「ななり」は懐かしいね! 「なるなり」(断定の助動詞「なり」の連用形+推定・伝聞の助動詞「なり」で、その撥音便「なんなり」の「ん」が平安期には表記字がなかったことによう無表記で「ななり」でも「なンなり」と読むんだと盛んに古文の授業でやったよね! ここは相手の話などを聴いてある判断を下し、「~であるというようだな。」「~であるということだわな。」の謂いであるから、皮肉を利かせた笑いのダメ押しの「そりゃまた! ごっつう! ええことやっうことやなあ!である!

・「巾(のご)ひ繚(あつかひ)て」大慌てで拭おうとするが、ひっきりなしに出て、そこらじゅうに飛び散っているものだから、結局、拭いかねて諦め。

・「追(おひ)しらがひて」我れ先にと後を追うようにして。

・「四(よつ)の府」残りのび左右の衛門府(えもんふ)と、左右の兵衛府(ひょうえふ)の面々。

・「早(はや)う」は、ずっと後の一文末の「謀(たばかり)たりける也(なり)けり」に呼応する。この「はやう」は詠嘆の助動詞「けり」と呼応する呼応の副詞で、「なんとまあ~だったことよ」「驚いたことには~であったのだなぁ」の意である。「なりけり」(断定の助動詞「なり」の連用形+過去・詠嘆の助動詞「けり」終止形)は、文末にあって今さらになって初めてその事実に気づいたことを示すのだったね。これも、まっこと、懐かしいね。

・「三時四時(みときよとき)」「一時」は現在の二時間相当であるから、六~八時間。前に十二時間としたのとは「炮(あぶら)せて」とあるのだから、何ら、矛盾しない。

・「つゞしり入(いれ)させて」前注で「つづしる」を「少しずつ食う」と注したが、「空腹(すきはら)」なんだから、少しずつ食わせるのは健康上の悪くはない。しかも少しずつ食わせて結果して腹一杯にさせると読んでも何ら、問題ない。古典全集には『「ツヾシル」はここでは必ずしも、少しずつ食べるの意ではない』とあるが、だったら古語辞典にもそう書いておいて欲しいもんだね。

・「牽牛子(けにごし)」ここの読みは古典全集に従った。底本は『あさがお』(あさがほ)とルビする。昨日(二〇一六年四月十九日)にアップした「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 芫青蟲/葛上亭長/地膽」でも書いた通り(というか、本電子化はそれに反応した私の古い秘蔵っ子の教え子のコメントを受けて急遽、行ったのである)、「牽牛子」は現行では「けんごし」と読み、漢方薬に用いる生薬の一つで、普通の朝顔(ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科 Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nilの種子を乾燥させて粉末にしたもの。強い下剤作用があり、利尿剤としても用いられるが、下剤効果が非常に強いので使用には注意を要する。「牽牛」となると多くの方は七夕の牽牛星を思い出すだろうが、あれとは関係ないらしく、ウィキの「アサガオ」には中国の古医書「名医別録」によると、牛を牽いて行って、『交換の謝礼したことが名前の由来とされている』とある。『種子は煮ても焼いても炒っても効能があるものの』、『毒性が強く、素人判断による服用は薦められない』とやはり注意書きがある。

・「其の奴原(やつばら)は不痢(ひら)では有(あり)なむや」確信犯の反語。

・「極(きはめ)たる細工の風流(ふりう)有る物の」「の」は同格の格助詞で次の表現と並んで「翁」にかかる。古典全集の現代語訳では『たいそう奇抜なことを考え出すのが特異な人物で』とする。

・「物云(ものい)ひにて、人咲(わら)はする馴者(なれもの)なる翁(おきな)」この読点はない方が分かりがいい。古典全集の現代語訳では『おかしなことを言っては人を笑わす老獪(ろうかい)なじいさん』とする。

・「辛(から)き目」無論、「えらい目」であるが、辛いものをたんと食わされたここと響き合って面白いではないか。

・「極(きはめ)たる風流(ひるい)の物の上手(じやうず)にて」ダブりはママ。

 

□やぶちゃん現代語訳

 

  越前守為盛、諸衛府(えふ)の官人を文字通り「折伏(しゃくぶく)」したこと 第五

 

 今となっては……昔のことじゃ……藤原為盛の朝臣(あそん)という人がおった。

 その御仁が越前守であられた折りのこと、近衛府(このえふ)と衛門府(えもんふ)と兵衛府(ひょうえふ)のそれぞれ左右、合わせて六つの衛府に、越前の国より給わることになっておった大粮米(だいろうまい)の分が、何時まで経っても、全く以って納められなんだによって、その六衛府の官人を始めとして、その下人どもまでが一丸となって、これ、用意万端整え、為盛朝臣の屋敷へと大挙して押しかけ、門前にものものしく天幕を張り巡らし、そこに腰掛けをずらりと並べ置いて、その総勢がこれまた皆(みんな)して、そこへザッと腰を下ろして居坐り、さればこそ、屋敷の者らも出入り出来んようにまでなってしもうて、大粮米不納の儀につき、激しく抗議致いて御座ったと申す。

 

 それは、まさにちょうど六月の、よう晴れ渡った、雲一つとない、えろう暑い、折しも最も日の長ごうなる夏至の頃おいで御座った。

 未だ日の出前の早朝から待ち構え、それから居続けとなって、今しもまさに未(ひつじ)の刻になんなんとしておった。

 天幕はあっても照り返しがきつい。梅雨も明けたばかりで、射るような陽光に下から上から炙(あぶ)られて、者どもは汗みどろ、もうすっかり頭がぼうーっとして仕方がのうなっておったと。

 それでもしかし、

「――納めるもん、納めて貰わんうちは、是が非でも、帰らんゾッツ!!!」

と、誰彼(たれかれ)となく、時に雄叫びのような奇声を挙げては、これ、熱暑がために意識の失いかけるのを堰(せ)いて御座った。

 と――正面の屋敷の門が少うし――開いた。

 そこから徐(おもむ)ろに、年配の侍が一人、首を出だいた。

「……越前の守様が『申し上げよ』との仰せにて御座いまする。……おっほん――

『……何としても、出来得る限り、早うにお目にかかりたくは存ずれども……このように皆々さま、あまりに多く御参集せられた上、かくも、おどろおどろしき放声にてお責め立てになられますれば……屋敷内におりまする女(おんな)子どもなどの、恐れ慄いておりますればこそ……お迎え入れ申し上げて御対面申し、我らが方(かた)の事情なんどをも縷々御説明致しますこと、これ、出来かねておりまする。……が……さても……いや。と申せ……かくも暑き折りなれば……これ、何時までも、そのように陽に炙られ続けなされましたのでは……これ、さぞかし、御喉(おおんのんど)なども……これ、お渇きになっておらるるに相違御座いますまい。……さればとよ、私とめと致しましても、これ、

――直ぐにでも御簾越しにて親しくお会い申して、我らが方の事情をもつぶさに申し上げたきもの――

と思うておりますれど……さて……訴えて来られたそちら様の御立場をも鑑みますれば……そのぅ……表立ってと申す訳には参らぬは、これ、重々承知乍ら、

――それとのぅ軽く、一杯、召し上がって戴けぬか――

と存じまするが……さても、如何で御座ろう?……この儀、お差し支えのないとならば、まずは、左右の近衛府の官人の方々や舎人(とねり)の方々、最初に屋敷内へとお入り下され。続く衛門府や兵衛府の御方たちは、これまた、その後(のち)にご案内し申し上げましょうほどに。いや、無論、御同心のお方がたなればこそ、これを一度期(き)にお迎え入るるが礼儀、とは存じますれど、何と申しましても、貧乏公家にて御座いますれば、むさ苦しく所狭(ところせば)き茅屋(ぼうおく)にて、かくも大勢の皆様を一度にお入れ申し上ぐることの出来ますような地所も、これ、御座いませぬ。暫し、残りの御方々はお待ち下されまして、さても、さ、さ、まずは、近衛の官人の皆様がた、どうか、お入り下さいませ。』

――と、まぁ、かくも主(しゅう)の者の申しております次第にて御座いまする。……」

と慫慂(しょうよう)致いた。

 じりじりと陽に炙られ、まっこと、喉(のんど)もすっかりからからに渇いておったところへ、かく申し入れのあったればこそ、前列に居並んだる近衛府の官人の一人が、これ、誰(たれ)に言うとものぅ、

「……い、いや!……うむ!……こ、これを好機として、一つ、しっかと! 我らが存念をはっきり、先方へ告げんに、若(し)くはないッ!」

と叫んだによって、纏め役の官人はかの老侍(ろうざむらい)に向かって礼を述べて、

「……そ、それは、まぁ、正直、実に嬉しい仰せでは御座る。――速やかに御屋敷内に参り入れされて戴き、かく、参ったその訳を仔細に申し上げたく存ずる!」

と答えたによって、侍はその答えを聴くや、

「さあ、どうぞ。」

とざっと門を開いたによって、左右の近衛府の官人やら舎人やらは皆、屋敷の内へと入ったのであった。

 

 中門の北の渡り廊下に、既にして長い莚(むしろ)が東西向かい合わせにざっと綺麗に敷かせてあり、その中ほどに、やはり机が二・三十台、その莚に向かい合って座れるよう置いてある。

 しかも、その上に既に据え置かれてあるものを見れば、これまずは、如何にも塩辛そうな干した鯛の切って盛られてあり、塩鮭(しおじゃけ)の、これまた、塩辛そうなる身の、切って盛られてあって、他にも、鯵の塩辛やら、鯛の醬(ひしお)にしたものなんど、悉く塩辛い酒肴(しゅこう)どもが数々盛ってある。

 果物としては、よぅ熟(う)れて、李(すもも)の紫色になったるが、これまた、大きなる春日(かすが)塗りの豪華なる器物(うつわもの)に十個ほどずつ盛られたが、幾つも置かれてある。

「さ。さても。近衛府の官人の皆様がたのみ、こなたへ入らせ給え。」

と、かの老侍が案内(あない)致いたによって、尾張兼時や下野敦行と申す名の知られた高位の舎人より始めて、見るからに一癖も二癖もありそうなる年老いた官人どもが、一塊りとなって入ってきた。と、かの老侍、

「――先に申し上げました通り、所狭(ところせば)ければ、他の府の官人の方々が勘違いなさって入って来られますと困りますれば――」

と言いつつ、手早く、門を閉めてしまうと、錠を掛け、その鍵を持って、中へと向かう。

 

 官人どもは、かの老侍の慇懃(いんぎん)なる案内(あない)に従い、中門の辺りに並んでおったが、

「さ、さ。早うにお昇(あが)り下さいませ。」

と言うたによって、皆して、かの廊下へと上(のぼ)り、東西に向い合って着座致いた。

 その直後に、老侍が、

「早う! お盃(さかずき)を差し上げぬか。」

と内の者に指図致いて御座った。

 ところが……これ、何時まで待っても、なかなか酒が運ばれて、来(こ)ぬ。

 官人どもは、ともかくも早朝からの空き腹に堪えきれずなって、早速、箸を取ると、眼前に居並んだる塩鮭やら塩鯛やら塩辛やら醬(ひしお)やらといった、そのまぁ、塩辛いものを、あれこれ少しずつつまんでおったが、未だ酒は、来ぬ。

「酒の遅いぞ! 如何(いかが)致いた?!」

とさも不満げに催促致いたものの、これがまた、なかなか、来ぬ。

 越前守の方はといえば、これまた、老侍の奥へ行ったが出でて参ると、

「……まことに……ご対面申し上げ、親しゅうご挨拶申し上ぐるべきところ乍ら……このところ、主(しゅう)が儀、風邪(ふうじゃ)を患ろうておりまして。……なかなか。かの病状の悪しゅう侍れば……直ぐには出でて参ること、これ、叶いませぬ。……さればこそ、暫く御酒(ごしゅ)を召し上がって戴き、その後(のち)に、ご挨拶に罷り出でますればこそ。ひらに御容赦(ごようしゃ)――」

と、その老侍に言わせるばかりにて、出で来る気配も、ない。

 

 さても、暫くして、やっと酒が出て参った。

 盃はと言えば、これがまた――異様に大きなるものにして――酒を注ぐ中の窪みがこれまた――異様に――深い。

 それを二つ、東西に坐した官人舎人らがために、それぞれの折敷に据え載せてゆく。若き侍が二人、かの兼時と敦行が向かい合わせで坐っている前にやって参ると、同じように恭しゅう、盃を置く。

 次いで、これまた――大きなる提(ひさげ)に――酒をなみなみと入れて持ち来たり――兼時と敦行は、これまた――それぞれの盃に――零るるばかりに注(つ)いで貰うと――これを、グイ! と呑む。

 酒は――これ――少し濁って――やや酸っぱい味がしたような気はするものの――陽に炙られて喉が掻き毟りたくなるほどに渇ききって御座ったによって、これ――ただただ――吞みに呑む――盃を折敷に戻すことなく――立て続けに三杯――吞み干した。

 そのほかの舎人どもも皆、喉の渇きに堪えかねて御座ったによって――二、三杯――四、五杯ずつ――ぐびぐびと――吞み干す。

 李をも酒の肴(さかな)にして、さらに吞みに呑んだが、またしても主(しゅう)側のの接待役が、しきりに盃を勧める。

 さればこそ、皆、さらに――四、五度――五、六度づつも――吞みに呑む。

 すると、そのうち、何と、当の越前守御自身が簾越しにいざり出でて参って、兼時に直談した。

「……麿(まろ)は……生来(しょうらい)、吝嗇(りんしょく)の性質(たち)なればこそ、物惜しみ致いてのぅ……かくも、そこたちに責めらるることと相い成っておじゃった。……このように、恥を晒すこととなろうなんどとは、これ、思うてもおじゃらなんだ。……かの麿の任国の越前にては、去年(こぞ)の年、旱魃(かんばつ)のおじゃってのぅ。年貢として徴収し得るようなものはこれ、殆んど、ありゃあ、せん。……たまたま、ほんの僅か、徴収し得た米も……これまた、まずは尊(たっと)きお上の御用向きのそれとして、納めさせられた、ある限り。総て。上納させられ、尽き果てたじゃ。……ゆめゆめ、一粒だに、これ、残っては、おじゃらぬ。……我が家(や)の者どもの食い扶持(ぶち)も、これ、こと欠くありさまじゃて。……召使の女(め)童(わらわ)なども飢えておるという、この期(ご)に至って……さらに、さらに……そこたちの強訴のあって……かくも耐え難き恥をば晒したればこそ……これ……我ら……最早――『覚悟、覚悟なら、ないこともない……』――とさえ思うておじゃる!…………まずは何より! そこもとらの御食膳に! ほんの一握りの飯さえも! 添えて差し上げられぬことを見て、これ! お察しあれかし!……これも我らが前世の因縁の……悪しゅうして不運と相い成ったるものか!?!……長く官途に就くことも出来ず……たまたまやっと、かくも国司になれたかと思うたら……就いたるその国は……この為体(ていたらく)!……かくも堪え難き艱難辛苦の思いを致さねばならぬ!……しかし……それはそれ……人を恨み申すべき筋合いのことにても、これ、おじゃらぬ!……これ……麿(まろ)自らの――恥を受けねばならぬという――報い――なのでおじゃるッツ!…………!! ヒエェエエッツ!!!」

と語ったかと思うと、大声を張り上げて泣き叫び、その様子は、いっかな、尋常なものにては御座らなんだ。

 

 かく、慟哭致いては、何やらん、意味もとれぬようなる繰り言をなし続けておったによって、それを側にて聴いて御座った兼時と敦行は、

兼時「……仰せらるること、これ、至極(しごく)ご尤もなる道理にて御座いまする。ここに居りまする我ら、皆、御主(ごしゅう)の御心中、これ、御推察申し上げて御座いまする。……」

敦行「……然れども、これは我ら一人のことにては御座いませぬ。……最近は我らが衛府にても備蓄せる米の一粒だにのうなって、我らを含めたる総ての勤めおりますところの舎人どももまた、米の手に入るること能はず、皆々、困り果ておりますによって、か、かくも、ぶ、無礼にも、押し掛けてま、参った、る、る、し、しぃ次第にてぇ……」

兼時「……これも皆、相い身互いのことにて御座います。さ、されば、こそ……その、ですな……ま、まっこと……フ、フ、フフフフノフノ……ハヒフゥヘホゥノ……フ、フ、不本意、イ、イイナ、なァ、こォとと……ゾ?……ウッ!……存じ イ!?! イッ? ツ!?! まッ! す! るウッツ!?! グワッツ!?! ッツ! アッツ!?!……」

などと、言いかけた、その最後の方になると兼時の様子が尋常でなくなって御座った。

――この時、兼時と敦行は、かの御簾(みす)越しの越前守の、そのすぐ近くに参って御座ったによって

――二人の腹が、これ、しきりに

……ぐぉろごろ! ぐおぉろ!

……ぎゅうるる! ぎゅるる!

……ぐぅうっふ! ぐううっ!

と鳴るのに

――越前守は気づいて御座った。

 兼時、暫しの間は、力んで顔を真っ赤にしながらも、右手に持った笏(しゃく)で以って机をとんとん叩いてみたり、或いは左手を拳固に握っては脇腹の辺りをぐっと挿し押さえてみたりなんどしておった。

 越前守が簾越しに見渡してみれば、これ、見渡せるところの末の座に至るまで、これ、悉く皆――派手に腹を鳴らしては――変に体をぐにぐにさせ――何か――出そうなを――必死でこらえておる――といった体(てい)である。

 

 たいした時を待つまでもなく、兼時は突如、

「……チ、ちょっト……シィ、失ッ礼!……」

と小さく呟くや、脱兎の如く走り出でて行った。

――と

――それを見るや

――その兼時の立ったに

ビクン!

と応じたかのように

――他の官人どももこれ、先を争うように座を立ち、折り重なるように板敷の廊下から下へと降(お)りかけたり

――廂の間を走り抜け、簀子から庭へ下ろうとする

のであったが……

……その間にも

……びびっ! びっち! びちびちびちびち!

……ぶぶっ! ぶりゅ! ぶりぶりぶりぶり!

と音を立てて、着物を着たままに、あちらにこちらに、あえなく「ナニ」を垂れ流しておる!……

――車宿(くるまやど)りまで駆け入るも、着物を脱ぐ暇もなく、あえなく瀉下をぶちまくる者あり

或いはまた、

――慌てて服を脱ごうと捲り上げた瞬間! しゃあーーーっつ! と楾(はんぞう)の水をひっくり返したかのように、ひる者あり

或いはまた、

――隠れしゃがめる場所を見つけんとして見つからぬままに、ふらふらと惑いつつ走りつつ、既にして、絶望的に垂れひっておる者もある!……

 ところが、で、ある。

 このような中にあっても

――その誰もが

――互いに互いの悲惨凄愴なる屎(くそ)まみれのさまを見合いながら

――笑い合っては

「……いんゃあ、こんなことになるんやろとは、思うっとったわい! あの悪戯(いたずら)爺い奴(め)! ろくなこと、せぇへん!……何(なん)かかっか、やらかすに違(ちげ)えねぇとは思うとったけんど……ほんでも、よ。……この守(こう)の殿(との)んことだけは、こんなにされても、不思議なこっちゃが、――憎む気には、なんねぇ。……まんず、我らが酒を欲しがって呑んじまったんが、殿(との)の言うた「報い」や……いやはや!……いや?! ははぁん! これぞ「ウン」の尽き――ちゅうもんやったんやなぁ! ブッハハハハッツ!」

と、皆々、仲良く腹を壊(こわ)いて、びりびりべちべちと、これ、テツテ的に下しながら、「相い身互い」と、大笑い致いて御座ったと。

 

 全員の「ひりだし」が、これ、まんず、一(ひと)段落ついた頃おい、さっきの老侍、徐ろに門を開くと、笑みさえ浮かべて、

「――さてさて。では皆さまがた、どうぞ、お出で下さりませ。また、次の、そうして次の次の、衛門府さまがた、兵衛府さまがたと、順繰りに、これ、お迎え入れ申しょうほどに。」

と平然と言う。

 すると、へれへれになっている近衛の官人どもも、これまた、その謹言なる言葉を受けては、

「それはそれはすこぶる結構なることじゃて! 早う、入れて、また我らの如く――「ヒラ」せて――やってくんない! ブッハハハハッツ!」

と、面白そうに笑って言いつつ、真っ黄色になった袴を、拭おうにも白きところもなければ諦め、我先にと後を追うて、大笑いしつつ、守(こう)の殿の屋敷から逃げ出てくるのであった。

 それを見て、また後の四衛府の官人どももまた、大笑いなして逃げ帰って行ったと申す。

 

 何と、まあ、もうお分かりのこととは存ずるが、これ、この為盛の朝臣が企図したは、

「……こないな暑い盛りの日(ひい)に、外の炎天の天幕の下にて、まんず、六、八時間も炙らせた後(あと)に、親切ごかして引き入れたりゃ、喉(のんど)の渇ききっておればこそ、そこに李やら塩辛き魚(うお)なんどをたっぷり肴に与えてやり、空きっ腹に存分に塩辛きもの詰め込ませておいてじゃ、酸っぱい酒の濁ったやつに、牽牛子(けんごし)の種をば、たっぷりと摺りこいだもんを入れて呑ませたらば、そ奴の腹は、どうして――ぴいぴいしゃあしゃあにならんはずの、これ、あるかいな! ファハハハハ!」

と思うてのことにて、まさに誰(たれ)一人、思いつきせぬ謀(たばか)りをやってのけたのであったんじゃなぁ。

 この為盛の朝臣という御仁はこれ、何を致すにしても、すこぶるつきの奇計を脳味噌から「ひり」出すことに、類い稀なる才能を持って御座ったお人での、面白可笑しいことを言い出だいては人を笑かす老練達者な爺さんで御座ったによって、かくも思いがけぬ、へんてこりんなることを仕出かしもしたんじゃったなぁ。

――舎人どもは、海千山千のとんでもない曲者(くせもの)んところへへらへら強訴に行ったによって、皆して、かくも「辛(から)きもの」を食わされた上、「辛(つら)き目」を見たもんじゃて! ファハハハハ!――

と、当時、世間の人の大笑いの種となった、ということじゃった。

 

 それより後、これに懲りたもんか、大粮米を納めぬ国司んとこへ、六衛府の者どもが押しかけていくというようなことは、これ、なくなったということじゃ。

 この為盛というはの、とんでもない風狂(ふうきょう)の上手(じょうず)にて御座ったによって――追い返そうと思うても、決して「はい、そうですか」と言うて帰るような「タマ」の連中にてはあらんだによって、こんな風な可笑しきことを企てた――と、かく、語り伝えておるとかいう、ことじゃ。ファハハハハ!

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