フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 紀み井寺着(本文のみ) 芭蕉 | トップページ | 原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 「靑寫眞」 »

2016/04/29

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 「招魂祭」

[やぶちゃん注:以下の「招魂祭」(「せうこんさい(しょうこんさい)」と読んでおく。「せうこんのまつり」とも読めるが、採らない)は昭和一三(一九四八)年九月号『三田文学』を初出とする。当時、民喜満三十二歳。ここで描かれる招魂祭は所謂、招魂社(明治維新前後以降に国家のために殉難した戊辰戦争などの内戦及び日清・日露戦争の英霊を奉祀した神社。「東京招魂社」は明治一二(一八七九)年に明治天皇の命名により「靖国神社」と改称し、地方の「招魂社」も昭和一四(一九三九)年に名を「護国神社」と改められたものの、明治末期になっても「招魂社」という名で庶民には親しまれ続けた(広島のケースは後述)。元来、王朝期に於いては死者に対する陰陽道の「招魂祭(しょうこんのまつり)」は禁止されており、死者・生者に対する神道儀礼は「鎮魂祭」と称されていた。例えば、靖国神社の旧称である「東京招魂社」の「招魂社」という号は『元來國家多端の際に起りし名にして、在天の神靈を一時招齋するのみなるやに聞えて万世不易神靈嚴在の社號としては妥當を失する』(賀茂百樹編「靖国神社誌」明治四四(一九一一)年靖国神社刊の「名稱」一節。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像にリンク)可能性があるために廃されたという。但し、名称変更後も「招魂祭」は続けられたと、ウィキの「招魂社」及びそのリンク先にはある)での祭りのようには思われない。終始、シークエンスはN練兵場(現在の広島市基町の広島県庁がある附近にあった広島西練兵場であろう)内での競馬や見世物が描写されるばかりで、実際の神社や祭祀儀礼が描かれない。さて、当時の広島の「招魂社」(ここは公式に「護国神社」となるのは実はずっと後である。後述)は明治元(一八七二)年に戊辰戦争で没した軍人七十八柱を「二葉の里」に新しく造営された「水草霊社」に奉祀されたのが創建であるが、これは現在の広島県広島市東区二葉の里に鎮座する饒津神社の境内内にあった明治八年に「官祭招魂社」明治三四(一九〇一)年(民喜出生の四年前)には「官祭広島招魂社」と改称されている)。しかし、饒津神社は西練兵場からは東北へ一キロメートル以上離れている実は後に、この招魂社はまさにこの西練兵場西端に移転されるのであるが、それはずっと後の昭和三(一九三四)年のことである(同神社については同神社公式サイト内の「由緒」に拠る。さらにその後の昭和一四(一九三九)年に「広島護国神社」と改称されたが、至近距離上空に於いて原子爆弾が炸裂、社殿総てが焼失した。その後、同地に小祠を設けて祭祀を続けたが、広島市の復興に伴い、移転を余儀なくされた。現在の広島城跡にある新社殿が造営され復興したのは、敗戦から十一年後の昭和三一(一九五六)年秋のことであったとある)。

 以上から考えて、この「招魂祭」は当時の広島の軍部(練兵場は陸軍)内で行われた表向きは戦没軍人らへの鎮魂を標榜しつつも(実際に招魂社で招魂祭は行われたのであろうが)、その実は現役軍人や市民の慰労交流を主とした軍主催の練兵場を市民に解放した「祭り」であったのではなかろうか? 識者の御教授を乞うものではある。なお、過去に注したように、原民喜の父信吉は陸海軍官庁用達を勤めた人物でもあった。]

 

 

 招魂祭

 

 お夏は雄二にお話をして呉れた。權現さんの森にしひしひどんぐりを拾ひに行つた姉妹が日が暮れて路を迷つてゐると、山姥が出て來て、怕い怕い顏をする。お夏の眼はほんとに淚が溢れさうで、山姥に追かけられてゐるのはお夏のやうだ。あんまり熱心に雄二が彼女の顏ばかり視凝めてゐると、お夏は氣がついて一寸をかしそうに宙をみて笑ふ。するともうお話は終つてゐた。いいあんばいに姉妹は助かつたので吻とする。温かいお話のいきれが段々さめて行き、障子に嵌められた硝子板から庭の梅の靑葉が綺麗に見える。たつた今、雄二は何だか夕暮のやうな氣がしてゐたが、外は美しい朝なのだ。「さあ少し外へ出て遊びませう」とお夏は膝に抱へてゐた妹を背の方へ廻し、黃色な帶を後にあてがつて、胸のところで十文字にくくりつける。

 外へ出ると、雄二は權現さんの方角が氣にかかつた。あそこには、お仁王さんや、唐獅子や白い石の鳥居や松などがあつて、山姥が隱れてゐさうな藪もある。しかし、今權現さんは見えないし、山に日があたつてゐて、街は明るかつた。笹を積んだ車が笹の音させながらやつて來ると、雄二は權現さんの笹かとびつくりする。チンチンチンとお供賣の爺さんが後から來ると、雄二はちよこちよこ歩き、お夏は時々立留まる。三人の影が日南の路に映つている。日南はゆらゆら夢のやうに動く。

 繪はがき屋の前で雄二とお夏は暫く立留まつた。四十七士の繪はがきが額に入れて吊下げてある。雄二は首をあげて見上げるのだが、お夏の顏は恰度、討入の雪景色とすれすれのところにある。池に墜ちてゐる義士がどうなるのかしらと雄二は氣にかかり、額の硝子板が冷やりとして來る。やがてお夏は雄二を促してまた歩き出す。もう練兵場の入口が向に見え、枳殼垣の上に銅像の背中が覗いてゐる。

 銅像の兵隊は喇叭を口にあてて、高い石段の上にゐる。石段の下の石柱は鐵の鎖で繫がれてゐて、そのあたりにクローバが一めんに繁つてゐる。雄二は跣になつて、クローバの上を跳ね歩いた。銅像の兵隊を見上げると、銅像はぢつと空氣のなかを突進してゐるやうだ。遙か眩しい白雲のなかにとんびが一羽舞つてゐる。雄二は鐵の鎖の上に腰掛けて、ぶらんぶらん搖さぶり出した。お夏はクローバの上に坐つて、雄二の妹を膝へ下ろしてゐる。むかふの方はひつそりとして、今日は兵隊の姿が見えない。中央にある大きな松が頭に一杯日の光を受けて、一人で威張つてゐる。すると、急に松の頭が悲しさうにちらりと曇つて來た。と思ふと、向ふの草原一めんがさつと滅入るやうに暗くなる。ぎしり、ぎしり、鐵の鎖は搖れる。やがて、ちらりと草の面に明りが射し、次いで忽ち、さつと日南が走り出す。もうすつかり日南になつてしまつた練兵場はいよいよ日南が濃くなる。お夏はクローバの花を毮つて、花束を作つてゐた。雄二が隨分永い時間がたつたやうに思へて來た時、お夏は妹を背に負つて立上り、「これから私の親類へ行つてみませう」と云つた。

 練兵場の出口の溝の石橋を渡り、廣い往來へ出ると、お夏は小路へ曲つた。それから細い暗い壁と壁の間を拔けて行くと、柿の葉が光つてゐる裏庭へ出た。敷石の上で洗濯をしてゐた女が雄二が來たのを見ると、にこにこ笑つた。その知らない女の人はお夏の方振向いて、「二錢あげるから何か買つてあげなさい」と、云つた。「何がお好きかしら」と、お夏に尋ねた。「はじき豆がいいわ、ね、さうでせう」と、お夏は雄二に云つた。雄二は何が好きなのか一寸考へてゐたのだが、お夏にさう云はれると頷いた。雄二は暫く緣側に腰を下ろして休んだ。やがて、お夏と雄二はそこを出て、往來を歩いた。それから今度は小學校の運動場へ這入つて行つた。下駄箱の處で眺めると、運動場では小さな生徒達が帽子とりをしてゐる。雄二はしかしもう家へ歸りたくなつた。その時、ドンが鳴ると、教室の方で鐘が鳴り、廊下も教室もみんな騷しくなつた。

 午後(ひる)からもお夏と雄二はまた外へ出た。お夏は二錢ではじき豆買ふと、「お寺へ行つて食べませう」と云つた。お寺はすぐ雄二の家の近くにある。門を這入ると、カンカンカンと響のいい鐘が鳴つてゐた。本堂の方にはもう大分人が集つてゐて薄暗かつた。高い緣に登つて、お夏は人々の後にぺつたり坐つて、背を屈めて合掌した。それで背の上の妹も前屈みになつて難しさうだつた。雄二は立つたままお夏の肩に片手をおいて、ぼんやり奧の方を眺める。隅の高い臺の上に黑い衣を着たお坊さんが坐つてゐて、何か云つてゐるのだ。お坊さんの聲は嗄れてゐるが、よく聞える。一人の漁夫(れふし)が海へ行きました。……何だか雄二はお坊さんが皆にお話してきかせてゐるのだなと思ふ。皆は大人しく坊さんのお話を聽いてゐる。しかし雄二には漁夫が海へ行つてどうしたのか解らなくなつてしまふ。するとお夏のすぐ隣にゐた婆さんが、急に南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛と云ひ出した。あつちでもこつちでも低い聲で念佛が始まる。お夏もまた掌を合せて、何だか淚が溢れさうな眼をしてゐる。それで雄二はもうお坊さんのお話は終つたのかと思つて、豆を食べてゐると、またお坊さんは聲をはり上げて何か云ひ出した。それから聲は段々ゆつくりなり、何時までも續いて行く。雄二は坐つてゐる人と人の隙間を少しづつ歩いて行き、婆さんの顏や爺さんの顏を見て廻る。が、そのうち退屈してしまふ。疊の上にごろりと寢轉んで、外の方を眺め出す。恰度、屋根の處に鳩の羽根の音が靜かに近づいて來て、ふと天井の欄間に目をやると、蓮の花を持つた天人がふわりふわりと浮いてゐるのだつた。

 

 雄二は緣側に寢轉んでぼんやりしてゐた。昨夜の嵐で吹散らされた靑い木の葉に陽が斜にあたつてゐた。空は眞靑に澄んで、庭は靜かだつた。ふと障子の向ふの室がその時、安田の聲で騷しくなつた。「S橋の處までそつと自轉車でつけて行きましたが、後振返るとあいつは靑くなつて逃げてしまひましたよ」「ふん、それならもういい」と、父の聲もする。「しかしどうも、また歸つてでも來たら一つはりまはしてやりませう」と、安田は頻りに興奮してゐる。「はじめからあのお夏の野郎はけしからんと思つてゐた通りでしたよ」

 雄二はそれを聞くと始めて何事が起つたのかぼんやり解り出した。しかし、話聲はそれきりもう續かなかつた。何だかをかしいので臺所の方へ行つてみると、そこでは安田と母と菊子が今頻りに喋り合つてゐた。「あれもをかしな女ね、近所などでは評判よかつたのに」と菊子は云つてゐる。「子守の癖に白粉つけたり、お寺まわりしたり、そりやあ生意氣でしたよ」と安田はまだ惡口云つてゐる。「大した何でもないのに、あんなことさへしてくれなきやねえ」と母も云ふのだつた。

 側で聞いてゐる雄二にはお夏がどんなことをしたのかよくは解らなかつたが、皆がお夏のいけないことを喋り合つてゐるのだつた。それではお夏はいけない女だつたのかと雄二は不思議な氣持がした。その日はたうとう日が暮れてもお夏は歸つて來なかつた。床の中にゐると雄二は何だか睡れなく、ふと權現さんの森が浮んで來た。S橋の向ふが權現さんだから、お夏は到頭あの森の中で山姥に出逢ふ。お夏は眼に淚をためて慄へてゐる。可哀相なお夏は掌を合せて縮んでしまふ。そこへ自轉車に乘つた安田がまるで天狗のやうな顏をしてふわりふわりとやつて來る。すると、お夏はハツと氣がついて逸散に走り出す。もう、お夏の姿は向ふの草原に消えて、闇にちらちら狐火が燃えてゐる。お夏の田舍には螢が澤山ゐるさうだから、もしかすると、あれは螢かも知れないな。安田はぼんやりと途方に暮れて、ちらちら燃える焰を見てゐる。ふと、安田は急に大きなハクシヨンをする。柱時計が時を打つたのだ。チクチクと後は振子の音がする。雄二にはまたお夏の顏が見えて來る。

 お夏はその翌日も歸つて來なかつた。雄二は往來に立つて、ぼんやり外を眺めてゐた。すると「雄二さん」と呼ぶ聲がして、何時の間にか雄二の側に尋常二年生の伯母さんが立つてゐた。福岡の小さな伯母さんは懷から栗を出すと、雄二の手に握らせた。それから、いかにもお轉婆らしく飛ぶやうにして走つて行つた。

 暫くして、雄二は家に戻ると、二階でぼんやりと栗を食べてゐた。すると、微かに「雄二さん」と呼ぶ聲が聞えた。雄二は喫驚して、あたりを見廻した。しかし誰も呼んではゐないのだ。何だか今の聲はお夏の聲に違ひなかつた。雄二はもつとよく探してみようと思つた。柱の隅や窓の方を見て、天井まで見上げた。ふと、雄二は欄間の額に氣がついた、それは草競馬の繪で、棚にぎつしり人々が並んでゐた。もしかするとお夏はあのなかにゐるのだな、と雄二は思つた。すると、ワーワーワーと渦卷く人聲が聞え出した。そのうちにパシリ、パシリと馬が走り出す。樂隊が鳴り、鐘が響く。ワーワーワーと熱狂は增して來る。眞白な埃と日の光と馬が入亂れる。赤、白、靑、靑勝て! 靑勝て! と、雄二はすつかり招魂祭のつもりで應援し出した。……ふと氣がつくと、馬も人も動いてはゐなかつた。雄二は何だか草臥れて、目をつむつた。それから又目を開けた。欄間の方を見上げると、忽ちワーワーワーと繪が動き出す。パシリ、パシリ、日の光と馬の渦卷だ。妙に雄二は悲しくなつたが、早く招魂祭が來ればいい――と一心に思つた。

 

 ある日たうたう招魂祭は來た。朝、寢床にゐると、ヒヤ(花火)がポンポンと元氣よく鳴つた。次いで緣側の雨戸はガラガラ開けられて、パツと光が部屋に差込んだ。寢間着のまま雄二は眩しげに庭の方を見てゐた。屋根の上に黃色い朝の日があたつてゐて、空は綺麗に晴れてゐた。そこへいつもの通り菊子がやつて來て、雄二に着物着替へささうとした。はじめ雄二は素直に突立つてゐたが、急にあばれ馬のつもりで、バタバタと手足を動かした。するともう嬉しくて走り廻らねば氣がすまなかつた。「まあ、まあ」と云ひながら菊子は暫くあきれてゐる。「もうおとなしい、かしこい馬になるのよ」と云はれて雄二はふと靜かになつた。表の方をゴロゴロと車が通り、遠くには娯しげなぞよめきがもう渦卷いてゐた。雄二よりさきに起出た大吉は學校服を着て居て、頻りに帽子の庇を黃色な固い蠟で磨いてゐた。上の兄の貴麿も學校が休みなので、緣端で搔繰獨樂を練習してゐた。

 朝の御飯が濟むと、雄二は待ち遠しくて往來へ出てみた。軒毎に國旗が立ててあつて、路を行く人はみんな招魂祭へ行くのかと思はれた。赤いケットと竹竿を積んだ大八車がガタガタ搖れながら過ぎて行つた。在郷から出て來たらしい色の黑いお婆さんが、何か珍しげに雄二の方を眺めて通つた。何時も雄二の家の前を通る跛の男の人がやつて來ると、その時また練兵場の方でパリパリとヒヤが鳴つた。跛の男の人は恰度姿勢が低くなつてゐたので、頤を突出して花火の方を眺めた。雄二は氣が急いて、玄關の方へ引返すと、父と大吉が今出て來るところだつた。父は新しい赤の編上靴を穿いて立上つた。歩き出すとキユキユと靴の皮が鳴つた。「さあ、三人がさきに行つてゐよう」と、父は云つた。それから三人はすつすつとN練兵場の方へ急いだ。大吉の足が速いので雄二は小走りに歩いた。

 練兵場の附近はもう人がぞろぞろしてゐて、入口の處には杉の葉で造つた大きなアーチが聳えていた。アーチの下まで來ると杉の葉のなかに金柑で黃色な文字が浮出されてゐるのだつた。そこからずつと露店に並んでゐて、いつもの練兵場とはすつかり變つてゐた。廣場の方は棧敷でぐるりと圍はれてゐた。雄二の家の棧敷もそのなかにある筈だつた。幕を張つた棧敷の方では、もう競馬が始まつてゐるのか、時々歡聲が揚つた。棧敷の床下の隙間から、柵を巡らした砂地が見え、雄二はわくわくして來た。

 露店は遠くまで賑やかに續いてゐた。玩具のサーベルや鐵砲や馬の首を吊つてゐる店があつた。眞黃な油菓子と並んで石菓子が積んであるのも眼についた。少し露店が疎になつた頃、桶に插して蓮の實と砂糖黍を賣つてゐた。雄二はそれを食べたことがなかつたので珍しさうに眺めた。向ふの雜沓のなかから、カンカンカンと人懷つこい鐘の音がしてゐた。と思ふと、樂隊の響も波打つてゐた。見世物小屋の灰色の天幕と幟が遠く人々の頭上に見えてゐた。父はその邊の棧敷の札を見て歩いてゐたが、すぐに雄二の家の札を見つけて、短い板梯子を登つて行き、幕のなかを覗いた。するとなかから安田の顏が現れた。大吉は靴のまま登つて行き、雄二は下駄を脱いで登つた。棧敷にはまだ安田しか來てゐなくて、莚は廣々してゐた。隅の棧敷の處に下駄を置いて、雄二は一番前の竹の手摺に凭掛つた。そこからは廣場がすつかり見渡せた。正面の遠くの棧敷には人が黑々と見えて、そこから左右にずつと棧敷が續いて、ぐらぐらと人聲が搖れてゐる。

 左手の棧敷の上の空に、森が見え、大きな鉾のやうなものや幟がキラキラ輝いてゐた。ふと右手の方を見ると、今遠くの出發點の旗の處に馬が現れて並んだところだつた。白いシヤツに色とりどりの帽子と襷をしてゐる騎手は一塊りになつて見えた。と、思ふと、鐵砲が鳴つて、馬は跳り出た。ワーと遠くの棧敷で喚聲が起ると、見る間に聲援はこちらに傳はつて來る。もう先頭の馬は雄二の近くまで現れ、白だなと、雄二は帽子見て思つた。大きな馬は飛去り、次いで五六頭の馬が目の前を過ぎて行つた。白! 白! 白! と雄二は先頭の馬を視線で追つてゐると、曲り角の處で拔かれさうになつて來た。が、正面の棧敷の方に見えて來た時、やはり先頭は白だつた。がそのうちに紫が速くなり、紫! 紫! と思ふうちに、紫は白に追着いてしまつた。そして、紫と白の間はずんずん離れて行つた。ワーワーワーと雄二の方の棧敷が搖れて來ると、紫は風を切つて現れた。それから白、赤、綠、黃が、だだあ……と通り過ぎた。間もなくカンカンカンと決勝點で鐘が鳴つた。雄二は吻として遠くの紫を眺めた。勝負の濟んだ馬は直ぐに外へ出て行つて、場内の騷ぎも少し衰へた。すると、その時ズドンと花火が揚り、左手の棧敷の上の空でパリパリと裂ける音がした。靑空にさつと白い煙が伸び、それが三つに岐れ、黑い小さな點がひらひらと蠢いてゐたが、次第にふわふわと落ちて來ると、小さな達磨の人形らしかつた。

 遠く右手の席では樂隊が頻りに鳴出した。眞鍮の喇叭がキラキラ光り、赤と白の幕がふわりと脹らんでゐた。そして又旗の處に馬が並んだ。「今度は何が勝つ」と、大吉は雄二に尋ねた。「紫」と、雄二は答へた。その時もう鐵砲が鳴つて馬は走り出した。次いで、白、黃、綠、靑が走つてゐる。そのうちに馬は雄二の前を過ぎ、遠くの柵に姿を現した。雄二は一生懸命紫を探したが、紫は居さうになかつた。馬はまた雄二の前に現れて來た。「ワーイ、紫は居ないぢやないか」と、大吉が云つた。そして間もなくカンカンカンと鐘が鳴つた。入替つて又別の馬が現れて來るらしかつた。「今度は何が勝つ」と、雄二は大吉に尋ねた。その時、雄二の棧敷には上の兄の貴麿と商業學校の生徒の從兄がやつて來たところだつた。從兄は立つた儘、遠くを見てゐたが、「やあ、これは面白いぞ」とニコニコした。鐵砲が鳴つて馬は走り出した。すると、棧敷はぐらぐらと笑ひに搖れてしまつた。普通の騎手に交つて走り出した一匹の馬はおどけた人形を乘せてゐるのだつた。人形の手足がブランブランと馬上で搖れ、馬はとつとと走つて來た。騎手達は笑ひながら振返つてゐたが、そのうちに到頭その馬はまごついて留まつてしまつた。すると別當がやつて來て、その馬を引張つて行つた。場内はすつかり沸返つてしまつた。

 競馬はそれからずつと續いて行つたが、何回見ても雄二は見倦きなかつた。雄二の棧敷の前の狹い地面にも、人が一杯立つて見物してゐるのだつた。場内はいよいよ賑やかになり、太陽が眞上に輝き、時々パツと砂煙が立昇つた。一番賑やかな競馬が終つた時、ドンが鳴つて、休憩になつた。すると、恰度母と菊子がやつて來て、辨當持つて來て呉れた。雄二は咽喉が渇いてゐて、一升壜から水を貰つて飮んだ。辨當と食べてからも休憩は長くて、なかなか競馬は始らなかつた。雄二が少し退屈してゐると、そこへ叔父さんがやつて來た。叔父さんは酒臭い息をして、いい機嫌だつた。「これから輕業の看板見に行かうぢやないか」と、雄二の手を引張つて立上つた。雄二は叔父さんに引張られて雜沓の中に出た。叔父さんは睡むさうな顏して、ふらりふらり歩くので雄二は何だか心細かつた。

 見世物小屋の並んだ處へ來ると、人が一杯だつた。輕業小屋の前では、鎖に繫がれた小猿が頻りに豆を剝いて食べてゐた。肩の上に梯子を置いて澤山の人を乘せてゐる繪や、火の輪の中を走つてゐる馬の繪を雄二は見上げてゐた。すると、チリンチリンチリンとベルが鳴つて、パツと眼の前に垂下つてゐた紺の幕が上つた。今、小屋のなかでは白い顏の小さな女の兒が扇を持つて綱の端に立つてゐた。その時するすると幕は下つてしまつた。内では三味線が鳴つて拍手が頻りに起つた。雄二はふと氣がつくと、側にゐたはずの叔父さんがゐなかつた。叔父さんが誰かの後に隱れてゐるやうに思へて、そこへ立つてゐる人の顏を見廻した。それから、あつちこつち探して歩いた。そのうちに雄二の眸には人の顏がごつちやになつて映り、叔父さんはいよいよわからなくなつた。もう雄二は見世物小屋から離れて、露店の並んだ空地に出てゐた。そこも人で一杯だつた。風船玉を持つた子を連れた女の人や飴をしやぶつてゐる男の子や、黑い着物を着た年寄や、みんな知らない人ばかりだつた。雄二は胸の邊が痺れたやうになり、眼の前がしんと靑ざめて來た。藁に插した澤山の風車がヒラヒラ廻つてゐた。ビユーと奇妙な笛の鳴る音がした。ふと向ふの日向から何か色の着いたものが近寄つたやうに思へた。そして「雄二さん」と、はつきり眼の前で聲がした。氣がつくと、小さな伯母さんが立つてゐるのだつた。尋常二年生の伯母さんは雄二を珍しさうに眺めた。雄二は情なくなつて淚が零れてしまつた。「まあ、迷子になつてたの、あんたのうちはすぐそこなのに」と、伯母さんはハンケチ出して、雄二の顏を拭いて呉れた。雄二はまだ心細かつたが、見ると、側に蓮の實を賣る店があつて、もう知つてゐる處だつた。その時、後から叔父さんが周章てた顏で近寄つて來た。「おやおや、ここにゐたのか、一寸煙草買ひに行つた隙に消えてしまつて、隨分探したんだよ」と叔父さんは雄二を摑へて、「もう離さないぞ」と、抱へ上げた。

「あめ買つてやるから行かうな」と叔父さんは露店の菓子屋へ雄二を連れて行つた。そして、瓶に入つた仁丹のやうな菓子を買つて呉れた。

 棧敷へ戻ると、福岡のお祖母さんや、川崎の叔父や、雄二のよく知らない親類の人の顏なども見えた。雄二はまた一番前の手摺の處に行つて坐つた。廣場では今、騎兵が澤山旗を持つて並んでゐるところだつた。棒の先に附いた赤、靑、黃の旗が風にひらひら靡き、馬も人も美事によく揃つて動いた。遠くの棧敷で拍手が頻りに起り、樂隊が夢のやうに思へた。やがて數十頭の馬はパカパカと靜かな蹄の音を殘して退場した。それから今度は競馬が始まるらしかつた。雄二はまたすつかり活氣づいた。空にパツと花火が揚り、くるくると何か動いた。それに氣を奪られてゐるうちに馬は走り出した。ワーワーワーと棧敷の聲援が捲起つた。雄二の後に立つてゐた從兄は、棧敷の軒に手を掛けて、身を乘出して號んだ。馬の吐く息や、持運んで來る風や、鞍の鳴る響が、次々に目の前を飛去り、雄二のゐる棧敷も一緒に搖れながら走るやうな氣持だつた。競馬は次から次へ續いて、赤も白も紫も、勝つたり負けたりした。日が西の方へ傾いて、雄二の棧敷の前は、黃色い光が立並ぶ人の顏を染めてゐた。そこに立つてゐる人の顏を雄二が何氣なく見下してゐると、飴をしやぶつてゐた女の兒が雄二を見上げて、鼻に皺を寄せた。しかし雄二の注意はすぐ遠くへ走つた。今度はバタバタ自轉車(オートバイ)の競爭だつた。

 赤、黑、黃などのジヤケツを着た男が遠くに並んでゐた。やがてスタートが切られると、棧敷は遽かに騷しくなつた。物凄い唸りとともに雄二の前を走つて行く車上の人は、みんな凄い顏をしてゐた。オートバイは一回、二回、三回と、場内を廻つた。そのうちに煙を吐いて倒れてしまふ車もあつた。唸りのいい凄いのが二臺どちらも同じ速さで進んで行く。夕日にギラギラ輝いて、オートバイは死物狂であつた。たうとう一臺の方が少し勝つて、進み出した。五回目に入ると、距離がもつと大きくなつた。そして、先頭は決勝點に入つてしまつた。ポンと花火が揚り、雄二は吻とした。

 何時の間にか場内は薄暗くなり、もう棧敷を離れて歸つて行く人ばかりだつた。雄二はぐつたりして、棧敷の上に寢轉んでみた。すると、空の方には星がちらちら輝いてゐるのだつた。大吉や貴麿はさきに歸つてしまつた。雄二は母と菊子と、他所の小母さんと四人で歸つて行つた。露店はアセチレン瓦斯が點されてゐて、路次は埃と闇だつた。提灯を持つた人がぞろぞろと通つた。雄二の母も提灯を提げて、雄二の手を引いて歩いてゐた。「もう蜜柑が出たさうな」と、母は一軒の露店の前で立留まつた。そして葉の着いた靑蜜柑を買つた。その隣に燒栗屋があつて、火の子がパチパチと闇に跳ねてゐた。急に、ドスーン……と大きな響がした。頭上の空にパツと花火が擴つて、赤い火の玉が賑やかに亂れ落ちて來た。「まあ綺麗」と菊子は見上げながら晴々と呟いた。――明日もまだ招魂祭なのだ。

 

[やぶちゃん注:「お夏」「雄二」の家の子守り女中であるらしい。

「しひしひどんぐり」これはこれで一語で、食用にするブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の椎の実を指しているものと思われる。私も大好きである。最近はあれが食べられるということさえ知らぬ人々が沢山いる。何とも哀しい気が私はするのである。

「山姥」「やまうば」或いは「やまんば」と訓ずる(「やまおんな」という読みもあるが、私は一度もそう読んだことはないので採らない。個人的には「やまんば」で読む)。伝説や昔話で一般には奥山に棲んでいるとされる女怪で、背が高く、髪が長く、口は大きく、目は光って鋭いなど、醜怪な老婆として造形されることが多い。

「吻として」ここは既出既注の「ふん」ではなく、文脈から「ほつとして(ほっとして)」と当て読みしているように思われる。

「いきれ」「熱れ」「熅れ」熱気。ほてり。

「外へ出ると、雄二は權現さんの方角が氣にかかつた。あそこには、お仁王さんや、唐獅子や白い石の鳥居や松などがあつて、山姥が隱れてゐさうな藪もある。しかし、今權現さんは見えないし、山に日があたつてゐて、街は明るかつた」諸条件を考慮すると民喜の幟町の実家から午前中に出た少年が見上げ得る「山」で、「權現」「仁王」「唐獅子」「白い石の鳥居」「松」「藪」となると、多くの寺社仏閣が存在し、「權現」さん、即ち、東照宮があるとなると、幟町の東北一・二キロメートルにある東照宮(JR広島駅北側の二葉山中腹に当たる現在の広島市東区二葉の里)か。

「笹を積んだ車が笹の音させながらやつて來ると、雄二は權現さんの笹かとびつくりする」今の今まで「權現」のことを夢想し、そこの「山姥が隱れてゐさうな藪」のことを考えていた「雄二」にしてみれば、「藪」「笹」「山姥」と連想が直列で働き、山積みの「笹」、その中には実は「山姥」が潜んでいるのではないか、「とびつくりする」のであろう。

「お供賣」「おそなへうり(おそなえうり)」。

「三人の影が日南の路に映つている。日南はゆらゆら夢のやうに動く」「日南」は何と読むのか。意味も判らず(南方向から射す暖かな陽光?)「ひなみ」と訓じようとしたが、この訓読例が思いの外、ない。しかも辞書類に当たっても見出し語としては出て来ない。されば、この二つの描写から考え得る自然な読み方は、最早、「ひなた」しかないのではないか? 「飯田蛇笏 靈芝 明治四十年(十句)」の「雷やみし合歡の日南の旅人かな」の私の注を参照されたい。

「銅像」「の兵隊は喇叭を口にあてて、高い石段の上にゐる」恐らくは戦前・戦中の小学校の修身教科書にあった「シンデモ ラツパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」で知られる日清戦争で戦死した日本陸軍兵士で喇叭手であった木口小平(きぐちこへい 明治五(一八七二)年~明治二七(一八九四)年)のそれと思われる。彼は岡山県川上郡成羽町新山(後の高梁市)の農家の長男として生まれであるが、明治二五(一八九二)年十二月に広島歩兵第二十一連隊に入営、歩兵二等卒となり、明治二七(一八九四)年六月に日清戦争に歩兵第二十一連隊第三大隊第十二中隊の喇叭手として従軍、同年七月の「成歓の戦い」(「成歓」は「せいかん/ソンファン」で朝鮮半島忠清道成歓付近)の最中、同月二十九日に敵弾を受けて戦死した。所属連隊の関係から、現在の広島県広島市南区の比治山公園にある旧陸軍の比治山陸軍墓地にある日清戦争合同碑には、「木口小平」の名が刻まれてある。戦没時は未だ満二十一歳であった(以上はウィキの「木口小平」他に拠った)。

「雄二の妹」民喜には妹が二人いるが、五女の恭子は大正元(一九一一)年生まれで民喜は既に七歳になってしまっているから、これは明治四三(一九一〇)年生まれの四女千鶴子(民喜とは五つ違い)がモデルであろう。

「毮つて」「むしつて(むしって)」。

「その知らない女の人はお夏の方振向いて」「お夏の方振向いて」はママ。「お夏の方へ振向いて」か「お夏の方を振向いて」の脱字であろう。

「小學校」不詳であるが、「雄二」は直ぐに家に帰りたくなっており、この直後にモデルである幟町の実家に帰っているから、現在も同町内にある、当時の広島市立幟町尋常小学校ではないかと思われる。因みに、この小学校には、後に広島平和記念公園内に建立された、かの「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんが在籍することとなる小学校である。

「お寺はすぐ雄二の家の近くにある」民喜の生家の一部は現在の「広島世界平和記念聖堂」の敷地内に含まれるという情報を得たので、さらに調べてみると、現在の幟町カトリック教会(広島市中区幟町四丁目一)の『世界平和記念聖堂の南の方角』(ブログ「団塊の世代一代記(Akimasa Net)」の「原民喜(はら・たみき)」より引用)とある。そこで地図上で同聖堂の南直近の寺院を調べると、「正光寺(しょうこうじ)」という寺院を南南西七十メートル位置に現認出来る(幟町八丁目)。しかもこの寺は浄土真宗本願寺派であるから、法話を拝聴する老婆が念仏を唱えるのと、上手く合致する。

「難しさう」「むつかしさう」(むつかしそう)」(或いは「むづかし」)でもよいが、ここは「くるしさう(くるしそう)」の当て読みをした方が朗読にはよい。

「一人の漁夫(れふし)が海へ行きました。……」知られた蓮如の「御文章」には「獵漁(りよう・すなどり)」の一章がある。

   *

 まづ當流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、獵・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業(ざいがふ)にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします彌陀如來の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、彌陀一佛の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如來の御たすけにあづかるものなり。

 このうへには、なにとこころえて念佛申すべきぞなれば、往生はいまの信力(しんりき)によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念佛申すべきなり。これを當流の安心決定(けつじやう)したる信心の行者とは申すべきなり。あなかしこ、あなかしこ。

   *

がある。これを元にした喩え話であろうか。

「安田」「雄二」家の使用であるらしい。

「S橋」「S橋の向ふが權現さん」私が先に推定した「權現」東照宮方面に幟町からなるべく直行して向かった場合、京橋川が猿猴川に左岸で分岐する直前の橋を渡りのが近道である。この橋の名は「栄橋」である。

「はりまはしてやりませう」「はりまはす(はりまわす)」は「撲り回す」とも書き、「ところ構わず殴る」の意。ここは相手は少女だからさんざんどついてやりましょう、というのであろう。

「逸散に」「いつさんに(いっさんに)」。「一散に」が普通の表記。一目散に、脇き目も振らずがむしゃらに(走る・逃げる)の意の副詞。

「尋常二年生の伯母さん」「雄二」の「福岡」にいる「伯母」に当たる婦人が「尋常二年生」(七歳)というのはあり得ないことである。ここから既にこの日の白昼夢は始まっている。栗が実在化していて、次のシークエンスでそれを食っているというのが面白い。

「ぞよめき」沢山の人々の声などが騒がしく聞こえること。また、その声。「ざわめき」に同じい。

「搔繰獨樂」「かいぐりごま」と読ませているか、或いは後述するようにこれで「ばいごま」又は「べえごま」と当て読みしているのかも知れない。「搔い繰る(かいぐる)」とは、原義は左右の手を交互に用いて糸や綱などを手繰り寄せる動きを指すが、ベーゴマに紐を巻いて振り出すという一連のその動きは「かいぐる」という動詞に似ている。しかも「かいぐる」の「かい」は「貝」かも知れず、平安の古えに始まったそれは、元来は巻貝の「ばい」(腹足綱吸腔目バイ科バイ属 Babylonia(或いはバイ Babylonia japonica))の死貝の貝殻に砂や粘土を詰め、紐で回したのを始まりとするとされ、ウィキの「ベーゴマによれば、『関西から関東に伝わった際に「バイゴマ」が訛って「ベーゴマ」となった。後に鋳鉄製のものに取って代わられた。形は比較的浅い円錐形で、底にも上面にも軸が飛び出していないことが多い。特に上面はほぼ平らである。底側には、貝を思わせる螺旋の盛り上がった模様が着いている。また、周囲は角張っているものがある』とある。

「ヒヤ(花火)」「火箭(ひや)」或いは「火矢」であろう。

「跛」「びつこ」。

「石菓子」恐らく、砂糖と寒天で作った石に似せた砂糖菓子であろう。

「雄二は吻として遠くの紫を眺めた」雄二は「白」が一着と思っていた予想が外れてしまうのであるから、ここの「吻」は文字通りの、不満の「ふん」で読むべきである。

「別當」「べつたう(べっとう)」。馬の飼育係。馬丁(ばてい)。中古の、院司・家司(けいし)・国司などの下にあった「厩(うまや)の別当」(常用馬の飼育調教の長官職)から転じた語。

「氣を奪られてゐるうちに」「奪られて」は「とられて」と訓じていよう。

「號んだ」「さけんだ」。

「ジヤケツ」ジャケット(jacket)。

「雄二は吻とした」ここは轟音と物凄さが止んだので、「ほつとした(ほっとした)」と訓じたい。]

« 「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 紀み井寺着(本文のみ) 芭蕉 | トップページ | 原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 「靑寫眞」 »