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« 和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 草蜘蛛 蠨蛸 | トップページ | 原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 「蝦獲り」 »

2016/04/25

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 起動 / 貂

原民喜「幼年畫」(恣意的正字化版)附やぶちゃん注 起動

 

[やぶちゃん注:本作品群全体は昭和二八(一九五三)年三月角川書店刊の「原民喜作品集 第一巻」に纏めて所収された。

 底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 」を用いたが、最後の「饗宴」以外が総て戦前(昭和一〇(一九三五)年から昭和一六(一九四一)年九月)の発表であること、底本が歴史的仮名遣によって記されていること、また何より、既にブログで述べてきたように、原民喜は終生、基本、自筆稿では正字を使用していた事実から、「饗宴」を含む総ての作品を恣意的に正字化して示すこととする。それが原民喜の記した本来の作品の姿により近いと考えるからである。

 各篇の初出の書誌は同底本に拠る。各篇末に私オリジナルの注を附してある。]

 

[やぶちゃん注:以下の「貂」(「てん」と読む)は昭和一一(一九三六)年八月号『三田文学』を初出とする。当時、民喜満三十歳。「灯」の字は民喜がしばしば「燈」と使い分けているので、ママとした。傍点「ヽ」は太字とした。]

 

 貂

 

 杏(あんず)の實が熟れる頃、お稻荷さんの祭が近づく。雄二の家の納屋の前の杏は、根元に犬の墓があつて、墓のまはりには雜草の森林や、谷や丘があり、公園もあるのだが、杏の實はそこへ墮ちるのだ。猫が來て墓を無視することもある。杏の花は、むかし咲いた。花は桃色で、花は靑空に粉を吹いたやうに咲く。それが實になつて眼に見え出すと、むかし咲いた花を雄二は憶ひ出す。「來年は學校へ行くのだから、今のうちに遊んでおくのよ」と母は云ふが、雄二は色鉛筆が欲しいと云つて泣いた。大吉の石筆をもらつて石に繪を描いたことはあつても、白い紙に色鉛筆でやつてみたいのだ。到頭夜遲く、妹の守に連れられて、小學校の前の文房具屋へ買ひに行つた。歸り路の屋根の色は靑く黑く、灯は黃色だつた。「夜、色鉛筆を使つても駄目よ、黃色なんか白と間違へるから」と姉の菊子は云ふ。雄二は、しかし、白と間違つてみたかつた。鉛筆を持つてから、雄二は大變緊張した。「さあ、これから二階へ行つて何か描いておいで、晝御飯の時見せてもらふから」と、母が云つた。雄二は獨りで二階の窓際の机に坐つた。獨りで坐つてゐると、朝日が窓のところの櫻靑葉を照らした。大屋根の邊では雀が、ち、ち、ち、と囀つてゐる。風が吹いて靑葉の光が飜つて、しばらく物音がしない。と、また、ち、ち、と雀は喋り出す。雀の卵があるのかな、と、櫻の枝を見ると、ある。白い殼が枝の叉についてゐる。(それは刺蟲の殼だが、父が雀の卵だと教へた。)そこで雄二は眞白な紙に茶色の芯で櫻の枝を描く。どうも櫻が電信柱のやうな恰好になつてしまつた。雀の卵を一つくつつけようとしたが、今度はそれが杏の實ぐらゐの大きさになつた。杏なら熟れる。雄二は赤鉛筆で杏の實をくるくる塗つた。が、あんまり勢がよくて遠くまで線がはね出した。すると、これは杏が熟れてゆくしるしだと考へた。大へんいい考へなので、赤い線は四方へ跳ねて行つた。雄二は暫く夢中で何が何だかわからない線を引いてゐた。氣がつくと、眞白な紙が火事のやうになつてゐる。ち、ち、ち、と雀はまた囀る。隣の染物屋の草原で、こ、こ、こ、こ、こ、と急に牝鷄が啼き出したのは、卵を産んだのだらう。しんし張りの布に茶褐色の粉が白い模樣を殘して一めんに塗つてある。布はピカピカ光つて、風に搖れる。そのむかふに黑く茂つてゐる椎の木は怖いのだ。夜、あの樹でふくろふが啼いたことがあるのだから。雄二はお母さんがもう御飯だよと呼んでくれないかと思ふ。まだ、ドンは鳴らない。隨分長い間、獨りでゐるやうな氣がする。「舟を描くのが一番やさしいわ、まつすぐ橫にかうやつて、帆をつければいいでせう」と菊子が教へてくれたのをふと憶ひ出す。それで火事のやうな繪の餘白へ舟を走らす。一艘、二艘、三艘、四艘描いたら舟が衝突して、舟火事のやうな光景になつた。いよいよ消防隊が飛出して、上から靑鉛筆で雨を降らす。雨が何時の間にか、鐵砲の彈丸になつて、大砲の砲彈になつて、大戰爭が始まつた。地雷火が爆發すると、もう舟なんか木端微塵だ。雄二は吻として、繪を投出した。丁度、その時、階下から母の呼ぶ聲がした。雄二は繪を持つて、臺所へ行き、母の前につき出した。奇妙な顏をして、母は繪を眺めてゐるので、説明しなきやわからないらしい。これが舟で、杏で、櫻の枝で、地雷火で、杏の實が熟れるところで、雨が降つて、そして舟が衝突したから、大戰爭になつたのだよ。母は頤で頷きながら眼で不審がつてゐる。

 雄二の眼にはお椀のなかの豆腐のお汁が映る。小人(こびと)だつたら豆腐なんか島のやうなものだし、お椀のなかは海だ。その海には帆立貝も浮んでゐるが、帆立貝は豆腐とくつついてゐるところもある。靜かな海は暫くして搔き亂された。「その繪に名前を書いておきなさい」と母は云ふ。「ユウジつて字かう書くの」と母が箸をさかしまにして、お湯でしめし、食卓の上に片假名で書くと、見てゐるうちに乾いてしまふ。もう一ぺん、母は今度は人差で消えないやうに書く。雄二は指で何度もその上を眞似てみる。憶えた。その拍子に臺所の窓から微風が飛込んで來る。雄二は黑の鉛筆で自分の名を書く。それから、繪を懷中にして納屋のところへ行き、杏の樹を仰いで見る。靑い空に杏の樹は兩腕をぐいと伸ばして、一本足で立つてゐる。うん大分熟れた、と杏は自分の頭を吹く風にむかつて話す。風に誘はれて縞蜂がやつて來た。すると、杏はまた兩腕をぐいと伸して、蜂に話掛ける。川崎の庭の杏も大分熟れたかね。蜂は知らないよと云つて飛んで行つてしまふ。ハハハ、蜂の阿呆は川崎の庭知らないのだわい、と杏は兩腕を搖すつて、くすぐつたさうに笑つた。どすん、と杏の實が墮ちて、犬の墓にあたり、その實はころころ轉んで、谷底へはまり込んでしまつた。雄二はあの谷へ丸木橋掛けたらいいと思ひつき、そこで納屋へ這入つて、橋になりさうな割木を探すのだつた。割木は山のやうに納屋の壁に積重ねてある。その山の上には小さな穴があつて、隣の家が覗けるのだ。雄二は割木の上へ登つて、何時かのやうに穴から覗いてみようと思ふ。隣の緣側の籃のなかには頭の大きな、福助のやうな子供がゐたが、まだゐるのか氣になる。割木は足もとから崩れて、身躰が墜落しさうだ。生々しい木のにほひと、黴のにほひと、暗い冷たい空氣が、雄二の頰に迫る。天井の梁に一本の繩が輪にされて、ぶらさがつてゐる。その梁には、白墨で、クビツリと書いてある。この間大吉が梯子を掛けて落書した場所なのだ。雄二は到頭割木の山へ登り着いた。すぐ上は天井で、山は狹く暗い。腹這ひになつて、柱の脇の赤土の隙間に、雄二は眼をあてた。すると、むかふの家の庭はとても明るい。苔が靑々と生えてゐる地面を葉洩陽が色彩つてゐる。しかし、緣側には、籃が出てゐないし、障子は閉めてある。手洗鉢の脇に、水からくりが放り出してある。あの玩具、頭の大きな子供の玩具なのかもしれない。誰もゐない庭に風が吹くと、楓の葉が搖れて、さつと、庭の景色が變つた。誰か來るのではないかしらと、雄二はまだ眼を離さないでゐる。その時、また、さつと、庭の樣子が變るやうな氣がしたかと思ふと、何かがちらりと現れた。金色の毛をした、燃えるやうな變な動物は、庭を橫切つて、すぐに見えなくなつた。あ、あれは貂だ、貂だ。雄二は眼を丸くして、壁から離れた。ちよつとも音を立てないで、滑るやうに消えて行つた。全身が金色に輝いてゐた。だから、あれは、やつぱし貂にちがひない。

 納屋を出て、ぶらぶら歩いて、雄二はやつぱし貂のことを考へてゐる。そのうちに雄二は向ひの酒屋の店さきへ這入つてゐた。薄暗い奧の間から、酒屋のをばさんが雄二の姿を認めた。雄二は下駄を脱いで、三疊の間に上る。をばさんは雄二が片手に持つてゐる繪を受取り、默つて感心しながら眺める。「をばさん、貂がゐるのだよ」と雄二はまだ貂のことを忘れない。「貂、なるほど、貂がゐますわね」「あ、貂がゐるんだよ、貂は金色で、つーつーつーと走るんだね」「あ、なるほど、ここのところにゐるのが貂でせう」をばさんは繪のなかから黃色い塊を見つけて指差した。雄二はびつくりした。大砲の彈丸が貂によく似てゐて、今は貂になつてしまつてゐるのだ。「うん、貂がゐるから、皆がドンドン、鐵砲やら大砲やらで擊つたのだよ」「あ、それで、貂は赤い血を流したのね」「うん、さうすると、舟が出て來て、貂を助けようとしたのだ」「ほ、ほ、舟がどうして貂を助けるのでせう」「だつて、貂が助けてくれえ、とおらんだからさうなつたのだよ」「それで貂は助かりましたの」「やつぱし駄目さ、舟だつて大砲に擊たれて沈んでしまふのだ」「ぢやあ、貂は死んでしまつたのでせう」「ううん、逃げてゐるところなのだよ」「ぢやあ、やつぱし貂は助かつたのでせう」「ううん、まだ助からないのだ」「ほ、ほ、むつかしいのね」

 その時、前の往來をゴロゴロと大砲を繫いだ馬や、兵隊がやつて來たかとおもふと、軒の前で、立留つてしまつた。雄二は兵隊を見に下駄を穿いて出た。兵隊はずつと向うの四つ角の方から酒屋の四五軒さきまで列んで立つてゐる。帽子を脱いで、額の汗を拭いてゐる者や、ぼんやりと側の家を眺めてゐる兵隊だ。馬は暫く休めるので、頻りに尻尾を振つてゐた。革と埃と日向のにほひがそこにはあつた。雄二が珍しげに兵隊達を視てゐると、雄二のすぐ側にゐる兵隊も彼の方を眺めた。そして、ふと、兵隊は雄二に口をきいた。「坊やはいくつ」雄二は一寸どぎまぎして「六つ」と答へた。さうすると、雄二に口をきいた兵隊のまはりにゐる二三人の兵隊も、何か感心したらしく微かに頷くのであつた。そのうちに兵隊の列はまた動き出した。ゴロゴロと車馬の響がして、埃があがり、兵隊の列は遠ざかつた。雄二は早速大急ぎで家のうちへ駈けつけた。家の簷には恰度陽が差込むので、カーテンが張つてあつた。雄二は緣側へ腰を下ろすと、そこに母がゐた。何と云つて、さつきの出來事を話していいのか雄二は暫く眼を簷のカーテンにやつた。「今、兵隊さんと話したのだよ」と雄二は急込んで話した。「兵隊さんが僕をいくつかと尋ねたから、六つだと答へた」すると、何時の間に學校から歸つて來たのか、大吉が次の部屋で聞いてゐた。「六つ! 噓だい、お前は五つだよ」と大吉は次の間から現れて來た。雄二は不圖心配になつた。「お母さんが六つだと云つたよ」「五つだよ、お前は滿五歳さ」雄二はそれではやつぱし間違つてたのかと思ひ、さつきの兵隊さんを追駈けて行つて、云ひ直して來ようかと思ふ。しかし、もうさつきの兵隊は隨分遠くへ行つたに違ひない。雄二は心配相に暫く遠くの空に眼をやつて、何だか情なかつた。さつきの兵隊さんは何時までも雄二を六つだと思つてゐるに違ひない。すると、その時母が云つた。「滿なら五つだけど、數へ歳は六つなのだよ」雄二は急に安心して、「やつぱし六つだ、どうだ、六つだよ、六つだよ」すると大吉は雄二の持つてゐる繪をひつたくつて、逃げ出した。雄二が泣き出すと、大吉は遠くで繪を面白さうに眺めながら、「ふん、こいつは火事の繪だな」と勝手に決めてしまふ。「ははん、舟もあらあ」と大吉は雄二に聞かさうとして云ふ。雄二は大吉の云ふことが聞きたくもあるし、腹も立つので、わーと泣いては暫く默つてゐる。「ははあ、この黃色いけだものは狐だな」と大吉はまた云ふ。「狐ぢやない、貂だ」と雄二はつい釣込まれて返事する。「わーい、泣いてゐた烏がものを云うた、狐ぢやない、貂だつて、貂なんかがゐるかい」と大吉はけげん相な顏をする。「ゐるとも、今日、納屋のところで見たんだ」「そりや猫か犬の間違ひだらう」「貂だよ、金色の毛をしてキラキラ光つてたもの」「ぢやあ、三毛猫さ」「見ないものだからあんなこと云つてら」「見たとも、僕だつて見たよ、お前なんかがまだ赤ん坊の時、練兵場の方に澤山ゐたんだぜ、貂は毎晩しつぽへ靑い火をつけてコンコンつて啼いて騷いで、時々、人をばかすのだよ」「やあ、そいつは狐ぢやないか」「そら、狐にばかされただらう」大吉は得意さうに笑ひ出した。

 

 杏がまだ花を持つてゐた頃、雄二は上の兄の貴麿に連れられて、日曜日に川崎の家へ行つた。兄は賑やかな通りの書店で本を買ひ、雄二に「幼年の友」を買つて呉れた。それから石の敷詰められてゐる、ひんやりした橫路へ這入ると、兩側に肴屋ばかりが並んでゐて、店頭の桶の水がピカピカ搖れ、底には泥鰌やら、鰻が泳いでゐた。その軒のなかに石垣をめぐらしたお稻荷さんがぽつんとあつた。赤い小さな鳥居や、旗が奧の方に見えたが、兄が注意してくれなければ雄二は見落したかも知れない。やがて、小路が四つ角になると、一軒の家は鷄屋で、裸にされた白い死骸がいくつも臺の上に重ねてあつた。そこから右に折れると、路は少し明るくなり、小鳥屋の軒が目につく。その小鳥屋の前が川崎の家だつた。門を這入る拍子に、庭の竹垣の戸が開放たれてゐたので、綠の樹木が眺められ、雄二は綺麗だな、と思つた。薄暗い玄關から、廊下を傳つて、居間の方へ行くと、伯父はゐた。伯父は雄二の顏を見ると、ニコニコ笑ひ、笑ふと、舌が唇から食み出す癖があつた。雄二はそこへ坐つて「幼年の友」の畫を見た。居間には大きな鐵の引手のついた古びた簞笥やら、長持やら、紙の剝げかかつた屛風などがあり、すぐ次の間は臺所で、臺所の晒天井は、煤けて何か恐しいやうな氣持がした。臺所の中央に大きな井戸があり、つるべで汲み上げる度に、井戸はキリキリキリと鳴つた。奧の間には緣側があり、そこに杏が花をつけてゐた。雄二の家の杏よりかもつと大きく、庭全體を壓して、咲いてゐた。廊下の橋を渡つて、離れの間に行くと、そこの窓には無花果が茂つてゐた。大變暗い部屋で、壁には西洋畫の額が掲けてある。女の人がスプーンで牛乳を少女に飮ませてゐる繪で、顏の色が靑ざめてゐるので、顏までが牛乳のやうに思へた。貴麿と一緒に伯父の家を辭して、表へ出ると、黃色の蝶々が何時までも雄二達の前をヒラヒラ飛んで行つた。餘程、長い間、外へゐたやうな氣がしたが、家へ歸ると恰度、ドンが鳴つて晝御飯だつた。

 

 川崎の庭の杏、もう熟れただらう、と、雄二の家の杏が蝶に尋ねた。ああ、熟れてるよ、と蝶は氣輕に返事して風に乘つて去つた。雄二の家の杏は滿足さうに兩腕を搖すつて、ぢやあ今日はお稻荷さんの祭だな、と呟いた。

 夕方から雄二達は新しい着物を着せられた。着物の上にきちんと三尺を緊く結ばれたので雄二は急に窮屈になり、脇の下のところを引張つて難がらうとした。すると、菊子は脇の下のところを直してやりながら、「そら、今晩はのぞきが見られるのよ、だからのぞきを見る人はきちんと着物着てゐないとをかしいでせう」と雄二の注意を遠くへやらうとするのだつた。大分前から菊子はもう、杏と蝶に話させたりして、お祭のことで一杯だつた。それで、もう雄二も行かないさきから緊張してゐた。いよいよ、俥が門のところへやつて來た。子供達がさきに川崎の家へ送り屆けられるのだつた。雄二が一番に俥の上の方へ乘せられ、その前に大吉が乘り、その次に貴麿が乘せられた。雄二は一番上の方で手足が押し潰されさうで、今にも泣きさうな氣がした。しかし、往來のことではあるし、ぢつと我慢してゐると、そのうちに俥はもう轅を上げて、走り出した。雄二の身躰は上で搖れ、氣持は不安だつたが、やがて、俥が二三丁も走ると、いくらか慣れて來た。初夏の夕方の風が熱かつた頰を少しづつ撫でた。糸杉を植えた西洋料理店の門口にはもう灯が點いてゐた。やがて練兵場の堀に添ふ路へ出て、暫くすると、もうお祭の提灯やら露店が並んでゐるところへ來た。人もぞろぞろと集り始めた路を俥は角の鷄屋を過ぎて、川崎の前に留つた。川崎の橫にはもうのぞきが設けられ、人がたかつてゐた。雄二は俥の上から、のぞきの看板をちらと見た、戰爭の繪で、地雷火が爆發してゐる草原で、一人の兵卒が銃を逆にして、銃の臺で敵兵の頭を撲りつけてゐるところだつた。赤々と燃える空は物凄く、敵の兵卒は靑ざめて身悶えてゐた。雄二は川崎の家の玄關を潛るまで、その繪が氣になつた。雄二達は暫く二階で休んだ。格子窓から下を覗けば宵闇のなかをぞろぞろと人は賑はつてゐた。大人達はなかなかやつて來さうになかつた。そこで、三人は表へ出てみた。雄二はさつきののぞきの場所へ立留つて、また看板にあきれた。竹の笞で、臺を叩きながら、男が何か聲高に喋つてゐた。しかし、迷子になるといけないので、すぐ兄達の後を追つた。道傍の露店には、海酸漿や、茱萸の實や、肉桂、粕(かす)などが並べられ、風船玉や、風車が、絶えず動いてゐた。角の鷄屋の前の人だかりには、車に乘せた檻があり、金網のなかをゴソゴソと狐が動き廻つてゐた。狐は何か不思議な臭氣をあたりに漾はせ、それにアセチレンガスの臭ひが鼻に強く來た。雄二はまた迷子になりはすまいかと心配になつた。しかし、兄達はそこで引返すと、すぐに川崎の家へ歸つた。と、玄關には恰度、母と菊子が着いたところだつた。他所行の着物着てゐる、母や菊子の姿が珍しく、雄二は母が急に一段と優しくなつたやうな氣がした。「さあ、皆、二階へいらつしやい」と母は云つた。それで、四人がどかどかと梯子段を昇つて行くと、二階の格子のところに伯父がゐた。伯父はひよいと首を皆の方へむけると、ニコニコ笑ひ、「やあ、大將、賢(え)らしこだね」と大きな聲で、雄二と大吉の頭を撫でた。大吉がをかしがつて、そつと雄二の身躰をつつき、皆は何時もの伯父の癖をくすくす笑ひ出した。すると、伯父の眼の色だけ、微かにてれたが、相變らず磊落な態度でニコニコ笑ひ、「皆、よく來たね、ほう、皆、隨分大きくなつたぞ」と獨りで面白がつては、舌をなめづつた。そのうちに、親類の人々や、大人達が次第に集まつて來た。皆がそれぞれ壁に添つて坐ると、部屋は賑やかになつた。膳が運ばれ、酒が廻されて、話聲や笑聲が湧いた。そこへ、雄二の父が這入つて來た。父がやつて來ると、雄二は遠くから父の方ばかり氣になつた。父は皆にはきはき口をきき、時々娯しさうに笑つたりしてゐて、顏が大變涼しさうだつた。不圖、父は大きな嚏を立てつゞけに二つ三つした。寒くもないのに嚏をすると云つて伯母が笑つた。ガヤガヤといふ大人達の話聲のなかから、今、雄二は誰かがのぞきの看板の話をし出したのを聽きとつた。あの看板の繪は何時もの戰爭のものでせうか、などと云つてゐる。雄二はその返事が聞きたいのだが、生憎よく聞えない、そしてもうのぞきの話は終つたらしい。大人達の顏は段々醉ぱらひらしく光り、座敷には白い靄のやうなものが立籠めた。すると、母が雄二と大吉を手招いた。母は膝のところのハンケチを直しながら、「秋子さんと一緒に少し外の方を見て來なさい」と云つた。母のすぐ側にはおさげの女がにこにこ笑つてゐた。雄二にははつきり憶えのない顏だつたが、その女は雄二を識つてゐるらしく、はじめ彼を見る時、わざと目を大きく瞠つた。大吉の方は彼女を憶えてゐるので、すぐ彼女を一緒に出掛けやうとした。秋子は雄二を顧みて、「さあ、手を引いてあげませう」と云つた。三人が門口を出ると、秋子はすぐ前ののぞきのところへ立留つた。雄二は愈々それが見られるのかと娯しみにしてゐると、「こんなものつまんないわ、八百屋お七か不如歸なら面白いけど」と秋子は云つた。そして、大吉を顧みて、「ねえ、あつちののぞき見に行きませう」とずんずん人混みのなかを足早にわけて進んだ。雄二はその女の足が早いので、弱つてゐると、ふと、露店の鬼灯屋の前で彼女は立留り、鬼灯を買ふと、早速唇に入れて鳴らし鳴らし歩いた。「なにか、あんた達も買ふといいわ、ね、あの辣韮の形した飴がおいしさうだわ、あれがいいわ、あれ買ひませう」と、彼女は菓子屋の前で立留ると、大吉にその飴を買はせた。雄二はその隣のガラス函のなかに煙むる桃色の綿菓子を視凝めて、それが欲しいのだつた。が、秋子はずんずん、雄二の手をひいて行つた。やがて、もう一つののぞきのところへ來ると、秋子はもう氣が變つたとみえて、そこには立留らず、とつとと通り過ぎた。それから狹い、敷石の露路の方へ折れて、お稻荷さんの方へ行つた。太鼓の音が洩れて來るあたりまで來ると、人混みでなかなか進めさうになかつた。すると、彼女は、「もう、ここでおまゐりしたことにしておきませう」と云つて、くるりと引返し、橫の路へ折れた。そこは人通りもあまりなく、石の敷詰められた暗い路だつたので、雄二はさつきから、この女がもしかすると狐ではないかしらと少し心配になつてゐた。しかし秋子は平氣で、流行歌を口遊んだりして、歩いて行つた。間もなく、廣い賑やかな明るい通りに出た。吻として雄二は秋子の姿を見上げた。秋子は通行人の一人一人に敏捷な視線を投げながら、ひよいと人を振返つて見たかとおもふと、その次にはもう店先の呉服を眺めてゐたりするのだつた。人通りはぞろぞろとあつたが、そこにはお祭りの提灯がないので、雄二は何處へ連れて行かれるのやらわからなかつた。隨分長い間、秋子は雄二と大吉を連れて勝手に歩き廻つた。もうお祭なんか見たくない、のぞきも見たくない、早く家へ歸りたい、と雄二は思つた。その時、やつと、また提灯や露店の並んでゐる通りへ來た。秋子は二人を連れて川崎の家へ歸つた。玄關を入ると、二階の騷ぎも止んでゐて、夜は大分遲かつた。

 

[やぶちゃん注:本作が民喜の「幼年」時の実体験に基づくとすれば、民喜満五歳は明治四三(一九一〇)年、杏の実が熟れる頃とあるから、六~七月の初夏の設定(途中で稲荷祭りがあり、そのシチュエーションに限るなら、後で考証するように六月二十九日辺りを想定出来る)と考えられる。母ムメは三十六、父信吉(陸海軍官庁用達を勤めた)は四十四、「姉の菊子」は言葉遣いから当時十九の長女操か或いは十三歳であった次女のツルであろう(雰囲気からは後者と採りたい)。主人公「雄二」の次兄として登場する「大吉」は四男の守夫(当時八歳)、「上の兄の貴磨」は三男(長男英雄と次男憲一は夭折)信嗣で十一歳と、作品内設定と各人の雰囲気に照らし合わせても全く矛盾を感じない。

「貂」哺乳綱ネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属亜種(本邦固有種)テンホンドテン Martes melampus melampus。夏季は毛衣が赤褐色や暗褐色で、顔や四肢の毛衣は黒、喉から胸部が橙色、尾の先端が白い(これが「夏毛」で「冬毛」は毛衣が赤褐色や暗褐色で頭部が灰白色(これを「煤貂(すすてん)」と呼ぶ)か、毛衣が黄色や黄褐色で頭部が白い。後者は「黄貂(きてん)」と呼ぶ)。原生地域である本州・四国・九州では現在、絶滅危惧種に指定されているが、人為的に移入された個体が北海道南部と中央部と佐渡島で野生化して棲息している。冬眠はせず、年中、活動し、その活動時間帯も特に定まらず昼夜活動する(夜行性とする認識は誤りである)。繁殖期以外は基本的に単独で行動し、身体は柔軟性に富む。警戒心が強く、よく後肢で二本足立ちし、周囲を見回すことがある。この行動を「目蔭(まかげ)」と称する。爪が鋭く、木登りが非常に上手い。このことに着目して、名称「キテン」の語源は「黄色い貂」ではなく「木貂」であるという説もある。雑食性で動物質のものはネズミ・リス・鳥・爬虫類・両生類・昆虫類・ムカデなどを摂餌し、植物質のものではヤマグワ・マタタビ・サクラ・ヤマブドウ・コクワ(サルナシ)などの実を食うらしいので、アンズの実を食いに来てもおかしくはない気がする。交尾期はまさに夏で、出産は翌年の春であるから、初夏の日中に姿を見せたのも自然である。活動場所としては沢や川付近が多いが、穴や樹洞・建造物の床下や屋根裏にも巣を作る(以上はウィキの「ホンドテン」に拠った)ので、ここが広島の町中の、民喜の生家、広島県広島市幟町(のぼりちょう)(現在の中区幟町)であったとしても、必ずしもこの当時ならば全く有り得ぬ話ではないと私は思う。

「白い殼」「刺蟲の殼」「雀の卵」鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目ボクトウガ上科イラガ科イラガ亜科イラガ属 Monema に属するイラガ類或いはその近縁種の作る繭である(「白い殼」とあるので以下のイラガのそれではないか、或いは羽化したそれの後の色褪せたものを指すか)。イラガ Monema flavescens を例にとると(同ウィキのから引用するが、毒棘を持つ幼虫の画像があるので例外的にリンクは張らない)。『終齢幼虫(前蛹)で越冬し、そのための繭を作る。独特の茶色い線が入った白く固い卵状の殻で、カルシウムを多く含み日本の昆虫がつくる繭の中で最も固いとみられる』。『春先に中で蛹化し』、六月に『羽化する。羽化時には繭の上端が蓋のように開き(小さな穴は寄生蜂の脱出口)、地方によりスズメノショウベンタゴ(担桶)とも呼ばれる。玉虫と呼んで釣り餌(特にタナゴ釣り)に用いられる』とある。有毒危険生物の場合は必ず注するのが私のポリシーなので以下、附記しておくと、『幼虫に知らずに触れると激しい痛みに飛び上がる。地方名のひとつ「デンキムシ(電気虫)」の由来である。これは外敵を察知した幼虫が、全身の棘の先から毒液を一斉に分泌するためである。体を光にかざすと、すべての針の先から液体が分泌されていることがわかる。刺激はかなり強く、場合によっては皮膚に水疱状の炎症を生じ、鋭い痛みの症状は』一時間程度、『かゆみは』一週間程度、『続くことがある。卵をつぶしたり触れたりしてもかぶれるので注意が必要。又、種類によっては繭に毒毛を付けている物がある。刺された場合は、直ぐに流水で毒液と棘を洗い流すこと。棘が残っていれば粘着テープなどで棘を除去する(患者はかなりの痛みを感じているので配慮が必要)。その後、市販の虫刺されの治療薬を塗るとよい。症状が酷い場合や目に入った場合は医師の治療を受ける。正確な毒性分は解明されていないが、ヒスタミンやさまざまな酵素を成分とした非酸性の毒だとされている。中和目的にアンモニア水を塗っても効果は無く、抗ヒスタミン剤やアロエの葉の汁を塗布するのが有効であるとされる。ひどい場合は皮膚科等で処置をする必要がある』とある。さらに付け加えておかなくてはいけないのが、『食樹の樹幹についている繭は』イラガ亜科 Parasa 属ヒロヘリアオイラガ Parasa lepida『のものであることが多い。ちなみに、ヒロヘリアオイラガに限っては繭にも毒がある』という点である。魚の餌にするくらいだから、雑食性の雀が啄まないとも限らぬ。ただこれ、繭の感じが雀の卵に似ていることによる勝手な連想のようにも私には思える。見た目は青緑色に輝く虹色のグラデーションも美しいものではあるが、ゆめゆめ触ってはならない。興味のある方は、詳しくは私の和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 雀甕や、同「和漢三才図会」虫部のその前後の項(カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」)を参照されたい。

「しんし張り」「伸子張り」或いは「籡張り」(「籡」は国字)で、布や反物を染織或いは洗い張りすること。「しんし」とはその際に布幅を一定に保つための道具を指す。両端を尖らせるか、針を植えた細い竹の棒(又は木の棒)で、左右両端に強く引き張った布を固定して布を縮ませずに幅を保たせて支える。「しいし」とも呼称する(以上は、ウィキの「伸子」に拠った)。

「地雷火」水中の機雷を明治中期までは「水雷火」と呼んでいたので、その誤用であろう。

「吻として」「ふんとして」で「ふん」は感動詞に、しばしばそれらの遺志を示すのに口を尖らすことから「吻」の字を当てたもの。通常は同輩以下の者(自分自身を含む)に対し、軽く了解・承諾・納得などの意を表わしたり(「うん」に同じ)、或いは不満や軽視などの気持ちを表すところの「ふん(フン)!」である。ここは前者であるが、民喜はこの漢字の当て字をしばしば用い、本作でも最後に「吻として雄二は秋子の姿を見上げた」と、後者の意味でも用いている。

「縞蜂」地方名では全く異なった種(刺ことがないものから刺されると危険なものまで頗る多種多様)を指すが、ネットの検索上では現行では膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科クロスズメバチ Vespula flaviceps を指す記載が多い。恐れられるスズメバチ類の中では見た目も獰猛にはあまり見えず、実際に比較的、攻撃性も高くなく、毒性もそれほど強くない(但し、アナフラキシー・ショックは毒性の強弱とは別なので要注意)ので、雄二が一向に恐れなくても、それほど不審ではないように私には思われる。

「川崎」不祥。現行の広島県内・広島市内には「川崎」の地名を見出だせない。これは以下を読むに、思うに「川崎」というのは川に突き出た、或いは川の中州の突端のような場所のことではなかろうか? しかも、後半の稲荷祭りのシークエンスでは「伯父」の家に実家の幟町から「練兵場」の脇を通って、「川崎」の「伯父」へ辿りつくのであるが、その「伯父」の家の比較的近くに稲荷神社があるということが判ってくる。この「練兵場」を現在の広島市基町の広島県庁がある附近にあった西練兵場と仮定するなら、そこを西に少し行くと、太田川が左岸で分岐して元安川と二つに分かれる場所、非常に巨大な中洲を形成している所に出る。その太田川の分岐する手前(上流)の対岸(右岸)の少し北には空鞘稲生(そらさやいなお)神社があり(中洲の北の尖端からは直線で五百メートル圏内である)、この「稲生」は「いなり」と同義である。ここの夏越祭(なごしさい)は六月二十九日である……そうして……一度でも広島を訪れたことがある人は、ここで私が「川崎」の「伯父」の家があると仮定している巨大な中洲の北の尖端が現在の何に当たるか……お分かりであろう……そう……平和記念公園の北端である。――その元安川河畔に建つのが原爆ドームなのである――(無論、私の推理は机上の空論に過ぎないかも知れない。もっと別なぴったりくる場所を推定出来る方は是非、御教授戴きたい。私の仮説が弱い点は、川を渡る)

「おらんだ」「おらぶ」は「叫ぶ・哭ぶ」で、大声で叫(さけ)ぶ、喚(わめ)くの意。

「急込んで」「せきこんで」。

「幼年の友」実業之日本社が明治三九(一九〇六)年から明治四一(一九〇八)年の間に創刊した子供雑誌(他に『日本少年』『少女の友』)の一つと、「実業之日本社」公式サイトの「会社小史」の記載にあり、そこには同誌の明確な創刊年が書かれていない。ところが、国立国会図書館の「国際子ども図書館主催の展示会」の「童画・絵雑誌関連年表」に拠れば、上記の刊行会社のデータと異なり、明治四二(一九〇九)年創刊とある。はて? どちらが正しいのか? 書誌データを確認したに違いない後者の方が正解か? 孰れにせよ、創刊からそれほど経っていない(明治四十二年なら作中推定設定の翌年である)、それこそ子どもが咽喉から手が出るほど欲しがる少年誌に違いない。兄「貴磨」の優しさが伝わってくる、いいシーンではないか。

「開放たれて」「あけはなたれて」。

「晒天井」「さらしてんじやう(さらしてんじょう)」で、天井板を張っていない屋根裏が剝き出しになっている構造を指すのであろう。田舎ではごく当たり前であったが、都会育ちの「雄二」には薄暗く人体の骨が見えるような奇体なものであったのであろう。

「三尺」三尺帯のこと。但し、この「尺」は着物の仕立てに用いた鯨尺(くじらじゃく)なので、約百十四センチメートルの長さの並幅(なみはば:反物の普通の幅。鯨尺九寸五分(約三十六センチメートル)の帯を指す。古くは職人などがそのまましごいて一重(ひとえ)まわりの帯とし、左右どちらかの脇結びにして用いていたが、明治以後はやや長めにして子供帯として使われた(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「難がらう」恐らく「むずがらう(むずがろう)」と訓じている。帯がきついので、いやいやしているのである。

「川崎の店の杏、もう熟れただらう、と、雄二の家の杏が蝶に尋ねた。ああ、熟れてるよ、と蝶は氣輕に返事して風に乘つて去つた。雄二の家の杏は滿足さうに兩腕を搖すつて、ぢやあ今日はお稻荷さんの祭だな、と呟いた。」というこの一段は続く以下の「大分前から菊子はもう、杏と蝶に話させたりして」という叙述から、姉の「菊子」が「雄二」にお話している、彼女の創作した、おとぎ話であることが判る。この「菊子」も何か実に懐かしい思いがしてくる(私には兄弟はいないのだけれども)。

のぞき」のぞきからくり(覗絡操)。発祥は古く、江戸前期の寛永年間(一六二四年から一六四五年)とされ、社寺の祭礼や縁日に欠かせない見世物芸能の一つであった。当初は数個の覗き穴から、簡単なからくり細工や浮絵を覘く簡素なものであったが、明治・大正期になると、二十個にも及ぶ覗き穴を備え、内部も畳一畳ほどもある重い絵に、細かな押し絵を施した豪勢なものが現われるようになった。竹の棒を叩きながら、調子よく唄われるのぞきからくりの語りは、人々も口ずさむほどに流行したという。大正の活動写真の流行とともに衰退した(以上は「はてなキーワード」の「のぞきからくり」に拠った)。以下のジオラマ風の戦場風景は本文でも大人たちによって「あの看板の繪は何時もの戰爭のものでせうか」などと疑問が呈されているが、これは高い確率で、推定設定の五年前に終わった明治三七~三八(一九〇四~一九〇五)年の日露戦争の旅順攻囲戦のそれであろうと私は類推する。

「轅」「ながえ」原義は「長柄(ながえ)」牛車・馬車・人力車などの前に長く突き出た出した二本の棒。その前端に軛(くびき)を渡して牛馬や人が車を引く。

「二三丁」

「糸杉」球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ亜科イトスギ属 Cupressus に属する木本類の総称。「サイプレス」(英名:Cypress)「セイヨウヒノキ(西洋檜)」とも呼ぶ。ヒノキ科Cupressaceae の模式種である。

「雄二は俥の上から、のぞきの看板をちらと見た、戰爭の繪で、地雷火が爆發してゐる草原で、一人の兵卒が銃を逆にして、銃の臺で敵兵の頭を撲りつけてゐるところだつた。」この「のぞきの看板をちらと見た、」の読点はママ。なお、この「地雷火」は普通の地雷のことである。

「海酸漿」「うみほほづき(うみほおずき)」と読む。これらを懐かしいものとして想起出来るのは恐らく私の世代がぎりぎりかも知れない。「海鬼灯(うみほおずき)」は広く海産の軟体動物門腹足綱前鰓亜綱中腹足(新腹足)目の巻貝類の卵嚢を指す。平凡社の「世界大百科事典」の記載を参考にしながら示すと、半透明な革質で卵はこの中で孵化して貝類のライフ・サイクルのステージであるベリジャー幼生に成長し離脱する。種によってこの卵嚢の形や大きさは異なり、

・フジツガイ科ボウシュウボラ Charonia sauliae の卵嚢は「トックリホオズキ」(卵嚢の図はポルトガル語のこちらのページの図が「徳利」の形状をよく描いて分かり易い)

・イトマキボラ科Fusinus属ナガニシ Fusinus perplexus のそれは「サカサホオズキ」(米司隆氏の「ナガニシ(ヨナキ)種苗生産の手引き」(PDF版)の冒頭に出る産卵写真と末尾の「ナガニシの生活史」の図を参照)

・テングニシ科テングニシ Hemifusus tuba のそれは「ウミホオズキ」又は「グンバイホオズキ」(「下関海洋科学アカデミー 海響館」の「ウミホウズキ(テングニシの卵嚢)」 taibeach 氏のブログ「今日も渚で日が暮れて」の「海酸漿」を参照)

・アッキガイ科アカニシ Rapana venosa のそれは「ナギナタホオズキ」(私と同じ鎌倉在住の方のブログ「打ち上げ採取日記・ブログ版」にある材木座海岸でのビーチ・コーミングのこの写真はなかなか立派で色もよい)

などと呼称される。図のそれはテングニシHemifusus tuba のそれであろう。……一九七六年の七月……江の島の陸側の鼻の射的場(今もこれはある)の前の土産物屋の前……陽光の降り注ぐ店先に並んでいたのは海酸漿と薙刀酸漿だった……店の女の人が薙刀の方を指さして「これはちょっと鳴らすのが難しいんですけど、こっちはね」と言い、海酸漿の方を取って口に含んで――キュキュ――と鳴らして呉れた……海酸漿を二つ買って僕たちは海辺を歩いたのだった……僕は上手く鳴らせたけれど……彼女はなかなか鳴らなかった……すると「癪だわ」と言って彼女は僕を見て微笑んだのだった……あの海酸漿……僕は何処へやってしまったんだろう……遠い……遠い日の……思い出である…………

「茱萸の實」バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus の実。ウィキの「グミ(植物)」から引く。『常緑または落葉の低木でつる性のものもある。また常緑性種は耐陰性があるが耐寒性は弱く、落葉樹性は強い。葉は互生し、葉や茎には毛が多い。また茎にはとげがある。花は両性または単性、がくは黄色で筒状、先が』四裂し、雄蕊(おしべ)が四本つく。『花弁はない。挿し木、取り木、接ぎ木などで簡単に増やせる』。『虫媒花で』、『前年枝の節から伸びた新梢に開花結実する。開花後、萼筒の基部が果実を包んで肥厚し核果様になる。果実は楕円形で赤く熟し、渋みと酸味、かすかな甘味があって食べられる。形はサクランボに似る。リコピンを多く含むが、種によってはタンニンを含むため、渋みが強いことがある。ときおり虫が入っていることもあるので注意が必要である』。『根にフランキア属』の放線菌が共生し、『窒素固定を行うので、海岸などのやせた土地にも育つ』。『方言名に「グイミ」がある。グイはとげのこと、ミは実のことをさし、これが縮まってグミとなったといわれる。その他に中国地方ではビービー、ブイブイ、ゴブなどとも呼ばれている』。お分かりとは思うが、『グミは大和言葉であり、菓子のグミ(ドイツ語でゴムを意味する“Gummi”から)とは無関係である』。『ユーラシアから東南アジアにかけて』五十から七十種ほどが現生し、Elaeagnus trifloraだけが『オーストラリアにまで分布している』。ギンヨウグミ Elaeagnus commutate は『北アメリカ唯一の固有種で』、本邦にはナツグミ Elaeagnus multiflora・アキグミElaeagnus umbellata・ナワシログミ Elaeagnus pungens・ツルグミ Elaeagnus glabra など『十数種がある。商業的にはあまり利用されないが』、『庭などに栽培される』。但し、『首都圏に自生することはない』とある。

「肉桂」「につき(にっき)」或いは「ニツキ(ニッキ)」「ニツケ(ニッケ)」と読んでいるはずである。恐らくはニッキ飴である。本来は常緑高木クスノキ目クスノキ科ニッケイ属ニッケイ(肉桂) Cinnamomum sieboldii(インドシナ原産であるが、本邦には古く享保年間(一七一六年~一七三六年)に中国から輸入された)の緑黒色の樹皮を乾燥させたものを「桂皮(けいひ)」と称し、生薬や香料として用いる。ここはそれを風味として加えた甘い飴、駄菓子である。

「粕(かす)」アルコール分を飛ばした甘味を帯びた酒糟。

「漾はせ」「ただよはせ(ただよわせ)」。

「賢(え)らしこ」広島弁の「えらい」「えらぁ」は「苦しい」「しんどい」「非常に」という意味で「偉い」「賢い」という意味は持たないとウィキの「広島弁」にあるが、この場合、民喜が「賢」の字を当てていること、「川崎」の「伯父」がこの言葉を笑って言いながら、小学生の大吉雄二の頭を撫でていることからは「賢(かしこ)い子」というよりは「全く以って可愛いらしい子」という謂いが伝わってくる。調べてみると、近県である大分の方言に、「えらしー」があり、「こん子(こ)はだーねーえらしーなー」(この子は非常にかわいらしいなぁ)と、「かわいらしい」の謂いがある。或いはこの「伯父」なる人物は大分出身であるのかも知れぬ。

「嚏」「くさめ」。くしゃみのことであるが、これで訓じたい。

「瞠つた」「みはつた」。

「八百屋お七か不如歸なら面白いけど」この「秋子」というお下げの、彼らよりも年嵩ではあるものの、それでも十五ぐらいであろうが、しかし、これ、言ってのける二つの演目からは、如何にも――ませた――少女である雰囲気がよく出ていると言える(後で「雄二」が「この女」は「もしかすると狐ではないかしらと」猜疑するシーンには私は激しく共感するものである)。言わずもがな乍ら、「不如歸」は「ふじよき(ふじょき)」で、かの徳富蘆花のベスト・セラーとなった結核悲劇家庭小説である(初出は『国民新聞』の連載で明治三一(一八九八)年十一月から翌年五月)が、同作は早くも三年後の明治三四(一九〇一)年二月には大阪朝日座で(並木萍水脚色/秋月桂太郎(川島武男・役)/喜多村緑郎(浪子・役)で初演され、その後も何度も上演された。「ああつらい! つらい! もう――もう婦人(おんな)なんぞに――生まれはしませんよ。――あああ!」という死に際の言葉を出すまでもあるまい。

「鬼灯屋」この「鬼灯」(ほほづき(ほおずき))は本物のナス目ナス科ホオズキ属ホオズキ変種ホオズキ Physalis alkekengi var. franchetii の方である。私の亡き母は、鬼灯を鳴らすのが、上手かった。

「あの辣韮の形した飴」先に出したニッキ飴はしばしば二等辺三角形を成していたように私は記憶している。

「露路」はママ。「ろぢ(ろじ)」で「路地(ろぢ(ろじ))」のつもりであろう。
 
「口遊んだり」「くちずさんだり」。]

 

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