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2016/04/10

ブログ80万アクセス突破記念 梅崎春生「朱色の天」ストイックやぶちゃん後注附き

[やぶちゃん注:本作は昭和四〇(一九六五)年二月号『群像』に発表された作品で、単行本には未収録である。これは「仮象」(昭和三八(一九六三)年十二月号『群像』発表)と遺作「幻化」(昭和四〇(一九六五)年六月号及び八月号『新潮』発表)の間に位置する、梅崎春生の最晩年の一篇である(リンク先は私の横書ブログ・テクスト。縦書PDF「仮象」及び同「幻化」もある。「幻化」の方はマニアックな詳注附き)。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第六巻」に拠った。満州語は分らないので拗音化は印象で行った。誤りがある場合は、御教授願いたい。

 今回は本文電子化で終わりとするが、そのうちに数多の地名その他、注も附したく思っている。ネタバレになるのは厭なので、ごく簡単に、ストイックな、しかし、言わねばならぬと感じたオリジナルな後注を附しておいた。それを読んで戴ければ、私が注を附したくなる気持ちもまた、これ、お分かりになられることであろう。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、私のこのブログ「鬼火~日々の迷走」の80万アクセス突破記念としても公開するものである。【2016年4月10日 藪野直史】]

 

 

   朱色の天

 

 音とともに、光の矢が走ったと思った。音は次々に車体に突き刺さり、座席ががくがくと揺れた。水田は本能的に頭を下げ、ハンドルを切ろうとしたが、前車輪が側溝のくぼみに落ち、車は右に傾いたままがくんと停止した。パンクしたのだ。

 音はやんだ。

 この音を、彼はかつて何度か聞いたことがある。しかしこんなに近く聞いたのは、これが初めてである。ソ連製機関銃の音だ。日本製のと違う、ひどく乾いた音であった。

 ――やられたな。

 水田は落着こうと努力しながら、ハンドルから手を離そうとした。しかしそれは緊張のため、なかなか離れようとしなかった。彼はそろそろと頭を上げた。ハンドルを握った指や掌の接触面が、白っぽく血の気をうしなっているのを見た。車は停止し、機銃音がやんだので、これ以上撃って来るおそれはなかろう。

 反動で、いや、反動以上にふかぶかともたせかけていた野見の上半身を、左肱(ひじ)で邪慳(じゃけん)に、突き上げながら、彼は低い声で言った。

「大丈夫か?」

「ど、どうしてつっ走らねえんだ?」

 野見の額は蒼白であった。眠が血走っていて、声も慄えた。

「さっき整備したばかりじゃねえかよ」

「ばかを言うな。弾丸(たま)はどこから来たと思う。前方からだぞ」

 野見という男を初対面以来、彼はあまり好きでなかった。自然口調が冷淡になる。

「整備したって、その時お前は、何していた?」

 野見は黙って体を傾けたまま、三白眼で前方を見据(す)えた。

 車のエンジンを点検し整備したのは、二粁ほど後方の峠の上である。老爺嶺山頂の東辺通関発会社の調査事務所から、ゆるやかな尾根をいくつか上り下りして、三時間半かかって、この峠にやって来た。道はひどく悪い。ここから道は降(くだ)りになる。八道江までの間、切通しの箇所がいくつかある。それが車にとって一番危険な場所であった切通しの両側からねらわれては、ひとたまりもない。そこの峠での車体の点検整備は、絶対に欠かせないことであった。先輩の運転手からも言われていたし、また事実がそれを訓(おし)える。途中で故障した車は、例外なく襲われたのだ。

 その峠には、巨大なダケカンバの一樹がそびえ立っていた。道の両側の林は、三十米ぐらい切り払われている。材木として活用するためと、敵襲来を見通すためだ。しかしそのダケカンバはあまり立派なので、切り残されたらしい。カササギがその上の方に灰白色の巣をつくっていた。

 ふり返ると、今経て来た老爺の嶺々と、その向うにある帽児山(もるさん)の特徴ある山容が、青い色にくっきりと浮び、日はすでに傾いていた。その彼方、長白山の山なみが幾重にもかさなり、鴨緑江を越えた向うの白頭山は淡墨色にかすんで見える。彼が車を点検している間、野見は風を避けて日だまりに立ち、上衣を脱いでその景観を眺めながら、口笛を吹いていた。両腕には刺青(いれずみ)があった。上衣を脱いだのも、その刺青を彼に見せたかったのかも知れない。訊ねてみたことはないが、齢は二十五、六ぐらいかと思う。

「おい」

 彼は野見に呼びかけた。

「すこし手伝ったらどうだ」

 野見は口笛を吹きやめ、急に険しい表情をつくった。

「おらぁ自動車のことなんぞ知らねえよ。点検は運転手の役目じゃないか」

「だから積荷の縄でもしめ直せ」

 野見は返事をしなかった。のろのろと上衣を着けた。空の高みでカササギの啼声(なきごえ)がした。烏の声を濁らせたような、いやな声だ。からかうような口調で彼は言った。

「手伝う気はないのかね?」

「何でそう用心深くする必要があるんだい。お前(めえ)」

 十何歳も年下のくせに、野見は平気でお前呼ばわりをする。彼は別に腹も立たない。脅えているのは彼でなく、むしろ野見であることを知っていたからだ。いらいらした声で、

「今日は匪状(ひじょう)は良好だそうじゃないか。さっきおれは事務所で聞いたぜ」

 匪状とは敵匪賊(ひぞく)の状況のことである。もっとも向うでもこちらのことを匪賊と呼んでいることを、彼は知っていた。敵匪はガリ刷の新聞を発行していて、事務所で時々手に入る。また便乗した満人農夫が置き忘れたのだろう、積荷の上に残された新聞に、日匪という字を水田は読んだことがある。新聞を持っていたからとて、敵匪であるとは断定出来ない。敵匪は農民にも新聞を配るのである。老爺嶺から八道江へ九十九折(つづらおり)の道の両側は、あるいは密林となりあるいは草原となり、ところどころの平坦地には農家が何軒かあり、畠をつくって高梁(コーリャン)や粟(あわ)や玉蜀黍(とうもろこし)などを栽培している。それらの農民から時々、便乗させて呉れと頼まれる。毛嫌いして絶対に乗せない運転手もいるが、彼は出来るだけ乗せてやる方針をとっていた。恩を着せるつもりではなかったが、次の嶺の麓(ふもと)まで、などと頼まれると、可哀そうになってつい乗せてやる。無愛想にうしろを指し示す。農民は荷台によじ登る。降りる時は合図をするか、いつの間にか飛び降りて、いなくなることもある。積荷に異常がなければ、それでよかった。

 彼は腕を組んで、まっすぐに頭を立てていた。野見はふたたび訊ねた。

「匪状良好ってのは、うそだったのか?」

「じたばたするな」

 彼はつっぱねた。

「今になって、見苦しいぞ」

 やがて切通しの上から、三、四人の男か斜面を降りて来る。綿服を着て、そこらの農夫とほとんど変りない。変るところは片手に銃を持ち、あるいは刀を帯びているだけだ。身軽にさらさらとかけ降りて来て、その一人が刀の鞘(さや)でガラスを強くたたいた。

「降リロ! (下車(シイアチョ)!)」

 満語でそう言った。彼はドアをあけ、自然に振舞おうと努めながら、地面に降り立った。やはり緊張のために足が硬直している。直ぐに殺されるおそれがないとは言えなかった。つづいて野見がふてくされた恰好で、座席から這い出して来た。

「手ヲ上ゲロ(挙手(ジイショウ))」

 水田は素直に手を上げた。

 別の男が素早く両手で、服の上から彼の体を押して行った。ポケットから煙草とマッチと、事務所の技師から托された手紙を押収した。つづいて野見の体を調べ、腹巻の中から白鞘(ざや)の匕首(あいくち)をずるずると引っぱり出した。野見は手をおろしてそれを押えようとしたが、それより前にするどい平手打ちが野見の頰に鳴った。まずいことになったな、彼は横眼で見ながら考えた。背後にいた男が銃の台尻で野見の脚を突いたのだろう。野見はウッとうなり、膝を折るようにしてうずくまった。

「立テ! (起来(チーライ)!)」

 あたりにはたちまち敵の数が殖えたらしい。荷台に乗り込む足音や気配で、それが判る。押収された匕首は十米ほど離れたところで、この一群の首領と覚しい男に手渡されていた。その男だけが長靴を穿(は)いている。口早な満語がそこで取交わされる。手下がかけ戻って来て、二人の背後に廻った。

「歩ケ! (走(ゾォウ!)」

水田は歩き出した。つづいて野見も。

 赤茶けた土の斜面を登る。切り開いて間もないので、草はほとんど生えていない。登り切って十米ほど奥に、茶褐色の大きな岩がある。その前にひざまずかされた。ひざまずき、彼は首を廻して言った。このくらいの満語なら、彼にもこなせる。

「殺スノカ。ココデ(在這児殺麽(ザイチャールシィアマ)?)」

「黙ッテロ」

 男は答えた。

「アチコチ見ルナ。石ヲ見テロ」

 彼は首を元に戻した。落着け、落着けと念じながら、岩の色を見ていた。鉄分を含んでいるなと思う。事実ここらは鉄の埋蔵量が多い。その埋蔵量をしらべるために、老爺嶺に事務所が設けられたのだ。ここでは殺さないらしいな、男の語調から、そう彼は感じる。しかし不安は去らなかった。今までの例を見ると、拉致(らっち)された運転手や事務員の半分は、身代金(みのしろきん)と引替えに戻って来たが、あとの半分は戻っていない。殺されたのか、まだ拉致されているのか、そのへんのところはよく判らない。

 彼は横眼で野見を見た。慄えている。青大将のようにぬめぬめした顔に鳥肌が立っている。それは恐怖からではなく、緊張のせいだと彼は直感した。

「逃げるなよ」

 彼は低い声で言った。

「逃げると殺されるぞ。機関銃で」

 まだ縛られているわけではない。手足は自由に使える。立ち上って走り出そうとすれば走れるのだ。一目散に逃げて林に飛び込めば、百にひとつぐらいは逃げ終せる可能性はあるだろう。しかし、残されたおれはどうなるのか。おそらく容赦はして呉れまい。

 野見ははっきりと顔を彼に向けた。

「おれは強制されたり、命令されたりすることは、生れつきいやなんだ!」

「そうか。それがどうした?」

「どうしたってお前――」

 野見は言葉を止めた。背後から床尾板で背中をこづき上げられたのだ。

 

 その日は初めから、すこしずつ変であった。臨江から老爺嶺に登って来た岩井という運転手が、途中トラックの中で腹痛をおこして、ふらふらになりながら調査事務所の前に降りた。水田は岩井を抱きかかえるようにして、事務所に連れて行った。

「痛い。痛い」

粗末な寝台の上で、岩井は毛虫のように軀(からだ)を丸めていた。毛布をかけてやり、あとは衛生下士官上りの事務員にまかせ、彼は外へ出た。天気はよく、九月の太陽が真上にあった。石と土でつくったトーチカの上に、望楼が立っている。彼はそれに登った。周という顔見知りの満兵が、望遠鏡を胸にぶら下げて、看視の任に当っていた。

「匪襲かね?」

 周は表門のトラックを指しながら、割にはっきりした日本語で聞いた。

「いや。病気だよ」

 彼は答えた。

「八道江行きはおれの役目になるらしいが、匪状はどうだい?」

「一週間、変化ないね」

 彼は望楼から四方を見おろしていた。事務所は鉄条網に囲まれている。匪襲にそなえて、夜は電流を通すのだ。危険な時は昼間も。――ここは二十人足らずの技師や事務員などが、常時寝泊りしていて、地質調査の根拠地になっている。その東、すこし低くなったところに営舎があり、満軍が百人ほど駐屯している。ここら一帯の治安に当っているが、まさかの時には当てにならぬだろうと、事務員は噂し合っている。反乱を起すという意味ではなく、無気力なのである。若いのはほとんどいない。今望楼にいる周にしても、齢は四十近くで、背は高いが猫背で、胡瓜(きゅうり)のような長い顔に眼鏡をかけている。胸もぺしゃんこで、いかにもたよりない感じだ。銃をかつがせても似合わない。彼は言った。

「じゃ大丈夫だな」

「まずは大丈夫だ」

 そして周は八道江の方角を指し、にやりと笑って、たちの悪い冗談を言った。

「もしつかまったら、楊(ヤン)庭宇によろしくね」

 楊庭宇というのは、当時(昭和十四年頃)のこの地帯の抗日救国義勇軍の統率者である。彼はそれに答えず、ぼんやりとあたりを見おろしていた。鉄条網の外側の木々はすっかり切られ、切株だけが残っている。もちろんこれも匪襲にそなえて、見通しをよくするためだ。今までのところ小さな敵襲はあったが、満軍の手を借りてすべて撃退した。しかしもっと大規模な襲撃があったら、満軍兵士たちは寝返りを打たないと保証は出来ない。当てにならぬとは、その意味も含まれている。それに楊庭宇のスパイがもぐり込んでいる疑いもあった。周がそれである可能性もある。もしそうだとすると、その冗談はたちが悪いというより、酷薄過ぎる揶揄(やゆ)であった。

「鉢巻峠までは、まあ大丈夫だな」

やがて彼は白い歯を見せて笑い返した。ダケカンバのある峠のことで、運転手が鉢巻をしめ直すところから、そういう名がついていた。

「あとは天運に任せるさ」

 彼は言い捨てて望楼を降り、所長室にまっすぐ歩いた。所長は椅子に腰をおろし、何か書類を作っていた。

「運転は私がやります」

「よろしく頼むよ」

 所長は頭を上げずに答えた。彼は所長室を出て事務所に行き、打ち合わせを済ませて外に出た。トラックの点検を済ませ、鉄かぶとをかぶった。空は抜けるように青く、それがかえって彼に不安を感じさせた。

 門には銃を持った歩哨が立っている。彼は運転台にのぼり、歩哨に手を振りながら、アクセルを踏んだ。トラックはぐらりと揺れて動き出した。

 ちょっとした異変が起きたのは、それから間もなくである。事務所から二百米ほど進んだ時、彼は前方に人の姿を見た。道の真中にこちらに背を向けて立っている。ここらに農民はいない。道端に待つというのなら判るが、そうでないのが不審だ。わざとトラックの進行を、背中で阻止している。

「へんなやつだな」

 彼はクラクションを鳴らし、徐行に切り替えた。その瞬間その男はくるりとこちらを向き、小走りで近づき、身軽に荷台に取りついた。彼は車をとめ、扉をあけ、怒鳴った。

「何の用だ!」

 まさかこんなところに匪賊があらわれるわけがない。匪賊でなければ、道端で手を振ったらいいだろう。ここはまだ望楼から見える場所なのだ。男は荷台から飛び降り、背を丸めて助手席に辷(すべ)り込んだ。

「便乗させろ」

 水田はその男の顔を見た。一箇月ばかり前に、事務所へ来た男である。野見と言った。事務の見習いに雇われたのだろう。青白い顔をして、静脈が浮き出ている。人を寄せつけないような警戒的な眼付きをするから、彼は話しかけたことはない。向うから話しかけもしない。よくある流れ者のタイプだ。彼はハンドルに手をかけながら言った。

「便乗って、どこまで行くんだね?」

「早く発車させろ」

 野見はじれたような声を出した。そして服の中から何か取り出し、それを彼に擬した。見ると匕首(あいくち)である。彼の横腹のあたりで、それはつめたく光った。

「早く出せ!」

 別段恐怖はなかった。ままごとをしているような、おかしさがあった。彼は笑みを含んで、黙ってアクセルを踏んだ。

「どこまで乗って行くつもりだね?」

「通化までだ」

「通化?」

「お前(めえ)、八道江を通って、通化に行くんだろ」

「そりゃ判らんさ」

 彼は答えた。

「八道江泊りになるかも知れないし、運転手交替ということもあるよ。ところでその匕首、しまったらどうだい?」

「とにかく通化に行くんだ」

 野見は匕首を白鞘におさめ、腹巻にしまいながら、投げやりな口調で言った。

「もう老爺嶺の仕事は、あきあきした」

「所長と喧嘩(けんか)でもしたのかね?」

「ああ、しょっちゅうだ」

 野見はタバコを取り出して、うまそうに煙をはき出した。便乗に成功したことで、まず気をよくしているらしい。

「こんなとこ、女もいなけりゃ、酒もろくに飲めやしない。うんざりするよ」

「それで通化に行きたいのか。じゃ所長に辞表を出して、ちゃんと手続きを済ませて、行けばいいじゃないか。黙って行きゃ、脱走と見なされるぞ」

「脱走? ああ、結構」

 野見はきしるような声で笑い出した。

「辞表なんか、いちいち書けるかい。脱走あつかいで結構だ」

「そうかね。強がりじゃないのかね」

「何が強がりだ?」

 彼は返事をしないで、ハンドルを切った。道は右折し左折し、えんえんと続く。両側に起伏する山々の木は、すでに紅葉が始まっている。ここら一帯は、鴨緑江畔の臨江よりも、季節が一箇月ほど早いのである。四粁ほど走って、彼は訊ねた。

「いつ満洲に来たのかね?」

「今年の春だ」

 野見は素直に答えた。

「五月だったかな」

「内地を食い詰めたのかね?」

「食い詰めた? おい。へんなことを言うじゃないか」

 野見は突然凶暴な眼付きになって、彼の肩を強くつかんだ。

「ぐずぐず言うと、のしてやるぞ!」

「そうか。おれをのすと言うのか」

 彼は野見の手を肩からはらいのけた。

「おれをのして、どうするんだ。君はトラックの運転が出来るのか」

 野見は沈黙した。

「おれがいなきゃ、この物資をどうやって八道江に運ぶんだね。東辺道には匪賊がうようよ待ち伏せてんだ」

 彼は落着いた声で言った。おどすつもりではない。野見の青っぽい亢奮(こうふん)や思い上りを、ここらで一応押えて置く必要がある。そう思ったからだ。

「おれの言い方が不愉快なら、降りてもいいんだぞ。遠慮することはない。事務所まで歩いて帰れ」

「弱みにつけこみやがる」

 野見はいまいましそうに舌打ちをした。

「判ったよ。つべこべ言わないで、スピードを出せ」

 それから約一時間、彼は運転に専念し、野見は腕組みして何か考えたり、タバコの煙をふき散らしたりしていた。彼はトラックをとめた。野見はぎくっとしたように、体を動かした。

「故障したのか?」

「水を飲むんだ」

 この山脈に湧く水はほとんど鉄分を含んでいるが、ここだけは清水が湧く。水源は落葉松(からまつ)の林の中にあり、それが流れて岩の肌をとり、道にそそぐ。湧出は少量なので、道をうるおすには足りない。側溝を流れ、すぐに地にしみこむ。彼は岩に足をかけ、両掌に受けて飲んだ。水はつめたかった。三杯ほど飲み終えた時、掌は白っぽくかじかんだ。彼は鉄帽をぬぎ、腰をおろして煙草に火をつけた。野見に言った。

「君も飲めよ」

 調査事務所を離れれば離れるだけ、野見は孤立して行く。今トラックがだめになり、または便乗を拒否されると、途方に暮れるのは野見なのである。もし彼がいないと、野見はどこにも行くところがないし、行くすべもない。その思いが彼を心理的な優位に立たせていた。掌に水を受けて飲む野見の姿を、みじめな犬のようだと思いながら、眼で煙の色をたのしんだ。

「さっき君は答えなかったが、どんないきさつでここに来たんだ?」

「伯父がおれを呼んだのだ。あいつは満鉄でも大物(おおもの)なんだぜ。今からの青年は大陸発展のために――」

「大陸発展?」

 水田は鼻で笑った。

「それを本気で信じて来たのかい?」

「どういう意味だい、それは?」

「つまり君は伯父の世話で、東辺道開発に入社したんだろう。ここに何の発展があると思うかね。匪賊におびえて、それに事務と来たら、下らない報告を書くだけでさ」

「だから逃げ出して来たんじゃねえかよ」

 野見は掌を陽光にかざして、冷えを取戻そうとしていた。

「じゃ、お前はどうなんだ。車を動かして、行ったり来たりしているだけじゃないか。お前、女房子供はいないのか?」

「いるよ」

「どこに?」

「それは君と関係ない」

 野見はふいに立ち上り、道の幅を確めるように、三、四度往復した。いらだたしげに言った。

「おい。まだ出かけないのか」

 彼は鉄帽をかぶり、ゆっくりと運転席に登った。傍に野見が腰かける。

「伯父が満鉄の大物だなんて、あまり言わない方がいいよ。忠告しとく」

 アクセルを踏んだ。

「その方が結局得(とく)だ」

 彼は匪襲のことを考えていた。まだ襲われたことはない。その場合、どんな態度を取るべきか。

 最初会社は物資のトラック輸送に、傭兵(ようへい)を二人か三人つけていた。匪賊が出れば傭兵が荷台の上から応戦し、敵がひるむすきに高スピードで逃げ出す。それで成功することもあったが、失敗も多かった。向うが優勢の時、あるいは車体がやられた時など、傭兵はもちろん殺され、運転手も同じ運命をたどる。だから傭兵も同乗をいやがったし、運転手も同乗を歓迎しなくなった。ひとりで運転し、もし敵にとらえられたら、身代金(みのしろきん)で釈放してもらう。その方が生還の可能性が多かった。たかが運転手なので、敵もそれほど莫大な身代金を要求しない。思わずひとりごとが出る。

「じたばたしないで、流れに任せるんだ。さからっちゃいけない」

「なに?」

 野見が聞きとがめる。

「何をぶつぶつ言ってんだ」

「いや。こっちのことだ」

 そんな気構えは出来ているけれども、実際となると、どうなるか判らない。それに今日は野見という同行者がいる。さっき助手席にむりに乗り込んで来た時、やはり流れに任せる気で安易に乗せてやったが、これがプラスになるかマイナスになるのか。彼はしだいに野見を乗せたことを、負担に感じ始めていた。あの時きっぱりと断ればよかったのだ。もし匪襲を受けた場合じたばたすると、こちらにも厄が及んで来るかも知れない。

 あと十分も経てば、鉢巻峠につく。野見はむしろ浮き浮きしている。事務所を離れれば離れるほど、緑が切れて自由になったと感じるのか。やがて前方に巨大なダケカンバの梢が見えて来た。水田は言った。

「君の伯父さんてえのは、君を持て余して、東辺道に追いやったんじゃないのかね」

 

 石の前にひざまずいて、十分ぐらい経った。トラックの荷をおろす音、叫び合う声などが聞える。別の足音が背後に近づいて来る。彼等の靴裏はやわらかいので、よほど注意していなければ判らない。手真似(まね)で何か打ち合わせしているらしい。いきなり鉄帽をはぎ取られた。

「手ヲウシロニ廻セ」

 麻縄のようなもので、うしろ手にくくられた。かんたんなくくり方で、無抵抗にさせるというより、形式的にむすんだという感じだ。野見は満語を知らないので、手を廻すことですこしあらがったが、結局押えつけられるようにしてくくられた。

「立テ」

「下ヲ向イテ歩ケ」

 匪の一人が先行し、それにつづいて水田は歩を踏み出した。そして考えた。

 ――まあ今までのところは、そつなく行ったようだな。

 岩を眺めている間に、落着きが彼に戻っていた。来るべきものが来たんだ。そう彼は思う。思おうとする。鉢巻峠を出発する際、今日は出そうだなという予感があった。しかし考えると、それは今日だけでない。あそこを降(くだ)る時、いつもそんな不吉の予感があったのだ。うつむいて歩きながら、水田は苦笑いをした。予感が当ったと言って、威張るほどのことじゃない。

 林を避けて草原を歩く。すすき野である。草が花をつけている。キスゲ、リンドウ、野生のケシ、その他名の知れない花々が、彼の靴に踏みしだかれる。やがてこの花々も末枯れてしまうだろう。並んで歩く野見が沈んだ声で話しかける。

「おれたち、どこに連れて行かれるんだろう?」

 背後の足音は三米か四米離れている。音は聞えないが、気配で判る。

「おれも知らないよ」

 水田はささやき返す。

「おそらく彼等の根拠地だろう」

 彼等は山間(あ)いのあちこちに根拠地を持っているらしい。道路から案外近いところにあるようだが、捕虜に道筋を知らせないために右往左往させる。つまり一里の道なら、二里ぐらい歩かされるわけだ。捕えられて帰って来たある運転手の言葉では、たしかに同じ場所を二度歩かされたという。うつむかせて歩くのも、同じ理由からだ。あたりの山や林の配置を覚えられては困るのだ。頭を上げて、いきなり銃で殴られた運転手もいる。三針も縫うような傷を受けた。

「頭を上げるなよ」

 彼はしずかに野見に注意をした。

「上げるとうしろから撃たれるぞ」

 野見はうなずく。

 捕えられて以来、野見はひどく意気消沈し、従順になったように見える。まだ齢は若いし、東辺道での経験も浅いから、不安に押しひしがれるのも無理はない。内地での、あるいは新京あたりでの向う意気は、ここでは通用しないのだ。〈皇威あまねき〉あたりと違って、ここは敵だらけなのである。点はかろうじて確保しているが、線はこのように不安定で、たびたび襲われる。いや、点もあぶない。匪襲を受け、全滅した支所もある。それで時々掃蕩作戦をやるが、あまり効果が上らない。山の稜線から敵が射撃して来る。こちらは突撃して行く。そしてやっとその稜線を占領する。そこには死骸だけしか残っていない。何百という敵兵はもうどこに行ったか判らない。忽然(こつぜん)と消えてなくなるのである。

 時には敵の山寨(さんさい)を急襲して、匪を殺したり捕虜にすることもある。それには隠密な作戦を必要とした。ということは、こちらの密偵が向うに入り込んでいることになる。また向うの密偵も、こちらに入り込んでいる。農民として、または兵士として満軍に忍び入っている。それは確かであったが、その摘発は困難を極めた。間違って普通の農民や兵士をとらえて処刑すると、全農民や全兵士がこちらに背を向けてしまうおそれがある。それは作戦上でも、鉱物調査の仕事でも、まずいことになる。

 湿地帯に入った。どこかで水が流れる音がする。小鳥の声かと最初思ったが、いつまでも単調に響くので、せせらぎだと判る。土が湿りを帯びて、靴の裏に貼りつくようだ。妙に心細くなって来る。

 ――まだ襲撃されたことは、調査事務所に知られてないな。

 予定の時間に八道江に着かないと、無電で事務所に問い合わせが来る。それで襲撃は確認される。確認しても、兵を出して呉れるわけでない。何月何日トラック一、襲撃サル。と帳簿に書き込まれるだけだ。

 ――うまい時に腹痛を起しやがったな、あいつは。

 彼は岩井運転手のことを考えていた。八道江行きは岩井の任務である。だからつかまるのは、岩井の筈であった。交替したばかりに、彼がとらえられた。何も岩井を恨む筋合いはないが、ちょっと納得(なっとく)出来かねる気持がある。野見が濡れた岩に足をかけ、すべって片膝をつき、体ごところがった。

「立テ」

 うしろからするどい声が飛んだ。野見は痛そうに、不自由な起き上り方をした。うしろ手にくくられているので、どうしても起き上り方がぎくしゃくとなるのだ。彼は無関心をよそおって、野見が起き上るまで、立ち止っていた。

「痛えなあ」

 その声音に、同情を引こうという気持がこめられている。水田の同情でなく、もちろん先行者と背後の男の同情だ。その甘っちょろさに彼はちょっと危倶を感じた。まだ哀訴とか嘆願がきくと思っているのか。

 水田はすでに縄をかけられた瞬間に、すべての自由が自分から奪われたことを感じていた。きりきりと縛られたわけではない。ゆるく結ばれただけのことだ。引き抜こうと思えば、直ぐにも出来そうだ。しかし、ゆるいとかきついとかは問題ではない。甘んじて縄をかけられたのは、自由を放棄したことになり、逆に向うからは生殺与奪を宣言したことになる。あとは非情な取引きが残るだけで、ころんで怪我をしようとしまいと問題ではないのである。

 ――バカだな、この男。

 と水田は思う。思うけれども、口に出しては言えない。わざとらしくびっこを引きながら歩く野見を横眼に見ながら、彼はしだいにやり切れない気持になっていた。

 ――一体こいつは何を考えているのか。

 水田は自分の運命だけでなく、野見の運命も考えてやらねばならない。野見の運命は、直接彼のそれにつながって来るからだ。その心理的な重みが、水田にはやり切れない。……

 

 ずいぶん歩かせられた。歩くのはあまり慣れていないので、膝ががくがくし、靴がすれて踵(かかと)のへんが痛くなった頃、やっと停止の命令がかかった。あたりは蒼然と昏れかかっている。峡谷のような場所で、林に囲まれたところに、粗末な建物が立っている。飯場か炭焼小屋みたいな感じがする。

 彼は頭を上げた。

 うつむいて歩きながら、地形や道筋を記憶しようと努めたが、途中で昏迷して方角すら判然としない。ただ確実なのは、眼の前に見えるすすけた小屋だけであった。

 彼等を残して、先行者は大股で小屋の中に入って行った。水田はゆっくりとあたりを見廻した。

 切株がいくつもある。切り口は古びている。その木はおそらくこの小屋をつくるために使われたのだろう。焚火した跡もある。そこから向うに穴がある。四つある。一米おきに四つの穴が並んでいる。穴をつくるために掘り出された黒い土が、それぞれの穴のそばにうずたかく積まれている。その量からして、穴はかなり深いことが判る。

 ――ごみ捨て場かな。

 それにしては四つも掘ることはない。彼はいぶかりながら視線を動かした。その穴の延長に、黒土が三つふくらんでいる。その部分だけ草が生えていない。掘った穴を埋めたことが一目で判る。彼はぎょっとした。その三つの黒土の上に、それぞれ棒が立てられていたのである。ごみ捨て場に棒を立てる必要はないだろう。棒の片側がそろって平たく削られている。それはまぎれもなく、墓標であった。

 ――すると残る四つの穴は、誰かを埋める予備のものだ!

 今まで漠然と考えていた死が、なまなましい実感として彼に来た。彼は思わずうめいた。捕虜を殺して、その度に穴を掘るのは面倒だから、暇の時に掘って置いたに違いない。これを振った男は、ここに埋める特定の人間を想定せずに、鼻歌まじりに、ただ穴を掘るために掘ったのだろう。しかし埋められるかも知れない身にとって、その土の黒さは残酷過ぎた。

「おい。野見」

 彼は押し殺した声を出した。

「あれを見ろ」

 野見は彼の顔を見、そして眼をそちらに向けた。視線をうろうろさせた。

「あれって、何です?」

 その時さっきの先行者が、小屋の入口に姿をあらわした。

「コチラニ連レテコイ」

「歩ケ」

 十米ほどうしろから、返答のかわりに懸声がかかった。水田は穴を横眼で見ながら、小屋の方に歩いた。

 小屋の中にはランプがともり、手製らしいテーブルが隅に置かれていた。その前に長鬚の肥った男が、椅子のかわりに自動車のタイヤを積み重ねて、腰をおろしていた。うしろから縄を解かれた。

「こつちにおいで」

 鬚男が日本語で割にやさしく言った。

 水田は両掌で顔をごしごしこすった。それまで途中であちこちが痒(かゆ)いような気がしていたが、縄を外(はず)された瞬間、それは皆とまってしまった。野見はさっき転んだ時の膝を、確めるように押えた。

「お前が運転手たね。名前は何と言うか?」

 水田は姓名を正直に言った。

「所属は東辺道開発か。そちらは?」

 野見は低い声で名乗った。水田はそれに補足した。

「こいつも東辺道開発の見習いです。まだ一月も経たないチンピラで――」

「チンピラじゃない」

 野見は水田に眼をいからせて、険しい声を出した。

「子供あつかいにすると、承知しねえぞ」

 鬚男は、眼を細めて、ふふっと笑った。

「お前はチンピラでないか。それで東辺道開発――」

「あそこはもうやめた」

「やめた? どうして?」

 笑いをおさめて、鬚男の眼がきらりと光った。水田はあわてて口をはさんだ。

「やめたんじゃない。野見。お前はまだ辞表を出してないじゃないか」

「お前は黙れ。口をきくな」

 鬚男はきめつけた。卓上の紙に何か書きつけ、野見を見据えた。

「するとお前を保証するのは誰たね」

「満鉄の総務部に伯父がいます」

 まずいことを言いやがる、と水田は心の中でじだんだを踏んだ。しかしもう口には出せない。途中でよく言い聞かせるべきであった。鬚男の朝鮮訛りの日本語の質問に、野見は伯父のことをしゃべっている。鬚男はさらさら書き終え、最後に聞いた。

「短刀を持っていたのは、お前か?」

 すこし顔色を変え、野見はうなずいた。

「お前、軍籍はあるか?」

 野見は首を振った。鬚男は質問をやめ、しばらく野見の顔から胸のあたりを見廻していた。そして満語で言った。

「コイツラヲ入レトケ」

 先行者が野見の腕をつかんで、引っぱった。この部屋の仕切りの向うに、もう一つ部屋がある。地面まで届く縄のれんがあり、それが通路になっている。のれんを分けて、先行者は野見の体をいきなりはたき込んだ。水田はつづいて自発的にそこに足を踏み入れた。

 暗い。仕切板のすき間から、光はちらちら入って来るが、眠が慣れないので、暗闇と同じだ。がさがさするものを踏んで二、三歩入った時、彼はやわらかいものに蹴つまずいた。野見の軀(からだ)である。

「痛えよ!」

 足のところから野見の声がした。ころんだ野見の顔を蹴ったらしい。痛えどころの話か、と彼は返事もせず、両手で床を探った。がさごそするのは、高梁(コーリャン)の茎や細い木の枝らしい。その上にアンペラが敷いてある。この小屋にはオンドルの設備がない。仮小屋で、寒くなるとどこかに引揚げるのだろう。彼は手探りで木の壁を確め、それを背にして腰をおろした。

 のれんの向うから、声がした。

「逃げるなよ。逃げようとしたものは、即座に銃殺だ」

 すこし間を置いて、

「逃げ出しても、夜だ。狼がたくさんいる。虎も時々いる。生きては帰れないぞ!」

 深い疲労がどっと彼に来た。体の節々が痛い。板壁に背をすりつけながら彼は、ああ、とうなった。生理的ななまぬるい涙が、彼の眼から頰にすべり落ちた。隣室に足音がどやどやと入って来る。

 

 しばらくして眼が慣れて来た。

 この部屋というか留置場というか、十畳ぐらいの広さで、板壁に囲まれている。地面の直接の冷えを避けて、アンペラなどが敷いてある。板壁はかなり厚いが、すき間だらけで、つめたい外気が吹き抜ける。九月と言っても、山中の夜気はつめたいのだ。

 彼のそばに野見がうずくまっている。反対側の壁に、先住者が二人いる。服装からして満人らしい。綿服を着ている。水田たちが入れられて来ても、一語も話しかけて来ない。

 隣の部屋にはさっきの襲撃隊員が戻って来たらしく、騒騒しい。干魚か干肉か、そんなものを地炉(じろ)で焼いているようだ。においがすき間から流れて来る。地炉を囲んで車座になり、酒を飲んでいる。その酒はさっきトラックから徴発したものだろう。積荷の中に清酒の一斗樽が三つあった、それを彼は知っている。別に口惜しくもない。飲食の欲はまだ彼にはなかった。

 ――捕虜は四人か。

 四つの穴の形が突然彼によみがえって来る。ここで殺される。ぐにゃりとした屍体となり、あの穴に投げ入れられる。黒い土がかぶせられる。墓標がわりの棒きれの下で、体はじわじわと腐って行く。腐った肉に服の布が貼りつき、白い骨が露出して、掘り返しても、もうどこの誰かは判らない。彼は妄想をはらいのけるために、強く首を振り、思わず呟(つぶや)いた。

「ふん。ばかばかしい」

「何がばかばかしいんだ?」

 うずくまっていた野見が、舌たるく聞き返した。

「おれたちは一体どうなるんですか?」

 野見の言葉はすこしずつ丁寧になる。それがなお彼の腹立ちをそそった。

「おれたち、おれたちと、気やすく言うな」

 さっきまで縄のれんの傍に立っていた番兵も、外が暗くなったから安心したのだろう、酒宴に加わった様子だ。向うが騒がしいので、会話を交わしても気付かれるおそれはない。

「お前はおれが言う通り、チンピラで押せばよかったんだ」

「なぜ?」

「身代金のことだ」

 彼ははき出すように言った。

「おれの名はすぐに東辺道開発に通知され、若干の身代金が要求される。会社はその金を出して呉れるだろう。そしておれは職場に戻れる。ところがお前は――」

 彼は唇を舌で湿した。

「満鉄の伯父の名を出した。車の中でおれが注意しただろう。伯父の名をひけらかすなってね」

 野見はごくりと咽喉(のど)を鳴らした。

「お前の名前は満鉄に通告される。時間もかかるし、身代金も多いだろう。相手が満鉄の大物と来ちゃあね。それにお前は匕首(あいくち)を持っていた。軍籍のことをあの鬚爺さんが訊ねたが、何故だか判っているのか?」

 野見の呼吸が荒くなって来るのが判る。

「なぜですか?」

「お前を密偵じゃないかと疑っているんだ。おれもお前のことはよく知らない。まさかお前はスパイじゃないだろうな」

「スパイ?」

 野見はぎょっとした声を立てた。水田はたしなめた。

「このおれがスパイだなんて、そんなむちゃな」

「しかし向うでそう判定したら、それっきりだぞ」

 隣の部屋のざわめきは、ますます高くなる。チャッチャッチャというような短い満語が取り交わされ、笑い声がおこる。今日の戦果を祝っているのだろう。焚火の弾ける音、ものの焼けるにおい、それらが板のすき聞から流れ入って来る。野見はジャンパーの襟を立てながら、ひとりごとのように呟いた。

「スパイだとすると、どうなるんだろう?」

「お前がもし敵のスパイをつかまえたら、どうするね? 黙って放免するか?」

 言い方がひどく残酷に傾くのを感じながら、彼は言った。いったん口に出すと、とどまりようがなかった。

「さっきこの小屋の前で、おれが注意しただろう。お前は何を見た?」

 野見はしばらく黙っていた。

「林があったよ。走ってあれにもぐり込めば、逃げられるかも知れない」

「林じゃない。地面にだ」

「地面に?」

 野見は首をかたむけた。

「地面に何かあったかな。何だろう。おれは見なかった。林ばかり見ていた」

「バカだな。お前」

「バカ呼ばわりはやめて呉れ」

 野見は憤然とした声を出した。

「おれはあんたのために、何度も逃げるチャンスを失ったんだ。それをバカとは――」

「ふん。いつそのチャンスがあった?」

「トラックが停った時さ。それから石の前に坐らされた時もだ」

 野見はあえいだ。

「それからあの水の出るところさ。おれはあの時走り出そうとして、すべってしまった」

「あの時逃げるつもりだったのか?」

「そうさ。そろそろ暗くなっていたし、水の音がするから、足音もまぎれる。あの水は林の中を流れていたんだぜ」

「うしろの二人がただで置くもんか。二人とも銃を持っていた」

「二人じゃない。一人だ」

「一人?」

「うん。も一人は途中でいなくなった。それに残る一人は、銃を革帯で肩から吊していたんだ。すぐ射撃にうつれる恰好(かっこう)じゃなかった」

「どうしてそれが判った?」

「そりゃ判るさ。何となくね。あんた、気が付かなかったのかい?」

 彼は黙った。おれがこちこちに緊張していた時に、こいつは抜け目なく何もかも見ていたんだな。こいつは若いし身軽だから、逃亡に成功したかも知れない。その思いはある程度の衝撃を水田に与えた。しかし彼はそれに反撥した。

「つかまって、じたばたしたって、もう遅いんだ。大口をたたくのはよせ!」

 その時隣室に乱れた足音が入って来た。壁板を洩(も)れる光が大きくゆらぎ、いきなり縄のれんが乱暴に開かれ、あたりはぱっと明るくなった。そしてどさりと人間が、物体のように蹴り込まれた。蹴り込んだのは大きな男で、松明(たいまつ)をかざしていた。松明の光に眼がくらんで、彼は一瞬眼を伏せる。転がった男の姿を見た。

 男は左手を床について、

「う、うっ」

 と体を起そうとした。ぼろぼろの服とシャツが破れ、青白い右肩が露出している。太い針金がその薄い肩肉を突き抜け、肩胛骨(けんこうこつ)の下を通っている。その両端は肩の上で結び合わされ、ペンチでぎゅっとねじ上げられていた。突き刺された箇所には、血がかたまってかさぶたとなり、皮膚にこびりついている。

 ――これはひどい。

 水田は唇を嚙んで、松明の持ち手を見上げようとした。その直前にしゃがれた声が落ちて来た。

「とうとう、あんたも、つかまったのか」

「李!」

 彼は思わず叫んだ。

「李じゃないのか!」

 松明の光を下から受け、顎や鼻や眼が黒く隈(くま)取られている。しかし潰れた片眼や全体の輪廓は、まぎれもなく農夫李の顔であった。顔はゆっくりとうなずき、松明を自分に近づけながら、無気味な笑いを頰にきざんだ。

「そうだ。李だよ」

 李は松明を伸ばして、ぐるりと部屋の中を見廻した。満服の男二人は眠っているのか、顔を膝にうずめたまま動かない。野見は片足を立て、放心したように宙をにらんでいる。針金の男はうめきながら、やっと上半身を起した。李は野見の方を顎(あご)でしゃくった。

「その若いのは何だ?」

「開発会社の見習いだ」

 ふんという感じで、李はまた笑った。

 李がこの山寨(さんさい)に入って来てから、隣室のざわめきはぴたととまっていた。李はのれんをはねてうしろ向きになり、しゃがれ声で言った。

「皆飲メ。ソシテ歌エ」

 松明が引っ込むと同時に、ふたたび宴が始まり、留置の部屋は暗さの中に取り残された。野見は立ち上り、針金男の背に廻り、抱き起した。板壁まで引きずるようにして運んだ。背をもたせかけ、男はあえいだ。

「ありがとう。水はないのか。水は?」

「水はないのか?」

 野見は水田の顔を見て言った。水田は黙って首を振った。

「あんたはさっきの男と知合いらしいじゃないか。あれは誰だい?」

「李という農民だ」

「農民がなぜ匪賊の中にいるんだ?」

 水田は黙っていた。答えようがなかった。

「あいつは大物らしいぜ」

「どうしてそれが判る?」

「あいつがこの小屋に入って来た時、隣の騒ぎが急にとまったじゃないか。手先ぐらいなら、しんとなりやしない。水田さん。そうじゃないのかね」

「お前、皮肉を言ってるのか?」

 しばらく奥歯をかみしめて、水田は言い返した。

 

 李は六十前後の肥った農夫で、笑うと欠けた歯が見え、好々爺(こうこうや)という感じがする。彼はこの李をしばしばトラックに便乗させてやった。年寄りだからつらかろうと、荷台の方でなく、助手席に乗せてやったこともある。水田がそうさせたのは、李が日本語をしゃべれるからであり、またこの土地の歴史や習慣にくわしいからであった。李は助手席から、あちらの嶺やこちらの嶺を指差し、そこに棲む獣や鳥や、生えている植物のことなどを話した。虎がいるかいないかという水田の質問に、

「たくさん、いるよ。長白にも老嶺(ろうれい)(老爺嶺のこと)にもね」

 李の話によると、臨江から長白山にすこし入ったところに、虎狩りだけで生計を立てている部落があるとのことだ。虎狩りの方法や虎の皮の剝ぎ方、その値段などを李はくわしく話した。李は実によく何でも知っている。ここらについては生字引のようであった。

「眼はどうしたんだね。その左の眼は?」

「子供の時に木の枝にひっかかってね、それで潰れてしまったよ」

 李はトラックに便乗する。八道江から二粁ほど手前の部落の近くで降りる。だから彼は李を、てっきりその部落の住民だと思っていた。李が彼のトラックに便乗するのは、二箇月にいっぺんぐらいで、ずいぶん遠出をするんだなと訊ねたら、もっぱら間道を通るからそれほど遠出というもんじゃないと、李は答えたことがある。子供の時からここに住んでいるので、間道にも詳しいのだろうと、そう彼は解釈していた。

 ――おれもうっかりしていたな。

 農民がそんなにあちこち歩き廻る筈がない。おそらく敵状視察かスパイとの連絡か、そんな用事で飛び廻っていたのだろう。左眼の潰れも怪しいもんだ。木の枝ではなく、闘いいの傷なのだろう。東辺道の農民は栄養不足で、たいてい瘦せているものだが、李は堂々たる体軀を持っている。皮膚もまだ艶々している。野見の言う通り、匪の大物かも知れない。それまで考えた時に、縄のれんからどさりと水筒が投げ入れられた。つづいてピストルを腰間(ようかん)に帯びた若者が小さな籠を持って入って来た。彼等の前に置く。

「食ベロ」

 そして出て行く。

 水筒は緑の帯のついた日本軍のものであった。野見は飛びついて、栓を抜いた。まず自分が飲もうとせず、針金の男の口に持って行った。男はむさぼるように、咽喉(のど)を鳴らして飲んだ。

「ありがとう。ありがとう」

 籠の中には大餅子(ダァビンズ)が数箇入っていた。野見は水田を見上げて、にやりと笑った。

「李給与だね。食べてもいいかい」

「食べたきゃ食べな」

 彼も一箇つまみ上げて嚙んだ。玉蜀黍(とうもろこし)の味が口にひろがる。

「おっさん。食べなよ」

 野見は男の手にそれを握らせた。満服の二人の方に顎をしゃくって、

「あいつらにやらなくてもいいのかな。でも、おれたちが入る前にいたんだから、夕飯はすんだ筈だ」

 二人とも壁によりかかって、眠っている様子だ。しばらく咀嚼(そしゃく)と水を飲む音がつづいた。隣室の宴にくらべれば、たいへん惨(みじ)めな思いがする。水田は一箇でやめ、残り少い水を一口含んで、男に廻した。受取りながら男は頭を下げた。

「ありがとう。あなたはいつつかまったんだね」

「今日の夕方だよ。トラックに乗ってるところを襲撃されてね。お手上げさ。あんたは?」

「わたしはもう一箇月も前だ。四、五日おきにあっちの山寨(さんさい)、こつちの山寨に引き廻されましてね」

 溜息をついた。

「わたしは大森というもんだが、もう生きては帰れないと思う。もしあなたが助かったら、東京の世田谷に家族がある。そこに連絡して呉れませんか」

 住所の番地を二度三度、大森は繰り返した。彼は小さな声で復唱した。

「なぜ生きて帰れないんだね?」

 彼は言った。薄暗がりの中で、うつむいた大森の首筋が、少年のように細いのを彼は見た。齢はおそらく彼と同じくらいだと思う。頰もこけて、ひどく憔悴(しょうすい)している。

「肩はどうしたんだね?」

「つかまった時、すこしあばれたもんでね。気絶して眼が覚めると、肩に針金を通されていた。その針金の尖端が、柱にとめられていましたよ。それ以後、わたしは抵抗するのをやめにした」

「やめにしたって、その恰好(かっこう)じゃ抵抗出来ないだろ」

 野見が横から口を出した。

「どんなあばれ方をしたんだい?」

「一箇月――」

 水田は訊ねた。

「あんたの所属はどこかね。身代金は?」

「所属? 所属なんてない。わたしはただの旅行者です。それを信用して呉れないんだ。この救国義勇軍の連中は」

 大森は膝を撫(な)でさすった。

「むしろ土匪につかまればよかった。土匪ならどうにでもごまかせた」

「救国義勇軍の方がきびしいのか」

 大森はうなずいた。

「統率者の楊(ヤン)庭宇の方針が変った。楊の右腕に当る子分が、日本軍につかまって殺された。それからですよ。彼等が日本人を極度に警戒し始めたのは。ちょっと怪しいと疑ぐると、もう離しては呉れない」

「連絡する先がないのかい?」

「学校時代の友人がいる。一人は紅卍字会、一人は建国大学に勤めている。その名を言ったんだが、連絡して呉れたかどうか、皆目見当がつかない。そしてたらい廻しですよ。あんたたちも五、六日経つと、どこかに廻される」

「なぜ廻すんだろう?」

「なぜだかよく判らない。横密保持のためじゃないかと思う。わたしの経験したところでは、救国義勇軍の横の連絡は、かなり強固なものです」

「ここに来る前は?」

「八道江の近くじゃないかと思う。彼等の会話で判った。そこは民家で、オンドルの設備もあった。土塀などをめぐらせて、家が幾棟もありました」

「あの肥った――」

 水田はやや言い淀んだ。

「李という男は?」

「そこの首領だった。白状しろって、ずいぶん拷問を受けましたよ。ほら、ここも――」

 大森は右の掌を出した。しかと見えぬが、指が二、三本火ぶくれになっている。

「李がやったのか。李がねえ」

「李は直接手を出さない。子分のチンピラたちです」

 チンピラと聞いて、野見がぐっと体を乗り出した。

「何を白状しろてんですか?」

「日本軍の情報をさ。つまりスパイ網をだ。しかしわたしは単なる旅行者ですよ。白状しようにも、することがない」

 そして大森は笑おうとしたのかも知れない。けれども声にならず、顔がゆがんだだけであった。しばらくして水田は言った。

「あんた、満語をしゃべれるのかね?」

「いや。ほとんど」

「八道江近くだと、やつらの会話で判ったと言いましたね」

「いや。会話の中に、八道江(パァタオジャン)、という言葉がしばしば出て来た。それでその近くじゃないかと思ったんです」

「そうですか」

 隣の宴もそろそろ終りになるらしい。半分ぐらいは眠りについたと見え、声の数は減っている。酔ってそのまま、ごろ寝にうつったのだろう。酔っただみ声が、何かを指図している。水田も板壁により、眼をしばたたいた。瞼が乾いている。

 ――もう眠った方がいいな。明日という日があるんだから。

 眼を閉じた。

「まだここに五、六日いるんなら、その間に穴を掘って、逃げ出せそうだな」

 野見の声だ。眼をあける。野見はアンペラをめくって、板壁の下の土を調べている。

「そう固くないよ。これなら手で掘れる。土は外に押し出さないで、アンペラの下にばらまけばいい」

 アンペラの下は高梁(コーリャン)の茎や木の葉などが、ぎっしり敷かれている。遠くから遠吠えが聞えて来る。狼だろう。それも一匹でなく、数匹の。

「体だけ通ればいいんだから、小さくてもいい」

「やめた方がいい」

 大森の沈んで行くような声。しかし強く制しているのでもない。

「途中でばれたらたいへんだよ。皆に迷惑がかかる」

「するとあんたは逃げたくねえのかい?」

「逃げたいさ。確実に逃げられればね」

「判りゃしねえさ。アンペラをかぶせて置けばよ。見つかるわけがない」

 彼はその会話を聞きながら、じつと眼を閉じていた。なるようになれ。自分が動くのはいやだ。そういう気持が彼にはある。時刻も正子(しょうね)を過ぎたらしい。月はまだ出ず、風がすこしずつ吹き始めて来た。

 ――どうも怪しいな。

 大森という男について、彼はそんなことを考えている。どこでつかまったのか知らないが、そんな危険な区域に、ただの旅行者が足を踏み入れる筈がない。あばれたから針金を通されたと言ったが、救国義勇軍にしては、あばれることよりも逃亡することをおそれたのではないか。チンピラに白状を強要されたと言ったが、そのチンピラたちが日本語が出来たかどうか。それに土匪が相手ならどうにでもごまかせると言った。ごまかすとは、何をごまかすのか。

 ――この男は満語が使える!

 それだけは確かだと思う。大森が日本軍の密偵なら、どうにかしてやるべきだ。しかし今の彼にとって、何もしてやることがない。方四米ほどの部屋に、こちらも捕われの身だ。明日の運命も判らない。野見の声がする。

「何か掘る道具を持たないかね?」

「持ってない」

 大森が答える。

「持つ筈がないじゃないか。つまらんことは考えないで、もう眠ったらどうだね?」

「いや。おれはやる」

 野見は押しつけるように言う。

「今夜は手で掘る。明日、道具をどこからかちょろまかして来て掘る。この土なら、三日とかからない」

 野見は舌打ちをした。

「あの匕首(あいくち)があったらなあ」

 水田は眼をあけて、小声で言った。

「もしばれたら、針金を通されるぜ。それでいいのか」

「おれは命令されたり、強制されることに、我慢が出来ねえんだ。あんたは黙ってろ」

「そうか。おれに黙れと言うのか」

 その瞬間水田は野見に、ふしぎな嫉妬を感じた。掘るのが見つかったら、罰を受けるのは野見である。見つかる可能性の方が多い。それなのにいわれのない嫉妬が湧き起るのは、何故だろう。その感情を持て余しながら、彼は言った。

「板壁はどのくらい土にもぐっているのかね?」

「全然もぐってはいない。ほら、この通り――」

 野見はアンベラをめくって見せる。彼は体を傾けて、そこを見た。板は横に張ってあり、すこしほじくったらしく、野見の青白い掌が自由に出入りした。彼は注意深く、しばらくそれを眺めていた。もし企てが発覚したらこのおれはどうなるのか。

「どうしても掘るというのか。断って置くけれど、おれは手助けしないよ」

「手伝って呉れと、誰も言いやしねえ」

 野見はつっぱねた。

「あんたはいい身分だ。会社から金が来りゃ、帰してもらえるんだろう。おれは違う。それにこのおっさんも」

 ヒロイックな思いと絶望の感情が、むしろ野見を活(い)き活きさせている。

「針金を肩に通すなんて、こんなひどい仕打ちが許して置けるかい。小指を詰めるぐらいなら許せるけれど」

「お前さん。小指を詰めたのかい」

 大森が口をはさんだ。

「いや。おれは詰めたことはねえけどさ。おっさんは穴掘りに賛成しねえのか?」

「別段賛成はしないな。でも、掘りたきゃ、掘ればいい」

「掘りゃあんたも逃げるんだろ」

「どうだか判らないな。その時にならないとね」

 大森は手の甲でごしごしと眼をこすった。

「つかまって以来、わたしは夜目がきかなくなった。毎日高梁(コーリャン)や大餅子(ダァビンズ)ばかりで、栄養不足なんだ。わたしはもう諦めているよ」

 沈黙が来た。隣は寝しずまったらしく、当直(?)の男が二人、何か話し合っているのが聞える。こちらもあまり声は出せないのだ。耳に口をつけて、ささやき合うほかはない。

 

 よりかかったまま、しばらくうとうととした。不自然な姿勢なので、身じろぎをするたびに背骨がごりごりと鳴り、うつつに戻る。それを二、三度繰り返した。手をやらないでも、自分の瞼がぼったりとむくんでいるのが判る。昨夜寝た事務所の寝台のやわらかさが恋しかった。

 どすん、という音で、はっきり眠が覚めた。番兵がのれんを分けて、様子を見るために、銃の床尾板で床を突いたらしい。水田は薄眼をあけて、それを見た。番兵はとじ込められた五人をぐるりと眺め廻し、また隣室に戻って行った。木の枝を折る音がする。やがて地炉(じろ)の火が輝きを取り戻し、ぱちばち弾ける音がする。声がした。

「サア交替ダ」

 彼は乾きを覚え、音のしないように水筒を引き寄せる。振ってみるまでもなく、空(から)だと判る。彼はそれをアンペラの上に置き、体を前にずらしながら横になり、水筒を頭にあてがう。アンベラの下の茎や小枝や枯葉が、体の動きにしたがって、がさごそと音を立てた。眼を閉じる。姿勢がらくになったので、すぐ眠れそうに思えたが、なかなか眠れない。女房の顔が浮んで来る。――女房は通化に住んでいる。学校に勤めている。子供が一人いる。五歳のいたずら盛りだ。

 水田は寝返りを打つ。考えても仕方がない。どうなるものでもない。東辺道開発会社でも、彼がつかまったことを、妻子に知らせはしまい。つかまったことは、それほど大きな事じゃない。殺された時に、初めて問題になるのだ。

 彼は思い出した。同僚の運転手や事務員が襲撃され、さらわれた時、彼等は別に嘆いたり心配したりはしなかった。

「どうせあいつは戻って来るさ」

 身代金を出せば戻って来る。そう噂しあって済んでしまう。実際は全部が全部戻って来るわけでない。それっきり戻って来ないのもいる。そのけじめがはっきりつかないのである。一週間足らずで戻って来るのもいるし、一箇月を過ぎてやっと戻って来るのもいる。会社では三箇月経つと、一応殉職と見なして、退職金弔慰金を家族に支払うのだ。三箇月経つと運転手たちも、その男のことは忘れてしまっている。それに危険を伴う事だから、交替もはげしい。浮氷に乗ったような生活なので、三箇月前に死んだ男のことなど、実感としては思い出せないのだ。薄情のようだが、仕方がない。

 ――おれもつまらん職業を選んだもんだな。

 危険手当がつくから、給料はかなりいい。新京あたりで働くより、倍近くの収入になる。使うところがないので、ほとんど女房に送ってしまう。金がたまったら、内地に帰るか新京あたりにとどまって、何か商売でも始めたい。女房と会う度に、そんなことを話し合う。

 水田は横になった時から、何か湿った音が、地底からかすかにおこるのを感じていた。枕にした空の水筒が、それに共鳴し増幅させるらしい。起きて調べずとも、水田には判っている。野見が手で土を掘っているのだ。隣室の当直兵の話し声がすると、その音はぴたりととまる。足音をおそれる地虫の作業みたいに、それはひそやかに断続する。おそらく隣室には聞えまい。各種の鼾(いびき)の音が、高く低くひびいている。風に揺れる林の音が、時々それに加わる。じっと聞いていると、体が小屋ごと少しずつ宙に上って行くような感じがする。

 ――今更何をじたばたと。

 と思うけれども、野見のあがきが判らないでもない。匕首(あいくち)を水田に突きつけた瞬間から、野見の運は裏目裏目と出て、とうとうここまで追い込まれたのだ。匕首を擬した時、水田が峻拒すればよかった。その後の野見の行動や性格を見ると、他人を刺せるような無鉄砲な男ではない。刺せば途方にくれるのは自分だと、野見は知っている。それなのに水田は彼を拒まず便乗させた。匕首が恐いのではなく、相手にするのもばかばかしい。ままごとみたいな気分で、この勢い立つ刺青(いれずみ)の若者を乗せてしまったのだ。そんな意味では、水田は野見にとって、凶運のかたまりのようなものであった。ふっと哀憐の情が、水田の胸をかすめる。彼は頭をすこし水筒から持ち上げ、声を殺してささやいた。

「おい。野見」

 掘る音がふっとやんだ。

「何だ?」

「起きてるのか?」

「起きている」

「まだ土を掘るつもりか。いい加減に眠らないと、明日はつらいぞ」

 しばらく返事をしなかった。やがて聞えるか聞えないかの低さで、

「余計なお世話だ」

 大森はすっかり眠り込んでいるらしい。身動きもしないし、音も立てない。こんな眠り方に慣れているのだろう。

「李に告げ口すると、承知しないぞ」

「お前はおれをそんな男だと思っているのか。ばかな男だな、お前は」

 水田は頭をふたたび水筒に戻す。

「掘りたきゃ掘れ。お前の勝手だ。おれは眠る」

 彼はほんとに眼をつむる。こうなった以上、忠告するのも意味がないし、強制する権利も彼にはない。第一野見は李のことで、彼を信用していないのだ。告げ口するとさえ思っているようだ。しかし野見の作業が、どんな災厄を彼に及ぼすか、明日か明後日になってみないと判らない。そのことを考えるには、彼はすこし疲れ過ぎていた。彼はまた自分の体が宙にずんずん上るのを感じながら、重苦しい眠りに入って行った。

 

 がやがやと音がする。うるさい、うるさいなと思いながら、泥の中から引っぱられるような感じで意識が戻り、瞼をむりにあけた。板壁の隙間から、白い光が入って来る。夜が明けたのだ。水田ははっとして起き上り、水筒はそのままにしてごそごそ動き、元の姿勢に戻った。体の節々が痛い。

「眠れましたかね?」

 大森が無表情に言う。

「ああ。眠れたような、眠れないような――」

 水田は両掌で顔をごしごしとこすった。顔のむくみを掌にはっきり感じる。ぼったりと半眼になっている。

「隣はいつから――」

「今起きたところですよ」

 昨夜は暗がりでよく見えなかったが、大森の肩を貫ぬく針金は、そこらだけ錆(さび)色になっている。血がこびりついて錆びたのだ。彼は思わず眼を外らした。

 隣室では物を動かす音、ばたばたと何かをはたく音、足音もそれに混って、朝の支度が始まっている。火が焚(た)かれ、鍋がかけてあるらしい。また庭の方では体操か何かをやっているのだろう。するどい懸声が聞えて来る。

「いてっ!」

 押し殺した声がする。野見の声だ。アンペラの下から野見は手を引き抜く。指から血がふき出ている。ふつふつと血の球になり、指の股にすべり落ちる。野見はあわてて口に持って行って吸う。残った左手をアンペラにつっ込み、手探りをする。

「有刺鉄線だ」

 手を口から離して左掌で包みながら、野見は無念げに言った。右手も左手も泥だらけだ。水田を上目使いに見ながら、

「何か布はねえか」

 水田はハンカチを取り出して、投げてやった。野見は急いで傷口をおおった。

「畜生。土の中にちゃんと鉄線が張ってある。抜け目はねえや」

「だからよせと言ったんだ」

 彼は大森の表情にも、落胆の色が走るのを見て、思わずつっぱねた。

「早く手の始末をしないと、怪しまれるぞ」

 その時のれんを分けて、背の低い番兵がふっと顔を出した。水田は反射的に水筒を取り、野見への視線をさえぎるように動く。

「水ヲ呉レ」

 立膝で歩き、水筒を突き出した。

「咽喉ガカラカラダ」

 番兵は水筒を受取った。綿服の捕虜に眼を移して言った。

「腹減ッタカ」

 綿服の中年男はそれぞれ大きくうなずく。声は出さない。二人とも大昔からそこに坐っていたような態度で、すこしも動かない。無感動にうなずくだけだ。

 番兵は水筒を耳に持って行き、ちょっと振って見る。割に善良そうな顔つきだ。いったん引っ込みかけて、また顔を出す。

「水ハ朝飯ノ時飲マセル。朝飯ノ場所ハ庭ダ」

「何と言ったんだい?」

 番兵の顔が消えて直ぐ、野見が質問する。水田は説明してやった。

「土は元に戻しといた方がいい。庭に出ている間に、調べられるとたいへんだぞ」

「あんたたち、日本語しゃべれるかね」

 綿服の男たちの方に上半身を乗り出して、大森が訊ねた。一人はきょとんとしている。も一人が首を振った。

 野見は腰をずらしてアンペラをめくり、左手で土を押し戻している。一晩かかっていくらも掘れなかったらしい。左掌でぺたんぺたんと叩きつけ、アンペラをかぶせる。血はもうとまったようだ。ハンカチで掌や指の股をしきりに拭く。水田は黙ってそれを見ていた。

 ――残念だろうな。

 徒労をあわれむ気持と、災いがこちらに及ばなかった安堵とが、ごつちゃになって胸に湧いて来る。フェアじゃない、という気分もある。柱を立ててその間に溝を掘り、有刺鉄線を張る。土をかぶせてその上に板を打ちつける。穴を掘って逃げられた経験から、そんな建て方になったのだろう。何も特定の人間を対象にしたのではない。庭に掘られた四つの穴と同じだ。

 突然大森がうつむいたまま、くっくっと笑い出した。

「どうしたんだね?」

「そうやすやすと逃げられるわけがない」

 笑いは痙攣(けいれん)になって、大森の肩をびくびく動かしている。野見への嘲笑というより、自嘲に近い笑い方であった。

「それでうまく行くなら、わたしがとっくの昔やってるさ」

「おっさん」

 野見は血走った眼で、大森を見据(す)えた。

「鉄線のこと、おっさんは知ってたんだな」

「いや。知らないよ。わたしは初めてここに入れられたんだ。知る筈がない」

 大森はやっと笑いを収めた。しかし痙攣は不随意に起って来る。

「でも、こんなことだろうとは思っていたよ。甘っちょろく考えちゃいけないね」

「なぜ前に教えて呉れなかった?」

「わたしはとめた筈だよ」

 大森は真顔になった。

「皆に迷惑がかかるから、やめたがいいってね」

「食事ダゾ」

 庭の方から呼ぶ声がする。もちろん捕虜に対してでなく、仲間への呼びかけだ。足音がいくつも出て行く。朝の活気にあふれている。野見は唇を嚙んだ。水田は大森に顔を近づけた。枯草のにおいにまじって、大森のいやな体臭が鼻を撲った。一箇月、ろくに体を洗いもしなかったのだろう。それに腐った血膿のにおい。水田は言った。

「あんたも何度か逃げようとしたんじゃないか?」

「なぜ?」

「何となくそんな気がするんだ」

 君は旅行者でなく、日本軍の密偵じゃないか。水田は探る眼付きになっている。同じ苦境にある者の眼でなく、敵の、すなわち救国義勇軍の眼になっている。そう気がつくと、水田は体の力が抜け、眼を外らしながら笑った。大森が密偵であろうとなかろうと、自分の利害に何も関係はない。

「どうでもいいことなんだけれどね、それは」

「逃げようとしたこともあったさ」

 平明な調子で大森は答えた。

「希望がなければね、そうする他はないでしょう」

「すると今でも――」

「そう。有刺鉄線のために、この人は失敗した」

 大森は野見を見た。

「もし成功したって、わたしはついて行けないだろう。体が弱っているんでね。でも、ここで死ぬより、林の中か原っぱで死にたいんだ。原っぱの方がいいな。陽に当りながら――」

「おっさん。心細いことを言うなよ」

 野見が言った。

「たすかるめどは、まだあるよ。あきらめちゃいけない」

 連中は小屋の外で、交替に食事を済ませたらしい。地炉の火も消えてしまった。のれんからさっきの善良そうな番兵が顔を出す。

「食事ダ。立テ」

 皆立ったのを確めて、

「順番ニ外ニ出ロ」

 水田は立ち上った。昨日ずいぶん歩かせられたので、ふくら脛(はぎ)や足首が痛い。綿服の二人ものろのろ立ち上る。

 

 外は白い空気でいっぱいだ。風はすこしおだやかになっている。水田は深呼吸をしながら、あたりを見廻した。林の中なので、まだ太陽は見えない。方角が判らない。

 木の切株がいくつもある。その一つ一つに食器が五つ乗っている。その数からして、捕虜の分だと判る。その向うに四つの穴。彼方に針葉樹の密林。

 五人はそれぞれの切株の前に行く。

 すこし離れたところに甕(かめ)があって、水が半分ばかり入っている。水田はまずそこに行き、柄杓(ひしゃく)で二杯ごくごくと飲む。すこしにおいがあるが、咽喉(のど)が乾いているので、鉄臭なんか問題じゃない。つづいて大森。野見に柄杓を渡しながら、大森は注意する。

「飲み残しても、地面に捨てるなよ。大切なものだからな。口に含んで、切株に行って、はき出して手を洗え」

 切株を前にして、水田はちょっと迷う。切株を膳にして食べるのか。それとも切株に腰をおろし、膝の上で食べるのか。見ると綿服の二人が腰かけているので、彼はそれにならった。アルミの食器に、高梁粥(コーリャンがゆ)が七分目ばかり入っている。粥はなまぬるいので、手に持てる。木の枝を削ったかんたんな箸だ。

 彼はゆっくり粥をすすりながら、あたりを偵察する。ピストルを帯びた若い男が、背を反らして腕を組み、五人を見ながら立っている。他に番兵が二人、銃を立てて前後に看視している。一人はあの善良そうな男だ。

 李はいないな。

 どこに行ったのだろう。もう出発したのか、まだ山寨(さんさい)の中にいるのか。李にたよる気持にいつの間にかなっている。なんとなく、ただなんとなく、すがりつきたい気分だ。顔見知りだし、それに度々トラックに只で乗せてやった。拒否せずに、好意だけで。

 山寨からちょっと離れた物置のような小屋の前で、四、五人の男が銃の手入れをしている。一人が銃を空に向けて、銃口をのぞく。

 粥はざらざらと冷えかかっていて、うまくなかった。すこしずつ区切るようにして、わざと遅く食べる。

 山寨の入口から、れいの鬚男が姿をあらわした。まず綿服の男たちの前に行く。何か質問をしている。それから水田のところに来る。

「うまいかね?」

 水田はうなずく。

「眠れたか」

「あまり眠れなかった」

 鬚男はわらう。わらうと眼尻に皺(しわ)が出る。

「金を会社に要求した。金が来れば、お前はすぐ帰してやるよ」

 野見のところに行く。同じような質問をしている。匪にも温情主義みたいのがあるんだなと、横眼で見ながら水田はもぐもぐ口を動かしている。鬚男は質問を終えて、野見から離れようとして、ふっとふり返る。

「その手は、とうしたんだね?」

 野見は反射的に右手をうしろに廻す。鬚男の顔が急に緊張した。

「なぜかくす。手を出せ!」

 その時綿服捕虜の一人が立ち上って、野見を指差す。早口でわめいた。

「ソイツガ穴ヲ掘ッタンダ」

 野見はふり返った。自分を指差して、何か叫んでいる。意味は判らないけれども、自分に関して切迫した不利の状況を感じたに違いない。野見は食器を鬚男にたたきつけ、横っ飛びに飛んだ。背を曲げて穴を飛び越え、一目散に林に走った。綿服がじだんだを踏んで叫びつづける。

 銃声がいくつかとどろいて、あたりに反響した。

 林の入口で、野見の軀がピンポンの球のように飛び上り、空中で丸くなった。そのままの形で地面に落下した。そして上半身をもたげようとした。ピストルをかざした若い兵が、それに走り寄るのを見た。水田は思わず立ち上って絶叫した。

「殺すな。殺さないで呉れ!」

 瞬間水田の腕は背後から、ぐっとねじ上げられた。若い兵が野見の体に、弾を二発撃ち込んだ。生死を確めるために、若い兵の足は、野見の脇腹のあたりを蹴る。もう野見は動かなかった。丸まったままだ。

 静かさが戻って来た。

 すこし経って、鬚男が不機嫌な視線を水田に向けた。野見の食器は胸に当ったらしく、服が濡れ、高梁(コーリャン)の粒々がそこらにひっかかっていた。粒々を指で弾き落しながら、不興気に口を開いた。

「コイツヲ元ノトコロニ入レテ置ケ」

 手をねじられたまま、水田は追い立てられて小屋に入った。のれんを分けて突き離された。彼はよろめいて、板壁にぶっつかった。くず折れたままの形で、彼は両掌で顔をおおった。押えた瞼の中に、火花のようなものが散り弾ける。しかし涙は出なかった。押えた瞼の下で、眼球は乾いた石のように、ごりごりと動いた。彼は口の中で呟いた。

「おれは死にたくない」

「おれは死んではならぬ」

 さっきの銃声で、小屋にいた男たちは皆飛び出したらしい。彼の腕をねじ上げた男だけが、のれんの前に立ちはだかり、部屋の中をにらんでいた。水田は顔から掌を離した。その男の顔を見ながら、あぐらをかいた。

 やがて綿服の二人が戻って来た。水田を無視するような表情で、元の座についた。すこしして大森が入って来た。水田の横に腰をおろした。

「今日はいやな日だな」

 腹話術師みたいにほとんど口を動かさず言った。

「いやなものを見た」

 水田は黙っていた。黙って綿服の方を、立って指差した男の顔をじっと見ていた。格別の表情はない。わざと水田を無視する顔だと思ったが、今見るとそうでもないらしい。

「へんな奴だな。あの男」

 頭の構造や体の具合が、異質に出来ているのではないか。あいつらは水をあまり飲みたがらないし、こんな環境でもぐっすり眠っている。まるで不死身の獣のようだ。――しかし何であの時、あいつは指差して叫び、呪詛(じゅそ)の言葉を吐き散らしたのだろう。水田には理解出来ない。告げ口して、何か得にでもなるのか。あいつが叫ばないでも、野見は手を調べられ、逃亡のたくらみを見破られただろう。あるいは手を見せないで、林の方に走り出しただろう。踏み切るのに、何もあいつの叫びを必要とはしなかった。

「畜生(マァナカピイ)!」

 声がその男に届いたかどうか判らない。しかし番兵には聞えたと見える。台尻で床をどんと叩いた。そして番兵は引っ込んだ。

「怒るなよ」

 少し経って大森が注意した。

「あんたも叫んだんだよ。叫んでも無意味だったけどね」

「そうだな。意味がなかった」

 あの場合、殺すな、と言っても、撃たざるを得なかっただろう。撃たなければ、野見は逃げ出してしまう。しかし水田はそう叫んでしまったのだ。叫ぶことで、野見に義理を立てたかったのか。いや。そうじゃない。野見に義理を立てる必要は、何もなかった。野見は勝手にトラックに乗り込み、勝手に撃たれてしまったのだ。

 のれんの向うから、鬚男の声がした。

「日本人。出て来い」

「番兵が何か報告したんだな」

 大森は痛そうに体を動かして立った。水田も立って、のれんの向うの気配をはかった。

「早く出て来い。二人とも」

 

 穴の深さは二米ほどもある。

 その中に野見の屍体は投げ込まれていた。V字型に、腰や腹を底にし、頭と足を穴の斜面に上げていた。ジャンパーと靴は剝ぎ取られ、腕の刺青が青く見えた。両手と脚を取って運ばれ、そのまま穴に放り込まれたのだろう。腕は力なく穴の底に這っていた。ジャンパーが剝がれたのは、傷がつかず、まだ使える状態にあったに違いない。

 ズボンは血だらけであった。ズボンにおおわれた部分に弾丸が当ったのだろう。しかし致命傷になったのは、おそらく頭であった。左耳がぐちゃぐちゃにくずれ、赤い肉と脳の一部がはみ出していた。顔半分はそれでおおわれていた。ピストルで撃ち込まれたのは、そこであった。右の耳は土色に汚れていたけれども、形だけははっきり残っていた。何か咽喉(のど)にこみ上げて来そうで、水田は穴から眼を外らして、鬚男の顔を見た。

「おれたちが土をかぶせるのか。これは見せしめか」

 水田も大森も、それぞれ板片(いたぎれ)を持たされていた。鬚男はシャベルを持っている。水田らにシャベルを持たせないのは、またあばれ出すのを警戒したのだろう。その背後に、今度は三人の番兵が銑を横に抱き、いつでも発射出来る態勢をとっている。怒りが水田の胸に充満した。

「見せしめてない」

 鬚男が言った。

「お前の仲間たろう。お前たちが埋める。あたり前よ」

「埋めてやりなさい」

 大森が沈んだ声で言った。

「ここでいざこざを起すのはまずい」

 そして大森は積まれた黒い土を、板ではねた。小量の土が穴にばらばらと降った。

 ――どうせ誰かが埋めるんだ。

 水田は眼をつむるようにして、しきりに板と脚を動かし、土をかき寄せ、穴に放り込んだ。鬚男がシャベルで手伝った。野見の屍体はやがて見えなくなった。最後まで残ったのは脚である。なま白い足首や蹠(あしうら)が、水田の落した土塊(つちくれ)で姿を消した。あとは土の上に土をかぶせる作業だけであった。

 水田は板を立てて、深い息をついた。

 あとの作業は、ほとんど鬚男だけがやった。水田はのろのろと土を寄せ、穴に落した。板片では能率が上らないのである。大森は最初にいっぺん土をしゃくっただけで、あとは動こうとはしなかった。板を体のささえにして、ぼんやりと穴を見おろしている。白っぽい光線の中で、大森の顔は暗く、そいだように肉がなかった。夜に見た時よりもやつれていて、立っているのもつらそうである。頭髪もばらばらで、白いものが混っている。昨夜は同年輩かと見たが、今はずっと年長に思えた。眼だけが深く黒く、時々活(い)き活きと動いた。

 穴は完全に埋められた。鬚男はその上に乗り、とんとんと足踏みをして、凹んだところに土をおぎなった。それでもまだ土が余る。残土を全部積み重ねた。そしてまた踏み固める。野見の軀(からだ)の容積だけ、土のふくらみになった。

 番兵の一人が水田と大森から、板片を取り上げ、物置小屋に運んだ。かわりに一本の棒を持って来て、その土のふくらみに突き立てた。水田はそれを見た。その棒には、今日の日が(民国二十八年九月三十日)と記されていた。墨の色は新しかった。彼は急に耐えがたい気になり、手を握りしめながら言った。

「名前は書かないのか。名前は」

「名前は書かない」

 鬚男は番兵をかえりみた。

「オ前ト、オ前ダ」

 番兵の二人が足をきちっとそろえた。鬚男は向き直った。

「名前なと書く必要はない。それともお前、書くか?」

 水田はすこし考えて、首を振った。野見の名をここにとどめても仕様がない。鬚男の手に白い布が垂れていた。ふたたび言った。

「書かないのか?」

「うん。書かない」

「向うをむけ!」

 いきなり命令口調に変った。水田は白布を見、大森の顔を見た。そして鬚男を見た。気分はあまり動揺していない。むしろ虚脱していた。

「おれを殺すのか?」

「向うをむけ!」

 廻れ右をした水田の顔に、鬚男の手がさわった。白布が眼にかぶせられる。白布は耳をもおおった。頭のうしろで布の端はむすばれた。鬚男の指はニンニクのにおいがした。

「殺すのか?」

 水田はもう一度言った。ここで死ぬ。今更悔いはない。そう思っても、脚にかすかな慄えが来た。鬚男の声がした。

「下が見えるか?」

 布は耳にかかっているので、隈の下方に隙間が出来、眼球を下に動かすと、地面がわずか見えた。鬚男は前に廻ったらしい。ニンニクくさい指を布の下から入れ、水田の視野をひろげるようにした。

「殺すのか?」

 三度。水田の声は切ない響きを帯びた。

「身代金は要らないのか?」

 返事はなかった。布から手を抜く。水田は背中を緊張させ、うしろの動きや声をとらえようとしていた。やがて尻が堅いものでぐっと押され、声がかかった。

「歩ケ!」

 鬚男の声ではない。別の声であった。彼はあやつり人形のように、足を踏み出した。

 

 しばらく歩いて、林に入った。苔のにおいがしたし、実際布の隙間から茶色の苔が見えた。水田は手をうしろに組み、目的もなく欝々として歩いた。

 ――殺すのなら、あそこで殺した筈だ。

 その考えがわずかに彼を慰めていた。まだ三つ穴が残っているので、埋めるのに手数がはぶける。そう彼は思おうとしている。では何故彼だけが眠かくしされ、連れ出されるのか。

〈畜生(マァナカピイ)!〉

 あの小屋で吐き捨てた罵声を、たしかに番兵が聞いた筈だ。それを鬚男に報告する。すると鬚男は考える。水田と綿服の男をいっしょに収容して置くとまずい。一騒動が起きるかも知れない。引き離すのが一番安全だ。そこで命令する。日本人水田を別の山寨に移せ。

 ――おれは移動させられているのだ。

 その証拠に眼かくしをされている。別の山寨への路を見せないためだ。

「スコシ右!」

 うしろから声がかかる。彼はやや右に針路を変える。背後について来るのは、二人である。足音や気配で判る。鬚男が名指した二人とすれば、あの善良そうな番兵がその一人である筈だ。

 林を出た。日光が正面から当って、白布の中もぱっと明るくなる。鉄帽をかぶっていないので、髪にじかに陽光が射す。名も知らぬ鳥の啼声(なきごえ)が落ちて来た。林を出たとたんに風が騒ぎ始めた。

 ――方向は東だな。

 陽の射し具合で判る。風で髪が時々乱れる。風は南西から吹いて来るらしい。

 林を出てから、彼の不安はしだいに増大して来た。彼は李のことを考えていた。考えまいとするが、押えようとしても意識にのぼって来る。もし水田が生きて戻れば、李はもうあの道は歩けないだろう。八道江の部落にもいられない。李が救国義勇軍に所属していることを知っているのは、日本人としては水田だけだ。解決。水田を消せばいい。彼は立ちどまった。意識的でなく、足が萎(な)えたように動かなくなった。

「歩ケ」

 彼は足を引きずって、ふたたび歩き出した。ススキの穂が時々見える。狭い視野の中で、草花が動いたり、赤土が見えたりする。部分部分は鮮明だが、景色の全貌は判らない。林の中では音がこもっていたが、草原になると背後の足音はほとんど聞えない。音と言えば、彼自身の足音、風の音、それに時たまの鳥の啼声だけだ。

「手ヲウシロニ組メ!」

 ぶら下げていた手を、またうしろに廻しながら、彼は言った。

「今日ハイイ天気カ?」

 陽の当るところで死にたい、と大森は言った。彼はそれを思い出していた。うしろで何かささやき合う気配がした。やがて声が聞えた。

「イイ天気ダ。陽ガ照ッテイル」

 二十歩ほど歩いて、またさり気なく訊(たず)ねた。背中に全神経を集めて。

「オレヲ李爺ノトコロニ連レテ行クノカ?」

 直ぐに返事はなかった。しばらくして、

「李爺トハ誰ダ?」

「夜中ニ来タ肥ッタ爺ダ」

 また少し経った。日光が直接当るので、髪の地肌が暑くなる。針路は東である。八道江の方角でないことは、彼にもほぼ判っていた。声が戻って来た。

「オ前ノ知ッタコトデナイ!」

 約五米ばかり離れているなと思う。彼は黙りこくって歩く。歩くというより、左右の足を交互に動かしているだけだ。老爺嶺の事務所や望楼のことを考えている。拉致された運転手で、戻って来ないのがいた。木村、安藤、その他名前を忘れた男たち。彼等は抵抗したり逃亡を企てたりしたのではなかろう。彼は初めてそれに気付いていた。抵抗すれば殺されることは常識だ。会社が身代金を出して呉れるのは当然なので、じっとしているに越したことはない。全運転手はそのことを知っている。それなのに帰って来ないのは、何故か。特別の事情があったのだ。見てはいけないものを見、聞いていけないものを聞いたせいじゃないのか。たとえば、このおれのように! その考えは彼を打ちのめした。

 ――一体どこまで連れて行くつもりだろう。

 ある凶暴なものが、彼の全身を充たした。眼をつむって、立ち止った。わざと静かな声で言った。

「殺セ!」

 瞼の裡に、李の顔が浮んで来た。かつての農夫李の顔でなく、松明に照らされた李の頰の酷薄な笑いであった。顔とともに幻聴が来た。――とうとう、お前も、つかまったのか。

「歩ケ」

 銃の台尻で腰をぐっと押された。

「黙ッテ歩ケ!」

 彼はよろめいた。そして歩き出した。髪がますます暑くなる。その分だけ日が登ったのだ。全身が汗ばんで来た。もう山寨(さんさい)を出て、一時間ぐらい経つ。彼はもうがむしゃらに歩いた。歩くことだけで歩いた。昔のことが頭に浮んで来る。故郷の山々。小学校の唱歌。それから女房のこと。子供の声。パノラマのように次々と。

 それから登り道になり、三十分ほど過ぎた。しだいに切なさが彼をしめつけ、ついにあふれて来た。彼はぎりぎりの底から思った。

 ――一体おれは何のために歩いているのか。

 その時彼は蹴つまずいた。前のめりに倒れ、両手でささえて立ち上る。頭上をカササギがぎゃぎゃっと啼きながら飛んだ。立ち上って手を垂れ、そのまま佇立した。もう動く気はなかったし、うしろに声をかける気も起らなかった。また叫ぶこともない。

 風がぼうぼうと吹いた。

 風の中に、しばらく彼は佇(た)っていた。背後から声もかからなかった。ふと皮膚の感覚が麻痺して来る。体がどこかにしんしんと沈んで行くのが判る。五分ほど彼はじっとしていた。あらゆる思念が彼から消失した。

 ――おれはもう死んだのか?

 彼は指を動かしてみる。指がもつれ合う。両手を少しずつ上げる。後頭部に廻す。慄える指で白布の結び目に触れる。解こうとする。やっと解ける。白布は地べたに落ちる。その瞬間、さあっと光線が降って来た。百米ほど前方に、鉢巻峠の巨大なダケカンバが見えたと思った。彼はふり返った。背後には誰もいなかった。二人の兵の姿は消えていた。彼は思わずうめいた。

「あ。ああ」

 空が燃えていた。一面朱色に燃えていた。

「たすかったんだ!」

 燃えていると思ったのは、おびただしい光線であった。彼は反射的に顔をおおった。光の刺戟で、涙が流れ、頰を濡らしていた。彼は手を顔から引き剝がして、前方を見た。まぎれもなくあのダケカンバが見えた。帽児山(もるさん)の四つの嶺。長白の連山。そして薄墨色の白頭山。急速に空の朱は色褪せた。蜃気楼(しんきろう)のような風景は、しだいに現実感を取り戻し、それから突然べたべたと貼りつくようないやらしさで彼に迫って来た。彼は鳥のように意味ないことを叫びながら、ダケカンバに向って走った。粘ったものを両手でかき分けて、ひた走りに走り、ダケカンバの根元に倒れ込んだ。嘔(は)き気が突然こみ上げて来た。彼は吐こうとした。形のあるものは何も出て来なかった。にがい胃液だけが唾液に混って、舌や唇からねばねばと垂れた。犬のように舌を出し、しばらく彼は両手をつき、蛙のような恰好(かっこう)で、あえぎにあえいでいた。……

 

 

  〈東辺道記〉

 

 昭和十四年夏、予は満洲に渡った。東辺道開発株式会社という満鉄の子会社の招きである。新京に本社あり、そこでの話では、満洲といえば砂塵と赤い夕陽を考えるが、内地に劣らぬ実景もあることを知らせたい。そこで東辺道風景を描いて欲しいとのこと。すなわち応諾。随行一名を連れ、吉林に行き、山城鎮から南下、通化を経て輯安に着く。通化より輯安に通じる鉄道は開通したばかりで、信州小海線に似たる感あり。線路の側にところどころ、おびただしい木の墓標が立っていた。この線をつくるために出た犠牲者の墓で、ほとんどが匪襲を受けて殺されたのである。空しく死んだ労務者を偲(しの)び、万骨枯れたるの風景に心が傷(いた)んだ。

 鴨緑江を渡り、満浦鎮に一泊。翌早朝、会社のトラックにて出発、慈城を通過して中江鎮に到着したるは、すでに夜であった。日本式の旅館に泊る。白頭山に行きたいと願いしが、道中はなはだ危険の由にてあきらめる。

 翌朝鴨緑江を越え、臨江(リンジャン)に着く。ここの空は青く、その反映で、鴨緑江の水はブルーグレイなり。焼玉エンジン。平たい底の浅い船である。川幅は隅田川の三倍ほどもあろうか。臨江にかんたんなる税関あり。税関長の満人(実権を握っているのは日本人の由)に証明書を提示す。それよりトラックにて老爺嶺。会社から白系露人の傭兵(ようへい)八名を警備のため着けてもらう。

 満人の不平分子。朝鮮独立の旗をかかげたる朝鮮人。すべて日本軍に圧迫され、通化省山岳地帯に四散。日本人はこれを匪賊と呼ぶ。これらが小集団をなし、互いに連絡をはかりつつ襲撃し来たる。傭兵八名はそれに備えるためである。

 随行、運転手を含めて十一人、老嶺山頂の開発事務所に到着。一泊す。運転手に水田某なるものあり。一週間前敵匪に拉致(らっち)され、翌日帰投。道端にありしを、臨江行きのトラックが収容して、連れ戻したりと言う。彼はそれより熱発し、病床に臥(ふ)したるが、やっと恢復(かいふく)せりとのことである。

 暗い電燈の下で、水田君と酒を酌み交わしながら話す。まだ顔色悪く、元気なけれども、その次第を聞きただし、順序をつけたのが以上の顛末(てんまつ)である。結論として彼は言う。

「無事戻れたのは、やはり李の好意です」

 満人は利害よりも、友情信義を重んじる、というのが同君の言葉であった。心残りは大森氏の東京留守宅を、世田谷とのみ覚え、あとはすっかり忘れしとのことなり。

 翌日、鉢巻峠に向う。一望千里の景観を見て感嘆。トラックを降りてスケッチする。白系露人兵、同時にぱっと飛び降りて、八方に向って銃を取り、看視の任に当った。情勢の険なるに一驚す。匪状悪いと警告されたので、八道江、通化にはおもむかず、ふたたび臨江に戻る。

 内地に戻って、翌年、水田君より便あり。運転手をやめて、通化にてある商社に勤めおる由。その中に次のような意味の文字があった。

「――楊庭宇は新京の銀行で日本軍憲兵に逮捕された。救国義勇軍の新統率者は、金日成という男にとってかわった――」

 

 

[やぶちゃん注:最後の「〈東辺道記〉」以下(標題を含む)は、底本では全体が一字下げである。朝鮮語訛りの日本語を喋る「鬚男」の台詞の日本語表記が奇異なのはママである。以下、気になるごく一部の表現や語句についてのみここでは注しておく。

 

・「ダケカンバ」ブナ目カバノキ科カバノキ属ダケカンバ Betula ermanii 。落葉広葉樹。ウィキの「ダケカンバによれば、『日本、千島列島、サハリン、朝鮮、中国東北部、ロシア沿海州、カムチャツカなどに広く分布する。日本では、北海道〜近畿地方、四国の亜高山帯に生える』。シラカンバ(シラカバ/白樺:カバノキ属シラカンバ Betula platyphylla)『とよく似ているが、シラカンバよりも更に高い高度に分布する。また、樹皮がシラカンバよりもかなり赤茶色がかっている点、葉にやや光沢がある(シラカンバの葉には光沢がない)で区別できる。明るい場所に生え成長が早いこと、森林が何らかの理由で破壊されたあとに真っ先に生える木であること、などの特徴はシラカンバと共通する。亜高山帯の上部、森林限界近くではしばしば純林に近いダケカンバ林となる。また、森林限界を超えても、ハイマツ』(這松:裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ(Pinus Strobus 亜属 Strobi 節ハイマツ Pinus pumila『の中に混生している例もある。普通は樹高』十~十五メートル、大きいものは三十メートルにも『達する一方、森林限界近辺では低木状となる』とある。

・「野見は掌を陽光にかざして、冷えを取戻そうとしていた」湧水を飲むシークエンスのこの「冷えを」は、――「冷え」てしまった掌に温かみ「を取戻」させようとしていた――の謂い、「野見は」冷たい湧水で「冷え」かじかんだ「掌を陽光にかざして、」もとの温(ぬく)み「を取戻そうとしていた」の謂いであ。表現としてはやや言葉が足りないので注しておく。

・「アンペラ」は、この場合、高粱(コーリャン)の茎などで編んだ蓆(むしろ)。一説にポルトガル語のampero」(日被い)或いはマレー語の「ampelaに由来するという。

・「地炉」地面に掘って拵えた囲炉裏(いろり)。

・「水田が峻拒すればよかった」これは、野見がアンペラの下を密かに掘り始めるシーンの直後にある。「峻拒」(しゅんきょ)とは「きっぱりと拒むこと」「厳しい態度で断ること」の意で、ここは野見が水田の横腹近くに匕首を擬して(突きつけんかの如くに構えて)トラックに同乗させろと脅した際、きっぱりと乗せることを断わっていれば、この若造もこんな目に遭わずに済んだのに、という謂いである。前の注も含め、元高校国語教師としては授業なら質問したい、注せずにはおけない、哀しい性(さが)の箇所ではある。

・「紅卍字会」「こうまんじかい」と読む。正式には世界紅卍字会(The World Red Swastika Society)のこと。道教系宗教団体「道院」に付随する修養慈善団体。戦前の中華民国及び満州に於いて赤十字社に準ずる組織として活動した。現代中国では活動が抑制されているものの、現在も香港に本拠地があり、慈善事業に特化した宗教組織として活動を続けている。香港に二校とシンガポールに一校の学校を設立して教育活動も行い、日本を含めて東南アジア各所等に支部も置かれてある(ウィキの「世界紅卍字会」に拠る)。

・「建国大学」かつての満州国の首都であった新京(現在の長春)にあった国務院直轄の国立大学。一九三八(昭和一三)年五月開校で一九四五(昭和二〇)年八月の日本敗戦・満州国崩壊とともに閉校。その跡地には現在の長春大学が建つ(ウィキの「建国大学」に拠る)。

・「正子(しょうね)」午前零時。

・「不興気」「ふきょうげ」と読む。

・「民国二十八年」中華民国二十八年は西暦一九三九年、昭和十四年。

・「焼玉エンジン」ウィキの「焼玉エンジン」によれば、『(英:Hot bulb engine)とは、焼玉(やきだま、英:Hot bulb)と呼ばれる鋳鉄製の球殻状の燃料気化器を兼ねた燃焼室をシリンダーヘッドに持ち、焼玉の熱によって混合気の熱面着火を起こし燃焼を行うレプシロ内燃機関の一種。焼玉機関とも言われる。英語では "Hot bulb engine" と呼ばれる』とあるイギリス人ハーバート・アクロイド=スチュアートが一八八六年が試作機を製作、一八九〇年に特許申請、一八九二年には『イギリスのリチャード・ホーンスビー・アンド・サンズ社がスチュアートの特許により初めて商品化した』とある。その後改良されたボリンダー式機関が生まれ、『日本では漁船などの小型船用エンジンとして大いに普及し、焼玉エンジンの代名詞にもなった。小型船用で普及した焼玉エンジンのシリンダー数は普通』一本につき、四本で、『直列配置で、竪型である。小型船用の焼玉エンジンの』一気筒『当たりの出力は、およそ』三から三十日本馬力を『出すことができた』が、『後の小型ディーゼルエンジンの普及とガソリンや軽油の入手性向上(石油精製工業の発展による供給量の拡大)により』、戦後の一九五〇年代以降には『焼玉エンジンは衰退し駆逐された』とある。このウィキの光学的部分はとても専門的で、私なんぞにはよく解らない。「プラグのあれこれ」というサイトのこのページが私のような者にも原理と発動がよく分かる。起動したそれと独特の何だか懐かしい音はかなり動画でアップされている。例えば、とか、ここ

 

 さて、私が注を附したい主な理由は、この小説の具体設定が、基本的に当時の事実とちゃんと一致させてある点にある。

 

 例えば、ここに出る主人公の勤める「東辺道開発」、「東辺道開発株式会社」は実在した満洲国の国策会社なのである。個人ブログ「鮎川玲治の閑話休題。」の「埋もれた軍歌・その17 東辺道開発株式会社社歌」に、東辺道開発株式会社は一九三八(昭和十三)年に『満洲重工業株式会社の子会社として作られた会社で、主要な業務は通化省の炭鉱及び鉄鉱山の開発。本社は通化にあり、専用の鉄道なども有してい』たとあるのである(下線はやぶちゃん。本文中に「昭和十四年」の設定であることが明記されてある)。

 また、「救国義勇軍」というのも、恐らくは一九三一(昭和六)年の満州事変以降、中国東北部の平民・警察・東北軍の一部の官兵によって構成された抗日武装集団の総称である「東北抗日義勇軍」の一集団であった「救国軍」の一つの後身で、満州に展開した中国共産党指導下の抗日パルチザン組織「東北抗日聯軍」(それまで満州で活動していた共産党系の朝鮮人・中国人のパルチザン部隊「東北人民革命軍」が門戸を広げ、右派抗日武装団も受け入れて、一九三六(昭和十一)年から再編成されていった抗日組織。金日成など朝鮮独立運動の要人が所属し、後にその構成員が彼を中心として朝鮮民主主義人民共和国の権力の中枢を占めたことで知られる)のシンパ組織と考えられる(ウィキの「東北抗日義勇軍」及び「東北抗日聯軍」を参照した)。

 因みに、後者の記載及びそのリンク先によれば、東北抗日聯軍第一路軍の総司令であった人物の名は「」と言い(本作に出る「」の「庭」は中国語(ピンイン)だとtìng」、「靖」は「jìngと似る(ように私には思われる))、一九四〇(昭和十五)年二月に濠江県三道崴子(さんどうわいし:現在の中華人民共和国吉林省にある地名。因みに、本作で楊庭宇が逮捕されたと出る旧「新京」は満洲国の首都で、現在の吉林省長春市である)で日本軍に包囲され、投降を拒否して射殺されており、その時の同東北抗日聯軍義勇軍第六師(団)の師長は「金日成」なのである。

 

 なお、本作は昭和四〇(一九六五)年二月号『群像』に発表されているが、この前後の朝鮮半島の状況、特に朝鮮民主主義人民共和国のそれを、ウィキの「朝鮮民主主義人民共和国の歴史」から引いておく(アラビア数字を漢数字に代えた)。『一九六〇年代になると、隣国の中華人民共和国(中国)とソ連間で対立が深まった(中ソ対立)。北朝鮮は当初は両国の顔色をうかがったものの、一九六二年十月のキューバ危機の頃より親中に傾いた。これに対してソ連は経済援助を打ち切る措置をとったことは、北朝鮮経済に深刻な打撃となった。その後、一九六六年に始まった文化大革命の時期より、紅衛兵ら文革派が金日成を修正主義者だと批判したことによって中国との関係が悪化したことで、石油の入手などを図って今度はソ連に接近した。こうした政策をとるなかで、一九五〇年代までの時期と比べ』、『経済援助の受入額が激減し、計画経済の行き詰まりと相まって経済危機が深刻になった』。『一方で、一九六〇年代の韓国は、一九六一年の五・一六軍事クーデターにより権力を握った朴正熙大統領による軍事独裁(開発独裁)のもとでアメリカ合衆国や日本との関係を深め、アメリカ軍の同盟軍として大韓民国国軍をベトナム戦争に派兵したことなどによって入手した多額の資本を受け入れながら急速に工業化を進めていた(「漢江の奇跡」)。そのため、中ソの資金援助を当てにできない状況下で、北朝鮮は一国社会主義体制を形成して韓国に対抗する必要に迫られた。こうした中、一九六〇年代半ばより北朝鮮は「主体思想」を示し、「思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛」の重要性を唱え、民族主義的・個人崇拝的な国家運営へと傾いていった。この頃、韓国に対して強硬策をとり、一九六八年にはゲリラ部隊にソウルの大統領官邸を襲撃させようとする事件(青瓦台襲撃未遂事件)まで起こっている。しかしながら、こうして対立姿勢を打ち出すためには多額の軍事費が必要とされ、民衆には厳しい負担が課されることになった』(下線はやぶちゃん)。]

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