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« ある時刻   原民喜 | トップページ | 死と愛と孤獨 原民喜 (自筆原稿復元版) »

2016/04/12

死について   原民喜 (自筆原稿復元版)

    死について    原 民喜

 

お前が凍てついた手で 最後のマツチを擦つたとき、焰はパッと透明な球體をつくり 淸らかな優しい死の床が浮び上つた。

誰かが死にかかつてゐる 誰かが死にかかつてゐると お前の頰の薔薇は呟いた。小さな かなしい アンデルゼンの娘よ。僕が死の淵にかがやく星をみいつてゐるとき、いつも浮かんでくるのはその幻だ。

 

[やぶちゃん注:今回、遅まき乍ら、広島市立中央図書館の「原民喜の世界」の「画像ギャラリー」で原稿を見出し、それを基に再び電子化し直した。底本現行では、全体が一字分(一マス分)下げて書かれているが、再現するとなると、改行を入れることになり読み難いのでそれは諦めた(但し、これには後述する通り、別な問題点がある)。「アンデルゼン」はママ。

 使用されている原稿用紙は二〇×二〇=四〇〇字詰で『京大北門前 白井書房編輯室』と左欄外に印刷されてある。「京都発! ふらっとトラベル研究所」(ブログ記事らしい)の「臼井書房の書物たち」によれば、この書店は、一九七九年岩波新書刊脇村義太郎「東西書肆街考」によれば(下線はやぶちゃん)、『昭和十四年に、臼井喜之介が数年勤めていた出版社星野書店をやめ、独立して京大北門前にウスイ書房(のちに臼井書房とあらためた)を開いた。小売のかたわら出版をやり、詩の雑誌を出したりしていた。処女出版『随筆京都』(昭和十六年)は大いに売れた。戦争となって応召し、後は夫人の手で続けていたが、雑誌は統合され、小売は次第に続けることが困難となって、営業を中止したかたちで終戦を迎えた』(上記ページからの同書の孫引き)とあり、以下、ブログ主により、『出版社名には変遷があり、『随筆京都』は「ウスヰ書房」、『古建築行脚』は「臼井書房」と漢字表記に。『仏像図説』は、奥付は「臼井書房」なのに、表紙は「一條書房」刊となっていて、戦時中の出版社の統合を示しています』。『戦後は臼井書房に戻りますが』、昭和二五(一九五〇)年からは『白川書院となります』とあって、再び、「東西書肆街考」を引き、『白川書院は、臼井喜之介が昭和二十五年に雑誌『京都』を創刊する時、臼井書房を改称したものであり、『京都』は一時『京都と東京』と改題したこともあったが、数年前『京都』に復し、京都ブームに乗り、臼井が逝った後も夫人・令息などで経営を続け、三百号記念号を出した。戦後、混乱の中で大仏次郎が京都ブームの種を蒔き、臼井が『京都』でこれを育て支えてきたというべきであろう』とある(白川書院も『月刊 京都』も現在、存続している)。この中で、同記事のデータから「臼井書房」と改名したのは、天沼俊一「日本古建築行脚」(昭和一七(一九四二)年の前(この年かその前年と考えられる)で、戦争中は営業を中止して終戦を迎えた後に「臼井書房」を再開、昭和二五(一九五〇)年に「白川書院」に改名しているから、この原稿用紙は昭和一七(一九四二)年直前辺りから、本詩篇の発表される昭和二四(一九四九)年五月以前のものということになる(紙質の感じからは、戦前のものとはちょっと私には思われない)。

 

 ここで非常に重大な事実に私は気づいた。

 

 着目すべきそれは、この原稿の漢字が正字で書かれていることである。本詩稿は内容から見て妻貞恵の死を描いているようにも見え、とすれば、原詩篇は戦中に書かれた可能性も否定は出来ないが、しかし、後の「死について」(後掲)の文章部の民喜自身の体験談からは、被爆後の作と一応は読める。そもそもが本篇は昭和二四(一九四九)年五月号『高原』に発表されたもので、この原稿も高い確率で、その折り、戦後の、昭和二四(一九四九)年五月以前に書かれたもの考えるのがごく自然である(なお、発表誌である『高原』の出版社を知りたいのであるが、未だ不明である。識者の御教授を切に乞うものである)。

 さて、この年は民喜自死のたった二年前である。しかも、同ギャラリーにある、彼の死後四ヶ月後に遺稿として公開された、かの「永遠のみどり」も基本的に正字が用いられていることが現認出来たのである。

 

 即ち、原民喜の自筆原稿の戦後のそれも含めて総ては、基本的に正字の漢字を用いていたと推定出来るということである。

 されば、ここのところ、私が強く感じていた仕儀を、向後は、敢然と実施することとする。

 

 向後、私は原民喜の作品を恣意的に正字化して現代の人々に示すことこそが、民喜の詩想により近づくけることに他ならないという強い確信を持つ(既にブログで公開した新字のそれらについては、原則、そのままとし、必要な場合はそれを正字化補正するか、煩を厭わずに新たに起こすこととする)。

 

 それとは別に、この自筆原稿では極めて悩ましい点が一つ、存在する

 それは、本篇の一行、

「 小さな かなしい アンデルゼンの娘よ。」

(最初の一字下げを入れて再現。次も同じ)が二十字ぴったりで、次行の、

「 僕が死の淵にかがやく星をみいつてゐる」

と改行しているかしていないかが、判別出来ないからである。現行からは続いているとしか読めない。但し、構成段階で、改行の積りであった民喜が、気づいて校正指示を出した可能性もある。しかし、虚心に読むとき、これは改行しているとは誰も読まない。改行すると詩想で読めるというのなら、では、何故、それより前の「かかつてゐると お前の頰の薔薇は呟いた。」(ここも一行二十字で句点で終るのである)改行しない? と私は反論する。寧ろ、私は、後の改行を主張するなら、前も呼びかけの直接話法として改行されるべきだと主張したいからあである。要するに、以下のように、ということである。

   《仮想表示開始(ブラウザ上の不具合を考えて一行字数を減らした)》

 

    死について    原 民喜

 

お前が凍てついた手で 最後のマツチを擦つた

とき、焰はパッと透明な球體をつくり 淸らか

な優しい死の床が浮び上つた。

誰かが死にかかつてゐる 誰かが死にかかつて

ゐると お前の頰の薔薇は呟いた。

小さな かなしい アンデルゼンの娘よ。

僕が死の淵にかがやく星をみいつてゐるとき、

いつも浮かんでくるのはその幻だ。

 

   《仮想表示終了》

さればこそ、敢えてここでは本篇を未だ誰もそう示していない、二連構成として電子化した。大方の御批判を俟つものではある。

 さて、 私が最初の私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 」の書誌によれば、昭和二四(一九四九)年五月号『高原』に初出であるが、そこでは以下のようになっている(一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」に拠るが、これも今回、恣意的に正字化した)。

   *

 

  死について

 

 お前が凍てついた手で 最後のマツチを擦つたとき、焰はパッと透明な球體をつくり 淸らかな優しい死の床が浮かび上がつた。

 誰かが死にかかつてゐる 誰かが死にかかつてゐると お前の頰の薔薇は呟いた。小さな かなしい アンデルセンの娘よ。

 僕が死の淵にかがやく星にみいつてゐるとき、いつも浮かんでくるのはその幻だ。

 

   *

 而してこれは、同題の「死について」(昭和二六(一九五一)年五月号『日本評論』)の文章の冒頭に散文詩形式を止め、分かち書きにさらに手を加えた形で以下のように出る。続く文章も総て引く(一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」に拠るが、これも今回、恣意的に正字化した。原型に回帰したかのように、「アンデルゼン」はママである)。

   *

 

 死について

 

 お前が凍てついた手で

 最後のマツチを擦つたとき

 焰はパツと透明な球體をつくり

 淸らかな優しい死の床が浮び上つた

 

 誰かが死にかかつてゐる

 誰かが死にかかつてゐる と、

 お前の頰の薔薇は呟いた。

 小さなかなしい アンデルゼンの娘よ。

 

 僕が死の淵にかがやく星にみいつてゐるとき、

 いつも浮んでくるのはその幻だ

 

 廣島の慘劇は最後の審判の繪か何かのやうにおもはれたが、そこから避れ出た私は死神の眼光から見のがされたのではなかつた。死は衰弱した私のまはりに紙一重のところにあつた。私は飢ゑと寒さに戰きながら農家の二階でアンデルゼンの童話を讀んだ。人の世に見捨てられて死んでゆく少女のイメージの美しさが狂ほしいほど眼に沁みた。蟋蟀のやうに瘠せ衰へてゐる私は、これからさきどうして生きのびてゆけるのかと訝りながら、眞暗な長い田舍路をよく一人とぼとぼ歩いた。私も既に殆ど地上から見離されてゐたのかもしれないが、その暗い地球にかぶさる夜空には、ピタゴラスを恍惚とさせた星の宇宙が鳴り響いてゐた。

 その後、私は東京に出て暮すやうになつたが、死の脅威は更にゆるめられなかつた。滔々として押寄せてくる惡い條件が、私から乏しい衣類を剝ぎ、書籍を奪ひ、最後には居住する場所まで拒んだ。

 だが、死の嵐はひとり私の身の上に吹き募つてゐるのでもなささうだ。この嵐は戰前から戰後へかけて、まつしぐらに人間の存在を薙ぎ倒してゆく。嘗て私は暗黑と絶望の戰時下に、幼年時代の靑空の美しさだけでも精魂こめて描きたいと願つたが、今日ではどうかすると自分の生涯とそれを育てたものが、全て瓦礫に等しいのではないかといふ虛無感に突落されることもある。悲慘と愚劣なものがあまりに強烈に執拗にのしかかつてくるからだ。もともと私のやうに貧しい才能と力で、作家生活を營まうとすることが無謀であつたのかもしれない。もし冷酷が私から生を拒み息の根を塞ぐなら塞ぐで、仕方のないことである。だが、私は生あるかぎりやはりこの一すぢにつながりたい。

 それから「死」も陰慘きはまりない地獄繪としてではなく、できれば靜かに調和のとれたものとして迎へたい。現在の悲慘に溺れ盲ひてしまふことなく、やはり眼ざしは水平線の彼方にふりむけたい。死の季節を生き拔いて來た若い世代の眞面目な作品がこの頃讀めることも私にとつては大きな慰藉である。人間の不安と混亂と動搖はいつまで續いて行くかわからないが、それに抵抗するためには、内側にしつかりとした世界を築いてゆくより外はないのであらう。

 まことに今日は不思議で稀れなる季節である。殆どその生存を壁際まで押しやられて、飢ゑながら燒跡を歩いてゐるとき、突然、眼も眩むばかりの美しい幻想や靜澄な雰圍氣が微笑みかけてくるのは、私だけのことであらうか。

 

   *

 民喜の言葉は二〇一一年三月十一日を体験してしまった我々にとって、新たに深い意味を持っていると、私は思うのである。]

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