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2016/04/15

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第四章 人爲淘汰(2) 三 變異性のこと

     三 變異性のこと

 

 ここに變異といふのは、一疋の動物、一本の植物の一生涯の間に起る變化を指すのではない、一代と次の代との間に生ずる變化、同一の親より生れた子同士の間に現れる相違をいふのである。この事を短くいひ現すに適當な語がないから、據(よんどころ)なく假に變異と名づけて置くが、之が人爲淘汰の出來る第二の條件である。

 生物一般に變異といふ現象のあることも、我々の日々實際に見聞することで、之また改めて證明するに及ばぬ事實である。人間を例に取つても、同一對の父母から生れた兄弟姉妹でも、一人として總ての點に於いて他と全く相同じきものは決してない。どこかに必ず幾らかの相違があるが、この多少相異なつた兄弟等から生れた從兄弟も皆多少互に相違し、その子孫は尚更悉く相違して居て、我が國七千餘萬の人間の中で、竝べて置いて誰も間違へる程に相似たものは滅多にない。他の動物でも全く之と同樣で、犬でも猫でも同一の親から生れた子が皆互に多少は違つて、決して二疋全く同一なものはない。併し我々は犬や猫に對しては人間同士ほどに關係が深くないから、十分注意して一疋づつを見分ける必要もなく、隨つて一疋每の特徴に氣が附かぬから、往々どの犬を見ても、どの猫を見ても、全く同じやうに見えることがある。之は恰も西洋人を初めて見るときは、どの人も同じやうな顏に見えて、一向に區別が付かぬのと同樣であらう。慣れさへすれば、一人一人の相違が明になり、親密に交際するやうになれば、幾ら善く似て居る人でも決して間違へる氣遣はない。

[やぶちゃん注:我が國七千餘萬大正一四(一九二五)年当時は五千九百七十四万人ほどで、昭和一〇(一九三五)年で六千九万余人であるから、七千万人を越えるのは数値的にはその翌年以降で(昭和一五(一九四〇)年で七千四百万余)あって、かなりの誇大勘定である。]

 鷄でも鳩でも馬でも牛でも丁寧に調べて見さへすれば、一對の親から生れた子の中にも必ず變異のあることは直に解るが、さて動植物は如何なる理由により如何なる法則に從つて變化するものかと細かく考へると、之は前の遺傳と同樣甚だ困難で、現時の我々の知識では容易に了解の出來ぬことが多い。通常は親の性質を中心とし、或は之より過ぎたり、或は之に及ばなかつたりして、多少の變異を生ずるに過ぎぬが、時とすると、突然親には似ずして却つて數代前の先祖に似た子の生れることもあれば、また時としては親にも先祖にも似ない全く新しい性質を持つた子が不意に生れることもあつて、如何なる變異が起るかはなかなか前から正しく豫知することは出來ぬ。併し平均していへば、親に似ない子の生れるのは稀な例外で、百中九十九までは親の性質を全く受け繼ぎながら、たゞ或る範圍内で多少變化するだけである。前の兎の例を取つていへば、假に親兎の耳の長さが四寸であつたとすれば、子兎の生長した後の耳の長さは或は全く親と同じく四寸のものもあり、或は親よりは少し短くて僅に三寸九分位のものもあり、或は親よりは少し長くて四寸一分位のものもある。その中から耳の長さの四寸一分あるものを選み出し、之に子を生ませれば、その子の中には親と同じく耳の長さが四寸一分のものもあり、また親より短くて四寸か三寸九分位のものもあり、また親より優れて四寸二分位のものも出來る。植物でも理窟は之と同じである。總べて動植物の子が大體に於ては親に似ながらやはり多少親と違ふ有樣は、之を外の物に譬へていへば、恰も矢で的を射るのと同樣である。的を狙つて澤山の矢を放つてもその中で的の眞中に當るものは滅多に無く、大概は的の眞中よりは少し上とか、少し下とか、または少し左とか少し右とかへ寄つて、的を外れる。併し素より的を狙つて射るのであるから、所謂中(あた)らずと雖も遠からずで無暗に遠方へ外(はづ)れることは無く、孰れも的の近邊へ集まるものである。動植物の生む子も之と同じく、皆必ず或る程度までは親に似て居るが、親と寸分も違はぬといふものは極めて稀であつて、多くは親とも互とも少しづゝ相異なつて居る。之だけは我々の日々見聞する事實から歸納して確に斷言の出來ることである。

[やぶちゃん注:「四寸」十二・一二センチメートル。

「三寸九分」十一・三六センチメートル。

「四寸一分」十二・四二センチメートル。

「四寸二分」十二・七二センチメートル。

「皆必ず或る程度までは親に似て居るが」底本では「程度」は「度」。「度」一字では読めないので、学術文庫版で訂した。底本画像はこの前後のページが、破れた物を貼りつけてある関係上、判読に困る箇所があり、やはりどう文庫を参考にさせて戴いた。]

 以上は普通の場合であるが、前章で例に擧げたセス、ライトの足の短い羊や、前節で述べた六本指の人間などのやうに、突然親とも兄弟とも全く違つた性質を帶びた子の生れることが往々あるが、これらは如何なる具合で生ずるものやら全く理窟も解らず、また何時生ずるものやら毫も豫知することも出來ぬ。前の的を射る譬に比べると、恰も群を離れて遠く外れた矢の如きものであるが、斯かる突飛な變化は普通の變化とは根本的に性質の違ふものかまたは單に程度の相違だけであるかといふ問題に對しては、當時の學者の考も樣々で、中にはかやうな突然な變異だけが生物種屬の進化の原因となるものであると論じて居る人もある。詰まる所生物が變化するといふ事實は誰も認めざるを得ぬが、その理由・法則に至つてはまだなかなか解らぬ有樣である。

 併し解らぬ事程何とか我流に説明して見たいのが人情で、今日までに變異の現象を説明しようと試みた假説は幾つとなく考へ出された。實にダーウィン以後の進化論は理論的の方面は殆ど遺傳と變異とに關する假説ばかりと謂つて宜しい程である。變異に關する最近の研究に就いては更に後に述べるが、この章に論ずる人爲淘汰も後の章に述べる自然淘汰もたゞ生物に變異といふ性がありさへすれば必ず出來ることで、その原因や法則が十分に解らなくても大體に於ては説明上甚だしい差支はない。

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