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2016/04/18

原民喜「雜音帳」(自筆原稿復元版) 七月二十七日

    七月二十七日

 

 七月二十七日、義勇隊の發足式で、四時から驅り集められた。前夜の空襲警報で睡り足りない巷に人影が屯してゐる。軈て誰かが呼ぶと、人影はぞろぞろ増えて、一ヶ處に集つた。それから整列が始まつた。凡そ三十人位の男女は、分れて二列に並んだかと思ふと、隊長とおぼしき人が、それを又いろんな班に分けた。リヤカーと薪と釜を持つた人は列の最後に加はるのだと、隊長は説明した。リヤカーと薪と釜がいつのまにか其處にはあつた。自轉車も持出された。そして先頭の女に小さな紙の旗(それには町名が誌してあつた)が渡され、軈て一同は國民學校の方へ進んで行つた。と見ると、他の町の義勇隊が歩調をとりながら同じ方向へ進んで行く。その一隊は女は頭にハチマキをし、手に手に竹の棒を擔つてゐるし、男は胸に名を誌した布を着けてゐた。

 さて、こちらの列は見渡したところ五十すぎの爺さんらしい男ばかりであるが、歩調とれの號令が掛ると、腰高してまつすぐ歩き出す。と、又ほかの町の一隊がやつて來る。國民學校の道路は各町の義勇隊で溢れ、整理がつかなくなつてしまふ。そこで、ものの一時間あまり待たされたのであつた。待つ程にあくびや嚏が頻りと出る。どの隊を見ても女は若い健康さうな顏とのものしい扮裝(いでたち)であるが、男はどうも頭のあたり侘しいものの混はるもの、皮膚の色艷も枯れ果てた姿が多い。ぼんやりと時間は過ぎて行き、再び隊長の號令があつた。すると、はじめ集つた場所に又後戻りして行くのであつた。それから其處でまた一時間餘り立つた儘待つてゐる。よその町の隊もこれと同じやうなことを繰返し、整頓のやり直しをするのであつた。白粉焦のした、派手なモンペを着た女ばかりの一隊も向からやつて來る。

 愈行進が始まつた。リヤカーと薪と釜を牽いた隊は町名をしるした旗を先頭に國民學校の前を過ぎ電車通を進み、更に四ツ角を廻つて、N放送局の方へ這入つた。放送局の石段の前に鯖の眼をした軍服が立つてゐる。その前を進む時には歩調をとらされた。そこを過ぎて暫く行くと立ちどまりになり、また各町の義勇隊が暫く途方に暮れた形であつたが、今度は比較的早く動き出し、そこへ寄せ〔放送局の前〕にどの隊も後戻りし、そこへ寄せ集められた。星の〔しる〕しの自動車がその密集の中を通り拔けようとして警笛を鳴すと、「みんな後へさがれ」と隊長が命じた。「自動車の方こそさがればいいのだ」といふ声がして誰も動かない。すると自動車はくるりと背を向けて、あつさりもとの道へ後がへりした。やがて、軍服を着た眼の赤い男から一同へ訓辞があつた。朝日は頭上に照り、時計を見ると既に八時前であつた。暫くしてこの式も終りを告げた。私の隣に並んでゐた、頰の削げた、赭顏の老人はチンドン屋であつた。(昭和二十年)

 

[やぶちゃん注:前年九月に、既に妻貞恵は亡くなっている。敗戦の十九日前のシークエンスである。

 「義勇隊」国民義勇隊。ウィキの「国民義勇隊より引く。この四ヶ月前の昭和二〇(一九四五)年三月二十三日に『防空および空襲被害の復旧などに全国民を動員するために作られた組織』で、『第二次世界大戦における日本の郷土防衛隊組織であり、主に本土決戦に備えるもの』として「国民義勇隊組織ニ関スル件」によって『閣議決定され、創設』、同年六月には『大政翼賛会・大日本翼賛壮年団・大日本婦人会などを吸収・統合した』ものであった。『国民義勇隊は地域または職場ごとに編成され、前者は町内会・部落会を単位小隊とする市町村国民義勇隊、後者は官公署・工場・会社などを単位小隊とする職域国民義勇隊とされた。さらにその上に前記二つの義勇隊を包括した連合国民義勇隊が作られていた。対象年齢は、国民学校初等科修了から』男性六十五歳以下、女性四十五歳以下と『されたほか、それ以外の者も志願することができた』。『本土決戦に向けた国民の組織化・民間防衛が目的で、消火活動や食糧増産、疎開作業などの工事のほか、軍需品の輸送や陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた。実際には空襲後の戦災処理などに動員される事が多かった。なお、当面は戦闘任務に参加することまでを想定したものではなく、情勢がより緊迫化した場合に特別の措置を講じたうえで戦闘部隊とするものとされていた。ただし、戦闘部隊へと改編した後も、原則として直接戦闘以外の補助的な配置につくことが予定されていた。戦闘部隊への改編措置は、同年』六月二十三日『公布の義勇兵役法により法整備がされ、これに基づ』いて「国民義勇戦闘隊」が編成されたものの、その編成からわずか二ヶ月後、『玉音放送(ポツダム宣言受諾発表)の』一週間後の同年八月二十一日には『閣議で廃止が決定され、日本の降伏文書が調印された同年』九月二日に解散している。「国民義勇戦闘隊」の方は、昭和二〇(一九四五)年六月二十二日に『公布・施行された「義勇兵役法」にもとづく民兵組織で』、『国民義勇隊と一応は異なる組織であるが、国民義勇隊を基礎として編成されたため、組織の多くが流用され共通している。原則的に従来の市町村国民義勇隊・職域国民義勇隊が基本単位となり、小隊は「戦隊」と呼び変えるなどとされたが、実際の編制・運用は各市町村などに委ねられた。義勇兵役の対象は原則として男性は』十五歳乃至六十歳、女性は十七歳乃至四十歳と『なっており、必要に応じて義勇召集して国民義勇戦闘隊員とすることができたほか、年齢制限外の者も志願することが認められていた。義勇兵役法には「朕ハ曠古(こうこ)ノ難局ニ際会シ忠良ナル臣民ガ勇奮挺身皇土ヲ防衛シテ国威ヲ発揚セムトスルヲ嘉シ」と異例ともいえる上諭がつけられており、「一億玉砕」が単なるスローガンではなかったことをうかがわせる。義勇戦闘隊は』二千八百万人が『本土決戦に動員される予定だった』。『ここで注目すべきは、国会の定める法律によって』、十五歳の『少年を召集して少年兵として戦闘に動員できることとされた点である(なお、義勇兵役法施行に先立つ沖縄戦では、陸軍省令によって』十四歳から十七歳の『少年兵が「鉄血勤皇隊」や「少年護郷隊」として防衛召集されて戦死している。)。さらに、女子も兵役に服し戦闘隊に編入できるとされたことである』。『なお、義勇兵(military volunteer)とあるが、義勇兵役は通常の兵役と同じく「臣民の義務」であり、義勇召集を不当に免れた者には懲役刑が科せられた(義勇兵役法7条)。陸軍刑法・海軍刑法などの軍法が適用または準用された(ただし刑罰の適用対象や科刑範囲が限定されていた)。こうした点から「義勇兵」ではない』。『武器などの装備品は、基本的に隊員各自が用意することになっていた。村田銃などの旧式銃すらなく、弓矢・刀剣・銃剣付き訓練用木銃のほか、鎌などの農具や、刺又・突棒のような捕物道具、陸軍が発行したマニュアルに基づいて自作した竹槍など劣悪なものだった』。『服装は正規軍人や民間人と区別できて身軽なものでありさえすれば良いとされ、戦時国際法上の戦闘員資格を確保するため、隊員は布製徽章(きしょう)を身に付け、指揮をとる職員は腕章により標識するものとされた』。『国民義勇戦闘隊の実際の編成が行われたのは、以下に述べる一部地域の例外を除くと、鉄道義勇戦闘隊』(昭和二〇(一九四五)年七月二十三日発令・同年八月一日編成完結)と船舶義勇戦闘隊(同年八月一日発令・同年八月五日編成完結)及び船舶救難戦闘隊(同年八月五日発令)の三隊のみで、動員数は約二百万人であったが、『実際に本土決戦が生起する前に終戦を迎えたため、大多数は実戦を経験することはなかった。また「鉄血勤皇隊」などの少年兵が防衛召集された沖縄戦は「義勇兵役法」の施行の日に組織的戦闘を終えている(』十七歳未満の『者は陸軍省令により防衛召集された。)』。

 「軈て誰かが呼ぶと、」の読点は青土社版全集には、ない。老婆心乍ら、「軈て」は「やがて」と訓ずる。

 「一ヶ處」青土社版全集では「ケ」とするが、原稿は明らかに小振りの「ヶ」である。

 「そこで、ものの一時間あまり待たされたのであつた」青土社版全集には読点は、ない。

 「嚏」青土社版全集には『くさめ』とルビがある。

 「白粉焦」「おしろいやつれ」と訓ずるか。一隊総て派手なモンペでそうなっているというのは、所謂、遊郭か水商売の女性ということか。

 「愈」はママ。踊り字の嫌いな民喜としては特異点である。

 「N放送局」NHK千葉放送局か。同放送局は現在、中央区千葉港(JR千葉駅の南西約一キロメートル)にある。

 「星のしるしの自動車」大日本帝国陸軍の軍用車か。]

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