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2016/05/31

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 親子(四章)

 

       親子

 

 親は子供を養育するのに適してゐるかどうかは疑問である。成程牛馬は親の爲に養育されるのに違ひない。しかし自然の名のもとにこの舊習の辯護するのは確かに親の我儘である。若し自然の名のもとに如何なる舊習も辨護出來るならば、まづ我我は未開人種の掠奪結婚を辨護しなければならぬ。

 

       又

 

 子供に對する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に與へる影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。

 

       又

 

 人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる。

 

       又

 

 古來如何に大勢の親はかう言ふ言葉を繰り返したであらう。――「わたしは畢竟失敗者だつた。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一月号『文藝春秋』巻頭に、この全四章と、後の「可能」「ムアアの言葉」「大作」「わたしの愛する作品」の全八章で初出する。芥川龍之介にとって痛切であり、しかも双方向性を持ち、而して読者の胸をも同期的に突くのは第三の「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる。」のアフォリズムである。

 龍之介の実母(新原(にいはら:旧姓芥川)フク(万延元(一八六〇)年~明治三五(一九〇二)年:享年四十二歳/龍之介満十歳)と実父新原敏三(嘉永三(一八五〇)年~大正八(一九一九)年:享年六十八歳/龍之介満二十七歳)についての彼の〈子としての感懐〉は後の簿」(大正一五(一九二六)年十月『改造』)を読むに若くはない(実母については「一」、実父については「三」)。

 また、龍之介は遺稿「或阿呆の一生」の中で〈子としての感懐〉(「こいつも」の累加の係助詞「も」に着目)と同時に〈父としての感懐〉をこう述懐している(リンク先は孰れも私の電子テクスト)。

   *

       二十四 出産

 

 彼は襖側(ふすまぎは)に佇んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤兒(あかご)を洗ふのを見下してゐた。赤兒は石鹼の目にしみる度(たび)にいぢらしい顰(しか)め顏を繰り返した。のみならず高い聲に啼きつづけた。彼は何か鼠の仔に近い赤兒の匂を感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。――

 「何の爲にこいつも生まれて來たのだらう? この娑婆苦(しやばく)の充ち滿ちた世界へ。――何の爲に又こいつも己(おのれ)のやうなものを父にする運命を荷つたのだらう?」

 しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。

 

   *

そうして――そうして最後に、龍之介の遺書の、私の二〇〇九年に作成した芥川龍之介遺書全六通 他 関連資料 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫の『□4 「わが子等に」遺書』と私の注を読まれたい。私は、そこで私が遺書から解析した龍之介の〈父としての感懐〉――それは自裁の主理由でもあると私は信じて疑わぬ――を以って、ここの注に充分に代え得ると感じている。]

ブログ・アクセス820000突破記念 埋葬 梅崎春生

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年一月号『早稲田文学』に発表されたが、既刊本には未収録。底本は昭和五九(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第一巻」に拠った。一ヶ所空欄があるが読点の落ち(誤植)と判断して打った。

 本作は梅崎春生自身の体験に基づくノンフィクションと読んで差支えない。そこで敗戦直後の周囲の兵たちの心理を批判的に捉えた箇所がある。では彼は梅崎は本当はどうだったのだ、とちゃちゃを入れる輩がいるかも知れぬ。そういう奴のために、既に公開した梅崎春生の敗戦の年の日記をリンクさせておく。

 本電子テクストの公開は、2006年5月18日のニフティの本ブログ・アクセス解析開始以来、820000アクセス突破記念とする。【2016年5月31日 藪野直史】]

 

 

   埋葬

 

 

「キイロ・キイロ・キイロ」

「コイヌ・コイヌ・コイヌ」

 これは太平洋戦争の末期、日本海軍が制定したある暗号である。晴号というよりは略語に近いものだが、おそらくこの「キイロ」「コイヌ」の連送は、実際には使用されなかっただろうと思う。これは、上空に原子爆弾を積んだと推定される飛行機を発見した場合に、各方面に無電で通報するための暗号だが、それから四五日もしたら戦争は終ってしまった。だから此の暗号は制定されただけにとどまって、実際には電波に乗っていない筈だ。此の時期海軍暗号兵であった私も、此の連送は一度も受信しなかった。しかし此の連送信だけは、ふしぎに私の胸に残っている。

「キイロ・キイロ・キイロ」

「コイヌ・コイヌ・コイヌ」

 片仮名の此の組合せを、中央の誰が考案したものか。それは私は知らないけれども、これらの言葉のなかには、微妙ないやらしいニュアンス、いわば超現実風な嘔吐(おうと)感がある。ある救われがたい頽廃と言いようもない冷淡さが、此の片仮名の組合せにはこめられているように思えるのだ。それはただ、私が感じるだけだろうか。あの日本海軍の末路を、そして一年四箇月の苦しかった兵隊生活を憶(おも)うたびに、これらの言葉は一種の終末的な感じを引いて私の胸に浮び上ってくる。

 あの八月十五日の日、私の部隊ではラジオの具合がわるくて、あの放送の内容は誰にも判らなかった。それから私は居住区へ戻って来て昼寝をして、夕方六時頃当直のため暗号室に出かけて行った。暗号室(といっても壕の中だが)に入って、前直が受信した電文綴りを調べようとして一枚めくると、いきなり終戦という文字が眼にとびこんできて、私は心臓がどきんとして、身体がみるみる熱くなって行くのが自分でも判った。私は顔をあげて、指揮卓にいる暗号士に思わずはなしかけた。

「これは本当ですか?」

 暗号士は私を見て、ふしぎな笑いを頰にうかべながら、極くあたりまえな口調でこたえた。

「そうだ。本当だ」

 そのまま暫(しばら)く私は腰かけにすわっていたが、ついにこらえ切れなくなって、便所に行ってくるような顔をして壕の外にとびだし、壕の入口のすぐ前にある草原の斜面を、ひとりで興奮してぐるぐる歩き廻った。そのうちに興奮もしだいに収まってきたから、また壕の内にもどって行った。暗号室というのは壕の奥のほそながい場所で、そのむこうは両側の台に器械をずらずらと連ねて、電信兵たちがカチャカチャと電鍵を打っている。いつもの光景と少しも変化がないのが、私には大へん奇異に思われた。皆なにも知らないのではないかとも思った位だ。もちろん通信兵たちだから知らない筈はないのだけれども、その場の印象はおそろしく落着いていて、いつもとすこしも変りなかった。海軍では、冷静とか沈着とかいうことを何時も言っていて、大事に際しても心緒(しんしょ)を乱さぬことが第一の条件とされていたが、その教育が徹底して、こんな具合になったのかも知れない。しかしその場で、私が全身をもって感じ取ったのは、そのような堅固な自律ではなかった。そんなものでは全然なかった。うまく言いあらわせないが、たとえば、頽廃の果てにある冷淡さ。私が感じたのはそんなものであった。此の日を通じて、何時もと少しでも違ったものがあったとすれは、それはあの時暗号士の頰に浮んだ不思議な笑いだけだった。それは何か羞恥に満ちたような変なわらい方であった。晴号士は予備学生で、出征前はたしか東京の荒川区かの小学校の先生だという男だった。赤沢少尉といったが、あまり軍人らしくない若々しい男であった。あの笑い方は私にも判らないことはない。あの場合私が聞かれる立場になれば、私もあんな笑い方をしただろうと思う。私はこのことだけで、赤沢少尉に対しては今でも人間的な親近感をもっている。上官対部下として、勤務以外にはほとんど交渉はなかったのだけれども。

 

 それから一日一日経って、武装解除、部隊解散、ということが皆に判り出した頃から、各科それぞれ復員荷物のつくり方が始まった。たとえば看護科では看護兵たちが自分の衣囊(いのう)に薬品をつめるのに懸命になっているし、主計科では罐詰や航空糧食の分配に専念しているというわけで、たちまちにして部隊の機能は混乱を呈してきたが、混乱しているのは機能だけであって、各個人個人はいささかも混乱してはいなかったのである。じつに沈着に自らの衣囊をみたすことに専心していた。私なども足に怪我をしていて看護室にそれまで通っていたのだが、そうなるとてんで治療もしてくれなくなったのだ。軍医は軍医で、ごっそりともつて行こうと大がかりな衣囊をキャンバスでこさえて、専(もっぱ)らそれに高価な薬品を詰めこむことに大童で、私の顔をみても、それは故郷にかえって治療したらいいだろう、と言うだけで、何にも手を加えてくれない。どこの科でもそうであった。私たち通信科の方でも、電報はだんだん減少してきたし、来ても翻訳を要しない平文が多かったから、大へん暇になった。夜は充分ねむれるし、食事の方は主計科の連中が分取った余りを惜しみなく、白米はたくさん焚いてくれるし朝から牛乳がついていたりして、食べきれない分を谷底に捨てる程であった。しぜん居住壕にごろごろしていたりする時間が多かったが、そこで出る話というのはおおむね、どこそこの科ではどんな物資を分配したかとか、故郷に戻ったらどんなことをするつもりだとか、専(もっぱ)らそんな会話ばかりで、此の戦争で日本が負けたことの感想だとか、将来日本がどうなるかというような話は、ほとんど皆の口にのぼらなかったのである。たまにそんな話がでても、皆そんなものに興味がない風で、すぐ他の話ととってかわった。兵隊は年がわかいのだから仕方もないのだろう。けれども、年配の下士官でもそんな具合で、そんな連中が通信科は分取る物質が少ないなどと嘆いているのを見ると、私はなにか摩滅した人性といったようなものをそこに感じ、此の男たちは本気でこんなことを言っているのかと、ふと不安になる位であった。通信科は物資が少ないといっても、その連中はけっこう抜け目なく、衣囊(いのう)に真空管をたくさん詰めこんだりしていた。あんなに真空管をもって帰ってどうするつもりか、と私は思ったりしたのだが、なかにはあの重い発電機を苦労してかついで復員して行った下士官もあったのだ。こんな具合にして、第三十二突撃隊桜島分遣隊という私の属した部隊の物資は、皆ちりぢりに消滅してしまった。私もまた人なみに、自分の衣囊をさまざまなものでふくらませて、八月二十六日軍用波止場から大発にのり、一箇月余勤務した此の荒涼たる火山島をはなれた。

 鹿児島の埠頭(ふとう)に降りて駅の方へ歩きだそうとすると、反対側についていた小汽船の中から私の名をよぶ声がする。見ると小さな窓から首を出していたのは、谷山の部隊で一緒だった上原という下士官であった。私が近づいて行くと、ほとんど涙ぐまんばかりにして掌をふりながら、

「残念だったなあ。残念だったなあ」

 気持が激してきて、それだけしか言えない風であった。そばにやはり谷山で一緒だった田上兵長もいたが、これはけろりとした顔で私にあいさつしただけであった。私は始め、上原兵曹がなにを残念がっているのか、ちょっとはかりかねていたが、やがて此のたびの降伏を言っているのだと判ると、私もまた一種の感動で思わず胸が熱くなるような気がした。しかし私はあの放送以来、残念というのから正反対の気特になっていたのだが、私にしてみればあの日このかた、此の上原兵曹の言葉が最初に聞く人間の肉声みたいな感じがしたのである。此の汽船は鹿児島湾内を巡航する航路なので、上原兵曹も田上兵長も薩摩半島にある自分の故郷に、これに乗って帰るところらしかった。だから私たちは此の埠頭で帽子をふって別れた。それ以後逢(あ)いもしないし、また生涯逢う機会もないだろうが、やはり私はときどきこの感傷的な下士官のことをある親近感をもっておもいだす。自分の面前に去来する事象にだけむやみに熱心なくせに、その他のことにはおそろしく冷淡で無関心な海軍軍人の中で、この下士官はその感傷でもって人間としての保証を示していたように思われるのだ。この下士官が異例であったということが、いわば日本海軍の最大の不幸であった。

 日本海軍は、その冷情ゆえに、もはや頽廃にまで深まったこの冷情のゆえに、もろくも地球上からほろびたもののようである。

 

 

 佐世保海兵団にいたとき、巡検後の莨盆(たばこぼん)で、見知らぬ下士官が私をつかまえて、自分の戦争の経験を話してくれたことがある。それはミッドウェイの海戦で、航空母艦に乗っていたという。魚雷を食ったとき、彼は上甲板にいたのだ。またたく間に艦は傾きはじめて総員退去の命令が出た。魚雷をうけてから一分間も経たない間のことだ。

「何しろ手荒く早かったな。居住区の連中は逃げる間もありやしない。下から水はどんどん入って来るし、隔壁はぴしゃりしめられたままだし――」

 換気の円筒の中を我先にのぼってくる。ところが上甲板に開いているその換気孔は、びっしりと金網が張ってあって、そこから出ることは出来ないのだ。もはや海水がいっぱいだから引返すことは出来ない。皆わかい搭乗員たちだったと言うのだが。

「鼠取りというのがあるな。それを河の水に漬けるのと同じよ。ひしめきながら鼻先を金網のさきに出して、やがてぐつと艦が傾いて、おれが浮んで木片にとりついたときは、あの大きな艦が、影も形もなかった」

 その話の内容はともかく、私の注意をいたくひいたのは、その男の話しぶりであった。ひとことで言えば、おそろしくつめたい客観的な話し方である。微塵(みじん)の感傷もない。可哀そうだったとか、残念だったとか、そんな主観的な言葉も全然使わない。ただ自分が見聞したことを、冷然とつたえるだけである。この話し方は私を少からず驚かせた。

 その頃私はひやひやしていた。海兵団では私は定員ではなく、補充員だったから、どのみち転勤命令がくるにきまっていた。毎朝分隊ごとに集合して、転勤命令の発表がある。台の上に先任下士が立って、名前を呼び上げ、以上海防艦何々行とか、何々警備隊行とか、大声でいう。万事はそれで定ってしまう。あの話をきいて以来、航空母艦の配乗になったらどうしよう、と私は毎朝ひやひやした。私は暗号兵だから、上甲板にいるという訳にはいかない。そんなことがあれば、やはり鼠取りの鼠の二の舞である。もちろんどの船に乗組んでも同じことだが、そんな話を聞いた揚句だから、気分で航空母艦にだけは乗りたくなかった。

 毎朝そんな具合にえらばれた人員は、各分隊からのと皆一緒にあつまって、ひるごろ列をつくつて海兵団から出てゆく。その時軍楽隊が正門のところにいて、にぎやかに吹奏するのである。足を合わせてざっくざっくと出て行く。居住区にいてもその楽音はきこえて来るのだ。居住区にいる兵隊も、洗濯場にいる兵隊も、毎日で慣れているせいか、ほとんど耳にも入らない様子であった。明日は自分があの楽隊に送られて、再びかえらぬ旅路に出るかも知れないのに、平気な顔をして聞きながしている。勿論(もちろん)はたから見れば、私もそんな顔しているに違いなかった。だから残留する兵たちの心情を、必ずしもつめたいとは断言できぬが、総体的にいえばそこには言いようもない冷淡さが私には感じられるのであった。そのなかに遠くひびきわたる楽隊の音ほどかなしい音楽を、私は生涯再び聞くことはないだろう。

 

 周囲の運命や、あるいは自分の運命にも、おそろしく冷淡であるくせに、自己の生活的な利害や感覚にさからってくるものには、極めて敏感であるのが此の人々の特徴であった。私も始めごろは、こんな小姑(こじゅうと)的ないじめ方をされて、海軍の軍人とは何と女みたいにひねくれているのだろうと思ったりしたが、その中に慣れてくると、自ずと要領を知って、彼等の視角の盲点に自分をおくすべを覚えてきた。覚えてしまえば何でもないことであった。

 佐世保海兵団というのは、大へん複雑な地形と混乱した機構をもっていて、建物だって整然と並んではいず、あっち向いたりこつちを向いたりしていた。補充員分隊では、朝食後にタテツケをやって、皆作業に出てゆく。山ノ田とか川棚とかに行って、トロッコを押したり火薬を運んだりするのである。これがなかなかの重労働で、相当の危険もあるし、私のように体力劣弱なものにとつてはまことに苦痛な作業であった。もともと補充員の分隊は、それぞれどこかへ配乗される予定のものの溜り場みたいな処で、海兵団の中では特定の仕事をもっていない。だからこんなに作業に引っぱり出されるのである。四五日その作業をやってうんざりしたから、それ以後は私は出ないことにした。出ないためにはどんなことをすれはよいか。方法は簡単である。タテツケに整列しなければよかったのだ。

 そして昼中海兵団の中をうろうろ用ありげにうろついて居ればよかった。その代り班の方には作業に出たことになっているから、昼飯を食べに帰るわけには行かない。辛いといえばそれが辛かった。しかしその辛さも作業にくらべれば物の数でなかった。そして一日中うろつくことにおいて、あの特徴的な冷淡さが私には大へん有難かった。もし冷淡でない下士官でもいて私に、お前は何のためにうろついているのか、と問いかけでもしたら、たちまち私は困つたに違いないからである。うろつくことにも飽きたら、私は衣囊の中からそっと自分の汚れ物を持出して、洗濯場で洗濯をした。だから海兵団にいる間に私は、自分のものはすっかり洗濯しあげて、やがて命令で新しい配置につくことが出来た。幸いにもおそれていた空母乗組ではなくて、佐世保通信隊付であったことは、私の生涯の幸運のひとつであった。私はやはり楽隊におくられて正門を出、すぐお隣の鎮守府の中にある通信隊におちついた。ここからも毎日、あの楽隊の音を遠く聞くことが出来たのである。また玉砕部隊が出て行くと私たちはその度に話し合ったりした。私もだんだんその頃から無感動になって行くらしかった。

 この佐世保通信隊には私はふしぎに縁がふかく、前後二回を通じて六箇月私はここに勤務した。私の兵隊生活の三分の一以上である。ここは海兵団ほど世帯が大きくなかったから、視角の盲点というものがなかなか無くて、生命の危険は絶対になかった代りに、勤務としては大へん辛い隊だった。しかし、海軍軍人のいろんな性格の型や共通した偏向を、充分に知ることが出来たのは此の隊に於てである。私は何時か此の通信隊のことを一度は書いてみたい。ぼけたような顔の司令や、神経質な暗号士や、女みたいに執拗な下士官どものことを、私は存分に書いてみたいと思う。

 

 インテリと言ったら語弊があるから、学校出と言おう。私は学校出の人間をほとんど信用しない。軍隊での経験が私にそれを教えたからだ。

 応召の学校出ばかりをあつめて、暗号の講習をやり、そして暗号員として配置する。こんなことを海軍が考えて、私も入隊すぐそれに入れられた。だから講習の三箇月間は皆学校出と一緒だったし、実施部隊に行ってもそんな連中が配置されていて顔が合った。そのせいで私は学校出のいやらしさを徹底的に見聞した。ことに若い学校出がわるかった。食事当番のときに自分のだけに沢山よそったりするのは極って学校出だった。また自尊心が強いくせに卑屈で、うるさい下士官などにまっさきにペコペコするのも、学校出の特徴であった。もちろん皆が皆そうではなかった。しかしおおむねそうだった。そして学校出のいやらしさというのは、つまり私のいやらしさに外(ほか)ならなかった。その事は私もうすうす気付いていた。そしてますます学校出を憎む気特におちた。

 海兵団にいた頃、教班長に師範学校出がいて、これからずいぶん痛めつけられたことがある。師範出というのは何故か特典があって、すぐ下士官になることが出来る。この教班長もそれであった。大へん冷酷で残忍な男であった。しかしこの傾向は多かれ少かれ師範出に共通なものであることを、私は間もなく知った。師範出の教班長はその海兵団にはたくさん居たから。

 そして私たちがだんだん日数を経て、古い兵隊になるにしたがって、わかい兵隊に威張りたがったり殴りたがったりするのも、必ず学校出だった。それは不思議な位であった。なぜ彼等は位がすすんで一等水兵になったのが、そんなにうれしかったのだろう。しかし私は応召前は東京都庁やある軍需会社などに勤めていたから、小役人や会社員からの類推で、これを不思議だとは余り考えなかった。現代の奴隷根性はむしろ学校出にあることを、せんから私はぼんやり感じ始めていたのである。軍隊におけるその見聞は、いわばその確認にすぎなかった。そしてそれらはすべて私にかえってきた。私は自分の根性の屈折を探ることで一年半を暮したもののようである。

 講習が終って、同年兵があつまって撮った写真が私に残っている。顔を眺めても、もう半分位は名前も忘れてしまった。どの男にもも一度会いたいとは思わない。此の男たちも私に会いたいとは思わないだろう。この男たちもやはり、まことに冷淡な傾向があった。

 ふつうの志願や徴募の兵の冷たさは、なにか摩滅したものの冷たさであったが、学校出に共通したものは卑少なエゴイズムからくる冷たさであった。同じつめたさでも、その肌合いは異っていた。しかし冷たいという点では同じだった。その雰囲気の中で、自分だけは異質と考え、周囲から隔絶した壁をつくつたつもりの私も、ひとしく冷たい個体にすぎないのかも知れなかった。意識的に私は自分を摩滅させようとは思わなかったが、自然に私の内部で死んで行ったものがあるらしかった。しかし私はあたたかいものへの思慕を絶やさなかったから、今こうして生きて居れるのだろう。あの桜島の暗号士や上原兵曹を時々思い出すのも、なにかそことつながっているような気が私にはするのである。

 

 海軍の暗号兵で苦労した老兵があつまって、若しかりしことどもを語り合おうということになつて、此の間出かけて行った。あつまったのは三人で、宮内寒弥、倉崎嘉一の両氏と私とである。私は少し定刻におくれて行ったのだが、時間を切るとはなにごとだと、あぶなく二人から整列をかけられそうになって、あやまって勘弁してもらい、それから新橋あたりで焼酎など飲みながら昔話をした。たいへん愉快な一夕であったけれども、話はおおむね具体的な思い出ばかりで、私にしてもあの持続した孤独感をうまいこと言いあらわせなくて、結局はそんな具体的な経験だけを口にしたようにおぼえている。しかし、それはそれでいいのだろう。言葉にすれは嘘(うそ)になるようなものが、人間の心の中にはあるものだから。そしてそれは各自が秘めていて、墓場にもちこす外はないだろう。私のあの一年四月の生き方も、人にとってはその類であるもののようだ。私の心の中で埋葬してしまう外はない。

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 批評學

 

   批評學

       
――佐佐木茂索君に――

 

 或天氣の好い午前である。博士に化けたMephistophelesは或大學の講壇に批評學の講義をしてゐた。尤もこの批評學はKantKritikや何かではない。只如何に小説や戲曲の批評をするかと言ふ學問である。

 「諸君、先週わたしの申し上げた所は御理解になつたかと思ひますから、今日は更に一步進んだ『半肯定論法』のことを申し上げます。『半肯定論法』とは何かと申すと、これは讀んで字の通り、或作品の藝術的價値を半ば肯定する論法であります。しかしその『半ば』なるものは『より惡い半ば』でなければなりません。『より善い半ば』を肯定することは頗るこの論法には危險であります。

 「たとへば日本の櫻の花の上にこの論法を用ひて御覽なさい。櫻の花の『より善い半ば』は色や形の美しさであります。けれどもこの論法を用ふるためには『より善い半ば』よりも『より惡い半ば』――即ち櫻の花の匂ひを肯定しなければなりません。つまり『匂ひは正にある。が、畢竟それだけだ』と斷案を下してしまふのであります。若し又萬一『より惡い半ば』の代りに『より善い半ば』を肯定したとすれば、どう言ふ破綻を生じますか? 『色や形は正に美しい。が、畢竟それだけだ』――これでは少しも櫻の花を貶したことにはなりません。

 「勿論批評學の問題は如何に或小説や戲曲を貶すかと言ふことに關してゐます。しかしこれは今更のやうに申し上げる必要はありますまい。

 「ではこの『より善い半ば』や『より惡い半ば』は何を標準に區別しますか? かう言ふ問題を解決する爲には、これも度たび申し上げた價値論へ溯らなければなりません。價値は古來信ぜられたやうに作品そのものの中にある譯ではない、作品を鑑賞する我我の心の中にあるものであります。すると『より善い半ば』や『より惡い半ば』は我我の心を標準に、――或は一時代の民衆の何を愛するかを標準に區別しなければなりません。

 「たとへば今日の民衆は日本風の草花を愛しません。即ち日本風の草花は惡いものであります。又今日の民衆はブラジル珈琲を愛しています。即ちブラジル珈琲は善いものに違いありません。或作品の藝術的價値の『より善い半ば』や『より惡い半ば』も當然かう言ふ例のやうに區別しなければなりません。

 「この標準を用ひずに、美とか眞とか善とか言ふ他の標準を求めるのは最も滑稽な時代錯誤であります。諸君は赤らんだ麥藁帽のやうに舊時代を捨てなければなりません。善惡は好惡を超越しない、好惡は即ち善惡である、愛憎は即ち善惡である、――これは『半肯定論法』に限らず、苟くも批評學に志した諸君の忘れてはならぬ法則であります。

 「扨『半肯定論法』とは大體上の通りでありますが、最後に御注意を促したいのは『それだけだ』と言ふ言葉であります。この『それだけだ』と言ふ言葉は是非使はなければなりません。第一『それだけだ』と言ふ以上、『それ』即ち『より惡い半ば』を肯定してゐることは確かであります。しかし又第二に『それ』以外のものを否定してゐることも確かであります。即ち『それだけだ』と言ふ言葉は頗る一揚一抑の趣に富んでゐると申さなければなりません。が、更に微妙なことには第三に『それ』の藝術的價値さへ、隱約の間に否定してゐます。勿論否定してゐると言つても、なぜ否定するかと言ふことは説明も何もしてゐません。只言外に否定してゐる、――これはこの『それだけだ』と言ふ言葉の最も著しい特色であります。顯にして晦、肯定にして否定とは正に『それだけだ』の謂でありませう。

 「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に緣つて魚を求むる論法』よりも信用を博し易いかと思ひます。『全否定論法』或は『木に緣つて魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りでありますが、念の爲めにざつと繰り返すと、或作品の藝術的價値をその藝術的價値そのものにより、全部否定する論法であります。たとへば或悲劇の藝術的價値を否定するのに、悲慘、不快、憂鬱等の非難を加へる事と思へばよろしい。又この非難を逆に用ひ、幸福、愉快、輕妙等を缺いてゐると罵つてもかまひません。一名『木に緣つて魚を求むる論法』と申すのは後に擧げた場合を指したのであります。『全否定論法』或は『木に緣つて魚を求むる論法』は痛快を極めてゐる代りに、時には偏頗の疑ひを招かないとも限りません。しかし『半肯定論法』は兎に角或作品の藝術的價値を半ばは認めてゐるのでありますから、容易に公平の看を與へ得るのであります。

 「就いては演習の題目に佐佐木茂索氏の新著『春の外套』を出しますから、來週までに佐佐木氏の作品へ『半肯定論法』を加へて來て下さい。(この時若い聽講生が一人、「先生、『全否定論法』を加へてはいけませんか?」と質問する)いや、『全否定論法』を加へることは少くとも當分の間は見合せなければなりません。佐佐木氏は兎に角聲名のある新進作家でありますから、やはり『半肯定論法』位を加へるのに限ると思ひます。……

         *   *   *   *   *

 一週間たつた後、最高點を採つた答案は下に掲げる通りである。

 「正に器用には書いてゐる。が、畢竟それだけだ。」

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十二月号『文藝春秋』巻頭にこの一章のみで初出する。副題にある「佐佐木茂索」は、芥川龍之介の弟子で小島政二郎・滝井孝作・南部修太郎とともに「龍門の四天王」と呼ばれた、作家で後に編集者となった佐佐木茂索(明治二七(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年 龍之介より二歳八ヶ月年下)。京都出身で京都府第一中学校中退。その後、叔父を頼って朝鮮の仁川(インチョン)に渡って英国系の銀行に勤めたが、大正七(一九一八)年に内地へ戻り「新潮社」に入社、直後に芥川龍之介に師事している。大正八(一九一九)年に「中央美術社」編集主幹に転じ、翌年には「時事新報社」文芸部に主任として招かれて五年務めた。大正一四(一九二五)年に発表した「曠日」(「こうじつ」((歴史的仮名遣は「くわうじつ」)。「曠」は、この場合は「虚しい」或いは「虚しくする」の意で「何もせず空しく日を過ごすこと」の意)が芥川に賞賛された。龍之介の死後は昭和四(一九二九)年に菊池寛に請われて「文藝春秋社」の総編集長となったが、翌昭和五年を最後に作家としては筆を折り、昭和一〇(一九三五)年には菊池寛と図って芥川賞・直木賞を創設、戦後の昭和二一(一九四六)年には同社社長(正確には当時の名称は「文芸春秋新社」)となった。姓の表記は、本名は普通の「佐々木」であるが、「々」が中国にはない知ってから「佐佐木」と表記するようになったとする(それもそれは龍之介が中国特派以前に彼にそれを指摘したと私は聞いている)。但し、芥川は書簡その他では「佐佐木」「佐々木」の両方を用いている。

 なお、後掲される「廣告」「追加廣告」再追加廣告の三章(連続)も参照のこと。


・「或天氣の好い午前である」龍之介が小説の書き出しで好んだ起筆表現である。

・「博士に化けたMephistophelesは或大學の講壇に批評學の講義をしてゐた」「博士」は「はかせ」がよかろう。「Mephistopheles」メフィストフェレス。十六世紀、ドイツのファウスト(Faust:十五世紀末から十六世紀にかけてドイツに実在した錬金術師ヨハン・ゲオルク・ファウスト(Johann Georg Faust 一四八〇年?~一五四〇年?)の事跡をもとに形成された民間伝説の主人公。博学であったが、自身の人生に不満をつのらせ、悪魔と盟約を成して、自身の魂と引き換えに享楽と冒険の遍歴生活を送るが、神に背いた罰によって破滅する)伝説や、それに材を取った文学作品(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の「ファウスト」(Faust 第一部は一八〇八年、第二部はゲーテの死の翌年の一八三三年に発表)が最も知られ、龍之介は森鷗外訳で精読、特にこのトリック・スターであるメフィストフェレスに強い関心を持っていた)に登場する悪魔の名。名の由来については定説はないが、ウィキの「メフィストフェレス」によれば、有力な説として、ギリシア語の三語からの合成語で「光を愛せざるもの」の意。ラテン語の「mephitis」とギリシャ語の「philos」の合成語で「悪臭を愛する者」の意。ヘブライ語の分詞「破壊する(mephir)」或いは「嘘つき(mefir)」に「嘘をつく(tophel)」を合成したもの、が挙げられてある。なお、言わずもがな乍ら、このメフィストフェレスが化けた大学教授らしき「博士」の謂わんとする内容は正に「侏儒の言葉」に於ける批判修辞法の実際というニュアンスが濃厚で、この大学教授には龍之介の面影が髣髴していると言える。実は龍之介には大正七(一九一八)年九月(満二六歳で海軍機関学校教官現任)に慶應義塾大学英文科教授として招聘するという話があって、龍之介自身、かなり乗り気であったが、学内での調整に時間がかかり、同年十一月には大阪毎日新聞社社友となる話が持ち上がるなどしたため、遂に実現しなかったという過去がある。「如何に小説や戲曲の批評をするかと言ふ」「講義」をする、龍之介の好きなメフィストフェレスが化けた大学教授――これはもう、芥川龍之介自身と言ってよいのである。

・「KantKritik」「カントのクリティク」「Kant」はドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant 一七二四年~一八〇四年)で、Kritik」はドイツ語で「批判」「批評」の意。カントの知られた三大批判(書)である「純粋理性批判」(Kritik der reinen Vernunft 初版一七八一年刊)・「実践理性批判」(Kritik der praktischen Vernunft 一七八八年刊)・「判断力批判」(Kritik der Urteilskraft 一七九〇年刊)を指す。ウィキの「イマヌエル・カント」によれば、彼はこれらの主著によって『批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらし』、『ドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる』とある。

・「貶した」「けなした」。

・「價値論」岩波新全集の山田俊治氏はここに注して、『価値を論じ、諸価値の体系化をはかる学問』とされ、これには価値の『基準を主観的な有用性に求める立場と、経験的評価を超越した真、善、美などの基準を説く立場とがある』が、『ここでは前者で立論されて』ある、とある。

・「赤らんだ麥藁帽」陽に焼けて変色し、ばさついて役に立たなくなった麦藁帽子。

・「扨」「さて」。

・「一揚一抑」「いちやう(よう)いちよく」。これは漢詩や謠(うたい)などに於ける抑揚法の謂いらしい。ぐっと一度高く揚げては、即座にぐっと引き締めて落とすという、まさにここで語られる半ば褒めておいて一気即座に貶しめる「半肯定論法」の極意であろう。

・「隱約の間」「いんやくのかん」。「隱約」は既出既注であるが再掲する。ここでは後にただ「言外に否定してゐる」とあるように、「あからさまには表現していない」ことの謂い。

・「顯にして晦」「けんしてくわい(かい)」。はっきりしているように見えると同時に、はっきりとしていないようにも見える。

・「木に緣つて魚を求むる論法」「緣つて」は「よつて(よって)」で拠る・寄るの意。「木に縁りて魚を求む」は「孟子」の「梁恵王上」の「以若所爲、求若所欲、猶緣木而求魚也」(若(かくのごと)き爲す所を以つて、若(かくのごと)き欲する所を求むるは、猶ほ木に緣りて魚を求むるがごときなり)に拠る故事成句。原義は「方法を誤ってしまうととても成功する望みはないこと」の譬えであるが、ここはそれをメビウスの帯のように捻ったもので、原義とは異なる。例示されたように、「或悲劇の藝術的價値を否定するのに」、「非難を」真「逆に用ひ」て、「幸福、愉快、輕妙等を缺いてゐると罵」る法を指す。「悲劇」の一般通念である「悲慘、不快、憂鬱」の絶対的と思われる必要条件の属性の批判を用いずに、その逆から責めて、「悲劇の藝術的價値」として必要なのは実は「幸福、愉快、輕妙」である、それをこの「悲劇」は致命的に「缺いてゐる」という、パラドキシャルな手法で「全否定論法」を行使する方法と私は読むが如何であろう? これは確かに「痛快を極めてゐる」と私は思うし、「時には」どころか、概ね、「偏頗の疑ひを招」くものではあるものの、相手は一瞬たじろいで、沈黙することは請け合いである。

・「看」「かん」。ここは「もてなし」「待遇」の謂いであろう。「感」とか「観」の謂いではない。

を與へ得るのであります。

・「佐佐木茂索氏の新著『春の外套』」大正一三(一九二四)年十一月金星社刊の処女短編集(大正八年からこの年までの短篇十五篇を所収)。本章は大正一三(一九二四)年十二月発表であるから、まさに新著であり、さりげなく自分の弟子のそれを宣伝しているわけである。実は芥川龍之介はこの作品集の序文を書いている。以下に、全文を電子化する。

   *

 

   「春の外套」の序

 

 昨日の流行は拵らへぬ小説である。畫の具も乾かないスケッチである。けれども今日の流行は明らかに拵らへた小説である。ヴァアニッシュのかかつた油畫である。佐佐木茂索君の作品はこの點に今日の流行と一致する特色を具へてゐる。君の作品を支配するものは人生記錄の生なましさではない。いづれもちやんと仕上げを施した、たるみのない畫面の美しさである。

 しかし又昨日の流行は所謂「餘裕のない小説」である。せつぱつまつた人生のせつぱつまつた一斷面である。けれども今日の流行は――いや、今日の流行も所謂「餘裕のない小説」である。佐佐木茂索君の作品はこの點に今日の流行と一致しない特色を具へてゐる。君の作品の主題は勿論、作品の中の一情景さへ少しも動きのとれぬものではない。いづれも春雲の去來するやうに、小面憎い餘裕に富んだものである。

 昨日の流行に反したものは夏目先生の筆に成つた所謂「餘裕のある小説」である。今日の流行に反するものも佐佐木茂索君の筆に成つた所謂「餘裕のある小説」である。しかし佐佐木君の作品は夏目先生の作品のやうに蒼老の趣には饒かではない。その代りに爭ふべからざる近代的な匂を漂はせてゐる。昔、ヴェルレニンは「作詩術」の中に「色彩よりも寧ろ陰影を」と言つた。佐佐木茂索君の作品は一面には餘裕に富んでゐると同時に、他面には又繊細を極めた情緒のニュアンスに溢れてゐる。これは君の作品を除いた所謂「餘裕のある小説」には、殆ど見出し難い特色である。わたしの君の作品を評して、近代的な匂を云々と言つたのは必しも妄りに言を立てたのではない。

 佐佐木君の作品の特色は勿論これだけには盡きないであらう。が、わたしは少くとも上に擧げた二三の特色を著しいものと信じてゐる。佐佐木君は第一の短篇集「春の外套」の成るに當り、わたしに一篇の序を徴した。即ちわたしの信ずる所を記し、聊か大方の讀者の爲に便にしたいと思つた所以である。

   大正十三年十一月九日夜

 

   *

「ヴァアニッシュ」はワニス(varnish)。ニスのこと。透明な被膜を形成する塗料であるが、ここはいらぬ装飾、虚飾の謂い。「小面憎い」は「こづらにくい」と読み、原義は「顔を見るだけでもいやになるくらい憎らしい・小生意気で癪に障る」の謂いであるが、ここは「小憎らしいほど味な」といった褒め言葉のニュアンスである。「蒼老」は「さうらう(そうろう)」で、老成していること・いぶし銀の謂い。「饒か」は「ゆたか」。「ヴェルレニン」はヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine 一八四四年~一八九六年)のことで、「作詩術」は彼の「Art poétique」(一八八五年)という九連から成る詩の題名で、引用箇所は第四連目の二行目「Pas la couleur, rien que la Nuance !」である。「徴した」とは供出を求めたの意。

・「一週間たつた後、最高點を採つた答案は下に掲げる通りである。」「正に器用には書いてゐる。が、畢竟それだけだ。」これは師芥川龍之介の弟子佐佐木茂索への、一見、悪意に満ちた「『より惡い半ば』を肯定」した『半肯定論法』に見えるが、実は同時に最大最上のエールでもあるのである。何故なら、前に示した龍之介の序文は、まさに、これとは逆に、この作品集の「藝術的價値の『より善い半ば』」を『半肯定論法』で評したものに他ならぬからである。合わせて相殺されれば、それは本作品集への素直な賛辞(但し、精進すべき留保を添えた、である)に他ならぬことになるからである。
 
 但し、一方で、この「正に器用には書いてゐる。が、畢竟それだけだ。」という言葉は別に、実は佐佐木以外の弟子或いは作家仲間へ向けられた皮肉な返し矢ででもあった可能性がすこぶる高いと私は考えている。これはたまたま全く別な必要性から、二〇〇九年岩波文庫刊石割透編「芥川龍之介書簡集」の石割氏の注を管見していたところ、これは!?! と思わせる記載を発見したからである。それは大正九(一九二〇)年七月十五日附の「龍門の四天王」の一人、南部修太郎宛書簡(田端発信・石割透編「芥川龍之介書簡集」書簡番号一〇三/岩波旧全集書簡番号七四三)の注である。ここで少し脱線して述べておくと、南部修太郎(明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)は師龍之介(但し、彼は龍之介と同年(六ヶ月ほど下)であり、「師」という認識は私は実は南部にはなかったと考えている)のかつての不倫相手であった歌人秀しげ子と関係を持っており、龍之介は大正十年の九月(推定)に二人の密会場面にたまたま遭遇、激しいショックを受けている。因みに、この事件が翌年一月に発表される
中」に強い影響を与えていることは間違いない。但し、この時点では私は龍之介としげ子の方の不倫関係は一応、終わっていたと考えている。兎も角も、このトラブルを遠因とすると私は推理しているが、翌大正十一年八月には龍之介と南部は喧嘩をし、絶交寸前にまでなっている(書簡(南部修太郎宛・同年八月七日附・田端発信・岩波旧全集書簡番号一〇六四。因みに石割版書簡集はこの書簡を採録していないので注意されたい)が残るが、五十九字に及ぶ削除部分があり、直接の理由は不明である)。本章発表(大正一三(一九二四)年十二月)の四年前、龍之介は私の偏愛する「南京の基督」(大正九(一九二〇)年七月一日発行『中央公論』)を発表しているが、それに対し、が、発表直後の大正九(一九二〇)年七月十一日附の『東京日日新聞』掲載の「最近の創作を読む」に於いて(以下、石割氏の注から引用)、『南部は「南京の基督」について、「この主の作品から心にアッピイルする何物かを得ようなどとは私は思はない」、「筆達者」は「気持ちが好い」が「たゞそれだけだ」と評した』とある(下線やぶちゃん)。少なくとも、龍之介がこの「批評學」の最後の台詞を書いた時、彼の脳裏には南部のこの評言がもとにあったと私は信じて疑わない。また、南部は「南京の基督」を評して「遊びが過ぎる」と言っているらしい(その龍之介の書簡(石割透編「芥川龍之介書簡集」書簡番号一〇三/岩波旧全集書簡番号七四三)中に出る)が、それについても石割氏は注されて、『「小器用に纏め上げた Fiction を書いて、氣持好さそうに遊んでゐる」と評した。また、安倍能成や久米正雄も、ほぼ同じ批評を新聞に寄せた』(下線やぶちゃん)とあるから、このアフォリズム「批評學」のエンディングのアイロニーは南部だけではなく、同輩の安倍や久米にさえも向けられた毒でもあったとも思われるのである。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 壁蝨

Dani

 

だに   螕【音卑】

壁蝨  【和名太仁】

    【和名抄用蜹

     字者非也蜹

     者蚊之屬】

 

本綱此即臭蟲也狀如酸棗仁人血食與蚤皆爲牀榻

之害避之于席下置雄黃或菖蒲末或蒴藋末或楝花末

或蓼末

五雜組云壁蝨又謂木蝨多生木中入夜則縁床入幕噆

[やぶちゃん字注:「幕」の字は底本では(「巾」+「莫」)であるが同字と見て、「幕」とした。訓読ではこの注は省略する。]

人遍體成瘡燔殺之甚臭

按俗云太仁是也在山林圃中着人牛犬猫雉鳶等

 血初生似陰蝨而團匾黃赤色利喙八足噉着則半入

 皮將取棄之身半切亦不去血滿腹則肥脹如草麻子

 而色亦稍黒潤時自堕落蓋與蚤同爲牀榻之害者不

 然也若山民邊地之居其然乎

 

 

だに   螕【音、卑。】

壁蝨  【和名、「太仁(だに)」。】

    【「和名抄」に「蜹」の字を用ふるは非なり。「蜹」は蚊の屬。】

 

「本綱」、此れ、即ち、臭蟲〔(くさむし)〕なり。狀、酸棗仁〔(さんさうにん)〕のごとく、人の血を〔(す)ひ〕て食ふ。蚤と與〔(くみ)にして〕皆、牀榻〔(しやうたふ)〕の害を爲す。之を避くるに席〔(むしろ)の〕下に于〔(おい)〕て雄黃、或いは菖蒲の末、或いは蒴藋(そくず)の末、或いは楝(あふち)の花の末、或いは蓼〔(たで)〕の末を置く。

「五雜組」に云ふ、壁蝨〔(かべじらみ)〕、又、木蝨〔(きじらみ)〕と謂ふ。多く木の中に生ず。夜に入れば、則ち、床に縁(は)ひ、幕に入りて人を噆〔(か)む〕。遍體(みうち)瘡〔(かさ)〕と成る。之れを燔(や)き殺〔さば〕、甚だ臭し。

按ずるに、俗に云ふ「太仁」、是れなり。山林・圃(はたけ)の中に在り。人・牛・犬・猫・雉・鳶等に着きて、血を(す)ふ。初生、陰蝨(つびじらみ)に似て團〔(まる)〕く、匾〔(たひら)かにして〕、黃赤色。利〔(と)〕き喙〔(くちばし)〕、八足。噉着〔(くらひつ)く〕時は則ち、半〔(なかば)〕は皮に入る。將に之れを取り棄てんとす〔れば〕、身、半〔(なかば)〕は切れても亦、去らず。血、腹も滿つれば、則ち、肥脹して草麻子(たうごま)のごとくして、色、亦、稍〔(やや)〕黒く潤ふ時〔は〕、自〔(みづか)〕ら堕落〔(お)〕つ。蓋し、蚤と同〔じく〕牀榻〔(しやうたふ)〕の害を爲すと云ふは、然らざるなる〔も〕、若〔(も)〕し、山民邊地の居には其れ然〔(しか)あ〕るか。

 

[やぶちゃん注:前項の「狗蠅(いぬばへ)」の考証でフライングしてしまったが、

 

この「本草綱目」と「五雜組」をもとにした記載部分の生物は

 

ここにもろもろ出る「壁蝨」「蜱」「蟎」「螕」などと書くところの

 

ダニ(節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目 Acari に属するダニ類)

 

ではなく、吸血性寄生昆虫である、所謂、ナンキンムシ

半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ下目トコジラミ科トコジラミ属トコジラミ Cimex lectularius

である。ところが、しかし最後の良安の記載内容は、そのトコジラミではなくて、まさに吸血性の、全くの別生物種である、

 

鋏角亜門クモ綱ダニ目マダニ亜目マダニ科 Ixodidae

 

の記載となっているのである。それについては後注で明らかにするので、取り敢えずは、まず先に、半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ下目トコジラミ科トコジラミ属トコジラミ Cimex lectularius たる「トコジラミ」を解説する。

 私が実物を見たことがないけれども、近年、実は本邦では異様に再繁殖をし始めており、一般家庭にも再び出現するようになっており、あなたの家にもおるやも知れぬ故、以下、ウィキの「トコジラミ」より引いておく。和名に「シラミ」を含むが、『シラミ目ではなく、カメムシ目トコジラミ科の昆虫である。トコジラミ科の昆虫は全て吸血性であるが、そのほとんどは主に鳥類やコウモリ類を宿主とする』。『一方で本種および近縁種のタイワントコジラミ(台湾床虱。学名:Cimex hemipterus。別名、ネッタイトコジラミ、ネッタイナンキンムシ、熱帯南京虫)のみが人間を主な吸血源とする』。成虫は五~七ミリメートル程まで成長する。『不完全変態で、幼虫と成虫はほぼ同じ形をしている。また成虫も翅を持たない。体色は吸血前は薄黄色からやや赤褐色を呈すが、吸血後は吸血した血液が透けて見えるためより濃い茶色となる。成虫は卵形で、背腹軸に扁平である。タイワントコジラミとは形態的によく似ているが、トコジラミは前胸の縦横比が』二・五倍程度で『あるのに対し』、『タイワントコジラミは』二倍程度と『少し細長くなっている』。『雄成虫は腹部の末端が雌成虫よりも尖っており、末端に良く発達したペニスを持つ。メス成虫には腹部』第四節の『腹側の中央より左に特徴的な切れ込みがある。交尾の際に雄はこの切れ込みにペニスを挿入し』、『雌に精子を提供する』。『トコジラミは雄雌ともに吸血し、幼虫・成虫にかかわらずその全生存期間を通じて栄養分を血液に頼る。成虫にいたるまで』五齢までの『幼虫期を経るが、幼虫の各齢期に一回以上の吸血を必要とする』。『孵化から成虫まで』約二~七週間『かかるが、これは吸血原の有無や温度などに大きく依存する。飢餓に強く、実験室内での実験ではあるが』、十八ヶ月間も『無吸血で生存したという記録がある』。『トコジラミはふつう夜間に吸血するが、厳密には夜行性ではなく、暗ければ昼間でも吸血することがある』。『普段は明かりを嫌い、壁の割れ目など隙間に潜んでいる。トコジラミは翅を持たないため自力では長距離を移動することはできない。しかし、人間の荷物または輸送される家具などに取り付くことでその分布を拡大する。ボルバキアという共生細菌がいないと正常な成長や繁殖が困難であることが研究で明らかにされた』。『刺咬する際に唾液を宿主の体内に注入するが、この中に含まれる物質が引き起こすアレルギー反応で激しいかゆみが生じる。俗に、刺されると肌に』二つの『赤い痕跡(刺し口)が残ると言われるが、実際には刺し口は』一つである『ことの方が多い。かゆみは刺された当日よりも』二日目以降の『方が強い。刺咬の痕跡は』一乃至二週間以上『消えない』。『同じカメムシ目』(半翅(カメムシ)目Hemiptera)『の昆虫にはシャーガス病』(Chagas' disease:トリパノソーマ症の一種で、原虫(真核単細胞の微生物の内、動物的な性質を示す生物を指す。現行では寄生性で特に他の生物に対して病原性を示す種群についてかく呼称するケースが多い。これはまず、寄生虫学に於いて単細胞の寄生虫を「原虫」として区分呼称していることにより、一方で病理学上では、病原体の大部分は細菌類であることから、それらと区別するために「細菌類でない種群で類動物的な性質を示す病原体」をかく呼んで区別するのである。なお、生物学的にはトリパノソーマは鞭毛虫である)であるトリパノソーマ・クルージ(エクスカバータ界 Excavataユーグレノゾア門Euglenozoaキネトプラスト綱 Kinetoplastea トリパノソーマ目 Trypanosomatida トリパノソーマ科 Trypanosomatidae トリパノソーマ属 Trypanosoma トリパノソーマ・クルージ Trypanosoma cruziの感染を原因とする人獣共通感染症。「サシガメ(刺し亀)病」とも呼ばれる。中南米に於いて発生し、哺乳類吸血性である半翅目異翅亜目トコジラミ下目サシガメ上科サシガメ科Reduviidaeに属するサシガメ類をベクターとする。この感染症に罹り得る動物(感受性動物)はヒト・イヌ・ネコ・サルなど百五十種を越える哺乳類とされる。潜伏期間が長く時には十数年の後に発症することもある。症状はリンパ節・肝臓・脾臓の腫脹。筋肉痛・心筋炎・心肥大等の心臓障害や脳脊髄炎である。根治薬は現在もない。ここまでは主にウィキの「シャーガス病」に拠った。因みに、ダーウィンはビーグル号の航海を終えた翌年に原因不明の病気に襲われ、終生、主に胃痛や嘔吐、頭痛と心臓の不調で苦しんだが、彼は航海中に南米で捕獲したサシガメを飼育し、餌として自分の血を吸わせており、それによってシャーガス病に感染していた可能性があることを若き日に私は読んだことがある)『を媒介するオオサシガメ類が存在する。しかし、現在のところトコジラミが媒介する伝染病は確認されていない。トコジラミの体からB型肝炎ウイルスなど幾つかの人間の病原体を検出した例があるが』、『いずれも実際にこれらの病原体を媒介しているという証拠は見つかっていない』。『「南京虫」の「南京」とは、江戸時代には海外から伝わってきた小さいもの、珍しいものに付けられる名だった(他の用例として南京錠、南京豆などが挙げられる)。この昆虫は海外からの荷物に付着して伝わってきたと考えられている。ただし、実際に中国南部の広東省から江蘇省にかけても多く生息しているため、南京という地名に由来するとの説もあながち間違いではない。中国語では「臭虫」と呼ばれ、本種を「温帯臭虫」、タイワントコジラミを「熱帯臭虫」と称して区別する。タイワントコジラミとの混称と思われるが、地方名に、「あーぬん」(沖縄県石垣島)、「あやぬん」(沖縄県小浜島)、「ひーらー」、「っちゅくぇびーら(人食いひら)」(首里方言)、「あかめ」(東京都八丈島)などがある』。『布団やベッドに潜み、そこで被害を受けることが多いので「トコジラミ」や後述の「トコムシ」の名称が付いた。英語ではトコジラミ、タイワントコジラミともに「bedbug」の名称が使われるが、トコジラミを特に指す場合は「common bedbug」と言う』。文禄四(一五九五)年刊行の、『イエズス会員アンブロジオ・カレピノのラテン語辞書をもとにした『羅葡日対訳辞書』に「トコムシ:cimex」の項目があるが、「cimex」とはトコジラミである。この頃すでに日本に侵入していた事実が窺われる。また』、その八年後の慶長八(一六〇三)年に『刊行された『日葡辞書』ではトコムシ(Tocomuxi)の項にカメムシを意味する「Porsouejo」の訳語が記されている』。『一方、トコジラミ研究に先鞭をつけた人物といわれている博物学者の田中芳男』(天保九(一八三八)年~大正五(一九一六)年:信濃飯田城下の医師の家に生まれ、蘭方医伊藤圭介に学び、文久二(一八六二)年に蕃書調所に出仕して物産学を担当、幕末から明治にかけてパリやウィーンなどで開催された万国博覧会に参加する一方で内国勧業博覧会の開催を推進、殖産興業政策に尽力した。農商務省農務局長・博物館長・元老院議官・貴族院議員等を歴任、駒場農学校(東京大学農学部の前身)・大日本農会・大日本山林会・大日本水産会・大日本織物協会の創立、東京上野の博物館・動物園の設立などにも貢献した近代日本の優れたプラグマティクな博物学者である)は「南京虫又床虱」と『題した報告を残し、繁殖状況、性質、駆除の方法などを述べている。同報告によると、南京虫は明治維新前に幕府が外国から古船を購入した際、その古船に潜んで日本に上陸したものであるといい、神戸港界隈に一番多くいたということである。このことはトコジラミが江戸時代の日本国内では一般には知られていなかったことを意味する』。明治一一(一八七八)年に『日本を訪れた旅行家、イザベラ・バードは著書『日本奥地紀行』(Unbeaten Tracks in Japan)で、行く先々の宿で南京虫による被害に遭ったことを記述しており、当時すでに一般家庭や旅籠などに蔓延していたことが推測される。終戦後も不衛生な地域や古い木造の建物、特に公衆の出入りする安ホテルや警察の留置場などにはきわめて普遍的に見られた害虫である。江戸川乱歩が回想記』「わが青春記」(昭和三二(一九五七)年刊)の『中で、上京後住み込みで働いた印刷工場の寮で南京虫に悩まされたことを記している』。だが昭和四〇(一九六五)年頃より『使用されだした有機リン系の殺虫剤がよく効き』、昭和五〇(一九七五)年頃には『ほとんど目にすることはなくなった』。『住居では、畳の隙間やコンセントの隙間、壁の隙間、ベッドの裏、絨毯の裏、読まないで長期間放置している見開き雑誌などに隠れていることが多いので重点的に点検する。ベッドの縁や壁の隙間などに半透明楕円形の卵を産むが』、卵を全て発見し、除去しないと、『再発生を繰り返す』。『薬剤の使用、エアゾール状の薬剤を通り道に散布する。絨毯や畳の裏などにはピレスロイド系のフェノトリン(商品名スミスリンなど。粉末状の薬剤)を散布することが有効である。パラジクロロベンゼンなどの防虫剤を嫌うため、旅行先などで付着されないためには荷物へ防虫剤を入れる』。『薬剤に耐性をもったトコジラミの駆除は、加熱乾燥車など熱風を利用した駆除が効果的である』とある。あなたの家に、いませんように。

 前項の狗蠅(いぬばへ)」の注で考証した如く、「本草綱目」では「壁蝨」は独立項ではなく、「狗蠅」の附録としてある。ここに示すべきであるものであるから、煩を厭わず再掲しておく(引用は国立国会図書館デジタルコレクションの明代の一五九〇年刊の胡承竜による版の「本草綱目」の画像を視認した。一部、破損による判読不能の箇所はで示した)

   *

附錄 壁蝨【時珍曰、即臭蟲也。狀如酸棗仁、人血食、與蚤皆爲牀榻之害古人多於席下置麝香、雄黃、或菖蒲末、或蒴藋末,或楝花末、或蓼末、或燒木瓜煙、黃蘗煙、牛角煙、馬蹄煙,以辟之也。

   *

寺島の引用はほぼこれに則るが、カットしたものでは「黃蘗」(おうばく)を注しておく。これは双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense のことで、和訓ではこれで「きはだ」と読む。

 

・「螕」以下に出る通り、音「ヒ」で、この字はダニの他にも「大きな蟻」をも意味する。

・『「和名抄」に「蜹」の字を用ふる』「和名類聚抄」には確かに、

   *

蜹 野応案蜹【如税反與芮同和名太仁】今有小虫善齧人謂之含毒即是

   *

とある。

・『「蜹」は蚊の屬』確かに「トコジラミ」や「ダニ」にもこの漢字を当てるが、これは国訓に過ぎず、漢語にはそれらの意味はない。漢語(中国語)としてはこれは、まずは第一義的には、吸血性の双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidaeの昆虫の総称であり、第二に良安の言うように蚊(カ下目カ上科カ科 Culicidae の蚊の類)を指す語である。

・「臭蟲〔(くさむし)〕」「しうちゆう(しゅうちゅう)」と音読みするよりもこちらが良いと感じたので、かく訓じた。現在でも中国語でトコジラミを「臭虫」(チョォチヨン)と呼ぶ。これは彼らがその後脚の基部にある臭腺から油臭い悪臭を出すことに基づく。

・「酸棗仁〔(さんさうにん)〕」は現代仮名遣では「さんそうにん」で、クロウメモドキ目クロウメモドキ科ハマナツメ連ナツメ属サネブトナツメZizyphus jujuba var. spinosaの種子(生薬)。

・「與〔(くみ)にして〕」「~と仲間で」「~と同類であって」。同じく吸血性であることから。

・「牀榻〔(しやうたふ)〕」寝床。

・「席」「蓆」と同義。

・「雄黃」鶏冠石。毒性が強いことで知られる三酸化二砒素(As2O3 :英名 Arsenic trioxide)を含む。

・「蒴藋(そくず)」これは実際には他にも多様の読みがある。スイカズラ科ニワトコ属ソクズ Sambucus chinensis で、現在は入浴剤などに用いられる。

・「楝(あふち)花」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach の花で配糖体の一種を多く含む。

・「蓼〔(たで)〕」ナデシコ目タデ科 Persicarieae連イヌタデ属Persicariaのタデ類を指す。

・『「五雜組」に云ふ』これ同書の「物部」の「壁虱」の後に、

   *

江南壁虱多生木中惟延綏生土中遍地皆是也入夜則緣床入幕人噆遍體成瘡雖徙至廣庭懸床空中亦自空飛至南人至其地輒宛轉叫號不可耐無計以除之也

   *

とあるのに基づく。

・「壁蝨〔(かべじらみ)〕、又、木蝨〔(きじらみ)〕と謂ふ」孰れも音読みすべきが正しいとは思うが、それではトコジラミの別称であることが伝わり難いので、かく訓じた。最近のトコジラミ被害をニュース映像で見たが、まさに壁や木の桟と畳の間にびっしりと蠢いておった。

・「縁(は)ひ」「縁」には「纏わる・絡む」という動詞の意がある。なお、「和漢三才圖會」の原典も、また中文サイトで視認した「五雜組」の原典も「緣」ではなく、「縁」の字を書いてある。私のタイプ・ミスではない。再度言っておくが、私のこれら原文は、基本、原典を視認して私が手打ちしている電子テクストである。どこかから安易にOCRで読み取ったものではない。

・「幕」寝室の幔幕(まんまく)、帳(とばり)のこと。

・「噆〔(か)む〕」咬む。

・「遍體(みうち)」遍身。体中(からだじゅう)。

・「初生」幼体。

・「陰蝨(つびじらみ)」「つび」とは一般には女性生殖器及びその周縁部を含む陰部(陰門・玉門)を差す古語であるが、時には男性のそれにも用いた。「つびじらみ」は「陰虱」或いは「鳶虱」(「つび」を「とび」と誤認したか訛りか)などとも書き、ほぼヒトの陰部に特異的に寄生する昆虫綱咀顎目シラミ亜目ケジラミ科ケジラミ属ケジラミ Pthirus pubis のことを指す。次の次に独立項「陰蝨」として出るのでそこで詳注する。

・「噉着〔(くらひつ)く〕時は則ち、半〔(なかば)〕は皮に入る。將に之れを取り棄てんとす〔れば〕、身、半〔(なかば)〕は切れても亦、去らず」これはトコジラミの記載ではない。毟り取れるほどに有意に大きく、皮膚に比較的深く食い入って吸血し、無理に毟り取ると、咬んでいる口器を含む頭胸部が千切れて残り、治癒に時間がかかったり、二次感染を起こして化膿したりするのは、鋏角亜門クモ綱ダニ目マダニ亜目マダニ科 Ixodidae の大型のマダニ類しか考えられない。やっとここで名にし負うところの真正の「ダニ」について語れる(なお、私は特にマダニ類には一般人よりも詳しい。長女の先代アリス(ビーグル犬)以来、何度もきゃつらと戦ってきた歴史があるからである)。ウィキの「マダニ」によれば、マダニ科の種群は『口器を皮膚に刺し込んだ際にセメント様物質を唾液腺から放出する。このセメント様物質は半日程度で硬化するため、これ以降』、一~二週間程度は寄生主の『体から離れない。そこで無理にマダニを引き抜こうとすると、消化管内容の逆流により感染リスクの上昇を招いたり、体内にマダニの頭部が残ってしまう可能性が高い』。一~二週を『経過した後は、セメント溶解物質を唾液から出し、これによって皮膚から離れる』。但し、同じマダニ亜目 Metastigmata のヒメダニ科Argasidaeの吸血性のヒメダニ類(一部はやはりヒトにも寄生する)は『セメント様物質を放出しないため、容易に取り除くことが出来る』。『感染症罹患の恐れがあるため、マダニ咬症の場合は医療機関を受診すべきである。切開してマダニを除去するのが一番確実であるが、ダニ摘除専用の機器も存在している。民間療法では、マダニにワセリン』、『アルコール、酢や殺虫剤をつけたり、火を近づけたりするとマダニが嫌がって勝手に抜けることがあり、それが成功した例も報告されているが、無理に自己摘除しようとするとダニ媒介感染症の感染リスクが上昇するので推奨されない』とある。ここで言うダニ感染症とは死に至る危険性もあるので馬鹿に出来ない。以下に代表的なものを同ウィキから引いておく(以下の下線はやぶちゃん)。

「日本紅斑熱」:リケッチアの一種である日本紅斑熱リケッチア(真正細菌プロテオバクテリア門Proteobacteriaアルファプロテオバクテリア綱Alphaproteobacteriaリケッチア目 Rickettsialesリケッチア科リケッチア属日本紅斑熱リケッチア Rickettsia japonica)に感染するによって引き起こされる、一九八四年に徳島県で症例が確認された比較的新しい感染症である。『感染したときの症状は、かゆみのない発疹や発熱などがある。この時点で病院に行けば大事には至らないが、放っておくと最終的には高熱を発し、そのまま倒れてしまうことがある。治療は点滴と抗生物質の投与。咬傷が見当たらなくても、医師にキャンプやハイキングなどに行ったと伝えておけば、診断しやすくなる』。死亡例もある。かの古来、恐れられてきたツツガムシ病(ダニ目ツツガムシ科 Trombiculidaniのツツガムシ類に咬まれることでリケッチア科 Orientia 属ツツガムシリケッチアOrientia tsutsugamushi に感染して発症する。治療が遅れると多臓器不全で死に至るケースも多い)との鑑別が難しい(最後はウィキの「日本紅斑熱に拠る)。

「Q熱」:偏性細胞内寄生体(別の生物の細胞内でのみ増殖可能であり、それ自身が単独では増殖出来ない微生物)である真正細菌プロテオバクテリア門ガンマプロテオバクテリア綱Gamma Proteobacteriaレジオネラ目Legionellalesレジオネラ科コクシエラ属コクシエラ菌 Coxiella burnetii よって発症する。『治療が遅れると死に至る上、一度でも重症化すると治っても予後は良くない。山などに行った後に、皮膚などに違和感を覚えたり、風邪のような症状を覚えたら、この病気を疑うべきである。日本紅斑熱の場合と同じく、キャンプやハイキングなどに行った後に何らかの症状が出た場合は医師に伝えることが推奨される』。

「ライム病」:『ノネズミやシカ、野鳥などを保菌動物とし、マダニ科マダニ属 Ixodes ricinus 群のマダニに媒介される』真正細菌スピロヘータ門Spirochetesスピロヘータ綱スピロヘータ目スピロヘータ科ボレリア Borrelia 属の種群(複数の種がいる)に感染することに『よって引き起こされる人獣共通感染症のひとつ』。通常は咬着感染して数日から数週間後に刺咬部を中心とした同心円状の特徴的な遊走性紅斑と呼ばれる症状が現れる(無症状の場合もある)。播種が行われて病原体が全身に拡散すると、皮膚症状・神経症状・心疾患・眼の異状や関節炎・筋肉炎など多彩な症状が現れ、慢性化もする(後半はウィキの「ライム病に拠った)。

「回帰熱」:ヒメダニ属Ornithodoros・マダニ属 Ixodesに『媒介されるスピロヘータ科の回帰熱ボレリア』(前のライム病を参照)『によって引き起こされる感染症。発熱期と無熱期を数回繰り返すことからこの名がつけられた』。一九五〇年以降、『国内感染が報告されていなかったが』、二〇一三年に『国立感染症研究所でライム病が疑われた患者』の血清八百検体の『疫学検討を行ったところ、回帰熱ボレリアの一種であるB.miyamotoiのDNAが確認され』ている。病名は発熱期と無熱期を数回繰り返すことに由来する。致死率は治療を行わない場合、数%から三〇%程度とかなり高い(死亡率はウィキの「回帰熱に拠る)。

「ダニ媒介性脳炎」:『マダニ属のマダニが媒介するウイルス性感染症。脳炎による神経症状が特徴的。東ヨーロッパやロシアで流行がみられ、日本においても、過去に一例の国内感染例が報告されている』。ウィキの「ダニ媒介性脳炎によれば、潜伏期間は七~十四日ほど、『潜伏期の後に頭痛・発熱・悪心・嘔吐が見られ、症状が最大に現れると脳炎症状が見られることもあ』り、三〇%の致死率を持ち、『多くの例で麻痺が残り、北海道の道南地域で発生した例では高熱と神経症状を示した後、退院後も麻痺が後遺症として残った』とある。

「重症熱性血小板減少症候群」:SFTSウイルス(第五群ブニヤウイルス科 Bunyaviridaeフレボウイルス属Phlebovirus重症熱性血小板減少症候群ウイルス Severe fever with thrombocytopenia syndrome virus)の『感染により引き起こされる感染症で、本症候群に起因する死亡事例が』二〇一三年に『国内で初めて発表され』ている最も新しい、そうして誰もが罹り得る、しかも厄介な看過出来ないダニ感染症の一つである。症状は一週間から二週間の『潜伏期間を経て発熱、嘔吐、下痢などが現れる。重症患者は、血球貪食症候群を伴って出血傾向を呈す例が多』く、『西日本で、これまで』九十六人が『感染して、発熱や出血などの症状を訴えた後』、三十人が『死亡している』。現在、有効な薬剤やワクチンない

・「草麻子(たうごま)」キントラノオ目トウダイグサ科トウゴマ属トウゴマ Ricinus communisの実。これ、吸血して腫脹した「マダニ類」ならば形も模様も実によく似ていると言える(吸血したナンキンムシにはあまり似ているとは言えないと私は思う)。ここは良安先生は完全にマダニとして記していることが判るここに至って言おう。寺島良安は「本草綱目」の「壁蝨」を現在の鋏角亜門クモ綱ダニ目マダニ亜目マダニ科 Ixodidae のマダニ類や人や獣に寄生して吸血するダニ目 Acariのダニ類と誤認している。しかしそれは無理もないのである。先に引いたウィキの「トコジラミ」の引用を再読されたいのである。そこにはトコジラミの日本伝搬を明治維新前辺りであるとし、トコジラミは江戸時代の日本国内に於いては一般にはまるで知られていなかった、良安自体がトコジラミを知らなかったのである。だから彼がこの「本草綱目」や「五雜組」に記載された「虫」(トコジラミはカメムシ類であるからして現代の生物学でも真正の「昆虫」)をダニ(ダニ類は現代の生物学では蜘蛛類であるから「昆虫」ではない)と同じく人の血を吸い、吸血すればころんころんになる、マダニ類、同一の「虫」だと思い、それに同定したとして、これ、少しもおかしくもなんともない、寧ろ、自然なことなのであった

 

・「蓋し、蚤と同〔じく〕牀榻〔(しやうたふ)〕の害を爲すと云ふは、然らざるなる〔も〕、若〔(も)〕し、山民邊地の居には其れ然〔(しか)あ〕るか」ともかくも蚤(昆虫綱隠翅(ノミ)目 Siphonaptera のノミ類)と同じように、積極的に寝床に侵入してきて、盛んに刺しては吸血して害をなすと述べられているのであるが、本邦のそれは、そんなことはしない。しかし、山の民や僻地の住まいなどでは、そうしたことがあるのかも知れぬが、この記載は私には疑問ではある、というのである。ダニは吸血するが、ぞろぞろと蚤や蚊や蚋(ぶよ)のように寝床につぎつぎと活発に侵入して来たりは確かにしない(但し、不衛生で劣悪な環境下ではそういうことも起こる。山中に於いてダニが多量に寄生していた熊や猪などの大型哺乳類が死亡した場合、その近くにたまたま人が知らずに休んでいれば彼等は大挙してその人に群がる。自衛隊員の訓練中の体験談で似たような話を聴いた記憶がある)。。まさにここは最後に良安が、ちらと、『私が同定している大型のマダニ類とこいつらは違うかも?』と疑問に思った場面なのであった!]

2016/05/30

キイロ・キイロ・キイロ……コイヌ・コイヌ・コイヌ……

キイロ・キイロ・キイロ……
コイヌ・コイヌ・コイヌ……
 
これは何か?……近いうちにくる私の820000アクセス記念テクストで明らかになる……

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或資本家の論理

 

       或資本家の論理

 

 「藝術家の藝術を賣るのも、わたしの蟹の鑵詰めを賣るのも、格別變りのある筈はない。しかし藝術家は藝術と言へば、天下の寶のやうに思つてゐる。あゝ言ふ藝術家の顰みに傚へば、わたしも亦一鑵六十錢の蟹の鑵詰めを自慢しなければならぬ。不肖行年六十一、まだ一度も藝術家のやうに莫迦莫迦しい己惚れを起したことはない。」

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」と、後の「或資本家の論理」の全十一章で初出する。

 

・「蟹の鑵詰め」「日本製缶協会」公式サイト内の「缶詰・製缶業界のあゆみ」の「大正時代」によれば(以下、本注内の下線は総てやぶちゃん)、『日清戦争で台湾、日露戦争で北洋漁業と大きな資源を確保した日本はパイナップル、鮭鱒・カニを原料とした缶詰の発展を見た。さらにタケノコ、グリーンピース等の蔬菜の缶詰も出現し』、『今日の様な水産、畜肉、果実、蔬菜と様々な分野の缶詰が誕生した』。『缶詰の製造が一つの産業として確立すると』、『日露戦争の後の軍需が一旦途絶えるものの』、『欧米人の嗜好にあった缶詰を開発することで輸出産業として缶詰産業は大きく転換した』。『代表する例として千島・樺太のカニ缶詰、カムチャツカのサケ缶詰である』。『いずれも水煮で欧米人に歓迎され品質も優良だったといわれている』。『そのほか、カキ、エビ、貝柱、グリーンピースなどもこれに加わった』。大正一一(一九二二)年に『サケ缶詰の国内消費拡大を目的とした「缶詰普及協会」が創立され輸出とともに国内の需要拡大を図った。当普及協会の活動としては、①市販缶詰開缶研究会②研究会に出品の優良缶詰に推奨マークの貼付③缶詰の宣伝試食等を行っている』。大正一二(一九二三)年に『相模湾を震源地とする関東大震災が発生し、京浜地帯に壊滅的な打撃を与えたが、その時避難民の救済に缶詰が使われ、はからずも国内の需要を高めるきっかけになった』。『大正年間に缶詰業からの製缶業の分離・独立は下記の経緯を辿った。明治維新以降、我が国においては缶詰業が勃興したが明治年間においては、缶詰業と製缶業の分離がなされず、それぞれの缶詰工場にて製缶の熟練工を抱え缶を製造していた。しかし、北洋漁業のサケ・マスを原料とした缶詰製造を開始した堤商会が』、大正二(一九一四)年に『米国より自動製缶機を購入し、カムチャツカにて缶詰を製造した。この自動製缶機は高性能であり、自社が製造する缶詰以上の能力を発揮した』。大正五(一九一六)年にはこれを『函館に移設し』、『自動製缶機の空缶製造の余力分を外部の缶詰会社に販売した事が缶詰製造と製缶業が分離した始まり』となった。『しかし、名実ともに缶詰業から製缶業が分離・独立したのは』大正六(一九一七)年の『大阪にて米国から自動製缶機を購入し、創業した東洋製罐株式会社であった』。大正一〇(一九二一)年には、『北海製罐倉庫株式会社が創業した。同社は北洋漁業関連の空缶製造を目的に設立された。また』、大正一四(一九二五)年には『函館に日本製罐株式会社が創業した。この製缶業の分離・独立によって、それまでの缶詰業者が勝手な寸法の缶を注文し、製缶会社が多品種小ロットの生産を強いられていたものを、より安価な空缶を提供することを目的に、缶詰業者と協議の上、空缶の規格統一化が推進された』とある。なお、小林多喜二の「蟹工船」が発表されるのは龍之介の死から二年後の昭和四(一九二九)年(『戦旗』初出)でのことである)。また、ウィキの「蟹工船によれば、「あらすじ」の項に、『蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用される、漁獲物の加工設備を備えた大型船である。搭載した小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに母船で蟹を缶詰に加工する』。『蟹工船は「工船」であって「航船」ではない。だから航海法は適用されず、危険な老朽船が改造して投入された』。『また工場でもないので、労働法規も適用されなかった』。『そのため蟹工船は法規の真空部分であり、海上の閉鎖空間である船内では、東北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者に対する資本側の非人道的酷使がまかり通っていた。また北洋漁業振興の国策から、政府も資本側と結託して事態を黙認する姿勢であった』。『情け知らずの監督である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは劣悪で過酷な労働環境の中、暴力・虐待・過労や病気で次々と倒れて』いったのであった。同ウィキの「現実の蟹工船」の項には、『夏場の漁期になると貨物船を改造した蟹工船と漁を行う川崎船が北方海域へ出て三ヶ月から半年程度の期間活動していた。 蟹工船は漁をしていない期間は通常の貨物船として運行しており、専用の船があったわけではない。 蟹の缶詰は欧米への輸出商品として価値が高かったため、大正時代から』昭和四十年代まで『多くの蟹工船が運航されていた』。大正一五(一九二六)年九月八日附『函館新聞』の記事には、『「漁夫に給料を支払う際、最高二円八〇銭、最低一六銭という、ほとんど常軌を逸した支払いをし、抗議するものには大声で威嚇した」との記述がある。逆に、十分な賃金を受け取ったという証言もある。「脱獄王 白鳥由栄の証言」(斎藤充功)において』、白鳥由栄(明治四〇(一九〇七)年昭和五四(一九七九)年:吉村昭の「破獄」で知られる「昭和の脱獄王」)『は収監以前に働いていた蟹工船について「きつい仕事だったが、給金は三月(みつき)の一航海で、ゴールデンバット一箱が七銭の時代に三五〇円からもらって、そりゃぁ、お大尽様だった」と述べている』。大正一五(一九二六)年に十五歳で『蟹工船に雑夫として乗った高谷幸一の回想録では』、陸で働く十倍にも『なると述べているが、単調な』一日二十時間労働で『眠くなるとビンタが飛ぶ過酷な環境で』、大半は一年で『辞めるところ、高谷幸一は金のために』五年も『働いたと証言している』。『高い給料を貰える代わりに、睡眠時間は短く、狭い漁船の中で何カ月も過ごさなくてはならず(監禁に近い)、食料も限られた。そのため、ストレスや過労により環境がおかしくなり、陸では温厚な人物ですら、鬼に変えてしまうほど精神的に追い詰められ』たとある。そういうことをしていたトップにいたのが、この爺(じじい)であったことをよく知った上で、このアフォリズムは読まれなければならない

・「顰みに傚へば」「ひそみにならへば(ひそみにならえば)」と読む。元来は「西施(せいし)の顰みに倣う」で美人の西施が病気で顔を顰(しか)めたところが、それを見た醜女(しこめ)らが自分も顔を顰めれば美しく見えるのかと思って真似をしたという「荘子(そうじ)」「天運篇」に載るの故事から、「善し悪しも考えずに人の真似をして物笑いになる」意であるが、ここはそこから派生した、他人に倣(なら)って事を成すことを遜(へりくだ)っていう謂いである。但し、それがまたこの資本家の用法では慇懃無礼ななものとなり、蟹缶と合わせて生臭く面白いのである。

・「六十錢」先に十円を今の金額に換算すると凡そ一万円から五万円相当、中をとって三万円ほどとしたから、六百円から三千円、中をとって千八百円相当か。

・「行年六十一」「きやうねん(きょうねん)」「ぎやうねん(ぎょうねん)」「かうねん(こうねん)」といかようにも読む(私は私が死んだ年の意味では「こうねん」とは個人の趣味で発音しないので、それで読みたい。筑摩全集類聚版では「ぎやうねん」とルビする)。ここは単に今まで生きて来た年数の意で、数え六十一だから、単純に発表時から換算すると、文久三・元治元年(一八六四)年に相当する。

・「己惚れ」「うぬぼれ」「おのぼれ」二様に読めるが、私は後者で読みたい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 森鷗外

 

       森鷗外

 

 畢竟鷗外先生は軍服に劍を下げた希臘人である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」と、後の「或資本家の論理」の全十一章で初出する。但し、本章は単行本「侏儒の言葉」ではカットされた。森鷗外(本名・森林太郎 文久二(一八六二)年~大正一一(一九二二)年七月九日)は、ご覧の通り、この発表の二年前四ヶ月前に亡くなっている(死因は萎縮腎及び肺結核)。彼は作家である前に公的には陸軍軍医(最高位で明治四〇(一九〇七)年十月に中将相当陸軍軍医総監に昇進、人事権をもつ軍医最高位である陸軍省医務局長に就任している)で、当時の軍人の佩刀は当然であるから、このアフォリズムのオリジナリティは「希臘人である」の部分にあることになる(「希臘」は「ギリシア」で読んでおく)。無論、これは古代ギリシャ人の謂いで、さすれば、ギリシャの先哲らのように、武人にして政治家・博物学者・文学者・科学者あり、それ前に哲学者や美学者であるといった八面六臂の総合的才知の持ち主の謂いではあろう。しかしでは何故、これを単行本から削除したのか? それは思うに捻りも何にもない前振りが、逆に芥川龍之介自身の軍人嫌いの生理的不快を自分で刺戟してしまったからだろうとまずは言える。さらに、知られたことであるが、彼が「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まる最後の遺言(七月六日附)を残していたため、その遺言に従って、墓には一切の栄誉と称号を排し、ただ「森林太郎ノ墓 」とのみ刻されている(私も大学に入ったその年の四月に一度だけ、三鷹市の禅林寺に墓参したことがある。但し、ウィキの「森鷗外」の注によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『遺言を残した翌七月七日に天皇と皇后から葡萄酒が下賜され、八日に摂政宮(のちの昭和天皇)から御見舞品が下賜され、従二位に叙せられた。鷗外本人は、遺言を残した六日夜半から容体が悪化し、七日夕刻から昏睡状態に入っ』たとしながら、『もっとも、死去する前日の八日に従二位に叙せられたこと』から、一部の研究者は『鷗外最後の遺言を疑問視し、鷗外の叙爵への執着を指摘し』ており、『鷗外が石黒忠悳』(ただのり 弘化二(一八四五)年~昭和一六(一九四一)年陸軍軍医。子爵。鷗外の上官)『によって貴族院議員に推挙された際に喜んでお受けしたい旨の返書を送ったという日記(大正五年一月六日)の記述を挙げ、鷗外が臨終の際に袴をはいていたのは叙爵の使者を迎えるためだったと指摘』されてもいる)。孰れにせよしかし、世間に於いては謎めいた軍人としての事蹟の拒絶を示すような遺言の文々(もんもん)がいろいろと軍内部の確執などが噂された(事実あったともする研究者は多いようだ)ことから、龍之介は草葉の陰で鷗外の霊が恨むというより、このアフォリズムが彼の意図とは異なった形で曲解される(ごく短文なればこそ作者の意図とは真逆に解釈される(それがどのようなおぞましいものかは私には生憎想起出来ないが)可能性は高い)ことを憚った故の削除であったような気が私がしている。取り敢えず謂い添えておくなら、龍之介は三中時代から師漱石の諸作とともに鷗外の作品にも親しんではいた。生涯に少なくとも三度は面会している。また、鷗外に〈歴史其儘〉やら〈歴史離れ〉の歴史小説があって、龍之介の王朝物・切支丹物・近世物などを始めとする寓話的なそれらは確かに「歴史物」ではあるものの、両者は自ずとはなはだ懸隔したものであると言える。龍之介は「文藝的な、餘りに文藝的な」(昭和二(一九二七)年『改造』。リンク先は私の電子テクスト)の「十三 森先生」では以下のように述べている。全文を引く。

    *

 僕はこの頃「鷗外全集」第六卷を一讀し、不思議に思はずにはゐられなかつた。先生の學は古今を貫き、識は東西を壓してゐるのは今更のやうに言はずとも善(よ)い。のみならず先生の小説や戲曲は大抵は渾然と出來上つてゐる。(所謂ネオ・ロマン主義は日本にも幾多の作品を生んだ。が、先生の戲曲「生田川」ほど完成したものは少かつたであらう。)しかし先生の短歌や俳句は如何に贔屓目に見るとしても、畢に作家の域にはひつてゐない。先生は現世にも珍らしい耳を持つてゐた詩人である。たとへば「玉篋兩浦嶼(たまくしげふたりうらしま)」を讀んでも、如何に先生が日本語の響を知つてゐたかが窺はれるであらう。これは又先生の短歌や俳句にも髣髴出來ない訣ではない。同時に又體裁を成してゐることはいづれも整然と出來上つてゐる。この點では殆ど先生としては人工を盡したと言つても善(よ)いかも知れない。

 けれども先生の短歌や發句は何か微妙なものを失つてゐる。詩歌はその又微妙なものさへ摑めば、或程度の巧拙などは餘り氣がかりになるものではない。が、先生の短歌や發句は巧は即ち巧であるものの、不思議にも僕等に迫つて來ない。これは先生には短歌や發句は餘戲に外ならなかつた爲であらうか? しかしこの微妙なものは先生の戲曲や小説にもやはり鋒芒を露はしてゐない。(かう云ふのは先生の戲曲や小説を必しも無價値であると云ふのではない。)のみならず夏目先生の餘戲だつた漢詩は、――殊に晩年の絶句などはおのづからこの微妙なものを捉へることに成功してゐる。(若し「わが佛(ほとけ)尊(たふと)し」の譏りを受けることを顧みないとすれば。)

 僕はかう云ふことを考へた揚句、畢竟森先生は僕等のやうに神經質に生まれついてゐなかつたと云ふ結論に達した。或は畢に詩人よりも何か他のものだつたと云ふ結論に達した。「澀江抽齋」を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてゐる。いや、或は書かなかつたとしても、先生の精力は聰明の資と共に僕を動かさずには措かなかつたであらう。僕はいつか森先生の書齋に和服を着た先生と話してゐた。方丈の室に近い書齋の隅には新らしい薄緣りが一枚あり、その上には蟲干しでも始まつたやうに古手紙が何本も並んでゐた。先生は僕にかう言つた。――「この間柴野栗山(しばのりつざん)(?)の手紙を集めて本に出した人が來たから、僕はあの本はよく出來てゐる、唯手紙が年代順に並べてないのは惜しいと言つた。するとその人は日本の手紙は生憎月日しか書いてないから、年代順に並べることは到底出來ないと返事をした。それから僕はこの古手紙を指さし、ここに北條霞亭の手紙が何十本かある、しかも皆年代順に並んでゐると言つた。」! 僕はその時の先生の昂然としてゐたのを覺えてゐる。かう言ふ先生に瞠目するものは必しも僕一人には限らないであらう。しかし正直に白狀すれば、僕はアナトオル・フランスの「ジアン・ダアク」よりも寧ろボオドレエルの一行を殘したいと思つてゐる一人である。

   *

 この後半に出るシークエンスを問題にして、山崎一頴(かずひで)氏は「森鷗外と龍之介」(『国文学』一九三九年三月)の中で、『晩年の龍之介の精神は、魂の震えの如き繊細な神経で支えられていた。しかも壊れ易いガラスのような精神の芥川の眼前で、鷗外は北條霞亭の年次なき書簡を編年に並べ平然としていた。芥川はその強靭な精神に恐らく羨望と恐怖と嫌悪とを感じた』と述べて、龍之介の鷗外に対する、敬して遠ざくが如き微妙な雰囲気を非常に上手く表現されておられる(以上の山崎氏の論の引用は、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の林正子氏の「森鷗外」の項に引用されているものを孫引きしたものであることを断わっておく)。まさに、この龍之介を含めたありとある現代人が『羨望と恐怖と嫌悪とを感』ずるところの、恐るべき『強靭な精神』の持ち主なればこそ、龍之介は彼を「希臘人」と呼んだのではあるまいか。

 私が最初に担任した教え子の女性は今や、森鷗外の第一人者である。軽々なことは語れぬ。これを以ってとめおくことと致す。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  ポオ

 

       ポオ

 

 ポオはスフインクスを作る前に解剖學を研究した。ポオの後代を震駭した祕密はこの研究に潜んでゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」と、後の「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。アメリカの詩人であり、幻想作家であったエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)は芥川龍之介が生涯を通じて偏愛した作家であり、このアフォリズムも短章ながらも、この作家アフォリズムの中では極めて素直な感懐を表明している。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の山本健氏の「ポー」の項を参考に以下、叙述すると(引用は総て私が岩波旧全集に当たってオリジナルに長く引いており、途中に私の感想も挿入しているので注されたい。お手軽に山田氏のそれを引用したものではないということである。龍之介の作品へのリンクは「ポーの片影」を除いて総て私の電子テクストである)、山田氏は龍之介は大正二(一九一三)年(満二十一歳の一高卒業前後)にはポーを系統立てて読み始めていたらしいと指摘され、書簡(大正四(一九一五)年五月二十三日附井川(後に恒藤)恭宛・岩波旧全集書簡番号一六〇)の記載から、彼が『ポーをゴシック・ロマンの系譜に位置付けて』いることが判る、とある。この大正五年当時を回想した「あの頃の自分の事」(大正八(一九一九)年一月『中央公論』)の「四」では谷崎潤一郎を評して(下線やぶちゃん。ここが龍之介の当時のポー観である)、谷崎の『美しい悪の花は、氏の傾倒してゐるポオやボオドレエルと、同じ莊厳な腐敗の香を放ちながら、或一點では彼等のそれと、全く趣が違つてゐた。彼等の病的な耽美主義は、その背景に恐る可き冷酷な心を控へてゐる。彼等はこのごろた石のやうな心を抱いた因果に、嫌でも道德を捨てなければならなかつた。嫌でも神を捨てなければならなかつた。さうして又嫌でも戀愛を捨てなければならなかつた。が、彼等はデカダンスの古沼に身を沈めながら、それでも猶この仕末に了へない心と――une vieille gabare sans mâts sur une mer monstrueuse et sans bords 』(筑摩全集類聚版脚注に『果てしない、恐ろしい海の上のマストもない一隻の老朽船。(仏)。ボードレールの「悪の花」の中の「七人の老爺」の一節』とある)『の心と睨み合つてゐなければならなかつた。だから彼等の耽美主義は、この心に刧』(おびや)『かされた彼等の魂のどん底から、やむを得ずとび立つた蛾の一群だつた。従つて彼等の作品には、常に Ah! Seigneur, donnez-moi la force et le courage / De contempler mon cœur et mon corps sans dégoút 』(筑摩全集類聚版脚注に『ああ、主よ、力と勇気とを与え給え、嫌悪なくしてわが心と肉体を熟視するための。(仏)。ボードレールの「悪の花」の中の「シテールへの或る旅」の最後の句』とある)『と云ふせつぱつまつた嘆聲が、瘴氣の如く纏綿してゐた。我々が彼等の耽美主義から、厳肅な感激を浴びせられるのは、實にこの「地獄のドン・ジユアン」のやうな冷酷な心の苦しみを見せつけられるからである。しかし谷崎氏の耽美主義には、この動きのとれない息苦しさの代りに、餘りに享樂的な余裕があり過ぎた。氏は罪惡の夜光蟲が明滅する海の上を、まるでエル・ドラドでも探して行くやうな意氣込みで、悠々と船を進めて行つた。その點が氏は我々に、氏の寧』(むしろ)『輕蔑するゴオテイエを髣髴させる所以だつた。ゴオテイエの病的傾向は、ボオドレエルのそれとひとしく世紀末の色彩は帶びてゐても、云はば活力に滿ちた病的傾向だつた。更に洒落て形容すれば、宝石の重みを苦にしてゐる、肥滿したサルタンの病的傾向だつた。だから彼には谷崎氏と共に、ポオやボオドレエルに共通する切迫した感じが缺けてゐた』と批判している(ここでの谷崎への辛口批評はすこぶる痛快であり、私も極めて共感するものであるが、ここは下線部に注目されたい)。山田氏は、『つまり芥川はポーやボードレールの耽美主義やデカダンスの背後に、享楽的余裕とは無縁な、神や道徳に反逆した者の「恐る可き冷酷な心」を見ていたのである。感覚的、刹那的唯美主義の内包する悲劇の可能性をいち早く予感していた芥川は、晩年の作品群』、ことに「齒車」『などにおいて、「恐る可き冷酷な心」の崩壊のドラマを、自らの「切迫した感じ」に最終的な形を与えることで演じきってしまうことになる』と評されておられる。最後の部分などは至極共感する謂いである。大正八(一九一九)年の「妖婆」(『中央公論』)の冒頭段には、『この大都會の一隅でポオやホフマンの小説にでもありさうな、氣味の惡い事件が起つたと云ふ事は、いくら私が事實だと申した所で、御信じになれないのは御尤です』とあり、随筆「點心」(大正一〇(一九二一)年『新潮』)の「Ambroso Bierce」(アメリカの作家アンブローズ・ギンネット・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce 一八四二年~没年不祥:一九一三年、七十一歳の時に自らも関わった南北戦争の旧戦場を巡る旅に出たまま失踪した)についてのアフォリズム)の中では、「(一)短篇小説を組み立てさせれば、彼程鋭い技巧家は少い。評論がポオの再來と云ふのは、確にこの點でも當つてゐる。その上彼が好んで描くのは、やはりポオと同じやうに、無氣味な超自然の世界である。この方面の小説家では、英吉利に Algernon Blackwood があるが、到底ビイアスの敵ではない』と記す。山田氏はこの後に本アフォリズムを挙げ、『芥川の言う「技巧」即ち「解剖学」とは、ポーが「構成の原理」』(The Philosophy of Composition 一八四六年)『で説き明かした、作品校正過程を徹頭徹尾、意識化、方法化していく分析的創作原理』の謂い『に他ならない』とされる(下線やぶちゃん)。また、龍之介は文藝的な、餘りに文藝的な(昭和二(一九二七)年『改造』)の「三十七 古典」で、『元來東西の古典のうち、大勢の讀者を持つてゐるものは決して長いものではない。少くとも如何に長いにもせよ、事實上短いものの寄せ集めばかりである。ポオは詩の上にこの事實に依つた彼の原則を主張した。それからビイアス(Ambrose Bierce)は散文の上にもやはりこの事實に依つた彼の原則を主張した。僕等東洋人はかう云ふ點では理智よりも知慧に導かれ、おのづから彼等の先驅をなしてゐる。が、生憎彼等のやうに誰もかう云ふ事實に依つた理智的建築を築いたものはなかつた。若しこの建築を試みるとすれば、長篇源氏物語さへ少くとも聲價を失はない點では丁度善い材料を與へたであらうに。(しかし東西兩洋の差はポオの詩論にも見えないことはない。彼は彼是(かれこれ)百行の詩を丁度善い長さに數へてゐる。十七音の發句などは勿論彼には「エピグラム的」の名のもとに排斥されることであらう。)』と記した如く、『意識的姿勢を貫徹し、あらかじめ想定された効果を達成するには作品は短ければ短いほどよい』(山田氏の解説より引用)と考えており、アフォリズム「藝術その他」(大正八(一九一九)年『新潮』)の冒頭で『藝術家は何よりも作品の完成を期せねばならぬ。さもなければ、藝術に奉仕する事が無意味になつてしまふだらう。たとひ人道的感激にしても、それだけを求めるなら、單に説教を聞く事からも得られる筈だ。藝術に奉仕する以上、僕等の作品の與へるものは、何よりもまづ藝術的感激でなければならぬ。それには唯僕等が作品の完成を期するより外に途はないのだ』と書いたように、『短編小説の形式、構成、文体に完璧を期することを課題とした芥川が、ポーに短篇作法の規範を求めたのは当然の成り行きと言えた』と山田氏は記しておられる。なお、芥川龍之介には珍しく敬体で記された随筆片影」(大正一四(一九二五)年『秋田魁新報』。このリンクのみ青空文庫版)があり、またそれと縁の深い、死の年の昭和二(一九二七)年の二月に新潟高等学校で講演した「ポオの一面」がある。後者は以前から電子化したいと思っているものであるが(元は原稿ではなく、芥川龍之介自身の名刺二十一枚の裏に記された講演用メモである)、英文記載がはなはだ多く、注に時間がかかることから、二の足を踏んでいる。これを機に手がけてみようとは思う)。

 

・「スフインクス」短篇小説「スフィンクス」(The Sphinx 一八四六年)。平成七(一九九五)年新潮文庫刊「侏儒の言葉・西方の人」で注解を担当されている神田由美子氏はポーをあまりお読みになったことがないらしい。スフィンクスの辞書的説明の後に、『ここではポーの怪奇で夢幻的な小説のことをさす』という半可通な注が附く(私は若き日からポーの愛読者である)。これでは、ポーは小説活動に入る前に本格的な解剖学を修学修得したとしか読めないが、彼の経歴にそのような事実は、ない(彼は詩人としてデビューし、小説家活動を始めるのは一八三二年である。因みに、彼の専門的な修学はラテン語やギリシャ語に始まる驚異的な語学力(諸言語を自在に読めた)による博物学的な広汎な古典研究を主体(他にドイツ文学を好んだ)としている)。但し、冒頭に引用した井上健氏の見解(私が下線を引いた箇所の五番目のところ)に照らすならば、神田氏のこの謂いは、結果としては、正しいとは言える。しかしやはりここは実際のポーの小説「スフィンクス」を注としては示さなければ私は不十分と思う。

 怪奇的でミステリアスな謎解き物の短篇「スフィンクス」は、主人公「僕」が親戚の招待を受けてハドソン川河畔の別荘で二週間避暑に出向いたという語りから始まる(以下、私の所持する一九七四年東京創元社刊「ポオ小説全集 4」の丸谷才一氏の訳を参考に梗概を記す。最後はネタばれになるが、この注としてはどうしても必要である。ポオ・フリークの私としては、未読の方はお読みになってからの方がよかろうとは存ずる)。

   *

――当時、ニューヨークでコレラが猖獗を極めており、毎日のように友人の死の報知が齎され、南部から吹いてくる風には死の匂いが感じられるほどに、「ぼく」の心は死の予感に満ち満ちたものであった。

――とある焼けるように暑い日の夕刻、窓辺に腰かけて読書をしながら、ふと、眼を上げてみると、遙か彼方の山の頂きから、その麓へと、斜面を急速に下ってゆく、古い軍艦ほどもある恐ろしく大きな黒い怪物が蠢くのを目撃する。それは七十四門もの大砲状の突起物を備えており、直径は象の胴体ぐらい、長さ十九~二十一メートルもある鼻状の突起物の先に口が開口している。その鼻の基部には水牛二十頭分の毛を集めたのより多い、膨大な黒い毛が密生しており、その下方には光り輝く二本の、猪のそれを途方もなく大きくしたような牙が垂直にそそり立っている。別に鼻に平行に、左右から九~十二メートルある棒状の突起が前方に突き出ているが、これは純正の水晶製のように観察出来た。それは完璧なプリズムを成して、黄昏の光を絢爛に反射していたからである。胴体は地面に尖端を突き刺した杭のような形状を成し、そこから二対の翼(一枚のそれは長さ九十一センチメートル強)が生えていて、一対は今一対の翼の上に重なっており、その上の翼の背面は総て金属の鱗で覆われている。その一枚一枚の鱗の直径は三~三・六メートルほどと推定され、上下段の翼は鞏固な鎖によって連結されてあった。そうしてその最も恐るべき特徴は、その胸部の殆んど全面を覆っている髑髏(どくろ)の絵にあった。それは黒地の体に絵師が念を入れて描きあげたかの如く、くっきりとまぶしい白で刻まれてあったのである。そうして、鼻の尖端にある巨大な顎状のものを突如、大きく拡げたかと思うと、哀しげな轟然たる声がそこから響き、そいつは麓の森の中へと姿を消した。瞬間、「僕」は失神して床に倒れた。

――それから三、四日した夕暮れ、その異様な怪物を目撃した部屋で「ぼく」は友人(別荘の主人)にそれを告白する。友人は最初は腹を抱えて笑い、後には「ぼく」が発狂したと思ったことを示す態度に変わる。

――ところが、その瞬間、「ぼく」は再び、あの怪物の姿を目撃した。恐怖の叫びを挙げて、彼に注意を促すと、目の前の友にその辿る行路まで子細に説明した。友人は熱心に聴いた。しかし彼は「何も見えない」と答えた。「ぼく」は激しい不安に襲われた。「ぼく」の幻は「ぼく」の死の予兆ではないのか?! と……

――しかし友人は冷静さを取り戻し、「ぼく」からその野獣の形状や細部について問い質すと(以下、二重括弧内は丸谷氏の訳)、『人間のおこなうあらゆる観察において、誤りの主たる原因となるものは、対象が近い距離にあることを図りそこね、その対象を過小評価ないし過大評価することだ』、『「たとえば」と彼は言った』、『「民主主義の普及が広く人類に及ぼす影響を正しく評価するには、この普及が達成されるのはおそらく遠い将来においてであるということが、まずその評価の一要素でなければならぬ、ところが、問題のこの点について、論ずるに値するだけ考えぬいた政治家が、今まで一人でもいたでしょうか?」』(因みに、この友人の言葉、「侏儒の言葉」に載っていてもおかしくない!)。

――そこで彼は話をやめ、書棚から一冊の博物学概論を抜きとって、その本の小さな活字がよく見えるように席を代わって呉れと言ったので、「ぼく」は「ぼく」の坐っていた窓辺の椅子を彼に譲った。そうして徐ろに、『「君が怪物のことをことこまかに描写してくれなかったら」と彼は言った。「その正体を示すことはできなかったろうね。まず昆虫(インセクタ)』、つまり虫なんですよ、『鱗翅目(レピドプテラ)、薄暮族(クレプスクラリア)、スフィンクス種についての、学生むきの説明を読み上げよう……』(以下、「ぼく」が見たものと酷似した『髑髏(されこうべ)スフィンクス』という有翼生物についての奇体な生物の解説が載る。そこは訳書をお読みあれ。因みに、当該の原文は、

   *

"But for your exceeding minuteness," he said, "in describing the monster, I might never have had it in my power to demonstrate to you what it was. In the first place, let me read to you a schoolboy account of the genus Sphinx, of the family Crepuscularia of the order Lepidoptera, of the class of Insecta--or insects. The account runs thus:

"'Four membranous wings covered with little colored scales of metallic appearance; mouth forming a rolled proboscis, produced by an elongation of the jaws, upon the sides of which are found the rudiments of mandibles and downy palpi; the inferior wings retained to the superior by a stiff hair; antennae in the form of an elongated club, prismatic; abdomen pointed, The Death's--headed Sphinx has occasioned much terror among the vulgar, at times, by the melancholy kind of cry which it utters, and the insignia of death which it wears upon its corslet.'"

   *

である)

――そうして友人はその席で「ぼく」がさっき怪物を目撃した姿勢をとると、『「山肌を降りてゆく。とても目立つ姿だ。でも君が想像したほどは消して大きくないし、遠くへだたってるわけでもない。なぜって、窓枠に張った糸の上を、のたくって登ってゆくのだもの、こいつはいくら大きくったって十六分の一インチぐらい』(一・五ミリメートル)『でしょう。ぼくの眼から十六分の一インチぎらうしか離れていないのですよ」』(完)

   *

なお、この怪物の正体とする原文の「Lepidoptera」は現行も実際の鱗翅(チョウ)目であるが、「Crepuscularia」という族は少なくとも現行ではタクサに存在しない。但し、シャクガ科エダシャク亜科Ectropis属フトフタオビエダシャク Ectropis crepuscularia の種小名に同一の学名を見出せる。「Sphinx」スズメガ亜科 Sphinginae Sphinx属がいるが、上記原文にあるような蛾ではない。メンガタスズメ(面形天蛾、学名: Acherontia styx)は、チョウ目スズメガ科の昆虫。ガの一種。この怪物の特徴的な髑髏(どくろ)面で蛾となると、本邦にも棲息するチョウ目 Glossata 亜目Heteroneura下目カイコガ上科スズメガ科スズメガ亜科 Acherontiini 族メンガタスズメ属メンガタスズメ Acherontia styx 及びその近縁種がおり、彼等はまさに「髑髏(どくろ)蛾」「骸骨蛾」と呼ばれる(種小名 styx はギリシャ神話の冥府を取り巻いて流れる川ステュクス(仏教の三途の川に相当)に由来する)がいるが、本作の最後では「spider」(原文)とはっきりと書かれているから蛾ではない。体表に――白抜きのドクロ紋――を持つクモ類というのはいそうな気はするが、確認出来ない。識者の御教授を乞う。ともかくも原文で引いた「The Death's--headed Sphinx」というのは叙述から見ても蛾である(但し、「the melancholy kind of cry which it utters」(丸谷氏訳『その憂鬱な叫び声』)は挙げない)。ということは、極小のメンガタスズメ Acherontia styx を捕捉した極小のクモが「ぼく」の眼前を通り過ぎたということなのか? やや不審ではある。

・「震駭」「しんがい」。驚いて、震え上がること。]

2016/05/29

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) モオパスサン

 

       モオパスサン

 

 モオパスサンは氷に似てゐる。尤も時には氷砂糖にも似てゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」と、後の「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant  一八五〇年~一八九三年)についてはさんざんっぱら、先行する「戀は死よりも強し」で注した。されば、そちらを参照されたいが、これはそこでも引用したように、若き日に強烈に感心し、惹かれた彼に対して、文壇の寵児となった龍之介の認識が見た目、真逆に変容したことを、彼はここでかく直喩したかのように読める。「あの頃の自分の事」の初出(大正八(一九一九)年一月『中央公論』)の第二章で、龍之介は感服した作家としては、「何よりも先ストリントベルグだつた」とし、彼には「近代精神のプリズムを見るやうない心もちがした。彼の作品には人間のあらゆる心理が、あらゆる微妙な色調の變化を含んだ七色に分解されてゐた」とまで持ち上げた上で、「ぢや嫌ひな方は誰かと云ふと、モオパスサンが大嫌ひだつた。自分は佛蘭西語でも稽古する目的の外は、彼を讀んでよかつたと思つた事は一度もない。彼は実に惡魔の如く巧妙な贋金使だつた。だから用心しながらも、何度となく贋金をつかまさせられた。さうしてその贋金には、どれを見ても同じやうな Nihil と云ふ字が押してあつた。強いて褒めればその巧妙さを褒めるのだが、遺憾ながら自分はまだ、掏摸に懷のものをひきぬかれて、あの手際は大したものだと敬服する程寛大にはなり切る事が出來ない。」とまで言い切っている。また、大正一〇(一九二一)年二月『中央文學』発表の「佛蘭西文學と僕」の中でも龍之介は、「ド・モオパスサンは、敬服(けいふく)しても嫌ひだつた(今でも二三の作品は、やはり讀むと不快な氣がする。)」と述べている。

――モーパッサンの作品は若き日に私が強く惹かれて感心し、恰も「一片の氷心 玉壺に在」るかの如く見えることもある(あった)けれど、時によると、それは壺に手を入れて触って見なくても、ただの氷砂糖の塊りでしかないようにも見えるのであった(見えたことがあった)のである。――

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) フロオベル

 

       フロオベル

 

 フロオベルのわたしに教へたものは美しい退屈もあると言ふことである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」と、後の「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)に就いては既に戀は死よりも強しの注で少し述べた。但し、今回、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の山田俊治氏の「フローベール」の項を読むに、芥川龍之介が彼に抱いた、やはりかなりアンビバレントな感懐を認識することが出来た。山田氏は芥川龍之介のフローベール観は「澄江堂雜記」(大正一一(一九二二)年四月『新潮』)の以下に集約されるとする(引用は澄江堂雜記電子テクスト。以下同じ)。

   *

 

       藝術至上主義

 

 藝術至上主義の極致はフロオベルである。彼自身の言葉によれば、「神は萬象の創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。藝術家が創作に對する態度も、亦斯くの如くなるべきである。」この故にマダム・ボヴァリイにしても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には訴へて來ない。

 藝術至上主義、――少くとも小説に於ける藝術至上主義は、確かに欠伸の出易いものである。

 

   *

これはしかし、まさに本アフォリズムの格好の注であるとも言える。「美しい退屈」の「美しい」は「藝術至上主義」に基づく「小説」の謂いであり、それはまた「美しい」と同時に「確かに欠伸の出易い」「退屈」でもある。それは何故か? それはフローベールが「藝術至上主義の極致」でありそれは彼が「神は萬象の創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。藝術家が創作に對する態度も、亦斯くの如くなるべきである」と述べた如く、彼の代表作「ボヴァリー夫人」を読んでみ「ても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には」全く以って「訴へて來ない」からである、と言っているのである。山田氏は龍之介はフローベールの『作者の主観的な解釈を徹底的に排除した』『小説は、人生に対する教訓を与えることはない、それほどフローベールは研ぎ澄ました精神を持続させ、徹底した文章の彫琢によって実在と拮抗するようなミクロコスモスを物語世界に構築ていたのである』と書かれた上で、『芥川は、こうしたフローベールに親近感を抱き、早い時期から』、「モオパツサンは事象をありのままに見るのみではない ありのまゝに觀た人間を憎む可きは憎み 愛す可きは愛してゐる。その点で万人に不關心な冷然たる先生のフロオベエルとは大分ちがふ」(この書簡引用は山田氏とは違った意味で私は既にやはり戀は死よりも強しで引用している。どちらの引用が正しいか、読者の判断にお任せする)『という理解を示している』とされる。そうして、龍之介の遺稿機關車を見ながら(昭和二(一九二七)年九月『サンデー毎日』秋季特別号。掲載誌の本文文末には、この掲載に関わった編集者の文章があり、そこには本稿は、彼の自死の直前、五、六日ほど前に執筆されたものと推定される、とある)から、

   *

 我々はいづれも機關車である。我々の仕事は空(そら)の中に煙や火花を投げあげる外はない。土手の下を歩いてゐる人々もこの煙や火花により、機關車の走つてゐるのを知るであらう。或はとうに走つて行つてしまつた機關車のあるのを知るであらう。煙や火花は電氣機關車にすれば、ただその響きに置き換へても善い。「人は皆無、仕事は全部」といふフロオベエルの言葉はこのためにわたしを動かすのである。宗教家、藝術家、社會運動家、――あらゆる機關車は彼等の軌道により、必然にどこかへ突進しなければならぬ。もつと早く、――その外に彼らのすることはない。

   *

の一部を引き、『という一節まで変わらなかったといえる』と述べておられる。私は既に「幻滅した藝術家」の注で述べたように、芥川龍之介が最終的に芸術至上主義者であったこと(況やそのために自裁したなどというまことしやかな謂い)に現在、深い疑義を抱いており、それを否定する地平に立とうとしている。龍之介はフローベールの世界に惹かれた部分はあるであろう。それが、孤高な龍之介のミクロ・コスモスと有意な箇所で部分集合を成すことは凡愚な私にも解るからである。「人は皆無、仕事は全部」と呟きながら、薬物のために震える手で筆を運ぶ龍之介の坐った後ろ姿は確かに現前する。しかし、では、龍之介の退屈な小説を挙げよ、と言われて、私は一掌品も、否、一断片すら名指し示すことは出来ぬ。龍之介の作品には「美しい退屈」など微塵もない。その意味に於いて、私は龍之介が『フローベールに親近感を抱き』、その死の直前に至るまで、そのシンパシーは『変わらなかった』とする山田氏の見解には、到底、肯んずることが出来ないのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  ドストエフスキイ

 

       ドストエフスキイ

 

 ドストエフスキイの小説はあらゆる戲畫に充ち滿ちてゐる。尤もその又戲畫の大半は惡魔をも憂鬱にするに違ひない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」と、後の「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーФёдор Миха́йлович Достое́вскийFyodor Mikhailovich Dostoyevsky 一八二一年~一八八一年)は、人間の良心とは何かという根源的テーマ及びそこから繋がるある選択肢としてのキリスト教に於ける救済の問題に於いて、芥川龍之介に最も影響を与えた作家の一人と考えてよい。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の国枝夏紀氏の「ドストエフスキー」の項を参考にすると、龍之介が「罪と罰」(Преступление и наказание 一八六六年:彼の読んだのは英訳本)を読んだのは東京帝国大学に入学した大正二(一九一三)年の満二十一歳の時で、彼は友人に当てて、『ラスコルニコフのと云ふ hero のカラクタアは凄い程強く出てゐるこのラスコルニコフと云ふ人殺しとソニアと云ふ淫賣婦とが黃色くくすぶりながら燃えるランプの下で聖書(ラザロ復活の節――ヨハネ)をよむ scene は中でも殊に touching だと覺えてゐる始めてドストエフスキーをよんで大へんに感心させられた』(引用は国枝氏に拠らず、岩波旧全集から改めて引いた。「touching」は「感動的」の意。)と書き送っている(新宿(当時の芥川家の自宅。実父新原敏三の持家)発信・藤岡蔵六宛・岩波旧全集書簡番号一〇五より)。国枝氏は、この感動が後の、私の偏愛する「南京の基督」(大正九(一九二〇)年七月『中央公論』。リンク先は私のテクスト。以下同じ)に『余韻を残し、ランプの「妙に赤々と煤けた光」「うす暗い光」の下の物語という状況設定に生かされる。また』宋(底本は「沈」となっているが、主人公の少女の名は「宋金花」である)『金花の〈敬虔な私窩子〉の形象は、〈聖なる娼婦〉ソーニャに通じ、両者共通の源泉は〈罪深い女〉マグダラのマリアであろう』(「私窩子(しかし)」(「南京の基督」本文に『少女は名を宋金花と云つて、貧しい家計を助ける爲に、夜々その部屋に客を迎へる、當年十五歳の私窩子(しくわし)であつた』と出る通り、淫売婦・売春婦のことである) とされておられるのは、すこぶる同感である。龍之介がドストエフスキイの作品中第一とした「カラマーゾフの兄弟」(Братья Карамазовы 一八八〇年)の読了は大正六(一九一七)年の夏(当時は満二十五で横須賀の海軍機関学校の英語の教授嘱託で塚本文とは前年末に婚約していた)であったが、『この読書の成果は、翌々年』の「疑惑」(大正八(一九一九)年七月『中央公論』)に『生かされた。濃尾大地震と拝啓は異なるが、秘められた殺人の罪、狂気とみなされる告白という題材において、』「カラマーゾフの兄弟」の第六篇の第二パート、『ゾシマ長老の伝記部分の一節「謎の客」と共通する』とされる(これもほぼ共感出来る)。この「侏儒の言葉」の陰鬱々たる「ドストエフスキイ」の短文を経、遺作「齒車」(昭和二(一九二七)年の自死の三ヶ月後の十月発行の『文藝春秋』で全章掲載)では極めて奇怪な形で「罪と罰」と「カラマーゾフの兄弟」が再び立ち現われてくる。「五 赤光」の後半部である。

   *

 僕は僕の部屋へ歸ると、すぐに或精神病院へ電話をかけるつもりだつた。が、そこへはひることは僕には死ぬことに變らなかつた。僕はさんざんためらつた後、この恐怖を紛(まぎ)らす爲に「罪と罰」を讀みはじめた。しかし偶然開いた頁は「カラマゾフ兄弟」の一節だつた。僕は本を間違へたのかと思ひ、本の表紙へ目を落した。「罪と罰」――本は「罪と罰」に違ひなかつた。僕はこの製本屋の綴ぢ違へに、――その又(また)綴ぢ違へた頁を開いたことに運命の指の動いてゐるのを感じ、やむを得ずそこを讀んで行つた。けれども一頁も讀まないうちに全身が震へるのを感じ出した。そこは惡魔に苦しめられるイヴァンを描(えが)いた一節だつた。イヴァンを、ストリントベルグを、モオパスサンを、或はこの部屋にゐる僕自身を。………

   *

そうして、遺稿「或阿呆の一生」(昭和二(一九二七)年十月『改造』)にも、その名は挙げられている。

   *

 

       一 時代

 

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨオ、トルストイ、………

 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を讀みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、…………

 彼は薄暗がりと戰ひながら、彼等の名前を數へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根氣も盡き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

 「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」

 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。………
 

   *

――芥川龍之介の人生の最後の憂鬱の完成は――梯子の上に呆然と立ち尽くす二十(はたち)の龍之介がドリアン・グレイの肖像の如、一瞬のうちに幽霊のように痩せ衰えた魂の致死期の彼の姿に変貌するそれであった。……そうして……そこにも確かにドストエフスキイはいたのだった。……しかしそれは、アリョーシャ、では、なかった……]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  ユウゴオ

 

       ユウゴオ

 

 全フランスを蔽ふ一片のパン。しかもバタはどう考へても、餘りたつぷりはついてゐない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」と、後の「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。「ユウゴオ」「レ・ミゼラブル」(Les Misérables(不運な人・悲惨なる者):一八六二年完成。執筆開始は一八四五年で初期稿の題は Les Misères (不運・悲惨))で知られる、フランス・ロマン主義の詩人にして小説家、フランスの七月王政から第二共和政期には政治家でもあったヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor, Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)のこと。

 

・「一片のパン」「レ・ミゼラブル」の冒頭(作品内時制では一八一五年設定)に登場する主人公四十六歳の男ジャン・ヴァルジャン(Jean Valjean)は、貧しさゆえ、二十七の時にたった一本のパンを盗んだ罪によって十九年も服役していたことが明かされる。因みに、「レ・ミゼラブル」は黒岩涙香による翻案が「噫無情」(ああむじょう)の題で明治三五(一九〇二)年から翌年にかけて黒岩が創刊した日刊新聞『萬朝報(よろずちょうほう)』に連載され、ユーゴーの名も広く知れ渡ることとなった(当時、芥川龍之介十歳)。私の海外文学の幼少時体験の古層にある名作である。ウィキの「レ・ミゼラブル」がよく書けている。芥川龍之介は管見する限り、少なくとも、ユーゴーの反体制の気骨(私の電子テクスト「骨董羹壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文」の「俗漢」或いはそれを勝手現代語翻案した私の芥川龍之介「骨董羹寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案附註した「骨董羹(中華風ごった煮)寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと」という無謀不遜な試みの「俗漢――俗物」を読まれたい)や、大衆に対して持つ言葉の力強さという点では、非常に高く評価していたように読める(条件付きながらもそれがよく表われているのは『「改造」プロレタリア文藝の可否を問ふ』であろう(大正一二(一九二三)年二月発行の『改造』に「階級文藝に對する私の態度」で発表後、単行本「百艸」で改題)。そこで龍之介は彼を頼山陽と並らべ、国民とともにその『悲喜を同うする』ことは軽蔑してよいものではない、文章の彫琢に精緻を凝らすよりは彼らのそうした立位置は遙かに『江東なることを信ずるものなり』と断言している。芸術性の高さは別とするとしても、「文藝一般論」の「三 内容」(大正一四(一九二五)年四月文藝。春秋社編『文藝講座』中の掲載)、『レ・ミゼラブル」は兎に角通俗小説としても成功すると言はなけでばな』らぬ(累加の係助詞「も」に着目。ここは文芸的価値が高い小説と通俗小説を対比して解説している箇所である)ともあり、また、「點心」の時弊一つ(単行本化の際には削除。リンク先は私の初出復元版)でも『もし作品の鑑賞上、作家の傳記が役立つとすれば、それは作品が與へた感じに、脚註を加へるだけのものである。この限界を守らぬ評家は、たとひ作品の價値如何に全然盲目でないにしても、すぐに手輕な「鑑賞上の浪曼主義」に陷つてしまふ。惹いては知見に囚はれる餘り、味到の一大事を忘却した、上の空の鑑賞に流れ易い。私はかう云ふ弊風が、多少でも見えるのを好まぬのである。ユウゴオ、芭蕉、ベエトオフエンなぞが輕々に談られるのを好まぬのである』と芭蕉・ベートーヴェンの巨頭と一緒の挙げて警告しているほどである。しかし、龍之介は彼の作品の芸術上の輝きについては強いて賞揚していない。そうしたある種の、時に読み進めるに退屈を感じるような部分を、フランス・パン特有の、あのバターなしだとそのうちに食い飽きてしまうパサついた感じで出そうとしたのかも知れない。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 武者修業

 

       武者修業

 

 わたしは從來武者修業とは四方の劍客と手合せをし、武技を磨くものだと思つてゐた。が、今になつて見ると、實は己ほど強いものの餘り天下にゐないことを發見する爲にするものだつた。――宮本武藏傳讀後。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」と、後の「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。「武者修業」は「むしやしゆげふ(むしゃしゅぎょう)」でよい。筑摩全集類聚版は本文内ともに「武者修行」(「修行」なら「しゆぎやう(しゅぎょう)」)に書き換えられてある。頗る不審である(意味上では「修業」は広義に「技術の習得のための努力」で、「修行」は仏道に専心して務めたり、学問・武芸などを磨いて努力して学び修めるの謂いであるから、意味としての限定度からは「修行」はよりよい語ではあるものの、「修業」は誤りではない。筑摩全集類聚版は脚注が豊富であるが、本文校訂に甚だ問題が多いこともまた、事実である。

 さても何故、ここで宮本武蔵(天正一二(一五八四)年?~正保二(一六四五)年 言わずもがな、二刀流の二天一流兵法の開祖で優れた美術工芸品をも残した剣實は己ほど強いものの餘り天下にゐないことを發見豪)なのかは、一読、お分かりであろう。芥川龍之介は自らを宮本武蔵に擬えているのである。この号の配列を見るがよい。、宮本武蔵を語っておいて突如、この後から「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」と西洋の文豪を短評した後、やおら御大「森鷗外」先生を挙げるのである。この時、文壇の寵児となって(「鼻」発表は大正五(一九一六)年二月で未だ東京帝国大学生で満二十四歳)から僅か八年目、未だ満三十二である。こんな感懐(しかしそこには、対等に斬り結ぶことの出来る鋭い刃先を持った作家に出逢えぬという強い孤独感もある)を漏らす若い者が、三年後に自死してしまうというのも、私は何か妙に納得してしまうのである、幽かな哀感を覚えながら。

 

・「四方」「しはう(しほう)」でよかろう。諸地方・諸国・天下。

・「劍客」「けんかく」「けんきやく(けんきゃく)」孰れにも読めるが、ここは音の響きからは「けんかく」で読みたくなる(筑摩全集類聚版も「けんかく」とルビする)。

・「己」「おのれ」。

・「宮本武藏傳」二刀流二天一流兵法の開祖で、優れた美術工芸品をも残した剣豪宮本武蔵(天正一二(一五八四)年?~正保二(一六四五)年)関連の芥川旧蔵書には、岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、「宮本武蔵」(明治四一(一九〇八)年序。山田氏はこれ以外の書誌を記しておられない)が『残されているが、この伝記は未詳』とされる。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  事實

 

       事實

 

 しかし紛紛たる事實の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言ふことではない。クリストは私生兒かどうかと言ふことである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)と、後の「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。冒頭を「しかし紛紛たる事實の知識は常に民衆の愛するものである」で始めることで、前の前の「政治家」の一章目の「政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事實の知識だけである。畢竟某黨の某首領はどう言ふ帽子をかぶつてゐるかと言ふのと大差のない知識ばかりである。」を直に飛んで受けるようになっている。同時に、前の「政治家」の二章の中の最後の一文「且又利害を超越した情熱に富んでゐることは常に政治家よりも高尚である。」という命題にそれがまた繋がるように作られてある。即ち、「利害を超越した情熱に富んでゐることは常に政治家よりも高尚である」ところの「民衆の愛するもの」とは、「政治家」が「政治上の知識」として「誇り得る」ところの「紛紛たる事實の知識」、「畢竟某黨の某首領はどう言ふ帽子をかぶつてゐるかと言ふのと大差のない知識ばかりである」となって、「彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言ふことではない。クリストは私生兒かどうかと言ふことである。」と繋がるようになっているのである。それに気づいたとき、男女を問わず、あらゆる読者は苦虫を潰すこととなるのであるが、哀しいかな、殆どの読者は「彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言ふことではない。クリストは私生兒かどうかと言ふことである」という部分でニンマリして鼻の下伸ばすばかりなのである。芥川龍之介の厄介なのは、こういう仕儀を仕掛けてくる点にあるのである。

 

・「クリストは私生兒かどうかと言ふこと」私はキリスト者でないので、新潮文庫の神田由美子氏の注をそのまま引いておく。「新約聖書」に『聖母マリアはヨセフの妻と決まっていたが、二人が結婚しないうちに、聖霊によって身籠(みごも)り、ベツレヘムの馬小屋でキリストを生んだと記されている』。私は龍之介のこの一章を読むと、アンドレイ・タルコフスキイ(Андрей Арсеньевич ТарковскийAndrei Arsenyevich Tarkovsky 一九三二年~一九八六年)の「アンドレイ・ルブリョフ」(Андре́й РублёвAndrei Rublev 九六七年:完成後に厳しい批判にさらされて改訂版公開及び本邦公開は一九七一年であった)の第七番目のパートに当たる「襲来 一四〇八年」にある、あるシークエンスを思い出すことを常としている。ウラジミールの聖堂を完膚なきまでに蹂躙し、略奪し、残虐の限りを尽くしているタタールの首魁汗(ハン)が、馬上のまま聖堂内を闊歩する。手引きをした、ロシア人の大公である兄を裏切った弟に対して(彼は自らが企てながらそのあまりの凄惨な破壊と暴虐のありさまに茫然自失している)、壁画にあったキリスト生誕の絵を指して、「これは何だ?」と問う。聖処女マリアがキリストを産んだ時の絵だと彼が答えるや、汗(ハン)は、「子供を産んで処女なんてことがあるもんかい!」と如何にも猥雑な笑みを浮かべて吐き捨て、「まあ、ロシアってぇのは不思議な国だからな。……面白い。」とほくそ笑みながら付け加えるシークエンスである。]

2016/05/28

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 政治家(二章)

 

       政治家

 

 政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事實の知識だけである。畢竟某黨の某首領はどう言ふ帽子をかぶつてゐるかと言ふのと大差のない知識ばかりである。

 

       又

 

 所謂「床屋政治家」とはかう言ふ知識のない政治家である。若し夫れ識見を論ずれば必ずしも政治家に劣るものではない。且又利害を超越した情熱に富んでゐることは常に政治家よりも高尚である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、後の「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。どこかの国も、いまどき、こんな政治家と国民ばっかりだぁな。かく言う私も「床屋政治家」に他ならない。トホホ。

 

・「紛紛たる」「ふんぷん」入り混じって乱れ、纏まりのないさま。ここでは原義には含まれない、「多分に些末な下らない」のニュアンスを含ませてある。

・「床屋政治家」床屋政談をする国民。髪結い床に来た客が髪を当たって貰いながら、店主と噂話でもするかの如く政談を展開することから、ろくな根拠もなしに、感情的で無責任な政治談議をすることを本来は指す。しかし、この語は直ちに、「髪結いの亭主」という言葉をも、読者に想起させる。稼ぎの良い髪結いを女房に持って遊んで暮らす馬鹿男で、女房の働きで養われている「ヒモ」である。当時の政治談議好きの男性読者(さぞかし、大正のこの頃は、右も左もいっぱしに政治思想を語り、ぶいぶい言わせる男性は頗る多かったことであろう。――いまどきのノン・ポリ男ばかりで、却って女性の方が鋭くディグして指弾する時代――とは異なって、である)は、二章目を読んで、苦虫を潰したに違いあるまい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  機智(二章)

 

       機智

 

 機智とは三段論法を缺いた思想であり、彼等の所謂「思想」とは思想を缺いた三段論法である。

 

       又

 

 機智に對する嫌惡の念は人類の疲勞に根ざしてゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』巻頭に、前の「火星」「Blanqui の夢」「庸才」の全五章で初出する。これはすこぶる短章ながら、なかなか難しいと私は思う。以下、注を附しながら、乏しい我が「機智」を以って対峙して見よう。

 

・「機智」「機知」とも書ける。その場その場に応じて、活発に働く才知。ウイット(wit)。とっさの場合に素早く働く知恵(頓智(とんち))。この場合の「機」は「はずみ・ある事象の起こる(変化するきっかけ」或いは、そのような瞬時の知性的な「働き・活動」の謂いであると思う。

・「三段論法」分かり易さという点で(私は注を迂遠には附けるが、決して難解に附けることはしていないと自負している。あなたにとって私の注が難解だとしたら、それは珍しくもあなたがその叙述に関しては私の乏しい知にさえ追いついていないということに他ならない)、「ニコニコ大百科」の「三段論法とは」を引く(一部の表記を連続させ、記号を変更した。リンク元の方が読み易い)。『大前提(主に普遍的な法則)と小前提(個別の単なる事実)から結論を導き出す推論方法』で、『簡潔に説明すると以下のような論法である。『AはBである。→BはCである。→よってAはCである。』『「A」と「C」という元々直接的には関係しない事柄を、両方と関連性のある「B」という事柄を用いて論理的に結びつけることができる』。『三段論法の有名な例としては以下の文が挙げられる』。『ソクラテスは人間である。→全ての人間は死すべきものである。→ゆえにソクラテスは死すべきものである。』『上述の説明に当てはめると、「ソクラテス」はA、「人間」はB、「死すべきもの」はCに該当する』。『「ソクラテスは人間である」という小前提と「全ての人間は死すべきものである」という大前提により、「ソクラテスは死すべきものである」という結論が導き出されたのである』。『三段論法を少し応用すると以下のような論述もできる』。『Xさんは殺人を犯した。→殺人を犯した者は逮捕される。→Xさんは逮捕される。』『三段論法はどんな事柄にでも応用が利くため、あらゆる場面において重用される』。

・『彼等の所謂「思想」とは思想を缺いた三段論法である』この場合の「彼等」とは、機智を働かして面白おかしいが、なかなか侮れない洒落たことを言う連中の謂いであろう(誰かがそうじゃないか?(私の独り言))。「思想を缺いた三段論法」とは三段論法の大前提・小前提・結論のどこかに論理矛盾や偽があるのではなく、悪意を以って解釈するなら、大前提も小前提も結論もただの平板な比喩や換喩の関係にあるだけで、そこに三段論法を以って語ろうとするその者(機智を働かす者)の信じるところの「思想」が微塵もないことを意味する、と一応、採れるようには思われる。しかし、短文なればこそ全く逆に善意とは言わないまでもフラットな解釈をすることも出来る。その場合は、そうした「彼等」には世間で「思想」と認められているものとは隔絶した、全く異なるその(機智を上手く働かす者の)個人の中にのみ存在する純粋にオリジナルな「思想」に依拠する「三段論法」がある、と言う意味に採ることが可能である。そうして私は第二章とのジョイントの良さから、後者の謂いで理解している。即ち、芥川龍之介は、

その「機智を働かす者」には、信じ得るところの「既成の陳腐な思想」が微塵もないことこそが「その者個人の思想」なのであり、そうした「個人純正の思想に基づく三段論法」を操る者を――龍之介は否定していない

と読むのである。何故なら、そうでないとどうしても、次の二章目のアフォリズムと、上手く繫げて解釈することが出来ないからである(次注参照)。

・「機智に對する嫌惡の念は人類の疲勞に根ざしてゐる」この一文は「人類」の多くは、上手く「機智」を働かす人間とそのアジな「機智」に対して強い「嫌惡の念」を抱くが、それは多分に「人類の疲勞」、精神的にすっかり疲弊させられてしまっている「人類」の病的な心理状態に「根ざしてゐる」と言っているのである。一章目では不確かであった「機智」に対する龍之介の立場が、この二章目に於いてはっきりと示されてあるのである。

 そこで私は、はたと膝を打ったものである。

 機智を働かした一貫した「思想」は雲霧の彼方にまるで見えてこない、妖しい具体例が、実に目の前にあるではないか!

 アフォリズム(Aphorism)とは何だ?

 日本語では「金言」とか「格言」と訳されるが、辞書を開けば、その濫觴はギリシア語で「分離する」の意の(ラテン文字転写。以下、同じ:aphorizein)が語源で、ヒポクラテス(Hippocrates 紀元前四六〇年頃~紀元前三七〇年頃)が医学上の処方を記した「箴言」(Aphorisms)に始まるらしい。元来は「実用的な指示や助言を伝える」であったものが、後に、それぞれがまさに「分離した」簡明な文言を特に指す言葉となったのであったが、ルネサンス期頃からは人間の性格や処世上の教訓を述べる際にも好んで用いられるようになったという。また別な記載には、元は――理論や原理に於ける「定義」――の意であったものが、後には――原則や一般に受入れられた「真理」を端的な言葉で表わしたもの――を指すようになった、ともある。

 おお! 「こゝろ」の初版の見開きにあるあのラテン語の台詞(私のブログ。当該画像を見られる)が、まさにそのヒポクラテスの最古のアフォリズムの一つではないか!

 

――Ars longavita brevis.

――(アルスロンガ、ウィータ ブレウィス。)

――(医の)技術の修得は長く(かかる)、(しかし)生は短い。

――学問は永く、生命は短い。

――(やぶちゃん訳)僕にはやりたいことが腐るほどある、……だのに、その前に僕の脳味噌と肉

は腐ってしまうのだ。

 

 そうだ!

 

 この二章のアフォリズムは、それ自体が、まさに「三段論法」となっているのではないか?!

 

 芥川龍之介自身が「機智」を用いて「機智」と「思想」を皮肉に語りつつ、それを如何にもヤる気無さげに読者に投げ与えておいて(ヤる気は実は遍身に満ちているくせに)、

――あなたの「三段論法」でどうぞ讀解なされるが好(よ)いでせう――

 

と意地悪く、誘っているのではないか?

 

「私がここで働かせている機智」とは三段論法を欠いた「私だけの思想」である。

   ↓

「私だけの思想」とは何か? それは、世間で言うような退屈な思想なんぞをすっかり欠いた「純然たる冷徹にして論理的な私だけの三段論法」である。

   ↓

故に「私がここで働かせている機智」に対し、疲労し尽くして自分の機智を働かすことはおろか、他者の鋭い機智をさえ全く読み取れなくなってしまっている人類は、「私がここで働かせている機智」たるところの、「純然たる冷徹にして論理的な私だけの三段論法」を遂に理解出来ず、ただただ嫌悪するばかりなのである。

 

ヤラレた!

 

という感じが、今の私には、している。…………]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  庸才



       庸才

 

 庸才の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似てゐる。人生の展望は少しも利かない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』巻頭に、前の「火星」Blanqui の夢」、後の「機智」(二章)の全五章で初出する。「庸才」は「ようさい」平凡な才能の持ち主、大した才能を持たない人物、凡才のことである。「凡庸」の「庸」であって、「庸」には並・普通・ありふれた・変わった点を持たないの謂いがある。実は「中庸」というのはそれをフラットな「偏っていない」の意で用いた語なのである。自由意志と宿命との注で言った通り、私はこの漢字を見ただけで虫唾が走るほど嫌悪感を覚えるクチである。芥川龍之介が「庸才」とした作家は誰だろう? その「作品」は何だろう? 「窓のない部屋に似て」「人生の展望」が「少しも利かない」「作品」を書く奴とは? あいつかな? あいつの「あれ」か?!……などと想像してみるだけでもすこぶる楽しくなってくるのを私は常としている。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  Blanqui の夢


       
Blanqui の夢

 

 宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等の元素の結合は如何に多數を極めたとしても、畢竟有限を脱することは出來ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る爲には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。して見れば我我の棲息する地球も、――是等の結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在してゐる筈である。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戰に大勝を博した。が、茫々たる大虛に浮んだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戰に大敗を蒙つてゐるかも知れない。……

 これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙觀である。議論の是非は問ふ所ではない。唯ブランキは牢獄の中にかう云ふ夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望してゐた。このことだけは今日もなほ何か我我の心の底へ滲み渡る寂しさを蓄へてゐる。夢は既に地上から去つた。我我も慰めを求める爲には何萬億哩の天上へ、――宇宙の夜に懸つた第二の地球へ輝かしい夢を移さなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』巻頭に、前の「火星」、後の「庸才」「機智」(二章)の全五章で初出する。前の「火星」の考察と感懐を美事に受けた芥川龍之介の宇宙観の表明である。「Blanqui」は以下に注するフランスの社会主義者で革命家であったルイ・オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui 一八〇五年~一八八一年)のことである。

 

・「Blanqui」「ブランキ」平凡社「世界大百科事典」の福井憲彦氏の解説を引く(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点に代えた。途中の挿入は諸辞書に拠る)。『十九世紀パリの民衆蜂起と革命のほとんどすべてに、直接・間接に関与したフランスの革命家。十代で秘密結社カルボナリ』(フランス語:Charbonnerie:十九世紀前半にイタリアとフランスに興った革命的秘密結社。急進的な立憲自由主義(憲法に立脚する自由主義)を掲げてノーラ・トリノを始め、各地で武装蜂起を企てた。カルボナリ党とも呼称する)『に加わり、復古王政打倒の運動と一八三〇年の七月革命の民衆蜂起に参加する。七月王政の反民衆的性格をすばやく見ぬいて反体制運動をおこし、共和派の〈人民友の会〉が弾圧された法廷で、逆に雄弁に体制を告発して一躍有名になった。フランス革命のジャコバン主義』(Jacobinisme:フランス革命に於いて主にロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore Robespierre 一七五八年~一七九四年:フランスの政治家。大革命期の一七九二年に国民公会の議員となり、ジャコバン派の中心人物としてジロンド派を追放。革命の防衛の名のもとに恐怖政治を強行し、封建制の全廃などの諸改革を行ったが、一七九四年のテルミドールの乱で処刑された)やサン=ジュスト(Louis Antoine Léon de Saint-Just 一七六七年~一七九四年:フランスの政治家・革命家。ロベスピエールらとともにフランス革命に参加し、彼の右腕と称された。その美貌と冷厳な革命活動から「革命の大天使」(l'Archange de la Révolution)「死の大天使」(L'Archange de la Terreur)とも称された)らに代表される思想。社会理念としては小市民階級的平等主義を目指し、所有権は自然権ではなく、社会制度であり、否定せず制限されるべきであると「小所有者の共和国」を説いた)『とバブーフ』(François Noël Babeuf 一七六〇年~一七九七年:フランスの革命家・思想家。私有財産制の廃止を主張、共産主義的独裁政権の樹立を目指して総裁政府転覆を企てたが、逮捕処刑された。その武装蜂起による権力奪取や革命的独裁の理論は後のかのマルクスにも影響を与えている)『の平等主義の伝統をブオナローティ』(Filippo Giuseppe Maria Ludovico Buonarroti 一七六一年~一八三七年:イタリア生まれのフランスの革命家。芸術家ミケランジェロの家系に属するとされ、フリー・メーソンの会員でもあった)『からうけつぎ、少数精鋭の秘密結社運動を開始する。なにより行動を重視した彼』であったが、『目標はパリの蜂起を』発条(ばね)にした『過渡体制の創出と、民衆教育を』梃子(てこ)とした『平等社会建設であり、少数前衛の蜂起自体を絶対視したわけではない。有名な〈季節社〉』(Société des Saisons:フランスの秘密結社。一八三〇年代の七月王政下のフランスでは議会内外の共和主義者による自由主義的改革運動とストライキを中心とした労働大衆の運動や蜂起が頻発し、人間の権利協会のように一部には両者の連帯の組織化も生じていた。これに対し、政府は抑圧の強化を以って臨み、反体制運動と組織の壊滅を行った。こうした状況を前提に組織されたのが「季節社」で、ブランキらが一八三七年に結成、その加盟者は六百乃至千名の間と見積もられている)『の蜂起の前後から、一八四八年の二月革命、第二帝政と一八七一年のパリ・コミューンを経て、第三共和政初頭に至るまで、彼の生涯は革命運動か獄中かのいずれかであった。実に総計四十三年二ヵ月間も獄中ないし特別監視下におかれたことから、共和主義運動と革命の象徴として、〈幽閉者〉とよばれた。第二帝政下に、同獄にいた共和派の青年たちに多大な影響を与え、その』中から『労働者をも含んだ秘密結社型のブランキ派が組織され』て、『帝政末からコミューンにかけ、ブランキ派は多くの公開集会や実力行動の中で重要な役割を果たした。しかしブランキ自身は蜂起直前に逮捕され、コミューンを直接指導することはできなかった』。ウィキの「」によって補足すると、一八七〇年にナポレオン三世の従兄ピエール・ボナパルトに射殺されたジャーナリストヴィクトール・ノワールの葬儀に参加、その後、暴動化したデモを扇動したとして逮捕され、死刑判決を受けた(翌年、普仏戦争後に発足したパリ・コミューンの「大統領」に選出され、コミューンがティエール政権に対してコミューン側の囚人の解放と引き換えにブランキの釈放を要求したが拒否されている)が、その翌一八七二年に健康状態の悪化を理由に懲役刑に減刑され、さらに一八七九年には釈放され、政治活動を再開したが、その二年後、パリで脳卒中のために死去した、とある。

・「宇宙を造るものは六十幾つかの元素である」一八六九年にロシアの化学者ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフ(Дмитрий Иванович Менделеев/ラテン文字転写Dmitrij Ivanovich Mendelejev 一八三四年~一九〇七年)によって「メンデレーエフの周期律表」が発表された当時、既に分かっていた化学元素数は龍之介の言う通り、六十三であった。メンデレーフはそれら既知の元素の性質の周期的規則性を見つけ、それを「周期律」と呼んで、未発見の元素の予見をもしていた。本章公開当時(大正一三(一九二四)年十月)に判明していた元素数は定かでないが、七十前後はあったものと考えられる(言わずもがな乍ら、原子番号と発見史は一致しない。例えばハフニウム(hafnium:原子番号72)はこの一九二三年の発見であるが、プロトアクチニウム protactinium:原子番号91)は一九一七年)が、既にこの時代には元素は「発見する」ものではなく、自然の宇宙には存在しないか存在しない可能性が極めて高い、人間が「創る」ものと化しつつあったのだから、龍之介が「宇宙を造るもの」とする元素は私は「六十幾つかの元素である」という謂いは、決して古臭い科学的言説ではない。だから、諸注が現在の元素数をここに記すのは私はあまり意味のあることとは思えないでいる。しかし、彼らに敬意を表して――無論、皮肉である――現在、知られている元素数は百十八種類であり、現在正式名称が決定している最大の原子番号の元素は超ウラン元素の一つである原子番号116のリバモリウム(livermorium:元素記号 Lv)、原子番号118の元素は、未だ正式に認定されていないために仮名で呼ばれている超ウラン元素の一つであるウンウンオクチウム(ununoctium:元素記号 Uuo:ラテン語由来の「百十八番の元素」の意)である、と記してこの注を終わることとしよう。

・「マレンゴオの戰」「戰」は「たたかひ(たたかい)」と訓じておく。フランス語で「Bataille de Marengo」、一八〇〇年六月十四日に行われたフランス革命戦争に於ける戦闘の一つ。ウィキの「マレンゴの戦いより引く(アラビア数字を漢数字に代え、一部の記載・記号を変更・省略した。下線はやぶちゃん)。『現在のイタリア北部ピエモンテ州アレッサンドリア近郊の町マレンゴにおいて、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、ミヒャエル・フォン・メラス率いるハプスブルク君主国(オーストリア)軍に対して勝利を収めた』戦闘である。『一七九八年にオーストリアは第二次対仏大同盟を結成してフランスへ宣戦し、一八〇〇年までに北イタリアの大部分を奪回した。一七九九年に第一統領に就任してフランスの独裁権を確立したボナパルトは、反撃のためにジュネーヴに軍を集結させた。一八〇〇年五月、ボナパルトは三万七千を率いてグラン・サン・ベルナール峠を越え、北イタリアへ進出した』。『その頃、オーストリア軍はジェノヴァに篭城するアンドレ・マッセナ指揮下のフランス軍部隊を攻囲中であった。ボナパルトはオーストリア軍の背後に出てミラノとパヴィアを占領するが、ジェノヴァのフランス軍部隊は限界に達し』、『六月四日に開城した。その後、オーストリア軍主力はトリノに集結した』。『ボナパルトの機動によってオーストリア軍は退路を遮断される形となったが、司令官のメラスは東進を決意し、アレッサンドリアまで前進した。これに対してフランス軍は、オーストリア軍主力がトリノにとどまっていると誤認し、兵力を分散したまま西進した。こうして両軍は、六月十四日、アレッサンドリア近郊のマレンゴにおいて遭遇した』。『六月十四日早朝、オーストリア軍三万一千はアレッサンドリアからマレンゴへ前進し、午前九時、マレンゴの村にいたクロード・ヴィクトール=ペランのフランス軍部隊を攻撃した。このときボナパルトは戦場から五キロ後方にいた。ボナパルトは攻撃がオーストリア軍主力によるものと認識し、直ちにジャン・ランヌとジョアシャン・ミュラの部隊を増援に投入した。さらに別働隊へも伝令を送り、自身は午前十一時に戦場へ到着した』。『この時点で戦場のフランス軍は二万三千しかおらず、数で勝るオーストリア軍の攻勢を支えるのに手一杯であった。午後二時にはマレンゴの村がオーストリア軍に奪われ、フランス軍は三キロ余りの後退を強いられた。メラスはこの時点で勝利を確信し、勝報をウィーンへ送っている』。『午後五時、ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼーの別働隊五千が来着し、兵力の上では互角となったフランス軍は逆襲に転じた。ドゼー自身がオーストリア軍の正面へ突撃し、ケレルマンの騎兵部隊がオーストリア軍の背後を襲撃した。この奇襲攻撃によってオーストリア軍は分断され、アレッサンドリアへ向けて敗走した』。『戦いはフランス軍の逆転勝利に終わったが、激闘の最中、勝利に大きな貢献を果たしたドゼーは三十一歳で戦死し』ている。『六月十五日にメラスは降伏し、北イタリアは再びフランスの手に落ちた。十二月三日にジャン・ヴィクトル・マリー・モローの率いるフランスのライン川方面軍がオーストリア軍を破ったホーエンリンデンの戦いとあわせて、オーストリアは戦意を喪失し、リュネヴィルの和約に応じた。これにより第二次対仏大同盟は崩壊した』。以下、「逸話」の項。『マレンゴの戦いの夜、戦場の混乱の中で食料が届かず、ボナパルトの料理人はありあわせの材料で工夫し、チキンのトマト煮にエビと玉子を添えた料理をボナパルトに出した。これがフランス料理の「鶏のマレンゴ風」であるという。以来、ナポレオンはゲン担ぎの意味でしばしばこの「鶏のマレンゴ風」を食したという』。百年後のプッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini 一八五八年~一九二四年)の有名なオペラ「トスカ」(Tosca 一九〇〇年初演)では、『第一幕でボナパルトがマレンゴの戦いに敗れたという誤報がもたらされ、第二幕でボナパルトが勝ったという正しい知らせが届く』(上記の引用にも早まって勝報を伝えた事実が載るが、案外、芥川龍之介のここでの仮定は歴史書に載るそれよりも、この「トスカ」辺りがネタ元のような気もする)。『ナポレオンの肖像画にも描かれている芦毛の愛馬「マレンゴ」の名はこの戦いが由来とされている』。その後(ここからはウィキの「ナポレオン・ボナパルト」に拠った)、翌年二月に『オーストリアは和約に応じて(リュネヴィルの和約)、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより』、一八〇二年三月には『アミアンの和約で講和が成立し』ている。岩波新全集の山田俊治氏の注には、このマレンゴの戦いの勝利によって、ナポレオンは『パリの政治的危機を救い、独裁の地位を固めた』とある。さても下線部辺りを見る限り、龍之介の仮想、ナポレオンの敗北は、これ、あっても少しもおかしくなかったことがよく判る。実際、戦史上ではナポレオンはたびたび失策を繰り返しており、彼が勝ったそれらはただの偶然としか思えないほどである。

・「大虛」「たいきよ(たいきょ)」は「太虚」とも書く。一般名詞では大空・虚空(こくう)の意。ここは宇宙と同義である。

・「他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戰に大敗を蒙つてゐるかも知れない」所謂、幼少の頃より私の好きな、SFの常套的テーマである「平行世界」、「パラレル・ワールド」(parallel world)である。『「火星人」の次は「第二の地球」「反地球」カイ!』と侮ってはいけない(「反地球」とはSFや疑似科学で太陽を挟んで地球の反対側にあるとされる架空のトンデモ惑星のこと)。ウィキの「パラレルワールドにも以下のようにある。『パラレルワールドはSFでよく知られた概念であるだけでなく、実際に物理学の世界でも理論的な可能性が語られている。例えば、量子力学の多世界解釈や、宇宙論の「ベビーユニバース」仮説などである。ただし、多世界解釈においては、パラレルワールド(他の世界)を我々が観測することは不可能であり』、『その存在を否定することも肯定することも出来ないことで、懐疑的な意見も存在する』。『理論的根拠を超弦理論の複数あるヴァージョンの一つ一つに求める考え方も生まれてきている。現在の宇宙は主に正物質、陽子や電子などで構成されているが、反陽子や陽電子などの反物質の存在が微量確認されている。この物質の不均衡は、ビッグバンによって正物質と反物質がほぼ同数出現し、相互に反応してほとんどの物質は消滅したが、正物質と反物質との間に微妙な量のゆらぎがあり、正物質の方がわずかに多かったため、その残りがこの宇宙を構成する物質となり、そのため現在の既知宇宙はほぼ全ての天体が正物質で構成されているのだと説明されている。ビッグバンの過程において、この宇宙以外にも他の宇宙が無数に泡のごとく生じており、他の平行宇宙では、逆に反物質のみから構成される世界が存在するのではないかという仮説も提示されている』とありますぞ。因みに、ナポレオンがマレンゴの戦いで「大敗を蒙つてゐ」たら、確実に歴史は変わっていたであろう。ナポレオンは皇帝になることもなく、フランス革命の余波がヨーロッパ中に波及することもなかったであろう……とすると……などと空想し出すと、何やらん、かえって、トンデモなく逆にヒドい現在が私には想像されてしまい、逆に、もの狂ほしくなってくるんですが、ね? ブランキさん? どうよ?

・「これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙觀である」「六十七歳」を満年齢とすると、一八七二年で、前に示した通り、ブランキは、この二年前にパリ・コミューンの弾圧により、デモ扇動の罪で逮捕され、死刑判決を受け、投獄されていた(但し、この年中に健康状態の悪化を理由として懲役刑に減刑され、七年後の一九七九年になってやっと釈放されている)。山田氏の注にはこれを『出典未詳』とするが、筑摩全集類聚版脚注では、『“La patrie en danger”の著作』とある。この「La patrie en danger」(「祖国は危機にあり」 一九七一年の作)はブランキの代表作らしいのだが、しかし寧ろ、翌一九八二年に彼の出した「L'Éternité par les astres」(「星々による永遠」)の方が、この引用元らしく見える書名ではないか? 但し、私はこの本を読んでいない。しかし、個人ブログ「Augustrait」の同翻訳書(二〇一二年岩波文庫刊浜本正文訳)のレビュー『天体による永遠』オーギュスト・ブランキを読んでみたら、ますますそんな気がしてきたのである(リンク先の引用を見よ!)。今度、購入して読んでみようと思う。新たな発見があった場合は追記する。

「何萬億哩」「哩」は「マイル」。一マイルは約一・六キロメートルで、一「萬億」は通常では一兆であるから、九兆六千億キロメートル前後になるか(私は度量衡に「何」とか「数」を附した不定値は六倍したものを標準値することを常としている)。これは流石は芥川龍之介! だって一光年のキロメートル換算、約九・五兆キロメートルに一致するからである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  火星

 

       火星

 

 火星の住民の有無を問ふことは我我の五感に感ずることの出來る住民の有無を問ふことである。しかし生命は必ずしも我我の五感に感ずることの出來る條件を具へるとは限つてゐない。もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保つてゐるとすれば、彼等の一群は今夜も亦篠懸を黃ばませる秋風と共に銀座へ來てゐるかも知れないのである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』巻頭に、後の「Blanqui の夢」「庸才」「機智」(二章)の全五章で初出する。私の好きな一章。SFっぽい内容は勿論、その語り口やロケーションのダンディズムはもとより、我々が生命体と呼んでいるものの如何にあやういものであるかということをよく伝えるところのすこぶる科学的な記載でもあるからである。龍之介の言うような透明な生命体であっても、それは恐らく現在の科学ならばそれと明らかに認知することは可能かも知れぬ。しかしそれは、ただ龍之介が、五感の中の視覚、それもたかだか肉眼レベルでの、ごく分かり易い例として示したものに過ぎないことに着目しなければならぬ。例えば、透明でなくともよい。見た目が石ころのようにしか見えない生命体がおり、それは我々の想像を絶する時間系を持っていて、何百年もかけて少しだけ体内代謝するような生命体がいたとしよう。現行の科学では恐らくそれを分解して精査しても、せいぜいよくって生物の「化石」だと断ずるにとどまるであろう。何故なら、それを何百年もかけて観察することが我々には不可能だからである。我々はそれを生命体としては遂に認識し得ないのである。「だからこそ宇宙でヒトは孤独なのだ」とも考えているのが一箇の生命個体である私でもある。

 

・「火星の住民の有無を問ふ」このアフォリズムが書かれた時代(現在(二〇一六年)から凡そ九十三年前)の地球では、現在の一部の信望者などとは比べ物にならぬほど遙かに多くの人類が、真面目に、地球外生命体の実在、とりわけ「火星人」の存在を強く信じていたことを確認する必要がある(それは私は精神的には幸福なことであったと考えている)。まずはウィキの「火星人から引こう。実に既に十八世紀前半、かの大数学者として知られるドイツの天文学者で物理学者でもあったヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(Gauß De-carlfriedrich gaussCarolus Fridericus Gauss 一七七七年~一八五五年)らは、『ランタンと鏡を使って火星人に光学的な信号を送ることを構想した。遅くともこの時期までには、火星人の存在が考慮されていたことがわかる』。一八七七年(明治十年)の『火星大接近の際、イタリア王国のミラノの天文台長である天文学者 ジョヴァンニ・スキアパレッリ』(ジョヴァンニ・ヴィルジニオ・スキアパレッリ Giovanni Virginio Schiaparelli 一八三五年~ 一九一〇年)が火星を口径二十二センチメートルの『屈折望遠鏡で観測しているときに、火星全体の表面に線状模様があることを発見した(なお線状模様についてはこれ以前にも複数の観測者によってみいだされている)。それを発表の際』、『Canali(イタリア語で「溝・水路」の意)と記述したものを、英語に翻訳された際』、『Canal(英語で「運河」の意)と誤訳され、「それは運河である」という説になった。模様が直線や円などのなす幾何学模様で、とても自然に造られたようには見えないことからも、そう考えられるようになった』。『また、運河があるのならそれを作ったものがいなければならないということで、火星人が存在するに違いないという説が広まり始めた。また、運河は火星全体を覆うように縦横に張り巡らされており、これほど大規模な施設を建造できるなら、火星人は地球人よりはるかに進んだ文明を持っている、という説も出された』。『火星人が存在するという説を強く支持した人々のうちの』一人が、『アメリカ合衆国の天文学者パーシヴァル・ローウェルで、火星および火星人の研究に大いに貢献した。彼は実業界の出身で、火星観測のため私財を投じて、ローウェル天文台をアリゾナに建設し』、『その後の惑星研究の中心地となった。アリゾナ州フラッグスタッフという天体観測に最適な場所を見出したのも評価されている』とある(最後の引用箇所はウィキの「パーシヴァル・ローウェルに拠る)。さて、ここで日本研究者としてもよく知られるパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell 一八五五年~一九一六年)について、そのウィキの「パーシヴァル・ローウェルから引こう。彼は『ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家であったが、数学の才能があり、火星に興味を持って天文学者に転じた。当時屈折望遠鏡の技術が発達した上に、火星の二つの衛星が発見されるなど火星観測熱が当時高まっていた流れもあった。私財を投じてローウェル天文台を建設、火星の研究に打ち込んだ。火星人の存在を唱え』、一八九五年(明治二十八年)の「Mars」(「火星」)『など火星に関する著書も多い』。この出版された「Mars」には、『黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果が掲載されている。運河の一部は二重線(平行線)からなっていた』(なお、同書には三百『近い図形と運河を識別していたが』、現在では『火星探査機の観測によりほぼすべてが否定されている』)なお、彼の『最大の業績は、最晩年の』一九一六年(大正五年)に『惑星Xの存在を計算により予想した事であり』、これはそれから十四年後の一九三〇年(昭和五年)になって、『その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーにより冥王星が発見された。冥王星の名 "Pluto" には、ローウェルのイニシャルP.Lの意味もこめられている』。『なお、彼の業績』(火星観測の謂いであろう)『に対して天文学者のカール・セーガンは「最悪の図面屋」、SF作家のアーサー・C・クラークは「いったいどうしたらあんなものが見えたのだろう」と自著の中で酷評している(しかし一方で、前者は「彼のあとにつづくすべての子どもに夢を与えた。そして、その中からやがて現代の天文学者が生まれたのだ」と子供たちに天文学を志すきっかけを与えた面を、後者は「数世代のSF作家たちが嬉々として発展させた神話の基礎を、ほとんど独力で築き上げた」とSFの分野に影響を与えた面を評価した)。一部の眼科医はローウェルは飛蚊症だったのではないかという仮説を述べている』。『また、ローウェルの火星人・運河研究は』、イギリスの作家で「SFの父」H・G・ウェルズ(後述)の「宇宙戦争」(後述)、アメリカの「火星シリーズ」で知られるSF作家(彼は冒険小説「ターザン・シリーズ」の作者でもある)エドガー・ライス・バローズ(Edgar Rice Burroughs 一八七五年~一九五〇年)の「火星のプリンセス」(A Princess of Mars 一九一七年(大正六年)初版)、アメリカの幻想作家レイ・ブラッドベリ(Ray Douglas Bradbury 一九二〇年~二〇一二年)の「火星年代記」『火星年代記』(The Martian Chronicles 単行本発行は一九五〇年(昭和二十五年))に『インスピレーションを与えるなど、SF小説・映画などのエンターテインメント分野にも影響を与えたことも評価されている』とある。さても大御所ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells 一八六六年~一九四六年)の「宇宙戦争」(The War of the Worlds  明治三一(一八九八)年)であるが、言わずもがな、そこで地球に襲来するのはまさに醜悪な蛸型をした「火星人」(Martiansなのである。御存じのかたには釈迦に説法だが、これは後の一九三八年十月三十日にアメリカで、かの後にアメリカの名優となるオーソン・ウェルズがアメリカを舞台として、事実報道と聴き紛う驚くべきドキュメンタリー・タッチでラジオ・ドラマ化(生放送)、多くのアメリカ市民が現実に起きている出来事と勘違いして、一大パニックを引き起こしている。因みに、この一九三八年とは昭和十三年である。本章の執筆は大正一三(一九二四)年である(以上の引用部も含めて下線は私が引いた)。ともかくも、少なくとも芥川龍之介はジャリ向けや冗談でこの一章を書いたのではないのである。これは至極大真面目に、ヒトという生物の認識とその思想主義といったものの儚さ及び厳然たる限界を語ったアフォリズムなのである。

・「篠懸」「すずかけ」と読む。一般にはヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis で、和名は晩秋に成る果実が楽器の鈴に似ていることに由来する「鈴掛」「鈴懸」であると多くは記すのであるが、そうすると芥川龍之介が当てている「篠懸」が解明されない。そこで「篠懸」で調べると、この「篠懸(すずかけ)」とは「鈴掛」とも書き、修験道の行者である山伏が衣の上に着る麻製の上下の法衣(ほうえ)全体の呼称であることが判った(金剛界を表わすとする上衣と胎蔵界を表わすとする袴から成る)。さてもここに「篠」を当てるのは、行者が深山を行く際に群れ茂れる篠竹の露を防ぐためのものであったからとされ、まず合点(がってん)! 而して山伏の衣を思い出すと、またまた合点! もしかして!?……「鈴」とは、あの胸に着いているボンボンのような丸(まある)い房飾り(水干・水干袴や鎧直垂(よろいひたたれ)・鎧直垂袴などの縫い合わせの箇所にそれを隠すように附けられた「菊綴(きくとじ)」が正式名称。以下は私の妄想――さても先に書いた通りに上衣が金剛界なら当然、丸は曼荼羅辺りがイメージされているのかも知れん――)の比喩じゃあねえか?! あれこそ「鈴」だろ! あれが懸っている法衣だから「鈴懸け」なんじゃあないか?! と今度は一人合点! さらに調べてみると、あの玉状の飾りは「結袈裟(ゆいげさ)」と呼ぶことが判明した(一般の山伏では紅色であるが、「勧進帳」の弁慶の墨染めの衣の胸の辺りに附いているそれは白い、と言えば画像が浮かばれよう)。さても! そこで私の結論は――「篠懸」を「すずかけ」と読み、それを樹木の「すずかけ」に当てるのは、これは樹木の「スズカケ」の実が「鈴」に似ているから「すずかけ」なのではなく、法衣である篠懸(すずかけ)の上着に飾りで附けられている結袈裟が「スズカケ」という和名のルーツなのではないか――である(大方の識者の御批判を俟つ)。現在は属名の「プラタナス」の呼称で呼ばれることが多いものの、実際には現在、我々がプラタナス=スズカケの木と名指している街路樹は圧倒的にこのスズカケノキ Platanus orientalis とスズカケノキ属アメリカスズカケノキ Platanus occidentalis の交雑種であるスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia あるらしい。龍之介が見たそれもモミジバスズカケノキであった可能性を考慮する必要があるようにも思われる。しかし一部の今の読者の中には「銀座の並木なら、柳じゃないの?」と疑問を呈する方がおるやも知れぬ。さても、銀座一帯はもともと水はけが悪く、明治初期に並木として植えられた松・桜・楓(かえで)は直きに根腐れて枯れてしまい、その代替となったものが、後に流行歌にも歌われた(昭和四(一九二九)年「東京行進曲」(作詞・西条八十/作曲・中山晋平)一番冒頭『昔戀しい 銀座の柳』)水気を好む柳であったのである。しかしながら、それも明治の後期には銀杏(いちょう)主体に替えられていた。ところが、この前年の関東大震災によってそれも壊滅してしまった。そこで新たに植えられたのがこのスズカケだったのである(だからこそ西条八十は「昔恋しい」と詠ったのであった。因みに、この歌謡曲(唱:佐藤千夜子)のヒットによって銀座の柳並木の復興が行われた。しかしそれも、東京大空襲によって壊滅、現在のそれは既に四代目という。ここまでの樹種や銀座並木についてはネット上の複数の信頼出来る記載を参考にして書いたものである)。最後に。これにはきっとダンディ龍之介も賛同してくれる自信があるのだが、考えてみると、ここはシチュエーションとしても「篠懸」(プラタナス)が本章の内容にも(言うまでもなくロケ地たる銀座にも)よりモダンな樹種選択であることが、よぅく解ってくるではないか。もしかしたら、柳や銀杏は少しは残っていたかも知れぬ。しかしモダンな火星人がそこに佇ませるとなると、これ、如何にも古臭い柳の下の足のない幽霊やら泉鏡花風「化け銀杏」にはなりはすまいか?――火星人にヤナギやイチョウはお洒落じゃあ、ない。やっぱ、プラタナス(篠懸:すずかけ)じゃあ、なくっちゃ――

2016/05/27

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 制限

 

       制限

 

 天才もそれぞれ乘り越え難い或制限に拘束されてゐる。その制限を發見することは多少の寂しさを與へぬこともない。が、それはいつの間にか却つて親しみを與へるものである。丁度竹は竹であり、蔦は蔦である事を知つたやうに。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年九月号『文藝春秋』巻頭に、前の「貝原益軒」「或辯護」の全三章で初出する。なお、文中の「それぞれ」は底本では後半が踊り字「〲」となっている(この場を借りて言っておくと、私は踊り字「く」「〲」自体を自筆の文章の中で生涯一度も使ったことがない。実は「ゝ」「ゞ」や「〻」も使ったことがない(但し、「々」という本邦でしか通用しない記号は頻繁に使う)。余生もその通りであろう。それは何故と言うに、特にこの「〱」「〲」が生理的に嫌いだからである。また、私の古い電子テクストでは使用したこともあったそれを模したいまわしき「/\」「/″\」も虫唾が走る。これは今も「青空文庫」を始めとして、多くの電子テクスト・サイトで平然と使用されている(なお、私はこの絵文字みたようなものを使って恥じない現代のネット人種の感性が全く理解出来ない)。現在、ユニコードの環境依存文字で「〱」「〲」が存在するが、これは横書文書では「/\」「/″\」と同等に笑止千万で(「/\」「/″\」の方は呆けた大口のようにしか見えぬ)、縦書にすると小さ過ぎて踊り字に見えず、そのままでは「く」「ぐ」と読み誤る弊害の方が遙かに甚大で、いちいちそこだけのポイントを大きくしないと誤植かと見紛うほどに実は頗る使い勝手の悪いものなのである(私はユニコードのこの「〱」「〲」を美事に用いて違和感のないネット上縦書テクストを未だ嘗て一度も見たことがない)。従って現在の私の電子テクスト・ポリシーに於いては「〱」「〲」の踊り字は正字化し、注でそれを明記する方法を原則、採用している。この方式を採用している電子テクスト作成者は実はあまりいないと思う。しかし、これは私の確信犯であり、譲れない。今までこれについて語ったことがないので、一言しておくものである)。

 

・「その制限を發見することは多少の寂しさを與へぬこともない。が、それはいつの間にか却つて親しみを與へるものである」この謂いは図らずも、芥川龍之介が自らを「天才」と自認していたことを暴露してしまっている。「與へぬこともない」と感じたのは話者人以外にはあり得ず、「それはいつの間にか却つて親しみを與へるもの」となったことを体験した故に「である」と断定出来るからである。しかしその「天才」という自己認識は辛いものであった。それは「それぞれ乘り越え難い或制限に拘束されてゐ」たからであり、そうして何より、荘子が堀の中の魚の楽しみが分かったように、「竹は竹であり、蔦は蔦である」「やうに」、私は私である/でしかなかったことを「知つた」/知ってしまったから、である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或辯護

 

       或辯護

 

 或新時代の評論家は「蝟集する」と云ふ意味に「門前雀羅を張る」の成語を用ひた。「門前雀羅を張る」の成語は支那人の作つたものである。それを日本人の用ふるのに必ずしも支那人の用法を踏襲しなければならぬと云ふ法はない。もし通用さへするならば、たとへば、「彼女の頰笑みは門前雀羅を張るやうだつた」と形容しても好い筈である。

 もし通用さへするならば、――萬事はこの不可思議なる「通用」の上に懸つてゐる。たとへば「わたくし小説」もさうではないか? Ich-Romanと云ふ意味は一人稱を用ひた小説である。必ずしもその「わたくし」なるものは作家自身と定まつてはゐない。が、日本の「わたくし」小説は常にその「わたくし」なるものを作家自身とする小説である。いや、時には作家自身の閲歷談と見られたが最後、三人稱を用ゐた小説さへ「わたくし」小説と呼ばれてゐるらしい。これは勿論獨逸人の――或は全西洋人の用法を無視した新例である。しかし全能なる「通用」はこの新例に生命を與へた。「門前雀羅を張る」の成語もいつかはこれと同じやうに意外の新例を生ずるかも知れない。

 すると或評論家は特に學識に乏しかつたのではない。唯聊か時流の外に新例を求むるのに急だつたのである。その評論家の揶揄を受けたのは、――兎に角あらゆる先覺者は常に薄命に甘んじなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年九月号『文藝春秋』巻頭に、前の「貝原益軒」と、後の「制限」とともに全三章で初出する。

 

・「或新時代の評論家」不詳(岩波新全集の山田俊治氏の注も『不祥』とする)。芥川龍之介は、よっぽどこの人物のこの誤使用にイラッときていたものか、既に四年も前の「骨董羹壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文(大正九(一九二〇)年の『人間』に連載)の「誤謬」の冒頭でも、この誤りを最初に糾弾している。

   *

 門前の雀羅蒙求を囀ると説く先生あれば、燎原を燒く火の如しと辯ずる夫子あり。明治神宮の用材を贊して、彬々(ひんひん)たるかな文質と云ふ農學博士あれば、海陸軍の擴張を議して、艨艟(もうどう)罷休(ひきう)あらざる可らずと云ふ代議士あり。昔は姜度(きようと)の子を誕するや、李林甫手書(しゆしよ)を作つて曰、聞く、弄麞(ろうしやう)の喜ありと。客之を視て口を掩ふ。蓋し林甫の璋(しやう)字を誤つて、麞字を書せるを笑へるなり。今は大臣の時勢を慨するや、危險思想の瀰漫(びまん)を論じて曰、病既に膏盲(かうまう)に入る、國家の興廢旦夕にありと。然れども天下怪しむ者なし。漢學の素養の顧られざる、亦甚しと云はざる可らず。況や方今の青年子女、レツテルの英語は解すれども、四書の素讀は覺束なく、トルストイの名は耳に熟すれども、李青蓮の號は眼に疎きもの、紛々として數へ難し。頃日(けいじつ)偶書林の店頭に、數册の古雜誌を見る。題して紅潮社發兌(はつだ)紅潮第何號と云ふ。知らずや、漢語に紅潮と云ふは女子の月經に外ならざるを。

   *

この擬古文、なかなかに手強い(因みに、この文章は龍之介満二十八の時のものである)。リンク先の私の原文テクストにも私の注を附してあるが、失礼乍ら、それでも分らない部分は多かろう。何なら、私がこれを暴虎馮河に現代語敷衍訳した『芥川龍之介「骨董羹寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案附註した「骨董羹(中華風ごった煮)寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと」という無謀不遜な試み』の方の「誤謬」を参考にされんことをお薦めする。いや、無論、上記で十分、解るという御仁はもう、その限りではない。

・「蝟集する」「蝟」は針鼠(はりねずみ:哺乳綱ハリネズミ目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae に属するハリネズミ類)のことで、彼らの自己防衛用の針(体表の背部側一面に生えるが、これは体毛の一本一本がまとまって硬化したものである)のように多くの対象物が、うじゃうじゃと一時のうちに寄り集まる、の謂い。

・「門前雀羅を張る」「雀羅」は「じやくら(じゃくら)」と読む。雀を捕えるための「かすみ網」のことである。訪れる人もなく、門の前には雀が沢山群れ飛んでいて、網を張れば容易に捕えられるほどだ、という謂いで、「訪れる者もいなくなってしまい、ひっそり如何にも寂れてしまっている」ことの喩えである。これはもと、司馬遷の「史記」汲・鄭(てい)列伝が元であるが(昔、翟(てき)公が官をやめたとたん、誰も来ずなって、「廢門外可設雀羅」(門を廢し、外に雀羅を設くべし)というありさまに成った)、かの白居易の「寓意詩五首」の一節(高位高官が左遷されてしまい、主の居なくなった屋敷は「賓客亦已散、門前雀羅張」(賓客亦(ま)た已(すで)に散じ、門前、雀羅張る。))によって広く知られるようになったものである。

・「わたくし小説」「私(わたくし)小説」(「ししょうせつ」とも読む)のこと。この四年前の大正九(一九二〇)年頃から使用され始めた文学用語。平凡社「世界大百科事典」の高橋英夫氏の解説から引く(現代部分を大幅にカットし、コンマを読点に代えた)。『作者自身とわかる人物が〈私〉として作中に登場し、〈私〉の生活や想念、目撃見聞した出来事を虚構を交えずありのまま語ったとみなされる小説をいう。これに類似するものに、ドイツの』「イッヒ・ロマン」(本文で芥川龍之介が謂っている「Ich-Roman」)『(主人公が一人称で語る小説)や自伝があるが、私小説は近代日本の特殊性につよく規定される点でそれらとは異なる。最も日本的な文学形態だけに、日本的な偏りを批判されることが多かった』。『用語例として〈私小説〉が確立される以前、田山花袋』の「蒲団」(明治四〇(一九〇七)年)が『赤裸々な恋愛感情を表現したのが私小説の事実上の発祥とされている。ヨーロッパの自然主義の影響による事実尊重と近代自我拡充の欲求が結合して私小説を生んだのである。しかし花袋のように、事実尊重は、公認の社会道徳から逸脱した私的側面、主として男女の情痴や破れかぶれの生活をえがく方向に向かい、岩野泡鳴〈泡鳴五部作〉』(「放浪」・「断橋」・「発展」・「毒薬を飲む女」・「憑き物」)(明治四三(一九一〇)年から翌年に発表)、近松秋江の「疑惑」(大正二(一九一三)年)などを経て、葛西善蔵の苛烈で自虐的な自己剔抉(てつけつ)に達した、「子を連れて」(大正七(一九一八)年)などが書かれた。『そこまでいくと赤裸々な自己暴露も、人生の卑小さ醜さの底での自己観照、自己救済に転ずる契機をつかむが、それが私小説の究極的形態としての心境小説になってゆく。心境小説の典型には透明な死生観を述べた志賀直哉』「城の崎にて」(大正六(一九一七)年)が挙げられる。『心境小説にいたって私小説は自然主義風の暗さを脱したため、大正中期以降は《白樺》派や佐藤春夫、芥川竜之介ら芸術派までも手を染めるようになっていった。この段階で私小説の日本的特異性が気づかれ始め、〈私小説〉が概念として確立され、私小説論議が盛んになった。その中で中村武羅夫』が「本格小説と心境小説」(大正一三(一九二四)年)で『心境小説批判の側に立ったのに対し、久米正雄』は「私小説と心境小説」(大正一四(一九二五)年)で『本格小説を通俗的と決めつけ、私小説こそ人の肺腑をつく芸術の本道であるとする擁護の立場に立っていた』。『私小説の長所はつくりごとや虚飾を去った自己認識を通じ、人間性の醇化(じゆんか)と救済に向かい、東洋的悟道、全世界と自己の宥和(ゆうわ)に達するところにある。反面その弱点は』、第一に、『裸一貫の〈私〉の経験、思索に忠実たらんとするため、作品に社会的広がりが乏しくなることである。作品が私的日常性の範囲に限定され、みすぼらしい貧乏生活、主観的想念の自己満足的表現になりやすい』。第二に、『〈私小説演技説〉が伊藤整により唱えられたように、私小説を書くための作者の意図的な自己演技がいつわりなきものであるべき生活をゆがめかねない』。第三に、『作品世界が実生活と別次元に立つことを忘れ、作品と実生活の混淆が生じがちである』という点にあった。『こういう得失の検討はすべての私小説論でなされてきたが、中でも小林秀雄』の「私小説論」(昭和一〇(一九三五)年)は重要で』、『小林はその中で〈社会化した私〉というキーワードを用いて私小説を批判しつつ、その批判を通じて否定しえぬ〈私〉の存在することを指摘した』。『このように私小説について特徴的なのは作品と論議とが同程度の重要さをもって発表されてきたことである。小林秀雄や後の中村光夫の』「風俗小説論」(昭和二五(一九五〇)年)の〈風俗小説〉『批判にもかかわらず』、『私小説は盛んに書かれ』続けた。第二次大戦後、『私小説は近代的自我を阻害し、近代小説の成立を妨げるものとして手きびしく論難されたが、その生命力は強卑で、旧来の作家のほか新しい作家たちも私小説を執筆している。その中のかなりの部分は私小説への批判や提言に対応する形で私小説の変質を実現しつつある』。ともかくも、『私小説が賛否を』越えて、『近代小説の日本的変種として日本人の体質と発想に適合していることには変りはない』とある。新潮文庫の神田由美子氏の注では、『芥川龍之介も晩年は「点鬼簿」 「蜃気楼(しんきろう)」 「歯車」など、私小説的作風に向かっていき、谷崎潤一郎と「『話』らしい話のない小説論を闘わす』(「文藝的な、餘りに文藝的な」を指す)『など、「私小説」に深い関心を抱いていた』と記す(リンク先は私の電子テクスト)。但し、それはあくまで私小説の技法上の興味に過ぎず、晩年の告白体形式のそれらは凡百の読まれなくなった私小説とは、自ずと一線を画するものであることは疑いない。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 刺螺

【外】

刺螺 ニシカラノ口ノ左右ニ長キ針アルモノ和名ヲハツキト云

やぶちゃんの書き下し文

【外】

刺螺 「にし」。からの口の左右に長き針あるもの、和名を、「はつき」と云ふ。

[やぶちゃん注:中文サイトで「刺螺」を検索すると、これは、

腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズ超科 リュウテンサザエ科リュウテン亜科リンボウガイ属トガリリンボウGuildfordia aculeatus

であるが、仮にそうだとしても、どう考えてもそこまで限定する気にはなれない。

リンボウガイ属Guildfordia

の仲間でよかろう。和名は武蔵石寿「六百介品」に出、仏具の輪宝(原型は車輪の形をした投擲して相手を傷つける古代インドの武器であるが、仏教に取り入れられて、仏法を守護する転輪聖王(てんりんじょうおう)の持物となり、王の行くところへ先行して四方を制するとされる)に似ていることに因む。コレクターも好む貝で、ベイゴマ形の貝の外側周縁に七~九本の角(つの)状の長い棘のような管状突起が伸びている(これは臍孔方向から見れば、本文の、螺で殻の「口の左右に長き針ある」という表現と私はよく一致すると思う)。この突起は成長に伴って殻が伸び、前にある突起物が成長の邪魔になると自切する。更に想像するなら、和名の「はつき」は「八起」とも思われ、自切や欠損した個体では実際に八本の突起が目立つからではないかと推定した。但し、悩ましいことに和名の「はっき」には、

腹足綱前鰓亜綱新生腹足上目新腹足目アッキガイ超科アッキガイ科アッキガイ亜科ハッキガイ属ハッキガイSiratus pliciferoides

なる種がおり、これは縦脹脈上に沿って尖った管状突起を持つのである。但し、これは縦方向で螺頂方向にも棘が並んでおり、これを私は「口の左右に」とはとても表現し得ない。因みに、こちらの和名は「白鬼貝」で棘を鬼の角と見立てたようである。なお、「刺螺」という語からは、同じ、

アッキガイ亜科ホネガイVenus comb murex

及びその近縁種が即座に想起されるかも知れぬが、中文サイトがそれを挙げていないこと、ホネガイを形容するなら、全体から棘が出ていると言わぬのは不自然で、「口の左右に」と穏やかに述べるほどにしか棘状の突起はないと読むのが自然であるから、私はやはりリンボウガイ類に同定するものである。

 益軒は「外品」とするが、本邦にも棲息する(本州中部以南)。但し、リンボウガイ類は水深八十~三百メートルの比較的深海の砂泥底に棲息しており、現行でも採集される場合は漁師の底刺網(そこさしあみ)や底曳網であって、ビーチ・コーミングで発見出来ても棘状突起が綺麗に残っていることは稀なことの方が多いかと思われる。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 貝原益軒

 

       貝原益軒

 

 わたしはやはり小學時代に貝原益軒の逸事を學んだ。益軒は嘗て乘合船の中に一人の書生と一しよになつた。書生は才力に誇つてゐたと見え、滔々と古今の學藝を論じた。が、益軒は一言も加へず、靜かに傾聽するばかりだつた。その内に船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としてゐた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩として先刻の無禮を謝した。――かう云ふ逸事を學んだのである。

 當時のわたしはこの逸事の中に謙讓の美德を發見した。少くとも發見する爲に努力したことは事實である。しかし今は不幸にも寸毫の教訓さへ發見出來ない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を與へるは僅かに下のやうに考へるからである。――

 一 無言に終始した益軒の侮蔑は如何に辛辣を極めてゐたか!

 二 書生の恥ぢるのを欣んだ同船の客の喝采は如何に俗惡を極めてゐたか!

 三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に潑溂と鼓動してゐたか!

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年九月号『文藝春秋』巻頭に後の「或辯護」「制限」とともに全三章で初出する。江戸時代の儒学者にして優れた本草学者であった「貝原益軒」(名は「えきけん」とも「えっけん」とも読む 寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)はウィキの「貝原益軒」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれ』、『一六四八年(慶安元年)、十八歳で福岡藩に仕えたが、一六五〇年(慶安三年)』、暗愚であった(ここは私が追加した)『二代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、七年間の浪人生活を送ることとなる。一六五六年(明暦二年)二十七歳、三代藩主・光之に許され、藩医として帰藩.翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。七年間の留学の後、一六六四年三十五歳の時、帰藩し、百五十石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂する』。『幼少のころに虚弱であったことから、読書家となり博識となった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に判るように書かれている』。『七十歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に六十部二百七十余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『大和俗訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』。紀行文には『和州巡覧記』がある』。『『大和俗訓』の序に「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」とみえるように、庶民や女子及び幼児などを対象にした幅広い層向けの教育書を著した』。『思想書としては、一七一二年(正徳二年)の『自娯集』。学問の功は思にありとして、教義・道徳・教育等の意見を著した『慎思録』、朱子学への観念的疑問等を著した『大擬録』などがある』。『一七一四年(正徳四年)に没するに臨み、辞世の漢詩二首と倭歌「越し方は一夜(ひとよ)ばかりの心地して 八十(やそじ)あまりの夢をみしかな」を残している』とある。因みに、私は『貝原益軒「大和本草」より水族の部」』を手掛けているが、暫く、怠けている。

 

・「貝原益軒の逸事」岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、このエピソードは、末松謙澄「小学修身訓」(明治二五(一八九二)年)の中の「二五 ほこるべからず付益軒先生」の他、「新編修身経典 尋常小学校用」(明治三三(一九〇〇)年)や同年刊の「新編修身経典 高等小学校用」等に掲載されている、とある。幸い、国立国会図書館デジタルコレクション新編修身教典 尋常小學校用 三」普及舎編輯所明治三三一九〇〇)十二普及舎見出(リンク先は当該章)ので、以下に電子化する。

   *

   第七課  貝原益軒先生 (二)

 先生、かつて、船にのりて、たびをせられしとき、のりあひの一人の書生が、じまんがほに、書物のはなしをせるを、一言も、ものいはずして、聞き居られき。

 まもなく、船、きしにつきたるとき、各、名のりあひたるに、彼の書生は、先生の名を聞きて、大にはぢ入り、にぐるが如くに、立ち去りき。

   *

芥川龍之介が江東小学校(現在の両国小学校)に入学したのが明治三一(一八九八)年であるから、彼の読んだものがこれに近いものであろうとは思われるが、調べてみると、同話のヴァリエーションでは、最後に同船していた他の客たちが走り逃げる書生を笑い謗ったシーンがあるらしく、龍之介が指弾した「二」から見ると、そちらの版がより相応しい。

・「滔々」「たうたう(とうとう)」。よどみなく話すこと。弁舌さわやかななるさま。

・「一言」「いちごん」。

・「大儒」「たいじゆ(たいじゅ)」。優れた儒学者。

・「忸怩」「ぢくぢ(じくじ)」と読む。自分の行いに対して心の内で強く恥じ入るさま。「忸」は「恥じる」、「怩」も「恥じる」であるが、「引け目を感じていじける」きまり悪く思う」の謂いを含む。

として先刻の無禮を謝した。――かう云ふ逸事を學んだのである。

・「益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に潑溂と鼓動してゐたか!」「放論」は「はうろん(ほうろん)」で、誰(たれ)憚ることもなく、思いのままに議論をすること(「身の程知らずの放言」の謂いもあるが、ここはフラットな意の方が強い)。「潑溂」「はつらつ」で、「きびきびとして元気のよいさま・生き生きとしているさま」を言う(「元気ハツラツ!」なんどと叫びながら、その実この漢字が書けない若者は今や、圧倒的であろう)。ここを読む都度、私は芥川龍之介黄粱夢こうりょうむ)を思い出さずにいられない(リンク先は私のブログ版電子テクスト注)。私は、そのエンディングの「顏をしかめた儘、然りとも否とも答へなかつた」「呂翁」のような面(つら)を益軒先生にさせて見たいと思う「書生」なのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 禮法

 

       禮法

 

 或女學生はわたしの友人にかう云ふ事を尋ねたさうである。

 「一體接吻をする時には目をつぶつてゐるものなのでせうか? それともあいてゐるものなのでせうか?」

 あらゆる女學校の教課の中に戀愛に關する禮法のないのはわたしもこの女學生と共に甚だ遺憾に思つてゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年八月号『文藝春秋』巻頭に前の「民衆」(三章)「チエホフの言葉」「服裝」「處女崇拜」(三章)とともに全九章で初出する。

 

・『「一體接吻をする時には目をつぶつてゐるものなのでせうか? それともあいてゐるものなのでせうか?」』「侏儒の言葉」の特異点。このアフォリズムは「侏儒の言葉」が始動してから、通算五十八番目のアフォリズムであるが(単行本ではカットがあるので通算数は二つ減ずる)、本物の台詞形式(生(なま)の女学生の言葉)で直接話法が出現し、しかもそれが独立段落として扱われているのはここが初めてである。鍵括弧が文中に引用語句或いは仮想会話文を示すのに用いられた例は幾らもあるが、直接話法は「尊王」のブルゴーニュ公とアベの会話だけで、これは改行せずに文中挿入である。改行独立段落では「醜聞」のグールモンのそれがあるが、これは会話文ではなく完全な引用である。時に、これにどう答えるか。多くのキスを描いた絵や写真は概ね目を瞑っている。目をカッと見開いた男女が接吻しているというのはどうも気持ちが悪いような気がする。さればこそ「愛に關する禮法」では目を瞑るということになるのであろうか? しかし、あなたはどうか? 本当に目を瞑っていたか? いやさ、いるか? 薄っすらと開けて女の瞑った目を確かめたりはしなかったか? 或いは、薄っすらと開けて見たら、女もそうして覗き見ていたから、慌ててギュと閉じたりはしなかったか? 遠い遠い日の、思い出、である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  處女崇拜

 

       處女崇拜

 

 我我は處女を妻とする爲にどの位妻の選擇に滑稽なる失敗を重ねて來たか、もうそろそろ處女崇拜には背中を向けても好い時分である。

 

       又

 

 處女崇拜は處女たる事實を知つた後に始まるものである。即ち卒直なる感情よりも零細なる知識を重んずるものである。この故に處女崇拜者は戀愛上の衒學者と云はなければならぬ。あらゆる處女崇拜者の何か嚴然と構へてゐるのも或は偶然ではないかも知れない。

 

       又

 

 勿論處女らしさ崇拜は處女崇拜以外のものである。この二つを同義語とするものは恐らく女人の俳優的才能を餘りに輕々に見てゐるものであらう。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年八月号『文藝春秋』巻頭に前の「民衆」(三章)「チエホフの言葉」「服裝」と、後の「禮法」とともに全九章で初出する。三章目に至って初めて、龍之介の龍之介「侏儒の言葉」らしさが出る。因みに現在は、正規の美容整形外科術に処女膜再生手術がある。施術は二十分程度とある。

 

・「衒學者」「げんがくしや(げんがくしゃ)」とは学識があることを誇り(或いは、あるかのように振る舞い)、殊更にそれをひけらかす者。ペダントリー(pedantry)な輩。

・「輕々に」「けいけいに」。副詞。言動が慎重でなく、軽々しいさま。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  服裝

 

       服裝

 

 少くとも女人の服裝は女人自身の一部である。啓吉の誘惑に陷らなかつたのは勿論道念にも依つたのであらう。が、彼を誘惑した女人は啓吉の妻の借着をしてゐる。もし借着をしてゐなかつたとすれば、啓吉もさほど樂々とは誘惑の外に出られなかつたかも知れない。

 註 菊池寛氏の「啓吉の誘惑」を見よ。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年八月号『文藝春秋』巻頭に前の「民衆」(三章)「チエホフの言葉」と、後の「處女崇拜」(三章)「禮法」とともに全九章で初出する。それにしても如何にもな宣伝広告アフォリズムである。これは『文藝春秋』の巻頭言の一節である。『文藝春秋』の刊行者(同社創業と同時に私費で創刊)は芥川龍之介の盟友菊池寛である。これを読んだら、有意な読者は、頗る次元の低い興味から、その菊池の小説を読まずにはいられなくなるという寸法である。以下の私の最初の注も参照のこと。

 

・「啓吉の誘惑に陷らなかつた」『菊池寛氏の「啓吉の誘惑」』この二年前の大正一〇(一九二一)『新潮』に初出した菊池寛の小説。彼は同一の主人公啓吉(筆者自身の分身)を配した小説を多作、「啓吉物」と呼ばれ、まさにこの年大正十三年二月にこの「啓吉の誘惑」も所収する啓吉物の一括単行本「啓吉物語が玄文社よし刊行されている。リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの現物。総て画像で読める。岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、『啓吉は、愛読者と称する住込みの女中を浅草オペラに誘い、妻の着物を着せて出掛ける。劇場で彼女に欲望を抱くが、妻の借着に戒められて何事もなく帰宅する。しかし、後で彼女が高等淫売だったことを知り、自分の態度を滑稽に思うとともに、正しいことをしたとも思い直すという内容』とある。かく知ってしまうと、おそよ龍之介に、見よ、と言われても一向見る気の起こらぬ内容である。

・「誘惑の外」「外」は「そと」。「誘惑の外に出」るで、誘惑を受けずに辛くも離れることを指す。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) チエホフの言葉

 

       チエホフの言葉

 

 チエホフはその手記の中に男女の差別を論じてゐる。――「女は年をとると共に、益々女の事に從ふものであり、男は年をとると共に、益々女の事から離れるものである。」

 しかしこのチエホフの言葉は男女とも年をとると共に、おのづから異性との交渉に立ち入らないと云ふのも同じことである。これは三歳の童兒と雖もとうに知つてゐることと云はなければならぬ。のみならず男女の差別よりも寧ろ男女の無差別を示してゐるものと云はなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年八月号『文藝春秋』巻頭に前の「民衆」(三章)と、後の「服裝」「處女崇拜」(三章)「禮法」とともに全九章で初出する。

 

・「チエホフはその手記の中に男女の差別を論じてゐる」出典を明らかに示しているのは岩波新全集の山田俊治氏だけ。アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Антон Павлович Чехов/ラテン文字表記:Anton Pavlovich Chekhov 一八六〇年~一九〇四年)の『「手帖」(一八九一年一九〇四年)に「男女のちがい」として「女は年をとるにつれて、ますます女の仕事に身を入れる。男は年をとるにつれて、ますます女の仕事から遠ざかる」(池田健太郎訳)とある』と注されておられる。なお、チェーッホフを芥川龍之介は作家活動に専心するようになってから特に偏愛するようになり、彼の後期の幾つかの作品(「葱」・信」・「秋」・庭」など。リンク先は私の電子テクスト。私は特に「庭」を偏愛するが、確かにこれには「桜の園」との類似性が認められるように思う。最初の指摘は藤井淑禎(ひでただ)氏の「作品と資料 芥川龍之介」(一九九四年双文出版刊)である)にもその影響が見られると考えられている。

・「女の事」私はこれを子に対して愛情を注ぎこむことと採っている(私の妻そうであるが、子のない女性には失礼。)「男は年をとると共に、益々女の事から離れるものである」というのが「異性との交渉に立ち入らな」くなるというダイレクトな謂いであることは認めるが、それは必ずしも「男女とも年をとると共に、おのづから異性との交渉に立ち入らないと云ふのも同じことである」とは思わない。さらに言えば「これは三歳の童兒と雖もとうに知つてゐることと」も私は思わない。少なくとも愚昧な私は三歳の時にはそんなことは知らなかったし、私は初老に至っても「異性との交渉に立ち入らな」かったかと問われたなら、私は肯んずることが出来ないことも事実である。寧ろ、男が妻に対しては「年をとると共に」そうした「交渉に立ち入らな」くなる結果として、妻である女が「女の事」=「子に対して愛情を注ぎこむ」ことへ専心するようになると言えるのではないか? と推察する。とすれば、このチェーホフのアフォリズムは「男女の差別よりも寧ろ男女の無差別を示してゐるもの」とはならぬはずである。それはその見かけ上の共通性の中に夫婦間の恐るべき乖離状況があり、その原因がとりもなおさず男のそれにあって、結果が女のそれを惹起させるということになる。さればこそ論理的に「男女の無差別を示してゐる」とは言えないはずである。或いは、私の謂いを男女引っくり返して反論される龍之介弁護派もあるやも知れぬ。では引いておこう。当の「侏儒の言葉」の「S・Mの智慧」には「女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出來てゐるものらしい。」とあるよ、と。さてもこれは室生犀星の言、いやさ、マリー・ストープスの謂いだ、と指弾されるなら、あなたは「侏儒の言葉」の「S・Mの智慧」に墨塗りをなさい、と応じておく。どうぞ、お塗りになられるがよかろうぞ。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 民衆

 

       民衆

 

 民衆は穩健なる保守主義者である。制度、思想、藝術、宗教、――何ものも民衆に愛される爲には、前時代の古色を帶びなければならぬ。所謂民衆藝術家の民衆の爲に愛されないのは必ずしも彼等の罪ばかりではない。

 

       又

 

 民衆の愚を發見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我我自身も亦民衆であることを發見するのは兎も角も誇るに足ることである。

 

       又

 

 古人は民衆を愚にすることを治國の大道に數へてゐた。丁度まだこの上にも愚にすることの出來るやうに。――或は又どうかすれば賢にでもすることの出來るやうに。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年八月号『文藝春秋』巻頭に後の「チエホフの言葉」「服裝」「處女崇拜」(三章)「禮法」とともに全九章で初出する。

 このアフォリズム漫然と読むと、ギクシャクした論理の躓きを感じざるを得ない奇妙な章列に一見、読め、それがある種の生理的な不快感を惹起させるからである。それはまた、自分は「民衆」ではない自覚するような選民的現代人は決して多くはないからである。

 その強烈な不快感は実に、序章で「民衆は穩健なる保守主義者である」と既定しておきながら、残りの二章では「民衆」を「愚」なるものとして「愚」弄しているとしか一見、読めぬからである。

 以下、私なりに順を追って解析してみよう。

 

【第一章】

――命題「民衆は穩健なる保守主義者である」から引き出される属性。

――「民衆」は「民衆」相互の共有的視点からも見た目でも――「愚」――である。

――何故なら、「前時代の古色を帶び」ていることを嗜好する「穩健なる保守主義者」である「民衆」とは、当時の大正デモクラシーの洗礼を受けた「民衆」、モボ・モガといった一見軽薄な同じの流行に乗った「民衆」から見て「愚」とされるからである。

――ところが逆に、新しい思潮を謳歌する集団を見て「大正でも暗し」と揶揄し、奇体な役者めいた風俗を蔑視するところの、「穩健なる保守主義者」である大多数の「民衆」から見れば、彼等こそが真の「愚」と映るであるからである。

【第二章】

――「民衆藝術家」(第一章からの敷衍)或いは、そうではない「藝術家」(この「我々」とは広く作家・芸術家・思想家を指すと考え得る。それは不倶戴天の仇敵的対峙者であっても、である。「我我」の一人である芥川龍之介は自身を「民衆藝術家」として意識していないはずであるから)と対峙させた場合でも「民衆」、見かけ上――「愚」としか当然の如く、映らぬ(「民衆の愚を發見するのは必ずしも誇るに足ることではない」という命題から)。

――しかし同時に「我我」自称「藝術家」(前で述べた広義の意)にとって「我我自身も亦民衆であることを發見するのは兎も角も誇るに足ることである」ことは疑いない。

――則ち、「大衆」の「藝術家」と自認する者も、そうでない「藝術家」(例えば芥川龍之介のような「藝術」至上主義的立場をどこかで支持するような「藝術家」と例示してもよい)も、その本質に於いて「民衆」の一人である。

【第三章】

――古来の賢哲は、「民衆」を「愚」なるものし続けることこそが「治國の大道」(国家安泰の王道)の大事な要素の一つに数えて「ゐた」(いや、正しくは「いる」である。今の国家の権力者も基本的な精神に於いてそれは変わらない、と芥川龍之介は謂いたいのである。この肝心の最後の章がでなければ単なる古い哲学史に終わってしまうからである。さればこそ以下の倒置表現が読む者の心を痛く突き抉るのである)。

――その「民衆」を社会的に対象化物質化し、統御し、支配し、不要化廃用化すれば処理廃棄することを企むところの「国家権力」や「大衆」を扇動する「思想集団」の精神的な高みの立ち位置から俯瞰してみても、「大衆」は見かけ上、やはり――「愚」――である。

――古来の賢哲も、現代の「国家権力」も「大衆」を扇動する「思想集団」も、十全に「愚」と見える「民衆」をダメ押しでさらにさらに「愚」にすることが出来ると確信し、そうすることを望んででもいるかのように。

――或いはまた、どうかすると、今度は本来、救いがたい「愚」としか見做していないはずの「民衆」を『俺たちは「賢」いんだぞッツ!』と錯覚させることさえも出来ると確信し、そうすることを望んででもいるかのように。

 

 まさにこの論法の帰結するところ、結局は

 

――「民衆」というものは、その各個一個人の「民」という存在は実相に於いて「愚」ではないとしても、それが集合した「民衆」は必ず「衆愚」に他ならぬ。

 

といった、

 

「民衆に」とって絶望的な命題に帰結する「かのように」思わせる荒野に、これらのアフォリズムが多くの読者を導く「かのように」感じさせてしまう――それがこの――「民衆」三章のアフォリズムの「見かけ上の生理的不快感」――の正体

 

である、と私は思う。

 何故に私は「見かけ上の生理的不快感」と言うか?

それは、この「民衆」三章のアフォリズムは、芥川龍之介の素(す)の思索上の感懐をそのままただ投影したものではないと私は思うからである。

 この一読、如何にもバランスの不安定な、逆説と反則に満ちたように見えるこれら、

 

――「侏儒の言葉」の「民衆」(三章)は――実は芥川龍之介編になる「大正文学史」である。

 

 これは実に、当時の大正デモクラシーに始まり、「民衆文学」「大正労働文学」から、遂に革命のための道具として文学を変容させることとなる「プロレタリア文学運動」へと展開していく、大きな一つの文学を取り込んだ「民衆」を旗印に掲げた文化文芸思潮の潮流が、まず第一に龍之介の解析対象となっている。

 そうして第二章では、それに加えて、そうした流れに違和感を覚え、ある距離を置いて冷たい視線で眺めていた「新浪漫派」の流れを汲む「耽美派」「唯美主義」、及び、その辺りから社会主義思想とは異なる形で芸術表現を試みようとした「新感覚派」、或いはまた、既にして世界に例を見ない「私小説」という奇体な奈落への道を進みつつあった「自然主義」(西欧の「自然主義」とは似ても似つかぬ本邦独自に奇形化してしまったそれ)、宗教的な人道主義やら博愛主義やらに基づくお目出度い「白樺派」(批判的なのはどうにも仕方がない。私は「白バカ派」が総じて嫌いだから)が、龍之介の分析の視野には入ってくる。無論、自分の姿(後に「新現実主義」などと言う訳のわからぬグループに纏められる)もそこには含まれている。

 最後の第三章では、ここまで当の「民衆」を導かんとするインテリゲンツアの影と共時的に、そうした文学・芸術などというものを全的に認めない連中が登場してくる。そうして彼らは、彼らにとってクソにしか見えぬ芸術が、あろうことか、脅威を与え、これはどうにか懲らしめてやらんといかん思い始めた軍靴の音を立てている日本帝国という「国家権力」が、やおら、登場するという仕掛けとなっているのである。

 

 但し、ある意味、ぶっ飛んでいた大正の文学思潮を「民衆」と言う観点から、たった二百数十字で語り切るというのは暴虎馮河であり、この確信犯で取り組んだアンビバレントな三連章は「侏儒の言葉」の中では必ずしも成功しているとは言い難い。

 さても以上の私の解は、或いはとんでない誤認誤読かも知れぬ。大方の御叱正を俟つものではある。

 なお、読者諸君の中には私の「大正文学」認識の内容を疑う者もあろう。されば、私が十八の時、大学生になったその四月、立ち食い蕎麦で飢えを凌いでいた私が、國學院大學の生協の職員に「近代文学やるなら、これでしょ!」と半ば騙されて買ったものの、今日まで一度として役に立ったという記憶がない、岩波小事典の片岡良一編の「日本文学―近代」(一九五八年刊)の「大正文学」の項を引いておく。片岡氏は一九五七年に逝去しているのでパブリック・ドメインである(今後、電子化でせいぜい使ってやろうと思う)。なお、アラビア数字を漢数字に、ピリオド・コンマを句読点に代え、注記号は省略した。また、私は以上の部分は私の乏しい知識でオリジナルに書いたもので、以下を参考にはしていないことを断わっておく。

   《引用開始》

 大正文学 大正期の文学は新浪漫派の支配にはじまる。新しい文学を確立した自然主義は、それの意図した人間解放の道の梗塞多さにたじろいで、明治四十三、四年(一九一〇、一一)頃から分化期的な低迷に入ったし、四十三年に出発した白樺派の主我的成長主義は容易に一般化しえない社会的制約があったため、その制約や梗塞への抵抗を姿勢して耽美的な享楽主義などに傾いていた新浪漫派が、文芸界の主潮流とならずにはいなかったのである。が、それは明治末年から大正二、三年までのことで、大正三、四年頃にな ると、第一次大戦下の気流に即して著しく人道主義化した白樺派の文学が、唯美派系統の情話文学や遊蕩文学を圧倒して第一線に出た。と同時に、そこにも見られた文学における社会的関心の濃化が並行的に主知的な探求精神の強化を生んで、自然主義の伝統に数年来の低迷を越えた客観主義的成熟をもたらす一方、民衆芸術論書やデモクラシズムの擡頭を生み、それが従来の個人主義伝統と対立することになったところに大きな転換期の到来を思わせるものがあった。が、その転換はさすがにそう急速には行われず、民衆芸術やその延長線上にあらわれた無産者文学にだんだんと侵蝕されながらも、白樺派の主観的飛躍を現実にひきもどし、唯美派風の享楽主義や芸術主義をも適度にとかしこんで、自然主義以来見失われていた個人的な生の調和を現実に即して見いだそうとする新現実主義の風潮が、一般的には支配的な位置をしめることになった。しかもその道が結局は狭隘化された心境小説書や私小説を結論とするほかないものであったため、伝統の内部から新感覚派による反逆運動が生れた(大十三)年頃には、無産者文学もまたプロレタリア文学にまで成長し、そこに生れたはげしい時代的な蕩揺が、芥川竜之介の自殺(昭二)という終幕をもたらしたのである.唯美派の支配から或る意味でそれの崩壊とも見られるこの芥川の自殺までを大正時代と見ることもできるし、新感覚派結成の大正一三年(一九二四)以後を昭和文学として考える人も多い。自然主義の客観主義的成熟や唯美派系統の情話文学や遊蕩文学への転落までを明治文学の直接延長線上のものと見、時期的にはそれと重なり合った白樺派の進出から新現実主義にかけてを大正文学と規定すれば最もすっきりする。そう見れば、とにもかくにも解放された個人が現実に即して調和的な生の道を求めたのが大正文学であり、それが結局は狭いところに落ちこんだにしても、そこに市民文学の日本的達成が見られることになる。転換期的揺蕩の一翼として生れた宗教文学書が、そういう歴史にそって相当の勢力を持ったことや、それだけその奥には怖れや虚無感がただよっていたことも見落してはならない。

   《引用終了》

 

・「民衆藝術家」小学館「大辞泉」の「民衆芸術」には、『民衆が作り出す、また、民衆のための芸術。日本では大正中期、大杉栄らによって論じられ、詩壇では白鳥省吾らの民衆詩派が台頭、プロレタリア文学の先駆となった』と出、平凡社「世界大百科事典」の「民衆芸術論」には(コンマを読点に代えた)、大正期の文壇に於いて特に大正五(一九一六)年から『数年にわたって交わされた〈民衆と芸術〉のテーマをめぐる論議。大正デモクラシーの思潮の中から、芸術の民衆化、あるいは民衆の芸術参加という課題が浮かび、〈民衆芸術とは一般平民のための芸術〉と規定した本間久雄の論文』「民衆芸術の意義及び価値」(大正五年八月『早稲田文学』掲載)『が論議の発端になった。安成貞雄、加藤一夫、大杉栄、平林初之輔、生田長江などが発言したが、本間が民衆を教化する芸術を論じたのに対し、急進的な大杉は〈民衆によって民衆の為に造られ而して民衆の所有する芸術〉と規定して、労働階級の政治的自立と芸術的自立の同時達成を主張し、両者の論旨が有効にかみあうまでにいたらず、論議は労働文学や民衆詩などと一つになって、大正末年のプロレタリア文学をめぐる大渦の中に吸収されていった』と出る。岩波新全集の山田俊治氏の注ではこれに、『支配階級の専有物でない、民衆のための芸術を目的として実践する芸術家。大正期、ロマン・ロランらの影響下に、大杉栄などが提唱し、一九一七―二〇年にかけて活発な論議を呼び、プロレタリア文学理論の先駆とな』ったとする。

・「古人は民衆を愚にすることを治國の大道に數へてゐた」「論語」「泰伯第八」の第九章目に、「論語」の中ではあまり人気のない一節として、

 

子曰、民可使由之、不可使知之。(子曰く、「民は之れに由(よ)らしむべし。之れを知らしむべからず。」と。)

 

がある。この一章には幾つかの解釈があるようだが、文化大革命当時、この一節が「批林批孔」で孔子が愚民政治を主張した根拠とされた通り、素直に読むなら、新潮文庫の注の神田由美子氏の訳の如く、

『人民は道理に暗いものだから、いろいろ指導してただ従わせること。その原理を理解させようとしても無駄である』。

となろう。参照したネットのこの箇所の解釈についてのQ&Aサイトの親切な回答には、他に、

「能力がある人物はそのまま即座に起用し、能力がない者にはしっかりと教育を施すがよい。」(回答者は教育者孔子の言としては、これが正しいとされておられる)

「能力がある人物は彼らの自由にやらせるのがよい。能力がないなら、指導してやるのがよい。」

「民は自由にさせればよいか? いいや、教えなければならない!」

といったような訳(私が少しいじくってある)が示されてある。龍之介がこれを念頭に置いたかどうかは確約は出来ぬが(神田氏注以外にも筑摩全集類聚が「論語」のこの部分を注に載せている)、まずこれを指しているとみて間違いなかろう。そうして、龍之介のこの箇所の解釈は明らかに神田氏の訳のように、民衆を「愚」とする(『その原理を理解させようとしても無駄である』)ものである。]

2016/05/26

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  神(二章)

 

       神

 

 あらゆる神の屬性中、最も神の爲に同情するのは神には自殺の出來ないことである。

 

       又

 

 我我は神を罵殺する無數の理由を發見してゐる。が、不幸にも日本人は罵殺するのに價ひするほど、全能の神を信じてゐない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年七月号『文藝春秋』巻頭に前の「社交」「瑣事」とともに全四章で初出する。この最初の章は、私がやはり偏愛する一文アフォリズムであるが、これは芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」(自死から凡そ二ヶ月後の昭和二(一九二七)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表。リンク先は私の古い電子テクスト)の第四十二章「神々の笑ひ聲」という題のアフォリズムに、龍之介自身が引く形で出てくる。

   *

 

     四十二 神々の笑ひ聲

 

 三十五歳の彼は春の日の當つた松林の中を歩いてゐた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出來ない」と云ふ言葉を思ひ出しながら。………

 

   *

「三十五歳」とあるが、龍之介は明治二五(一八九二)年三月一日生まれであり、自死は昭和二(一九二七)年七月二十四日未明であるから、当時一般であった数えとすれば、「二三年前に彼自身の書いた」とあり(この章の発表は大正一三(一九二四)年七月)、これは自死の年の春ではなく、前年大正一五(一九二六)年の春と考えられる。同年四月二十二日に鵠沼の東屋(あずまや)旅館に妻文(満二十五歳)と三男也寸志(生後九ヶ月)と養生に行っている(結局、翌年一月頃まで主にここ鵠沼で過ごしている)。「松林の中を歩いてゐた」というロケーションも鵠沼に合致する(何故、こんなことを考証するかというと、実は「或阿呆の一生」のアフォリズムの配列は龍之介自身による極めて複雑で恣意的な配列操作がなされてあるからである。「侏儒の言葉」が謎なら、「或阿呆の一生」はまさに出口を発見することが困難な迷宮(ラビリンス)と呼んでもよいシロモノなのである(幾つか部分的にはブログで考証を行っているが、何時か「或阿呆の一生」にもマニアックな全注釈で挑戦してみようとは思っている)。

 

・「罵殺」「ばさつ」は「罵倒」と同義。対象や人物を激しい言葉を以って罵り、否定し去ろうとすること。物理的に「殺す」ことではなく、まさに「罵(ののし)り倒す」のである。因みに「罵」は漢和辞典では部首は「馬」の部ではなく「罒」の部である(私は大学時分、とある国語学の教授が「罒」と板書して『この部首を「よこめ」などと気持ちの悪い読み方をする馬鹿がいる』と言ったので、「あみめがしら」が正しいと五十九になった今の今まで思っていたのだが、大修館書店の「廣漢和辭典」を今、試みに引いてみたら、「罒部」のところにははっきりと『よこめ』と書いてあったわい!)。

・「全能の神」細かいことを言うと、こう言った場合、その神はギリシャ・ローマ神話のゼウスのような神及び一神教のキリスト教の神に限定される。本邦の神道の神は全知でも全能でもないし、天孫族どもに不当に零落させられた神々は殲滅さえ受けているから自殺も可能である(私には自死したらしく感じられる神もいないではない)。仏教ではそもそも仏は神ではないし、天部の神々は全知全能では全くないわけで、さればここで龍之介が言っている神はキリスト教のヤハウェと考えるのがまず自然ではある。しかしそうすると、前段の「あらゆる神の屬性中」が齟齬を生じてしょぼくさくなって如何にもつまらなくなってしまうので、ここはキリスト教に限定せぬが身のためではある。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 瑣事

 

       瑣事

 

 人生を幸福にする爲には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戰ぎ、群雀の聲、行人の顏、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。

 人生を幸福にする爲には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の爲に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破つたであらう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を與へたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享樂の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に樂しむ爲には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。

 人生を幸福にする爲には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戰ぎ、群雀の聲、行人の顏、――あらゆる日常の瑣事の中に墮地獄の苦痛を感じなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二三)年七月号『文藝春秋』巻頭に前の「社交」と後の「神」(二章)とともに全四章で初出する。リフレインと「ずらし」の修辞技法を用い、ごく限られた語彙で組み立てられたアフォリズムであるが、完成度は頗る高い。故に難解である。芥川龍之介の言う「幸福」は、べろりと裏返して見れば「絶対の不幸」でもある。龍之介が好んだ言葉、「煩悩則菩提」が、まさにこの「長歌」の「短歌」とも言えるかも知れぬ。

 

・「瑣事」「さじ」。小さな事。つまらぬ事。「瑣」は小さい・細かい・取るに足りないの意。「些事」とも書ける。

・「戰ぎ」「そよぎ」。

・「群雀」「むらすずめ」。

・「行人」「かうじん(こうじん)」。道を歩いて行く人或いは旅人の意であるが、ここは擦れ違う見知らぬ他人の謂いと採るのがよい。

・「甘露味」「かんろみ」。「甘露」には多様な意があるが、ここは古代インドの聖なる甘い飲物で、苦悩を除き、長寿を保って、死者をも復活させるとされたものを指し、後には仏法の教えに喩えられたそれに基づき、想像だにし得なかった意外な感動・感懐の味わいを指すと考える。

・「庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破つたであらう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を與へたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享樂の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である」「愁」は「うれひ(うれい)」。無論、松尾芭蕉の人口に膾炙した「古池や蛙(かはづ)飛びこむ水の音」を指すが、この句は貞享三(一六八六)年春、芭蕉庵で催した句会で詠んだもので、それまで、歌学にあって専ら鳴くことをのみ当然の風趣としてきた平板な「蛙」という材料を美事に跳ね飛ばさせた上、その跳躍の瞬時の「動」から即座にずらして、その直後の池の絶対の「静」を引き出すという、新鮮な詩情を創出させている。これはまさに、全くそれまでの和歌や俳諧連歌に存在しなかった芸術性の高みをシンボライズする句であり、「蕉風」の象徴的句として俳句史に於いては捉えられている。それを踏まえながら、芭蕉がこの句に象徴されるところの新しい詩を生み出すことで、マニエリスムに陥っていた退屈な詩歌の「百年の愁」いを「破つた」のではあるが、しかしそれは同時に、孤独な作業にして、答えの出ることのない芸術探究という「百年の愁」いを現出させてしまったのだとも言い得る、日常の中にこそ波状的に襲いきたる「墮地獄」(だじごく)を味わう芭蕉の孤独はこの句から始まったのだ、ということである。ここで龍之介は孤高な芭蕉に秘かに自分自身を擬えていると言ってよい。でなければ、こんな逆説的感懐は脳裏に浮かびはしないからである。そうした芥川龍之介の共時的芭蕉観は「侏儒の言葉」の芭蕉限定アフォリズム集とも言うべき「芭蕉雜記」(大正十二(一九二三)年大正十三年や「續芭蕉雜記」(昭和二(一九二七年)に示されてある(リンク先は私の電子テクスト)。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  社交

 

       社交

 

 あらゆる社交はおのづから虛僞を必要とするものである。もし寸毫の虛僞をも加へず、我我の友人知己に對する我我の本心を吐露するとすれば、古への管鮑の交りと雖も破綻を生ぜずにはゐなかつたであらう。管鮑の交りは少時問はず、我我は皆多少にもせよ、我我の親密なる友人知己を憎惡し或は輕蔑してゐる。が、憎惡も利害の前には鋭鋒を收めるのに相違ない。且又輕蔑は多々益々恬然と虛僞を吐かせるものである。この故に我我の友人知己と最も親密に交る爲めには、互に利害と輕蔑とを最も完全に具へなければならぬ。これは勿論何びとにも甚だ困難なる條件である。さもなければ我我はとうの昔に禮讓に富んだ紳士になり、世界も亦とうの昔に黃金時代の平和を現出したであらう。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年七月号『文藝春秋』巻頭に後の「瑣事」「神」(二章)とともに全四章で初出する。前号最後の「S・Mの智慧」は特異点で「これは友人S・Mのわたしに話した言葉」として載せられたものであったが、それに続くこれがかくなる内容を持ち、しかも死後の「侏儒の言葉」では並んでそれらが読まれるのであるが、当の龍之介の数少ないまことの「知己」の一人であった犀星はそれをどう感じたであろう。微苦笑して淋しそうに「芥川らしい」と呟いたかも知れないなどと思う向きもあるかも知れぬが、私は寧ろ、この『文藝春秋』七月号を床に叩きつける犀星、単行本「侏儒の言葉」を叩きつけようと振り上げながら、しかし、とんとんとその表紙を叩いて、またつまびらく犀星を、私は思う。それは萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」(初出は雑誌『改造』昭和二(一九二七)年九月号)の第十三章の直情径行の純な人としての犀星を思い出すからである(リンク先は私の古い電子テクスト。ここでの引用では底本が「最後の別れ」に「○」の傍点を附すのを下線に代えてある)。

   *

         13

 

 その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。

「室生君と僕の關係より、萩原君と僕のとの友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。」

 この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向かつて次のやうな皮肉を言つた。

「君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。」

 その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。

   *

因みに私には、この時の田端の坂の上の龍之介の姿を確かに見たことがあるというデジャ・ヴュがあるほどに、この場面は忘れ難く切なく哀しいシークエンスなのである。

 

・「管鮑の交り」「くわんぱうのまじはり(かんぽうのまじわり)」と読む。極めて親密にして無二の心からの交際、互いを理解し合って利害に左右されることのない厚い友情の謂い。春秋時代の管仲と鮑叔牙(ほうしゅくが)が変わらぬ友情を持ち続けたという「列子」力命篇や「史記」管晏(かんあん)列伝の故事に基づく。「少時」(「しばらく」と訓ずる)問はず」と龍之介も言ってから、敢えて原話を引くのは厭味であろうから控える。因みに、言い添えておくなら、先に掲げた萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」の第三章の前半で実に萩原朔太郎は、

   *

 室生犀星君は、最近における故人の最も親しい友であつた。室生君と芥川君の友情は、實に孔子の所謂「君子の交り」に類するもので、互に對手の人格を崇敬し、恭謙と儀禮と、徳の賞讚とを以て結びついてた。けだし室生君の目からみれば、禮節身にそなはり、教養と學識に富む文明紳士の芥川君は、正に人徳の至上觀念を現はす英雄であつたらうし、逆に芥川君から見れば、本性粗野にして禮にならはず、直情直行の自然見たる室生君が、驚嘆すべき英雄として映つたのである。即ちこの二人の友情は、所謂「反性格」によつて結ばれた代表的の例である。

   *

とさえ述べているのである。朔太郎のこの讃言は恰も、前号末の「S・Mの智慧」とこの「社交」の二章を踏まえて感懐を述べているような錯覚に私は陥る(かも知れぬし、偶然かも知れぬ。ともかくもこの二章を続けて読める単行本「侏儒の言葉」は未だ刊行されていない(同年十二月刊)事実は述べておかねばならぬ)。

・「多々益々」「たた」と「ますます」で切って読むべきところである。

・「恬然」既注であるが、再掲する。「てんぜん」。物事に拘(こだわ)らず平然としているさま。「恬」自体が「気にかけないで平然としているさま」を意味する漢語である。

・「禮讓」「れいじやう(れいじょう)」。相手に対して礼儀礼節を尽くし、謙虚な態度を示すこと。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) S・Mの智慧

 

       S・Mの智慧

 

 これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。

 辨證法の功績。――所詮何ものも莫迦げてゐると云ふ結論に到達せしめたこと。

 少女。――どこまで行つても淸冽な淺瀨。

 早教育。――ふむ、それも結構だ。まだ幼稚園にゐるうちに智慧の悲しみを知ることには責任を持つことにも當らないからね。

 追憶。――地平線の遠い風景畫。ちやんと仕上げもかゝつてゐる。

 女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出來てゐるものらしい。

 年少時代。――年少時代の憂欝は全宇宙に對する驕慢である。

 艱難汝を玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男は到底玉になれない筈である。

 我等如何に生くべき乎。――未知の世界を少し殘して置くこと。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に前の「二宮尊德」「奴隷」(二章)「悲劇」「強弱」とともに全六章で初出する。標題のイニシャル「S・M」の「友人」とは、芥川龍之介の数少ない真の理解者であった、詩人で小説家の室生犀星(むろうさいせい 明治二二(一八八九)年~昭和三七(一九六二)年:本名は室生照道(てるみち))のことである(龍之介より三歳年上)。本章はその言い回しなどから見ても、概ね犀星の直話と考えてよく、とすれば「侏儒の言葉」の中では他者由来のアフォリズムとして特異例ということになるが、自ずと龍之介の嗜好好みの条々であり、幾分か、龍之介の筆も加えられていると考えてよかろう。現在まで私の読んだ犀星の文章にこれを解説したものには出逢っていない。あれば、御教授戴けるよう、よろしくお願い申し上げる。私の貧しい注を少しでも充実させるために、である。

 

・「辨證法」ドイツの哲学者ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel 一七七〇年~一八三一年)のそれ(ドイツ語:Dialektik:音写「ディアレクティク」。 語源はギリシア語の「対話」(ラテン文字転写:dialektikē )と採る。グーグルの「弁証法」の検索で頭に出る解説が簡潔で分かり易いので引く。『物の考え方の一つの型。形式論理学が、「AはAである」という同一律を基本に置き、「AでありかつAでない」という矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だとは決めつけず、物の対立・矛盾を通して、その統一により一層高い境地に進むという、運動・発展の姿において考える見方。図式的に表せば、定立(「正」「自」とも言う)Aに対し』(「テーゼ」(ドイツ語(以下、同):These)、『その(自己)否定たる反立(「反」「アンチテーゼ」』(Antithese)『とも言う)非Aが起こり、この否定・矛盾を通して更に高い立場たる総合(「合」「ジンテーゼ」』(Synthese)『とも言う)に移る。この総合作用を「アウフヘーベン」』(aufheben)『(「止揚」「揚棄」と訳す)と言う』。
 
・「淸冽」「せいれつ」水が清らかで冷たいさま。

・「メリイ・ストオプス夫人」スコットランドの植物学者・作家・女性運動家で、特に産児制限運動家として知られたマリー・ストープス(Marie Carmichael Stopes 一八八〇年~一九五八年)。ウィキの「マリー・ストープス」から引く。『エディンバラに生まれた。父親は人類学者のヘンリー・ストープスで、母親のシャーロット・カーマイケル=ストープスは有名なシェークスピアの専門家で、スコットランドで最初に大学教育を受けた女性である。ロンドンで育ち』、十二歳まで『母親から教育を受けた。エディンバラのSt. George Schoolで学んだ後、女子校のノース・ロンドン・コレジエイト校を卒業した。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで、植物学、地質学を学ぶことを許された。古生代の地層から新たに発見された植物化石に強い関心をもった最初の女性となり、その化石の研究は高い評価を得た』。『植物学と地質学、地理学の学位を得た後、ミュンヘンの植物学研究所に進み』、一九〇四年に『自然科学の博士号を取得した。博士論文のテーマは、ソテツやシダの種子の構造に関するもので、絶滅したシダ種子類(Pteridospermae)の確立に重要な役割を果たした』。一九〇四年(明治三十七年)に『マンチェスター大学の最初の女性科学研究者とな』り、一九〇七年(明治四十年/マリー二十七歳)で『ミュンヘンで知り合った、日本人植物学者、藤井健次郎について、来日』、二年の間、日本で共同研究を行ない、『中生代後期の地層からの新種の植物化石を藤井と記載した』。一九〇八年に『イギリスに戻り、再びマンチェスター大学で働いた。カナダの地質調査や、ランカスターの植物化石の有名な産地のFern Ledgesなどで仕事をした』。一九一三年から『ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの古植物学の講師を』七年間務め、一九〇九年にはロンドン・リンネ協会の会員となっている。『産児制限運動や性教育の分野で、家族計画に関する著作』「結婚で結ばれた愛」(Married Love 一九一八年)や「賢明な親」(Wise Parenthood 一九一八年)があり、十三の言語に翻訳され、数百万部を売り上げるベストセラーとなった。ストープスの『来日費用は王立協会から北海道での白亜紀被子植物探索調査の名目で支給された。東京大学で講義をし、小石川植物園に化石研究の施設を整える一方、北海道で単身、化石採集を行った。明治時代の北海道を若い白人女性が化石採集するのは、センセーショナルで、新聞に取り上げられ、警官の護衛がついたとされる。滞日中の記録は、『日本日記』(A Journal From Japan)に残され、北海道以外に房総半島の旅行の記録や日本の風俗などが記録されている。藤井と共著で「白亜紀植物の構造と類縁に関する研究」を発表した。この研究には、白亜紀の単子葉類の子房の化石、クレトオパリウム(Cretovarium)が記載されている』。『滞日中のエピソードとしては、大使館の夜会にでるのにピンクのドレスで自転車で出かけたり、日本科学界の重鎮、桜井錠二男爵に可愛がられ、謡いの名手だった男爵から能の手ほどきを受け、能の公演にも招待された。帰国後王立協会で能の名作「隅田川」を朗読し』てもおり、また「日本の古典劇・能」(Plays of Old Japan (The NO) 一九一二年)をロンドンで出版してもいる、とある。来日当時は犀星十八、龍之介十五歳であった(因みに、この年、龍之介は当時在学中の東京府立第三中学校(源氏の都立両国高校)の同級生で親友の山本喜誉司(きよし)の姪であった塚本文(ふみ)七歳と初めて逢っている。後の芥川龍之介夫人である(結婚は大正七(一九一八)年二月二日))。なお、この「女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずる」に相当する部分が彼女のどの著作のどこの書かれているのかは私は知らない。諸注も掲げていない。彼女の研究者の御教授を切に乞うものである。

・「驕慢」「けうまん(きょうまん)」とは、驕(おご)り昂(たか)ぶって相手を侮(あなど)り、勝手気儘に振る舞うこと。
 
・「艱難汝を玉にす」「かんなんなんぢ(なんじ)をたまにす」と読む。苦労や困難を耐え乗り越えてこそ立派な人間と成るの意。筑摩全集類聚版脚注では、『西洋の諺の意訳。
Adversity makes men wise. 』とある。「adversity」は逆境・不運・災難・困難・困窮であるから、訳すなら「逆境は人を賢明にする。」である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  強弱

 

       強弱

 

 強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一擊に敵を打ち倒すことには何の痛痒も感じない代りに、知らず識らず友人を傷けることには兒女に似た恐怖を感ずるものである。

 弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る處に架空の敵ばかり發見するものである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に前の「二宮尊德」「奴隷」(二章)「悲劇」及び後の「S・Mの智慧」の全六章で初出する。

 

・「痛痒」「「つうやう(つうよう)」。痛みと痒(かゆ)み。

・「弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る處に架空の敵ばかり發見するものである。」我々はこのアフォリズムを読んだ際、哀しいことにそれを前の段落にフィード・バックさせない点に於いて、無意識のうちに自身を「弱者」と認めてしまっていると言える。しかし翻って、却ってこの龍之介マジックに騙されない者というのは、前段落に「強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一擊に敵を打ち倒すことには何の痛痒も感じない代りに、知らず識らず友人を傷つけることには兒女に似た恐怖を感ずるものである。この故に又至る處に架空の友ばかり發見するものである。」という附加文を見出して慄然とするであろう。自らを「強者」とする龍之介に反駁する者は、実は「架空の友」しか自分の周囲にはいないという、普段からどこかで感じているところの厳然たる事実を目の当たりにしなければならなくなり、それは大多数の無意識に「弱者」として自己を認知する大多数の読者以上に、絶望的な曠野が眼前に広がることとなるからである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  悲劇

 

       悲劇

 

 悲劇とはみづから羞ずる所業を敢てしなければならぬことである。この故に萬人に共通する悲劇は排泄作用を行ふことである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に前の「二宮尊德」「奴隷」(二章)及び後の「強弱」「S・Mの智慧」の全六章で初出する。

 

・「萬人に共通する悲劇は排泄作用を行ふことである」このアフォリズムは、その眇め的言い回しの面白さにあるのでは――ない。その勘所は、芥川龍之介が「萬人に共通する悲劇」と限定するところにこそ――ある。即ち、「悲劇とはみづから羞ずる所業を敢てしなければならぬこと」と定義出来る。しかしということは、それ「は排泄作用を行ふ」という一点に於いてのみ、「萬人に共通する悲劇」ということになるのであり、それ以外に「萬人に共通する悲劇」など――ない、という命題こそが真理であると龍之介は謂うのである。私はこの短律のアフォリズムを月並俳句と同等にしか読み込んでいない読者が、殊の外、多いように思うのである。いや、かく今謂う私自身にしてからが、教師時代にこの一節をそうしたのっぴきならない言説(ディスクール)として生徒に紹介していたかと逆に問われたなら、黙して俯かざるを得ないのである。

 龍之介は晩年(と言ってもこの二年後)、激しい下痢(及び嘔吐・便秘)と痔に悩まされることとなる。もともとの胃弱に加えて、睡眠薬を始めとする多量の薬剤を服用していた結果と見てよいが、書簡類を読むと、それは悲愴を極めるものである(下線やぶちゃん)。

「わたくしはけふの講演會へ出るつもりでゐましたが、腹を壞してゐる爲に出られません。」「腹に力のない時には出來ないのです。甚だ尾籠なお話ですが、第一下痢をする時には何だか鮫の卵か何かを生み落してゐるやうに感ずるのです。それだけでもがつかりします。おまけに胃袋まで鯨のやうに時々潮を吹き出すのです」(大正一五(一九二六)年六月二十二日・鵠沼東屋(あづまや)発信・鈴木了享宛・岩波旧全集書簡番号一四八九)

「君がかへつた翌日から又腹を下し、少なからず難澁した」「おまけに一人になつて」「今にも死にさうな氣がした」「小康を得たから室生を訪問したら、忽ち又冷えたと見えてけふは下痢と軟便との中間位になつてしまつた」「下痢ほど身心とも力のぬけるものはない」「字までひよろひよろしてゐるのはあしからず」(同年六月二十九日・田端発信・佐佐木茂索宛・岩波旧全集書簡番号一四九〇)

けふも亦屁をしたら、便が出てしまつて、氣を腐らせてゐる」(同年九月二十二日・鵠沼発信・佐佐木茂索宛・岩波旧全集書簡番号一五一八)

痔猛烈に再發、昨夜呻吟して眠られず」(同年十二月十二日・鵠沼発信・佐佐木茂索宛・岩波旧全集書簡番号一五四〇)

「鴉片丸[やぶちゃん注:睡眠薬。]乏しくなり心細く候間、もう二週間分ほど」「お送り下さるまじく候や。右願上げ候。」「一昨日は浣腸して便をとりたる爲、痔痛みてたまらず、眠り藥を三包のみたれど、眠ることも出來かね、うんうん云ひて天明に及び候」(同年十二月十三日・鵠沼発信・齋藤茂吉宛・岩波旧全集書簡番号一五四一)

 いや――そもそもがこの私(藪野直史)にとって、このアフォリズムは洒落にならないのである。

 私は下痢型のIBS(Irritable Bowel Syndrome:過敏性腸症候群)で(診断確定は二〇一〇年五十二の時)、小学校の時には朝礼で三度も糞を洩らした。どこかへ行くことになると、忽ち腹が下って何度も便所に行かねばならなかった。私が実は旅が嫌いなのは、いつ何時、腹が下るか予測出来ないからである。どこへ行ってもまずトイレはどこかを無意識に捜している。それでこの年まで何度死ぬほど恥ずかしい気分を味わったか知れぬ。そういう意味では排泄を自己抑制出来ない慙愧の念は「生きることの恥」の実感として確かに、ある。私のそれは常に下痢の急降下の波状爆撃に拠るのであるが、しかしその逆も真ではあろう。私は一度、とある法医学書の中に、強烈な便秘の末、腸閉塞で死んだ十代と思しい娘の写真附検視報告書を読んだことがある。なんとかそれを身体から掘りだそうとしていた末期の硬直した彼女の手と指の形と、剖検して出て来た石のようになった巨大な腸の形の塊りのを見た時、私は、何か言い知れぬ悲しみを感じた。排泄と恥と生及び死の宿命的関係性を、私はその時、強く感じたように思う。

 因みに、私の大学四年次の教育心理学特講での論文は、フロイトの精神分析を応用した「学校現場に於ける排泄タブーの研究」というタイトルだった。私の小中学生時代、男子は学校では大便は出来なかった。大に入るだけで軽蔑され、揶揄された。その時からIBSであったろう私には、あの――「穢れ」が「大便」の「排泄」にのみ「点」となって恐るべき収束を成すところの「禁忌」――こそ、私には、激しくおぞましい「排泄」の「悲劇」の記憶、トラウマに他ならぬのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 奴隷(二章)

 

       奴隷

 

 奴隷廢止と云ふことは唯奴隷たる自意識を廢止すると云ふことである。我我の社會は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオンの共和國さへ、奴隷の存在を豫想してゐるのは必ずしも偶然ではないのである。

 

       又

 

 暴君を暴君と呼ぶことは危險だつたのに違ひない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危險である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に前の「二宮尊德」及び後の「悲劇」「強弱」「S・Mの智慧」の全六章で初出する。

 

・「プラトオンの共和國」古代ギリシアの哲学者でソクラテスの弟子にしてアリストテレスの師たるプラトン(プラトーン ラテン語:Plato 紀元前四二七年~紀元前三四七年)の主著の一つである、「ポリテイア」(英語: The Republic:副題は「正義について」で、書名は「国家篇」と訳される)野中で理想とした国家体系。新潮文庫の神田由美子氏の注では、『この理想国は、支配階級、防衛階級、栄養階級の三階級からなり、その支配と服従において調和のとれた哲人政治をめざし』たものとされた、とある。教材工房製作のサイト「世界史の窓」のプラトン」には、「国家論」では、『現実のアテネの政治を批判的に論じ、徳のある哲人が国を治め(哲人政治)、軍人が防衛し、市民が文化を担うという分業国家を理想とした。その国家論では、奴隷は労働をになう分業社会の一員として肯定されている』と明記されてある。因みに、ウィキの「プラトンによれば、彼は紀元前三八七年の四十歳の頃に『アテナイ郊外の北西、アカデメイアの地の近傍に学園を設立した。そこはアテナイ城外の森の中、公共の体育場が設けられた英雄アカデモス』『の神域であり、プラトンはこの土地に小園をもっていた』という記載に注して、ドイツの哲学者フリードリヒ・カール・アルベルト・シュヴェーグラー(Friedrich Karl Albert Schwegler 一八一九年~一八五七年)の「西洋哲学史」(Geschichte der Philosophie im Umriß 一八四六年~一八四七年)によれば、『この地所はプラトンの父の遺産という。また、ディオゲネス・ラエルティオスによれば、プラトンが奴隷として売られた時にその身柄を買い戻したキュレネ人アンニケリスが、プラトンのためにアカデメイアの小園を買ったという』とあり、何と、プラトン自身が奴隷であった経験があることを記している。山田哲也氏のサイト「Webで読む西洋哲学史」のプラトン記載にその経緯が語られてあり、それによれば、現在のイタリア南部シチリア島にあった都市シュラクサイ(現在のシラクサ)を支配した、残虐で猜疑心が強く、執念深い最悪の暴君であったとされる、ギリシア人僭主ディオニュシオス一世(Dionysius I 紀元前四三二年頃~紀元前三六七年:二世と区別して「大ディオニュシオス」とも呼ぶ)の怒りを買ったためとある。

・「暴君を暴君と呼ぶことは危險だつたのに違ひない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危險である。」この一章について、現在的世界状況に基づいて考察した「韓国ハンギョレ新聞社」公式サイト内の、ペンネーム「朴露子(バク・ノジャ)」氏(本名Vladimir Tikhotov:ノルウェーのオスロ国立大教授で韓国学専門)による「善良な私たち」に対する幻想を破壊せよ朴露子コラムの「解」が非常に素晴しい! 是非、お読みあれかし!]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  二宮尊德

 

       二宮尊德

 

 わたしは小學校の讀本の中に二宮尊德の少年時代の大書してあつたのを覺えてゐる。貧家に人となつた尊德は晝は農作の手傳ひをしたり、夜は草鞋を造つたり、大人のやうに働きながら、健氣にも獨學をつづけて行つたらしい。これはあらゆる立志譚のやうに――と云ふのはあらゆる通俗小説のやうに、感激を與へ易い物語である。實際又十五歳に足らぬわたしは尊德の意氣に感激すると同時に、尊德ほど貧家に生まれなかつたことを不仕合せの一つにさへ考へてゐた。……

 けれどもこの立志譚は尊德に名譽を與へる代りに、當然尊德の兩親には不名譽を與へる物語である。彼等は尊德の教育に寸毫の便宜をも與へなかつた。いや、寧ろ與へたものは障碍ばかりだつた位である。これは兩親たる責任上、明らかに恥辱と云はなければならぬ。しかし我々の兩親や教師は無邪氣にもこの事實を忘れてゐる。尊德の兩親は酒飮みでも或は又博奕打ちでも好い。問題は唯尊德である。どう云ふ艱難辛苦をしても獨學を廢さなかつた尊德である。我我少年は尊德のやうに勇猛の志を養はなければならぬ。

 わたしは彼等の利己主義に驚嘆に近いものを感じてゐる。成程彼等には尊德のやうに下男をも兼ねる少年は都合の好い息子に違ひない。のみならず後年聲譽を博し、大いに父母の名を顯はしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊德の意氣に感激すると同時に、尊德ほど貧家に生まれなかつたことを不仕合せの一つにさへ考へてゐた。丁度鎖に繫がれた奴隷のもつと太い鎖を欲しがるやうに。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に後の「奴隷」(二章)「悲劇」「強弱」「S・Mの智慧」の全六章で初出する。

 

・「二宮尊德の少年時代」江戸後期の経世家(けいせいか:「經世濟民」(世を經(をさ)めて民を濟ふ)の思想家)・農政家二宮尊徳(にのみやたかのり 天明七(一七八七)年~安政三(一八五六)年)の、ここに注として必要と考えられる、主に前史のみウィキの「二宮尊徳」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した。下線はやぶちゃん)。『経世済民を目指して報徳思想』(二宮尊徳が説き広めた経済思想。経済と道徳の融和を基軸とし、私利私欲に走らずに社会に貢献するならばそれはいずれは自らに還元されるとする思想)『を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した』彼の『通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓むが、有職読みで「そんとく」と訓まれることが多い』(されば、ここでも芥川龍之介は標題を含めて「そんとく」と読んでいると採っておく)。『相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれる。母は曽我別所村・川久保太兵衛の娘好(よし)。尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子友吉(常五郎)と富治郎がいる』。『尊徳は、まず堀之内村の中島弥三右衛門の娘きの(キノ)を妻とするが、離縁。次いで二十歳若いが』、『貞淑温良な飯泉村の岡田峯右衛門の娘なみ(波子)を娶った。後者は賢夫人と称される。子息は、きのとの間に長男の徳太郎がいたが夭折しており、なみとの間に、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)がいる』。『当時の栢山村は小田原藩領であった。父利右衛門は、養父銀右衛門から十三石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かだったが散財を重ねていた。そこに、金治郎が五歳の時の寛政三年(一七九一年)八月五日、南関東を襲った暴風で、付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その影響で父の田畑は砂礫と化し、家も流失した。開墾に従事して田畑は数年で復旧したが、借財を抱えて家計は貧する』。それから六年後の寛政九(一七九七)年に父が眼病を患ったため(金治郎満十一歳)、翌年から『酒匂川堤防工事の夫役を父に代わって務めるが、働きが足りないと憂い、自ら夜に草鞋を作って配布して献じた。この頃、寺に入れられていた弟友吉が耐え切れずに寺から戻った。寛政十二年(一八〇〇年)、父の病気が悪化し、九月に没する母よしが働くために前年生まれた富治郎を人の家に預けるが、乳張りがひどくて家に戻す。十四歳の金治郎が朝は早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして、一家四人の生計を立てた』。享和二(一八〇二)年、満十五歳の時、『貧困の中で母が亡くなった。まだ幼い二人の弟は母の実家川久保家に預け、金治郎は祖父(伯父)萬兵衛の家に身を寄せることとなった。しかしこの年にまた酒匂川が氾濫し、金治郎の土地は水害に襲われてすべて流出してしまった』。『金治郎は本家・祖父の家で農業に励み、身を粉にして働いたが、ケチな萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを嫌い、しばしば口汚く罵られた。そこで金治郎は策を講じ、堤防に菜を植え、それで菜種油を取って燈油とした。また、用水堀に捨て苗を植えて、一俵の収穫を得た』。『文化元年(一八〇四年)、萬兵衛の家を離れ、同村の親族岡部伊助方に寄宿。この年に余耕の五俵を得て、翌年は親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿。さらにここで余耕の二十俵を得て、文化三年(一八〇六年)に家に戻り』、数え『二十歳で生家の再興に着手する。家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出すなどして収入の増加を図った。しかし他方で、弟の富治郎はこの頃に亡くなっ』ている。『生家の再興に成功すると、金治郎は地主』として『農園経営を行いながら』、『自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。この頃までに、身長が六尺(約百八十センチ強)を超えていたという伝承もある。また体重は』九十四キログラムも『あったと言われている。小田原藩士の岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えた』。『文化五年(一八〇八年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げ』ている。その頃、小田原藩で千二百石取の『家老をしている服部十郎兵衛が、親族の助言により、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼した。金治郎は五年計画の節約でこれを救うことを約束し、文化十一年(一八一四年)に服部家の財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金』三百両を『贈ったが、自らは一銭の報酬も受け取らなかった。この評判によって小田原藩内で名前が知られるようになった』。『文化十三年(一八一六年)、前年に家に戻った友吉(常五郎)を萬兵衛の長男三郎左衛門の養子とし、自らも最初の妻を娶った。文政元年(一八一八年)、藩主大久保忠真が孝子節婦奇特者の表彰を行った時に、その中に金治郎の名もあ』る。『文政二年(一八一九年)、生まればかりの長男が夭折。家風に合わぬという口実で妻きのが離別を申し出たので、離縁した。翌年、三十四歳の金治郎は十六歳のなみと再婚し』ている。その後は、小田原藩主大久保家分家宇津家の旗本知行所(下野国芳賀郡の桜町)の再興救済を藩主より命ぜられ、文政六(一八二三)年(満三十六歳)で名主役柄で高五石二人扶持待遇で桜町に移住して再建に着手、二年後には組頭格に昇進して同町の主席となって、再建を成し遂げる(その方法が「報徳仕法」として他の範となったという)。天保四(一八三三)年に「天保の大飢饉」が関東を襲うと、藩命を受けて下野(しもつけ)にあった大久保領の領民を救済している。その三年後の天保七(一八三六)年には重病の忠真公にから小田原に呼ばれ、功績を賞されるとともに、飢饉にある小田原の救済を命ぜられ、その後も藩外の諸人の依頼を受けて復興・再興を手掛けている。天保十三(一八四二)年五十五歳で遂に幕府召抱えとなり、普請役格とされて印旛沼開拓と利根川利水について二件の提案を行っている(但し、不採用)。その後、天領や日光山領の復興・経営を任されるなどした後、下野の代官山内氏の属吏となって真岡に移住、日光奉行配下として精力的に働いたが、病を発し(引用元には発病を『三度目』とあるので調べて見たところ、結核である)、安政三(一八五六)年に下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所で満六十九歳で没した。なお、引用元の「逸話」には、『子供の頃、わらじを編んで金を稼ぎ、父のために酒を買った』とか、『荒地を耕して田植え後の田に捨てられている余った稲を集めて植えて、米を収穫した』とかあるが、『これらの逸話の多くは、弟子の富田高慶が著した尊徳の』伝記「報徳記」を由来とするもので、『尊徳は幼少期の頃について全く語らなかったため、高慶は村人から聞いた話を記したとしており、高慶自身信憑性は保証できないとしている』とある。

・「小學校の讀本の中に二宮尊德の少年時代の大書してあつた」芥川龍之介は明治三一(一八九八)年四月に満六歳(彼は明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)で江東尋常小学校(現在の領国小学校)に入学している。「讀本」「とくほん」と清音で読む。明治期から第二次大戦直後まで使用された小学校国語教科書、或いは広く教科書一般をも指した。「大書」(たいしよ(たいしょ)は、ここは大袈裟な表現を用いて書くこと、の謂いであろう。なお、我々がしばしば想起するところの像について、やはりウィキの「二宮尊徳」にある「尊徳・金治郎像」からここに引いておくこととする(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した。下線はやぶちゃん)。『各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」と呼ばれる)に関する記述は、明治十四年(一八八一年)発行の『報徳記』が初出である。そこには「大学の書を懐にして、途中歩みなから是を誦し、少も怠らず。」とある。この「書を懐にして」を、「懐中」か「胸の前で持って」と解釈するかは判断に迷うところだが、金治郎像では後者で解釈されている』。但し、『先述のように『報徳記』の尊徳幼少期の記述は信憑性が薄く、このような姿で実際に歩いていたという事実があったかは疑問が残る』(前注参照)。「報徳記」を基とした幸田露伴著の「二宮尊徳翁」(明治二四(一八九一)年十月刊)の『挿絵(小林永興画)で、はじめて「負薪読書図」の挿絵が使われた。ただし、これ以前から既にこの図様に近い少年像は存在していた。金治郎の肖像画のルーツは中国の「朱買臣図」にあり、これが狩野派に伝統的な画題として代々伝わり、その末裔の永興もこれを参考にしたと想定される』(朱買臣(?~紀元前一一五年)は前漢の人で会稽郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)出身。家が貧しかったが読書を好み、生産業に従事せず、薪を売って生活しており、薪を担いで歩きながら書を読んでいたとされ、後に武帝から会稽太守を拝命した。但し、最後は武帝に誅殺されている。ここはウィキの「朱買臣」に拠った)。『確認されている最初のこの姿の像は、明治四十三年(一九一〇年)に岡崎雪聲が東京彫工会に出品したものである。明治三十七年(一九〇四年)以降、国定教科書に修身の象徴として尊徳が取り上げられるようになった。小学唱歌にも『二宮金次郎』という曲がある。しかし、修身国定教科書には金治郎の逸話は取り上げられたものの、「負薪読書図」は一度も掲載されていない。「負薪読書図」が広まったのは売薬版画や引札、子供向けの伝記類による』という。『これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金治郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとすることで、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金治郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われ』、かの『小学校の校庭などに見られる「金治郎像」は、彼らの政策によって展開された社会環境を前提として、国家の政策論理に同調することで営業活動を行った石材業者や石工らによって広まったとされる。小学校に建てられた「金治郎像」でもっとも古いものは、大正十三年(一九二四年)、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられたものである』(このことから、龍之介の文章が像のイメージに関わっていない理由が解る。本章の公開はまさに大正十三年六月であるからである)。『その後、昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。そのとき、大きさが一メートルとされ、子供たちに』一メートルの『長さを実感させるのに一役買ったといわれることがあるが、実際に当時に製作された像はきっかり一メートルではないことが多い。これは、昭和十五年(一九四〇年)頃に量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられる。この像が戦後、GHQの指令により廃棄されたといわれることがあるが、二宮尊徳が占領下の昭和二十一年(一九四六年)に日本銀行券(一円券)の肖像画に採用されていることからも分かるとおり、像の減少と連合軍総司令部は特に関係は無い。戦前の像は銅製のものが多く、これらの多くが第二次世界大戦中の金属供出によって無くなったため、混同されたものと考えられる』。『金属供出に際して、教育的配慮として、教師や児童の立会いの下で像にたすきをかけて壮行式を挙行し、戦地に送り出したり、撤収後の台座に「二宮尊徳先生銅像大東亜戦争ノタメ応召」の札が立てられたこともある』(最後の箇所は知って見ればまさにそれこそ「学校の怪談」、都市伝説の類いであったわけで、知れば、寧ろ、鋳潰したのは大日本帝國であったわけである。)。『石像のものはその後の時代も残った。また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあった。像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから、一九七〇年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にある他、「児童の教育方針に合わない」などの理由で、破損しても補修に難色を示す教育委員会もある。 岐阜市歴史博物館調べによると、市内の小学校の』五十五・一%に『「二宮金治郎像」が存在し(二〇〇一年現在)、近隣市町村を含めると』、五十八・五%の『小学校に「二宮金治郎像」が存在する。また』、二〇〇三年に『小田原駅が改築され』、『橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられた』。『二〇一〇年代に入って歩きスマホの危険性が社会問題になったが、この問題を受けて「いまいち一円会」が二〇一六年に日光市立南原小学校に寄贈した石像は立像ではなく座像となっている』。……スマホに負けて正座させられてしまった金治郎!!!――

・「草鞋」「わらぢ(わらじ)」。

・「健氣」「けなげ」。「けなりげ」の転訛で、「け」は「気」で「心身の精気・気力」の謂いであろう。心がけや態度がしっかりしているさま。現代では特に、幼く力の弱い者が、困難な状況で立派に振る舞うさまに用い、ここはまさにそれ。

・「立志譚」「りつしたん(りっしたん)」(筑摩全集類聚版は「だん」と濁るが、採らない)。志しを立て、苦労と努力の末に成功した人の物語・伝記。

・「十五歳に足らぬわたし」数えであるから、満で十三から十四歳相当となる。龍之介は明治三八(一九〇五)年三月(既に述べた通り、彼は明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)に江東尋常小学校高等科三年を修了しているから、合致する(龍之介は無論、成績優秀であって、実は当時は高等科二年修了で旧制中学進学が出来たのであるが、生家新原家と養家芥川家との間の養子縁組に関わる戸籍上の問題解決に時間がかかったために、進学は一年延期されたのであった。ここは一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の明治三十八年三月の条の記載に拠った)。

・「尊德の兩親」「は尊德の教育に寸毫の便宜をも與へなかつた。いや、寧ろ與へたものは障碍ばかりだつた位である。これは兩親たる責任上、明らかに恥辱と云はなければならぬ」「寸毫」「すんがう(すんごう)」は極めて僅かなこと・ほんの少しの意(「毫」は獣の細い毛を指す)。「障碍」は「障害」に同じい(「碍」の字は「妨げる・進行を邪魔して止める」の意。私は「害」の字が生理的に嫌いなので以前からよく「障碍」の字を用いるが、「障害」という字が身体にハンディを持つ人を差別するから「障碍」とするべきだという立場には立っていない。言葉狩りをしても差別意識は何ら変わらぬ。文字が消えても、心にその心のあるのは、もっとタチが悪いとさえ思う人間である)。さて、芥川(元姓新原)龍之介によって実父母や養父母はどのような存在だったかを考えてみると、この謂いは、机上の論理的な思惟なんぞではなく、実はこの感懐は龍之介自身が身に染みて感じている深刻なトラウマであることが見えてくるのである。龍之介は自身の複数の作品中(例えば簿」の「一」。冒頭が「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。」で始まる。リンク先は私の電子テクスト)でしばしば実母フクを「狂人」と称し、その遺伝からの発狂恐怖を持っていたし、実父のことは明らかに冷淡に軽蔑していた様子が諸表現からつぶさに窺える。養父母に対しては心から感謝の念を持っていたものの、彼等を龍之介が猜疑する孝道に基づいて、或いは義務に於いて、経済的に支え続けねばならぬことに龍之介は正直、四苦八苦していた状況も見てとれるからである(養父母は孰れも龍之介自死の折りには存命であった)。

・「博奕打ち」「ばくちうち」。

・「彼等の利己主義」これは実際の尊徳の両親という個別性を問題としていない。あらゆる子を持つ、本話を自身らにのみ都合よく語るところの、人の子の「両親」、否、それを賞揚し、強制的に「孝道の鏡」として押しつけてくるところの「教師」、その背後でそれを操るところの「国家」こそが「彼等」であり、「彼等の利己主義」なのである。だからこそ最後の「鎖に繫がれた奴隷のもつと太い鎖を欲しがるやうに」という一文が強烈に生きてくるのである。

・「聲譽」「せいよ」。良い評判・誉(ほま)れ・名声。]

2016/05/25

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  惡

 

       惡

 

 藝術的氣質を持つた靑年の「人間の惡」を發見するのは誰よりも遲いのを常としてゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年四月号『文藝春秋』巻頭に前の「醜聞」「輿論」それぞれ二章と「敵意」「ユウトピア」「惡」と合わせて全八章で初出する。底本後記によれば、初出は、

 

 藝術的氣質を持つた靑年は最後に人間の惡を發見する。

 

である。「侏儒の言葉」の正しい「型」を龍之介は早々と「發見」していたのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  危險思想

 

       危險思想

 

 危險思想とは常識を實行に移さうとする思想である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年四月号『文藝春秋』巻頭に前の「醜聞」「輿論」それぞれ二章と「敵意」「ユウトピア」及び後の「惡」の全八章で初出する。「侏儒の言葉」の一文アフォリズムの白眉である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  ユウトピア

 

       ユウトピア

 

 完全なるユウトピアの生れない所以は大體下の通りである。――人間性そのものを變へないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はない。人間性そのものを變へるとすれば、完全なるユウトピアと思つたものも忽ち不完全に感ぜられてしまふ。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年四月号『文藝春秋』巻頭に前の「醜聞」「輿論」それぞれ二章と「敵意」及び後の「危險思想」「惡」の全八章で初出する。「ユウトピア」は地上樂園の私の諸注を見よ。

 

・「下」「しも」。以下。

 

・「人間性」人間を人間たらしめていると各人が考えるところの「本性」なるもの。実に興味深いことに「侏儒の言葉」群には「人間性」という言葉はここにしか出現しない。「人間らしさ」は正に括弧書きで前に出た。そちらの私の注を見よ。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  敵意

 

       敵意

 

 敵意は寒氣と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快であり、且又健康を保つ上には何びとにも絶對に必要である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年四月号『文藝春秋』巻頭に前の「醜聞」「輿論」それぞれ二章と後の「ユウトピア」「危險思想」「惡」の全八章で初出する。

 

・「寒気」「かんき」。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  輿論(二章)

 

       輿論

 

 輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯樂である。たとひピストルを用ふる代りに新聞の記事を用ひたとしても。

 

       又

 

 輿論の存在に價する理由は唯輿論を蹂躪する興味を與へることばかりである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年四月号『文藝春秋』巻頭に前の「醜聞」二章と後の「敵意」「ユウトピア」「危險思想」「惡」の全八章で初出する。標題「輿論」は「よろん」で世間の大多数の人の意見、一般市民が社会や社会的問題に対してとる態度や見解の謂い。「輿」の原義には「多い・多くの・大勢・諸々」「万物を載せる(まさに「輿(こし)」である)大地」「物事の始まり」の他、実は「召使い・地位の低い人・下僕」の謂いもある(ここでニンマリする私がいる)。

 

・「私刑」「しけい」。法に拠らずに個人や集団が勝手に犯罪者などに加える制裁。私的制裁。リンチ(lynch:人を私刑によって殺すこと。一七七〇年代のアメリカのバージニア州で私的法廷を主宰していた治安判事ウイリアム・リンチ(Wiliam Lynch)の名前を語源とする)。

・「蹂躪」「じうりん(じゅうりん)」で既注の「蹂躙」に同じい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  醜聞(二章)

 

       醜聞

 

 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の滿足を見出したであらう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであらう? グルモンはこれに答へてゐる。――

 「隱れたる自己の醜聞も當り前のやうに見せてくれるから。」

 グルモンの答は中つてゐる。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さへ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦を辯解する好個の武器を見出すのである。同時に又實際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の臺石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知つてゐる。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にかう云つた後、豚のやうに幸福に熟睡したであらう。

 

       又

 

 天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。

 

大正一三(一九二四)年四月号『文藝春秋』巻頭に後の「輿論」二章と「敵意」「ユウトピア」「危險思想」「惡」の全八章で初出する。「醜聞」は「しうぶん(しゅうぶん)」で、聞き苦しい噂・良くない風評・スキャンダル(scandal:不祥事・疑獄/醜聞に対する世間の反感・物議/不面目・言語道断な事柄/中傷・悪口・陰口)・ゴシップ(gossip:人の私事に関する噂話・世間話/新聞雑誌に載る名士などに関する噂話)である。…どこかのゲスな某自称ミュージシャン……どこかの某都知事……どこかの某総理大臣……
  
底本後記によれば、初出では二章目の頭の部分が、

 天才の一部は明らかに醜聞を起し得る才能である。

となっている。

 

・「白蓮事件」「びやくれんじけん(びゃくれんじけん)」と読む。ウィキの「白蓮事件」から引く。この発表の二年半前の大正一〇(一九二一)年十月二十日、福岡の炭鉱王であった伊藤伝右衛門の妻で歌人として知られた柳原白蓮(本名・燁子(あきこ) 明治一八(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)が滞在中の東京で出奔、『社会運動家で法学士の宮崎龍介』(明治二五(一八九二)年~昭和四六(一九七一)年)『と駆け落ちした事件。新聞紙上で妻白蓮から夫への絶縁状が公開され、それに対して夫・伝右衛門から反論文が掲載されるマスコミのスクープ合戦となり、センセーショナルに報じられた』。なお、ウィキの「宮崎龍介」によれば、以後、終生、燁子は夫の良き理解者となり、一男一女をもうけている、とある。因みに、これは実にまさにこの「醜聞」というタイトルが鏡返しで作者芥川龍之介に返って来、そこには何と! この白蓮がいる! この発表から四年後の昭和二(一九二七)年四月のこと、龍之介は妻文(ふみ)の幼馴染みで、文から龍之介の話し相手になって呉れと頼まれて龍之介と交際していた平松麻素子(ますこ)と帝国ホテルで心中未遂をした際、この柳原白蓮の追憶に従うなら(柳原白蓮「芥川龍之介さんの思ひ出」によるが、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」に載るもの)、現場に白蓮が駆けつけ、説得して思い止まらせたという、まさに「龍之介事件」となるところだった「醜聞」未遂が記されてある(但し、この「龍之介事件」には白蓮の登場しない妻の文や盟友小穴隆一・甥葛巻義敏が止めるというシチュエーションの別話が現行では一般に知られている)。いやぁ、そうか! 「天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である」と「又」で龍之介が追加したのは自分のためだったの、ね。

・「有島事件」作家活動に行き詰っていた有島武郎(明治一一(一八七八)年~大正一二(一九二三)年六月九日)がこの前年の六月に軽井沢の別荘で中央公論社の雑誌『婦人公論』の記者で愛人であった波多野秋子(明治二七(一八九四)年~大正一二(一九二三)年六月九日)と縊死心中した事件。当時の武郎は妻と既に死別(大正五(一九一六)年)していて独身であったが、秋子は人妻であり、それが露見して武郎はその夫から脅迫を受けていた。ウィキの「有島武郎」によれば、七月七日になって発見されたが、梅雨期に一ヶ月も『遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認されたという。複数残されていた遺書の一つには、「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」と残されていた』とある。芥川龍之介は満二十七の大正八(一九一九)年五月三十一日に有島と初めて会っている(神田のレストラン「ミカド」で行われた「ホイットマン百年祭」)。武郎の心中を知った龍之介は大いに憂鬱となり、小島政二郎に「死んじゃ、敗北だよ」と語ったという(新全集宮坂覺編年譜の同年七月八日の条に拠る)。

・「武者小路事件」新潮文庫の神田由美子氏の注によれば、作家武者小路実篤(明治一八(一八八五)年~昭和五一(一九七六)年)が、この二年前の『大正十一年に夫人房子』(明治二五(一八九二)年~平成二(一九九〇)年)『と離婚し、あらたに飯河安子と家庭を持ったことをさす』とある。宮崎県公式サイト内の「みやざきの百一人」の武者小路房子」によれば、『「お互いが人間らしく生き、むつみ合い、そしてお互いの個性を尊重し、他人を傷つけることなく、しかも天命を全うすることができる理想郷、いわば調和的な共同体をめざす」そんなスローガンを掲げて』、大正七(一九一八)年十一月に「新しき村」が現在の木城町(きじちょう)石河内(いしかわうち)に『開設された。その中心人物は「白樺」派同人・武者小路実篤。房子夫人を伴っての入村であった。小説『土地』にようやく桃源郷を探し当てて驚喜する場面があるが、その時』実篤三十三歳、房子二十六歳であった。『房子は福井県大野の素封家竹尾茂の』四人姉妹の長女として生まれ、大正元(一九一二)年に『実篤と結婚。やがて千葉県我孫子の家を処分して、夫に従い』、遙か、『日向の山村に居を定めた。入村者は子供を含めて』約二十人であったが、五年後には四十四人となった。『その間』、『レコードコンサート、演劇、絵を描き、通信を出し、農作業をし、水路を開いたりした。しかし実篤と飯河安子の恋愛問題が起こり、彼は去り』、『村外会員になった。房子もまた杉山正雄との恋愛事件が起こり、実篤とは別れて生活することになった』。四年後の昭和七(一九三二)年に房子は『杉山と正式に結婚。実篤は』二人を『養子にして武者小路姓を名乗らせ』、二人は『「日向新しき村」に生涯をかけることとなった』。昭和一三(一九三八)年に『小丸川総合開発計画で美田が湖底に沈み、村のシンボルだったロダンの岩が消えたのが致命的であった。夫杉山は村の存続にすべてをささげた。房子は理想の灯を消すことなく』、『誇りを持って天寿を全うした』とある。因みに共同体「新しき村」は現在も埼玉県入間郡毛呂山町にあるが、ウィキの「によれば、二〇一三年現在で村内生活者数は十三人、村外会員は約百六十人ほどであり、『近年、村内の高齢化が進み、農業収入の低迷もあり、村の運営に困難が増している』とある。私は武者小路実篤が生理的に大嫌いであるが、今回、かく知って、ますますさらに嫌いになった。

・「グルモン」フランスのサンボリスム(象徴主義)の批評家で小説家レミ・ド・グールモン(Remy de Gourmont 一八五八年~一九一五年)ノルマンディーの名門の出身でカーン大学に学び、後にパリの国立図書館司書となったが、一八九一年に『メルキュール・ド・フランス』誌(Mercure de France:前年創刊で彼は創刊者の一人であった)に載せた論文「愛国心という玩具」(Le joujou patriotisme)の過激な反愛国主義的口調が筆禍事件に発展し、免官となった。同時期に結核性狼瘡(ろうそう)に罹患、醜い痕が顔面に残り、それが免職以降の一層の孤独幽閉の生活を強いることとなった。この二つの出来事と『重なり合って始まる彼の文学活動は、象徴主義的風土と充実した生の現実、知的生活と感覚的生活、プラトニックな恋愛と官能的恋愛の間を、絶え間なく微妙に揺れ動きつつも、バランスを保った』。有名な「シモーヌ」(Simone)詩編を含む「慰戯詩集」(Divertissements 一九一二年)、二十世紀を美事に先取りした作品である「シクスティーヌあるいは頭脳小説」(Sixtine, roman de la vie cérébrale 一八九〇年)、傑作「悍婦(アマゾーヌ)への手紙」(Lettres à l'Amazone 一九一四年)など、『いずれも前記のテーマに沿っている。批評家としての彼は、「観念分離」なる用語を用いて、観念あるいはイメージの月並み部分を排除することを説いたが、実をいうと、例の反愛国主義的論文もそれの一例であった。批評の代表作は』「神秘ラテン語」(Le Latin mystique 一八九二年)・「観念陶冶」(La Culture des idées 一九〇〇年)・「仮面集」(Le Livre des masques 一八九六年~一八九八年)・「文学散歩」(Promenades littéraires 一九〇四年~一九一三年)・「哲学散歩」(Promenades philosophiques 一九〇五年~一九〇九年)などである。(以上は引用を含め、小学館「日本大百科全書」の松崎芳隆氏の解説を主に用いた)。岩波新全集の山田俊治氏の注には、彼は『特に芸術における無意識の役割を強調した』とある。

・「隱れたる自己の醜聞も當り前のやうに見せてくれるから」同じく山田氏の注によれば、この引用はグールモンの「対話 Pensées inédites」『の中の言葉とされる』とある(一九二〇年の作)。「される」というのは意味深長。筑摩全集類聚版は同書に『「対話」にある』と断言、神田氏の注もはっきり同「対話」『に見える』と記す。さて、誰の謂いが正確なのかな? という気がしてくるね。

・「中つて」「あたつて」。当たって。

・「怯懦」既注であるが再掲しておく。「けふだ(きょうだ)」。臆病で気が弱いこと。意気地(いくじ)のないこと。

・「好個」「かうこ(こうこ)」あり対象や事柄がまさにちょうど良いこと・適当なこと。

・「臺石」「だいいし」。より高みに登るためのステップになる石。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 地獄

 

       地獄

 

 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の與へる苦しみは不幸にもそれほど單純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外樂樂と食ひ得ることもあるのである。のみならず樂樂と食ひ得た後さへ、腸加太兒の起ることもあると同時に、又存外樂樂と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順應するのは何びとにも容易に出來るものではない。もし地獄に墮ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年三月号『文藝春秋』巻頭に前の「政治的天才」二章と「戀は死よりも強し」との全四章で初出する。私があらゆる世のアフォリズムの中でも(芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中で、では、ない、ので注意されたい)殊の外、偏愛するアフォリズムである。私はしばしば、この冒頭の「人生は地獄よりも地獄的である。」という一文を、何処にあっても心の中で呟いている自分を見出すのである。

 底本後記によれば、初出では最後の一文が、

 

況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまひさうである。

 

となっている。改稿は正しい。

 

・「地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである」冒頭から辛気臭いことを言うが、「地獄」と言っておいてその例として「餓鬼道」(がきだう(がきどう))を出すのは厳密には正しい叙述ではない。仏教に於ける浄土に対するところの、ありとある生きとし生ける衆生(しゅじょう)が生死(しょうじ)を繰り返すところの「六道(ろくどう)」は、最下層の地獄道に始まって餓鬼道と畜生道(以上を「三悪道」と称する)があり、その上に修羅道・人間道・天上道(この三つを「三善道」と称する)であって、「餓鬼」道と「地獄」道は自ずと異なる世界だからである。「地獄」道は謂わずもがなであるが、ウィキではシンプルな地獄よりも地獄」の記載の方が詳述を極めるのでお薦めである。一応、概要を前者に基づくと、死後、人間は三途の川を渡って閻魔をはじめとする十王(初七日から順に秦広王 ・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成(へんじょう)王・泰山王(四十九日目ここまでが七日目毎)・平等王(百か日目)・都市(とし)王(一周忌目(一年後))・五道転輪王(三回忌(二年目))の計七回の裁き(十全に手厚く冤罪を防ぐように七審制を採っていて我々の現世である人間道の冤罪だらけのそれよりも遙かに完全無欠な理想の司法制度であると言える)を『受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされる。地獄にはその罪の重さによって服役すべき場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあるという。そして服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされる』のである。『衆生が住む閻浮提』(えんぶだい)の下方、四万由旬(ゆじゅん:古代インドに於ける長さの単位で梵語 yojana(ヨージャナ)の音写であるが、当時は度量衡が統一されておらず、厳密な定義は出来ない。一般的には七キロメートル、十一・三から十四・五キロメートル前後とされる)を『過ぎて、最下層に無間地獄(むけんじごく)があり、その縦・広さ・深さは各』二万由旬ある。『この無間地獄は阿鼻地獄と同意で、阿鼻はサンスクリットaviciを音写したものとされ、意味は共に「絶え間なく続く(地獄)」である』。『その上の』一万九千由旬の位置に『大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活の』七種の『地獄が重層しているという。これを総称して八大(八熱)地獄という。これらの地獄にはそれぞれ性質があり、そこにいる衆生の寿命もまた異なるとされる』。また、この八熱地獄の』四面には四つの門があり、その門外にまた各四種の『小地獄があり、これを合して十六遊増地獄という(四門地獄、十六小地獄ともいう)。八熱地獄と合せ』ると実に『百三十六地獄となる。また八熱地獄の横に八寒地獄または十地獄があるともいわれる』。『また、山間廣野などに散在する地獄を孤独地獄という』とある。但し、これら地獄思想は主に中国で形成された偽経に基づいて細述具象化されていったもので、仏陀自身は悟りを得ない死後の世界は永遠に続く絶対の闇としてしか語っていない(その方が実は恐ろしいのだが)はずである。

 一方、一般に分かり易い「餓鬼道」はというと、生前に贅沢をした者が落ちる所とされ、今少し正確に規定するなら、生前に於いて強欲で嫉妬深く、物を惜しみ(吝嗇で他者に施しをしない謂い)、常に貪る心やそうした行為を恥じることなく平然として来た者が死後に生まれ変わる世界とされている(但し、少なくとも「餓鬼草紙」などを見る限りでは、一部の「餓鬼道」は現世とパラレルに存在する或いは通底している世界であって、隣りに餓鬼が居ても見えないだけという感じもし、その方がより変化に富んでいて面白いと個人的には思っている)。「餓鬼道」の世界は常に飢えと乾きに苦しみ、食物や飲物が眼前にあってもそれを手に取ると、忽ち火に変わってしまい、永遠に植え続けるとされる(より細かなバラエティに富んだ「餓鬼道」の各所案内はウィキの「餓鬼に詳しいので、是非とも先の地獄」ともども、事前によく勉強されておかれるとよい)。

・「腸加太兒」「ちやうかたる(ちょうカタル)」と読む。英文科の龍之介はルビを振るとすれば、「カタル」とカタカナ表記でしたであろう。カタル(英語:catarrh)は、『感染症の結果生じる粘膜腫脹と、粘液と白血球からなる濃い滲出液を伴う病態のこと。カタルは通常、風邪、胸部疾患による咳に関連して認められるが、アデノイド、中耳、副鼻腔、扁桃、気管支、胃、大腸に出現することもある。カタル性滲出液は排出されることもあるが、狭窄とともに管腔を閉塞させたり、慢性化したりすることもある』。消化器系では急性胃炎の方がよく知られているいるが、ここは「腸」と明記されているから大腸で起こる「大腸カタル」としておくが、龍之介自身をしつこく襲った実際のそれは多くは胃炎(それも神経性の)の方であったろうとは思う。

・「針の山」地獄の最下層に位置するとされる阿鼻地獄や無間地獄のガイドに出る剣樹・刀山がモデルであろう。

・「血の池」原始仏典の一つとされる「長阿含経(じょうあごんきょう)」に八大地獄に付随する小地獄の一つとして挙げる「膿血」地獄辺りが濫觴であろうか。

・「跋渉」「ばつせふ(ばっ しょう)」は、原義は山を越え、水を渡ることで、いろいろな所を歩き回ること。散策。ハイキング。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 戀は死よりも強し

 

       戀は死よりも強し

 

 「戀は死よりも強し」と云ふのはモオパスサンの小説にもある言葉である。が、死よりも強いものは勿論天下に戀ばかりではない。たとへばチブスの患者などのビスケツトを一つ食つた爲に知れ切つた往生を遂げたりするのは食慾も死よりは強い證據である。食慾の外にも數へ擧げれば、愛國心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名譽心とか、犯罪的本能とか――まだ死よりも強いものは澤山あるのに相違ない。つまりあらゆる情熱は死よりも強いものなのであらう。(勿論死に對する情熱は例外である。)且つ又戀はさう云ふもののうちでも、特に死よりも強いかどうか、迂濶に斷言は出來ないらしい。一見、死よりも強い戀と見做され易い場合さへ、實は我我を支配してゐるのは佛蘭西人の所謂ボヴアリスムである。我我自身を傳奇の中の戀人のやうに空想するボヴアリイ夫人以來の感傷主義である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年三月号『文藝春秋』巻頭に前の「政治的天才」二章と後の「地獄」との全四章で初出する。

 

・『「戀は死よりも強し」と云ふのはモオパスサンの小説にもある言葉である』フランスの自然主義作家で劇作家にして詩人であったモーパッサン、正式な本名、アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant  一八五〇年~一八九三年)は作家芥川龍之介にとってはかなり複雑な対象者であったようである。「侏儒の言葉」では後で「モオパスサン」の章を立てて、『モオパスサンは氷に似てゐる。尤も時には氷砂糖にも似てゐる。』と意味深長なことを述べているが、若き日の龍之介は優れた短編作家であったモーパッサンを乱読し、且つ、絶賛していた。例えば、大正五(一九一六)年三月二十四日附井川恭(後の恒藤恭)宛書簡(岩波旧全集書簡番号二〇一)では、『僕はモウパツサンをよんで感心した この人の恐るべき天才は自然派の作家の中で匹儔の鋭さを持つてゐると思ふ すべての天才は自分に都合のいいよやうに物を見ない いつでも不可抗敵に欺く可らざる眞を見る モオパツサンに於ては殊にそのその感じが深い。』『しかしモオパツサンは事象をありのままに見るのみではない ありのまゝに觀た人間を憎む可きは憎み 愛す可きは愛してゐる。その点で万人に不關心な冷然たる先生のフロオベエルとは大分ちがふ。 une  vie の中の女なぞにはあふるるばかりの愛が注いである。僕は存外モオパツサンがモラリステイクなのに驚いた位だ。』と記している(「点」はママ。「匹儔」は「ひつちう(ひっちゅう)」と読み、匹敵すること。同じ類いや仲間と見做すことを言う。「une  vie」一八八三年発表の彼の代表作「女の一生」。なお、ここで龍之介がやはり本章に出る「ボヴアリイ夫人」の作者フローベールを辛辣に批判言及しているのにも着目されたい)。また、逆説や揶揄のニュアンスも多分に含まれてはいるものの、大正六(一九一七)年一月『新思潮』に発表した夢オチの諷刺小品「MENSURA ZOILI」(メンスラ・ゾイリ:Mensura はラテン語の秤・物差の意、ZOILI は本作の仮想国(ゾイリア)のこと)では、ゾイリア国の完璧なる芸術作品測定器についての説明を「角顎(かくあご)の先生」から受けて、芥川龍之介が「しかし、その測定器の評價が、確だと云ふ事は、どうしてきめるのです。」と問うと、「それは、傑作をのせて見れば、わかります。モオパツサンの「女の一生」でも載せて見れば、すぐ針が最高価値を指さしますからな。」と答えたので、龍之介がやや不服そうに「それだけですか。」と応じると、「それだけです。」と答えるばかりで、『僕は、默つてしまつた。少々、角顋の頭が、没論理に出來上つてゐるやうな氣がしたからである』と出る。ここには既に「女の一生」に対するやや眇めの印象もあるが、やはり一般通念としての名作という認識に物申しているとは言えない。ところが、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の山本卓氏の「モーパッサン」の項には、上記の例などを高評価のそれとして掲げた上で、『だが、芥川はモーパッサンの巧妙な語り口を作り物のように感じていた。否定的な評価も記しているのだ』として、「あの頃の自分の事」の初出(大正八(一九一九)年一月『中央公論』。但し、これを含む第二章(第六章とともに)は何故か、翌年一月に刊行された第四作品集「影燈籠」では丸ごと削除されている)を引いておられる(引用は山本氏のそれではなく、岩波旧全集に拠った。引用も山本氏より長く引いてある)。そこでは龍之介は感服した作家としては「何よりも先ストリントベルグだつた」(スウェーデンの劇作家ユーアン・オーグスト・ストリンドバーリィ Johan August Strindberg 一八四九年~一九一二年:「令嬢ジュリー 」(Fröken Julie 一八八八年)・「死の舞踏」(Dödsdansen 一九〇一年)・「幽霊ソナタ」(Spöksonaten 一九〇七年)などで知られる。私も好きなことと言ったら、龍之介の人後に落ちるものではない。なお、かれの精神疾患(恐らくは統失調症)を患っていたと考えられている)とし、彼には「近代精神のプリズムを見るやうない心もちがした。彼の作品には人間のあらゆる心理が、あらゆる微妙な色調の變化を含んだ七色に分解されてゐた」とまで持ち上げた上で、「ぢや嫌ひな方は誰かと云ふと、モオパスサンが大嫌ひだつた。自分は佛蘭西語でも稽古する目的の外は、彼を讀んでよかつたと思つた事は一度もない。彼は実に惡魔の如く巧妙な贋金使だつた。だから用心しながらも、何度となく贋金をつかまさせられた。さうしてその贋金には、どれを見ても同じやうな Nihil と云ふ字が押してあつた。強いて褒めればその巧妙さを褒めるのだが、遺憾ながら自分はまだ、掏摸に懷のものをひきぬかれて、あの手際は大したものだと敬服する程寛大にはなり切る事が出來ない。」とまで言い切っている。また、大正一〇(一九二一)年二月『中央文學』発表の「佛蘭西文學と僕」の中でも龍之介は、「ド・モオパスサンは、敬服(けいふく)しても嫌ひだつた(今でも二三の作品は、やはり讀むと不快な氣がする。)」と記してもいる。山本氏は以上から最後に、『ここにはモーパッサンに対する芥川の複雑な評価が読み取れる』と記しておられる。こうした龍之介のアンビバレントな感覚の背景には、私は、短篇作家として寵児となった龍之介が、その創作実際の苦闘の中で、事実、モーパッサンの巧妙にして狡猾なる技巧を見抜いたことも真実ではあろうと思うのであるが、また意地悪く言うなら、彼にとってはモーパッサンを痛烈に罵倒することが自己の小説理念の独自性を表明することにもなったに違いない(しかし寧ろ、それは龍之介と親しい作家仲間たちからさえ強い批判をも浴びたのではなかったか? 私は先の「あの頃の自分の事」の単行本での削除の理由の一つにそんなことを考えたものである)。さらには、モーパッサンが根っからの病的厭世主義者であったこと、晩年に精神疾患を患って自殺未遂を起こしながら生き永らえてしまい、精神病院に収容された末にそこで亡くなったこと(一八九一年に発狂、翌一八九二年には自殺未遂を起こして、パリの精神病院に収容されたとウィキの「ギ・ド・モーパッサン」にある)が、龍之介の厭世観や自殺観、精神疾患を患っていた実母のそれに関わる発狂恐怖という神経のイラっとくる部分に触れたということも挙げられるように私には思われるのである。

 モーパッサンの解説が長くなった。ここで芥川龍之介は「小説にもある言葉」とするが、これはほぼそれに近い標題の小説のことを指す。一八八九年に発表した「死の如く強し」(Fort comme la mort)である。筑摩全集類聚版脚注に、『長編小説。次第に老境に入って行くにつれて感ずる男女の悲哀が明快簡潔な筆致によって極めて巧妙に切実に描き出されている』とある。

・「チブスの患者などのビスケツトを一つ食つた爲に知れ切つた往生を遂げたりする」「チブス」はここでは腸チフスのことと思われる(日本に於いて「チフス」と呼ばれる疾患には、この他にパラチフスや発疹チフスがあり、腸チフスとパラチフスはともに真正細菌プロテオバクテリア門ガンマプロテオバクテリア綱エンテロバクター目腸内細菌科サルモネラ属 Salmonella に属する菌株による疾患であるが、発疹チフスはプロテオバクテリア門 Proteobacteria でも全く異なるアルファプロテオバクテリア綱リケッチア目リケッチア科リケッチア属 Rickettsiaの一種発疹チフスリケッチア Rickettsia prowazekii による疾患で、これらの疾患は症状が似ているために孰れも「チフス」と呼ばれていたが、全く別の疾患であるので注意されたい)。サルモネラ属の一種チフス菌 Salmonella enterica var enterica serovar Typhiによって引き起こされる感染症。以下、ウィキの「腸チフス」より引用する。『感染源は汚染された飲み水や食物などである。潜伏期間は』七~十四日間ほど。『衛生環境の悪い地域や発展途上国で発生して流行を起こす伝染病であり、発展途上国を中心にアフリカ、東アジア、東南アジア、中南米、東欧、西欧などで世界各地で発生が見られる』。『チフスという名称はもともと、発疹チフスのときに見られる高熱による昏睡状態のことを、ヒポクラテスが「ぼんやりした、煙がかかった」を意味するギリシア語 typhus と書き表したことに由来する。以後、発疹チフスと症状がよく似た腸チフスも同じ疾患として扱われていたが』、一八三六年に『 W. W. Gerhard が両者の識別を行い、別の疾患として扱われるようになった。それぞれの名称は、発疹チフスが英語名 typhus、ドイツ語名 Fleck typhus、腸チフスが英語名 typhoid fever、ドイツ語名 Typhus となっており、各国語それぞれで混同が起こりやすい状況になっている。日本では医学分野でドイツ語が採用されていた背景から、これに準じた名称として「発疹チフス」「腸チフス」と呼び、一般に「チフス」とだけ言った場合には、これにパラチフスを加えた』三種類を指『すか、あるいは腸チフスとパラチフスの』二種類のことを『指して発疹チフスだけを別に扱うことが多い』。『日本の法律上の起因菌は』、腸チフスが Salmonella Typhi、パラチフスが Salmonella Paratyphi A である。『無症状病原体保有者や腸チフス発症者の大便や尿に汚染された食物、水などを通して感染する。これらは手洗いの不十分な状態での食事や、糞便にたかったハエが人の食べ物で摂食活動を行ったときに、病原体が食物に付着して摂取されることが原因である。ほかにも接触感染や性行為、下着で感染する。胆嚢保菌者の人から感染する場合が多い。ネズミの糞から感染することもある。上下水道が整備されていない発展途上国での流行が多く、衛生環境の整った先進諸国からの海外渡航者が感染し、自国に持ち帰るケース(輸入感染症)も多く見られる』。『日本でも昭和初期から終戦直後までは腸チフスが年間』約四万人『発生していた』(漱石の「ろ」の「先生」両親膓窒扶斯(ちやうチブス)ってい。リンクは私の初出復元版の当該章)。『食物とともに摂取されたチフス菌は腸管から腸管膜リンパ節に侵入してマクロファージの細胞内に感染する。このマクロファージがリンパ管から血液に入ることで、チフス菌は全身に移行し、菌血症を起こす。その後、チフス菌は腸管に戻り、そこで腸炎様の症状を起こすとともに、糞便中に排泄される』。感染から七~十四日経過すると、『症状が徐々に出始める。腹痛や発熱、関節痛、頭痛、食欲不振、咽頭炎、空咳、鼻血を起こ』し、そこから三~四日で症状が重くなり、四十度前後の『高熱を出し、下痢(水様便)、血便または便秘を起こす。バラ疹と呼ばれる腹部や胸部にピンク色の斑点が現れる症状を示す。腸チフスの発熱は「稽留熱(けいりゅうねつ)と呼ばれ、高熱が』一週間から二週間も持続するのが特徴で、そのため体力の消耗を起こし、無気力表情になる(チフス顔貌)。また重症例では、熱性譫妄などの意識障碍や難聴を起こしやすい』。二週間ほど『経つと、腸内出血から始まって腸穿孔を起こし、肺炎、胆嚢炎、肝機能障碍を伴うこともある』。『パラチフスもこれとほぼ同様の症状を呈するが、一般に腸チフスと比べて軽症である』(本「チブス」を私が「腸チフス」と判断したのも相対的に後者が軽症であることに拠る)。現在はワクチンがあるが、『腸チフスのワクチンにはパラチフスの予防効果は無く、腸チフスのワクチンとして弱毒生ワクチン』(四回経口接種)と『注射ワクチン』(一回接種)『が存在するが、日本では未承認。そのため日本国内でワクチン接種する際は、ワクチン個人輸入を取り扱う医療機関に申し込む必要がある。経口生ワクチンを取り扱っている医療機関は非常に少なく、輸入ワクチンを取り扱っている医療機関の多くは不活化である注射型のものを採用している。有効期間は経口ワクチンが』五年、不活化Viワクチンで二~三年間程度と『言われている。そのほかは手洗いや食物の加熱によって予防できる』が、『ワクチンの効力が出るには接種完了後』二週間ほどかかる。『治療は対象株に感受性のある抗菌剤を用いるが、ニューキノロン系抗菌薬が第一選択薬となる。しかし、ニューキノロン系薬の効果が望めない症例では』第三世代セフェム系抗菌薬を『使用することがある。また、治療後も』一年間ほど『チフス菌を排出する場合がある』とある。岩波新全集の山田俊治氏の注に、腸チフスでは『当時絶食療法が行われていた』とあり、さればこそ、重篤化して医師も匙を投げた腸チフス患者に、末期の一口と「ビスケツトを一つ食」わせたが「爲に知れ切つた往生を遂げたりする」(この「知れ切つた往生」とは、最早、はっきりと分かっている絶命、既に決まっているところの臨終の謂い)、ということになるわけである。

・「ボヴアリスム」「我我自身を傳奇の中の戀人のやうに空想するボヴアリイ夫人以來の感傷主義」「ボヴアリスム」ボヴァリズム(Bovarism)とは、フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)の代表作にして問題作「ボヴァリー夫人」(Madame Bovary:田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリー(Emma Bovary)が不倫と借金の末に追い詰められ、自殺するまでを描いた作品。一八五六年十月から十二月にかけて文芸誌『パリ評論』に掲載されたが、翌年の一八五七年に風紀紊乱(びんらん)の罪で起訴された。しかし無罪判決を勝ち取って同年にレヴィ書房より出版されるや、ベスト・セラーとなった。フローベールは本作に実に四年半もの歳月をかけており、『その執筆期間に徹底した文体の彫琢と推敲を行なっている。ロマン主義的な憧れが凡庸な現実の前に敗れ去れる様を、精緻な客観描写、自由間接話法を多用した細かな心理描写、多視点的な構成によって描き出したこの作品は写実主義文学の礎となった。サマセット・モームは『世界の十大小説』の一つに挙げている』。以上は引用を含め、ウィキの「ボヴァリー夫人に拠る。因みに私は大学二年の時に最初の数ページを読んでリタイアし、五十九の今に至るまで、その本を持ってはいるが、読んでいない。私には冒頭だけで地獄の退屈だったのである)の主人公である夫人の性格に基づき、後の一九一〇年にフランスの哲学者ジュール・ド・ゴーティーエー(Jules de Gaultier 一八五三年~一九四二年)が生み出した造語。Seoknamkjp氏のブログ「脳を起こすキーワード」のBovarismボヴァリズム)に、『人間の本性の一つとして、本来の自分自身と間違って、自分自身を想像する機能を指して称するためにボヴァリズムという言葉を使った以来、今までも普遍的な人間の心理として見做されている。不可能な幸福を夢見ながら、自分自身の実際の姿をそのままで受け入れずに理想的なモデルとかイメージと自身を同一視する態度は、誰でもある程度持ってる人間の心理であろう』。『フローベルもこの作品を完成した後、マダムボヴァリーは私であるといたと伝えている。現実から得る以上に何かを望むのは人間の悲劇性であろう』と記しておられる。「ボヴァリー夫人」と縁のない私には、諸注のインキ臭いそれよりも、この方の説明の方が遙かに即理解で目から鱗であった。なお、老婆心乍ら、「傳奇」とは現実には起こりそうにない不思議な話。また、そのような話を題材とした幻想的で怪奇な物語や小説類(楽天的なファンタジーもブラッキーなそれも総て含む)のジャンルの総称である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 政治的天才(二章)

 

       政治的天才

 

 古來政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののやうに思はれてゐた。が、これは正反對であらう。寧ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云ふのである。少くとも民衆の意志であるかのやうに信ぜしめるものを云ふのである。この故に政治的天才は俳優的天才を伴ふらしい。ナポレオンは「莊嚴と滑稽との差は僅かに一步である」と云つた。この言葉は帝王の言葉と云ふよりも名優の言葉にふさはしさうである。

 

       又

 

 民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の錢をも抛たないものである。唯民衆を支配する爲には大義の假面を用ひなければならぬ。しかし一度用ひたが最後、大義の假面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱さうとすれば、如何なる政治的天才も忽ち非命に仆れる外はない。つまり帝王も王冠の爲にをのづから支配を受けてゐるのである。この故に政治的天才の悲劇は必ず喜劇をも兼ねぬことはない。たとへば昔仁和寺の法師の鼎をかぶつて舞つたと云ふ「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年三月号『文藝春秋』巻頭に後の「戀は死よりも強し」「地獄」との全四章で初出する。

 

・『ナポレオンは「莊嚴と滑稽との差は僅かに一步である」と云つた』新全集の山田俊治氏の注に、『オクターブ・オブリ』(Octave Aubry(一八八一年~一九四六年:フランスの歴史家)編「ナポレオン言行録」(Les Pages immortelles de Napoléon (1941))『中の格言。栄光の絶頂にいる者もふとしたはずみで悲惨な状態に陥ることがある。得意と失意は紙一重という意味』とある。

・「政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云ふのである。少くとも民衆の意志であるかのやうに信ぜしめるものを云ふ」「政治的天才は俳優的天才を伴ふ」或いはある読者はアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler 一八八九年~一九四五年)を直ちに想起するかも知れない。しかし、この年(一九二三年)ヒトラーは未だ満三十四歳で、同年十一月にはナチス党員の一人としてミュンヘン一揆(ドイツ闘争連盟が起こしたクーデター未遂事件)に参加するも、半日余りで鎮圧され、ヒトラーは首謀者一員として警察に逮捕されている。彼のおぞましき晴れ舞台への登場はまだまだ先のことであった。

・「抛たない」「なげうたない」。

・「非命」「ひめい」とは、天命を全うしないで思いもかけない災難によって死ぬこと。横死(おうし)。

・「仆れる」「たふれる(たおれる)」。斃れ(たお)れる。

・「をのづから」はママ。
 
・『仁和寺の法師の鼎をかぶつて舞つたと云ふ「つれづれ草」の喜劇』「鼎」は「かなへ(かなえ)」で食物を煮るのに用いた金属の器。但し、以下の「徒然草」に出るそれは、実用料理具のそれではなく、室内装飾用に置かれたものと考えられる。言わずもがな、誰もが高校の古文で読まされた、「徒然草」第五十三段の、酒に酔った愚かな僧が鼎をすっぽり首まで被って舞い踊り、満座を沸かしたものの、さて鼎が抜けなくなってしまい、医師にも匙を投げられ、首も千切れんばかりに力任せに引き抜いたところが、耳・鼻が欠け、永く病むこととなったという滑稽譚である。挙げるまでもないが、まあ、短いし、懐かしかろうから、以下に掲げる。底本は木藤才蔵校注「新潮日本古典集成」本を基本参照したが、漢字を恣意的に正字化し、読み(無論、歴史的仮名遣)はオリジナルに増加させてある。

   *

 これも仁和寺(にんなじ)の法師(ほふし)、童(わらは)の法師にならんとする名殘(なごり)とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔(ゑ)ひて興(きよう)に入る(い)あまり、傍(かたはら)なる足鼎(あしがなへ)をとりて、頭(かしら)にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて、顏をさし入れて、舞ひ出でたるに、滿座興にいる事かぎりなし。

 しばしかなでて後(のち)、拔かんとするに、大方(おほかた)ぬかれず。酒宴(しゆえん)ことさめて、いかがはせんと惑(まど)ひけり。とかくすれば、頸(くび)のまはり缺(か)けて、血(ち)埀(た)り、ただ腫(は)れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割(わ)らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足(みつあし)なる角(つの)の上に、かたびらをうちかけて、手をひき、杖(つゑ)をつかせて、京(きやう)なる醫師(くすし)のがり、率(ゐ)て行きける、道すがら、人のあやしみ見ること限りなし。醫師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異樣(ことやう)なりけめ。物を言ふも、くぐもり聲(ごゑ)に響きて聞えず。「かかることは、文(ふみ)にも見えず、傳へたる教へもなし。」と言へば、また、仁和寺へ歸りて、親しき者、老いたる母など、枕上(まくらがみ)によりゐて泣き悲しめども、聞くらんともおぼえず。

 かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻(みみはな)こそ切れ失(う)すとも、命(いのち)ばかりはなどか生きざらん。ただ、力(ちから)を立てて引きに引き給へ。」とて、藁(わら)のしべをまはりにさし入れて、かねを隔(へだ)てて、頸(くび)もちぎるばかり引きたるに、耳鼻缺けうげながら拔けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。

   *

 まず、総論を述べる。授業では絶対に言わなかったが、ここで先輩法師らが俗体であった「童」(稚児(ちご))が一人前の「法師」(法体(ほったい))となって別れるとて、かくも異様なるどんちゃん騒ぎをするのは、その背景に法師と稚児の公的(天台宗の稚児灌頂(ちごかんじょう)など)に許された同性愛行為があったからに他ならない。そこを語り、そこを知らなければ、このシークエンスの意味は真に理解出来たとは言えない、と今の私は思う。そもそもがだな、――挿し入れたものが容易抜けなくなる――というのはまっこと、分かり易いシンボライズであって、これは語るに価値ある内容であると今は私は切に思うのである。たとえ、相手が高校一年生の初(うぶ)な男女であっても、である。因みに、参考にした原文底本の木藤氏の頭注には『三本の角といえば、『梁塵秘抄』に見える』、「我をたのめて來ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎(うと)まれよ 霜雪霰(あられ)降る水田(みづた)の鳥となれ さて足冷かれ 池の浮草(うきくさ)となりねかし と搖りかう搖り搖られ歩け」『(巻二)とう歌謡が有名であるが、恐らくこの主の歌謡を一座で合唱して舞ったのであろう』と記しておられるが、この歌、それこそ、通いの絶えた男への深い恨みごとと呪詛を詠み込んだ歌詞である。以下、「」で語釈を附す。

「仁和寺」現在の京都府京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗大内山(おおうちさん)仁和寺。宇多天皇の開基(光孝天皇の勅願で仁和二(八八六)年に着工されたものの、光孝帝は寺の完成を見ることなく翌年崩御したため、子の宇多帝が遺志を継いで建立した)の門跡寺院(出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所(おむろごしょ)」とも別称された)。本尊は阿弥陀如来。

「大方」呼応の副詞で下に否定を伴い、一向に・全く(~ない)の全否定の意。

「かなはで」叶はで。打ち割ることも出来ないで。

「かたびら」「帷子」で単衣(ひとえ:裏をつけていない布で制した衣類)の総称。

「がり」「誰彼(たれかれ)の人のいる所(へ)」。元来はそうした方向を示す格助詞用法の上代の接尾語であったものが、中古以後に形式名詞化したもの。因みに、この語の成立や、この妙な意味(形式名詞なのに「もとへ」「ところろへ」と辞書に書かれてあるのは面妖極まりない)を高校一年生に分かれ、丸呑みしろ、と言うのは私はまさに文法嫌いにさせる元凶と思う。

「さこそ異樣なりけめ」さぞかし異様(いよう)面妖なようすであったであろう。「こそ」に呼応する文末助動詞「けり」の已然形の係り結びとともに、「けり」が間接過去の助動詞であることから、筆者はこれを実見したのではなく、話に聴いた際に想像し、その面妖さに呆れているのだ、とここで教授するのが古文授業の「王道」とされる。アホらし。

「くぐもり聲」内にこもってはっきりしない声の謂いであるが、ここは鼎の中で顔面が腫脹しているために発音が明瞭でないことに加えて、金属製の鼎の中での発声なれば反響するという、ダブルで全くB級SF映画の宇宙人(見た目も奇体なフル・フェリス・ヘルメットだ)みたような声となるのである。

「文」本草書や医書。

「傳へたる教へ」「文」に記載化されていない、医療(多分に民間療法的な)の口伝(くでん:口伝え)の治療法・処方のこと。如何にも辛気臭い事大主義的な医師のアセスメントであるが、ここは兼好、確信犯で笑いのダメ押しとして構築している。

「命(いのち)ばかりはなどか生きざらん」どうして助からないなどということがあろうか、いや、助かる。二箇所目の係り結びで、しかも反語であるから、国語教師にはまっこと、試験を作り易い教材では確かに、あると言える。教師時代、私は「いや、助かる」を附けない反語訳は「×」としたが、これもまっこと、阿呆らしい採点法だったと今は懺悔しよう。

「藁(わら)のしべ」藁の穂の芯の部分。滑りらせするための補助材である。

「かねを隔てて」金属製の鼎の口の周囲の部分と法師の肉身の頸部表皮との間に隙間を拵えて。

「うげ」「穿(う)ぐ」(カ行下二段活用・自動詞)の連用形で、孔が空く・抉(えぐ)り取られるの意。

「からき」形容詞ク活用「からし」の連体形で、ここでは、免(まぬか)れることが困難な・危ういの謂い。すんでのことに。

「まうけ」「まうく」(カ行下二段活用・他動詞)の連用形で、ここでは、命を危うくとりとめる。助かる、の意。

 まあしかし、後の芥川龍之介の謂い(「つれづれ草」)じゃないが、今考えれば、「中學程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ」「徒然草」なんぞは、これ、およそ「愛讀」する価値のある代物じゃあ、確かに、ない、ね。]

2016/05/24

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  佛陀(三章)

 

       佛陀

 

 悉達多は王城を忍び出た後六年の間苦行した。六年の間苦行した所以は勿論王城の生活の豪奢を極めてゐた祟りであらう。その證據にはナザレの大工の子は、四十日の斷食しかしなかつたやうである。

 

       又

 

 悉達多は車匿に馬轡を執らせ、潜かに王城を後ろにした。が、彼の思辨癖は屢彼をメランコリアに沈ましめたと云ふことである。すると王城を忍び出た後、ほつと一息ついたものは實際將來の釋迦無二佛だつたか、それとも彼の妻の耶輸陀羅だつたか、容易に斷定は出來ないかも知れない。

 

       又

 

 悉達多は六年の苦行の後、菩提樹下に正覺に達した。彼の成道の傳説は如何に物質の精神を支配するかを語るものである。彼はまづ水浴してゐる。それから乳糜を食してゐる。最後に難陀婆羅と傳へられる牧牛の少女と話してゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年二月号『文藝春秋』巻頭に前の「椎の葉」との全四章で初出する。底本の後記によれば第一アフォリズムは初出では、「六年の間苦行した所以は勿論王城の生活の豪奢を極めてゐた祟りであらう。」の「祟り」が、「六年の間苦行した所以は勿論王城の生活の豪奢を極めてゐた結果であらう。」となっている。仏陀を主人公としているところに「祟り」を持ち出すところがすこぶるよろしい、面白いと私は感ずる。それについては以下の私の「祟り」の注を参照されたい。

 

・「悉達多は王城を忍び出た後六年の間苦行した」「悉達多」は「しつたるた(しったるた)/しつだるた(しっだるた)」と普通は読むが、旧全集の芥川龍之介の「神神の微笑」で「したあるた」とルビあい、筑摩全集類聚版もそれを採っているので、ここでも「したあるた」と読んでおく(リンク先は私の初出推定復元版)。原音に基づくなら、ガウタマ・シッダールタ(Gautama Siddhārtha:紀元前五世紀頃の北インド出身の人物)であり、濁音化する方が近いが、辞書類は概ね清音で示すようである。これは梵語(古代サンスクリット語)の「Siddhārtha」(「すべて完成しているもの」の意)の漢訳で(フルでは「瞿曇悉達多(くどんしっだった)」)、釈迦が出家前に太子だった折りの名である。ウィキの「釈迦」によれば(下線やぶちゃん)、『釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキャのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである』。二人の『間に生まれた釈迦はシッダールタと名付けられた。母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中にルンビニで釈迦を生み、産褥熱でその』七日後に死んだとされる。『シャーキャの都カピラヴァストゥにて、釈迦はマーヤーの妹プラジャーパティーによって育てられ』、『釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った』。十六歳で『母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラをもうけた』(別説有り)。『当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた』。『釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、「四門出遊」の故事がある。ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この身には老いも病も死もある、と生の苦しみを感じた(四苦)。北門から出た時に一人の沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった』。『長男のラーフラが生まれた後』の、二十九歳の『時に、夜半に王宮を抜け出て、かねてよりの念願の出家を果たした。出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。次にアーラーラ・カーラーマのもとを訪れると、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した』。その後、ウルヴェーラーの林(苦行林)へ『入ると、父のシュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて』五人の沙門(五比丘)を『同行させた。そして出家して』六年の間、『苦行を積んだ。減食、断食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。その際、五比丘は釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてワーラーナシーのサールナートへ去っ』ている。この時既に三十五歳となっていた釈迦は、そこで、『全く新たな独自の道を歩むことと』し、リラジャンという川で『沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜』(後注参照)『の布施を受け、気力の回復を図って、インドボダイジュの木の下で、「今、悟りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で瞑想した。すると、釈迦の心を乱そうとマーラ』(釈迦の瞑想を妨げるために現れた魔神。愛の神カーマと結び付けられて「カーマ」の別名又は「カーマ・マーラ」として一体で概念されることがある。マーラを降すことを「降魔」という)『が現れ、この妨害が丸』一日『続いたが、釈迦はついにこれを退け(降魔)、悟りを開いた(正覚)』とある。なお、岩波新全集の山田俊治氏の注では、『以下の説話は「今昔物語集」巻一第四、五によっている』と注する。しかしこれは厳密に言うなら、その前の「悉達太子在城受樂語第三」(悉達太子(しつだたいし)、城(じやう)にりて樂しみを受けたまへる(こと)第三)及び「悉達太子出城入山語 第四」(「悉達太子、城を出でて山に入りたまへる語第四)悉達太子於山苦行語第五」(悉達太子、に於いて苦行したまへる語第五の三篇に基づくとすべきところである(リンク先はともに私がしばしばお世話になっている「やたがらすナビ」の漢字新字版平仮名化の原文である)。「後」は「のち」。芥川龍之介は滅多に「あと」とは訓じない。

・「祟り」本来の仏教には「祟り」という概念はないと考えてよい(ヒンドゥーの魔神類は悉く如来の眷属化していて祟るべき神は教義上では存在しないはずと私は思う)。仏教よりも起源の古い(と私は考えている)日本の古い信仰に於ける「神」は(大和朝廷によって「古事記」などで整序された国家神道以前の信仰を私は指しているので注意されたい)、基本的に「祟り神」という絶対属性を持つ。辛気臭い仏教やら阿呆臭い現人神なんぞとはわけが違う――だから――小気味よく、すこぶるよろしく面白いのである。なお、本邦の仏教で「祟り」を謂い出すようになるのは神仏習合の恐らく非常に早い時期に神道側からの強い「祟り」観念の強力感染が仏教側に発生したことを意味するものと私は思っている。その感染菌が仏教の胎内で共生することによって、仏教側もたんまり儲けられるようになることが即座に判ったからに他ならない。ウィキの「祟り」にも(下線やぶちゃん)、『日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り」が転訛したものといわれる。流行り病い、飢饉、天災、その他の災厄そのものが神の顕現であり、それを畏れ鎮めて封印し、祀り上げたものが神社祭祀の始まりとの説がある』。一般に祟りというと、『人間が神の意に反したとき、罪を犯したとき、祭祀を怠ったときなどに神の力が人に及ぶと考え』て発生したものと考えてよかろう。『何か災厄が起きたときに、卜占や託宣などによってどの神がどのような理由で祟ったのかを占っ』たりすることによって、その神が『人々に認識され』、そこでやおら、『罪を償い』、『その神を祀ることで祟りが鎮められると考えられている。神仏習合の後は、本来は人を救済するものであるはずの仏も、神と同様に祟りをもたらすと考えられるようになった。これも、仏を祀ることで祟りが鎮められると考えられた。しかしこれはあくまでも俗信であり、仏教本来』(ここには要出典要請がかけられているが、どこでもよい、寺を訪ねて訊くがよい。祟りを語るのは水子や先祖霊の供養を高額で勧めるクソ坊主ばかりであるはずだ)『の考え方においては、祟りや仏罰を与えることはない』。後に御霊信仰の成立により(これは明らかに仏教ではなく、神道や古神道以前の信仰が遠い濫觴であると私は思う)、『人の死霊や生霊も祟りを及ぼすとされるようになった。人の霊による祟りは、その人の恨みの感情によるもの、すなわち怨霊である。有名なものとしては非業の死を遂げた菅原道真(天神)の、清涼殿落雷事件などの天変地異や、それによる藤原時平・醍醐帝らの死去などの祟りがある。時の天皇らは恐懼して道真の神霊を天満大自在天神として篤く祀り上げることで、祟り神を学問・連歌などの守護神として昇華させた。このように、祟り神を祭祀によって守護神へと変質させるやり方は、恐らく仏教の伝来以降のものと考え』て間違いはないと思われる

・「ナザレの大工の子は、四十日の斷食しかしなかつた」「新約聖書」の「マタイによる福音書」の第四章に以下のようにある(私が下線を引いた第二節が当該箇所)。大正改訳に読点などを補って示す。

   *

 ここにイエス、御靈(みたま)によりて荒野(あらの)に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり。 四十(しじふ)日四十夜(や)斷食(だんじき)して、後(のち)に飢ゑたまふ。試むる者、きたりて言ふ、

「汝もし神の子ならば、命じて此等(これら)の石をパンと爲らしめよ。」

答へて言ひ給ふ、

「『人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言(ことば)に由る。』と錄(しる)されたり。」

 ここに惡魔、イエスを聖なる都(きやこ)につれゆき、宮(みや)の頂上きに立たせて言ふ、

「汝もし神の子ならば己(おの)が身を下(した)に投げよ。それは、

   『なんぢの爲に御使ひたちに命じ給はん。

    彼ら手にて汝を支へ、その足を

    石にうち當つること無からしめん。』

と錄されたるなり。」

イエス、言ひたまふ、

「『主(しゆ)なる汝の神を試むべからず。』と、また錄されたり。」

 惡魔またイエスを最(い)と高き山につれゆき、世のもろもろの國と、その榮華とを示して言ふ、 「汝なんぢもし平伏(ひれふ)して我を拜(はい)せば、此等を皆、なんぢに與へん。」

 ここにイエス、言ひ給ふ。

「サタンよ、退(しりぞ)け。『主なる汝の神を拜し、ただ之れにのみ事(つか)へ奉まつるべし。』と録されたるなり。」

 ここに惡魔は離れ去り、視よ、御使ひたち來り事へぬ。

   *

・「車匿」「しやのく(しゃのく)」と読み、梵語Chandakaの音写で釈迦の元従僕(馬丁)で後に弟子となった人物。釈迦 が王城を後にして出家した際、苦行林までその馬を牽いたとされる人物で、釈迦の没後に阿難(釈迦十大弟子の一人。多聞(たもん)第一と称せられた)について修行し、阿羅漢(あらかん:梵語arhatの漢音写。「応供」(おうぐ)などと漢訳する。「尊敬を受けるに値する人」の意。略称して「羅漢」とも言い、主に小乗仏教に於いて最高の悟りに達した聖者を指す)となったとされる。「チャンダカ」「チャンナ」とも呼ぶ。ウィキの「車匿」によれば、『釈迦の弟子で、チャンナという同名の弟子は』四名『いたといわれる。釈迦が出家する際に、白馬・健陟(カンタカ)を牽引した馬丁チャンナと六群比丘の一人で悪行が多かったチャンナは共通の事説が多く、同一人物といわれる』。『チャンナは釈迦と同じ日に生まれたという。釈迦仏が太子時の従僕であるが』、『クシャトリア(王種)ともいわれる。シッダルタ太子(釈迦)がカピラ城をチャンナと共に出城し、東方の阿奴摩(アーマー)河にて剃髪し出家した。その際、チャンナに宝冠、衣帯、宝珠を渡し』て、『白馬カンタカを牽引して城へ帰さしめた』。「摩訶僧祇律」(まかそうぎりつ:中国の東晋代に成立した律蔵(教団規律集)の一つ。仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)と法顕の共訳で全四十巻)では釈迦十大弟子の一人で頭陀第一とされた摩訶迦葉(まかかしょう)の『後に続いて順に出家したとされるが、一般的には釈迦仏が故郷カピラ城へ帰った際に出家したといわれる』。『チャンナは自分がクシャトリアであり、仏と最も親しい者であると思い込んでおり、しばしば悪口を働き、そのため悪性車匿(あくしょう・しゃのく)、あるいは悪口車匿(あっく・しゃのく)といわれた。舎利弗』(しゃりほつ:釈迦十大弟子の一人。智慧第一とされた)や目連(釈迦十大弟子筆頭で神通第一とされる)に対しても嫉妬し、『悪口をいい、釈迦仏も幾度も彼に注意したが、その場では大人しいが、しばらくするとまた悪口を言うことを繰り返した。また戒律を犯しても認めようとせず、他の比丘衆からもよく駆遣呵責(くけんかしゃく=厳しくその責を咎める)された』。『釈迦仏の入滅直前に、阿難(アーナンダー)がチャンナをどう扱えばよいかと問うと、ブラフマダンタ(黙擯=だまってしりぞける、つまり無視する)の罪法を科した。アーナンダーは、それでもチャンナは気が荒く乱暴者であるから』、その場合は『どうすればよいか再度訊ねると、仏は大勢の比丘を率いていけばよいと答えた。しかして釈迦仏が入滅した後に、アーナンダーは』五百人の『比丘を連れてコーサンビーのゴーシタ苑に彼を呼び出し、仏から伝えられた罪を申し渡した。彼はそれを聞き、気絶して倒れたが、それを機に心を入れ替え』て『修行に励んだ結果、ついに阿羅漢果を得て、後に無余涅槃に入ったといわれる』とある。

・「馬轡」「はみ」或いは「くつわ」「くつばみ」と当てて訓じたい(筑摩全集類聚版は「ばひ」とルビするが、聴き慣れず、採らない)。要するに、馬具の一種である「轡(くつわ)」のことである。馬の口には嵌めて手綱に繫いで馬を制御する道具。狭義には、馬の口に噛ませるその主要な部分を「馬銜」(はみ・喰)と呼ぶ。

・「メランコリア」英語の melancholia は文語で鬱(状態)・病的な重い憂鬱の意。鬱気分や鬱病は現行では depression を用いる。

・「釋迦無二佛」釋迦無二」は「釋迦牟尼」が一般的表記であるが、所詮、梵語の Śākyamuni、「釈迦族の聖者」の意の音写の符号であるから別段「無二」でもよく、字面も「釈迦」の尊称として違和感がない。

・「耶輸陀羅」筑摩全集類聚版は「やすだら」とルビするが、現在では殆んどの辞書が「やしゆだら(やしゅだら)」とする。ところがウィキの「耶輸陀羅」では「やしょだら」(歴史的仮名遣なら「やしよだら」)で、言語の綴り(梵語:Yaśodharā / Jašódharā・パーリ語:Yasodharā)から見て、「やしょだら」で読むこととする。以下、ウィキの「耶輸陀羅」から引く。『釈迦が出家する前、すなわちシッダールタ太子だった時の妃である。一般的な説では、出家以前の釈迦、すなわちガウタマ・シッダールタと結婚して、一子羅睺羅(らごら、ラーフラ、ラゴーラ)を生んだとされる』。後に『比丘尼(すなわち釈迦の女性の弟子)となった』。『耶輸陀羅の身辺や出身には多くの説があ』り、『拘利(コーリヤ)族の天臂(デヴァーダハ)城のアンジャナ王を祖父として、その王の長男・善覚(スプラブッダ)、長女・摩耶、次女・摩訶波闍波提あり、耶輸陀羅は善覚の娘で提婆達多は弟に当る(南伝パーリ仏典、ジャータカ等)という説』、『釈迦族の住むカピラ城の執杖(ダンダパーニ)大臣の娘、瞿夷(ゴーピカー、普曜経等の記述)が同人異称とし、混同されて伝えられたという説』、『釈迦族のカピラ城の大臣、摩訶男(摩訶摩那とも、阿那律の兄で五比丘の一人とは別人)の娘(仏本行集経)の説』などがあるとし、『いずれにしても一般的には、摩訶摩耶の子である釈迦、摩訶波闍波提の子である難陀は彼女のいとこに当るという説が北伝』(北伝仏教:インドから北方のルートを経て伝播した仏教の総称。大乗仏教と同義)『では採用されている。北伝の仏典では、彼女の婿選び儀式 swayamvara)で釈迦と難陀や提婆達多等と競技を行い、釈迦の正妃となったとする説もあるが、彼女が』十歳前後で釈迦が十七歳(或いは十六歳)で『結婚したといわれる。また釈迦とは同じ生年月日で』十七歳で『結婚したとする説もある』。『また出家前の釈迦には、耶輸陀羅も含め三人の妃と子がいたと伝えられるが、耶輸陀羅はいずれもその正妃となったともいわれる』。『彼女は釈迦の妃となって初めて宮中に入る際、慣例を無視してヴェールをつけず侍女から注意されると、「この傷一つない顔をなぜ隠す必要があるのですか?」と言ったともいわれる。この故か五天竺第一の美女とも称せられる』。『彼女は釈迦仏が出家直前(直後とも)にラゴーラを生んだが、経典によっては、彼女はラゴーラを』六年もの間、『胎内に宿していた、という説や、釈迦が難行苦行中の』六年の間に『ラゴーラを宿していて、成道の夜に生んだという諸説がある。雑宝蔵経では、釈迦の成道後にラゴーラを生んだことで親族から貞節を疑われたと記し、ジャータカ因縁物語では釈迦の実父である浄飯(スッドダーナ)王は彼女の貞節を賛じたという』。『釈迦仏が』悟りを開いて十二年の後、『故郷カピラ城に帰郷した際、彼女はラゴーラを伴』って『釈迦仏に会いに行き』、『「財宝を譲って下さい」と言うようにラゴーラに言わせたという。釈迦仏はそのようにすればよい、と認めるもラゴーラはニグローダ樹苑に行こうとする釈迦仏の一行についていき、沙彌(年少の見習い修行者)となった』。『彼女自身も叔母の摩訶波闍波提』(まか はじゃはだい)や五百人の『女性と共に出家させてもらえるよう、釈迦仏に三度にわたり懇願したが、なかなか受け付けてもらえず』、『大声で泣いて帰城した。釈迦仏の一行は既にカピラ城を離れ』、『ヴァイシャリー城の郊外にある大林精舎(重閣講堂)へ赴いたが、あきらめきれなかった彼女たちは剃髪し』、『黄衣を着て』、『跡を追って行った。講堂の前で足を腫らして涙と埃や塵でまみれ大声で泣いていたが、彼女らを見た阿難陀(アーナンダ)が驚いて理由を聞かれ、女性の出家を認めるよう頼み、阿難陀の説得もありようやく出家を許された。出家後は自分を反省する事に努め、尼僧中の第一人者になったといわれる』とある。

・「すると王城を忍び出た後、ほつと一息つゐたものは實際將來の釋迦無二佛だつたか、それとも彼の妻の耶輸陀羅だつたか」実に上手い。彼は妻を置いて独り「王城を忍び出た」がしかし、「彼の思辨癖」(神経症的にぐるぐるぐるぐる考え続ける悪い癖)は、その後も(ということはそれ以前も)しばしば「彼」自身「をメランコリア」、重い抑鬱状態に陥らせた。だと「すると」彼が出家するために「王城を忍び出た後」に「ほつと一息つ」いた者は「實際」、当の「將來の釋迦無二佛だつた」のだろうか? いや、胆汁質の「メランコリア」の輩はそう簡単に「ほつと」などせぬ。実は彼がいなくなって「ほつと一息つ」けたのは、さんざんっぱら、彼の鬱気分につきあわされ続けてきて、内心は彼に飽き飽きしていた「彼の妻の耶輸陀羅だつた」のかも「知れない」、というのである。非常にこの気持ち、私にはよく判る。――私自身が「メランコリア」の輩だから――である。

・「菩提樹」釈迦が菩提を得た、悟りを開いた場所にあったとされる、イラクサ目クワ科イチジク属インドボダイジュ Ficus religiosa 。別名を「テンジクボダイジュ」(天竺菩提樹)と称し、釈迦が生まれた所にあったとされる「無憂樹」(マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サラカ属ムユウジュ Saraca asoca)及び釈迦の涅槃の場にあったとされる「沙羅双樹」(アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta)と並ぶ、仏教三大聖樹の一種。ウィキの「インドボダイジュによれば、熱帯地方では高さ二十メートル以上に『生長する常緑高木。葉の先端が長く伸びるのが特徴。他のイチジク属と同様、絞め殺しの木となることがある。耐寒性が弱く元来は日本で育てるには温室が必要であるが、近年では地球温暖化の影響で、関東以南の温暖な地域では路地植えで越冬できたり、または鉢植えの観葉植物として出回っている。各地の仏教寺院では本種の代用としてシナノキ科の植物のボダイジュ』(アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana)『がよく植えられている。そのためボダイジュが「菩提樹」であるかのように誤解されることが多いが、本種が仏教聖樹の「菩提樹」である』とある。

・「正覺」「しやうがく(しょうがく)」は仏教用語。「無上等正覚」の略で、仏の正しい悟り・最高の悟りの境地を指す。筑摩全集類聚版には「正」『意を以って宇宙人生の真理を』「覚」『悟した意』とある。

・「成道の傳説」「成道」は「じやうだう(じょうどう)」と読む仏教用語で、仏教の修行者や求道者が修行を積んだ結果、遂に悟りを開くことを指す(「道」は「さとり」の意)。釈迦は苦行実践を無益であるとして捨てた後、菩提樹の下で悟りを開いた、これを「成道」と呼び、毎年、その成道の日とされる十二月八日に「成道会(じょうどうえ)」 が行われる。新潮文庫の神田由美子氏の注には、『悉達多六年の苦行後、解脱(げだつ)を断念し、尼連禅河』(にれんぜんが:Nairañjanā; Nerañjanā:インド・ビハール州ブッダガヤーの東を流れる川。先に出した「リラジャン」川と同じ)『にて水浴し、村長の娘善生の供養する乳糜(にゅうび)』(次注参照)『を食べ』、『体力を回復した後、菩提樹下に初めて悟りを開き、仏陀とな』ったとする。その「正覺」、悟りに至った経緯を語る諸伝承の謂いである。

・「乳糜」「にゆうび(にゅうび)」は諸注総て、牛乳で米をに煮詰めた食物とする。「糜粥(びじゅく)」という熟語があり、これは薄い粥(かゆ)を指すから、牛乳を水で割って煮込んで製した粥ということであろうか(消化はすこぶる良さそうである)。先のウィキの「釈迦」から引いたり、或いは前注した通り、釈迦は尼連禅河で『沐浴したあと、村娘のスジャータ』(次注参照)から、この『乳糜の布施を受け』て、遂に悟達したのである。

・「難陀婆羅」「なんだばら」。この龍之介の文脈だと、乳糜を施してくれた人物と、「最後に」「話し」た「牧牛の少女」「難陀婆羅」は別人としか読めないが、考えてみれば、牛の乳の粥と牧牛であるから、これは同一人物と考えた方が自然である。実際、ウィキの「スジャータを見ると同一人物である。以下に引く。スジャータ(サンスクリット語及びパーリ語:Sujātā:正確に音写するなら「スジャーター」)は釈迦が悟る直前に乳がゆを供養して『命を救ったという娘である』。釈迦は六年に亙る『生死の境を行き来するような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることが出来ないと理解する。修行を中断し責めやつしすぎた身体を清めるためやっとの思いで付近のネーランジャラー川(尼連禅河)に沐浴をした』。『スジャータは「もし私が相当な家に嫁ぎ、男子を生むことがあれば、毎年百千金の祭祀(Balikamma)を施さん」とニグローダ樹に祈った。その望みの通りになったため、祭祀を行っていた。スジャータの下女はプンナー(PuNNā)樹下に坐していた釈迦を見て、樹神と思い、スジャータに知らせると、彼女は喜んで』、『その場に赴いて釈迦に供養した。釈迦はスジャータから与えられた乳がゆ(Pāyāsa)を食してネーランジャラー川に沐浴した』。『心身ともに回復した釈迦は心落ち着かせ』、『近隣の森の大きな菩提樹下に座し』、(東アジアの伝承では旧暦十二月八日に)『遂に叡智を極め悟りを得て』、『仏教が成道した』。『一般的に、釈迦がスジャータから乳がゆの供養を得て悟りを得た後に説法して弟子となったのは、五比丘であり、優婆夷(女性在家信者)ができたのもその後と考えられるが、彼女を最初の優婆夷とする仏典もある』。『スジャータは古代インドの女性名で、良い生い立ち、素性を意味する。漢訳では善生(ぜんしょう)、難陀婆羅(ナンダバラ)など。難陀(Nanda)とは、歓喜。婆羅(Vara)とは、菩薩(求める)』の謂いである。なお、彼女の出自や身辺は経典によって異なるとある。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  椎の葉

 

椎の葉

 

 完全に幸福になり得るのは白痴にのみ與へられた特權である。如何なる樂天主義者にもせよ、笑顏に終始することの出來るものではない。いや、もし眞に樂天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは唯如何に幸福に絶望するかと云ふことのみである。

 「家にあれば笥にもる飯を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」とは行旅の情をうたつたばかりではない。我我は常に「ありたい」ものの代りに「あり得る」ものと妥協するのである。學者はこの椎の葉にさまざまの美名を與へるであらう。が、無遠慮に手に取つて見れば、椎の葉はいつも椎の葉である。

 椎の葉の椎の葉たるを歎ずるのは椎の葉の笥たるを主張するよりも確かに尊敬に價してゐる。しかし椎の葉の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈であらう。少くとも生涯同一の歎を繰り返すことに倦まないのは滑稽であると共に不道德である。實際又偉大なる厭世主義者は澁面ばかり作つてはゐない。不治の病を負つたレオパルデイさへ、時には蒼ざめた薔薇の花に寂しい頰笑みを浮べてゐる。……

 追記 不道德とは過度の異名である。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年二月号『文藝春秋』巻頭に次の「佛陀」(同題で三章)との全四章で初出する。

 

・「もし眞に樂天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは唯如何に幸福に絶望するかと云ふことのみである」龍之介は人生の普遍的絶対属性を「絶望」のみと捉えていることがこれによって判明する。オプティミスト(optimist)とは「絶望」をさえ幸福と感ずる救いがたい白痴であると断じていることに注視せねばならぬ。しかも「厭世主義者は澁面ばかり作つて」いるわけではなく、厭世詩人の荊冠を被せられた「不治の病を負つたレオパルデイさへ」も「時には蒼ざめた薔薇の花に寂しい頰笑みを浮べて」いたと付け加えるところが胆(きも)である。絶望と厭世の中に在っても儚い薔薇の衰えゆく美を惜しみ愛でる感情こそが厭世主義者の正しき「道德」だというのである。彼は、殊更にこれ見よがしに悲観するペシミスト(悲観厭世主義者)も、何が何でも幸せとへらへら笑い呆けている楽天主義者も、これ、孰れも「過度」の病態を示した「不道德」な病者であると喝破しているのである。そこに思い至らねば、龍之介の真意、いや、まことの憂鬱を理解することは出来ぬのである。

・「家にあれば笥にもる飯を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」「万葉集」の「巻第二」の「挽謌」冒頭に載る有間皇子(みこ)が自らが謀反の罪で絞首刑される前に詠んだとされる辞世の二首(第一四一及び一四二番歌)、

 

   有間皇子(ありまのみこ)の自(みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結べる歌二首

 

磐代(いはしろ)の濱松が枝を引き結び眞幸(まさき)くあらばまた還り見む

 

家(いへ)にあれば笥(け)に盛(も)る飯(いひ)を草枕(くさまくら)旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

 

の後の一首である。「松が枝を結べる」草木を結ぶことは、古来からある、その「結び繋ぐ」という行為の中に人の命を繫ぎ止める(死に至らせない)という類感呪術である。「磐代」は現在の和歌山県日高郡みなべ町(ちょう)西岩代。後に知られるようになる熊野古道が通るが、本歌に近似性のある一首「万葉集」「卷第一」の第十番歌である「中皇命(なかつすめらみこと)の、紀の温泉(ゆ)に往(いでま)しし時の御歌(みうた)」という前書を持つ「君が代もわが代も知るや磐代の岡の草根(くさね)をいざ結びてな」という歌の中西進氏の注(講談社文庫版「万葉集(一)」)にこの磐代の北にある『切目(きりめ)からここまでは海岸をはずれて峠を越える。この下り口の岡に無事を祈る習慣があったのだろう』と注されておられる。なお、「中皇命」は有間皇子の父孝徳天皇の皇后である間人皇后(はしひとのひめみこ)に比定されている(但し、有間皇子の母ではない)。「眞幸く」の「ま」は美称の接頭辞。「幸く」は命が栄えるさま。「見む」の「む」は推量。意志ととると、直前の「あらば」の仮定と微妙に齟齬する。「笥」食物を盛る木製の食器。当時、「笥を持つ」というのはその笥を使う男の妻となることを意味したから、この部分には妻への思慕の情が深く示されてある。「椎」ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の樹木或いは近縁のブナ科マテバシイ属マテバシイ Lithocarpus edulis かも知れぬ。

 有間皇子(舒明天皇一二(六四〇)年~斉明天皇四年(六五八)年)は飛鳥時代の皇族で第三十六代孝徳天皇の皇子。ウィキの「有間皇子」によれば、孝徳天皇元(六四五)年に父が即位して孝徳天皇となり、天皇は同年六月十九日に史上初めて元号を立てて「大化元年」とし、その十二月九日(ユリウス暦では丁度、六四六年一月一日)に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)は白雉四(六五三)年に都を倭京(わきょう:大和)に戻すことを求めた。孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京に移り、皇族たちや群臣たちの殆んど、孝徳天皇の皇后である間人皇女までも中大兄に従って倭京に戻ってしまう。失意の中に孝徳天皇は白雉五年十月に崩御し、斉明天皇元(六五五)年一月(新たな元号は定められておらず、白雉の継続使用も行われていない)、孝徳天皇の姉の宝皇女(第三十五代皇極天皇)が再び、飛鳥板葺宮で題三十七代斉明天皇として重祚(ちょうそ)した。『父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に赴いた。飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄』(そがのあかえ:蘇我馬子の孫)が『近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。なお近年、有間皇子は母の小足媛』((おたらしひめ:大化の改新で左大臣に任じられた阿倍内麻呂の娘)『の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったとする説が出ている』。『ところが蘇我赤兄は中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し(なお蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと考えられている)、有間皇子は守大石・坂合部薬たちと捕らえられた』。斉明天皇四年十一月九日(六五八年十二月九日)に『中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」(天與赤兄知。吾全不知)と答えたといわれる。翌々日に藤白坂』(ふじしろのさか:現在の和歌山県海南市藤白)『で絞首刑に処せられた』が、護送される途中、磐代の『地で皇子が詠んだ』二首がこれらの歌であるとされる。但し、この二首に『ついては、民俗学者・折口信夫により後世の人物が皇子に仮託して詠んだものではないかと』疑義が示されてある。『有間皇子の死後、大宝元年』(七〇一年)の『紀伊国行幸時の作と思われる長意吉麻呂や山上憶良らの追悼歌が』「万葉集」に残されているものの、『以降、歴史から忘れ去られた存在となるが、平安後期における万葉復古の兆しと共に、幾ばくか史料に散見されるようになり、磐代も歌枕とな』った。但し、俊頼髄脳では、『辞世歌が父・孝徳と喧嘩して出奔した際の歌とされているなど、伝説化の一途を辿るようにな』り、『極端な例では』、江戸期の「百人一首」の『注釈書などでは「後即位」とまでなっている』とある。

・「倦まない」「うまない」。飽きない。

・「不治の病を負つたレオパルデイ」イタリアを代表する詩人(厭世詩人)の一人で哲学者・文献学者でもあったジャコモ・レオパルディ(Giacomo Taldegardo Francesco di Sales Saverio Pietro Leopardi, Conte  一七九八年~一八三七年)。以下、平凡社「世界大百科事典」の河島英昭氏の解説に拠る(書名原題その他一部は私が挿入した。下線はやぶちゃん)。アドリア海を遠望する丘陵地帯の町レカナーティに伯爵家の長男として生まれた。母親も侯爵家の出身で、幼い頃から厳しい躾を受け、政治的にも文化的にも保守性の強い環境に育った。最初の教育は父親や聖職者たちから受けたが、刻苦勉励して異常なまでに早熟な才能をあらわし、十四歳の頃には教師を必要としなくなり、膨大な蔵書を収めた父親の書斎に引き籠って、専ら古典文献の読破に努めた。十歳から十八歳頃までの驚異的な勉学によって、英語・ドイツ語・フランス語の近代語は勿論、古代ギリシア語・ラテン語・ヘブライ語などをも独習して該博な知識を身につけたものの、この間にあまり陽光の入らない部屋のなかで生活したため、発育不全となって身長が伸びず、佝僂(くる)となって、はなはだしく健康を害することとなった。一方、その頃、ヘシオドスの翻訳や「オデュッセイア」「アエネーイス」の部分訳などを試み、古典的な文体を身につけた。しかし、初めは必ずしも文学を志したわけではなく、博識を駆使して「天文学史」(Storia dell'astronomia:一八一三年)などの啓蒙主義的な論文や悲劇の習作・古典文学論などを著している。その後、一八一五年から一八一六年にかけて言語に纏わる美に目覚め、一種の宗教的な体験のうちに、それまでの知識を振り捨てるようにして詩の世界へ踏み込んだ。詩編「死に近づく賛歌」(L'appressamento della morte:一八一六年作)はその意味で詩人レオパルディの誕生を画した文学的回心の作品とされる。この中でレオパルディは、言うなら、ダンテとペトラルカの詩法の融合を企て、一種の宗教的な信条から発した詩心を吐露している。しかし、彼の詩才に対して周囲は冷ややかな態度で接し、両親の無理解と屈辱的な経済援助のうちに詩人は呻吟して暮らした。すべての愛する者たちの心から離れ、全くの孤独のうちに詩作を続けたが、二十一歳の時、眼病に罹患し、読書の道を絶たれるなど、不幸は更に次々と彼を襲った。文学史上、しばしば世界最高の厭世詩人と呼ばれるように、レオパルディの詩は暗澹たるペシミズム(厭世主義)に塗りこめられているしかし、彼の詩には、本来、二つの異なる傾向が共存していた一つは詩編「イタリアに」(All'Italia :一八一八年)・「ダンテの碑の上で」(Sopra il monumento di Dante che si preparava in Firenze :一八一九年(彼についてのイタリア語版ウィキでは一八一八年とする))・「アンジェロ・マーイに」(Ad Angelo Mai, quand'ebbe trovato i libri di Cicerone della Repubblica:一八二〇年)などのように、同時代の政治的かつ文化的要請に応えようとする傾向で、その限りでは、近代イタリア国家統一へと収斂していくロマン主義文学と軌を一にしている今一つは、詩編「月に寄せて」(Alla luna:一八一九年)・「無窮」(L'infinito:八一九年)・「祭りの日の夕べ」(a sera del giorno festivo:一八二〇年)などのように、深い悲しみとあらわにされた心の動きをそのままに伝える一連の抒情詩で、そこには個人的な悲しみの感情を超えて、世界そのものが悲哀の存在として描き出されている。「サッフォーの最後の歌」(Ultimo canto di Saffo:一八二二年)・「シルビアに寄せて」(A Silvia:一八二八年)、また「月は傾く」(Il tramonto della Luna:一八三六年。但し、最後の六行は詩人の死の直前に口述されたものとされる)など、透徹した悲哀の詩編は、いずれも詩集「カンティ」(Canti:「Canti」は古フランス語の「チャント(chant)」で「詠唱・唱和」の意。初版一八三一年)に収められている。散文作品としては、対話形式をとった二十六の短編から成る「教訓的小話集」(Operette morali:一八二七年)があり、これはまさに絶望の哲学の書というべきもので、悲劇と喜劇が表裏一体となって展開する。また、生誕百年を記念して出版された膨大な手記「随想集」全七巻(一八九八年から一九〇〇年に刊行)は彼を十九世紀イタリア最大の思想家たらしめている。レオパルディは彼の詩の母体であると同時に苦しみの土地であった故郷レカナーティを二十四歳の時に離れており、以後はローマ・ミラノ・ボローニャ・フィレンツェなどを転々とし、晩年の一八三三年になってナポリの亡命者アントニオ・ラニエリの知遇を得て、その妹パオリーナの手厚い看護を受けながら、同地で病没した、とある。

 これだけ詳細な記載の中にも龍之介の言う「不治の病を負つた」の部分が明らかでないが、「佝僂」とあるところから、或いは先天的な脊椎奇形が疑われるようにも思われ、彼についてのウィキの英語版及び良質評価のつくドイツ語版を管見する(日本語版はリンクするのもおぞましいほど貧弱)と、脊椎カリエス(結核性脊椎炎)の持病を確認出来、直接の死因は肺水腫とし、喘息発作とも読める記載があることから、脊椎カリエスを含む慢性的脊椎疾患(先に述べた通り、その総て或いは一部が先天的なものであれば当時の医学上からは「不治」である)から来る重篤で致命的な呼吸器疾患に罹患していたものと推測される(重い喘息は発作によって窒息死することもままある)。逝去した折りにはコレラが蔓延しており、一時はそれらのコレラで死亡した多量の遺体とともに穴に投げ込まれて共同埋葬されそうになったが、無事に改葬されたことなども記されてある(脊椎カリエスなるものが分からない方は自分でお調べ頂きたい。私は一歳半から四歳半まで左肩関節結核性カリエスに罹患しているので私自身には注する必要がないからである。悪しからず)。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「人間らしさ」

 

       「人間らしさ」

 

 わたしは不幸にも「人間らしさ」に禮拜する勇氣は持つてゐない。いや、屢「人間らしさ」に輕蔑を感ずることは事實である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事實である。愛を?――或は愛よりも憐憫かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬやうになつたとすれば、人生は到底住するに堪へない精神病院に變りさうである。Swift の畢に發狂したのも當然の結果と云ふ外はない。

 スウイフトは發狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に參るのだ」と呟いたことがあるさうである。この逸話は思ひ出す度にいつも戰慄を傳へずには置かない。わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年一月号『文藝春秋』巻頭に前の「地上樂園」「暴力」の三章で初出する。『「人間らしさ」』という標題の鍵括弧表記は「侏儒の言葉」の中では特異点である。言わずもがな乍ら、芥川龍之介が謂わんとするのは鍵括弧附きの――人間らしさ――である点に注意しなくてはならぬ。しかし龍之介が元来は英文科卒だからといって、これを「ヒューマニズム」(humanism)の意で解釈しようというのは寧ろ、危ういであろう。例えば、小学館の「大辞泉」の「ヒューマニズム(humanism)」を見ると(「」は別記載の抄録)、

   *

人間性を称揚し、さまざまな束縛や抑圧による非人間的状態から人間の解放を目ざす思想。

㋐「人文主義」に同じ。ギリシャ・ローマの古典研究によって普遍的教養を身につけるとともに、教会の権威や神中心の中世的世界観のような非人間的重圧から人間を解放し、人間性の再興をめざした精神運動。また、その立場。ルネサンス期にイタリアの商業都市の繁栄を背景にして興り、やがて全ヨーロッパに波及した(「大辞泉」に拠る)。

㋑十七~十八世紀にイギリス・フランスで、普遍的な人間性を認め、いくつかの市民革命の指導理念となった思想。市民的ヒューマニズム。

㋒新人文主義。ネオ・ヒューマニズム。二十世紀初頭、アメリカの批評家バビットIrving Babbitt(一八六五年~一九三三年)などによって唱えられたもので、ルソー流の自然復帰のロマン主義に反対し、伝統と教養を重んじる立場(平凡社「マイペディア」に拠る)。

㋓資本主義による人間の自己疎外から人間性の回復を目ざすプロレタリア階級の運動。社会主義的ヒューマニズム。

人道主義。人間性を重んじ、人間愛を実践し、併せて人類の福祉向上を目指す立場。博愛主義と共通する面が多い(「大辞泉」に拠る)。

   *

とある。しかしだ、これらの文字列をぼんやり眺めて居ても、どうにも龍之介の謂わんとする「人間らしさ」の影はちっとも見えては来ぬのである。いや、龍之介がここで問題にしようとしているのは、そのような辛気臭い、というか、インキ臭いところの「主義思想としての人間らしさ」なんぞではあるまい。それらを軽く併呑し得るところのものではあるが、それらと同等に並ぶものでも、それ以下の――多分に恣意的で感情的な物謂い――でも、ない。

 ここでのそれは明らかに、和語としてに「人間らしさ」という、そうさ、何やらん、漠然とした、難解なわけではないものの、如何にもその実体が曇ってはっきりしないもの――美麗な富士の霊峰の如くにも見えることもあれば――その足元を覗けば地獄の奈落に続くようにも窺えるもの――ではあるまいか?

 さても一晩考えたのであるが、やはり夏目漱石の「こゝろ」の「下 先生と遺書」の先生」の例の「愛」についての謂いを真似て言わせて貰おうなら(リンク先は私の初出復元版の当該章)、これは、

 

――「人間らしさ」という不可思議なものに両端(りょうはじ)があって、其の高い端(はじ)には神聖な感じが働いて、低い端(はじ)には性慾が動いている――

 

ようなもの、ということになるのではあるまいか? そんな謂いが、私には如何にもしっくりくるように思われて仕方がないのである。そもそも本章の前段の内容を考えてみるがよい。

 

 龍之介は、その「人間らしさ」にさえ「動かされぬ」ようになったとしたら、「人生は到底住」むに耐え得ない牢獄同様の「精神病院に變り」そうだ、というのである。しかし乍ら、彼は「不幸にも」その「人間らしさ」なるものを「禮拜する勇氣は持つて」いないと言い、それどころか、しばしばその「人間らしさ」に「輕蔑を感ずること」があることも厳然たる「事實で」は「ある」と言うのである。と同時に、「しかし又」、不思議なことに同時に、心のどこかでその「人間らしさ」に対して「愛を感」じているという「ことも事實である」という。そうして「愛を?――或は愛よりも憐憫」(れんびん:不愍(ふびん)に思うこと。憐れみの感情)「かも知れない」とつぶやく。

 

 これは既にして龍之介がその「人間らしさ」なるものは、龍之介のような冷徹な理智の「人間」でさえも、それに対し、「愛」或いは「憐憫」を覚える対象だと言っているのである。この章の「人間らしさ」を「こゝろ」の先生に敬意を表して、逆に「愛」に変えて弄ってみるなら、

 

       「愛」

 

 わたしは不幸にも人間がかく表明する人間固有とされるところの「愛」に對して禮拜する勇氣は持つてゐない。いや、屢「愛」なるものに輕蔑を感ずることは事實である。しかし又常に「愛」に『愛』を感ずることも事實である。『愛』を?――『愛』に愛を感ずるといふは聊か説明にならぬといふなら、或いは「憐憫」というのが正確かも知れない。が、兎に角「愛」にも動かされぬやうになつたとすれば、人生は到底住するに堪へない精神病院に變りさうである。Swift の畢に發狂したのも當然の結果と云ふ外はない。

 スウイフトは發狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に參るのだ」と呟いたことがあるさうである。この逸話は思ひ出す度にいつも戰慄を傳へずには置かない。わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる。

 

となろうか。恣意的な変換補遺である故に一応、大方の御叱正を俟つものではあるが、私はかくしても一向に破綻を生じないし、寧ろ、謎めいた『「人間らしさ」』という謎の澱んだ膜のようなものが取り払われ、すっきりと読めるように私は思うのである。

 因みに、諸本はこのわざわざ龍之介が鈎括弧を附けたことを、誰一人、問題としていないのである。龍之介よ、芥川龍之介研究など、結局、今でもこの程度のものだという証しだ。私は内心、慙愧に堪えられぬ思いである。悪いね、龍之介……

 

・「禮拜」ここは「らいはい」と読みたい。筑摩全集類聚版もかくルビする。

・「Swift の畢に發狂した」芥川龍之介が「不思議な島」(この翌年の大正一三(一九二四)年一月『随筆』に初出)河童」(自死の年である昭和二(一九二七)年三月『改造』初出。リンク先は私の電子テクスト。他に私は芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)も手がけている)に於いて意識したとされ、彼の愛読書でもあった「ガリヴァー旅行記」(Gulliver's travels:原書初版は世論の批判をかわすために決定稿を改変して一七二六年に出版、一七三五年には本来の決定稿完全版が出版されている。なお、この作品の正式な題名は〝Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of several Ships〟(「船医から始まり、後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーに拠る、四篇から成る、世界の僻遠の国々への旅行記」)である)で知られる、イングランド系アイルランド人の司祭にして痛烈な諷刺作家であったジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift 一六六七年~一七四五年)はウィキの「ジョナサン・スウィフトによれば、「ガリヴァー旅行記」執筆前、政治活動に入れ込んだロンドンで懇意になったヴァナミリー家の娘の一人エスターと親密になった。彼の書簡によれば『エスターがスウィフトに夢中になり、それで彼は彼女の愛情に報いたものの、後悔してのちに縁を切ろうとしたことが示唆され』ているという。そうして、一七二八年一月二十八日、『エスター・ジョンソンは死去した。彼は彼女の病床で祈り、彼女の慰安のため祈禱を行いさえしたが、スウィフトは臨終に居合わせているのに堪えることができなかった。しかし、その夜の彼女の死に際して、彼は非常に興味深い』「ジョンソン夫人の死」を書き始めてもいる。しかし、彼は自ら首席司祭を勤める『聖パトリック寺院の葬儀に出席していられないほど具合が悪かった。後年、彼の机の中からエスター・ジョンソンのものと思われる一房の髪が、「一人の女の髪にすぎぬ」と書かれた紙に包まれて発見され』ている。『エスターの死後、スウィフトの人生は「死」に覆われる傾向をもつようになった』。一七三一年には、「スウィフト博士の死を悼む詩を書き、一七三九年には『自ら自分の死亡記事を出し』てさえいる。一七三二年、『彼のよき友人にして協力者ジョン・ゲイが死去し』、二年後の一七三五年にはロンドン時代からの今一人の友ジョン・アルバスノットも死去してしまう。そうした中、一七三八年には『スウィフトに病気の徴候が顕れ』始め、一七四二年には『病気の発作を患い、会話する能力を失うとともに精神障害になるという最大の恐怖が』彼を襲った(ここに本章に出る内容が括弧書きで『(「私はあの樹に似ている」と彼はかつて言った。「頭から先に参るのだ」)』と引用挿入されている)。『この偉大な男を餌食にしようとし始めた恥知らずな取巻きから彼を守るため、彼の最も親しい仲間たちは彼に「不安定な精神と記憶力」と宣言させた』。一七四五年十月十九日、『スウィフトは死去した。彼は希望に従ってエスター・ジョンソンの傍に葬られた。彼の財産は大半が精神病院の創設資金に残された』とある。ウィキには記載がないが、彼の罹患していた疾患は実は梅毒性の神経障害であった。その罹患はダブリン大学トリニティ・カレッジ(Trinity College, University of Dublin)在学時代に買った売春婦からうつされたものであったが、スゥイフトは自分が梅毒に罹患していることを知っており、それが進行して発狂するのではないかということを非常に恐れていたことは事実である。これは芥川龍之介が母の精神病が自分に遺伝していて、自分もいつか発狂するのではないかと恐怖していたことと、ある意味、ごく相似的である点には着目しなければならぬ(また同じく龍之介には売春婦から梅毒をうつされたのではないかという恐怖が実際にあったこともほぼ確実であり、その点でも「相似」どころか「相同」でさえあると私は思う)。しかしここでどうして言っておかなくてはならないのは、一般に現在でもそう思われ(筑摩前主類聚版脚注も『政治問題にも関心を持ったが志を得ず、不満と絶望のうちに晩年発狂』とし、岩波新全集の山田俊治氏注も『狂死』、新潮文庫の神田由美子由氏も『恋人の死後、絶望のうちに発狂』とある)、龍之介も「發狂」と明記しているのであるが、実際には彼には最後まで「発狂」と表わすような顕在的な精神障害は全く起こっていないというのが、現在の最新の見解であるのでごくごく注意されたい小島弘一論文ジョナサン・スウィフト、悪疾と諷刺(PDF)に非常に詳しい。必読!(但し、スゥイフトの梅毒による発狂恐怖の念慮が心因性精神疾患を惹起させた可能性は十分にあると私は思う。なお、因みに私は『ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)』を現在、進行中である)。

・『スウイフトは發狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に參るのだ」と呟いたことがある』芥川龍之介は或阿呆の一生でもこの逸話を再度、採り上げている(リンク先は私の古いテクスト)。

   *

 

       四十六 譃

 

 彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の將來は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の惡德や弱點は一つ殘らず彼にはわかつてゐた。)不相變いろいろの本を讀みつづけた。しかしルツソオの懺悔錄さへ英雄的な譃に充ち滿ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な僞善者に出會つたことはなかつた。が、フランソア・ヴィヨンだけは彼の心にしみ透つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡(をす)」を發見した。

 絞罪を待つてゐるヴィヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴィヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉體的エネルギイはかう云ふことを許す譯はなかつた。彼はだんだん衰へて行つた。丁度昔スウイフトの見た、木末(こずゑ)から枯れて來る立ち木のやうに。………

 

   *

ここでは遙かに龍之介とスゥイフトがはっきりとオーバー・ラップされているのが見てとれる。しかし乍ら、実はこのエピソード引用元を明記している記載を今のところ私は現認出来ていない。識者の御教授を乞うものである。なお、私はこの話を読むと、反射的にフラッシュ・バックするシーンがある。またしても漱石の「こゝろ」である。現行の「下 先生と遺書」の中の最大のクライマックス、「先生」がKの心に「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」と匕首を突き立てた直後の章、悟?シークエンである(リンク先は私の初出復元版の当該章)。少し前から引く(下線太字はやぶちゃん)。

   *

 「もう其話は止めやう」と彼が云ひました。彼の眼にも彼の言葉にも變に悲痛な所がありました。私は一寸挨拶が出來なかつたのです。するとKは、「止めて呉れ」と今度は賴むやうに云ひ直しました。私は其時彼に向つて殘酷な答を與へたのです。狼が隙を見て羊の咽喉笛へ食ひ付くやうに。

 「止めて呉れつて、僕が云ひ出した事ぢやない、もともと君の方から持ち出した話ぢやないか。然し君が止めたければ、止めても可いが、たゞ口の先で止めたつて仕方があるまい。君の心でそれを止める丈の覺悟がなければ。一體君は君の平生の主張を何うする積なのか」

 私が斯う云つた時、脊の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるやうな感じがしました。彼はいつも話す通り頗る強情な男でしたけれども、一方では又人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される塲合には、決して平氣でゐられない質だつたのです。私は彼の樣子を見て漸やく安心しました。すると彼は卒然「覺悟?」と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に「覺悟、覺悟ならない事もない」と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。

 二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味を失つた杉の木立の茶褐色が、薄黑い空の中に、梢を並べて聳えてゐるのを振り返つて見た時は、寒さが脊中へ嚙り付いたやうな心持がしました。我々は夕暮の本郷臺を急ぎ足でどしどし通り拔けて、又向ふの岡へ上るべく小石川の谷へ下りたのです。私は其頃になつて、漸やく外套の下に體の温か味を感じ出した位です。

   *

ここで振り返った――人でなしの醜悪な「先生」が見る――「霜に打たれて蒼味を失つた杉の木立の茶褐色が、薄黑い空の中に、梢を並べて聳えてゐる」のを見た「先生」の視線はスゥイフトや龍之介の視線と全く相同であると私は思うのである。因みに、龍之介の師でもあった当の漱石が激賞したのもスウィフトであった。

・「わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる」私も年を重ねてくると(本年満五十九)、流石に偏愛し続けている芥川龍之介でも、こうした言い回しは要らぬ「厭味」として、不快に響くようになってしまうものであることを今日、気がついた。]

2016/05/23

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 暴力

 

       暴力

 

 人生は常に複雜である。複雜なる人生を簡單にするものは暴力より外にある筈はない。この故に往往石器時代の腦髓しか持たぬ文明人は論爭より殺人を愛するのである。

 しかし亦權力も畢竟はパテントを得た暴力である。我我人間を支配する爲にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかも知れない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年一月号『文藝春秋』巻頭に前の「地上樂園」及び次の『「人間らしさ」』の三章で初出する。

 

・「複雜なる人生を簡單にするものは暴力より外にある筈はない」とすれば、繊毛や触手のように脳底にうじゃうじゃとひろごり、絡まった「複雜なる人生を簡單に」したいと思う「もの」は「暴力」を行使する「より外に」そこから逃れる術(すべ)の「ある筈はない」ということになる。この私のブログを読まれているあなた方はどうだか知らないが、私は「暴力」という単語を見ると必ずある小説の一節を思い出すのである。もう、お分かりであろう、夏目漱石の「こゝろ」である。「上 先生と私」で、学生の父が倒れ、学生の「私」が先生から金を借りて帰郷し、父小康を得た後、帰京「先生」のもとに返金と御礼に参ったシークエンスに出る。部分を引く(リンク先は私の初出復元版の当該章)。

   *

 「然し人間は健康にしろ病氣にしろ、どつちにしても脆いものですね。いつ何んな事で何んな死にやうをしないとも限らないから」

 「先生もそんな事を考へて御出ですか」

 「いくら丈夫の私でも、滿更考へない事もありません」

 先生の口元には微笑の影が見えた。

 「よくころりと死ぬ人があるぢやありませんか。自然に。それからあつと思ふ間(ま)に死ぬ人もあるでせう。不自然な暴力で」

 「不自然な暴力つて何ですか」

 「何だかそれは私にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使ふんでせう」

 「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力の御蔭ですね」

 「殺される方はちつとも考へてゐなかつた。成程左右いへば左右だ」

 其日はそれで歸つた。歸つてからも父の病氣の事はそれ程苦にならなかつた。先生のいつた自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいふ言葉も、其場限りの淺い印象を與へた丈で、後は何等のこだわりを私の頭に殘さなかつた。

   *

私は個人的にこのシーンは、謎の多い「こゝろ」の中でも超弩級に謎めいた箇所と思っている。私は「こゝろ」の多くの謎解きを自分なりにして来たが、これは殆んどお手上げに近い。それだけに脳裏にこびりついて離れない。或いは――芥川龍之介にとっても「こゝろ」のこの場面と台詞、いやさ、「暴力」という語は謎であったのではあるまいか?……といったことを私は今日只今、この注を記しながら、ふと、考えたのである。

・「往往」「わうわう(おうおう)」副詞。そうなる、そうなってしまう場合が多いさま。ある事柄や状態がよく在り、またよく起こるさま。好ましくない事態に対して用いることが多い。

・「石器時代の腦髓しか持たぬ文明人」ここで龍之介の言う「石器時代」とは、旧石器時代前期まで遡る謂いであろう。そうとらないと文意を把握出来ないからである。旧石器時代前期とは二四〇万年前から一四〇万年前まで存在していた原人ホモ・ハビリス(脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱サル亜綱正獣下綱霊長(サル)目真猿(サル)亜目狭鼻(サル)下目ヒト上科ヒト科ヒト属ホモ・ハビリス Homo habilis:「器用な人」の意)や同時期に存在していた原人ホモ・エレクトス(ヒト属ホモ・エレクトス Homo erectus:「直立する人」の意)の時代である。その原始人「の腦髓しか持たぬ文明人」という謂いはまっこと、面白い。即ち、そこまで遡ってしかも「文明人」の中に偏在的に潜在する原型とは何かというならば、善悪の観念を持たない弱肉強食性しかないからである。これを剥片石器が出現した中期旧石器時代――(ネアンデルタール人(ヒト属ホモ・ネアンデルターレンシス Homo neanderthalensis:種小名はドイツのデュッセルドルフ近郊のネアンデルタール(ドイツ語:Neanderthal:ネアンデル谷)の石灰岩洞穴で初めて発見されたことに由来)が広がるとともに極東アジアでは当該域に限定された北京原人(ヒト属ホモ・エレクトス・ペキネンシスHomo erectus pekinensis)などの原人類から進化した古代型新人が誕生、繁栄した時代)――や、石器が急速に高度化多様化した後期旧石器時代――(クロマニヨン人(現生人類と同じヒト属ヒト Homo sapiens:「クロマニヨン人」という通称は発見された南フランスのクロマニョン(Cro-Magnon)洞窟に因む)が主流となって他の化石人類が急速に姿を消した時代)――まで広げてとしてしまうと、ややこしくなる。ネアンデルタール人には死者を悼む埋葬習慣(屈葬。弔花を添えていたとする説もある)生じており、クロマニヨン人は御存じの通り、洞窟壁画や彫刻が残されており、死者は丁重に埋葬し、呪術をさえ行なった証拠もあって、既にして原型としては文明人と変わらぬ善悪の倫理観念が形成されていたと考えてよいからである。……さても。では「論爭より殺人を愛する」「石器時代の腦髓しか持たぬ文明人」とは――「世界正義」を振りかざしてどこにでも出向いては戦争をすることを好むどこかの野蛮な国、現に戦争を放棄すると明記した憲法を持ちながら、戦争をしたくてたまらないどこかの国の政治家どもを指すと考えて、よかろうよ。

・「パテント」patent。特許(権)・特許品・特許証。この場合は、合法的に暴力を行使することを独占的に使用することを許可された権利という皮肉である。しかしそれを許可するのは形式上、国民の総意であるケースもある訳である。

・「我我人間を支配する爲にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかも知れない」この逆説は逆説ではない。そもそも「複雜なる人生を簡單にするものは暴力より外にある筈はない」以上、大方の世界国家の首長たる「石器時代の腦髓しか持たぬ文明人は論爭より殺人を愛するのである」からして、「人間を支配する」という願望を実は彼らは持たない、のである。されば彼らの、否、ヒトという生物種の行き着く果ては、遂には自分をも含めた「殺人」行為、ヒト種を殲滅するホロコースト(英語:holocaust:大虐殺・大破壊・全滅)、ポグロム(ロシア語;погром:破滅・破壊)に至るということになる。されば「人間を支配する爲に」は「暴力」は最終的には「必要ではない」、無効であるということになるのである。驚くべき数の死神のマサカリたる核兵器と、不全で危険極まりない業火としての原子力発電所が地球上に数多ある今、私の謂いはこれ、凡愚の妄想や空論では、なくなっているのである――

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 地上樂園

 

       地上樂園

 

 地上樂園の光景は屢詩歌にもうたはれてゐる。が、わたしはまだ殘念ながら、さう云ふ詩人の地上樂園に住みたいと思つた覺えはない。基督教徒の地上樂園は畢竟退屈なるパノラマである。黃老の學者の地上樂園もつまりは索漠とした支那料理屋に過ぎない。況んや近代のユウトピアなどは――ウイルヤム・ジエエムスの戰慄したことは何びとの記憶にも殘つてゐるであらう。

 わたしの夢みてゐる地上樂園はさう云ふ天然の温室ではない。同時に又さう云ふ學校を兼ねた食糧や衣服の配給所でもない。唯此處に住んでゐれば、兩親は子供の成人と共に必ず息を引取るのである。それから男女の兄弟はたとひ惡人に生まれるにもしろ、莫迦には決して生まれない結果、少しも迷惑をかけ合はないのである。それから女は妻となるや否や、家畜の魂を宿す爲に從順そのものに變るのである。それから子供は男女を問はず、兩親の意志や感情通りに、一日のうちに何囘でも聾と啞と腰ぬけと盲目とになることが出來るのである。それから甲の友人は乙の友人よりも貧乏にならず、同時に又乙の友人は甲の友人よりも金持ちにならず、互ひに相手を褒め合ふことに無上の滿足を感ずるのである。それから――ざつとかう云ふ處を思へば好い。

 これは何もわたし一人の地上樂園たるばかりではない。同時に又天下に充滿した善男善女の地上樂園である。唯古來の詩人や學者はその金色の瞑想の中にかう云ふ光景を夢みなかつた。夢みなかつたのは別に不思議ではない。かう云ふ光景は夢みるにさへ、餘りに眞實の幸福に溢れすぎてゐるからである。

 附記 わたしの甥はレムブラントの肖像畫を買ふことを夢みてゐる。しかし彼の小遣ひを十圓貰ふことは夢みてゐない。これも十圓の小遣ひは餘りに眞實の幸福に溢れすぎてゐるからである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年一月号『文藝春秋』巻頭に次の「暴力」『「人間らしさ」』の三章で初出する。標題の「地上樂園」は通常の一般認識では後に挙げる「基督教徒の地上樂園」、即ち、キリスト教に於いて「旧約聖書」の「創世記」に登場する、東方に存在するとされた、神が存在する地上の楽園「エデンの園」、「パラダイス」(ラテン語:paradisus)を指すが、どうも芥川龍之介がかく言う時に彼の念頭にあったものの大きな一つは、やはり後に「詩歌にもうたはれてゐる」とあるように、彼の卒業論文の対象であったイギリスの詩人でマルクス主義者でもあったウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)の、全三巻四万二千行にも及ぶ長編詩「地上楽園」(The Earthly Paradise (1868-1870))ではなかろうかと私は思う(芥川龍之介の卒論は「ウイリアム・モリス研究」であるが、まさにこの関東大震災で草稿も含めて焼失し、現存せず、それを読むことは出来ない)。平凡社「世界大百科事典」の小池滋氏の同作の解説によれば、美と平和と不死に恵まれた「地上楽園」の存在は中世以来、ヨーロッパで広く信じられており、古文献・地図にも実在するかのように記されてある。モリスの詩は、この伝説に基づいて、スカンジナビアの民が西の海の遠い彼方に、この楽園を求めて放浪の旅を続け、ギリシア古代文明が未だに残る都市を発見するという、中世への憧れとユートピア志向を示す作品である。但し、諸注は全くこれを挙げていない。それは龍之介が初段の最後に「況んや近代のユウトピアなど」と恰も軽蔑の最たるものの如くに掲げているものに含まれるからではあろう。しかし、私はやはり、ここにはモリスのそれを注として示す義務が、芥川龍之介の研究者なら、ある、と考えるものである。

 

・「屢」「しばしば」。

・「パノラマ」(panorama)は、この場合、遠景を曲面に描いて、その前に立体的な模型を配置して実景を見るかのように細工した、戦闘や物語の場面などを再現した見世物の覗き仕掛けの謂いである。

・「黃老の學者の地上樂園」「黃老」は「こうらう(こうろう)」で、中国の神話伝説上五帝の最初とされる理想的神仙皇帝である黄帝と、道家思想の祖とされる老子のことで、ここは「荘子(そうじ)」内篇の「逍遙遊篇」や「応帝王篇」に出る、道家(老荘思想)の「無何有郷」(むかいうきやう(むかうきょう)、無為自然(自然のあるがままの、愚かな人為のない、何ものもなく広々とした永久不変の)理想郷のことを指す。

・「ユウトピア」ユートピア(ラテン語に基づく英語:Utopia)はイギリスの法律家・思想家であったトマス・モア(Thomas More 一四七八年~一五三五年)が一五一六年に刊行した(ラテン語で書かれている)、政治・社会を風刺した書「ユートピア」(正式な書名は Libellus vere aureus, nec minus salutaris quam festivus, de optimo rei publicae statu deque nova insula Utopia で、ウィキの「ユートピア(本)」によればこれを翻訳するなら、「楽しいのと同様に有益な、共和国の最高の州の、そして新しい島ユートピアの、真実の金の小さな本」となるとあり、「ユートピア」(ラテン語: Ūtopiā )の語はギリシア語の「非 ou 」と「場所 topos 」、地名学によく見られる接尾辞「 -iā 」から成り、「 Outopía 」とは「どこでもない場所」(nowhere)という意味であると記す)に登場する架空の国家の名前である。ウィキの「ユートピア」によれば、『現実には決して存在しない理想的な社会として描かれ、その意図は現実の社会と対峙させることによって、現実への批判をおこなうことであ』り、しかもそこに描かれる国は『現代人が素朴に「理想郷」としてイメージするユートピアとは違い』、『非人間的な管理社会の色彩が強く、決して自由主義的・牧歌的な理想郷(アルカディア)ではない』とある。

・「ウイルヤム・ジエエムスの戰慄したこと」ウィリアム・ジェームズ(William James 一八四二年~一九一〇年)はアメリカの哲学者・心理学者でヘーゲルやスペンサーの主知主義・合理主義に反対し、機能心理学を提唱、プラグマティスト(実用主義哲学者)の代表者として知られる。その「意識の流れ」の理論はジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」など、多くの近現代文学に影響を与えた。彼の実弟は私の偏愛する怪奇仕立ての心理小説「ねじの回転」(The Turn of the Screw)を書いた小説家ヘンリー・ジェームズ(Henry James 一八四三年~一九一六年)である。但し、私はこの龍之介の言う彼が「戰慄したこと」、その「戰慄」を、この文章を読む大多数の一般大衆の「何びとの記憶にも殘つてゐる」というのが、これ、何に基づく謂いなのか、不学にして知らない。諸注もその私の疑問を溶かしてはくれぬ。せいぜい新潮文庫の神田由美子氏がその注で、『芥川は「真理の意味」「多元的宇宙」の二著を所蔵していた』とするのがヒントになるか。しかし今からその二篇を読む気力は、正直、ない。さればこそ、識者の御教授を乞うものではある。

・「兩親は子供の成人と共に必ず息を引取る」生物学的な生殖と繁栄の観点、及び、生存個体自体に過剰な負荷がかからぬ意味に於いて、これは正しく理想的であると私は断言出来る。「生物学的」にというだけの話である。

・「男女の兄弟はたとひ惡人に生まれるにもしろ、莫迦には決して生まれない結果、少しも迷惑をかけ合はない」私が馬鹿なのか、ここは意味が十全には私にはとれない。その世界を構成する全個体が知的に愚鈍ではないのはいいとしても、その中の幾たりかが悪人である状況下にあっては、「少しも」兄弟姉妹さらには他者に対して全く「迷惑をかけ合はない」という状態には到底ならない。私の認識に誤りあるとすれば、是非、御指摘頂きたい。

・「女は妻となるや否や、家畜の魂を宿す爲に從順そのものに變」り、同様に「子供は男女を問はず、兩親の意志や感情通りに、一日のうちに何囘でも聾と啞と腰ぬけと盲目とになることが出來る」これは家族に、かのロボトミー手術(前頭葉切裁術)を処理を施すのと同じである。それは科学的に可能である。「可能である」だけである。

・「甲の友人は乙の友人よりも貧乏にならず、同時に又乙の友人は甲の友人よりも金持ちにならず、互ひに相手を褒め合ふことに無上の滿足を感ずる」幻想の社会主義・人民主義・共産主義の妄想的理想としてはよく分かる。「分かる」だけである。

・「わたしの甥」小説家で文芸評論家の葛巻義敏(くずまきよしとし 明治四二(一九〇九)年~昭和六〇(一九八五)年)。彼は龍之介の次姉ヒサと獣医葛巻義定の長男(但し、明治四三(一九一〇)年に両親が離婚したため、東京市芝区銭座町(現在の東京都港区浜松町)の新原家(母の実家)で育てられ、ヒサはその後、弁護士西川豊と再婚するが、彼は偽証教唆で失権、昭和二(一九二七)一月には自宅の火事が彼の保険金目当ての放火と疑われ、その取調中に失踪、千葉で鉄道自殺を遂げた。その後処理のために龍之介は奔走、疲弊した。なお、その後にヒサは葛巻義定から復縁の話が持ち上がって西川との間に出来た子(一男一女)を連れて葛巻家へ戻っている。因みに、この連れ子の娘瑠璃子が後に芥川の長男比呂志の妻となった)。龍之介より十七歳年下であるから、この大正一三(一九二四)年一月当時は未だ満十三歳であった。彼は実はこの前年に東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)に入学したものの、武者小路実篤らの起した「新しき村」への参加を望んで家出をし、叔父である龍之介は武者小路と相談した上、田端の芥川家で龍之介の書生として働くことにして、丁度、この一月頃に義敏を自宅に引きとって養育を始めているのである(同附属中学校はこの年中に中退している)。彼は、龍之介関連資料の研究と称して龍之介の遺品類を独占した形になったため、龍之介が自分の子らに死後は父と思えと言うほどに信頼した盟友の画家小穴隆一から『芥川家に巣食う奇怪な家ダニ』(小穴隆一「二つの絵」昭和三一(一九五六)年中央公論社)などと痛罵されるなど、大方の龍之介研究者らからの評価も非常によろしくないが、龍之介は非常に可愛がった。文学の天才を叔父に持ってしまった凡庸な(失礼!)文学青年の悲哀は何となく分かるような気もしないでもないとは言える。「言える」だけである。

・「十圓」今の金額に換算すると凡そ一万円から五万円相当、中をとって三万円ほどか。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或自警團員の言葉

 

       或自警團員の言葉

 

 さあ、自警の部署に就かう。今夜は星も木木の梢に涼しい光を放つてゐる。微風もそろそろ通ひ出したらしい。さあ、この籐の長椅子に寢ころび、この一本のマニラに火をつけ、夜もすがら氣樂に警戒しよう。もし喉の渇いた時には水筒のウイスキイを傾ければ好い。幸ひまだポケツトにはチヨコレエトの棒も殘つてゐる。

 聽き給へ、高い木木の梢に何か寢鳥の騷いでゐるのを。鳥は今度の大地震にも困ると云ふことを知らないであらう。しかし我我人間は衣食住の便宜を失つた爲にあらゆる苦痛を味はつてゐる。いや、衣食住どころではない。一杯のシトロンの飮めぬ爲にも少からぬ不自由を忍んでゐる。人間と云ふ二足の獸は何と云ふ情けない動物であらう。我我は文明を失つたが最後、それこそ風前の燈火のやうに覺束ない命を守らなければならぬ。見給へ。鳥はもう靜かに寐入つてゐる。羽根蒲團や枕を知らぬ鳥は!

 鳥はもう靜かに寢入つてゐる。夢も我我より安らかであらう。鳥は現在にのみ生きるものである。しかし我我人間は過去や未來にも生きなければならぬ。と云ふ意味は悔恨や憂慮の苦痛をも甞めなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未來の上へ寂しい暗黑を投げかけたであらう。東京を燒かれた我我は今日の餓に苦しみ乍ら、明日の餓にも苦しんでゐる。鳥は幸ひにこの苦痛を知らぬ、いや、鳥に限つたことではない。三世の苦痛を知るものは我我人間のあるばかりである。

 小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云つたさうである。蝶――と云へばあの蟻を見給へ。もし幸福と云ふことを苦痛の少ないことのみとすれば、蟻も亦我我よりは幸福であらう。けれども我我人間は蟻の知らぬ快樂をも心得てゐる。蟻は破産や失戀の爲に自殺をする患はないかも知れぬ。が、我我と同じやうに樂しい希望を持ち得るであらうか? 僕は未だに覺えてゐる。月明りの仄めいた洛陽の廢都に、李太白の詩の一行さへ知らぬ無數の蟻の群を憐んだことを!

 しかしシヨオペンハウエルは、――まあ、哲學はやめにし給へ。我我は兎に角あそこへ來た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めてゐる。我我は互に憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手輕である。

 我我は互に憐まなければならぬ。シヨオペンハウエルの厭世觀の我我に與へた教訓もかう云ふことではなかつたであらうか?

 夜はもう十二時を過ぎたらしい。星も相不變頭の上に凉しい光を放つてゐる。さあ、君はウイスキイを傾け給へ。僕は長椅子に寐ころんだままチヨコレエトの棒でも囓ることにしよう。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年十一月号『文藝春秋』巻頭に初出するが、単行本「侏儒の言葉」には不載。内容と発表誌の年と月から分かる通り、ここに描かれるのはこの二ヶ月前の九月一日十一時五十八分に発生した関東大震災後のシチュエーションである。震災の惨禍の記憶の新しい中で、この一章は被災した一般読者にはおよそ受け入れ難い内容と私は読む。さればこそ相応の批難もあったものかも知れぬ。私が被災した芥川龍之介好きの一東京市民であったとしても、一読、何か文句を吐きそうな気がする。……「マニラ」に「ウイスキイ」に「チヨコレエト」だあ?!……「氣樂に警戒し」ているというお前らこそ、そうした高級品を火事場泥棒してはシコタマ抱え込んだ盗品を隠し守っている「自警團」じゃあねぇのか?! と指弾したくなるのである。さればこそ単行本でカットされたのも、何となく分かる気がするのであるが、如何? 但し、このデカダンな自警団にはアイロニックな作者自身の視線が感じられ、それは当時の自警団となった集団の一部(但し、驚くほど多い)による主に朝鮮人に対する集団暴行殺人(後述)を、荒廃した夜の帝都東京の瓦礫の彼方に炙り出そうとする意図が龍之介にはあったようにも思うものではある(しかしそれは御世辞にも成功してはいない)。

 なお、底本後記によると、岩波普及版全集では「蟻」を総て「蛾」とするとある。この「蛾」はただの誤植とも当初思ったのだが……考えてみると、「蝶」に対する「蛾」である。……「月明りの仄めいた洛陽の廢都に」いる「無數の」「群」である。……「あそこへ來た」と示す生物である。……これはもう、「蟻」よりも「蛾」の方が、実は自然ではあるまいか? 如何?

 

・「自警團」本来は大災害や突発的な戦争勃発等の状況下、居住地域の人間の権利侵害が強く想定される場面などに於いて、正規の司法手続に依らずに自らの実力行使をもって自己並びに共同体の安全と権利を維持確保するために結成される組織される私設の警察的軍隊的組織集団・民兵及びそれに類似する防犯組織集団を指すが、関東大震災では、当時の日本帝国の軍と警察の主導によって関東地方に自警団が組織されており(後の引用を参照)、ここはその一つを指す。ウィキの「関東大震災」の「地震の混乱で発生した事件」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線やぶちゃん)、『九月二日午後十一時、下江戸川橋を破壊中の朝鮮人を警備中の騎兵が射殺。九月二日午後十一時、南葛飾郡でこん棒などで武装した三十人の朝鮮人が砲兵第七連隊第一中隊長代理砲兵中尉高橋克己のオートバイを包囲したが』、『中尉は脱出に成功した』。『陸軍の中には、震災後の混乱に乗じて社会主義や自由主義の指導者を殺害しようとする動きがあり、大杉栄・伊藤野枝・大杉の六歳の甥橘宗一らが殺された事件(甘粕事件(大杉事件))、労働運動の指導者であった平澤計七など十三人が亀戸警察署で軍に銃殺され、平澤の首が切り落とされる事件(亀戸事件)が起きた』。『震災発生後、混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり、民衆、警察、軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した』。『これらに対して九月二日に発足した第二次山本内閣は、九月五日、民衆に対して、もし朝鮮人に不穏な動きがあるのなら軍隊及び警察が取り締まるので、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発し』ている(引用元の一部新字となっている漢字を正字化した)。

   *

内閣告諭第二號

今次ノ震災ニ乘シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ對シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 鮮人ノ所爲若シ不穩ニ亘ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其ノ處置ニ俟ツヘキモノナルニ 民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戾スルノミナラス又諸外國ニ報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ際會シタルニ基因スト認メラルルモ 刻下ノ非常時ニ當リ克ク平素ノ冷靜ヲ失ハス愼重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我國民ノ節制ト平和ノ精神トヲ發揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ

大正十二年九月五日 内閣總理大臣

   *

『この内閣告諭第二号と同日、官憲は臨時震災救護事務局警備部にて「鮮人問題ニ関スル協定」という極秘協定を結んだ。協定の内容は、官憲・新聞等に対しては一般の朝鮮人が平穏であると伝えること、朝鮮人による暴行・暴行未遂の事実を捜査して事実を肯定するよう努めること、国外に「赤化日本人及赤化鮮人が背後で暴動を煽動したる事実ありたることを宣伝」することである。こうして日本政府は国家責任回避のため、自警団・民衆に責任転嫁して行くことになり、また実際に朝鮮人がどこかで暴動を起こしたという事実がないか、必死に探し回った』。『一方で震災発生後、内務省警保局、警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出していた。具体的には、戒厳令を受けて警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した』。――『東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし』――『さらに警視庁からも戒厳司令部宛に』――『鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし』――及び「朝鮮人による火薬庫放火計画」なるものが伝えられているという。『また、メディア情報の中には、「内朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。こうした報道の数々が九月二日から九月六日にかけ、大阪朝日新聞、東京日日新聞、河北新聞で報じられており、大阪朝日新聞においては、九月三日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで、「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、三日夕刊(四日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり」と、警保局による打電内容を、三日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。また、相当数の民衆によってこれらの不確かな情報が伝播された』。『こうした情報の信憑性については、二日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始め、二日に届いた一報に関しては、第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、三日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼って回っている。五日になり、見解の統一を必要とされた官憲内部で、精査の上、戒厳司令部公表との通達において』――『不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう』――『と発表。「朝鮮人暴動」の存在を肯定するも流言が含まれる旨の発表が行われた。八日には、東京地方裁判所検事正南谷智悌が一部情報を流言と否定する見解を公表、併せて「(朝鮮人による)一部不平の徒があって幾多の犯罪を敢行したのは事実である」とし、中には婦人凌辱もあったと談話の中で語った。一部の流言については一九四四年(昭和十九年)に警視庁での講演において、正力松太郎も、当時の一部情報が「虚報」だったと発言している』。『警視総監・赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。これを受け、二日には、東京府下五郡に戒厳令を一部施行し、三日には東京府と神奈川県全域にまで広げた。また、戒厳令のほか、経済的には、非常徴発令、暴利取締法、臨時物資供給令、およびモラトリアムが施行された。最終的に政府は朝鮮人犯罪を一切報道しない報道規制をおこなうまでになった』(但し、この最後の箇所には要出典要請がかけられている)。『陸軍は戒厳令のもと騎兵を各地に派遣し軍隊の到着を人々に知らせたが、このことは人々に安心感を与えたつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植え付けたとも考えられる。また、戒厳令により警官の態度が高圧化したとの評価もある』。以下、「自警団による暴行」の項。軍・警察の主導で関東地方に四千もの自警団が組織され、集団暴行事件が発生した。そのため、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するためにシボレス』(英語: Shibboleth:ある社会集団の構成員と非構成員を見分けるための文化的指標を表す用語。例として言葉の発音や習慣風習の差異などを指す)『が用いられ、国歌を歌わせたり、朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている。また、福田村事件』(震災発生から五日後の九月六日に千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川沿いに於いて、香川県三豊(みとよ)郡(現在の観音寺市及び三豊市)の薬売の行商人十五名が、震災後の混乱の中で被差別部落出身ということで地元自警団に暴行され、九名が殺害された事件(妊婦や子供を含む九名或いは胎児を含めて十名とする説もある。ここはウィキの「福田村事件」に拠った)『のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、多くが殺された』。『横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等三百人の奪取を防ぐために、千人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとされている。また、軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府長官野間口兼雄の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」等のデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している現在の千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した。また、朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った』。『警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され』、『偶然いあわせた幼馴染の海軍士官に助けられたという逸話もある。当時早稲田大学在学中であった後の大阪市長中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」する程の暴行を受けたという。歴史学者の山田昭次は、残虐な暴行があったとしている』。『十月以降、暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の四つの罪名で起訴された日本人は三百六十二名に及んだ。しかし、「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった。福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった。自警団の解散が命じられるようになるのは十一月のことである』(本章の発表は『文藝春秋』十一月号である)。『殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で分かれており明確になっていない。内閣府中央防災会議は虐殺による死者は震災による犠牲者の一から数パーセントにあたるとする報告書を作成している。吉野作造の調査では二千六百十三人余、上海の大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長の金承学の調査での六千六百六十一人という数字があり、幅が見られる。犠牲者を多く見積もるものとしては、大韓民国外務部長官による一九五九年の外交文章内に「数十万の韓国人が大量虐殺された」との記述がある。内務省警保局調査(「大正十二年九月一日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡二百三十一人・重軽傷四十三名、中国人三人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人五十九名、重軽傷四十三名であった。朝鮮人殺害の具体例としては、九月五日から六日に掛けて発生した藤岡事件』(九月五日、群馬県藤岡市内の砂利会社で雇用されていた朝鮮人労働者十四名の身辺危機を感じた社長らが藤岡警察署に保護を求めたが、彼らが留置場で匿われていたことを聞きつけた地元自警団が警察署に殺到、制止する警察官を振り切って留置場に乱入、保護していた朝鮮人を引き摺り出して暴行を加え、虐殺に及び、翌六日、日野村の朝鮮人三名が藤岡警察署で保護されていることを聞きつけた自警団が再び警察署を襲撃、一人を殺害、逃亡した二人を町内で発見して殺害した事件。ここは徐裕行氏のブログの「関東大震災と朝鮮人虐殺事件に思う正義のありかた。」に拠った)『が挙げられる。群馬県藤岡市の藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら十七人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害されたことが、当時の死亡通知書・検視調書資料により確認できる。なお、立件されたケースの被害者数を合算すると二百三十三人となる』。『二〇一三年六月には、韓国の李承晩政権時代に作成された、被害者二百八十九人の名簿が発見され、翌年には目撃者や遺族の調査が開始された』とある。

・「マニラ」筑摩全集類聚版脚注に、『Manila 煙草の名。葉巻用として有名。香気高く、味が濃厚で東洋人向きと云われる』とある。

・「チヨコレエト」岩波新全集の山田俊治氏の注に、『日本では一九一八年、森永製菓がカカオ豆からの処理を一貫生産し、生産量、消費量ともに増加した』とある。一九一八年は大正九年、この震災の三年前のことである。

・「シトロン」新潮文庫の神田由美子氏に、『Citoron。清涼飲料水の商品名。サイダー』とある。

・「甞めなければ」「なめなければ」。

・「三世」「さん ぜ」と読む仏教用語。前世(ぜんせ)・現世げんせ)・来世(ごぜ)。

・「小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云つた」小泉八雲(一八五〇年六月二十七日~明治三七(一九〇四)年九月二十六日):出生名パトリック・ラフカディオ・ハーン Patrick Lafcadio Hearn)と蝶といえば、知られたものに「虫の研究」(Insect-Stidies)の「蝶」(Butteflies)がある(作品集「怪談」(Kwaidan:一九〇四年ロンドン/ボストン/ホウトン・ミフリン社刊)が、当該作にはこれに近似した感懐は述べられていない。岩波新全集の山田氏は注で、この『出典は不明。ただし、『骨董』(一九〇一年)所収の「餓鬼」では「蟬か蜻蛉の生涯にせめて生れ変りたい」とある』とあり、事実、「餓鬼」の末尾で小泉八雲は自身の感懐希望としてそう述べている(因みに、私は小泉八雲の電子化注も手がけている)。なお、龍之介は小泉八雲逝去時、未だ満十二才、江東(えひがし)尋常小学校(後の両国小学校)高等科三年であり、遂にハーンと対面することはなかった。八雲が長生きしていたら、きっと龍之介の良き師(漱石とは全く違った)となっていたに違いなく、八雲の作品ももっと違ったものに発展していたに違いなく、個人的にはとても残念な気がしている。

・「僕は未だに覺えてゐる。月明りの仄めいた洛陽の廢都に、李太白の詩の一行さへ知らぬ無數の蟻の群を憐んだことを!」龍之介はこの二年前、大阪毎日新聞社中国特派員として大正一〇(一九二一)年の六月七日頃から十日頃にかけて洛陽(現在の河南省洛陽市)に滞在している。

・「シヨオペンハウエル」「シヨオペンハウエルの厭世觀」この世は考えうる限りの最悪の世界であるとした厭世哲学(ペシミズム:pessimismのチャンピオンドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーArthur Schopenhauer 一七八八年~一八六〇年:音写は「ショーペンハウエル」などとも)の思想については、小学館「日本大百科全書」の佐藤和夫氏の解説から引く。彼にとっては『世界とは「わたしの表象」であり、現象にほかならない。つまり、主観である意志に対応する客観としてのみ、世界が存在する。時間・空間・因果関係においてある現象に対して、カントのたてた物自体とは実は意志そのものにほかならない。それは「生きんとする盲目的意志」であり、満たされない欲望を追求するがゆえに、生とは苦痛なのである。彼によれば、人類の歴史、時代の変転などの人間の多様な形態は、意志の適切な客体性であるイデアを読み取りうる限りで意味をもつのであって、それ自体においてはどうでもよいものである。このイデアを認識しうるのが芸術であり、なかでも音楽は、意志を直接にイデアという媒介なしに客観化するという点で卓越している。しかし、芸術による生の苦痛からの解脱(げだつ)は一時的なものでしかない。そこで生の苦痛から解脱するには、意志の否定によって無私の行為へと向かい、梵我一如(ぼんがいちにょ)の境地、涅槃(ねはん)の境地へ達するという倫理の次元こそが、真に求められるものである』とある。さて、私は龍之介の思想は無論、彼の厭世哲学の強い影響下にあったとは思う。しかし、龍之介はかの名作「河童」の中の降霊会の報告シークエンスで、自殺した厭世主義者の詩人「トツク」の霊に対して質問者が、あの世での『君の交友は自殺者のみなりや?』と問うと、トックは『必しも然りとせず。自殺を辯護せるモンテエニユの如きは予が畏友の一人なり。唯予は自殺せざりし厭世主義者、――シヨオペンハウエルの輩(はい)とは交際せず。唯予は自殺せざりし厭世主義者、――シヨオペンハウエルの輩(はい)とは交際せず。』と答えるというシーンを配していることに着目する。私も若き日には確かに彼の哲学に一瞬、惹かれたものではある。しかし、ショーペンハウエルは、その多くの若き弟子や追従者を次々と夭折の自死に追い込みながら、自身はヘーゲルの出現によって人気を奪われて、臍を曲げて隠棲、田舎に引っ込んで余生を暮らした事実を知るや、急速に熱が冷めたのを思い出す。なお、萩原朔太郎は「芥川龍之介の死」(リンク先は私の古い電子テキスト)の「9」の最後で、芥川のこんな吐露を書き記している。やや長いが総て引いてこの注の終りとする(傍点「ヽ」は下線に代えた)。

   *

 海に面した鵠沼の東家に、病臥中の芥川君を見舞つたのは、私が鎌倉に居る間のことだつた。ひどい神經衰弱と痔疾のために、骨と皮ばかりになつてる芥川君は、それでも快活に話をした。不思議に私は、その時の話を覺えてゐる。病人は床に起きあがつて、殆んど例外なしに悲慘である所の、多くの天才の末路について物語つた。「もし實に天才であるならば、かれの生涯は必ず悲慘だ。」といふ意味を、悲痛な話材によつて斷定した。それから彼は、一層悲痛な自分自身を打ちあけた。何事も、一切の係累を捨ててしまつて、遠く南米の天地に移住したいと語つた。

 さうした芥川君の談話は、異常に悽愴の氣を帶びてゐた。自分は彼の作品について、時にしばしば一種の鬼氣を――支那の言語で、丁度「鬼」といふ字が表象する所の悽愴感を――感じてゐた。實に私は、至る所にこの「鬼」の形相を見た。彼の容貌や風格に、そのユニイクな文字や書體に、そしてとりわけ作品や會話の中に。

 丁度、ひどい憂鬱の厭世觀に憑かれてゐた私は、談話のあらゆる本質點に於て彼と一致し、同氣あひ引く誼みを感じた。だが私は、彼の厭世觀の眞原因が、どこにあるかを判然と知り得なかつた。多分その絶望的な病氣と、それに原因する創作力の衰弱がとが、事情の主たるものであると思つた。且つ一つには、例の「人の心を見通す」聰明さから、彼一流の思ひやりで、たまたま私と合槌を打つてるのだとも考へた。實にこの一つの邪推は、彼に對する交際の第一日から、私の胸裏に根強く印象されたものであつた。彼はあらゆる聰明さで、あらゆる人と調子を合せて談話する。だがその客が歸つたあとでは、けろりとして皮肉の舌を出すだろう。そしていかに相手が馬鹿であり、愚劣な興奮に驅られたかを、小説家特有の冷酷さで客觀してゐる。

 この考へは、確かに不愉快なものであつた。だが私は、かつて伊香保で知己になつた谷崎潤一郎氏に對しても、やや同樣の邪推なしに居られなかつた。けだし私は、室生犀星以外のいかなる文壇人とも交際がなかつた上、特に小説家については全く未知の世界に屬してゐた。小説家は――あらゆる小説家は――私にとつて「星からの人類」だつた。彼等と交はることは、私にとつてちがつた宇宙への觀察だつた。自分たち詩人の仲間は、すべてが單純な情熱家であり、客觀的な觀照眼を殆んどもたない。詩人は常に醉つて居り、醉ひの主觀境地でのみ話をする。然るに小説家は、常に何事にも對しても客觀的で、冷靜な觀察眼をはなつてゐる。だから小説家と話をする時、自分等の倶樂部と全くちがふ、冷酷にまで氷結された空氣を感ずるのだ。そのちがつた空氣は、意地の惡い觀察の眼をもつて、じろじろと自分の醉態を眺めてゐる。そこに丁度、酒に醉つた者が、醉はない人々の中にゐて、意地惡く狂態を觀察されるやうな、一種不愉快な自覺が生ずる。

 芥川君に對する時、いつも自分はさうした不快さ――觀察されるものの不快さ――を、本能の微妙な隅に直感した。それからして自分は、時にしばしば彼を「意地惡き皮肉の人」とも考へた。けれどもこれは、小説家について全く知らない私が、一般の習性ともなつてる小説家的本能(觀察本能)を、たまたま初見の谷崎君や芥川君について邪解したものにすぎなかつたのだ。彼等は決して、そんな意地惡き觀察をしてゐるのでない。ただ態度が、職業的に習性となつてるその小説家的態度が、ある冷酷な――酒に醉はない――觀察本能を、我々ちがつた世界の人間に印象させるにすぎないのだ。

 話が餘事それたが、最後に、別れる時、前言の一切を取り消すやうな反語の調子で、彼は印象強く次の言葉を繰返した。

「だが自殺しない厭世論者の言ふことなんか、皆ウソにきまつてゐるよ。」

 それから笑つて言つた。

「君も僕も、どうせニセモノの厭世論者さ。」

   *]

2016/05/22

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 人生(三章)

 

       人生

        ――石黑定一君に――

 

 もし游泳を學ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思ふであらう。もし又ランニングを學ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不盡だと思はざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、かう云ふ莫迦げた命令を負はされてゐるのも同じことである。

 我我は母の胎内にゐた時、人生に處する道を學んだであらうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を學ばないものは滿足に泳げる理窟はない。同樣にランニングを學ばないものは大抵人後に落ちさうである。すると我我も創痍を負はずに人生の競技場を出られる筈はない。

 成程世人は云ふかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覺えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く水を飮んでをり、その又ランナアは一人殘らず競技場の土にまみれてゐる。見給へ、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに澁面を隱してゐるではないか?

 人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大會に似たものである。我我は人生と鬪ひながら、人生と鬪ふことを學ばねばならぬ。かう云ふゲエムの莫迦々々しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと埒外に步み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思ふものは創痍を恐れずに鬪はなければならぬ。

 

       又

 

 人生は一箱のマツチに似てゐる。重大に扱ふのは莫迦々々しい。重大に扱はなければ危險である。

 

       又

 

 人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年八月号『文藝春秋』巻頭に前の「告白」とこの三篇の「人生」の計四章で初出する。

 但し、底本の後記よれば、単行本化の際、初出の末尾にあった全六文に及ぶ長い段落が丸ごとカットされている。その省略部を以下に前の段落全部に繋げる形で復元しておく。

   *

 人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大會に似たものである。我我は人生と鬪ひながら、人生と鬪ふことを學ばねばならぬ。かう云ふゲエムの莫迦々々しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと埒外に步み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思ふものは創痍を恐れずに鬪はなければならぬ。

 四つん這ひになつたランナアは滑稽であると共に悲慘である。水を呑んだ游泳者も涙と笑とを催させるであらう。我々は彼等と同じやうに、人生の悲喜劇を演ずるものである。創痍を蒙るのはやむを得ない。が、その創痍に堪へる爲には、――世人は何と云ふかも知れない。わたしは常に同情と詩語とを持ちたいと思つてゐる。

   *

カット・パートの前半分は確かにやや第三段落とダブるイメージがあり、最後の謂いも、「同情と詩語」という癒しがあるとするのでは、「人生」苛烈な「創痍」が、どうも、湯治に浸かっているような気になってよろしくない。カットは必然であった気はする。しかしながら、「我々は彼等と同じやうに、人生の悲喜劇を演ずるものである。創痍を蒙るのはやむを得ない。が、その創痍に堪へる爲には、――世人は何と云ふかも知れない。わたしは常に同情と詩語とを持ちたいと思つてゐる」という告解こそ、実は侏儒たる龍之介の本音でもあったことにも、我々は気づかねばなるまい

 副題の「石黑定一」(明治二九(一八九六)年~昭和六一(一九八六)年)というのは、岩波新全集に附録する「人名解説索引」(関口安義・宮坂覺(さとる)両氏編著)によれば、芥川がこの二年前の大正一〇(一九二一)年の『中国特派旅行中に知り合った友人』で、東京高等商業学校(現在の一橋大学の前身)卒で、当時は三菱銀行上海支店に勤務しており、後に『同行名古屋支店長をつとめた』とある。例えば、私は「上海游記 五 病院」に登場する謎の「石黑政吉」という人物はこの石黒定一ではないかと秘かに疑っている(リンク先は私のブログ版「上海游記」の当該章。詳細はその私の注を参照されたい。なお、「上海游記 附やぶちゃん注釈」(全)のHTML版はこちら)。読者の中には、本章の真の読解のためにはこの献ぜられた相手である石黒定一なる人物を明らかにする必要があるとお考えになる方が多くおられるのではないかと思っている。実際、私も高校時代に初めて読んだ時に、この名前が頭に刻まれて仕方がなくて、いろいろ考えた。例えば、この石黒なる人物は実は、オリンピックで期待された水泳か陸上の選手なのではないか? ここに開陳される如何にもな神経症的「人生」観を体現する数奇な運命を辿っている芥川龍之介の秘密の友人なのではないか? 等々である。ところが、どうもそういう意味深長な背景は、ない、ようなのである。少なくとも、この長めの「人生」(及び後の二つの「又」も合わせてそうとは読める)を献呈した理由は、以下の当の石黒定一宛のこの年の末の龍之介書簡(大正一二(一九二三)年十二月十五日田端発信・旧全集書簡番号一一五二)を読む限りでは、隠された秘密の暗号はないように(或いは石黒には分かる特別な仕掛けはあるのかも知れないが、現時点ではそれを明らかにしている研究者はいないと思われる)感ぜられるのである(底本は旧全集に拠ったが、踊り字は正字化した。下線はやぶちゃん)。

   * 

冠省御手紙ならびに奈良漬難有く落掌いたしました君の前に上海から東京へ來られた時日本橋の何處かの宿屋から僕へ手紙を頂いたことがあるでせうあの時僕は病の爲湯河原へ行つてゐたのです湯河原で君の手紙を(附箋のついた)受取つた時はもう君の東京にゐない時分だつたのですが念の爲宿へ長距離電話をかけて見ましたさうしたら昨日お立ちになつたとか云ふ事でしたその次第を手紙に書かうと思つてゐるうちに無精の爲、とうとうお流れになつたのですすると春服の出た時君に手紙を頂いたので、今度こそはと思つたのですがやつぱり天性の疎懶に負けてしまつたので、おわび代りに侏儒の言葉の一章を君に獻ずる事にしましたかう云ふ具合にこの手紙を書く迄には何度も書かう書かうと思つたのですがいつも思ひ思ひ書かずにしまふのですどうか失禮は不惡御高免下さい實はこの手紙ももつと早く差上ぐべきものですが新年號の〆切りや何か控へてゐた爲、又だらだらとのびてしまつたのです僕は明朝京都へ行き一週間ばかり遊んで來るつもりです 以上

     十五日   芥川龍之介

   石黑定一樣

   *

書簡中の「とうとう」はママ。「あの時僕は病の爲湯河原へ行つてゐた」龍之介は湯河原へは、中国から帰国(七月)した年の大正一〇(一九二一)年十月と、この大正一二(一九二三)年の三月から四月にかけて静養のために出かけているが、ここは後者か。「春服」は大正一二年五月十八日に春陽堂から刊行した第六作品集の書名。「疎懶」は「そらん」と読み、無精なこと・なまけることの謂い。以上は、老婆心乍ら、今の「侏儒の言葉」を愛読する若者たちが、若き日に私がとらわれた莫迦げた疑念の轍を踏まぬように、敢えて注しておくこととする。

 

・「創痍」「さうい(そうい)」「創」も「痍」も傷の意で、元来は刃物などによって体に受けた傷、創傷を指すが、転じて精神的な痛手の謂いとしてもよく用いられる。

を負はずに人生の競技場を出られる筈はない。

・「澁面」「じふめん」或いは「じぶづら」であるが、私は後者で訓じたい(筑摩全集類聚版は前者でルビを振る)。言わずもがなであるが、意味は、不愉快そうな苦々しい顔つき。しかめっ面。

・「埒外」通常の辞書では読みは「らちがい」であるが、私などは「らつがい」と読みたくなる(夏目漱石の作品ではしばしば「らつがい」とルビされる)。ある物事や対象の範囲外の意。

・「便法」「べんぱふ(べんぽう)」あることを成すのに手っ取り早い簡単容易に出来る方法。こんな短文にも龍之介の鋭いアイロニーはジャック・ナイフのようにキラりと光る。

・「人生は一箱のマツチに似てゐる。重大に扱ふのは莫迦々々しい。重大に扱はなければ危險である。」「侏儒の言葉」といえば、私は後の「わたし」、

 

 わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神經ばかりである。

 

の次に、この一章を直ちに想起するものである。龍之介の修辞の絶妙なることは、「重大に扱ふのは莫迦々々しい。」と「重大に扱はなければ危險である。」の二文の間に次のアフォリズムのような「しかし」という逆説の接続詞を配さない上手さにある。我々凡夫は必ずや、ここに流れの説明を示す語や表現を入れ込みたくなり、そうして文章の輝きは即座に消え失せるのである。芥川龍之介の盟友菊池寛は「人生を銀のピンセツトで弄んでゐる」と龍之介を洒落て評したが、それとこのマッチの一章を並べて見れば、自ずとどっちが文学の本物であったかがよく判ると私はいつも思う。

・「人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。」さて、落丁のある書物の場合――その落丁が一ヶ所なら――私はそのまま力技で読む。読み終わってしかし、その落丁部分には同書の核心的記述や重大な伏線が書かれているかも知れぬと漠然と夢想し、結局、購入した書店に持って行き、交換して貰う。しかし結局、その落丁部分にはたいしたことは書かれていないのである――私は生涯に文庫本の鎌倉時代について書かれた歴史解説書で一度、海外の幻想小説の単行本で一度、落丁本を買い、事実、そうした。そうして実際、交換して読んだその落丁部分にはたいした内容は記されていなかった。なお、力技で読んでから交換という仕儀は、単に綺麗な本を残しておきたいという書痴感覚に過ぎぬ――。即ち、――「他人の人生」という「書物」の一ヶ所の落丁――ならば、その「落丁」部分には――その人の人生の秘鑰(ひせき:その人を真に知り得る秘密の鍵)が隠されているやも知れぬ――とことさらに憧憬するやも知れぬとは言えるのである。しかし乍ら、所詮、それは私の実際経験の物語るように、結果的に失望する妄想に過ぎぬものである(しかしそれは実際にその「一ヶ所の人生の落丁」部を覗き読み得た場合に限る訳でもある)。……しかし「落丁の多い書物」となると、事態は全く変わってくる。複数の落丁がある場合、最早、類推によって読み進める意欲は失われ、早々にその書物を読むことはやめ、即座に新本との交換を求める。即ち、――その「落丁の多い」「人生」という「書物」は見かけ上の「書物」という実体を成しているようでありながら――その実――それは読むに値する/味読することの出来る「人生」という「書物」ではなく、「人生」という御大層な標題を冠した――「永遠に誰にも読まれことがない」ところの「人生」という題名の「書物」という形式上の「一部を成してゐる」に過ぎない。――それは、その内実からは「一部を成すとは稱し難い、しかし「兎に角一部を成してゐる」ようには見える/見えるだけの現実的には無用不用の形骸物・廃棄物――に過ぎないということになる。そうして……それが「自分の人生」であるとしたら……これは考えるだに胸掻き毟られるような焦燥ではないか?!……いや……しかし必ずしもそうではないかも知れない。そもそも落丁などなくとも、殆ど誰にも読まれることのない書物は、実際にあるではないか。しかし――果たしてそのような「書物」は本当に「あらゆる他者に対して無用不用の意味のないもの」なのであろうか?――その答えは後の芥川龍之介の私遺愛の掌品「詩集」(大正一四(一九二五)年『新小説』)に求めることが出来るであろう。短いので総てを掲げる(底本は岩波旧全集。大きな活字でお読みになりたい方は最古電子テクストであを見られたい。なお、四度あるリフレインの最初と最後の一行目末の読点がないのはママである)。

   *

 

  詩集

 

 彼の詩集の本屋に出たのは三年ばかり前のことだつた。彼はその假綴ぢの處女詩集に「夢見つつ」と言ふ名前をつけた。それは卷頭の抒情詩の名前を詩集の名前に用ひたものだつた。

    夢みつつ、夢見つつ

    日もすがら、夢見つつ……

 彼はこの詩の一節ごとにかう言ふリフレエンを用ひてゐた。

 彼の詩集は何冊も本屋の店に並んでゐた。が、誰も買ふものはなかつた。誰も? ――いや、必ずしも「誰も」ではない。彼の詩集は一二册神田の古本屋にも並んでゐた。しかし「定價一圓」と言ふ奥附のあるのにも關らず、古本屋の値段は三十錢乃至二十五錢だつた。

 一年ばかりたつた後、彼の詩集は新しいまま、銀座の露店に並ぶやうになつた。今度は「引ナシ三十錢」だつた。行人は時々紙表紙をあけ、卷頭の抒情詩に目を通した。(彼の詩集は幸か不幸か紙の切つてない装幀だつた。)けれども滅多に賣れたことはなかつた。そのうちにだんだん紙も古び、假綴ぢの背中もいたんで行つた。

    夢みつつ、夢見つつ、

    日もすがら、夢見つつ……

 三年ばかりたつた後、汽車は薄煙を殘しながら、九百八十六部の「夢見つつ」を北海道へ運んで行つた。

 九百八十六部の「夢見つつ」は札幌の或物置小屋の砂埃の中に積み上げてあつた。が、それは暫くだつた。彼の詩集は女たちの手に無數の紙袋に變り出した。紙袋は彼の抒情詩を橫だの逆樣だのに印刷してゐた。

    夢みつつ、夢見つつ、

    日もすがら、夢見つつ……

 半月ばかりたつた後、是等の紙袋は點々と林檎畠の葉かげにかゝり出した。それからもう何日になることであらう。林檎畠を綴つた無數の林檎は今は是等の紙袋の中に、――紙袋を透かした日の光の中におのづから甘みを加へてゐる、靑あをとかすかに匂ひながら。

    夢みつつ、夢見つつ

    日もすがら、夢見つつ……

 

   *

この「詩集」は決してたった十四部しか買われなかった――買ったからといって読まれる訳ではない。しかもこの詩集はフランス装であるために残りの九百八十六部は確実に誰も立ち読みでさえ読まれることはなかったのである。しかし、である。この小品が描いているのは――「夢見つつ」という「詩集」(という「人生」の――「悲劇」(的末路)――では――ない。このエンディングの如何にも掌(たなごころ)に感ずる林檎の温もりとそこから伝わってくる林檎の甘みの、何とリアルなことであろう! 私は――荘子の言った「無用の用」の如き――真の「詩の光栄」こそがこの「林檎の至福」としてある――と読むのである。

 なお、この一章は前章よりも無論、インパクトは落ちる。そういう意味では「甘い」。

 しかしそれこそが芥川龍之介の確信犯なのである。

 

――これあればこそ――前のマッチが恐ろしい――かの「地獄變」の絵巻のような――紅蓮の焰を上げて燃えさかるから、である…………]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 告白

 

       告白

 

 完全に自己を告白することは何人にも出來ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出來るものではない。

 ルツソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸々の彼自身は懺悔錄の中にも發見出來ない。メリメは告白を嫌つた人である。しかし「コロンバ」は隱約の間に彼自身を語つてはゐないであらうか? 所詮告白文學とその他の文學との境界線は見かけほどはつきりはしてゐないのである。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年八月号『文藝春秋』巻頭に次の「人生――石黑定一君に――」とそれに続く二篇の「又」(「人生」)の計四章で初出する。

 

・「ルツソオ」ジュネーヴ共和国に生まれてフランスで活躍し、「学問芸術論」(Discours sur les sciences et les arts (1750))によって人為的文明社会を批判して『自然に還れ』と主張し、「エミール、又は教育について」(Émile, ou De l'éducation (1762))では知性偏重教育を批判し、「社会契約論」(Du Contrat Social ou Principes du droit politique (1762))で「人民主権」を展開、フランス革命に大きな影響を与えた哲学者で作家のジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau 一七一二年~一七七八年)は私の生理的嫌悪の絶対対象である。高校の「倫理社会」で、彼の私生活のエピソードの話を聴き、それが脳裏に固着したまま、私のルソー嫌いは四十年以上定着し続け、彼の如何なるありがたいお言葉も右から左へ抜け、私の心を全く動かさないのだから、仕方がない。ウィキの「ジャン=ジャック・ルソー」によれば、『私生活においては、マゾヒズムや露出癖、晩年においては重度の被害妄想があった。こうした精神の変調の萌芽は若い頃からあり、少年時代に街の娘たちに対する公然わいせつ罪(陰部を露出)で逮捕されかかった。更に、自身の』五人の『子供を経済的事情と相手側の家族との折り合いの悪さから孤児院に送った。自身の著書『告白』などでそれらの行状について具体的に記されている』とあるが、私の最大の嫌悪はこの五人の子の子棄て(孤児院というのは我々の認識とは異なり、単なる子棄て場に過ぎない)の行為にある。こんな男は、たとえその口をついて出る言葉が皆、御説御尤もであっても、人非人以外の評価を私はしない。「父」であることを放棄した彼は人間ではない。私は龍之介が「良き父」であるために自裁と本気で大真面目に思っている(御不信の向きは彼の子らへの遺書を再読精読されたい)。さればこそ龍之介はルソーを激しく嫌悪したものと思うのである。或いは龍之介は、ルソーのような思想と行為の乖離した人間であったなら私は自殺せずに済んだか知れぬ、と中有(ちゅうう)の底に沈んでゆく最中にちらりと思いはしたかも知れぬ。

・「懺悔錄」Les Confessionsは「告白(録)」などとも訳されるルソー晩年の自叙伝で、一七六四年から一七七〇年に執筆されたものの、死後の一七八一年(第一部)、一七八八年(第二部)になって出版されたものである(龍之介が前の古典」で言ったように既に死んでいる作家の「告白」「懺悔録」である点に注意)。以下、小学館「日本大百科全書」の原好男氏の解説に拠る。『世間の誤解を解くとともに、将来の人間研究の資料を提供しようという目的で書かれた。ルソーは自分の一生を、作家になる前とその後に分け、前半生を幸福な時代、後半生を不幸になった時代としてとらえていたが、作品にもそうした考え方が反映し』、二部に『分けられている』。第一部の『少年時代、青年時代の記述は、率直かつ詳細なもので、ときには卑しい行為や性的異常をも、はばかることもなく描いている。ユーモアあり悔恨あり、それが過ぎ去った時代をふたたび生きる喜びと混じり合い、いまなお読者を魅了してやまない』。第二部は、『晩年の被害妄想の影響下に書かれたため、また、昔の友人たちへの遠慮からか』、第一部と『比較すると精彩を欠き、暗いものとなっている。思想家ルソーのひととなりを知るための第一級の資料であるとともに、自伝文学の傑作の一つ。日本では、明治初期、自由民権運動の時代に、『社会契約論』が影響力をもったのにかわって、明治後期』(明治二四(一八九一)年の森鷗外によるドイツ語訳からの抄訳が本邦の初訳となった)、島崎藤村など、日本に於ける近代文学の成立、特に本邦独特の自然主義文学の形成に本書は強い影響を与えた。

・「メリメ」フランスの作家プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée 一八〇三年~一八七〇年)は怪奇作家として私の大好きな小説家である。「日本大百科全書」の冨永明夫氏の解説を引く。パリ生まれ。『大学では法科に学んだが、早くから創作を志し』、一八二五年に「クララ・ガスル戯曲集」を『同名の女優の作と偽って出版したのが処女作』で、一八二九年、歴史小説「シャルル九世年代記」(Chronique du règne de Charles IX)で『好評を得、以後』、『続々と傑作短編群を発表するに至る。裏切りをはたらき家名を汚した幼い息子を冷然と処刑するコルシカ男の物語』「マテオ・ファルコーネ」(Mateo Falcone (1829))、『奴隷船上の黒人の反乱とその後の惨たる漂流を叙事詩風に綴』った「タマンゴ」(Tamango (1829))、『歴史ものらしく仕立てた怪異譚』「カール十一世の幻視」(Vision de Charles XI (1829))、精緻にして粋な恋愛心理小説である「エトルリアの壺」(Le Vase étrusque (1830):怪奇小説ではないが、私お薦めの作品である)『など、題材も手法もまちまちだが、いずれも透明な文体と緊密な構成により短編小説の見本といってよい。メリメの文名はかくて』二十代後半に『確立した感がある』。一八三一年からは官界に入り、一八二四年には『文化財保護監督官、以後は頻々と国内外に巡察旅行を試みて、歴史的建造物、遺跡の調査、保護、修復に精力を注ぐ。当時無名に近かった建築家ビオレ・ル・デュック』(一八一四年~一八七九年)『を登用して各地の中世建築の修復にあたらせたのも大きな功績である。数多い巡察旅行の副産物として、ピレネー山麓』『のイールを舞台とする考古学的怪談』である「イールのビーナス」(La Vénus d'Ille (1837))、『コルシカに取材した』「コロンバ」(Colomba (1840):後注参照)『などの佳作が生まれた。代表作と』される「カルメン」(Carmen (1845))も、『この延長線上にある作品といえる』。一八四四年にアカデミー会員、一八五三年には旧知のナポレオン三世の妃であったウージェニーに請われて上院議員となっている。しかし、「カルメン」以後、『小説への意欲は衰えをみせ、史伝、考証、ロシア文学の翻訳・紹介に文筆活動の重点が移る。他方、廷臣として多忙な社交生活のなかから、多分に公刊を予期した膨大な書簡群が生まれている。最晩年には小説への意欲が再燃したが、傑作を生むには至らず』、一八七〇年、『プロイセン・フランス戦争の敗北と帝政の崩壊を見て、失意のうちに』同年九月に『カンヌで没した』。『メリメの本質は』十八世紀的合理主義者ではあるが、『時代の好尚は争えず、ロマン派の影響下に、異国や遠い昔に材をとり、人間の暗い情熱や運命との抗争を物語る中短編がやはりその本領である。他方、心理小説風の試みや、風刺的戯作』、『怪異への好みなども指摘できるが、いずれの場合も古典的端正さを崩さない明晰』 にして『冷徹な文体が支えとなっている。明敏な都会人メリメは、異常な、あるいは幻想的な事件を物語りつつも、つねに作品と一定の距離を保たずにはいられない。彼はいつも「醒』『めて」いなければならな』かったのである。

・「コロンバ」(Colomba)はコルシカに永く伝わるかたき討ちの風習を素材とした、旧家の娘コロンバを主人公とする一八四〇年刊の、しばしば「カルメン」と併称されるメリメの代表的中編小説。新潮文庫の神田由美子氏の注は、『コルシカ島の名家の娘コロンバとその兄のオルソ』(Orso)『陸軍中尉』『が、父を暗殺したバリッチニ』(Barricini)『兄弟に仇討(あだうち)する話。「カルメン」とともに、女性の野性的情熱を描いたメリメの代表作、芥川の「偸盗(ちゅうとう)」のヒロイン「沙金(しゃきん)」に、この影響があると言われている』と、勘所を押さえつつ、コンパクトに纏めておられる。

・「隱約」「いんやく」で、はっきりと見分け難いこと。言葉は簡単であっても意味が奥深いこと。或いは、あからさまには表現していないこと、の謂いで、ここはの意である。筑摩版全集類聚脚注も新潮の神田氏もの意とするが、従えない。因みに、小学館の「大辞泉」の「隠約」のの意味の例文は、まさにこの龍之介の一文が引かれてある。]

2016/05/21

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 幻滅した藝術家

 

       幻滅した藝術家

 

 或一群の藝術家は幻滅の世界に住してゐる。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のやうに無何有の砂漠を家としてゐる。その點は成程氣の毒かも知れない。しかし美しい蜃氣樓は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵藝術には幻滅してゐない。いや、藝術と云ひさへすれば、常人の知らない金色の夢は忽ち空中に出現するのである。彼等も實は思ひの外、幸福な瞬間を持たぬ訣ではない。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』巻頭に前の「創作」「鑑賞」「古典」(二篇)と合わせて計五章で初出する。私はこの章は、これら四章の最後に満を持して配されてあるのだと思うものである。これは地獄變」なぞよりも遙かに芥川龍之介の芸術至上主義を語る一章とも読める(但し、近年、私は芥川龍之介の芸術至上主義自認に懐疑的である。地獄變」で良秀を自裁させることに、私は龍之介の中の異様なほどに強い倫理意識を感じとるからであり、彼の自死の子どもらへの遺書を読んでも、それをことさらに激しく感じざるを得ないからである(リンク先は私のもの)。

 さて、これらの五章が纏めて書かれ、しかもそれが一挙に載せられていることを考える時、我々は、と言うよりも、当時の読者に、これらが連続した同一体として読まれることを、芥川龍之介は切実に「要請」していたと考えて良いのではあるまいか? 煩を厭わず、試みに、やってみようではないか。

   *

 「創作」とは何かと言ふことを考へて見る。すると、それは、以下のやうに述べ得るであらう。即ち、『藝術家は何時も意識的に彼の作品を作るのかも知れない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は藝術家の意識を超越した神祕の世界に存してゐる。一半? 或は大半と云つても好い』。『我我は妙に問ふに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はをのづから作品に露るることを免れない。一刀一拜した古人の用意はこの無意識の境に對する畏怖を語つてはゐないであらうか? 創作は常に冐險である。所詮は人力を盡した後、天命に委かせるより仕方はない』。例へば、『少時學語苦難圓 唯道工夫半未全 到老始知非力取 三分人事七分天』といふ、『趙甌北の「論詩」の七絶はこの間の消息を傳へたものであらう。藝術は妙に底の知れない凄みを帶びてゐるものである。我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後に殆ど病的な創作熱に苦しまなければ、この無氣味な藝術などと格鬪する勇氣は起らなかつたかも知れない』。さても、しかし、藝術作品には「鑑賞」といふ側面もあることは事實ではあらう。それに就いて私は以下のやうに考へるものである。即ち、『藝術の鑑賞は藝術家自身と鑑賞家との協力である。云はば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名聲を失はない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具へてゐる。しかし種々の鑑賞を可能にすると云ふ意味はアナトオル・フランスの云ふやうに、何處か曖昧に出來てゐる爲、どう云ふ解釋を加へるのもたやすいと云ふ意味ではあるまい。寧ろ廬山の峯々のやうに、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具へてゐるのであらう』と。さて、翻つて、私はしばしば「古典」作品をその素材としてはゐる。しかし、その「古典」とは次のやうな屬性を持つてゐると斷言出來る。即ち、『古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでゐることである』といふ認識であり、さうして同