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2016/05/26

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  悲劇

 

       悲劇

 

 悲劇とはみづから羞ずる所業を敢てしなければならぬことである。この故に萬人に共通する悲劇は排泄作用を行ふことである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に前の「二宮尊德」「奴隷」(二章)及び後の「強弱」「S・Mの智慧」の全六章で初出する。

 

・「萬人に共通する悲劇は排泄作用を行ふことである」このアフォリズムは、その眇め的言い回しの面白さにあるのでは――ない。その勘所は、芥川龍之介が「萬人に共通する悲劇」と限定するところにこそ――ある。即ち、「悲劇とはみづから羞ずる所業を敢てしなければならぬこと」と定義出来る。しかしということは、それ「は排泄作用を行ふ」という一点に於いてのみ、「萬人に共通する悲劇」ということになるのであり、それ以外に「萬人に共通する悲劇」など――ない、という命題こそが真理であると龍之介は謂うのである。私はこの短律のアフォリズムを月並俳句と同等にしか読み込んでいない読者が、殊の外、多いように思うのである。いや、かく今謂う私自身にしてからが、教師時代にこの一節をそうしたのっぴきならない言説(ディスクール)として生徒に紹介していたかと逆に問われたなら、黙して俯かざるを得ないのである。

 龍之介は晩年(と言ってもこの二年後)、激しい下痢(及び嘔吐・便秘)と痔に悩まされることとなる。もともとの胃弱に加えて、睡眠薬を始めとする多量の薬剤を服用していた結果と見てよいが、書簡類を読むと、それは悲愴を極めるものである(下線やぶちゃん)。

「わたくしはけふの講演會へ出るつもりでゐましたが、腹を壞してゐる爲に出られません。」「腹に力のない時には出來ないのです。甚だ尾籠なお話ですが、第一下痢をする時には何だか鮫の卵か何かを生み落してゐるやうに感ずるのです。それだけでもがつかりします。おまけに胃袋まで鯨のやうに時々潮を吹き出すのです」(大正一五(一九二六)年六月二十二日・鵠沼東屋(あづまや)発信・鈴木了享宛・岩波旧全集書簡番号一四八九)

「君がかへつた翌日から又腹を下し、少なからず難澁した」「おまけに一人になつて」「今にも死にさうな氣がした」「小康を得たから室生を訪問したら、忽ち又冷えたと見えてけふは下痢と軟便との中間位になつてしまつた」「下痢ほど身心とも力のぬけるものはない」「字までひよろひよろしてゐるのはあしからず」(同年六月二十九日・田端発信・佐佐木茂索宛・岩波旧全集書簡番号一四九〇)

けふも亦屁をしたら、便が出てしまつて、氣を腐らせてゐる」(同年九月二十二日・鵠沼発信・佐佐木茂索宛・岩波旧全集書簡番号一五一八)

痔猛烈に再發、昨夜呻吟して眠られず」(同年十二月十二日・鵠沼発信・佐佐木茂索宛・岩波旧全集書簡番号一五四〇)

「鴉片丸[やぶちゃん注:睡眠薬。]乏しくなり心細く候間、もう二週間分ほど」「お送り下さるまじく候や。右願上げ候。」「一昨日は浣腸して便をとりたる爲、痔痛みてたまらず、眠り藥を三包のみたれど、眠ることも出來かね、うんうん云ひて天明に及び候」(同年十二月十三日・鵠沼発信・齋藤茂吉宛・岩波旧全集書簡番号一五四一)

 いや――そもそもがこの私(藪野直史)にとって、このアフォリズムは洒落にならないのである。

 私は下痢型のIBS(Irritable Bowel Syndrome:過敏性腸症候群)で(診断確定は二〇一〇年五十二の時)、小学校の時には朝礼で三度も糞を洩らした。どこかへ行くことになると、忽ち腹が下って何度も便所に行かねばならなかった。私が実は旅が嫌いなのは、いつ何時、腹が下るか予測出来ないからである。どこへ行ってもまずトイレはどこかを無意識に捜している。それでこの年まで何度死ぬほど恥ずかしい気分を味わったか知れぬ。そういう意味では排泄を自己抑制出来ない慙愧の念は「生きることの恥」の実感として確かに、ある。私のそれは常に下痢の急降下の波状爆撃に拠るのであるが、しかしその逆も真ではあろう。私は一度、とある法医学書の中に、強烈な便秘の末、腸閉塞で死んだ十代と思しい娘の写真附検視報告書を読んだことがある。なんとかそれを身体から掘りだそうとしていた末期の硬直した彼女の手と指の形と、剖検して出て来た石のようになった巨大な腸の形の塊りのを見た時、私は、何か言い知れぬ悲しみを感じた。排泄と恥と生及び死の宿命的関係性を、私はその時、強く感じたように思う。

 因みに、私の大学四年次の教育心理学特講での論文は、フロイトの精神分析を応用した「学校現場に於ける排泄タブーの研究」というタイトルだった。私の小中学生時代、男子は学校では大便は出来なかった。大に入るだけで軽蔑され、揶揄された。その時からIBSであったろう私には、あの――「穢れ」が「大便」の「排泄」にのみ「点」となって恐るべき収束を成すところの「禁忌」――こそ、私には、激しくおぞましい「排泄」の「悲劇」の記憶、トラウマに他ならぬのである。]

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