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2016/05/03

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「カナリヤ」

  カナリヤ

 

 カナリヤを飼ひはじめたのは、昭和十一年の終頃からだつた。ふと妻が思ひついて、私たちはある夜、巷の小鳥屋を訪れた。そこには、小鳥のやうに、しなやかな、心の底まで快活さうな細君がゐて、二羽のカナリヤを撰んでくれた。最初から、その女は私の印象にのこつたが、妻もほぼ同樣であつたらしい。その後、妻は餌を買ひにそこへ行くにつけ、小鳥屋の細君のことを口にするやうになつた。どうして、あんなに身も魂も輕さうに生きてゐられるのだらうか、小鳥など相手に暮してゐると自然さうなるのだらうか、と私の妻はその女の姿を羨しがるのであつた。

 さて、翌日カナリヤの箱が屆けられると、それからは毎朝妻がその世話を燒くのであつた。新しい新聞紙を箱の底に敷きかへて、靑い菜つばと水をやると、緣側の空氣まで淸々しくなる。妻は氣持よささうにそれを眺めた。

 春さきになると、雌はよく水を浴びるやうになつたが、雄の方はひどくぎこちない姿で泊木に蹲つたまま、てんで水など浴びようとしなかつた。それを妻は頻りに氣にするやうになつてゐた。と、ある朝、この雄は泊木から墜ちて死んでゐた。

 その後、一年あまりは殘された雌だけを飼ひつづけた。この雌は箱の中から、遠くに見える空の小鳥の姿を認めて、微妙な身悶えをすることがあつた。私たちが四五日家をあけなければならなかつた時、餌と水を澤山あてがつておいた。歸つて來て早速玄關の箱の中を覗くと、このカナリヤは無事で動き𢌞つてゐた。

 ある秋の夜、妻は一羽の雄をボール凾に入れて戾つて來た。ポール幽から木の箱へ移すと、二三度飛び𢌞つたかとおもふと、咽喉をふるはせて囀りだした。電燈の光の下で囀る雄と、それを凝と聽きとれてゐる雌の姿はまことにみごとであつた。こんどの雄は些も危な氣がなかつた。産卵期が近づくと、棉を喰ひちぎつて巣に持運んで行く雌を、傍からせつせと手助けするのであつた。やがて、卵はかへつたが、どれも育たなかつた。梅雨の頃、三羽の雛が生れこんどは揃つて育ちさうであつた。が、母親がぽつくり死んでしまつた。すると、殘された雄が母親がはりになり、せつせと餌を運んでは、巧みに仔を育てて行つた。雛はみな無事に生長して行つた。一羽の雛はもう囀りを覺えはじめ、わけても愛らしく賴もしかつた。

 ある日、カナリヤの箱を猫が襲つた。氣がついた時には、金網がはづされてをり、箱の中は空であつた。が、庭の塀の上に雄のカナリヤと二羽の雛がゐた。この父親は仔をつれて、すぐに箱のなかへ戾つて來た。だが、一羽の一番愛らしかつた雛は、父に隨はず、勝手に黐木の梢の方を飛び𢌞つてゐた。「あ、あそこにゐるのに」と妻は夢中で空をふり仰いでゐた。カナリヤは屋根に移り、そこで、しばらく娯しさうに囀つてゐた。その聲がだんだん遠ざかり、遂に聞えなくなるまで、妻は外に佇んでゐた。やがて、ぐつたりして妻は家に戾つて來た。耳はまだあの囀りのあとを追ひ、その眼は無限のなかに彷徨つてゐるやうで、絶え入るばかりの烈しいものが、妻の貌に疼いてゐた。妻が發病したのは、それから間もなくであつた。

 二羽のカナリヤは無事に育つて行つたが、翌年の春になると、父親と喧嘩して騷々しいので、とうとう父親だけを殘して、出入の魚屋に呉れてやつた。殘された雄は相變らずよく囀つた。春も夏も秋も、療養の妻の椅子のかたはらに、ぽつんと置かれてゐた。カナリヤは孤獨に馴れ、ひとり囀りを娯しんでゐるやうにおもへた。このカナリヤが死んだのは昭和十八年の暮で、妻が醫大に入院してゐる時のことであつた。數へてみると、妻がそれを買つて歸つた時からでも、五年間生きてゐたことになる。

 

[やぶちゃん注:「カナリヤ」鳥綱スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria。漢名漢字表記は「金糸(絲)雀」。ウィキの「カナリア」によれば、『アトリ科に分類される小鳥、及びそれを原種として品種改良された愛玩鳥フィンチの一種』(この場合の「フィンチ」は知られた狭義のそれ(フウキンチョウ科 Thraupidae の例えばダーウィンフィンチ属 Camarhynchus など)の謂いではなく、広義のアトリ科 Fringillidae(英名でこのグループを「Finches」と呼ぶ)の鳥類の総称であるので注意されたい)を指し、『英名では、特に野生種と飼養種を区別するとき、前者を Island Canary, Wild Canary, Tame Canary, Atlantic Canary などと呼び、後者を Domestic Canary と呼ぶ』。『原生種は』アゾレス諸島(北大西洋の中央部(マカロネシア)に位置するポルトガル領の群島)、カナリア諸島(アフリカ大陸の北西沿岸に近い大西洋上の七つの島からなるスペイン領の群島)、及びマデイラ諸島(北大西洋上のマカロネシアに位置するポルトガル領の諸島)に『産し、名のカナリアは原産地のカナリア諸島による。飼養種はほぼ世界中で飼われている。 これら以外に、かご抜けした飼養種がバミューダ諸島、ハワイのミッドウェイ環礁、プエルトリコで再野生化している』。『野生種の大きさは』翼長二〇~二三センチメートル、体長約一二・五センチメートル、体重一五~二〇グラムほどで、『飼養種の大きさもほぼ同程度だが、ずっと大きな品種や小さな品種もある』。『飼養種は品種により様々な変化に富んだ羽色を呈し、もっともよく見かけるのが、全身がいわゆるカナリア色(カナリアイエロー)で知られた鮮やかな黄色で染まった個体で、この色名は飼養種の呈するこの色にちなんでいる』。『これに対し』、『カナリア諸島産の野生種』『は腹面が煤けた黄緑色、背面に茶色っぽい縞が入った地味な小鳥である。しかし飼養種にも野生種の羽色に近いリザードのような品種もある』。『野生種、飼養種のどちらもセリンやズアオアトリ同様、澄んだ美しい声でさえずる』。『飼育に際してはつがい、もしくは一羽飼いが基本だが、これは本種に脂肪分に富んだエサを好む傾向があり、同じエサを与えて他のフィンチと一緒に飼うと、他の鳥が脂肪過多を起こすからだとされている。しかし特に脂肪分を多くせず、他のフィンチと同じエサを与えてもそれほど変化はない、とする人もいる。実際によく食べる傾向が見られるのは青菜類で、これらを欠かしてはいけない。飼育下では春から夏にかけて繁殖し、夏の終わりから秋にかけて換羽するが、本種に限らず飼い鳥は換羽期に落鳥しやすいので注意する。また他のフィンチと比較してワクモ(羽ダニ)』(節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目ワクモ科 Dermanyssus 属ワクモ Dermanyssus gallinae:ダニの一種で鳥類の外部寄生虫。夜間に休息している鳥類の血を吸血する)『が付きやすいので、これらにも注意する』。「人間との関係」の項。『ヨーロッパで古くから愛玩鳥として飼養され、現在では世界中で飼われている。また毒物に敏感である事から毒ガス検知に用いられたり、実験動物としても用いられる』。『日本では後述する炭鉱のカナリアや童謡「かなりや」の影響で、実態以上にひ弱な鳥といったイメージが流布しており、外の世界で生きられない事の比喩表現である籠の鳥とは本種のこととすら思われている』。『しかし、高級フィンチの中には本種よりずっと気難しくて温度管理にうるさい種があり、それらに較べればずっと飼い易いうえに巣引き』(飼鳥用語の一つ。飼育環境下での「繁殖」、「累代飼育」をすることを指す)『も簡単である。野外で生き延びられないのは飼育環境へ適合した結果であり、逆を言えば、野鳥はかごで飼うと気をつけないとすぐに死んでしまう』。『人間に馴れやすく、雛から育てなくても、手乗りになったり、飼い主の手から餌を食べる事がある』。一六〇〇年代に『スペイン人の船員によってヨーロッパに持ち込まれ、飼い鳥として品種改良された。当初修道院の僧のみが本種の巣引き技術を有しており、美しいさえずりを聞かせるオスのみを市場に卸すといった方法で出荷調整を行い価格を高騰させていたのだが、その後ふとしたきっかけからイタリア人がメスの入手に成功。もとより巣引きにさほどの技術を要さなかったことから、各地で増殖されヨーロッパ全土で流行するようになる』。『イギリスでも同様に、当初は富裕層のみが飼育していたが、すぐに民間で巣引きが繰り返されるようになり、非常に一般的な飼い鳥となった。また巣引きと並行して行われた品種改良により多くの種類が産み出されることになる』。『日本へは江戸時代にオランダ人により長崎へもたらされた。日本では古くから鳥を飼い慣らしてそのさえずりを楽しむ風流な習慣があり、カナリアも姿形やさえずりの美しさから、たちまち人気となり流行した。当時から盛んに輸入され、武士や知識層に愛玩されたようである。有名なところでは曲亭馬琴が巣引きを再三試みており、葛飾北斎の日本画にも登場する』。多様な品種は『おおまかに羽の色や模様、姿形、さえずりに特化した』三グループに分けられ、『色を楽しむ品種を色鳥、変わった模様を楽しむ品種は羽鳥、変わった羽や姿勢、大きさに変化を持たせた品種を形鳥、巻き毛や姿勢を観賞する品種を姿勢鳥、さえずりを愛でる品種を鳴鳥などとも呼ぶ』。『姿形を楽しむための改良は主にイギリスで、さえずりを楽しむための改良は主にドイツで行われてきた。実際に市場に出回るものは、上記各グループの有する一つの特徴にだけ特化した改良がなされたもの以外に、巻き毛赤ローラーなど、各グループ間で交雑させ複数の特徴を織り込んだものが多数あるので、その種数はじつに多岐に及ぶ』。「毒ガス検知」の項。『いわゆる炭鉱のカナリアは、炭鉱においてしばしば発生するメタンや一酸化炭素といった窒息ガスや毒ガス早期発見のための警報として使用された。本種はつねにさえずっているので、異常発生に先駆けまずは鳴き声が止む。つまり危険の察知を目と耳で確認できる所が重宝され、毒ガス検知に用いられた』。『具体的には、新しい斜坑の底にまず』三羽以上の『カナリア(別種の鳥を用いることもあった)の入ったカゴが置かれ、そのうち』一羽でも『異常な行動が見られたなら、坑夫たちはその斜坑に危険が発生したと察知していた。イギリスの炭鉱ではこうした方法による危険察知システムが』一九八七年まで採用されていた、とある。『鉱山以外でも、戦場や犯罪捜査の現場で使われる事がある。日本でも』一九九五年の『地下鉄サリン事件を受け、山梨県上九一色村のオウム真理教施設に対する強制捜査の際、捜査員が携行している様子が報じられ、こうした役割が知られるようになった』。なお、知られる童謡「かなりや」は作詞が西條八十、作曲が成田為三で、雑誌『赤い鳥』の大正七(一九一八)年十一月号に掲載された。本童謡は当初から曲のついたと童謡として初めて発表された作品であり、この曲の発表以降、童謡に曲を付けて歌われることが一般化した(この部分は童謡のウィキの「かなりやの記載に拠った)。

「昭和十一年の終頃」巻頭章の「マル」の冒頭は、雌犬『マルが私の家に居ついたのは』同年(一九三六年)『のはじめであった』で始まっている。そうしてそのカナリヤたちの数奇な生死が語られる。最後に残るのは――雄一羽――である。事実の数奇を含め、十全に練られた対章章段であることが判る。

「春さき」昭和一二(一九三七)年の春。

「泊木」「とまりぎ」。止まり木。

「その後、一年あまり」とここにあって、次の段落冒頭が「ある秋の夜、妻は一羽の雄をボール凾に入れて戾つて來た」と始まるから、「ある秋の夜」は昭和一三(一九三八)年の秋ということになる。

「ボール凾」「凾」は「ばこ」。段ボールの箱。

「電燈」「燈」は底本の用字。

「それを凝と聽きとれてゐる雌の姿は」ママ。「それを凝と聽きとつてゐる雌の姿は」(或いは「それに凝と聽きほれてゐる雌の姿は」であるが、こちらは如何にも擬人的表現で私は厭である)の謂い。

「些も」「すこしも」或いは「いささかも」。「危なげがない」に続けるなら前者がよいように私は感ずる。

「梅雨の頃」昭和一四(一九三九)年初夏ということになる。以下との叙述との時系列上での矛盾はない。

「黐木」「もちのき」と読む。バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra。和名は樹皮から鳥黐(とりもち:野鳥や昆虫などを捕えるのに用いる粘着性の物質)を作ることに由来する。ウィキの「モチノキによれば、『春から夏にかけて樹皮を採取し、目の粗い袋に入れて秋まで流水につけておく。この間に不必要な木質は徐々に腐敗して除去され、水に不溶性の鳥黐成分だけが残る。水から取り出したら繊維質がなくなるまで臼で細かく砕き、軟らかい塊になったものを流水で洗って細かい残渣を取り除くと鳥黐が得られる』とある。

「彷徨つて」「さまよつて(さまよって)」。

「妻の貌」「貌」は「かほ(かお)」であろう。

「疼いて」「うづいて(うずいて)」。

「妻が發病した」昭和一四(一九三九)年九月。結核の発病(吐血)と推定される。

「翌年の春」昭和一五(一九四〇)年春。民喜、満三十四、貞恵二十八、九歳。ここに「春も夏も秋も、療養の妻の椅子のかたはらに、ぽつんと置かれてゐた」とあることから、この年は冬を除いて貞恵は自宅療養していたことが判る。こうした事実を積み上げていかないと、この時期の民喜の年譜(少なくとも底本の年譜)は発表作ばかりが羅列されるばかりで、日常的な状況が殆んど欠落しているのである。

「このカナリヤが死んだのは昭和十八年の暮で、妻が醫大に入院してゐる時のことであつた」ここでも昭和一八(一九四三)年の暮れの時点では貞恵が入院していた事実が判る。この後、貞恵は翌一九(一九四四)年三月に病状が悪化、同年九月二十八日に亡くなることとなる。但し、他作品から死の前には自宅に戻っていることも判っている。因みに、「昭和十八年の暮」れの時点では、民喜は千葉県立船橋中学校の英語教師として週三回の勤務していた(前年昭和十七年一月より。但し、翌十九年一月には退職)。作家専業から教師生活に入ったのは、妻の医療費の問題があったからでろうか。貞恵の亡くなる少し前には朝日映画社嘱託ともなっている。しかし、翌二十年一月末には、長年住み慣れたこの千葉の登戸の家をたたんで、広島の広島市幟町実家へ戻る。そうして八月六日の原爆に遭遇するのであった。]

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