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2016/05/26

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  神(二章)

 

       神

 

 あらゆる神の屬性中、最も神の爲に同情するのは神には自殺の出來ないことである。

 

       又

 

 我我は神を罵殺する無數の理由を發見してゐる。が、不幸にも日本人は罵殺するのに價ひするほど、全能の神を信じてゐない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年七月号『文藝春秋』巻頭に前の「社交」「瑣事」とともに全四章で初出する。この最初の章は、私がやはり偏愛する一文アフォリズムであるが、これは芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」(自死から凡そ二ヶ月後の昭和二(一九二七)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表。リンク先は私の古い電子テクスト)の第四十二章「神々の笑ひ聲」という題のアフォリズムに、龍之介自身が引く形で出てくる。

   *

 

     四十二 神々の笑ひ聲

 

 三十五歳の彼は春の日の當つた松林の中を歩いてゐた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出來ない」と云ふ言葉を思ひ出しながら。………

 

   *

「三十五歳」とあるが、龍之介は明治二五(一八九二)年三月一日生まれであり、自死は昭和二(一九二七)年七月二十四日未明であるから、当時一般であった数えとすれば、「二三年前に彼自身の書いた」とあり(この章の発表は大正一三(一九二四)年七月)、これは自死の年の春ではなく、前年大正一五(一九二六)年の春と考えられる。同年四月二十二日に鵠沼の東屋(あずまや)旅館に妻文(満二十五歳)と三男也寸志(生後九ヶ月)と養生に行っている(結局、翌年一月頃まで主にここ鵠沼で過ごしている)。「松林の中を歩いてゐた」というロケーションも鵠沼に合致する(何故、こんなことを考証するかというと、実は「或阿呆の一生」のアフォリズムの配列は龍之介自身による極めて複雑で恣意的な配列操作がなされてあるからである。「侏儒の言葉」が謎なら、「或阿呆の一生」はまさに出口を発見することが困難な迷宮(ラビリンス)と呼んでもよいシロモノなのである(幾つか部分的にはブログで考証を行っているが、何時か「或阿呆の一生」にもマニアックな全注釈で挑戦してみようとは思っている)。

 

・「罵殺」「ばさつ」は「罵倒」と同義。対象や人物を激しい言葉を以って罵り、否定し去ろうとすること。物理的に「殺す」ことではなく、まさに「罵(ののし)り倒す」のである。因みに「罵」は漢和辞典では部首は「馬」の部ではなく「罒」の部である(私は大学時分、とある国語学の教授が「罒」と板書して『この部首を「よこめ」などと気持ちの悪い読み方をする馬鹿がいる』と言ったので、「あみめがしら」が正しいと五十九になった今の今まで思っていたのだが、大修館書店の「廣漢和辭典」を今、試みに引いてみたら、「罒部」のところにははっきりと『よこめ』と書いてあったわい!)。

・「全能の神」細かいことを言うと、こう言った場合、その神はギリシャ・ローマ神話のゼウスのような神及び一神教のキリスト教の神に限定される。本邦の神道の神は全知でも全能でもないし、天孫族どもに不当に零落させられた神々は殲滅さえ受けているから自殺も可能である(私には自死したらしく感じられる神もいないではない)。仏教ではそもそも仏は神ではないし、天部の神々は全知全能では全くないわけで、さればここで龍之介が言っている神はキリスト教のヤハウェと考えるのがまず自然ではある。しかしそうすると、前段の「あらゆる神の屬性中」が齟齬を生じてしょぼくさくなって如何にもつまらなくなってしまうので、ここはキリスト教に限定せぬが身のためではある。]

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