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2016/05/26

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  二宮尊德

 

       二宮尊德

 

 わたしは小學校の讀本の中に二宮尊德の少年時代の大書してあつたのを覺えてゐる。貧家に人となつた尊德は晝は農作の手傳ひをしたり、夜は草鞋を造つたり、大人のやうに働きながら、健氣にも獨學をつづけて行つたらしい。これはあらゆる立志譚のやうに――と云ふのはあらゆる通俗小説のやうに、感激を與へ易い物語である。實際又十五歳に足らぬわたしは尊德の意氣に感激すると同時に、尊德ほど貧家に生まれなかつたことを不仕合せの一つにさへ考へてゐた。……

 けれどもこの立志譚は尊德に名譽を與へる代りに、當然尊德の兩親には不名譽を與へる物語である。彼等は尊德の教育に寸毫の便宜をも與へなかつた。いや、寧ろ與へたものは障碍ばかりだつた位である。これは兩親たる責任上、明らかに恥辱と云はなければならぬ。しかし我々の兩親や教師は無邪氣にもこの事實を忘れてゐる。尊德の兩親は酒飮みでも或は又博奕打ちでも好い。問題は唯尊德である。どう云ふ艱難辛苦をしても獨學を廢さなかつた尊德である。我我少年は尊德のやうに勇猛の志を養はなければならぬ。

 わたしは彼等の利己主義に驚嘆に近いものを感じてゐる。成程彼等には尊德のやうに下男をも兼ねる少年は都合の好い息子に違ひない。のみならず後年聲譽を博し、大いに父母の名を顯はしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊德の意氣に感激すると同時に、尊德ほど貧家に生まれなかつたことを不仕合せの一つにさへ考へてゐた。丁度鎖に繫がれた奴隷のもつと太い鎖を欲しがるやうに。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』(前号五月号は休刊)巻頭に後の「奴隷」(二章)「悲劇」「強弱」「S・Mの智慧」の全六章で初出する。

 

・「二宮尊德の少年時代」江戸後期の経世家(けいせいか:「經世濟民」(世を經(をさ)めて民を濟ふ)の思想家)・農政家二宮尊徳(にのみやたかのり 天明七(一七八七)年~安政三(一八五六)年)の、ここに注として必要と考えられる、主に前史のみウィキの「二宮尊徳」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した。下線はやぶちゃん)。『経世済民を目指して報徳思想』(二宮尊徳が説き広めた経済思想。経済と道徳の融和を基軸とし、私利私欲に走らずに社会に貢献するならばそれはいずれは自らに還元されるとする思想)『を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した』彼の『通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓むが、有職読みで「そんとく」と訓まれることが多い』(されば、ここでも芥川龍之介は標題を含めて「そんとく」と読んでいると採っておく)。『相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれる。母は曽我別所村・川久保太兵衛の娘好(よし)。尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子友吉(常五郎)と富治郎がいる』。『尊徳は、まず堀之内村の中島弥三右衛門の娘きの(キノ)を妻とするが、離縁。次いで二十歳若いが』、『貞淑温良な飯泉村の岡田峯右衛門の娘なみ(波子)を娶った。後者は賢夫人と称される。子息は、きのとの間に長男の徳太郎がいたが夭折しており、なみとの間に、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)がいる』。『当時の栢山村は小田原藩領であった。父利右衛門は、養父銀右衛門から十三石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かだったが散財を重ねていた。そこに、金治郎が五歳の時の寛政三年(一七九一年)八月五日、南関東を襲った暴風で、付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その影響で父の田畑は砂礫と化し、家も流失した。開墾に従事して田畑は数年で復旧したが、借財を抱えて家計は貧する』。それから六年後の寛政九(一七九七)年に父が眼病を患ったため(金治郎満十一歳)、翌年から『酒匂川堤防工事の夫役を父に代わって務めるが、働きが足りないと憂い、自ら夜に草鞋を作って配布して献じた。この頃、寺に入れられていた弟友吉が耐え切れずに寺から戻った。寛政十二年(一八〇〇年)、父の病気が悪化し、九月に没する母よしが働くために前年生まれた富治郎を人の家に預けるが、乳張りがひどくて家に戻す。十四歳の金治郎が朝は早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして、一家四人の生計を立てた』。享和二(一八〇二)年、満十五歳の時、『貧困の中で母が亡くなった。まだ幼い二人の弟は母の実家川久保家に預け、金治郎は祖父(伯父)萬兵衛の家に身を寄せることとなった。しかしこの年にまた酒匂川が氾濫し、金治郎の土地は水害に襲われてすべて流出してしまった』。『金治郎は本家・祖父の家で農業に励み、身を粉にして働いたが、ケチな萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを嫌い、しばしば口汚く罵られた。そこで金治郎は策を講じ、堤防に菜を植え、それで菜種油を取って燈油とした。また、用水堀に捨て苗を植えて、一俵の収穫を得た』。『文化元年(一八〇四年)、萬兵衛の家を離れ、同村の親族岡部伊助方に寄宿。この年に余耕の五俵を得て、翌年は親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿。さらにここで余耕の二十俵を得て、文化三年(一八〇六年)に家に戻り』、数え『二十歳で生家の再興に着手する。家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出すなどして収入の増加を図った。しかし他方で、弟の富治郎はこの頃に亡くなっ』ている。『生家の再興に成功すると、金治郎は地主』として『農園経営を行いながら』、『自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。この頃までに、身長が六尺(約百八十センチ強)を超えていたという伝承もある。また体重は』九十四キログラムも『あったと言われている。小田原藩士の岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えた』。『文化五年(一八〇八年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げ』ている。その頃、小田原藩で千二百石取の『家老をしている服部十郎兵衛が、親族の助言により、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼した。金治郎は五年計画の節約でこれを救うことを約束し、文化十一年(一八一四年)に服部家の財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金』三百両を『贈ったが、自らは一銭の報酬も受け取らなかった。この評判によって小田原藩内で名前が知られるようになった』。『文化十三年(一八一六年)、前年に家に戻った友吉(常五郎)を萬兵衛の長男三郎左衛門の養子とし、自らも最初の妻を娶った。文政元年(一八一八年)、藩主大久保忠真が孝子節婦奇特者の表彰を行った時に、その中に金治郎の名もあ』る。『文政二年(一八一九年)、生まればかりの長男が夭折。家風に合わぬという口実で妻きのが離別を申し出たので、離縁した。翌年、三十四歳の金治郎は十六歳のなみと再婚し』ている。その後は、小田原藩主大久保家分家宇津家の旗本知行所(下野国芳賀郡の桜町)の再興救済を藩主より命ぜられ、文政六(一八二三)年(満三十六歳)で名主役柄で高五石二人扶持待遇で桜町に移住して再建に着手、二年後には組頭格に昇進して同町の主席となって、再建を成し遂げる(その方法が「報徳仕法」として他の範となったという)。天保四(一八三三)年に「天保の大飢饉」が関東を襲うと、藩命を受けて下野(しもつけ)にあった大久保領の領民を救済している。その三年後の天保七(一八三六)年には重病の忠真公にから小田原に呼ばれ、功績を賞されるとともに、飢饉にある小田原の救済を命ぜられ、その後も藩外の諸人の依頼を受けて復興・再興を手掛けている。天保十三(一八四二)年五十五歳で遂に幕府召抱えとなり、普請役格とされて印旛沼開拓と利根川利水について二件の提案を行っている(但し、不採用)。その後、天領や日光山領の復興・経営を任されるなどした後、下野の代官山内氏の属吏となって真岡に移住、日光奉行配下として精力的に働いたが、病を発し(引用元には発病を『三度目』とあるので調べて見たところ、結核である)、安政三(一八五六)年に下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所で満六十九歳で没した。なお、引用元の「逸話」には、『子供の頃、わらじを編んで金を稼ぎ、父のために酒を買った』とか、『荒地を耕して田植え後の田に捨てられている余った稲を集めて植えて、米を収穫した』とかあるが、『これらの逸話の多くは、弟子の富田高慶が著した尊徳の』伝記「報徳記」を由来とするもので、『尊徳は幼少期の頃について全く語らなかったため、高慶は村人から聞いた話を記したとしており、高慶自身信憑性は保証できないとしている』とある。

・「小學校の讀本の中に二宮尊德の少年時代の大書してあつた」芥川龍之介は明治三一(一八九八)年四月に満六歳(彼は明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)で江東尋常小学校(現在の領国小学校)に入学している。「讀本」「とくほん」と清音で読む。明治期から第二次大戦直後まで使用された小学校国語教科書、或いは広く教科書一般をも指した。「大書」(たいしよ(たいしょ)は、ここは大袈裟な表現を用いて書くこと、の謂いであろう。なお、我々がしばしば想起するところの像について、やはりウィキの「二宮尊徳」にある「尊徳・金治郎像」からここに引いておくこととする(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した。下線はやぶちゃん)。『各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」と呼ばれる)に関する記述は、明治十四年(一八八一年)発行の『報徳記』が初出である。そこには「大学の書を懐にして、途中歩みなから是を誦し、少も怠らず。」とある。この「書を懐にして」を、「懐中」か「胸の前で持って」と解釈するかは判断に迷うところだが、金治郎像では後者で解釈されている』。但し、『先述のように『報徳記』の尊徳幼少期の記述は信憑性が薄く、このような姿で実際に歩いていたという事実があったかは疑問が残る』(前注参照)。「報徳記」を基とした幸田露伴著の「二宮尊徳翁」(明治二四(一八九一)年十月刊)の『挿絵(小林永興画)で、はじめて「負薪読書図」の挿絵が使われた。ただし、これ以前から既にこの図様に近い少年像は存在していた。金治郎の肖像画のルーツは中国の「朱買臣図」にあり、これが狩野派に伝統的な画題として代々伝わり、その末裔の永興もこれを参考にしたと想定される』(朱買臣(?~紀元前一一五年)は前漢の人で会稽郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)出身。家が貧しかったが読書を好み、生産業に従事せず、薪を売って生活しており、薪を担いで歩きながら書を読んでいたとされ、後に武帝から会稽太守を拝命した。但し、最後は武帝に誅殺されている。ここはウィキの「朱買臣」に拠った)。『確認されている最初のこの姿の像は、明治四十三年(一九一〇年)に岡崎雪聲が東京彫工会に出品したものである。明治三十七年(一九〇四年)以降、国定教科書に修身の象徴として尊徳が取り上げられるようになった。小学唱歌にも『二宮金次郎』という曲がある。しかし、修身国定教科書には金治郎の逸話は取り上げられたものの、「負薪読書図」は一度も掲載されていない。「負薪読書図」が広まったのは売薬版画や引札、子供向けの伝記類による』という。『これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金治郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとすることで、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金治郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われ』、かの『小学校の校庭などに見られる「金治郎像」は、彼らの政策によって展開された社会環境を前提として、国家の政策論理に同調することで営業活動を行った石材業者や石工らによって広まったとされる。小学校に建てられた「金治郎像」でもっとも古いものは、大正十三年(一九二四年)、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられたものである』(このことから、龍之介の文章が像のイメージに関わっていない理由が解る。本章の公開はまさに大正十三年六月であるからである)。『その後、昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。そのとき、大きさが一メートルとされ、子供たちに』一メートルの『長さを実感させるのに一役買ったといわれることがあるが、実際に当時に製作された像はきっかり一メートルではないことが多い。これは、昭和十五年(一九四〇年)頃に量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられる。この像が戦後、GHQの指令により廃棄されたといわれることがあるが、二宮尊徳が占領下の昭和二十一年(一九四六年)に日本銀行券(一円券)の肖像画に採用されていることからも分かるとおり、像の減少と連合軍総司令部は特に関係は無い。戦前の像は銅製のものが多く、これらの多くが第二次世界大戦中の金属供出によって無くなったため、混同されたものと考えられる』。『金属供出に際して、教育的配慮として、教師や児童の立会いの下で像にたすきをかけて壮行式を挙行し、戦地に送り出したり、撤収後の台座に「二宮尊徳先生銅像大東亜戦争ノタメ応召」の札が立てられたこともある』(最後の箇所は知って見ればまさにそれこそ「学校の怪談」、都市伝説の類いであったわけで、知れば、寧ろ、鋳潰したのは大日本帝國であったわけである。)。『石像のものはその後の時代も残った。また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあった。像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから、一九七〇年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にある他、「児童の教育方針に合わない」などの理由で、破損しても補修に難色を示す教育委員会もある。 岐阜市歴史博物館調べによると、市内の小学校の』五十五・一%に『「二宮金治郎像」が存在し(二〇〇一年現在)、近隣市町村を含めると』、五十八・五%の『小学校に「二宮金治郎像」が存在する。また』、二〇〇三年に『小田原駅が改築され』、『橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられた』。『二〇一〇年代に入って歩きスマホの危険性が社会問題になったが、この問題を受けて「いまいち一円会」が二〇一六年に日光市立南原小学校に寄贈した石像は立像ではなく座像となっている』。……スマホに負けて正座させられてしまった金治郎!!!――

・「草鞋」「わらぢ(わらじ)」。

・「健氣」「けなげ」。「けなりげ」の転訛で、「け」は「気」で「心身の精気・気力」の謂いであろう。心がけや態度がしっかりしているさま。現代では特に、幼く力の弱い者が、困難な状況で立派に振る舞うさまに用い、ここはまさにそれ。

・「立志譚」「りつしたん(りっしたん)」(筑摩全集類聚版は「だん」と濁るが、採らない)。志しを立て、苦労と努力の末に成功した人の物語・伝記。

・「十五歳に足らぬわたし」数えであるから、満で十三から十四歳相当となる。龍之介は明治三八(一九〇五)年三月(既に述べた通り、彼は明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)に江東尋常小学校高等科三年を修了しているから、合致する(龍之介は無論、成績優秀であって、実は当時は高等科二年修了で旧制中学進学が出来たのであるが、生家新原家と養家芥川家との間の養子縁組に関わる戸籍上の問題解決に時間がかかったために、進学は一年延期されたのであった。ここは一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の明治三十八年三月の条の記載に拠った)。

・「尊德の兩親」「は尊德の教育に寸毫の便宜をも與へなかつた。いや、寧ろ與へたものは障碍ばかりだつた位である。これは兩親たる責任上、明らかに恥辱と云はなければならぬ」「寸毫」「すんがう(すんごう)」は極めて僅かなこと・ほんの少しの意(「毫」は獣の細い毛を指す)。「障碍」は「障害」に同じい(「碍」の字は「妨げる・進行を邪魔して止める」の意。私は「害」の字が生理的に嫌いなので以前からよく「障碍」の字を用いるが、「障害」という字が身体にハンディを持つ人を差別するから「障碍」とするべきだという立場には立っていない。言葉狩りをしても差別意識は何ら変わらぬ。文字が消えても、心にその心のあるのは、もっとタチが悪いとさえ思う人間である)。さて、芥川(元姓新原)龍之介によって実父母や養父母はどのような存在だったかを考えてみると、この謂いは、机上の論理的な思惟なんぞではなく、実はこの感懐は龍之介自身が身に染みて感じている深刻なトラウマであることが見えてくるのである。龍之介は自身の複数の作品中(例えば簿」の「一」。冒頭が「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。」で始まる。リンク先は私の電子テクスト)でしばしば実母フクを「狂人」と称し、その遺伝からの発狂恐怖を持っていたし、実父のことは明らかに冷淡に軽蔑していた様子が諸表現からつぶさに窺える。養父母に対しては心から感謝の念を持っていたものの、彼等を龍之介が猜疑する孝道に基づいて、或いは義務に於いて、経済的に支え続けねばならぬことに龍之介は正直、四苦八苦していた状況も見てとれるからである(養父母は孰れも龍之介自死の折りには存命であった)。

・「博奕打ち」「ばくちうち」。

・「彼等の利己主義」これは実際の尊徳の両親という個別性を問題としていない。あらゆる子を持つ、本話を自身らにのみ都合よく語るところの、人の子の「両親」、否、それを賞揚し、強制的に「孝道の鏡」として押しつけてくるところの「教師」、その背後でそれを操るところの「国家」こそが「彼等」であり、「彼等の利己主義」なのである。だからこそ最後の「鎖に繫がれた奴隷のもつと太い鎖を欲しがるやうに」という一文が強烈に生きてくるのである。

・「聲譽」「せいよ」。良い評判・誉(ほま)れ・名声。]

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