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2016/05/31

ブログ・アクセス820000突破記念 埋葬 梅崎春生

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年一月号『早稲田文学』に発表されたが、既刊本には未収録。底本は昭和五九(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第一巻」に拠った。一ヶ所空欄があるが読点の落ち(誤植)と判断して打った。

 本作は梅崎春生自身の体験に基づくノンフィクションと読んで差支えない。そこで敗戦直後の周囲の兵たちの心理を批判的に捉えた箇所がある。では彼は梅崎は本当はどうだったのだ、とちゃちゃを入れる輩がいるかも知れぬ。そういう奴のために、既に公開した梅崎春生の敗戦の年の日記をリンクさせておく。

 本電子テクストの公開は、2006年5月18日のニフティの本ブログ・アクセス解析開始以来、820000アクセス突破記念とする。【2016年5月31日 藪野直史】]

 

 

   埋葬

 

 

「キイロ・キイロ・キイロ」

「コイヌ・コイヌ・コイヌ」

 これは太平洋戦争の末期、日本海軍が制定したある暗号である。晴号というよりは略語に近いものだが、おそらくこの「キイロ」「コイヌ」の連送は、実際には使用されなかっただろうと思う。これは、上空に原子爆弾を積んだと推定される飛行機を発見した場合に、各方面に無電で通報するための暗号だが、それから四五日もしたら戦争は終ってしまった。だから此の暗号は制定されただけにとどまって、実際には電波に乗っていない筈だ。此の時期海軍暗号兵であった私も、此の連送は一度も受信しなかった。しかし此の連送信だけは、ふしぎに私の胸に残っている。

「キイロ・キイロ・キイロ」

「コイヌ・コイヌ・コイヌ」

 片仮名の此の組合せを、中央の誰が考案したものか。それは私は知らないけれども、これらの言葉のなかには、微妙ないやらしいニュアンス、いわば超現実風な嘔吐(おうと)感がある。ある救われがたい頽廃と言いようもない冷淡さが、此の片仮名の組合せにはこめられているように思えるのだ。それはただ、私が感じるだけだろうか。あの日本海軍の末路を、そして一年四箇月の苦しかった兵隊生活を憶(おも)うたびに、これらの言葉は一種の終末的な感じを引いて私の胸に浮び上ってくる。

 あの八月十五日の日、私の部隊ではラジオの具合がわるくて、あの放送の内容は誰にも判らなかった。それから私は居住区へ戻って来て昼寝をして、夕方六時頃当直のため暗号室に出かけて行った。暗号室(といっても壕の中だが)に入って、前直が受信した電文綴りを調べようとして一枚めくると、いきなり終戦という文字が眼にとびこんできて、私は心臓がどきんとして、身体がみるみる熱くなって行くのが自分でも判った。私は顔をあげて、指揮卓にいる暗号士に思わずはなしかけた。

「これは本当ですか?」

 暗号士は私を見て、ふしぎな笑いを頰にうかべながら、極くあたりまえな口調でこたえた。

「そうだ。本当だ」

 そのまま暫(しばら)く私は腰かけにすわっていたが、ついにこらえ切れなくなって、便所に行ってくるような顔をして壕の外にとびだし、壕の入口のすぐ前にある草原の斜面を、ひとりで興奮してぐるぐる歩き廻った。そのうちに興奮もしだいに収まってきたから、また壕の内にもどって行った。暗号室というのは壕の奥のほそながい場所で、そのむこうは両側の台に器械をずらずらと連ねて、電信兵たちがカチャカチャと電鍵を打っている。いつもの光景と少しも変化がないのが、私には大へん奇異に思われた。皆なにも知らないのではないかとも思った位だ。もちろん通信兵たちだから知らない筈はないのだけれども、その場の印象はおそろしく落着いていて、いつもとすこしも変りなかった。海軍では、冷静とか沈着とかいうことを何時も言っていて、大事に際しても心緒(しんしょ)を乱さぬことが第一の条件とされていたが、その教育が徹底して、こんな具合になったのかも知れない。しかしその場で、私が全身をもって感じ取ったのは、そのような堅固な自律ではなかった。そんなものでは全然なかった。うまく言いあらわせないが、たとえば、頽廃の果てにある冷淡さ。私が感じたのはそんなものであった。此の日を通じて、何時もと少しでも違ったものがあったとすれは、それはあの時暗号士の頰に浮んだ不思議な笑いだけだった。それは何か羞恥に満ちたような変なわらい方であった。晴号士は予備学生で、出征前はたしか東京の荒川区かの小学校の先生だという男だった。赤沢少尉といったが、あまり軍人らしくない若々しい男であった。あの笑い方は私にも判らないことはない。あの場合私が聞かれる立場になれば、私もあんな笑い方をしただろうと思う。私はこのことだけで、赤沢少尉に対しては今でも人間的な親近感をもっている。上官対部下として、勤務以外にはほとんど交渉はなかったのだけれども。

 

 それから一日一日経って、武装解除、部隊解散、ということが皆に判り出した頃から、各科それぞれ復員荷物のつくり方が始まった。たとえば看護科では看護兵たちが自分の衣囊(いのう)に薬品をつめるのに懸命になっているし、主計科では罐詰や航空糧食の分配に専念しているというわけで、たちまちにして部隊の機能は混乱を呈してきたが、混乱しているのは機能だけであって、各個人個人はいささかも混乱してはいなかったのである。じつに沈着に自らの衣囊をみたすことに専心していた。私なども足に怪我をしていて看護室にそれまで通っていたのだが、そうなるとてんで治療もしてくれなくなったのだ。軍医は軍医で、ごっそりともつて行こうと大がかりな衣囊をキャンバスでこさえて、専(もっぱ)らそれに高価な薬品を詰めこむことに大童で、私の顔をみても、それは故郷にかえって治療したらいいだろう、と言うだけで、何にも手を加えてくれない。どこの科でもそうであった。私たち通信科の方でも、電報はだんだん減少してきたし、来ても翻訳を要しない平文が多かったから、大へん暇になった。夜は充分ねむれるし、食事の方は主計科の連中が分取った余りを惜しみなく、白米はたくさん焚いてくれるし朝から牛乳がついていたりして、食べきれない分を谷底に捨てる程であった。しぜん居住壕にごろごろしていたりする時間が多かったが、そこで出る話というのはおおむね、どこそこの科ではどんな物資を分配したかとか、故郷に戻ったらどんなことをするつもりだとか、専(もっぱ)らそんな会話ばかりで、此の戦争で日本が負けたことの感想だとか、将来日本がどうなるかというような話は、ほとんど皆の口にのぼらなかったのである。たまにそんな話がでても、皆そんなものに興味がない風で、すぐ他の話ととってかわった。兵隊は年がわかいのだから仕方もないのだろう。けれども、年配の下士官でもそんな具合で、そんな連中が通信科は分取る物質が少ないなどと嘆いているのを見ると、私はなにか摩滅した人性といったようなものをそこに感じ、此の男たちは本気でこんなことを言っているのかと、ふと不安になる位であった。通信科は物資が少ないといっても、その連中はけっこう抜け目なく、衣囊(いのう)に真空管をたくさん詰めこんだりしていた。あんなに真空管をもって帰ってどうするつもりか、と私は思ったりしたのだが、なかにはあの重い発電機を苦労してかついで復員して行った下士官もあったのだ。こんな具合にして、第三十二突撃隊桜島分遣隊という私の属した部隊の物資は、皆ちりぢりに消滅してしまった。私もまた人なみに、自分の衣囊をさまざまなものでふくらませて、八月二十六日軍用波止場から大発にのり、一箇月余勤務した此の荒涼たる火山島をはなれた。

 鹿児島の埠頭(ふとう)に降りて駅の方へ歩きだそうとすると、反対側についていた小汽船の中から私の名をよぶ声がする。見ると小さな窓から首を出していたのは、谷山の部隊で一緒だった上原という下士官であった。私が近づいて行くと、ほとんど涙ぐまんばかりにして掌をふりながら、

「残念だったなあ。残念だったなあ」

 気持が激してきて、それだけしか言えない風であった。そばにやはり谷山で一緒だった田上兵長もいたが、これはけろりとした顔で私にあいさつしただけであった。私は始め、上原兵曹がなにを残念がっているのか、ちょっとはかりかねていたが、やがて此のたびの降伏を言っているのだと判ると、私もまた一種の感動で思わず胸が熱くなるような気がした。しかし私はあの放送以来、残念というのから正反対の気特になっていたのだが、私にしてみればあの日このかた、此の上原兵曹の言葉が最初に聞く人間の肉声みたいな感じがしたのである。此の汽船は鹿児島湾内を巡航する航路なので、上原兵曹も田上兵長も薩摩半島にある自分の故郷に、これに乗って帰るところらしかった。だから私たちは此の埠頭で帽子をふって別れた。それ以後逢(あ)いもしないし、また生涯逢う機会もないだろうが、やはり私はときどきこの感傷的な下士官のことをある親近感をもっておもいだす。自分の面前に去来する事象にだけむやみに熱心なくせに、その他のことにはおそろしく冷淡で無関心な海軍軍人の中で、この下士官はその感傷でもって人間としての保証を示していたように思われるのだ。この下士官が異例であったということが、いわば日本海軍の最大の不幸であった。

 日本海軍は、その冷情ゆえに、もはや頽廃にまで深まったこの冷情のゆえに、もろくも地球上からほろびたもののようである。

 

 

 佐世保海兵団にいたとき、巡検後の莨盆(たばこぼん)で、見知らぬ下士官が私をつかまえて、自分の戦争の経験を話してくれたことがある。それはミッドウェイの海戦で、航空母艦に乗っていたという。魚雷を食ったとき、彼は上甲板にいたのだ。またたく間に艦は傾きはじめて総員退去の命令が出た。魚雷をうけてから一分間も経たない間のことだ。

「何しろ手荒く早かったな。居住区の連中は逃げる間もありやしない。下から水はどんどん入って来るし、隔壁はぴしゃりしめられたままだし――」

 換気の円筒の中を我先にのぼってくる。ところが上甲板に開いているその換気孔は、びっしりと金網が張ってあって、そこから出ることは出来ないのだ。もはや海水がいっぱいだから引返すことは出来ない。皆わかい搭乗員たちだったと言うのだが。

「鼠取りというのがあるな。それを河の水に漬けるのと同じよ。ひしめきながら鼻先を金網のさきに出して、やがてぐつと艦が傾いて、おれが浮んで木片にとりついたときは、あの大きな艦が、影も形もなかった」

 その話の内容はともかく、私の注意をいたくひいたのは、その男の話しぶりであった。ひとことで言えば、おそろしくつめたい客観的な話し方である。微塵(みじん)の感傷もない。可哀そうだったとか、残念だったとか、そんな主観的な言葉も全然使わない。ただ自分が見聞したことを、冷然とつたえるだけである。この話し方は私を少からず驚かせた。

 その頃私はひやひやしていた。海兵団では私は定員ではなく、補充員だったから、どのみち転勤命令がくるにきまっていた。毎朝分隊ごとに集合して、転勤命令の発表がある。台の上に先任下士が立って、名前を呼び上げ、以上海防艦何々行とか、何々警備隊行とか、大声でいう。万事はそれで定ってしまう。あの話をきいて以来、航空母艦の配乗になったらどうしよう、と私は毎朝ひやひやした。私は暗号兵だから、上甲板にいるという訳にはいかない。そんなことがあれば、やはり鼠取りの鼠の二の舞である。もちろんどの船に乗組んでも同じことだが、そんな話を聞いた揚句だから、気分で航空母艦にだけは乗りたくなかった。

 毎朝そんな具合にえらばれた人員は、各分隊からのと皆一緒にあつまって、ひるごろ列をつくつて海兵団から出てゆく。その時軍楽隊が正門のところにいて、にぎやかに吹奏するのである。足を合わせてざっくざっくと出て行く。居住区にいてもその楽音はきこえて来るのだ。居住区にいる兵隊も、洗濯場にいる兵隊も、毎日で慣れているせいか、ほとんど耳にも入らない様子であった。明日は自分があの楽隊に送られて、再びかえらぬ旅路に出るかも知れないのに、平気な顔をして聞きながしている。勿論(もちろん)はたから見れば、私もそんな顔しているに違いなかった。だから残留する兵たちの心情を、必ずしもつめたいとは断言できぬが、総体的にいえばそこには言いようもない冷淡さが私には感じられるのであった。そのなかに遠くひびきわたる楽隊の音ほどかなしい音楽を、私は生涯再び聞くことはないだろう。

 

 周囲の運命や、あるいは自分の運命にも、おそろしく冷淡であるくせに、自己の生活的な利害や感覚にさからってくるものには、極めて敏感であるのが此の人々の特徴であった。私も始めごろは、こんな小姑(こじゅうと)的ないじめ方をされて、海軍の軍人とは何と女みたいにひねくれているのだろうと思ったりしたが、その中に慣れてくると、自ずと要領を知って、彼等の視角の盲点に自分をおくすべを覚えてきた。覚えてしまえば何でもないことであった。

 佐世保海兵団というのは、大へん複雑な地形と混乱した機構をもっていて、建物だって整然と並んではいず、あっち向いたりこつちを向いたりしていた。補充員分隊では、朝食後にタテツケをやって、皆作業に出てゆく。山ノ田とか川棚とかに行って、トロッコを押したり火薬を運んだりするのである。これがなかなかの重労働で、相当の危険もあるし、私のように体力劣弱なものにとつてはまことに苦痛な作業であった。もともと補充員の分隊は、それぞれどこかへ配乗される予定のものの溜り場みたいな処で、海兵団の中では特定の仕事をもっていない。だからこんなに作業に引っぱり出されるのである。四五日その作業をやってうんざりしたから、それ以後は私は出ないことにした。出ないためにはどんなことをすれはよいか。方法は簡単である。タテツケに整列しなければよかったのだ。

 そして昼中海兵団の中をうろうろ用ありげにうろついて居ればよかった。その代り班の方には作業に出たことになっているから、昼飯を食べに帰るわけには行かない。辛いといえばそれが辛かった。しかしその辛さも作業にくらべれば物の数でなかった。そして一日中うろつくことにおいて、あの特徴的な冷淡さが私には大へん有難かった。もし冷淡でない下士官でもいて私に、お前は何のためにうろついているのか、と問いかけでもしたら、たちまち私は困つたに違いないからである。うろつくことにも飽きたら、私は衣囊の中からそっと自分の汚れ物を持出して、洗濯場で洗濯をした。だから海兵団にいる間に私は、自分のものはすっかり洗濯しあげて、やがて命令で新しい配置につくことが出来た。幸いにもおそれていた空母乗組ではなくて、佐世保通信隊付であったことは、私の生涯の幸運のひとつであった。私はやはり楽隊におくられて正門を出、すぐお隣の鎮守府の中にある通信隊におちついた。ここからも毎日、あの楽隊の音を遠く聞くことが出来たのである。また玉砕部隊が出て行くと私たちはその度に話し合ったりした。私もだんだんその頃から無感動になって行くらしかった。

 この佐世保通信隊には私はふしぎに縁がふかく、前後二回を通じて六箇月私はここに勤務した。私の兵隊生活の三分の一以上である。ここは海兵団ほど世帯が大きくなかったから、視角の盲点というものがなかなか無くて、生命の危険は絶対になかった代りに、勤務としては大へん辛い隊だった。しかし、海軍軍人のいろんな性格の型や共通した偏向を、充分に知ることが出来たのは此の隊に於てである。私は何時か此の通信隊のことを一度は書いてみたい。ぼけたような顔の司令や、神経質な暗号士や、女みたいに執拗な下士官どものことを、私は存分に書いてみたいと思う。

 

 インテリと言ったら語弊があるから、学校出と言おう。私は学校出の人間をほとんど信用しない。軍隊での経験が私にそれを教えたからだ。

 応召の学校出ばかりをあつめて、暗号の講習をやり、そして暗号員として配置する。こんなことを海軍が考えて、私も入隊すぐそれに入れられた。だから講習の三箇月間は皆学校出と一緒だったし、実施部隊に行ってもそんな連中が配置されていて顔が合った。そのせいで私は学校出のいやらしさを徹底的に見聞した。ことに若い学校出がわるかった。食事当番のときに自分のだけに沢山よそったりするのは極って学校出だった。また自尊心が強いくせに卑屈で、うるさい下士官などにまっさきにペコペコするのも、学校出の特徴であった。もちろん皆が皆そうではなかった。しかしおおむねそうだった。そして学校出のいやらしさというのは、つまり私のいやらしさに外(ほか)ならなかった。その事は私もうすうす気付いていた。そしてますます学校出を憎む気特におちた。

 海兵団にいた頃、教班長に師範学校出がいて、これからずいぶん痛めつけられたことがある。師範出というのは何故か特典があって、すぐ下士官になることが出来る。この教班長もそれであった。大へん冷酷で残忍な男であった。しかしこの傾向は多かれ少かれ師範出に共通なものであることを、私は間もなく知った。師範出の教班長はその海兵団にはたくさん居たから。

 そして私たちがだんだん日数を経て、古い兵隊になるにしたがって、わかい兵隊に威張りたがったり殴りたがったりするのも、必ず学校出だった。それは不思議な位であった。なぜ彼等は位がすすんで一等水兵になったのが、そんなにうれしかったのだろう。しかし私は応召前は東京都庁やある軍需会社などに勤めていたから、小役人や会社員からの類推で、これを不思議だとは余り考えなかった。現代の奴隷根性はむしろ学校出にあることを、せんから私はぼんやり感じ始めていたのである。軍隊におけるその見聞は、いわばその確認にすぎなかった。そしてそれらはすべて私にかえってきた。私は自分の根性の屈折を探ることで一年半を暮したもののようである。

 講習が終って、同年兵があつまって撮った写真が私に残っている。顔を眺めても、もう半分位は名前も忘れてしまった。どの男にもも一度会いたいとは思わない。此の男たちも私に会いたいとは思わないだろう。この男たちもやはり、まことに冷淡な傾向があった。

 ふつうの志願や徴募の兵の冷たさは、なにか摩滅したものの冷たさであったが、学校出に共通したものは卑少なエゴイズムからくる冷たさであった。同じつめたさでも、その肌合いは異っていた。しかし冷たいという点では同じだった。その雰囲気の中で、自分だけは異質と考え、周囲から隔絶した壁をつくつたつもりの私も、ひとしく冷たい個体にすぎないのかも知れなかった。意識的に私は自分を摩滅させようとは思わなかったが、自然に私の内部で死んで行ったものがあるらしかった。しかし私はあたたかいものへの思慕を絶やさなかったから、今こうして生きて居れるのだろう。あの桜島の暗号士や上原兵曹を時々思い出すのも、なにかそことつながっているような気が私にはするのである。

 

 海軍の暗号兵で苦労した老兵があつまって、若しかりしことどもを語り合おうということになつて、此の間出かけて行った。あつまったのは三人で、宮内寒弥、倉崎嘉一の両氏と私とである。私は少し定刻におくれて行ったのだが、時間を切るとはなにごとだと、あぶなく二人から整列をかけられそうになって、あやまって勘弁してもらい、それから新橋あたりで焼酎など飲みながら昔話をした。たいへん愉快な一夕であったけれども、話はおおむね具体的な思い出ばかりで、私にしてもあの持続した孤独感をうまいこと言いあらわせなくて、結局はそんな具体的な経験だけを口にしたようにおぼえている。しかし、それはそれでいいのだろう。言葉にすれは嘘(うそ)になるようなものが、人間の心の中にはあるものだから。そしてそれは各自が秘めていて、墓場にもちこす外はないだろう。私のあの一年四月の生き方も、人にとってはその類であるもののようだ。私の心の中で埋葬してしまう外はない。

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