吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「昆蟲」
昆蟲
草深いその佗住居――佗住居と妻は云つてゐた――には、夏になると、いろんな昆蟲がやつて來た。梅雨頃のおぼつかなげな、白い胡蝶、潮風に乘つて彷徨ふ揚羽蝶、てんたう蟲、兜蟲、やがて油照りがつづくと、やんまの翅をこする音がきこえ、蜥蜴の砂を崩す姿がちらついた。その狹い庭には、馬陸(やすで)といふ蟲が密生してゐたし、守宮も葉蔭に這つてゐた。それから、夜は灯を慕つてやつて來る蟲で大變だつた。灯を消しても、邯鄲はすぐ側の柱で鳴き續けたし、大きな蛾は、パタパタと蚊帳のまはりを暴れた。殺して紙に包んで捨てた筈の蛾が、翌朝も、秋雨のなかで動いてゐることがあつた。眼球がキーンと光つてゐるといつて、妻は特にその蛾を厭がつた。ある年、黄色い蛾が、この地方を脅やかした。その粉にあてられると、皮膚が腫れるといふのであつた。この蛾のためかどうかはつきりしないが、妻の顏が遽かにひどく腫れ上つた。それは濕疹だといふことであつたが、妻の軀にはそれからひきつづいて不調が訪れて來たのだつた。
夏の終り頃には、腹に朱と黄の縞のある蜘蛛が、窓のところに巣を造つた。黐木の枝に巣を張つてゐる蜘蛛も、夕方になると、かならず同じ場所に現れた。微熱のつづく妻は、緣側の靜臥椅子に橫はつたまま、それらを凝と眺めるのであつた。さういふとき、時間はいみじくも停止して、さまざまな過去の斷片が彼女の眼さきにちらついたのではあるまいか。そこから、昆蟲の夢の世界へは、一またぎで行けさうであつた。簷のところで、蟷螂と蜂が爭つてゐることもあつた。蜥蜴と守宮が喧嘩してゐることもあつた。蟻はせつせと荷を運び、蜂の巣は夕映に白く光つた。
妻が死んだ晩、まだ一度も手をとほさなかつた綠色の晴着が枕頭に飾つてあつた。すると、窓から入つて來た蟷螂が、その枕頭をあたふたと飛び𢌞つた、――大きな綠のふしぎな蟲であつた。
[やぶちゃん注:貞恵の亡くなったのは昭和一九(一九四四)年九月二十八日であった。本篇には博物学的興味からは多くの注を附したい欲求に駆られるのであるが、ここはコーダのシークエンスを静かに味わって戴くために、敢えてこの注だけで留めおくこととする。]
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