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« 和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蠅虎 | トップページ | 吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「カナリヤ」 »

2016/05/02

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 /始動  「マル」

吾亦紅   原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:十章から成る本篇全体は昭和二二(一九四七)年三月号『高原』に発表され(当時の民喜は満四十歳)、後の民喜自死の二年後の昭和二八(一九五三)年三月角川書店刊「原民喜作品集 第二巻」に「美しき死の岸に」の総評題で「忘れがたみ」「小さな庭」、そして本「吾亦紅」、以下、「冬日記」「秋日記」「画集」「雲の裂け目」「魔のひととき」「苦しく美しき夏」「夢と人生」「遥かな旅」「美しき死の岸に」の全十二篇の一篇として所収された。底本(後述)の編註によれば、この総標題と配列は原民喜自身の分類・配列によるものであるとする。

 本「吾亦紅」の末尾には(ここでは以下に示す底本のままに示す)、

――昭和二十一年九月 貞恵三回忌に――

というクレジットと添書が附されている。

 本「吾亦紅」の各篇とその全体は民喜の散文詩の一つとして捉えてよいものと私には思われる。底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 」を用いたが、本カテゴリ「原民喜」で既に述べた通り、民喜が終生、基本的に一貫して正字を用いていたこと、本文が歴史的仮名遣を用いていること、及び、本篇の内容が昭和一九(一九四四)年九月二十八日に亡くなった妻貞恵の死(明治四四(一九一一)年生まれ。享年三十四。民喜より六つ年下であった)をテーマとしていることから、恣意的に多くの漢字を原則、正字化して示すこととする。

 「吾亦紅」は「われもかう(われもこう)」で第六章の「草木」の印象的なシークエンスに登場する。バラ目バラ科バラ亜科ワレモコウ属ワレモコウ Sanguisorba officinalis 。各章の後にオリジナルな注を附した。ウィキの「ワレモコウ」によれば、『草地に生える多年生草本。地下茎は太くて短い。根出葉は長い柄があり、羽状複葉、小葉は細長い楕円形、細かい鋸歯がある。秋に茎を伸ばし、その先に穂状の可憐な花をつける。穂は短く楕円形につまり、暗紅色に色づく』とあり、この名は「源氏物語」にも『見える古い名称である。漢字表記においては吾木香、我毛紅、我毛香など様々に書かれてきたが、「〜もまた」を意味する「亦」を「も」と読み、「吾亦紅」と書くのが現代では一般的で』、『名の由来には諸説あるが』、植物学者『前川文夫によれば木瓜文(もっこうもん)』(日本の家紋の一種で瓜紋(かもん・うりもん)ともいう。卵の入った鳥の巣の様子に似ているとされる)『を割ったように見えることからの命名と』する『ほか、「我もこうありたい」の意味であるなど、様々な俗説もある』と記す。

 各章の後にオリジナルな注を附した。]

 

 

 吾亦紅

 

 

   マル

 

 マルが私の家に居ついたのは、昭和十一年のはじめであつた。死にさうな、犬が庭に迷ひ込んで來たから追出して下さいと妻はある寒い晩云つた。死にはすまいと私はそのままにしておいた。犬は二三日枯芝の日だまりに身をすくめ人の顏をみると脅えた目つきをしてゐたが、そのうち元氣になつた。鼻や尻尾に白いところを殘し、全體が褐色の毛並をしてゐる、この雌犬は人の顏色をうかがふことに敏感であつた。

 その春、私たちは半月あまり家をあけて、歸郷してゐたが、千葉の家に戾つて來たのは夜更であつた。木戸の方から、生ひ繁つた雜草を踏んで戸袋のところの南京錠をあけようとしてゐると、何か私たちの足もとに觸はつたものがある。「マル」と妻は感動のこもつた聲を放つた。烈しい呼吸をつきながらマルは走り𢌞るのであつた。

 秋になると、マルはもう母親になつてゐた。芙蓉の花の咲誇る下で仔犬と戲れ合つてゐる姿は、いかにも滿ち足りたものの姿であつた。ところが間もなく、マルは犬獲りに攫はれて行つた。隣家の細君と私の妻とは、蘇我といふ所の犬獲りの家を搜しあて、漸く無事に連れ戾つた。すると、その隣家の子供は、戾つて來たうれしさに、いきなりマルの乳を吸つてみたのである。うそ寒い夕方、臺所の露次で、他所の犬が來て、マルの乳を吸つてゐることもあつた。「をかしな犬」と妻はあきれた。

 翌年の寒中のことであつた。マルは他所の家の床下に潛り込んだ儘、なかなか出て來ようとしなかつた。その暗い床下からは、既に産みおとされた仔犬の啼聲がきこえてゐた。四五日して現はれたマルの姿は、ひどく變りはててゐた。子宮が外部に脱出してしまひ、見るも痛々しげであつた。マルは苦しさうに眠りつづけた。今度はもう死ぬるかと思はれたが、そのうちにまた歩きだすやうになつた。胯間に無氣味なものをぶらつかせて、のこのこと歩く姿は見る人の目を欹だたせたが、マルの目つきも哀れげであつた。

 その年の秋、私の家の前に小林先生が移轉して來た。その新婚の細君と私の妻とは、すぐに親しく往來するやうになつた。マルの姿は先生の注意をひいた。「いつか手術してやる」先生はその細君に漏らしてゐたのである。

 マルが手術されたのは、翌年の春であつた。恰度、旅から歸つて來た私は、玄關先に筵を敷かれて寢そべつてゐるマルの姿を認めた。留守の間に、小林先生の細君と私の妻は、マルを醫大に連れて行つたのであつた。「それは大變でしたよ」と妻は浮々した調子でその時のことを語つた。自動車に乘せて、大學の玄關まで運ぶと、そこに看護婦が待伏せてゐて、板に縛りつける。無事に手術を了へると、マルは、牛乳やらビスケツトやらで歡待されたのである。(もつと細かに、面白げに、妻は私に話してくれたのだが、今はもう細かな部分を忘れてしまった。今になつて思ふと、妻は私にそのことを面白く書かせようと考へてゐたのに違ひない。)

 手術後のマルはあの醜いものを除かれて、再び元氣さうになつた。だが、歳月とともに、この犬の顏は陰氣くさくなつて行つた。自轉車に乘つた人を見るたびに火のついたやうに吠え猛つた。ある日、妻がお茶の稽古から歸つて、派手なコートの儘、臺所の七輪を弄つてゐると、ふとマルが鼻を鳴らしながら近づいて來る。珍しく甘えるやうな仕草で、終にはのそのそと板の間に這ひ上つて來るのであつた。どうしたのだらうと私たちは不審がつたが、妻はお茶の師匠の處でそこの小犬を一寸撫でてやつたことを思ひ出した。

 マルは翌年の秋、死んだ。あまり吠えつくので、誰かが鐵片を投げつけたらしく、その疵がもとで、犬はぽつくりと死んだ。恰度、私の妻は最初の發病で、入院中であつた。茫とした國道の裏にある、小さな病院の離れで、妻は顏を火照らしながら、ひどく苦しさうであつた。その病院から、ほど遠からぬ荒れはてた墓地の片隅に、マルは埋められた。

(小林先生はマルを手術した翌年、本町の方へ轉宅した。だが、その後も私の妻と先生の細君とは仲よく往來してゐたし、妻が病氣してから他界する日まで絶えず私たちは先生のお世話になつてゐた。)

 

[やぶちゃん注:「昭和十一年のはじめ」一九三六年年初の頃は、原民喜は満三十歳、貞恵は満二十四かと思われる。結婚して三年目の春を迎えていた(二人の結婚は昭和八(一九三三)年三月)。以下、本「吾亦紅」全篇のロケーションは当時夫妻が昭和九(一九三四)年初夏より住んでいた千葉県千葉市登戸(のぶと)町(現在の千葉市中央区登戸)の家である。底本年譜を見る限りでは民喜は作家稼業で定職には就いておらず、この年の四月頃から『三田文学』への投稿が多くなり、戦前の民喜の最も旺盛な作家活動の一ピークを成した(しかし、昭和一四(一九三九)年九月の貞恵の発病と同時に発表作品は減ずることとなる)。

「攫はれて」「さらはれて(さらわれて)」。

「隣家の細君」この人は原民喜の「忘れがたみ」の「南瓜」(リンク先は私の恣意的正字化版)に出る「隣の奧さん」に違いない。そう、思いたい。

「蘇我」現在の千葉県千葉市中央区蘇我町のことであろう。登戸からは南西海沿いに五キロメートルはある。

「翌年の寒中」この寒中を限定した「寒の内」の意で用いているとすれば、昭和一二(一九三七)年の「寒の入り」(一月五日或いは六日頃)から「寒の明け」即ち「立春」(二月四日頃)前の約三十日間を指す。

「胯間」「こかん」。股間に同じい。

「小林先生」看護婦らの手際の良さから見ても、この先生は獣医師であったのではないかと私には思われる(普通の医師でもよいが、看護婦の対応はそう上手くは行かないと思われるからである)。但し、旧千葉医科大学(現在の千葉大学医学部の後身)或いは千葉大学内に農学部や獣医学科があった痕跡は発見出来なかった。しかし、立地的には牛馬や畜産と関連があり、当時、あったとしてごく自然であるとは思う。

「翌年の春」昭和一三(一九三七)年春。「恰度、旅から歸つて來た私」とあるのは、底本年譜に『この年春、京都周辺を単独で旅行する』(同年譜は小説のための取材旅行と推定)とあるのと一致する。

「弄つて」「いぢつて(いじって)」。

「翌年の秋」「恰度、私の妻は最初の發病で、入院中であつた」昭和一四(一九三九)年に貞恵は発病(この場合、結核の最初の喀血と考えられる)している。この叙述によって、昭和十四年の秋には貞恵が最初の入院をしていることが判る。貞恵の死去は昭和一九(一九四四)年九月二十八日であるから、「マル」の死から五年後のことであった。

「小林先生はマルを手術した翌年、本町の方へ轉宅した」「本町」現在の千葉県千葉市中央区本町であろう。登戸から直線で二キロメートル強、(リンク先は私の原民喜「忘れがたみ」の「飛行機雲」)千葉大学医学部附属病院の北西直近である(ということは、この先生はやっぱり獣医ではなく、医師かなぁ)。また、この前に「私の家の前に小林先生が移轉して來た」とあり、小林先生の家は原家の「前隣」であったことが判る。……そうか……その後に……あのいやらしい「前隣」の「隣人」(私の原民喜「雜音帳」の「にほひ」を参照)が来たという訳だったのか……]

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