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2016/05/21

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 創作

 

       創作

 

 藝術家は何時も意識的に彼の作品を作るのかも知れない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は藝術家の意識を超越した神祕の世界に存してゐる。一半? 或は大半と云つても好い。

 我我は妙に問ふに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はをのづから作品に露るることを免れない。一刀一拜した古人の用意はこの無意識の境に對する畏怖を語つてはゐないであらうか?

 創作は常に冐險である。所詮は人力を盡した後、天命に委かせるより仕方はない。

  少時學語苦難圓 唯道工夫半未全 到老始知非力取 三分人事七分天

 趙甌北の「論詩」の七絶はこの間の消息を傳へたものであらう。藝術は妙に底の知れない凄みを帶びてゐるものである。我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後に殆ど病的な創作熱に苦しまなければ、この無氣味な藝術などと格鬪する勇氣は起らなかつたかも知れない。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』巻頭に後の「鑑賞」「古典」「又」(「古典」の再標題の意)「幻滅した藝術家」と計五章で初出する。底本の「後記」によれば、初出では以上で終らずに最後に一文が加わっている(龍之介は切り抜き帖でここを削除しているということになる)。短いのでこの段落全体を含めて復元しておく。

   *

 趙甌北の「論詩」の七絶はこの間の消息を傳へたものであらう。藝術は妙に底の知れない凄みを帶びてゐるものである。我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後に殆ど病的な創作熱に苦しまなければ、この無氣味な藝術などと格鬪する勇氣は起らなかつたかも知れない。私は正直に創作だけは少なくともこの二三年來、菲才その任には非ずとあきらめてゐる。

   *

 

「菲才」「非才」に同じい。才能がないこと・才能の乏しいことを指す。しかし、これは謙辞としても事実にそぐわない。例えば、機械的に三年前の大正九(一九二一)年の六月まで遡って目ぼしい純粋小説だけを見ても、七月に南京基督」杜子春」、九月「影」、十月「お律と子等」、翌大正十年一月「秋山図」・「山鴫」・「妙な話」・「奇怪な再会」、四月「往生絵巻」、九月「母」、十月「好色」、大正十一年一月中」俊寛」・「将軍」・神々微笑」・「三つの宝」(童話劇)、三月トロツコ」、七月庭」、八月姫君」、九月「お富の貞操」「おぎん」、十月「百合」、大正十二年三月「猿蟹合戦」「雛」「二人小町」(戯曲)、四月「おしの」、この前月の五月には手帳」(後に「保吉の手帳から」に改題)を書いている(リンク先は私の電子テクスト)。龍之介のストーリー・テラーとしてのスランプや小説観の転換期には当たり、保吉物が登場する辺りには私小説的素材を用いた実験の試みなど、確かにやや模索的苦悩は見られるものの、凡そ創作の無才というのは相応しくなく、この謙遜は寧ろ、他の凡愚の作家への厭味のようにしか聴こえてこない(少なくとも他の作家は概ねそう思うことは請け合える)から、さればこそカットしたものであろうと私は思う。

 

・「何時も」筑摩全集類聚版は「何時」に「いつ」とルビする。

・「我我は問ふに落ちず、語るに落ちる」我々人間(芸術家と限定する必要はさらさらない)というものは他者から何かを訊ねられたり、穿鑿されたり、或いは厳しく問い詰められても、これ、頗る警戒して容易に本当に思っている真実を話さぬものであるが、逆に勝手に喋らせる(自分から自律的に語ろうとする)場合には、全く以って安易にして不注意に、語るべきでないような下らない赤裸々なる内実やら秘密やら本心まで、うかうかとべらべら語ってしまい、自己の評価や価値を致命的に貶めてしまうものである、といった謂いである。
 
・「をのづから」はママ。

・「一刀一拜」「いつたう(いっとう)さんぱい」であるが、これは通常、「一刀三拜」或いは「一刀三禮(礼:らい)」が正しく、これは仏の尊像を彫刻する際、一刻みする毎に三度礼拝を成して像に仏の魂がこもるように彫琢することを指す。

・「委かせるより」「まかせるより」。

・「少時學語苦難圓 唯道工夫半未全 到老始知非力取 三分人事七分天」以下にある通り、「趙甌北」(てうおうぼく(ちょうおうぼく))の「論詩」と題する七言絶句である。清朝の知られた考証学者の一人である趙甌北(一七二七年~一八一二年:「甌北」は号で本名は「翼」)は江蘇省武進県の出身で、商家の生まれであったが、乾隆帝に認められて軍機処(ぐんきしょ:清の皇帝の最高諮問機関)の章京(しょうけい:書記官)を務めた。その後、一七六一年に進士に登第し、一七六六年には広西省鎮安府の知府となった。ウィキの「趙翼によれば、本来は殿試一甲第一(状元:当時の科挙制度に於ける最終試験である皇帝の口頭試問である殿試で第一等の成績を修めた者に与えられる称号)であったが、たまたま一緒に受験した者の中に当時の災害被災地域出身者がいたため、その人物が恩賜によって特別に一甲第一待遇を受けることになった。その一方で、趙翼は辺遠の地方官を遍歴することになって、それに憤ったものか、彼は一時期、官途を去って郷里に戻っている。一七八七年、旧知の仲で当時、閩浙(びんせつ)総督(清朝の地方長官の官職で浙江省・福建省両省の総督として軍政・民政の両方を統括した)であった李侍尭(り じぎょう)の幕僚の一員となった。その後は、安定書院の主講として著述に専心した、とある。本詩は岩波新全集の山田俊治氏の注に拠るなら、『一七八四年刊』とする(刊行年なら甌北満五十七歳)。題の「論詩」は「詩を論ず」で――詩文について考察する――の謂いである(趙甌北にはこの同で四首があるがそれらを読むに、唐詩を絶対的軌範とするような十年一日変わらぬ中国詩壇の価値観に対しては実は疑義を持っていたらしく思われる)。我流で訓じて訳しておく。

   *

 

   詩を論ず    趙甌北

 

少時(せうじ) 語を學びて 圓(ゑん)なり難きを苦しむ

唯だ道(い)ふ 工夫(くふう)半ばにして 未だ全(まつた)たからずと

老(らう)に到りて 始めて知る 力取(りよくしゆ)に非ざることを

三分(ぶ)の人事 七分の天

 

   詩を論ずる   趙甌北

 

若い頃、詩を幾ら学んでみたとて、一向に会心の一篇も出来ず、それにひどく苦しんだものだものだった。

私はただそれを――「これは己れの工夫が半ばまでしか至らずに結局、巧緻が十全でないからだ。」――と思うておった。……たかだか自己修練の未熟――いやさ――それだけのことに過ぎぬ――と信じておった。……

しかし、年老いてみて、初めて知ったのだ。――詩作というものは――これ本質的に――人の成し得る修学や技量といった、下らぬちっぽけな糞努力なんぞによっては――創造され得るものなんぞではない、ということを――

……詩……それは……三分(ぶ)は人の「才(ざえ)」……されど……過半の七分は――天命による――のである……と、ね……

 

   *]

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