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2016/05/16

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 星

       星

 

 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは獨り太陽の下ばかりではない。

 天文學者の説によれば、ヘラクレス星群を發した光は我我の地球へ達するのに三萬六千年を要するさうである。が、ヘラクレス星群と雖も、永久に輝いてゐることは出來ない。何時か一度は冷灰のやうに、美しい光を失つてしまふ。のみならず死は何處へ行つても常に生を孕んでゐる。光を失つたヘラクレス星群も無邊の天をさまよふ内に、都合の好い機會を得さへすれば、一團の星雲と變化するであらう。さうすれば又新しい星は續々と其處に生まれるのである。

 宇宙の大に比べれば、太陽も一點の燐火に過ぎない。況や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起つてゐることも、實はこの泥團の上に起つてゐることと變りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環してゐるのである。さう云ふことを考へると、天上に散在する無數の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表はしてゐるやうにも思はれるのである。この點でも詩人は何ものよりも先に高々と眞理をうたひ上げた。

   眞砂なす數なき星のその中に吾に向ひて光る星あり

 しかし星も我我のやうに流轉を閲すると云ふことは――兎に角退屈でないことはあるまい。

 

[やぶちゃん注:記念すべき「侏儒の言葉」第一条である。初出は大正一二(一九二三)年一月に盟友菊池寛によって創刊された『文藝春秋』巻頭を飾った。これ以降、大正一四(一九二五)年十一月発行の同誌まで三十回、ほぼ毎号の巻頭に配され続けた(大正十二年九月号・十月号(記載はないが関東大震災による欠号か)と大正十四年十月号には不載で(但し、同号には侏儒の言葉――病牀雜記――を掲載している。リンク先は私の「侏儒の言葉」とは別立ての電子テクスト)、大正十三年五月号は休刊)。

 

・「太陽の下に新しきことなし」「旧約聖書」の「伝道の書」第一章第九節の句(ダビデの子であるエルサレムの王である伝道者ソロモンの著作とされるが、実際にはギリシア哲学、特にエピクロス哲学の影響を受けた者によって紀元前前二百五十年から同百五十年の間に書かれたと推定される)。明治訳を見ると、同第一章は(こちらの電子データを参考に、一部を私が勝手に訓じて読みや句読点等を補い、節番号を除去した。龍之介が引いたのと同じ相当箇所に下線を施した。訓読に誤りがあれば、御教授願いたい)、

   *

ダビデの子、ヱルサレムの王、傳道者の言。傳道者言はく、空(くう)の空、空の空なる哉、都(すべ)て空なり。日の下に人の勞して爲(なす)ところの諸々の動作はその身に何の益かあらん。世は去り、世は來る。地は永久に長存なり。日は出で、日は入り、また、その出し處に喘(あえ)ぎゆくなり。風は南に行き、又、轉(めぐ)りて北にむかひ、旋轉に旋(めぐ)りて行き、風、復た、その旋(めぐ)り轉(めぐ)る處にかへる。河はみな海に流れ入る。海は盈(みち)ること無し。河はその出きたれる處に復た還りゆくなり。萬(よろづ)の物は勞苦す。人、これを言ひつくすことあたはず。目は見るに飽くことなく耳は聞くに充(み)てること無し。曩(あした)に有りし者はまた後にあるべし。曩に成りし事はまた後に成るべし。日(ひ)の下(もと)には新しき者あらざるなり。見よ、是れは新しき者なりと指して言ふべき物あるや。其(そ)は我等の前にありし、世々にに久しくありたる者なり。己、前のものの事は、これを記憶(おぼ)ゆることなし。以後のものの事もまた、後に出る者、これをおぼゆることあらじ。われ、傳道者は、ヱルサレムにありてイスラエルの王たりき。我、心を盡し、智慧をもちひて天(あめ)が下に行はるる諸々の事を尋ね、かつ考へ覈(しら)べたり。此の苦しき事件は神が世の人にさづけて、之に身を勞せしめたまふ者なり。我、日の下に作(な)せるところの諸々の行爲を見たり。嗚呼、皆、空(くう)にして風を捕ふるがごとし。曲れる者は直(なほ)からしむるあたはず、缺けたる者は數をあはするあたはず。我、心の中に語りて言ふ、嗚呼、我は大なる者となれり。我より先にヱルサレムにをりしすべての者よりも、我は多くの智慧を得たり。我が心は智慧と知識を多く得たり。我、心を盡して智慧を知んとし、狂妄と愚癡を知らんとしたりしが、是れも亦、風を捕ふるがごとくなるを曉(さと)れり。夫れ、智慧多ければ憤激多し。知識を增す者は憂患を增す。

   *

これは前後を読めば一目瞭然、以前に在ったこと、起ったことは、また、後にも全く同じく、在り、起こる。昔成し遂げられた事象は、また、後世にも全く同じく成し遂げられる。違って見えるのは形だけで、本質的に全く同じものであって、太陽の下(もと)にあっては新しいもの何も在りはしない、という強力な斉一論である。さても、芥川龍之介が傾倒したフランスの作家アナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)の優れたアフォリズム集「エピクロスの園」(Le Jardin d'Épicure1895)にはまさに聖書のこの言葉を言及した一章がある。私の所持する一九七四年岩波文庫刊大塚幸男訳のそれでは「太陽の下に新しいものはない」と標題が附されてある(原典には標題はない)。実は同文庫解説の最後で大塚氏はまさにこの芥川龍之介の「侏儒の言葉」に「エピクロスの園」の圧倒的な影響を指摘され、『影響というより、率直にいえば、引き写しといってもいいくらいである』と述べられ、「侏儒の言葉」について、この「星」以下、「鑑賞」「告白」「S・Mの智慧」(の最後の行)「瑣事」「批評學」「藝術」(の三番目の「又」)「賭博」八章の「エピクロスの園」との酷似性を名指しておられる。但し、大塚氏は芥川龍之介を『剽窃呼ばわりするつもりは毛頭ない』と述べられた上、この二つの書『との風土は根本的に異なる。細部の点では他に借りていても。出来上がった作品はその作家独自のものであるということ――これは今日までもまだ誰も提起したことのない比較文学上の大きな問題ではあるまいか』と擱筆なさっておられる。仏文学の大家であり、アナトール・フランスの専門家でもあられた大塚氏にして、かく述べておられるのである。芥川龍之介の「侏儒の言葉」は未だに我々にとって未開の秘密の園であるということではあるまいか? 因みに、大塚氏の「エピクロスの園」の断章の冒頭の第一章は実に――「星」――と題されてあるのである。

・「道破」「道」は「道(い)ふ」(言う)の意で、対象の核心をズバリと言ってのけること。言い切ること。

・「ヘラクレス星群」ヘルクレス座(Hercules)は、紀元前四千年頃には既に知られていた古い星座でトレミーの四十八星座(プトレマイオス星座(Ptolemaic constellations):二世紀の天文学者クラウディオス・プトレマイオスが作成した星表)の一つ。全天では五番目に大きい星座であるが、あまり明るい星はない。本邦では八月初旬の夕方、頭上に見える。ここで言う「星群」はその星座中にある球状星団M13NGC 6205)を指しているようである。星座名はギリシア神話の勇者ヘラクレス(ギリシャ語の音写:Hēraklēs)に因むが、ローマ神話名(ラテン語:Hercules)で綴るため、星座名は現行、学術上では「ヘルクレス座」と称する決まりとなっている。龍之介は「發した光は我我の地球へ達するのに三萬六千年を要する」としているが、信頼出来る天文サイトを調べると、地球からの距離は二万五千光年と記されてある。
 
・「好い」筑摩書房全集版ではこれに『好(い)い』というルビを振っているが私は採らない。私は基本、芥川龍之介は「好い」を「よい」と訓じていると考えている。なお、「いい」としか読めない場合以外は、向後、この読みの注は附さない。

・「冷灰」「れいくわい(れいかい)」と読む。火の気が無くなって冷たくなった灰のこと。

・「燐火」「りんくわ(りんか)」墓地や湿地で発生する青白い火。人魂。鬼火。狐火(きつねび)。現実のものでない、龍之介は相対的に見れば「ちっぽけな儚い冷たい火」といった文学的香気を含ませて用いていると言える。

・「極」「きはみ」。

・「泥團」「でいだん」。泥の塊り。何の役にも立たないもの、無意味なものの譬えとして使われた語でもある。

・「方則」法則に同じい。

・「眞砂なす數なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」私の所持する歌集では表記が、

 眞砂(まさご)なす數なき星の其(そ)の中に吾に向ひて光る星あり

となっている。正岡子規の明治三三(一九〇〇)年作の一首。まさに「星」と前書する連作の巻頭歌。子規が没した二年後に出た「竹の里歌」(明治三七(一九〇四)年)に「星錄九首」に所収されているので、よく知られる。

・「閲する」老婆心乍ら、「けみする」と読み、ここでは「年月を過ごす・経る」の意である。]

 

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