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2016/05/03

吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「菓子」

   菓子

 

 ある夕方、妻はぐつたりした顏つきで、「お菓子が食べたい」と云つた。その頃妻は貪るやうにものを食べるのであつたが、どうも元氣がなかつた。いつも私は教員室で先生たちが「せめて子供に、大福をもう一度食べさすことが出來る日まで、生きてゐたいものだ」など話合つてゐるのをきかされてゐたが、「お菓子が食べたい」といふ妻の訴へは、普通の人のそれとは少し違つてゐたらしい。ひどく銷然としてゐるので、私は妻を慰めるつもりで、その傍にねそべり、一時間あまりも菓子の話をした。思ひ出してみれば、世の中には隨分いろんな菓子があつたものだ。幼い時から親しんだ菓子の名前がすぐ念頭に浮かび、その恰好や、色彩をお互に話し合つた。娘の頃から抹茶を習つてゐる妻は、日本菓子について詳しかつた。さまざまの記憶を靜かに語り合つてゐると、もう返つて來ぬ夢のやうに、うつとりと絶望するのであつた。

 妻の母は娘を悦ばすために、東京からわざわざ蓬團子を拵へて持つて來ることがあつた。すると、妻は重箱に詰められた團子を、見る見るうちに平らげてしまふのであつた。これまでにないことであつた。たまたま、私も學校で生徒の父兄から贈られた菓子を少し頒けてもらつた。甘納豆、豆板、飴玉など、この時も妻は悦んだ。だが、菓子を食べても、ものを貪つても、どうも妻は元氣にならなかつた。ものに憑かれたやうに、たらふく食事をした後では、ぐいぐいと水を飮んだ。それが、糖尿病の所爲だとは、暫くの間まだ氣がつかなかつたのである。

 その後、糖尿の養生をはじめ、順調に行きさうもない時、もの狂ほしげに妻は母に云つた。「どうせ助からないのなら、思ひきり欲しいものを食べて死なうかしら」「それはまだ早いよ」と母は靜かに宥めた。結局、妻は思ひきり欲しいものを食べないうちに、死んでしまつたのである。

 戰爭が終つて、闇市にはぼつぼつ菓子の姿を見かけられるやうになつた。私はそれを亡き妻に報告したいやうな氣持に驅られる。報告したいのは、菓子のことばかりではない。戰爭によつて歪められてゐた敷かぎりないことがらを、今は、しづかにかへりみてゐるのである。

 

[やぶちゃん注:この章段は非常に興味深い。それは貞恵の糖尿病の発症(初期には日常の目立った症状はないので発覚とする方がよい)が、実は亡くなる二年程前であったことがここで判明するからである。ここで「私」は「いつも」「教員室で先生たちが」「話合つてゐるのをきかされてゐた」とし、「たまたま、私も學校で生徒の父兄から贈られた菓子を少し頒けてもらつ」て貞恵に持ち帰ったとあるからである。即ち、この時、「私」、原民喜は教師をやっていた。それは既に述べた通り、昭和一七(一九四二)年一月から昭和一九(一九四四)年一月までの、千葉県立船橋中学校の英語教師として週三回の勤務していた時を除いて、他にないのである。ということは、その二年三ヶ月余りのどこかが、このシークエンス、結核(昭和一四(一九三九)年九月喀血)に加えて糖尿病(恐らくは型)が発覚する場面だということになるのである。因みに、言わずもがな、結核と糖尿病というのは、最もありがたくない悩ましい病いの組み合わせである。栄養をつけねば結核菌にますます冒され、栄養をつければ血糖値がますます跳ね上がっておぞましい糖尿病関連合併症のリスクがますます高まることになるからである。ここに出る、甘いものを異様に欲しがる、喉が渇いて盛んに水を飲む、といった症状は糖尿病の初期から少し進んだ症状である。そうした機序に就いても私は細かく理解し、また説明出来るがそこは流石に避けよう。言っておくが、私は既に述べた通り、現在、既に型糖尿病を抱えているが(血糖値を安定させるジャヌビア錠の一日一回服用のみで、HbA1c上限値ギリギリで安定)、一歳半から四歳半まで、私は左肩関節の結核性カリエスにも罹患している。私が申し上げたいのは、私のこうした注はただの好事趣味なんぞでは――ない――ということだけである。

「銷然」「せうぜん(しょうぜん)」であるが、元気がない・しょげている・憂いに沈んでいるさまの意の「悄然(せうぜん(しょうぜん))」の誤字である。「銷」は「消」と同義ではあるが、このような熟語は勿論、消然という熟語も一般的には用いない。

「妻の母は娘を悦ばすために、東京からわざわざ蓬團子を拵へて持つて來ることがあつた」【2016年5月15日改稿】「蓬團子」は「よもぎだんご」。「妻の母」とあるから、永井すみである。次の章の「机」で、貞恵の死後に広島の実家に戻った民喜が、貞恵の遺品を土蔵の中から見出し、それらを纏めて郷里に送り届けたことが出ることから、これは貞恵の病状が思わしくないために、母が看病のために、東京の親族の家にでも一時的に滞在し、登戸の娘を訪ねて来た折りの描写と考えるのが、どうも自然なようで、その後に入手した二〇一六年岩波文庫刊「原民喜全詩集」巻末の竹原陽子氏の手に成る「原民喜年譜」の昭和一九(一九四四)年の冒頭に、『一月、信濃追分で結核療養をしていた佐々木基一が発熱して帰京、基一の母が貞恵の看病のために民喜宅へ住んでいたことから、基一も千葉の家に同居』を始めたとあるので、私の最後の推理がほぼ正しいことが分かった。

「豆板」「まめいた」は豆を砂糖で板状に固めた菓子のこと。ウィキの「豆板によれば、『当初は、炒り大豆を氷砂糖の中に閉じ込め板状に固めた和菓子であったが、後に小豆・斗六豆(白インゲン)・黒豆・ピーナツ・甘納豆など、様々な豆が使われるようになった』。『また、豆と固める砂糖の比率を変え、豆を飴炊きさせたりと店ごとに様々に工夫されている』とある。私は菓子(特に和菓子には)に殆んど興味も嗜好もない人間なので形状が浮かばなかった。グーグル画像検索「豆板をリンクさせておく。

「戰爭が終つて、闇市にはぼつぼつ菓子の姿を見かけられるやうになつた」冒頭に注したように、 本「吾亦紅」の末尾には(用字はここでは底本のままに示す)『――昭和二十一年九月 貞恵三回忌に――』というクレジットと添書が附されている。十章から成る本「吾亦紅」全体は昭和二二(一九四七)年三月号『高原』に発表されているが、ここで「私」が言う時間は、やはり、そのクレジットである昭和二一(一九四六)年九月以前と読まねば、おかしい。]

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