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2016/05/19

「笈の小文」の旅シンクロニティ――須磨~最終回 / 「笈の小文」の旅シンクロニティ~了

本日  2016年5月19日

     貞享5年4月20日

はグレゴリオ暦で

    1688年5月19日

 

   須磨

 

月はあれど留守のやうなり須磨の夏

 

月見ても物たらはずや須磨の夏

 

卯月中比(なかごろ)の空も朧ろに殘りて、はかなき短夜(みじかよ)の月もいとど艶(えん)なるに、山は若葉にくろみかかりて、時鳥鳴き出づべき東雲(しののめ)も、海の方より白み初(そ)めたるに、上野(うへの)とおぼしき所は麥の穗並(ほなみ)赤らみ合ひて、漁人(あま)の軒近き罌粟(けし)の花の斷(た)え斷えに見渡さる。

 

海士(あま)の顏先づ見らるるやけしの花

 

東須磨、西須磨、濱須磨と三處(みところ)に分れて、あながちに何わざするとも見えず。藻鹽(もしほ)たれつゝなど歌にも聞え侍るも、今は斯(か)かるわざするなども見えず。鱚子(きすご)と云ふ魚を網して眞砂(まさご)の上に干し散らしけるを、鴉の飛び來りて摑(つか)みたる、是れを憎(にく)みて弓をもて威(おど)すぞ海士(あま)のわざとも見えず。 若し古戰場の餘殘(なごり)を留(とど)めて、斯かる事を爲すにやと、いとど罪深く、猶昔の戀しきままに、鐡蓋(てつがい)が峰に登らんとする、導引きする子の苦しがりて、とかく云ひまぎらはすを、さまざまに賺(すか)して、麓の茶店(ちやみせ)にて物をくらはすべきなど云ひて、わりなき體(てい)に見えたり。彼れは十六と云ひけん、里の童子よりは四つばかりも弟なるべきを、數百丈の先達(せんだつ)として、羊腸嶮岨(やうちやうけんそ)の岩根(いはね)を這ひ登れば、滑り落ちぬべき事あまた度(たび)なりけるを、躑躅(つつじ)根笹(ねざさ)に取付き、息を切らし汗を浸(ひた)して、漸く雲門に入るこそ心もとなき導師の力なりけらし。

 

   *

 

 以上、「笈の小文」。以下の前書と一句は、「猿蓑」にあるものを敢えてここに挿入した。「笈の小文」には不載乍ら、「鐡蓋」=鉄拐ヶ峰での面白い詠である。続けて、「*」の後が前に続く「笈の小文」の掉尾となる。

 

   此境はひわたるほどゝいへるも、こゝの事にや

 

かたつぶり角(つの)ふりわけよ須磨明石

 

   *

 

須磨の海士の矢先(やさき)に啼くやほととぎす

 

時鳥消えゆく方(かた)や島一つ

 

須磨寺や吹かぬ笛きく木下闇(こしたやみ)

 

   明石夜泊(あかしやはく)

 

蛸壺やはかなき夢を夏の月

 

斯かる所の秋なりけりとかや、此浦の實は秋を宗(むね)とするなるべし。悲しさ寂しさ云はむ方無く、秋なりせば、聊か心の端(はし)をも云ひ出づべきものをと思ふぞ、我が心匠(しんしやう)の拙(つた)なきを知らぬに似たり。淡路島(あはぢしま)手に取るやうに見えて、須磨、明石の海左右に分る。呉楚東南の眺めも斯かる處にや、物知れる人の見侍らば、さまざまの境(さかひ)にも思ひ準(なぞ)らふるべし。また後ろの方に山を隔てて、田井(たゐ)の畑(はた)といふ處、松風(まつかぜ)村雨(むらさめ)のふるさとと云へり。尾上(をのへ)つづき丹波路(たんばぢ)へ通ふ道あり。鉢伏覗(はちふせのぞ)き、逆落(さかおと)しなど、怖ろしき名のみ殘りて、鐘懸松(かねかけまつ)より見下ろすに、一(いち)の谷(たに)内裡屋敷(だいりやしき)目の下に見ゆ。其代の亂れ、其時の騷ぎ、然(さ)ながら心に浮び、俤(おもかげ)に集(つど)ひて、二位の尼君、皇子(みこ)を抱(いだ)き奉り、女院(によゐん)の御裳(おんも)に御足(みあし)もたれ、船屋形(ふなやかた)に轉(まろ)び入らせ給ふ御有樣(おんありさま)、内侍(ないし)、局(つぼね)、女嬬(によじゆ)、曹子(ざうし)の類(たぐ)ひ、さまざまの御調度(おんてうど)もてあつかひ、琵琶、琴(きん)なんど、茵(しとね)、蒲團(ふとん)にくるみて船中に投げ入れ、供御(くご)はこぼれて魚(うろくづ)の餌(ゑ)となり、櫛笥(くしげ)は亂れて、海人(あま)の捨草(すてぐさ)となりつつ、千歳(ちとせ)の悲しび此浦に留(とど)まり、素波(すなみ)の音にさへ愁(うれひ)多く侍るなり。

 

 まず、「笈の小文」の前段部分を注する。冒頭の二句は古来、月の名所とされ、「源氏物語」所縁の白砂青松の須磨を詠んだものだが、極度の同工にして駄句である。最初の句「月はあれど留守のやうなり須磨の夏」

の初案は、真蹟詠草にある、

 

夏はあれど留主(るす)のやうなり須磨の月

 

である。二句目「月見ても物たらはずや須磨の夏」は「芭蕉庵小文庫」(史邦編・元禄九(一六九六)年刊)その他に、

 

月を見ても物たらはずや須磨の夏

 

の句形でも載る。どっちでもよろしい。王朝趣味をまず「採って」而して「いなす」にしても、選んだ言辞も詰まらもので、それもかくも二つも並べてしまってはとりえの一つも残らぬ。折角の最後の最後に背後に漾ようところの「源氏物語」の残り香がこれで全く香らなくなってだいなし、という気さえ私はする。さればこそ、本「笈の小文」が芭蕉によって組み立てられたものでない乙州のデッチアゲの明石、基、証しと言える。

・「上野」現在の兵庫県神戸市須磨区須磨寺町にある真言宗上野山(じょうやさん)須磨寺(すまでら)附近の台地の通称。

・「海士(あま)の顏先づ見らるるやけしの花」これは句自体よりも、前に描写される暁から曙の景に浮かぶ麦の色、侘び住まいの海士人(あまびと)の営み(庶民の視点を忘れぬ芭蕉はここにこそ「まことの侘び」はあると考えているであろう点に着目されたい)の始まりを描出しながら、芥子の花の鮮やかな色を点ずることを忘れない、映像詩人芭蕉のスァルプティング・イン・タイムがとてもよい。

・「東須磨、西須磨、濱須磨と三處に分れて」いるけれど(御大層にも、である)、何か、古来の名勝名跡だからといって、想起するような「あながち」、即ち、何か特別に他の地方とは異なった漁法や海産物の加工海産物を製しているようにも全く以って見えぬ、というのである。「須磨の侘び」を庶民レベルからリアルに描出する確信犯である。

・「藻鹽(もしほ)たれつゝ」これは「古今和歌集」の在原行平の一首(第九六二番歌)、

 

   田村の御時に、事にあたりてつの

   國の須磨といふ所にこもり侍りけ

   るに、宮のうちに侍りける人につ

   かはしける

わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻鹽たれつつわぶと答へよ

 

の引用。「田村」文徳天皇。「事にあたりて」ある事件に連座して。「つの國」摂津国。「わくらばに」は偶然に・たまたまの意。「藻鹽たる」は海藻に海水をかけてはそれを煮、そこから塩を採る古式の造塩法の、その最初の「海藻に潮水を盛んにかけ滴らせて、含ませ、びしょびしょにする」行程部分を指すが、ここはそれが「潮垂(しほた)る」、潮水で袖が濡れて雫が垂れるから転じた、不運によりかくなる境遇に堕ちて絶望し、「涙が袖から滴り落ちる」「涙を流す」「泣く」の意が掛けられてある。「わぶ」侘びしく暮らしている。

・「斯かるわざ」藻塩焼きによる造塩。

・「鱚子(きすご)」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae に属するキス類を指すが、狭義には本邦では現行、単に「キス」と呼んだ場合、キス属シロギス Sillago japonica を限定的に指すことが多い。

・「摑(つか)みたる」諸本は多く「摑み去る」とする。

・「古戰場」源平の合戦が繰り広げられたことを指す。

・「鐡蓋(てつがい)が峰」諸本は「鐡拐が峰」とする。現在の兵庫県神戸市須磨区の山手にある鉄拐山(てっかいやま)で標高は二百三十六メートル。六甲山地の西端が明石海峡に水没する箇所に位置し、北に「鵯越(ひよどりごえ)」、南西に「鉢伏山」、南東麓に「一の谷」がある。本山腹の急斜面は源平合戦での「鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかおと)し」で知られる。

・「苦しがりて」(登り始めて直に)嫌がり始めて。

・「云ひまぎらはす」なんだかんだと口実や誤魔化しを口にしては麓へ戻ろうとするのを。

・「わりなき體に見えたり」いや! 全く以って! まっこと、困り果ててしまもうた! の意。芭蕉は「わりなき」という語を、しばしば自己が心底思い感じ入った、という対象・感懐に用いる傾向がある。

・「十六と云ひけん、里の童子よりは四つばかりも弟なるべきを」「平家物語」の「卷第九」の一部の本に出る「老馬」の中に登場する、義経の鵯越えの道案内をしたとする熊王(くまおう)」という名の男子。但し、彼は、「熊王(くまわう)とて生年(しやうねん)十八歳になりける」とある。芭蕉の記憶違いか。

・「數百丈」三百三メートル。誇張表現。そもそもが鉄拐山の標高自体が二百三十六メートルしかない。

・「羊腸嶮岨」草食動物の羊の長々しい腸のようにうねうねと曲がりくねった険しく断崖絶壁の山径。

・「心もとなき導師」無論、先のいやいやながらに案内してくれた少年のことである。芭蕉の優しさが出る。

 

 次に「猿蓑」の鉄拐ヶ峰での「此境はひわたるほどゝいへるも、こゝの事にや」と前書する「かたつぶり角(つの)ふりわけよ須磨明石」について。

 支考編になる「笈の小文」の別稿ともいうべき「庚午紀行」には、

   *

誠に須磨あかしのそのさかひは、はひわたるほどゝいへりける源氏のありさまも思ひやるにぞ、今はまぼろしの中に夢をかさねて人の世の榮花もはかなしや。

 

かたつぶり角ふりわけよ須磨明石

   *

と出ると、山本健吉氏の「芭蕉全句」にはある。山本氏は、『「はひわたるほど」とあるのは、源氏物語須磨の巻に「明石の浦はただはひわたる程なれば」云々とあるのによたもの。須磨と明石はきわめて接近しているが』(但し、地図上で須磨寺から現在の明石市の海岸線までは直線で八・七キロメートルはある)『蝸牛(かたつむり)に左右の須磨明石を振り分けて示してくれよ、と戯れたもの。両方の美しい景色をとくと差し示してくれよといった気持である』と評されておられる。「芭蕉DB」の同句の鑑賞で伊藤洋氏は『テンポのよい間然するものの無い名句』と絶賛されておられるが、私もすこぶる同感である。

 

 以下、「笈の小文」掉尾について。

・「須磨の海士の矢先(やさき)に啼くやほととぎす」「泊船集」では、

 

須磨の蜑(あま)の矢さきに啼くか郭公(ほととぎす)

 

とする。歌枕名勝の虚像と殺伐とした現実の虚実皮膜の不思議なシュルールレアリスムの、しかし眼前の強烈なリアリズムの衝突である。――あの「源氏物語」で人口に膾炙せる須磨に於いて一人の賤しくして貧しき漁夫の鋭き矢を番へて今しも啼ける不如帰を射殺さんとするの図」――というサルバドール・ダリ風の絵を私は想起するのである。

・「時鳥消えゆく方(かた)や島一つ」ロケーションから見て、先に出た鉄拐山山頂からの遠望であろう。これは、「小倉百人一首」の第八十一番歌として知られる後徳大寺左大臣藤原実定の歌(「千載和歌集」巻三・夏・第一六一番歌)の、

 

ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ殘れる

 

のインスパイア。島は無論、淡路島である。啼き声だけを聴かせて実体の消失した不如帰を追った詩人の眼に映る、遠いその島影は、まさにその不如帰の声が化したものとして認識されている、象徴主義的な一句と言える。

・「須磨寺や吹かぬ笛きく木下闇(こしたやみ)」「続有磯海」(浪化編・元一一(一六九八)年刊)には、

 

須磨寺に吹(ふか)ぬ笛きく木下やみ

 

で載る。須磨寺には、かの笛の名手にして悲劇の少年平敦盛遺愛の「青葉の笛」(直径二・五センチメートル・長さ三十七センチメートル)がある(「須磨寺」公式サイト内の「源平ゆかりの宝物」を参照されたい)。この笛は祖父平忠盛が鳥羽院より賜ったものとされる(笛の名は前名を「小枝(さえだ)」と呼ぶ)。但し、芭蕉の幻想を誘ったのはあくまでイメージであって、この五日後のクレジット四月二十五日附猿雖(惣七)宛書簡では、『あはれなる中に、敦盛の石塔にて泪をとどめ兼候。磯ちかき道のはた、松風のさびしき陰に物ふりたるありさま、生年十六歳にして戰場に望み、熊谷に組(くみ)ていかめしき名を殘しはべる。その哀、其時のかなしさ、生死事大無常迅速、君忘るる事なかれ』と記しつつも、一方で『すま寺の淋しさ、口を閉ぢたる斗(ばかり)に候。蟬折、こま笛、料足十疋、見る迄もなし。この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に歸りて泊る』と綴る一文もあって、須磨寺のB級スポット化はこの頃にさえ既にして始まっていたことが判る。ともかくもこの句で芭蕉は、まず間違いなく、敦盛を止むを得ず討ち取って世の無常を感じて遂には出家してしまう熊谷直実を自ら演じているように私には思われる。

・「明石夜泊」虚構。実際には芭蕉と杜国は明石には泊まっていない(前の注に示した猿雖宛て書簡の引用末を見よ)。「源氏物語」との共時感覚を効果的に導くための文学的操作と考えられる。

・「蛸壺やはかなき夢を夏の月」この句に就いて、私は諸家の評釈の殆んどに対して大いに不満を持っている。されば、私が最も適切な解と存ずる安東次男氏の評(一九八九年文春文庫刊「芭蕉百五十句」所収)を例外的に総て示して本注に代えたい(踊り字「〲」は正字化した)。

   《引用開始》

 「明石夜泊」として『笈の小文』に収めるが、実は明石に泊っていない。四月二十書付、伊賀の猿雖(えんすい)あて報告に、「あかしより須磨に帰りて泊る」と書いている。杜国を連れて四月十九日尼崎を出船、その夜は兵庫泊、翌二十日須磨・明石に遊んだ。泊がそのどちらであろうといっこうに構わぬ、いっそ前書などない方がよいと思わせるような句作りを、何故また、わざわざ虚構などに仕立たのだろう、と思う。

 拠りどころは『源氏物語』だ。「ひとり寝は君も知りぬやつれづれと思ひあかしの浦淋しさを」、「たび衣うら悲しさにあかし侘び草の枕は夢も結ばず」(明石の巻)。前は明石入道が娘の心をそれとなく源氏に伝える歌、後は源氏の返しで、物語の候も同じ卯月の一夜である。思い明し、明し侘び、夢も結ばぬ、とこれだけ所の情を向けられて、句の一つも詠まねば俳語師の名がすたる。「はかなき夢」のあはれを語るなら、明石の浦の蛸壺ほど似つかわしいものはない、と読めば前書はわかる。

 二十日の月は下弦に近い月である。夜に入って須磨に帰ったとしても、芭蕉が明石で月を見た可能性はまずない。ろすれば「夏の月」は、短夜の印象によって「(蛸の)はかなき夢」を強調せんがための、一種、投込の技法である。季語に実体がなければ、「蛸壺や」を眼前と解するしかなく、じじつ、昼間浜辺でそれを見た感興が、おのずと「(かりに)夜泊(すれば)」の題に思至らせたか。それとも、須磨に戻ってから、明石の浜を思遣った句か。いまごろ蛸は、月夜の海底ではかない夢を結んでいることだろう。「明石夜泊」の心は、拒離をもたせてそう読む方が面白いかもしれない。ならば句もまた、須磨の宿での興だ。いずれにせよほかに「夏の月」の治めようはあるまいが、じつはこの句は『笈の小文』に入れた諸句の留(とめ)である。「千歳(ちとせ)のかなしび此浦にとゞまり、素波(しらなみ)の音にさへ愁おほく侍るぞや」と、軍記好の涙で紀行文を結んだ俳詰師の、「明石夜泊」は釣合の工夫だったのだろう。そうとでも前書をつけなければ、「蛸壷や」の句は平家滅亡の怨に呑まれてしまう。

 諸注は、「夏の月」を当夜その場で出会った事実として、海底の蛸壺に情を寄せる式にたわいもなく読んでいる。こういうのは解釈とは云えない。

   《引用終了》

私は本句について、これ以上に腑に落ちる解釈に出逢ったことは、まだ、ない。

・「斯かる所の秋なりけり」「源氏物語」の源氏最大の危機状況の侘び住まいの描かれる「須磨」の帖の第三パートの冒頭である。

   *

 須磨には、いとど心盡くしの秋風に、海はすこし遠けれど、 行平中納言の、「關吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。

 御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、一人目を覺まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、淚落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。琴をすこしかき鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、彈きさしたまひて、

 

   戀ひわびて泣く音にまがふ浦波は思ふ方より風や吹くらむ

 

   *

をまず受け、さらにまた、それを素材の一部としつつ、メインに、後に出る松風・村雨姉妹の行平との儚い恋愛悲劇を据えた夢幻能「松風」(観阿弥の原型を世阿弥が改修したものと考えられている)の、

   *

「沖にちひさきいさり舟の。影幽なる月の顏。雁の姿や友千鳥。野分汐風いづれも實に。かかる所の秋なりけり。あら心すごの夜すがらやな。」

   *

という謠をも多重して受けている。

・「心匠(しんしやう)」心の中で思い巡らすこと。心中に於ける工夫。

・「呉楚東南の眺め」杜甫の五律の名詩「登岳陽樓」の第三句を受ける。

 

 登岳陽樓

 

昔聞洞庭水

今上岳陽楼

呉楚東南坼

乾坤日夜浮

親朋無一字

老病有孤舟

戎馬関山北

憑軒涕泗流

 

  岳陽樓に登る

 

 昔 聞く 洞庭の水

 今 上る 岳陽樓

 呉楚 東南に坼(さ)け

 乾坤(けんこん) 日夜浮かぶ

 親朋(しんほう) 一字無く

 老病 孤舟(こしう)有り

 戎馬(じゆうば) 關山の北

 軒(けん)に憑(よ)りて 涕泗(ていし)流る

 

洞庭の水によって呉の国と楚の国は東と南にざっと裂き隔てられているの謂いだが、それはそのまま眺望絶佳の意と転ずる。

・「田井(たゐ)の畑(はた)」新潮日本古典集成「芭蕉文集」の富田奏氏の注によれば、鉄拐が峰の北側にある部落、とある。「畑」は「里」ほどの謂いらしい。なお、これ以下は、先に示した四月二十五日附猿雖宛書簡の十九日の叙述と強い親和性が見られる。重複を厭わず以下に示す。

   *

十九日あまが崎出舩。兵庫に夜泊。相國入道の心を盡されたる經の嶋、わだの御崎、わだの笠松、だいり屋敷、本間が遠矢を射て名をほこりたる跡などききて、行平の松風、村雨の旧跡、さつまの守の六彌太と勝負し玉ふ旧跡かなしげに過て、西須磨に入て、幾夜寢覺ぬとかや關屋のあとも心とまり、一ノ谷逆落し、鐘掛松、義經の武功おどろかれて、てつかひが峰にのぼれば、すま、あかし左右に分れ、あはぢ嶋、丹波山、かの海士が古里田井の畑村など、めの下に見おろし、天皇の皇居はすまの上野と云り、其代のありさま心に移りて、女院おひかかえて舟に移し、天皇を二位殿の御袖によこだきにいだき奉りて、寶劍、内侍所あはただしくはこび入、あるは下々の女官は、くし箱・油壺をかかへて、指櫛、根卷を落しながら、緋の袴にけつまづき、ふしまろびたるらん面影、さすがにみるここ地して、あはれなる中に、敦盛の石塔にて泪をとどめ兼候。磯ちかき道のはた、松風のさびしき陰に物ふりたるありさま、生年十六歳にして戰場に望み、熊谷に組ていかめしき名を殘しはべる。その哀、其時のかなしさ、生死事大無常迅速、君忘るる事なかれ。此一言梅軒子へも傳度候。すま寺の淋しさ、口を閉ぢたる斗に候。蟬折、こま笛、料足十疋、見る迄もなし。この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に歸りて泊る。

   *

・「松風(まつかぜ)村雨(むらさめ)」前に注したように、在原行平(弘仁九(八一八)年~寛平五(八九三)年:業平の兄)が須磨に蟄居(理由不祥)を余儀なくされた際、寵愛したとされる美貌の姉妹の海女の名。謡曲「松風」には二人の霊が登場する。

・「尾上(をのへ)」山の頂き(から尾根伝いに続く稜線沿い)。

・「鉢伏覗(はちふせのぞ)き」「逆落(さかおと)し」源平合戦の鵯越の逆落としに纏わる呼称であろう。

・「鐘懸松(かねかけまつ)」「芭蕉文集」の富田奏氏の注に、義経が『陣鐘(じんがね)を掛けたとの伝説のある松』とある。

・「一(いち)の谷(たに)内裡屋敷(だいりやしき)」一の谷に臨時に設けられた内裏の屋敷(行宮(あんぐう))跡。

・「二位の尼君」平清盛の妻時子(建礼門院徳子母・安徳帝祖母)。後に壇ノ浦にて安徳帝を抱いて入水した。

・「皇子(みこ)」安徳天皇(治承二(一一七八)年十一月十二日~寿永四年三月二十四日(一一八五年四月二十五日))は既に天皇(即位は治承四(一一八〇)年四月二十二日)であるが、この時満五歳で幼児あったことから、かく呼称したものか。一ノ谷の戦いは寿永三年/治承八年二月七日(一一八四年三月二十日)のことであった。

・「女院(によゐん)」高倉天皇中宮で安徳天皇生母であった建礼門院徳子。

・「船屋形(ふなやかた)」大型の船の船上に拵えた地上の御殿状の屋舎。

・「内侍(ないし)」内侍司(ないしのつかさ)の女官。天皇に常時、伺候し、奏請。伝宣の諸礼式を掌る(以下、「供御(くご)」までは「芭蕉文集」の富田奏氏の注を概ね参照した)。

・「局(つぼね)」宮中に自分専用の部屋(局)を持つことの出来た高級女官。

・「女嬬(によじゆ)」宮中に於いて掃除や点燈などの雑務を担当した下級女官。

・「曹子(ざうし)」宮中の女官の用部屋の雑役に従事した下級の女性。

・「御調度(おんてうど)」天皇らが室内で用いる手回り道具の類い。

・「茵(しとね)」天皇らが座る際などに用いた敷物類のこと。

・「供御(くご)」天皇の御飲食物。

・「魚(うろくづ)」古称は「鱗(いろくづ)」狭義には、魚などのうろこ(更に古くは「いろこ」と呼称)を指し、そこから鱗のある魚・竜などの仮想を含む、主に水棲性動物を指す語となった。ここは単に魚類の意。

・「櫛笥(くしげ)」櫛や簡単な化粧道具を入れておくための箱の呼び名。

・「海人(あま)の捨草(すてぐさ)となりつつ」先に引いた謡曲「松風」にも、

   *

「かげはづかしき我が姿。かげはづかしき我が姿。忍車を引く汐の跡に殘れる。溜水いつまで澄みは果つべき。野中の草の露ならば。日影に消えも失すべきにこれは磯邊に寄藻かく。海人の捨草いたづらに朽ち增りゆく。袂かな朽ちまさりゆく袂かな。」

   *

と出る。貧しい漁師でさえも捨てて顧みることもないような海藻の屑や芥(ごみ)同様になり果ててしまい。

・「素波(すなみ)」諸本は「白波」とする。

・「千歳(ちとせ)の悲しび」貞享五(一六八八)年から計算すると一ノ谷の戦い(一一八四年)は五百四年前にしか当たらないが、ここは千年経っても変わることのない哀切々たる悲しみの謂いであるから問題ないのである。

 

 これを以って「笈の小文」上での「旅」は終わっている。

 昨年の十一月二十九日より、今日までお付き合い戴いた数少ない読者の方々……孰れ又……どこかの芭蕉の旅で……お逢い致しましょうぞ…………

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