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2016/05/31

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 批評學

 

   批評學

       
――佐佐木茂索君に――

 

 或天氣の好い午前である。博士に化けたMephistophelesは或大學の講壇に批評學の講義をしてゐた。尤もこの批評學はKantKritikや何かではない。只如何に小説や戲曲の批評をするかと言ふ學問である。

 「諸君、先週わたしの申し上げた所は御理解になつたかと思ひますから、今日は更に一步進んだ『半肯定論法』のことを申し上げます。『半肯定論法』とは何かと申すと、これは讀んで字の通り、或作品の藝術的價値を半ば肯定する論法であります。しかしその『半ば』なるものは『より惡い半ば』でなければなりません。『より善い半ば』を肯定することは頗るこの論法には危險であります。

 「たとへば日本の櫻の花の上にこの論法を用ひて御覽なさい。櫻の花の『より善い半ば』は色や形の美しさであります。けれどもこの論法を用ふるためには『より善い半ば』よりも『より惡い半ば』――即ち櫻の花の匂ひを肯定しなければなりません。つまり『匂ひは正にある。が、畢竟それだけだ』と斷案を下してしまふのであります。若し又萬一『より惡い半ば』の代りに『より善い半ば』を肯定したとすれば、どう言ふ破綻を生じますか? 『色や形は正に美しい。が、畢竟それだけだ』――これでは少しも櫻の花を貶したことにはなりません。

 「勿論批評學の問題は如何に或小説や戲曲を貶すかと言ふことに關してゐます。しかしこれは今更のやうに申し上げる必要はありますまい。

 「ではこの『より善い半ば』や『より惡い半ば』は何を標準に區別しますか? かう言ふ問題を解決する爲には、これも度たび申し上げた價値論へ溯らなければなりません。價値は古來信ぜられたやうに作品そのものの中にある譯ではない、作品を鑑賞する我我の心の中にあるものであります。すると『より善い半ば』や『より惡い半ば』は我我の心を標準に、――或は一時代の民衆の何を愛するかを標準に區別しなければなりません。

 「たとへば今日の民衆は日本風の草花を愛しません。即ち日本風の草花は惡いものであります。又今日の民衆はブラジル珈琲を愛しています。即ちブラジル珈琲は善いものに違いありません。或作品の藝術的價値の『より善い半ば』や『より惡い半ば』も當然かう言ふ例のやうに區別しなければなりません。

 「この標準を用ひずに、美とか眞とか善とか言ふ他の標準を求めるのは最も滑稽な時代錯誤であります。諸君は赤らんだ麥藁帽のやうに舊時代を捨てなければなりません。善惡は好惡を超越しない、好惡は即ち善惡である、愛憎は即ち善惡である、――これは『半肯定論法』に限らず、苟くも批評學に志した諸君の忘れてはならぬ法則であります。

 「扨『半肯定論法』とは大體上の通りでありますが、最後に御注意を促したいのは『それだけだ』と言ふ言葉であります。この『それだけだ』と言ふ言葉は是非使はなければなりません。第一『それだけだ』と言ふ以上、『それ』即ち『より惡い半ば』を肯定してゐることは確かであります。しかし又第二に『それ』以外のものを否定してゐることも確かであります。即ち『それだけだ』と言ふ言葉は頗る一揚一抑の趣に富んでゐると申さなければなりません。が、更に微妙なことには第三に『それ』の藝術的價値さへ、隱約の間に否定してゐます。勿論否定してゐると言つても、なぜ否定するかと言ふことは説明も何もしてゐません。只言外に否定してゐる、――これはこの『それだけだ』と言ふ言葉の最も著しい特色であります。顯にして晦、肯定にして否定とは正に『それだけだ』の謂でありませう。

 「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に緣つて魚を求むる論法』よりも信用を博し易いかと思ひます。『全否定論法』或は『木に緣つて魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りでありますが、念の爲めにざつと繰り返すと、或作品の藝術的價値をその藝術的價値そのものにより、全部否定する論法であります。たとへば或悲劇の藝術的價値を否定するのに、悲慘、不快、憂鬱等の非難を加へる事と思へばよろしい。又この非難を逆に用ひ、幸福、愉快、輕妙等を缺いてゐると罵つてもかまひません。一名『木に緣つて魚を求むる論法』と申すのは後に擧げた場合を指したのであります。『全否定論法』或は『木に緣つて魚を求むる論法』は痛快を極めてゐる代りに、時には偏頗の疑ひを招かないとも限りません。しかし『半肯定論法』は兎に角或作品の藝術的價値を半ばは認めてゐるのでありますから、容易に公平の看を與へ得るのであります。

 「就いては演習の題目に佐佐木茂索氏の新著『春の外套』を出しますから、來週までに佐佐木氏の作品へ『半肯定論法』を加へて來て下さい。(この時若い聽講生が一人、「先生、『全否定論法』を加へてはいけませんか?」と質問する)いや、『全否定論法』を加へることは少くとも當分の間は見合せなければなりません。佐佐木氏は兎に角聲名のある新進作家でありますから、やはり『半肯定論法』位を加へるのに限ると思ひます。……

         *   *   *   *   *

 一週間たつた後、最高點を採つた答案は下に掲げる通りである。

 「正に器用には書いてゐる。が、畢竟それだけだ。」

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十二月号『文藝春秋』巻頭にこの一章のみで初出する。副題にある「佐佐木茂索」は、芥川龍之介の弟子で小島政二郎・滝井孝作・南部修太郎とともに「龍門の四天王」と呼ばれた、作家で後に編集者となった佐佐木茂索(明治二七(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年 龍之介より二歳八ヶ月年下)。京都出身で京都府第一中学校中退。その後、叔父を頼って朝鮮の仁川(インチョン)に渡って英国系の銀行に勤めたが、大正七(一九一八)年に内地へ戻り「新潮社」に入社、直後に芥川龍之介に師事している。大正八(一九一九)年に「中央美術社」編集主幹に転じ、翌年には「時事新報社」文芸部に主任として招かれて五年務めた。大正一四(一九二五)年に発表した「曠日」(「こうじつ」((歴史的仮名遣は「くわうじつ」)。「曠」は、この場合は「虚しい」或いは「虚しくする」の意で「何もせず空しく日を過ごすこと」の意)が芥川に賞賛された。龍之介の死後は昭和四(一九二九)年に菊池寛に請われて「文藝春秋社」の総編集長となったが、翌昭和五年を最後に作家としては筆を折り、昭和一〇(一九三五)年には菊池寛と図って芥川賞・直木賞を創設、戦後の昭和二一(一九四六)年には同社社長(正確には当時の名称は「文芸春秋新社」)となった。姓の表記は、本名は普通の「佐々木」であるが、「々」が中国にはない知ってから「佐佐木」と表記するようになったとする(それもそれは龍之介が中国特派以前に彼にそれを指摘したと私は聞いている)。但し、芥川は書簡その他では「佐佐木」「佐々木」の両方を用いている。

 なお、後掲される「廣告」「追加廣告」再追加廣告の三章(連続)も参照のこと。


・「或天氣の好い午前である」龍之介が小説の書き出しで好んだ起筆表現である。

・「博士に化けたMephistophelesは或大學の講壇に批評學の講義をしてゐた」「博士」は「はかせ」がよかろう。「Mephistopheles」メフィストフェレス。十六世紀、ドイツのファウスト(Faust:十五世紀末から十六世紀にかけてドイツに実在した錬金術師ヨハン・ゲオルク・ファウスト(Johann Georg Faust 一四八〇年?~一五四〇年?)の事跡をもとに形成された民間伝説の主人公。博学であったが、自身の人生に不満をつのらせ、悪魔と盟約を成して、自身の魂と引き換えに享楽と冒険の遍歴生活を送るが、神に背いた罰によって破滅する)伝説や、それに材を取った文学作品(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の「ファウスト」(Faust 第一部は一八〇八年、第二部はゲーテの死の翌年の一八三三年に発表)が最も知られ、龍之介は森鷗外訳で精読、特にこのトリック・スターであるメフィストフェレスに強い関心を持っていた)に登場する悪魔の名。名の由来については定説はないが、ウィキの「メフィストフェレス」によれば、有力な説として、ギリシア語の三語からの合成語で「光を愛せざるもの」の意。ラテン語の「mephitis」とギリシャ語の「philos」の合成語で「悪臭を愛する者」の意。ヘブライ語の分詞「破壊する(mephir)」或いは「嘘つき(mefir)」に「嘘をつく(tophel)」を合成したもの、が挙げられてある。なお、言わずもがな乍ら、このメフィストフェレスが化けた大学教授らしき「博士」の謂わんとする内容は正に「侏儒の言葉」に於ける批判修辞法の実際というニュアンスが濃厚で、この大学教授には龍之介の面影が髣髴していると言える。実は龍之介には大正七(一九一八)年九月(満二六歳で海軍機関学校教官現任)に慶應義塾大学英文科教授として招聘するという話があって、龍之介自身、かなり乗り気であったが、学内での調整に時間がかかり、同年十一月には大阪毎日新聞社社友となる話が持ち上がるなどしたため、遂に実現しなかったという過去がある。「如何に小説や戲曲の批評をするかと言ふ」「講義」をする、龍之介の好きなメフィストフェレスが化けた大学教授――これはもう、芥川龍之介自身と言ってよいのである。

・「KantKritik」「カントのクリティク」「Kant」はドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant 一七二四年~一八〇四年)で、Kritik」はドイツ語で「批判」「批評」の意。カントの知られた三大批判(書)である「純粋理性批判」(Kritik der reinen Vernunft 初版一七八一年刊)・「実践理性批判」(Kritik der praktischen Vernunft 一七八八年刊)・「判断力批判」(Kritik der Urteilskraft 一七九〇年刊)を指す。ウィキの「イマヌエル・カント」によれば、彼はこれらの主著によって『批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらし』、『ドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる』とある。

・「貶した」「けなした」。

・「價値論」岩波新全集の山田俊治氏はここに注して、『価値を論じ、諸価値の体系化をはかる学問』とされ、これには価値の『基準を主観的な有用性に求める立場と、経験的評価を超越した真、善、美などの基準を説く立場とがある』が、『ここでは前者で立論されて』ある、とある。

・「赤らんだ麥藁帽」陽に焼けて変色し、ばさついて役に立たなくなった麦藁帽子。

・「扨」「さて」。

・「一揚一抑」「いちやう(よう)いちよく」。これは漢詩や謠(うたい)などに於ける抑揚法の謂いらしい。ぐっと一度高く揚げては、即座にぐっと引き締めて落とすという、まさにここで語られる半ば褒めておいて一気即座に貶しめる「半肯定論法」の極意であろう。

・「隱約の間」「いんやくのかん」。「隱約」は既出既注であるが再掲する。ここでは後にただ「言外に否定してゐる」とあるように、「あからさまには表現していない」ことの謂い。

・「顯にして晦」「けんしてくわい(かい)」。はっきりしているように見えると同時に、はっきりとしていないようにも見える。

・「木に緣つて魚を求むる論法」「緣つて」は「よつて(よって)」で拠る・寄るの意。「木に縁りて魚を求む」は「孟子」の「梁恵王上」の「以若所爲、求若所欲、猶緣木而求魚也」(若(かくのごと)き爲す所を以つて、若(かくのごと)き欲する所を求むるは、猶ほ木に緣りて魚を求むるがごときなり)に拠る故事成句。原義は「方法を誤ってしまうととても成功する望みはないこと」の譬えであるが、ここはそれをメビウスの帯のように捻ったもので、原義とは異なる。例示されたように、「或悲劇の藝術的價値を否定するのに」、「非難を」真「逆に用ひ」て、「幸福、愉快、輕妙等を缺いてゐると罵」る法を指す。「悲劇」の一般通念である「悲慘、不快、憂鬱」の絶対的と思われる必要条件の属性の批判を用いずに、その逆から責めて、「悲劇の藝術的價値」として必要なのは実は「幸福、愉快、輕妙」である、それをこの「悲劇」は致命的に「缺いてゐる」という、パラドキシャルな手法で「全否定論法」を行使する方法と私は読むが如何であろう? これは確かに「痛快を極めてゐる」と私は思うし、「時には」どころか、概ね、「偏頗の疑ひを招」くものではあるものの、相手は一瞬たじろいで、沈黙することは請け合いである。

・「看」「かん」。ここは「もてなし」「待遇」の謂いであろう。「感」とか「観」の謂いではない。

を與へ得るのであります。

・「佐佐木茂索氏の新著『春の外套』」大正一三(一九二四)年十一月金星社刊の処女短編集(大正八年からこの年までの短篇十五篇を所収)。本章は大正一三(一九二四)年十二月発表であるから、まさに新著であり、さりげなく自分の弟子のそれを宣伝しているわけである。実は芥川龍之介はこの作品集の序文を書いている。以下に、全文を電子化する。

   *

 

   「春の外套」の序

 

 昨日の流行は拵らへぬ小説である。畫の具も乾かないスケッチである。けれども今日の流行は明らかに拵らへた小説である。ヴァアニッシュのかかつた油畫である。佐佐木茂索君の作品はこの點に今日の流行と一致する特色を具へてゐる。君の作品を支配するものは人生記錄の生なましさではない。いづれもちやんと仕上げを施した、たるみのない畫面の美しさである。

 しかし又昨日の流行は所謂「餘裕のない小説」である。せつぱつまつた人生のせつぱつまつた一斷面である。けれども今日の流行は――いや、今日の流行も所謂「餘裕のない小説」である。佐佐木茂索君の作品はこの點に今日の流行と一致しない特色を具へてゐる。君の作品の主題は勿論、作品の中の一情景さへ少しも動きのとれぬものではない。いづれも春雲の去來するやうに、小面憎い餘裕に富んだものである。

 昨日の流行に反したものは夏目先生の筆に成つた所謂「餘裕のある小説」である。今日の流行に反するものも佐佐木茂索君の筆に成つた所謂「餘裕のある小説」である。しかし佐佐木君の作品は夏目先生の作品のやうに蒼老の趣には饒かではない。その代りに爭ふべからざる近代的な匂を漂はせてゐる。昔、ヴェルレニンは「作詩術」の中に「色彩よりも寧ろ陰影を」と言つた。佐佐木茂索君の作品は一面には餘裕に富んでゐると同時に、他面には又繊細を極めた情緒のニュアンスに溢れてゐる。これは君の作品を除いた所謂「餘裕のある小説」には、殆ど見出し難い特色である。わたしの君の作品を評して、近代的な匂を云々と言つたのは必しも妄りに言を立てたのではない。

 佐佐木君の作品の特色は勿論これだけには盡きないであらう。が、わたしは少くとも上に擧げた二三の特色を著しいものと信じてゐる。佐佐木君は第一の短篇集「春の外套」の成るに當り、わたしに一篇の序を徴した。即ちわたしの信ずる所を記し、聊か大方の讀者の爲に便にしたいと思つた所以である。

   大正十三年十一月九日夜

 

   *

「ヴァアニッシュ」はワニス(varnish)。ニスのこと。透明な被膜を形成する塗料であるが、ここはいらぬ装飾、虚飾の謂い。「小面憎い」は「こづらにくい」と読み、原義は「顔を見るだけでもいやになるくらい憎らしい・小生意気で癪に障る」の謂いであるが、ここは「小憎らしいほど味な」といった褒め言葉のニュアンスである。「蒼老」は「さうらう(そうろう)」で、老成していること・いぶし銀の謂い。「饒か」は「ゆたか」。「ヴェルレニン」はヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine 一八四四年~一八九六年)のことで、「作詩術」は彼の「Art poétique」(一八八五年)という九連から成る詩の題名で、引用箇所は第四連目の二行目「Pas la couleur, rien que la Nuance !」である。「徴した」とは供出を求めたの意。

・「一週間たつた後、最高點を採つた答案は下に掲げる通りである。」「正に器用には書いてゐる。が、畢竟それだけだ。」これは師芥川龍之介の弟子佐佐木茂索への、一見、悪意に満ちた「『より惡い半ば』を肯定」した『半肯定論法』に見えるが、実は同時に最大最上のエールでもあるのである。何故なら、前に示した龍之介の序文は、まさに、これとは逆に、この作品集の「藝術的價値の『より善い半ば』」を『半肯定論法』で評したものに他ならぬからである。合わせて相殺されれば、それは本作品集への素直な賛辞(但し、精進すべき留保を添えた、である)に他ならぬことになるからである。
 
 但し、一方で、この「正に器用には書いてゐる。が、畢竟それだけだ。」という言葉は別に、実は佐佐木以外の弟子或いは作家仲間へ向けられた皮肉な返し矢ででもあった可能性がすこぶる高いと私は考えている。これはたまたま全く別な必要性から、二〇〇九年岩波文庫刊石割透編「芥川龍之介書簡集」の石割氏の注を管見していたところ、これは!?! と思わせる記載を発見したからである。それは大正九(一九二〇)年七月十五日附の「龍門の四天王」の一人、南部修太郎宛書簡(田端発信・石割透編「芥川龍之介書簡集」書簡番号一〇三/岩波旧全集書簡番号七四三)の注である。ここで少し脱線して述べておくと、南部修太郎(明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)は師龍之介(但し、彼は龍之介と同年(六ヶ月ほど下)であり、「師」という認識は私は実は南部にはなかったと考えている)のかつての不倫相手であった歌人秀しげ子と関係を持っており、龍之介は大正十年の九月(推定)に二人の密会場面にたまたま遭遇、激しいショックを受けている。因みに、この事件が翌年一月に発表される
中」に強い影響を与えていることは間違いない。但し、この時点では私は龍之介としげ子の方の不倫関係は一応、終わっていたと考えている。兎も角も、このトラブルを遠因とすると私は推理しているが、翌大正十一年八月には龍之介と南部は喧嘩をし、絶交寸前にまでなっている(書簡(南部修太郎宛・同年八月七日附・田端発信・岩波旧全集書簡番号一〇六四。因みに石割版書簡集はこの書簡を採録していないので注意されたい)が残るが、五十九字に及ぶ削除部分があり、直接の理由は不明である)。本章発表(大正一三(一九二四)年十二月)の四年前、龍之介は私の偏愛する「南京の基督」(大正九(一九二〇)年七月一日発行『中央公論』)を発表しているが、それに対し、が、発表直後の大正九(一九二〇)年七月十一日附の『東京日日新聞』掲載の「最近の創作を読む」に於いて(以下、石割氏の注から引用)、『南部は「南京の基督」について、「この主の作品から心にアッピイルする何物かを得ようなどとは私は思はない」、「筆達者」は「気持ちが好い」が「たゞそれだけだ」と評した』とある(下線やぶちゃん)。少なくとも、龍之介がこの「批評學」の最後の台詞を書いた時、彼の脳裏には南部のこの評言がもとにあったと私は信じて疑わない。また、南部は「南京の基督」を評して「遊びが過ぎる」と言っているらしい(その龍之介の書簡(石割透編「芥川龍之介書簡集」書簡番号一〇三/岩波旧全集書簡番号七四三)中に出る)が、それについても石割氏は注されて、『「小器用に纏め上げた Fiction を書いて、氣持好さそうに遊んでゐる」と評した。また、安倍能成や久米正雄も、ほぼ同じ批評を新聞に寄せた』(下線やぶちゃん)とあるから、このアフォリズム「批評學」のエンディングのアイロニーは南部だけではなく、同輩の安倍や久米にさえも向けられた毒でもあったとも思われるのである。]

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