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2016/05/30

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  ポオ

 

       ポオ

 

 ポオはスフインクスを作る前に解剖學を研究した。ポオの後代を震駭した祕密はこの研究に潜んでゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」と、後の「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。アメリカの詩人であり、幻想作家であったエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)は芥川龍之介が生涯を通じて偏愛した作家であり、このアフォリズムも短章ながらも、この作家アフォリズムの中では極めて素直な感懐を表明している。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の山本健氏の「ポー」の項を参考に以下、叙述すると(引用は総て私が岩波旧全集に当たってオリジナルに長く引いており、途中に私の感想も挿入しているので注されたい。お手軽に山田氏のそれを引用したものではないということである。龍之介の作品へのリンクは「ポーの片影」を除いて総て私の電子テクストである)、山田氏は龍之介は大正二(一九一三)年(満二十一歳の一高卒業前後)にはポーを系統立てて読み始めていたらしいと指摘され、書簡(大正四(一九一五)年五月二十三日附井川(後に恒藤)恭宛・岩波旧全集書簡番号一六〇)の記載から、彼が『ポーをゴシック・ロマンの系譜に位置付けて』いることが判る、とある。この大正五年当時を回想した「あの頃の自分の事」(大正八(一九一九)年一月『中央公論』)の「四」では谷崎潤一郎を評して(下線やぶちゃん。ここが龍之介の当時のポー観である)、谷崎の『美しい悪の花は、氏の傾倒してゐるポオやボオドレエルと、同じ莊厳な腐敗の香を放ちながら、或一點では彼等のそれと、全く趣が違つてゐた。彼等の病的な耽美主義は、その背景に恐る可き冷酷な心を控へてゐる。彼等はこのごろた石のやうな心を抱いた因果に、嫌でも道德を捨てなければならなかつた。嫌でも神を捨てなければならなかつた。さうして又嫌でも戀愛を捨てなければならなかつた。が、彼等はデカダンスの古沼に身を沈めながら、それでも猶この仕末に了へない心と――une vieille gabare sans mâts sur une mer monstrueuse et sans bords 』(筑摩全集類聚版脚注に『果てしない、恐ろしい海の上のマストもない一隻の老朽船。(仏)。ボードレールの「悪の花」の中の「七人の老爺」の一節』とある)『の心と睨み合つてゐなければならなかつた。だから彼等の耽美主義は、この心に刧』(おびや)『かされた彼等の魂のどん底から、やむを得ずとび立つた蛾の一群だつた。従つて彼等の作品には、常に Ah! Seigneur, donnez-moi la force et le courage / De contempler mon cœur et mon corps sans dégoút 』(筑摩全集類聚版脚注に『ああ、主よ、力と勇気とを与え給え、嫌悪なくしてわが心と肉体を熟視するための。(仏)。ボードレールの「悪の花」の中の「シテールへの或る旅」の最後の句』とある)『と云ふせつぱつまつた嘆聲が、瘴氣の如く纏綿してゐた。我々が彼等の耽美主義から、厳肅な感激を浴びせられるのは、實にこの「地獄のドン・ジユアン」のやうな冷酷な心の苦しみを見せつけられるからである。しかし谷崎氏の耽美主義には、この動きのとれない息苦しさの代りに、餘りに享樂的な余裕があり過ぎた。氏は罪惡の夜光蟲が明滅する海の上を、まるでエル・ドラドでも探して行くやうな意氣込みで、悠々と船を進めて行つた。その點が氏は我々に、氏の寧』(むしろ)『輕蔑するゴオテイエを髣髴させる所以だつた。ゴオテイエの病的傾向は、ボオドレエルのそれとひとしく世紀末の色彩は帶びてゐても、云はば活力に滿ちた病的傾向だつた。更に洒落て形容すれば、宝石の重みを苦にしてゐる、肥滿したサルタンの病的傾向だつた。だから彼には谷崎氏と共に、ポオやボオドレエルに共通する切迫した感じが缺けてゐた』と批判している(ここでの谷崎への辛口批評はすこぶる痛快であり、私も極めて共感するものであるが、ここは下線部に注目されたい)。山田氏は、『つまり芥川はポーやボードレールの耽美主義やデカダンスの背後に、享楽的余裕とは無縁な、神や道徳に反逆した者の「恐る可き冷酷な心」を見ていたのである。感覚的、刹那的唯美主義の内包する悲劇の可能性をいち早く予感していた芥川は、晩年の作品群』、ことに「齒車」『などにおいて、「恐る可き冷酷な心」の崩壊のドラマを、自らの「切迫した感じ」に最終的な形を与えることで演じきってしまうことになる』と評されておられる。最後の部分などは至極共感する謂いである。大正八(一九一九)年の「妖婆」(『中央公論』)の冒頭段には、『この大都會の一隅でポオやホフマンの小説にでもありさうな、氣味の惡い事件が起つたと云ふ事は、いくら私が事實だと申した所で、御信じになれないのは御尤です』とあり、随筆「點心」(大正一〇(一九二一)年『新潮』)の「Ambroso Bierce」(アメリカの作家アンブローズ・ギンネット・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce 一八四二年~没年不祥:一九一三年、七十一歳の時に自らも関わった南北戦争の旧戦場を巡る旅に出たまま失踪した)についてのアフォリズム)の中では、「(一)短篇小説を組み立てさせれば、彼程鋭い技巧家は少い。評論がポオの再來と云ふのは、確にこの點でも當つてゐる。その上彼が好んで描くのは、やはりポオと同じやうに、無氣味な超自然の世界である。この方面の小説家では、英吉利に Algernon Blackwood があるが、到底ビイアスの敵ではない』と記す。山田氏はこの後に本アフォリズムを挙げ、『芥川の言う「技巧」即ち「解剖学」とは、ポーが「構成の原理」』(The Philosophy of Composition 一八四六年)『で説き明かした、作品校正過程を徹頭徹尾、意識化、方法化していく分析的創作原理』の謂い『に他ならない』とされる(下線やぶちゃん)。また、龍之介は文藝的な、餘りに文藝的な(昭和二(一九二七)年『改造』)の「三十七 古典」で、『元來東西の古典のうち、大勢の讀者を持つてゐるものは決して長いものではない。少くとも如何に長いにもせよ、事實上短いものの寄せ集めばかりである。ポオは詩の上にこの事實に依つた彼の原則を主張した。それからビイアス(Ambrose Bierce)は散文の上にもやはりこの事實に依つた彼の原則を主張した。僕等東洋人はかう云ふ點では理智よりも知慧に導かれ、おのづから彼等の先驅をなしてゐる。が、生憎彼等のやうに誰もかう云ふ事實に依つた理智的建築を築いたものはなかつた。若しこの建築を試みるとすれば、長篇源氏物語さへ少くとも聲價を失はない點では丁度善い材料を與へたであらうに。(しかし東西兩洋の差はポオの詩論にも見えないことはない。彼は彼是(かれこれ)百行の詩を丁度善い長さに數へてゐる。十七音の發句などは勿論彼には「エピグラム的」の名のもとに排斥されることであらう。)』と記した如く、『意識的姿勢を貫徹し、あらかじめ想定された効果を達成するには作品は短ければ短いほどよい』(山田氏の解説より引用)と考えており、アフォリズム「藝術その他」(大正八(一九一九)年『新潮』)の冒頭で『藝術家は何よりも作品の完成を期せねばならぬ。さもなければ、藝術に奉仕する事が無意味になつてしまふだらう。たとひ人道的感激にしても、それだけを求めるなら、單に説教を聞く事からも得られる筈だ。藝術に奉仕する以上、僕等の作品の與へるものは、何よりもまづ藝術的感激でなければならぬ。それには唯僕等が作品の完成を期するより外に途はないのだ』と書いたように、『短編小説の形式、構成、文体に完璧を期することを課題とした芥川が、ポーに短篇作法の規範を求めたのは当然の成り行きと言えた』と山田氏は記しておられる。なお、芥川龍之介には珍しく敬体で記された随筆片影」(大正一四(一九二五)年『秋田魁新報』。このリンクのみ青空文庫版)があり、またそれと縁の深い、死の年の昭和二(一九二七)年の二月に新潟高等学校で講演した「ポオの一面」がある。後者は以前から電子化したいと思っているものであるが(元は原稿ではなく、芥川龍之介自身の名刺二十一枚の裏に記された講演用メモである)、英文記載がはなはだ多く、注に時間がかかることから、二の足を踏んでいる。これを機に手がけてみようとは思う)。

 

・「スフインクス」短篇小説「スフィンクス」(The Sphinx 一八四六年)。平成七(一九九五)年新潮文庫刊「侏儒の言葉・西方の人」で注解を担当されている神田由美子氏はポーをあまりお読みになったことがないらしい。スフィンクスの辞書的説明の後に、『ここではポーの怪奇で夢幻的な小説のことをさす』という半可通な注が附く(私は若き日からポーの愛読者である)。これでは、ポーは小説活動に入る前に本格的な解剖学を修学修得したとしか読めないが、彼の経歴にそのような事実は、ない(彼は詩人としてデビューし、小説家活動を始めるのは一八三二年である。因みに、彼の専門的な修学はラテン語やギリシャ語に始まる驚異的な語学力(諸言語を自在に読めた)による博物学的な広汎な古典研究を主体(他にドイツ文学を好んだ)としている)。但し、冒頭に引用した井上健氏の見解(私が下線を引いた箇所の五番目のところ)に照らすならば、神田氏のこの謂いは、結果としては、正しいとは言える。しかしやはりここは実際のポーの小説「スフィンクス」を注としては示さなければ私は不十分と思う。

 怪奇的でミステリアスな謎解き物の短篇「スフィンクス」は、主人公「僕」が親戚の招待を受けてハドソン川河畔の別荘で二週間避暑に出向いたという語りから始まる(以下、私の所持する一九七四年東京創元社刊「ポオ小説全集 4」の丸谷才一氏の訳を参考に梗概を記す。最後はネタばれになるが、この注としてはどうしても必要である。ポオ・フリークの私としては、未読の方はお読みになってからの方がよかろうとは存ずる)。

   *

――当時、ニューヨークでコレラが猖獗を極めており、毎日のように友人の死の報知が齎され、南部から吹いてくる風には死の匂いが感じられるほどに、「ぼく」の心は死の予感に満ち満ちたものであった。

――とある焼けるように暑い日の夕刻、窓辺に腰かけて読書をしながら、ふと、眼を上げてみると、遙か彼方の山の頂きから、その麓へと、斜面を急速に下ってゆく、古い軍艦ほどもある恐ろしく大きな黒い怪物が蠢くのを目撃する。それは七十四門もの大砲状の突起物を備えており、直径は象の胴体ぐらい、長さ十九~二十一メートルもある鼻状の突起物の先に口が開口している。その鼻の基部には水牛二十頭分の毛を集めたのより多い、膨大な黒い毛が密生しており、その下方には光り輝く二本の、猪のそれを途方もなく大きくしたような牙が垂直にそそり立っている。別に鼻に平行に、左右から九~十二メートルある棒状の突起が前方に突き出ているが、これは純正の水晶製のように観察出来た。それは完璧なプリズムを成して、黄昏の光を絢爛に反射していたからである。胴体は地面に尖端を突き刺した杭のような形状を成し、そこから二対の翼(一枚のそれは長さ九十一センチメートル強)が生えていて、一対は今一対の翼の上に重なっており、その上の翼の背面は総て金属の鱗で覆われている。その一枚一枚の鱗の直径は三~三・六メートルほどと推定され、上下段の翼は鞏固な鎖によって連結されてあった。そうしてその最も恐るべき特徴は、その胸部の殆んど全面を覆っている髑髏(どくろ)の絵にあった。それは黒地の体に絵師が念を入れて描きあげたかの如く、くっきりとまぶしい白で刻まれてあったのである。そうして、鼻の尖端にある巨大な顎状のものを突如、大きく拡げたかと思うと、哀しげな轟然たる声がそこから響き、そいつは麓の森の中へと姿を消した。瞬間、「僕」は失神して床に倒れた。

――それから三、四日した夕暮れ、その異様な怪物を目撃した部屋で「ぼく」は友人(別荘の主人)にそれを告白する。友人は最初は腹を抱えて笑い、後には「ぼく」が発狂したと思ったことを示す態度に変わる。

――ところが、その瞬間、「ぼく」は再び、あの怪物の姿を目撃した。恐怖の叫びを挙げて、彼に注意を促すと、目の前の友にその辿る行路まで子細に説明した。友人は熱心に聴いた。しかし彼は「何も見えない」と答えた。「ぼく」は激しい不安に襲われた。「ぼく」の幻は「ぼく」の死の予兆ではないのか?! と……

――しかし友人は冷静さを取り戻し、「ぼく」からその野獣の形状や細部について問い質すと(以下、二重括弧内は丸谷氏の訳)、『人間のおこなうあらゆる観察において、誤りの主たる原因となるものは、対象が近い距離にあることを図りそこね、その対象を過小評価ないし過大評価することだ』、『「たとえば」と彼は言った』、『「民主主義の普及が広く人類に及ぼす影響を正しく評価するには、この普及が達成されるのはおそらく遠い将来においてであるということが、まずその評価の一要素でなければならぬ、ところが、問題のこの点について、論ずるに値するだけ考えぬいた政治家が、今まで一人でもいたでしょうか?」』(因みに、この友人の言葉、「侏儒の言葉」に載っていてもおかしくない!)。

――そこで彼は話をやめ、書棚から一冊の博物学概論を抜きとって、その本の小さな活字がよく見えるように席を代わって呉れと言ったので、「ぼく」は「ぼく」の坐っていた窓辺の椅子を彼に譲った。そうして徐ろに、『「君が怪物のことをことこまかに描写してくれなかったら」と彼は言った。「その正体を示すことはできなかったろうね。まず昆虫(インセクタ)』、つまり虫なんですよ、『鱗翅目(レピドプテラ)、薄暮族(クレプスクラリア)、スフィンクス種についての、学生むきの説明を読み上げよう……』(以下、「ぼく」が見たものと酷似した『髑髏(されこうべ)スフィンクス』という有翼生物についての奇体な生物の解説が載る。そこは訳書をお読みあれ。因みに、当該の原文は、

   *

"But for your exceeding minuteness," he said, "in describing the monster, I might never have had it in my power to demonstrate to you what it was. In the first place, let me read to you a schoolboy account of the genus Sphinx, of the family Crepuscularia of the order Lepidoptera, of the class of Insecta--or insects. The account runs thus:

"'Four membranous wings covered with little colored scales of metallic appearance; mouth forming a rolled proboscis, produced by an elongation of the jaws, upon the sides of which are found the rudiments of mandibles and downy palpi; the inferior wings retained to the superior by a stiff hair; antennae in the form of an elongated club, prismatic; abdomen pointed, The Death's--headed Sphinx has occasioned much terror among the vulgar, at times, by the melancholy kind of cry which it utters, and the insignia of death which it wears upon its corslet.'"

   *

である)

――そうして友人はその席で「ぼく」がさっき怪物を目撃した姿勢をとると、『「山肌を降りてゆく。とても目立つ姿だ。でも君が想像したほどは消して大きくないし、遠くへだたってるわけでもない。なぜって、窓枠に張った糸の上を、のたくって登ってゆくのだもの、こいつはいくら大きくったって十六分の一インチぐらい』(一・五ミリメートル)『でしょう。ぼくの眼から十六分の一インチぎらうしか離れていないのですよ」』(完)

   *

なお、この怪物の正体とする原文の「Lepidoptera」は現行も実際の鱗翅(チョウ)目であるが、「Crepuscularia」という族は少なくとも現行ではタクサに存在しない。但し、シャクガ科エダシャク亜科Ectropis属フトフタオビエダシャク Ectropis crepuscularia の種小名に同一の学名を見出せる。「Sphinx」スズメガ亜科 Sphinginae Sphinx属がいるが、上記原文にあるような蛾ではない。メンガタスズメ(面形天蛾、学名: Acherontia styx)は、チョウ目スズメガ科の昆虫。ガの一種。この怪物の特徴的な髑髏(どくろ)面で蛾となると、本邦にも棲息するチョウ目 Glossata 亜目Heteroneura下目カイコガ上科スズメガ科スズメガ亜科 Acherontiini 族メンガタスズメ属メンガタスズメ Acherontia styx 及びその近縁種がおり、彼等はまさに「髑髏(どくろ)蛾」「骸骨蛾」と呼ばれる(種小名 styx はギリシャ神話の冥府を取り巻いて流れる川ステュクス(仏教の三途の川に相当)に由来する)がいるが、本作の最後では「spider」(原文)とはっきりと書かれているから蛾ではない。体表に――白抜きのドクロ紋――を持つクモ類というのはいそうな気はするが、確認出来ない。識者の御教授を乞う。ともかくも原文で引いた「The Death's--headed Sphinx」というのは叙述から見ても蛾である(但し、「the melancholy kind of cry which it utters」(丸谷氏訳『その憂鬱な叫び声』)は挙げない)。ということは、極小のメンガタスズメ Acherontia styx を捕捉した極小のクモが「ぼく」の眼前を通り過ぎたということなのか? やや不審ではある。

・「震駭」「しんがい」。驚いて、震え上がること。]

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