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2016/05/17

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 鼻

       鼻

 

 クレオパトラの鼻が曲つてゐたとすれば、世界の歷史はその爲に一變してゐたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし戀人と云ふものは滅多に實相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞は一たび戀愛に陷つたが最後、最も完全に行はれるのである。

 アントニイもさう云ふ例に洩れず、クレオパトラの鼻が曲つてゐたとすれば、努めてそれを見まいとしたであらう。又見ずにはゐられない場合もその短所を補ふべき何か他の長所を探したであらう。何か他の長所と云へば、天下に我我の戀人位、無數の長所を具へた女性は一人もゐないのに相違ない。アントニイもきつと我我同樣、クレオパトラの眼とか唇とかに、あり餘る償ひを見出したであらう。その上又例の「彼女の心」! 實際我我の愛する女性は古往今來飽き飽きする程、素ばらしい心の持ち主である。のみならず彼女の服裝とか、或は彼女の財産とか、或は又彼女の社會的地位とか、――それらも長所にならないことはない。更に甚しい場合を擧げれば、以前或名士に愛されたと云ふ事實乃至風評さへ、長所の一つに數へられるのである。しかもあのクレオパトラは豪奢と神祕とに充ち滿ちたエヂプトの最後の女王ではないか? 香の煙の立ち昇る中に、冠の珠玉でも光らせながら、蓮の花か何か弄んでゐれば、多少の鼻の曲りなどは何人の眼にも觸れなかつたであらう。況やアントニイの眼をやである。

 かう云ふ我我の自己欺瞞はひとり戀愛に限つたことではない。我々は多少の相違さへ除けば、大抵我我の欲するままに、いろいろ實相を塗り變へてゐる。たとへば齒科醫の看板にしても、それが我我の眼にはひるのは看板の存在そのものよりも、看板のあることを欲する心、――牽いては我々の齒痛ではないか? 勿論我我の齒痛などは世界の歷史には沒交渉であらう。しかしかう云ふ自己欺瞞は民心を知りたがる政治家にも、敵狀を知りたがる軍人にも、或は又財況を知りたがる實業家にも同じやうにきつと起るのである。わたしはこれを修正すべき理智の存在を否みはしない。同時に又百般の人事を統べる「偶然」の存在も認めるものである。が、あらゆる熱情は理性の存在を忘れ易い。「偶然」は云はば神意である。すると我我の自己欺瞞は世界の歷史を左右すべき、最も永久な力かも知れない。

 つまり二千餘年の歷史は眇たる一クレオパトラの鼻の如何に依つたのではない。寧ろ地上に遍滿した我我の愚昧に依つたのである。哂ふべき、――しかし壯嚴な我我の愚昧に依つたのである。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一二(一九二三)年二月号『文藝春秋』巻頭。「鼻」という字は多くの読者に実質上の文壇デビュー(七年前の当時の彼は未だ満二十三歳で東京帝国大学文科大学英文学科三年在学中(旧制大学は三年制)の学生であった)を果たしたかの「鼻」(大正五(一九一六)年の第四次『新思潮』創刊号掲載され、同作を含む第一作品集「羅生門」の刊行は翌年五月のことであった)を直ちに想起させる。さればこそ、雑誌巻頭のこれを飛ばして読む読者はまずいないであろう。龍之介は連載二回目からして、読者を絡め獲る巧妙な罠を仕掛けている。

 

・「クレオパトラ」「クレオパトラ」という名はギリシア語で「父の栄光」を意味し、古代エジプトのプトレマイオス王家では女王名としてしばしば用いられたが、現在、単にこう呼ぶ場合はプレマイオス朝最後のファラオであるクレオパトラ七世フィロパトル(ラテン語:Cleopatra VII Philopator 紀元前六九年~紀元前三〇年八月十二日)を指す。父はプトレマイオス十二世(アウレテス)、母はクレオパトラ五世で、アウレテスの次女であった。ここで参照したウィキの「クレオパトラ」によれば(下線やぶちゃん)、『「絶世の美女」として知られ、人をそらさない魅力的な話術と、小鳥のような美しい声であったと伝えられる』ものの、『クレオパトラの肖像は治世当時、アントニウス』(次注)『が発行したとされている硬貨に横顔が残されているのみであり、この評価は後世の作り話だとの説がある』一方、妹のアルシノエ四世の『復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする説もある』と記す。また、『歴史家プルタルコスは、クレオパトラを、複数の外国語(エジプト語・メディア語・エチオピア語・シリア語・パルティア語・アラビア語・ヘブライ語など)に通じた知的な女性と伝えている。ちなみにその容貌については、「彼女の美貌そのものはけっして比類なきものではなく、見る人をはっとさせるものでもないと言われていた」と評している。彼女はたしかに魅力的な女性ではあったが、それは容姿ではなく雰囲気や優雅で穏やかな話し方からくるものであったといわれる。美の基準は人・地域・時代などによって異なるので注意が必要だが、少なくともプルタルコスの評価では、あるいは当時の世間一般の見方では、特段美しいというわけではなかったようである。クレオパトラに惚れ込んだカエサルも、彼女の頭の良さと声の良さを讃えているが、容姿については語っていない。彼女の声の良さについては「まるで楽器のようだ」と絶賛している』(私はこのクレオパトラの特徴を、龍之介がこの翌年に再邂逅して強く惹かれてゆくことになる片山廣子と強く重なるように思われてならないのはまさに「偶然」であろうか)。『エジプトの女王だったということで、映画や挿絵などでは肌の色の濃いエキゾチックな美女といった容姿で描かれることが多いが、プトレマイオス朝はギリシア人の家系であったので彼女の容貌はギリシャ的であり、同時代のクレオパトラの肖像としては、ギリシア風の巻き毛スタイルとエジプト風のオカッパスタイルの両方が残っている』とある。歴史的事蹟は小学館「日本大百科全書」の秀村欣二氏の記載を引く(アラビア数字を漢数字に代え、ルビを省略した)。『マケドニア・ギリシア系の才色兼備の婦人で、高い教養をもち、ギリシア語しか話さなかった王家の人々のなかで、エジプト語はもちろん、近隣諸国の言語を解し、外交使節とも通訳なしに応対したといわれる。十七歳のとき、プトレマイオス家の慣例に従って九歳の弟プトレマイオス十三世と結婚し、共同統治者となったが、まもなく二人は反目し、宮廷内も二派に分かれて争い、クレオパトラのほうが劣勢で、一時シリアに退いた。ところが、紀元前四八年ポンペイウスを追ってエジプトにきたユリウス・カエサルに一人で会ってその支持を取り付けた。その結果生じたアレクサンドリア戦争で、カエサルは初め苦戦したが、ついにプトレマイオス十三世を敗走、溺死させた。カエサルは、クレオパトラと五歳の末弟プトレマイオス十四世をエジプトの共同統治者としたが、彼女は事実上カエサルの愛人となり、男児カエサリオンを生んだ。カエサルのローマ凱旋後、クレオパトラは幼王をも伴ってローマを公式訪問し、カエサルの邸宅に迎えられた。しかし前四四年三月十五日カエサルが暗殺されると、急いでエジプトに帰り、プトレマイオス十四世を殺し、カエサリオンを共同統治者としてカエサル亡きあとの政治情勢を静観した』。『その後、前四二年オクタウィアヌスとともにカエサル暗殺者たちを撃滅したアントニウスは、翌年小アジアのタルソスでクレオパトラと会見、その美貌と才知のとりことなり、アレクサンドリアに同道し、交情を結んだ。前四〇年アントニウスはローマに帰り、オクタウィアヌスの姉オクタウィアと政略結婚し、クレオパトラとの関係は解消したかにみえた。しかし前三七年、パルティア遠征のため東方にきたアントニウスは、クレオパトラとの愛情を復活するとともに、彼女から軍事的支援を得た。二人の間には男女の双生児が生まれた。前三六年のパルティア遠征は惨敗に終わったが、クレオパトラはフェニキアまで救援に駆けつけた。前三四年アントニウスはアルメニアで勝利を収めると、凱旋式を慣例に反してローマでなくアレクサンドリアで挙行した。クレオパトラはイシス女神の扮装をし、藩属国諸王を従え、東方ヘレニズム世界の女王としてふるまった。この知らせはやがてローマに達し、前三五~前三四年にかけてオクタウィアヌスとアントニウスとの間に活発な宣伝と非難の文書合戦が開始され、それは政治問題から女性関係のスキャンダルの暴露にまで及んだ』。『前三三年、アントニウスはエフェソスに東方のローマ軍団と藩属国の軍隊を集結、クレオパトラも軍船と軍資金を提供した。前三二年、アントニウスはついにオクタウィアに離縁状を送り、オクタウィアヌスは内乱の形式を避けるため、クレオパトラに対してのみ宣戦を布告した。前三一年、アクティウムの海戦に双方は天下を賭したが、戦いなかばにしてクレオパトラは艦隊を率いて逃走しアントニウスもこれを追ったので、戦いはあっけない結末に終わった。前三〇年、アレクサンドリアでアントニウスが自殺し、クレオパトラもローマの凱旋式に引き回されることを拒否して、毒蛇に身をかませて死んだと伝えられる』。『カエサル、アントニウスと二人のローマの代表的将軍を魅惑したクレオパトラは、ローマ人から「ナイルの魔女」と悪罵されたが、その最後の潔い死は評価された。「クレオパトラの鼻」で知られるパスカルの警句、プルタルコスに拠ったシェークスピアの『アントニーとクレオパトラ』やバーナード・ショーの『シーザーとクレオパトラ』とそれらの映画化など、このヘレニズムの最後の女王への関心は今日まで続いている』とある(私が大学の英語購読で唯一、原文の抄録を読んだものの数少ない一つが、まさにこのWilliam Shakespeare“Antony and Cleopatra16061607)であった。引かれる台詞の辞書に載らない中世英語にえらく悩まされたのを思い出す)。なお、先のウィキの記載によれば、『トルコのエフェソスにおいて、妹』アルシノエ四世の『ものと考えられる墓所と遺骨が発見されたとの説もあるが、クレオパトラ自身の墓はまだ発見されていない』とある。

・「クレオパトラの鼻が曲つてゐたとすれば、世界の歷史はその爲に一變してゐたかも知れないとは名高いパスカルの警句である」中世フランスの哲学者・物理学者・数学者にしてキリスト教神学者であったブレーズ・パスカル(Blaise Pascal 一六二三年~一六六二年)の遺稿集「パンセ」(Pensées1669:「思索」の意であるが、本邦では「瞑想録」などと訳される)の第百六十二節に出る、知られた一句であるが、一般に日本語では――「曲がつてゐ」たら――ではなく――低かったら――或いは――短かったら――である。岩波新全集第十三巻の山田俊治氏の同注には氏の訳と思われるが、「クレオパトラの鼻がもし低かったら世界の顔 Le face de la terre は変わっていた」とし、『「鼻が曲がつてゐた」は芥川の記憶違い』と一刀両断する。一方で、先に引いた新潮文庫の神田氏の注では、『「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら地球の全表面は変わっていたであろう」(前田陽一訳)「クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていただろう」(由木康訳)など様々な訳がある』と記す(「由木康」「ゆうき こう」と読む)。先に引いたウィキの「クレオパトラ」には、『フランスの哲学者ブレーズ・パスカルは、クレオパトラがその美貌と色香でカエサルやアントニウスを翻弄したとして、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら』『歴史が変わっていた」と評した。前述の通り、同時代人にとってクレオパトラが特段の美人では無かった事から、この評価は誤解に基づくものともされる。もっとも、パスカルはこの話を単に例えとして記述しているに過ぎない』とあり、「低かったら」の箇所には『逐語訳すれば『短かったら』』としてウィキの「鼻」を参照するように指示がある。さてもそのウィキの「鼻」には、この龍之介の表現について(下線やぶちゃん)、『日本語・中国語では鼻は「高い/低い」で表現するが、他の多くの言語では「長い/短い」で表現する。「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、歴史は変わっていただろう」というパスカルの『パンセ』における言葉は、実際には「court(短い)」であり、芥川龍之介の『侏儒の言葉』で「〜鼻が曲がっていたら」となっているのは、これを「courbe (曲がった)」と誤解したためと言われ、鼻と「長い/短い」という表現との間の連想が働かなかったためではないかと考えられる』という実に眼から鱗の解釈が載るのである。これこそ私はここの注に最も相応しい注と心得る。ウィキを非学術的と馬鹿にする諸君、もう、いい加減、心改めたが、よろしい。既に正規の学術論文の注にはウィキペディアが引かれもしているのを、御存じないかね?

・「自己欺瞞」「じこぎまん」(「瞞」は他に「瞞着」ぐらいでしかお目にかかることがないが、「事実を蔽い隠して騙(だま)す」の意。自分で自分の心を欺(あざむ)くこと。己れの良心や本心に反しているのを知りつつ、それを自分に対して無理に正当化、強引な自己合理化をする心理状況を指す。

・「アントニイ」共和政ローマの軍人政治家マルクス・アントニウス(ラテン語:Marcus Antonius 紀元前八三年~紀元前三〇年八月一日)。第二回三頭政治の一頭として権力を握ったが、その後はガイウス・ユリウス・カエサルの姪の息子オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗北した。以下、参照したウィキの「マルクス・アントニウス」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた。下線やぶちゃん)。彼の『祖父マルクス・アントニウス・オラトルは執政官や監察官を歴任した実力者であったが、ルキウス・コルネリウス・スッラの党派(オプティマテス)へ属したとしてアントニウスの生まれる前の紀元前八七年にガイウス・マリウス派に殺害された。父マルクス・アントニウス・クレティクスは紀元前七四年に法務官を務めたが、地中海での海賊征討の任務で失態を犯し、挽回が叶わないまま失意の内に死去した(紀元前七二年頃)』。『母はルキウス・ユリウス・カエサルの娘で、後に独裁官となるガイウス・ユリウス・カエサル』(後に彼が部下となるかのカエサルである)『の従姉にあたるユリア・アントニアであったが、ユリアは夫アントニウスの死去した後、プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラと再婚した。レントゥルスは紀元前七一年に執政官となったが、ルキウス・セルギウス・カティリナ一派による国家転覆の陰謀へ加担したとして、紀元前六三年にマルクス・トゥッリウス・キケロらの主導で処刑された』。『多難な青年期を過ごしたアントニウスであったが、彼がどの時点から政界へ登場したかははっきりしない』が後に『ギリシアへ渡り、紀元前五七年よりグナエウス・ポンペイウスの党派でシュリア属州総督であったアウルス・ガビニウスの配下へ入り、騎兵隊長となった。紀元前五五年、ファラオの座を追われていたプトレマイオス十二世の復位の為にエジプトへ侵攻した。この時にアントニウスは当時十八歳のクレオパトラ七世に魅了されたと、アッピアノスが『ローマ史』の中で記している『その後、ガリア総督ユリウス・カエサルのレガトゥス(総督代理)としてガリア戦争に従軍。アレシアの戦い(紀元前五二年やコンミウス相手の戦い(紀元前五一年)で活躍し』、『紀元前四九年、カエサルがルビコン川を渡った際には護民官の職にあった。ローマ内戦でカエサルがギリシアへ先行した際には、後続隊を率いて困難な情勢下で合流、紀元前四八年のファルサルスの戦い』でも善戦した。『カエサルが東方へ遠征している間、イタリア本国での政務を託されたが、十分な働きが出来なかった。紀元前四六年にカエサルが独裁官に就任した際には、マギステル・エクィトゥム(騎兵長官)に指名された。キケロはアントニウスを「肉体が頑丈なだけが取り柄の無教養人で、酒に酔いしれ下品な娼婦と馬鹿騒ぎするしか能のない、剣闘士並みの男」と評した』。『カエサル暗殺の年には、その同僚コンスル(執政官)であった(カエサルは終身独裁官とこの年の執政官を兼任)。暗殺後はその有力な後継者と目されていたが、カエサルは遺言状でカエサルの姪の息子オクタウィアヌスを後継者に指名した。オクタウィアヌスが元老院と結ぶと、アントニウスはガリアにいたカエサルの副官であったマルクス・アエミリウス・レピドゥスらと同盟しオクタウィアヌスに対抗した』。『当初は対立した両派であったが反共和派、反元老院で一致しアントニウス、オクタウィアヌス、レピドゥスの三者による同盟が成立。その勢力によってローマの支配権を掌握した。三人は国家再建三人委員に就任しローマを支配した(第二回三頭政治)。このとき三人委員会によるプロスクリプティオで、アントニウスの長年の政敵であったキケロが殺害された』。『その後、マケドニア属州へ逃れていたマルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和派をオクタウィアヌスと共にフィリッピの戦いで破った。三頭政治はもともと権力争いの一時的な妥協として成立していたため、各人は同盟関係にありながらも自らの勢力強化に努めた。アントニウスはローマを離れ、共和派に』組みしていた『東方の保護国王らと会見し関係を強化した。このときブルトゥスらを支援したプトレマイオス朝(エジプト)の女王クレオパトラ七世をタルソスへ出頭させ、出会った。クレオパトラ七世はアントニウスに頼んでエフェソスにいたアルシノエ四世を殺害させた』。『こうしたなか』、『紀元前四一年の冬にアントニウスの弟ルキウス・アントニウス』とマルクス・アントニウスの妻フルウィアは『イタリアでオクタウィアヌスに反抗しペルシア(現:ペルージャ)で蜂起』、『この戦争にはオクタウィアヌスが勝利したが、ここで改めて三人の同盟の確認が行なわれた。アントニウスは死亡した妻フルウィアの後妻にオクタウィアヌスの姉オクタウィアを迎え、婚姻関係によって同盟は強化された。同時に三頭官はイタリア以外の帝国の領土を三分割し、東方はアントニウス、西方はオクタウィアヌス、アフリカはレピドゥスとそれぞれの勢力圏に分割した』。『カエサルの果たせなかったパルティア征服を成し遂げることで、競争者であるオクタウィアヌスを圧倒することを目論んだアントニウスは、紀元前三六年にパルティアに遠征した。この遠征の後背地としてアントニウスは豊かなエジプトを欲し、女王クレオパトラとの仲を再び密接にしていた。しかしこの遠征は失敗しローマ軍団のシンボルである鷲旗もパルティアに奪われ』ている。その後、『アントニウスは、パルティア遠征でローマを裏切ってパルティアへ味方したアルメニア王国を攻撃し、国王アルタウァスデス二世を捕虜とした。そしてその凱旋式をローマではなくアレクサンドリアで挙行した。その際に自らの支配領土をクレオパトラや息子らへ無断で分割したことやオクタウィアヌスが公開させた遺言状の内容、貞淑な妻オクタウィアへの一方的離縁などでローマ人の神経を逆撫でした。ローマ市民の中に「エジプト女、しかも女王に骨抜きにされ、ローマ人の自覚を失った男」といったイメージができた』。『こうしたアントニウスの失策を見たオクタウィアヌスは、アントニウスとの対決を決断し、プトレマイオス朝に対して宣戦布告した。オクタウィアヌスの軍とアントニウス派およびプトレマイオス朝などとの連合軍はギリシアのアクティウム沖で激突。このアクティウムの海戦で敗北したアントニウスとクレオパトラはエジプトへ敗走した』。『この敗戦により趨勢は決し、オクタウィアヌスはエジプトの首都アレクサンドリアへ軍を進めた。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃した。クレオパトラ自殺は誤報であったので、アントニウスはクレオパトラの命で彼女のもとに連れて行かれ、彼女の腕の中で息絶えたとされる』。『アントニウスの死から約十日後にクレオパトラも自殺した。クレオパトラは生前にアントニウスと同じ墓に入れるよう遺言していたが、オクタウィアヌスはそれを認めた』とある。

・「牽いては」「ひいては」で副詞「ひいて」に取り立ての係助詞「は」が附いた強調形。一般には「引いては」「延いては」などと漢字表記するが、字義からはこれで問題ない。「ひいて」は動詞「引く」の連用形に接続助詞「て」の付いた「ひきて」の音変化したもので、前文を受けて接続詞的に用い、事柄の範囲がさらに広がることを意味する。「ある事柄だけに留まることなく、さらに進んで」或いは「前の事態がその原因となって生じた、その結果」という謂いである。

・「沒交渉」「ぼつこうせふ(ぼつこうしょう)」(拗音化して「ぼっこうしょう」とも読む)。交渉がないこと。係わりを持たないこと。無関係なさま。私は根拠もなく、森鷗外辺りから用いられるようになった訳語系の熟語と勝手に思い込んでいたが、小学館「日本国語大辞典」では鷗外の例の前後に、「徂徠集」やら、孫引き乍ら、「伝燈録」の使用例を出してあった。

・「二千餘年の歷史」本篇が一九二四年の発表で、クレオパトラの生年は紀元前六九年であるから、単純に足すしてみても合理的な数値であることが判る。

・「眇たる」「べう(びょう)たる」と読み、ここでは「僅かなさま・採るに足らないさま・対象が些末で下らないさま」の謂いである。なまじっか「渺茫」などという語を知っていると、これを遠くはるかな、などという意と思い込んで平然としてる「愚昧」なる輩どもいるかと存ずるによって特に注しておく。

・「哂ふ」老婆心乍ら、「わらふ(わらう)」(笑う)と訓ずる。

・「壯嚴」ここは「さうごん(そうごん)」と読み、重々しく威厳があって気高いさまを謂う。龍之介の強烈なアイロニー形容である。]

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