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2016/06/30

俳人芥川龍之介   飯田蛇笏

[やぶちゃん注:底本は飯田蛇笏「俳句文芸の楽園」(昭和一〇(一九三五)年交蘭社刊)を国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像を視認して電子化した。踊り字「〱」は正字化した。句の表示の字配は再現していない。また、芥川龍之介「芭蕉雑記」の引用部では、全体が一字下げとなっているが、ここは無視したので引用終了箇所に注意されたい。以下、少し語注を施しておく。なお、蛇笏が多く引用している「芭蕉雑記」及び草稿を含めた全文を私が電子化しているので、未読の方は参照されたい。

 形式第一段落の「遉に」は「さすがに」と訓ずる(「流石に」に同じい)。

 同段落の小穴隆一の「二つの繪」の強烈な回想引用の中の「縊り」であるが、原本(昭和三一(一九五六)年中央公論社刊)を私は所持するが、これは同書の「死ねる物」の一節乍ら、原文は、『芥川が首縊りの眞似をしてゐるのをみてゐたときよりも、押入の中で、げらげらひとりで笑つてゐたというふ話を聞いたときのはうが凄く感じた』で正確な引用ではなく、脚色がなされている。なお、この原文により、「縊り」は「くびくくり」と読むのが正しいことが判る。

 同段落の「羸弱」は「るいじやく(るいじゃく)」で、衰え弱ることを意味する。

 同段落末の「流眄」は「りうべん(りゅうべん)」で、流し目で見ることの意。

 第二段落に出る「西谷勢之介」(明治三〇(一八九七)年~昭和七(一九三二)年)は詩人で、『大阪時事新報』『大阪毎日新聞』『福岡日日新聞』などで記者を続け、大正一二(一九二三)年に大阪で『風貌』を創刊主宰、翌年、詩集「或る夢の貌」を発表。昭和初期にかけては佐藤惣之助の『詩の家』や中村漁波林の『詩文学』に属す一方、『文芸戦線』『不同調』などに詩や随筆を寄稿、昭和三(一九二八)年に発表した「虚無を行く」が野口米次郎に認められ、師事した。著書に詩集「夜明けを待つ」の他、「俳人漱石論」「俳人芥川龍之介論」(昭和七(一九三二)年立命館出版部刊)「天明俳人論」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」等に拠る)。

 「三つの窻」「窻」は「窓」。自裁直前の昭和二(一九二七)年七月一日発行の『改造』に発表された私の偏愛する作品。本文に出る他の作品に比べると知名度はやや落ちると思われるので、電子テクストであるが、リンクさせておく。

 第五段落「犬牙錯綜」犬の牙の如くに互いに食い違ったり、入り組んだりしていること。

 同「剔刳」は「てつこ(てっこ)」で、「刳」も「えぐる」で「剔抉(てっけつ)」に同じい。

 第六段落「如上」は「じよじやう(じょじょう)」で、前に述べた通り、の意。

 同「前者は最後まで表面化さなかつた」はママ。「前者」即ち「運命的な哲理を奧深くひそめて鉛のやうに重くしづみきつた思想」「は最後まで」俳句作品には「表面化さ」せ「なかつた」の意である。「せ」の脱字が疑われる。

 同「決河の勢」「けつかのいきほひ(けっかのいきおい)」と読み、河川の水が溢れて堤防を切る如き猛烈な勢いの意で、勢いの甚だ強いことの譬えである。

 同「唾咳みな金玉抵に」「唾咳」は「だがい」で、「つばき」と「せきばらい」で普段の日常的で些末な感懐の比喩であるが、一般には「咳唾(がいだ)」である。「抵に」(ていに)はそれらと相当にの意で、一茶の句作が日常茶飯の月並句と珠玉の句の創作の滅茶苦茶な玉石混淆状態にあることを指す。

 同「終ひに行くに所な足疲れ衣破れて」ママ。「行くに所なく」の「く」の脱字であろう。

 第九段落「韓紅」は濃い赤色で、普通なら「からくれなゐ(からくれない)」と訓ずるところだが、飯田蛇笏はお読み戴ければ分かる通り、極めて佶屈聱牙な読みを好む俳人であるからして(俳句作品でも然り)、ここは敢えて「かんこう」と音読みしておく。その方が、本文の文脈にもしっくりくる。

 同「波濤が卷き起つてゐる海洋への突つ鼻に常識外の巨きな耳を持つた怪物が首垂れてゐる圖」この自画像は芥川龍之介の絵画作品の中では自画像でありながら、最も知られていない異様な一枚と思う。面倒なので引用元は明かさないが(文化庁は平面的に写真に撮られたパブリック・ドメインの絵画作品の写真には著作権は発生しないと規定している)、日本近代文学館蔵の当該元画を以下に示す。

 Ryunosuke_self_portrait1921104yugaw  


 同「第二の繪の北斗七星が一つ缺け落ちてゐる、それに賛して、/霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉   龍之介/と沈痛に吟じてゐる」は、「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五」で現物画像を見ることが出来るので、是非参照されたい。

 第十一段落『「龍之介は詩人ではない」と云ふ蔭口をきいた人物があつたのを耳にして彼は直ちに起つて家の子郎黨をひきぐしてから、その人物の居宅につめよつたと云ふ巷間の説であつた』の「人物」とは萩原朔太郎であり、ここに記されたことは「噓説」なんぞではなく、概ね事実である(但し、「蔭口」ではない)。何よりも当の詰め寄られた萩原朔太郎が「芥川龍之介の死」の「11」で描いているからである(リンク先は私の古い電子テクスト)。未読の方は、是非参照されたい。

 第十三段落「寧ろ龍之介的芭蕉を現出餘りに是れ力めんとする氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。」の一文はやや読み難いが、――「寧ろ」、「龍之介的芭蕉を現出」せしめんとして、「餘りに是れ」を「力」(つよ)「めんとする」過剰にして異常なる「氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。」――という謂いであろうと読む。

 第十五段落「灼耀」「しやくやく」光り輝くさま。「赫奕(かくやく)」に同じい。

 最終段落冒頭の「決河の勢ひで漲り出た――」のダッシュは後半が空白になっている。植字ミスと断じてダッシュを延した。

 同前「燦」「さん」。輝いて鮮やかなさまを謂う。]

 

 

      俳人芥川龍之介

 

 重患のはげしい痛苦で、泣きわめきながら文稿をつゞつた不敵な魂の持主である正岡子規と、どうした因緣か齡を同じうして現世を去つていつたのは芥川龍之介であつた。子規と龍之介といふ人物との對照は、又別に相常興味ある問題を構成し得べきものでもあるのだが、それはそれとして、一脈相通ふところのものが看破されるのは、その不敵なたましひの有りやうである。遉に龍之介も子規といふ人物のそのたましひに次第にひかれてゆく心のすがたを見せた。小穴隆一氏の「二つの繪」によると、げにも「精も根も盡きはてた」又、「縊りの眞似をする彼よりも、押入の中でげらげら、獨りで笑つてゐる彼のはうに凄さがある」ところの龍之介であつたがために、此の羸弱と而して、ヂャールやべロナールが愈々助長せしめる慘憺たる心身の崩潰が、子規の如きそれへ流眄をはげしくしたにちがひなかつたらうことも肯ける。

 芥川龍之介の思想の中には、絶ず兩つの極面が向ひあつてゐて、それが、時に人知れぬ火花を散らすことがあつたと同時に、又多くは明鏡の如くはつきり文藝作品の上に立像を現出し來つたものゝやうである。いさゝか物故した者へ鞭觸れるかの感じで、愉快ではないけれども、故人西谷勢之介の如き、よく龍之介を理解し、龍之介を惜しむに人後に落ちなかつたものであることは、その遣著「俳人芥川龍之介論」に照らして明瞭なことであるわけだが、名の示すその通りに、餘りに俳句に觸れてのみものを云うた點にも因ることだらうけれども、龍之介の思想を觀察、檢討して其の點に觸るゝ所が見えなかつたことが、吾人をして若干の遺憾を感ぜしめた。しかも勢之介は云つてゐる。

 「傳へきくところによれば、芥川龍之介はその文人としての本領を俳道に置いてゐたとのことである。小説家としての彼が、大正昭和の文壇に最も光榮ある足跡をのこし去つたことを想ひ見るとき、右の言葉は誇張されてゐるやうであり、疑惑せずに居られぬ向もあるけれども、その凡ゆる文藝作品とよくよく吟味すれば、筆者必ずしも不當とは考へられないのである。(「俳人芥川龍之介論」緒言)と。

 この邊の觀察力に缺くるところなく油斷ない彼の研究をもつてしてゞある。

 龍之介の思想に於ける兩つの極面の現はれとして、具體的な證左をあげて云へば、一つは「三つの窻」のやうな運命的な哲理を奧深くひそめて鉛のやうに重くしづみきつた思想であり、一つは「羅生門」乃至「鼻」。いよいよ圓熟の域にすゝんで猶同系たる「鼠小僧次郎吉」のやりな、技巧畢竟天衣無縫の感あらしめるところの彼が明鏡的天才の絢爛さをかき抱く純悴に文藝的な思想である。さうして、此の間に介在して犬牙錯綜、血みどろな人生の葛藤を剔刳するところのものは、彼が漱石的影響のもとに、そのおほらかな天分に乘じた「鼻」の如き初期の作品から、世間彼をめざして云ふこころの所謂、「私小説」への轉換期作品に、たまたまこれを觀るのであるが、その最も顯著なるものゝ一つとして永遠に人心を衝くところのものは 「藪の中」である。であるから、龍之介の思想的全面容から見て、彼が漱石から出て常に漱石を思ひ漱石を忘れなかつたにも拘はらずその作品の或る深刻さが、哲理的背景をひそめて、どこやらに詩的な香味をたゞよはす點に於て、(例ヘば「二つの窻」の如き)故國木田獨步を思はせるものがあつた。「偸盜」や「河童」のやうな作品をのぞく以外には、多く短篇に於てその天分を發揮したことも相通ずるものがあつたのである。

 そこで、世間これを餘技と稱し、龍之介自ら微苦笑をもつて迎へながら、時に甘んじて餘技的態度をかまへながら、その実、滿を引いてはなつに怠りなかつたところの彼の俳句に就いて見るのだが、素より龍之介の俳句は龍之介なりに、幾分でも、龍之介が心臟からつたはつて流れいづるところの血潮そのもので血塗られぬ筈はないであらう。この故に、如上龍之介が思想的背景のもとに、俳句作品の二つの面影は生涯の扉を閉めた内にあざやかな姿をとゞめて鑑賞をほしいまゝにせしめてをる。だが、ここに最も注意すべきことは、前者は最後まで表面化さなかつた。これは俳人芥川龍之介に見る驚くべき事實であつた。(驚くべきことであつてその實彼にとつては驚くべからざることである所以はこの稿の終りに至りて了解し得ると信ずる)だが、さきに事實に就いてだけ云へば、これは斷末魔に至つて、決河の勢をもつてはち切れてゐるのである。俳人として左樣な例は決して多くはない、けれども少くとも小林一茶に就いて見れば的確なるものを示してゐる。一茶が天分を恣にして唾咳みな金玉抵に(この點龍之介は正反對であるが)濫作をつゞけて、終ひに行くに所な足疲れ衣破れて、郷里信濃の柏原の里にたどりついたとき、

   これがまあ終ひの栖か雪五尺   一茶

と、滂沱たる萬斛の血淚をしつてゐる。その人とその藝術の違ひこそあつたにせよ、各、個々の思想を背景として、斷崖の上に起ち、全裸のすがたをぶち出し、眞つ赤な心臟を割つて見せた點に至つては斷じて機を一つにする。龍之介にも亦これがある。

 龍之介の俳句を批判するとして彼自らの作品を直下に論ずべきは當然すぎる當然である。と同時に克明に彼が俳句道に生くる根本義を物語りその識見を披き得るところのものは、俳句史上、最大の標的松尾芭蕉に對する彼の見地に照らすことが第一である。幸にも彼は「芭蕉雜記」といふ好文献を遺してをる。就いてこれを見ると、

(一)「芭蕉の説に從へば、蕉風の集を著はすのは名聞を求めぬことであり、芭蕉の集を著はすのは名聞を求めることである。然らば、如何なる流派にも屬せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう? 且又この説に從へば齋藤茂吉氏の『アララギ』へ歌を發表するのは名聞を求めぬことであり『赤光』や『あら玉』を著はすのは『これは卑しき心より我上手なるを知られんと……』である。

と、及び、

(二)「しかし又芭蕉はかう云つてゐる。――『我俳諧撰集の心なし。』芭蕉の説に從へば、七部集の監修をしたのは名聞を離れた仕業である。しかもそれを好まなかつたと云ふのは何か名聞嫌ひの外にも理由のあつたことゝ思はなければならぬ。然らばこの『何か』は何だつたであらう?』

と、及び、最後に、

(三)「芭蕉は大事の俳諧さへ『生涯の道の草』と云つたさうである。すると七部集の監修をするのも『空』と考へはしなかつたであらうか? 同時に又集をあらはすのさへ、實は『惡』と考ヘる前に『空』と考へはしなかつたであらうか? 寒山は木の葉のやうに詩を題した。がその木の葉を集めることには餘り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千餘句の俳諧は流轉に任せたのでなかつたであらうか? 少くとも芭蕉の心の奥には、いつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかつたであらうか?」

とで結んでゐる。

 (一)(二)(三)は筆者が假りに之れが段階を追ふの順序として、はつきりさせる爲だけに附けたものであつて、「芭蕉雜記」の筆者の爲業ではない。近代に生を享けて、小説家著述業者芥川龍之介が彼のぎらぎらした心頭に、鬼才龍之介の盛名はよし微塵であれ、芭蕉のこの流轉的心像に逢着してこれが深くも深く關心を買ふべく餘儀なくせられたのは、まことに當然のなりゆきでなければならぬ。龍之介が俳句道にたちあがるや、彼の不敵なる魂が、氣壓さるべきでないと手向ふものゝ、さうした精進にひるみは見せないものゝ、いつしか、此の流轉的心像にぶちあたつて不覺にも泣きぬれたる姿であるのである。

 小穴氏稿するところの限りない悲哀「二つの繪」が示す、その奧底に渺々として橫たはる所のものは果して何であつたか? 死直前の作「齒車」を賞讃する批評家もあつたし、その他、若干のベロナール乃至ヂャールをブラスする阿修羅の作品によつて鵜呑みされる甚だ非阿呆(?)の龍之介ファンが尠なからず散在したやうに見受けられもしたが、其等の盛名的外郭によることよりも故人龍之介が韓紅なる心臟を裂いて、はつきりと示すところのものは、小穴氏の主觀は小穴氏の主觀として、一事實としての盤上に盛られた「二つの繪」そのものでなければならなかつた。第一の繪の、波濤が卷き起つてゐる海洋への突つ鼻に常識外の巨きな耳を持つた怪物が首垂れてゐる圖と第二の繪の北斗七星が一つ缺け落ちてゐる、それに賛して、

   霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉   龍之介

と沈痛に吟じてゐるのである。

 だが、「芭蕉雜記」は總ての速斷をゆるさない。

 更に、同記第四項「詩人」に於て例の、

   人聲の沖にて何を呼やらん   挑鄰

   鼠は舟をきしる曉       翁

の「曉」の附句で、許六がこれを、

 「動かざること大山の如し」と賞讃したとき、芭蕉が起き上りて曰ふことに、

 「此曉の一字聞きとゞけ侍りて、愚老が滿足かぎりなし、此句はじめは「須磨の鼠の舟きしるおと」と案じける時、前句に聲の字有て、音の字ならず、依て作りかへたり、須磨の鼠とまでは氣を𢌞し侍れども、一句連續せざると宜へり。予が云ふ、是須磨の鼠よりはるかにまされり(中略)曉の一字つよきこと、たとへ侍るものなしと申せば、師もうれしく思はれけん。これほどに聞てくれる人なし、唯予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる貌のみにて、善惡の差別もなく、鮒の泥に醉たるごとし、其夜此句したる時、一座のものども我遲參の罪あると云へども、此句にて腹を醫せよと自慢せしと宜ひ侍る。」

 と云ふ、此處の消息に就いて、龍之介はどう觀てゐるかといふと、

 「知己に對する感激、流俗に對する輕蔑、藝術に對する情熱、――詩人たる芭蕉の面目は、ありありとこの逸話に露はれてゐる。殊に『この句にて腹を醫せよ』と大氣熖を擧げた勢ひには――世捨人は少時問はぬ、敬虔なる今日の批評家さへ辟易しなければ幸福である。」

と云ふのが彼の論斷である。凡そ、この種の論稿に於て一とくさりの皮肉は忘れることのなかつた彼にして、正直正銘、ひらき直つた態度で、かうまで喝破したものは、果して幾何か有り得る? と云へようと思ふ。實に是れは芭蕉その人を物語るよりも、龍之介彼自身を多く物語るものでなければならぬ。文人龍之介といふものゝ眞骨頂を、爰に分明に認らるゝのである。前に、不敵なたましひの持主として筆を起した、その不敵さ――彼云ふところの流俗に對する輕蔑、藝術に對する惰熱それは直ちに轉換してもつて、彼の面上に冠すべきものであるのではないか。筆者は、さうした古典味から類推することよりも、もつと生ま生ましい、人間龍之介を描き得る自信をもつ。彼、元氣旺盛なりし頃「龍之介は詩人ではない」と云ふ蔭口をきいた人物があつたのを耳にして彼は直ちに起つて家の子郎黨をひきぐしてから、その人物の居宅につめよつたと云ふ巷間の説であつた。善哉河童居士、よし、その擧は空しい噓説であつたにしたところで、寒骨、鶴のごとき瘦軀を指して臆面ない、熾烈なる詩人的たましひの嚴存は、分明に居士に認めて餘りあるものである。

 閑話休題として、さて龍之介の「雜記」は、

 「芭蕉も亦世捨人になるには餘りに詩魔の飜弄を蒙つてゐたのではないだらうか? つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか? 僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる」と、結んでゐるのである。

 芭蕉をば十分に理解してゐる龍之介ではあるに相違ない。それは、前掲(一)(二)(三)の説述に照らしても合點されるところでなければならぬ。而も、その「詩人」(第四)の項に於て、「俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり」とは、芭蕉の惟然に語つた言葉である。その他俳諧を輕んじた口吻は時々門人に洩らしたらしい。これは人生を大夢と信じた世捨人の芭蕉には寧ろ當然の言葉である。――とする龍之介その人の矛盾に照らして見ても、芭蕉のそれを、我自身に結ばうとする、――一歩をすゝめて云へば、寧ろ龍之介的芭蕉を現出餘りに是れ力めんとする氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。即ち、芭蕉文藝が搔き抱く流轉相に對して反撥する彼自身の矛盾をば、敬虔に、素直に熱をこめて、而して賢明に告白するところのものでなければならぬ。鏡に向へば、忽然として其處に、「羅生門」なり「黃雀風」なり、「傀儡師」なり「夜來の花」「沙羅の花」「邪宗門」等々々斷翰零墨も亦「點心」たり「百艸」たることに於て、天下百萬の愛讀者を擁する彼れ龍之介が、彼の面前に現はれ出るのであつた。枯枝に點ずる鴉を見、人生を大夢と觀ずる飄々たる風羅坊と相對して、餘りにも絢爛たる存在の龍之介がこの豪勢さである。然もよく是を理解しこれに深く共鳴し、その途をさへたどらうとする龍之介その人であればこそであつた。

 龍之介一代の俳句作品を通じて、誰でもが直下に見得るところのものは、素晴らしい表現的技巧の冴えであつた。俳句以外の文藝作品に於て、彫心鏤骨の形容詞を賞讃の上に冠せられたことは、事新たに説くまでもないことだが、この形容詞は俳句作品の方面にも亦最もしつくりと据わるものでなければならなかつた。(否、寧ろそれに過ぎてあたら珠玉に血塗つたことさへ筆者はよく知つてゐる。)一々例を擧げて云へば、その的確なるものは枚擧に遑ないことであるが、この稿にはさうした煩はしいことを避ける。だが、唯、早く發表され若しくは上梓を得た其等のものゝ中から如何に多く次ぎ次ぎに現はれ來つた彼の著述の中に改竄されたそれを發見し得るかと云ふことだけを述ベておく。

 小説に於て金石文字たり、俳句に於て天衣無縫たらしめよりとする、その彫心鏤骨の精進にあたつて、絶えず心を來往する灼耀たるもの影の一つに、俳人芭蕉その人があつたことは、既に述べた通りである。而してその芭蕉的影響が、近代人の中に聳えた近代人龍之介の雙びない尖鋭の神經に美妙にも若干のゆとりを加へ、若しくはめまぐるしく拍車を加へた。彼謂ふところの「僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる」心境から、巖をしぼれる雫のやうに、滴りおちた彼の俳句作品であるに相違なかつた。彼が、人生の大團圓に於て、日常文人生活の惱みであり、さうして、實に前述の「二つの繪」である大關門の扉が細目に突つ放なされたとき、そこに、

   水洟や鼻の先だけ暮れのこる   龍之介

かぎりない寂然たる天地が覗かれた。

 これ即ち、決河の勢ひで漲り出た――と云ふよりもむしろ潜みに潜んだ鬼才龍之介の、最も恐るべき、驚くべき方面の、一極面の思想を背景とするものが、玉の如く凝つて如實にぶち出されたのである。尚、一度「二つの繪」によれば、「二つの繪」の筆者がこの天才の最後の場面、納棺に際してちらつと一瞥したところ、胞衣と一緒にした幼名が「龍之介」ではなく「龍之助」であつたかもしれぬ、と云ふ。それを讀んだとき、果然、芥川龍之介は最後を燦として此方へ光つた。筆者はあくまでも「龍之介」に左袒するものである。(昭和九、九、二一)

享年三十六歳

正岡子規が脊椎カリエスで亡くなった時、享年36であった。――芥川龍之介が薬物を服用して自裁したのも同じ享年36であった。――

2016/06/29

北條九代記 卷第九 時賴入道靑砥左衞門尉と政道閑談

      ○時賴入道靑砥左衞門尉と政道閑談

最明寺時賴入道は、天下政理の正しからん事を思ひ、四海太平の世を守りて、仁を專(もつぱら)とし、德を治め給ふといへども、時既に澆薄(げうはく)に降(くだ)り、人、亦、邪智の盛なる故にや、諸國の道義、次第に廢れて、非法非禮のみ行はれ、正道正理は埋れ行きしかば、罸を受る者は日を追(おひ)て多く、誡(いましめ)を蒙る者は、月に隨ひて少からず。奉行、頭人(とうにん)と云はるゝ人々も不孝、不慈にして廉直ならず。これに依て、職を改め、所領を放(はな)たるゝ輩(ともがら)、是更(ことさら)に絶ゆる事なし。時賴入道、朝夕、是を歎き給ひ、靑砥(あをとの)左衞門尉藤綱を召して、竊(ひそか)に仰せられけるは、「汝は誠に學道を勤めて、仁義を修め廉恥を行ひ、奉公に私なく行跡に罪なしと見る故に、他人には替りて貴き人と覺ゆるなり。然るに、時賴は今、是(これ)、天下の執權として、撫民の政理(せいり)を重くし、賞罸を明(あきらか)にして、無欲を專とすといへども、無道の訴論は、年を經るに隨ひて、愈(いよいよ)重り、月を積むに任せて益々滋(しげ)し、萬民上下、猛惡の盛(さかん)なること頗る防ぎ難し。抑(そもそも)是(これ)、我が行跡(かうせき)に非ある故歟(か)、自(みづから)省(かへりみ)るに知(しり)難し。汝、靜(しづか)に見及ぶ所あらば、有(あり)の儘に申して聞(きか)せよ、直(ぢき)に諫言(かんげん)とはなしに、聖賢の示教(じけう)なりと思ひはべらん」と宣へば、藤綱、頭(かうべ)を地に付け、淚を流して申しけるは、「尩弱(わうじやく)の愚蒙(ぐもう)、元より短才(たんさい)の身にて候へば、我だにも修(をさま)り得ざる所に於いて、君に非法のおはしますべき事、爭(いかで)か見咎め奉るべき。然れども、心に存ずる趣(おもむき)を仰を蒙(かうぶ)りながら、默止(もだ)して申さざらんは、却(かへつ)て不忠の恐(おそれ)遁(のがれ)難く候へば、心に存ずる所を以て言上すべきにて候。この比、諸方の間(あひだ)に於いて、政法を輕(かろし)め、無道の行ひ多く候事は、全く御行跡に奸曲(かんきよく)ましますにもあらず。政道に誤ありとも覺えず候。但し、上下の遠きに依ての御事にこそ、國家に不孝無道の者、數を知らず、訴論、是より多く出來候と見えて候、その中に、訴論を構へ、内緣を以て、奉行、頭人に窺へば、非なるは、罪科遁るべからず。下(した)にて某(それがし)扱ひ侍らんとて、理非の訴(うつたへ)を上に通ぜず、押して中分(ちうぶん)に決せらる。理(り)あるは半分の負(まけ)となり、非あるは大に勝ち候。愚なるは、是(これ)を國法かと思ひ、智なるは歎きながらさて止(や)み候。是より遠境(ゑんきやう)の守護、目代(もくだい)等、皆、この格に習ひて、非道を行ひ、百姓を責虐(せきぎやく)し、押領(おうりやう)重欲(ぢうよく)を專とす。天下、喧(かまびす)しく、相唱(あひとな)ふといへども、更に以(もつ)て知召(しろしめ)さず。是(これ)、上下の遠くまします故にて候。凡そ步(かち)より行くものは、一日に百里を過ぎて行程(ぎやうてい)とす。堂上の事有りて、十日にして聞召(きこしめ)さゞるは、百里の情に遠(とほざか)り、堂下に事有りて、一月に及びて聞召さざるは、千里の情に遠り、門庭(もんてい)に事有りて一年まで聞召さずは、萬里の情に遠ると申すものにて候。奉行、頭人、私欲を構へ、君の耳目(じぼく)を蔽(おほひ)塞ぎ、下(しも)の情、上(かみ)に達せざれば、この御館(みたち)に座(おは)しましながら、百千萬里を遠り給ふ。每事(まいじ)、斯(かく)の如くならば、国民(くにたみ)、互(たがひ)に怨(うらみ)を含みて、その罪、必ず一人に歸し、蔓(はびこ)りては、遂に天下の亂(みだれ)となるべく候。又、當時鎌倉中に、儒學、盛(さかり)に行(はやらか)し、聖賢の經書(けいしよ)を取扱(とりあつか)ひ、講讀(かうどく)の席(せき)を啓(ひら)く事、軒(のき)を競(なら)べて聞え候。かの學者の行跡(ふるまひ)、更に故聖(こせい)の掟(おきて)を守らず、侫奸(ねいかん)重欲なる事、殆ど常人に增(まさ)り、毀譽(きよ)偏執(へんじう)を旨とし、他の善を蔽(おほひ)妬(ねた)み、惡を表して救ふことなし。况(いはん)や、佛法は是(これ)、王法の外護(げご)として、國家平治の資(たすけ)とす。道行(だいぎやう)殊勝の上人有りて、四海安穩(あんをん)の祈(いのり)を致し、生死出離(しやうししゆつり)の教(をしへ)を弘(ひろ)むるは、佛法の正理(せいり)なり。然るを今、鎌倉諸寺の僧、法師と云はるる者、多くは空見(くうけん)に落ちて、佛祖の教に違(たが)ひ、無智にして住持職を受け、僧綱(そうがう)高く進み、貪欲深く、檀那を諂(へつら)ひ、何の用ともなき器物を貯へ、茶の湯、遊興に施物(せもつ)を費し、身には綾羅(りようら)を嚴(かざ)り、食には肉味(にくみ)を喰(くら)ひ、美女を隱して濫行(らんきがう)を恣(ほしいまゝ)にす。亦、その中に學智行德の僧あるをば、妬(ねたみ)憎む事、老鼠(らうそ)を見るが如くし、王法(わうばふ)を恐れず、公役(くやく)もなし、偶(たまたま)、白俗(はくぞく)に示す所、地獄淨土を方便(ほうべん)の説とし、三世不可得(ふかとく)の理(り)を誤り、罪惡に自性(じしやう)なし、善法(ぜんぱふ)も著(ちやく)せざれと、是(これ)に依(よつ)て、檀那の心、無道に陷り、法度(はつと)を背き、道を破り、世の災害と成行(なりゆ)き候。神職(じんしよく)、祝部(はふり)の者は神道の深理(しんり)を取失(とりうしな)ひ、陰陽顯冥(いんやうけんめい)の相(さう)に惑ひ、祈禱に縡(こと)を寄せて、財寶を貪り、託宣に詞(ことば)を假(かつ)て、利欲を旨とす。武家より始(はじめ)て、儒佛神道(しんだう)に至るまで、大道、悉く廢(すた)れ、利欲、大に盛(さかん)なり。奉行、頭人より萬民まで、皆、奸曲邪欲を本として、迭(たがい)に怨(うら)み、迭に怒り、胸に咀(のろ)ひ、口に謗(そし)る。この故に、國中、頻(しきり)に喧(かまびす)し、たゞ殿(との)御一人、正道を重じ、正理を守り、御威勢強くまします故にこそ、上部(うはべ)計(ばかり)はせめて安穩(あんをん)無事の世中のやうには見えて候ものを」と語り申しければ、時賴入道は大息つきて、暫くは物をも宣はず。良(やゝ)有て、仰せられけるは、「御邊(ごへん)、かく國家政道の亂れたる事を我に知らさせける事は、誠に大忠の至り、何事か是に勝(まさ)らん。然れば、奉行、頭人、評定衆に、奸曲重欲のあらんには、下民、何ぞ奸(かたま)しき事なからんや。この罪、皆、我が身に歸(き)す。我、愚(おろか)にして、上下遠きが致す所なり」とて大に歎き給ひ、その後、正直の者十二人を撰出(えらびだ)し、密(ひそか)に鎌倉中の有樣を尋聞(たづねき)かしめらるゝ所に、靑砥左衞尉藤綱が申すに違(たが)はず、是に依て、評定衆を初(はじめ)て非道の輩(ともがら)を記(しる)さるゝに、三百人に及べり、時賴入道、是等を召出し、理非を決斷し、科(とが)の輕重に從ひて、當々(たうたう)に罪(つみ)し給ひけり。斯(かく)て仰せありけるは、「往昔(そのかみ)、義時、泰時、宣ひ置かれしは、頭人、評定衆の事、此、一家一門の人に依るべからず、智慮有りて學を勤め、正直にして道を嗜み、才覺もあらん人を撰出(えらみいだ)して定むべし」と、然るを近代、時氏、經時より以來(このかた)、評定は只、其家にあるが如し、その子孫、或は愚にして理非に迷ひ、或は奸曲有りて政道の邪魔となる。是(これ)、亡國の端(はし)にあらずや。諸人の惱(なやみ)、是(これ)に過ぐべからず」とて、器量の人を撰びて、諸国七道に使を遣し、諸方の非道を尋探(たづねさぐ)らる。探題、目代、領主たる輩(ともがら)、無道猛惡の者、二百餘人を記して鎌倉に歸る。時賴入道、是を點檢(てんけん)し、科(とが)の輕重に從ひて、皆、罪に行はる。有難かりける政道なり。

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、青砥藤綱の実在を私は認めないし(「北條九代記 卷之八 相模の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直」を見よ)、これがマクラとなっている次章の時頼諸国回国譚も、素人が「吾妻鏡」を見ても判然とする通り、あり得ない笑止千万な話である。

「澆薄(げうはく)」「澆」も薄いの意で、道徳が衰え、人情が極めて薄くなってしまうこと。

「頭人(とうにん)」ルビはママ。「たうにん」が正しい。評定衆を補佐して訴訟・庶務を取り扱った引付衆の長官。

「不慈」慈悲心が全くないこと。

「廉直ならず」正直でない。

「これに依て」酷吏の内、特に際立って孝心なく、無慈悲で、正直でない行為を繰り返すために。

「尩弱(わうじやく)」「尫弱」とも書く。現代仮名遣では「おうじゃく」。取るに足らないこと。頼りにならないこと。

「愚蒙」愚かで道理がわからないこと。「蒙」も道理を弁えない愚かなこと・無知なことを意味する。「愚昧」に同じい。

「短才の身にて候へば」「短才」は浅はかな知恵と乏しい才能の意であるが、自分の能力を遜(へいくだ)っていう語で、ここもそれ。

「我だにも修(をさま)り得ざる所に於いて」私自身をさえも自ら修養することが出来ざる愚か者である存在が。

「言上」「ごんじやう」(ごんじょう)。

「この比」「このごろ」この頃。

「奸曲(かんきよく)」心に悪しき意識があること。

「上下の遠きに依ての御事」上と下の意識があまりに遠く隔たって齟齬し、相互の意志が全く疎通しなくなっておりますこと。

「内緣を以て、奉行、頭人に窺へば」奉行や頭人といった裁定者の中に縁故のあるのをよいことに、彼らに賄賂(まいない)などを以って自分の都合によいように裁定を不当に曲げるように働きかけることがあるので。但し、次の「非なるは、罪科遁るべからず」とは上手く繋がらない。私はここは挿入文と読む。即ち、

……奉行や頭人に縁故のある者は訴訟を有利に運ぼうとするのですが――無論、そんな行為自体も非であることは火を見るより明らかであり、そうした事前に裏で手を回すことの罪科を遁れてよいはずはない――ないけれども実際には、そうした不法な取引が行われているのです。

と藤綱は言うのであろう。

「下(した)にて」そうした幕府の上級の裁きよりも下の、中・下級の裁定部署にあっては。

「某(それがし)」中・下級の官吏。以下は、本来ならば、自分よりも上の中・上位の裁定部局に通して理非を明らかにするのが当然である訴訟の場合であっても、それを通さずにその者たちが勝手に中・下級の官吏が裁定して済ましてしまうことを指している。

「押して中分(ちうぶん)に決せらる」縁故者に罪が有意にあっても、「理非」を「中分」、半々にして裁定してしまう。

「さて止(や)み候」明白な不当裁定に対して大いに論理的上の不満を抱きながらも、これが公の裁きである以上、としぶしぶあきらめて、それ以上訴訟を続行させないのです。頭のあまりよくない者は、「国の法律というものはこういうもんなんだろう。お上に逆らっちゃ罰が当たる」と思って引き下がるのとは大きな違いではる。後者の場合は、国法への不信がより深刻となり、国家自体を恨んで謀反に繋がるか、或いは正直者が馬鹿を見るのであるのが現実ならば、そうした連中よりも、さらにより巧みに悪に徹しようとする可能性が出て来るからである。

「遠境(ゑんきやう)の守護、目代(もくだい)等、皆、この格に習ひて、非道を行ひ」幕府の監視の目が届かない分、違反行為はやり放題、私腹は瞬く間に肥える一方となるからである。

「責虐(せきぎやく)」責め苦しませること。

「押領(おうりやう)」民の私有財産等の違法な押収・横領・着服。

「天下、喧(かまびす)しく、相唱(あひとな)ふといへども」失礼乍ら、実際には巷間ではこうした正しい不平不満を口々に主張し、訴えんと問題にしているのですが。

「更に以(もつ)て知召(しろしめ)さず」天皇や主君はそれを全く御存じない。ここでは敢えて形式上の謂いとして採った。実際の実権は執権にあり、この時は時頼の嫡子時宗の代となっていたとしても、訳の上では直接に時宗或いはその上の将軍家を指すとは私は読まない。後に藤綱は「堂上」を用いているのもそうした配慮があるからと私は思う。

「步(かち)より行くものは、一日に百里を過ぎて行程(ぎやうてい)とす」徒歩で旅する者は一日の行程を百里を目標上限とする。日本の中世の一里は凡そ五~六町を一里としたから(東国で使われた「坂東道」「田舎道」はそれ。鎌倉の「七里ヶ浜」はそれに基づく。但し、実際には二千九百メートルほどで半分強しかない)、これは現在の五百四十五メートルから六百五十五メートル相当で、中をとって六百メートルとすれば、六十キロメートルであるが、屈強の武士でも同一速度での歩行は無理である(武装していればなおさら)から、「百里」(六十キロメートル)を上限目安としても、事実上は時速四キロメートル+αで実動十時間、四百里(二十四キロメートル)から六百里(三十六キロメートル)ぐらいがせいぜいであろう。ここでそれを倍にしているのは、百里で示した方が後が分かり易い比喩になるからに過ぎないと思われる。

「堂上」ここは「だうじやう(どうじょう)」でよいと思うが、古くは「とうしやう」と清音で読んだ。ここは文字通り、「昇殿を許された公卿・殿上人の総称・公家・堂上方」の意で採っておく。無論、それは比喩であるから、訳す場合は「主君」(の身辺)の方が違和感はあるまい。

「百里の情に遠(とほざか)り」ごく身辺の出来事でありながら、それが十日経ってもその主君の耳に入って来ないとすれば、その事件・事情は何か奇体不可思議な理由から主君とは「百里」も隔たった心理的距離を持っている対象なのであり。

「堂下」本来は「堂上」の対語である「地下(ぢけ(じげ))」を持ってきたいところである。下々の世界。民間。

「門庭(もんてい)」教育社一九七九年刊の増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記で氏は『遠境の国々』と訳されておられるが、比喩を壊すのは私はどうかと思う。それに「下々」よりも自分の御殿の「門庭」は近い。寧ろ、ここで藤綱は身内の高官らの中に発生した事件や出来事について、一年たってもお聞き及びなられることがない、などという事態があったとすれば、その自邸内で起きた某重大事件であっても、それは万里(ばんり)の距離を隔てた事情を有する奇怪千万なものだと言いたいのではあるまいか? だからこそすぐ後の「奉行、頭人、私欲を構へ」と繋がるのだ、と私には思われる。

「君」主君。

「この御館(みたち)に座(おは)しましながら、百千萬里を遠り給ふ」ここで藤綱は比喩が五月蠅くなったのであろう、主体を実際の権力者である時頼に還元して露わに示している。

「每事(まいじ)」何事(に対しても)。

「必ず一人に歸し」主君一人。具体的には執権時宗であり、その父で実際の権力を握っている時頼一人にである。時宗と時頼は得宗で、同体として認識して問題ない。

「經書(けいしよ)」「經」は縦(たて)糸で、古今を貫く真理を載せた書物の意で、儒教の経典、四書・五経などの中国古代の聖賢の教えを記した書物全般を指す。仏教経典は含まれないので注意。

「侫奸(ねいかん)」口先では巧みに従順を装いつつも、心の中は徹底して悪賢いこと。

「毀譽(きよ)偏執(へんじう)を旨とし」増淵氏の訳は『他人の名誉をけがし偏見に執着するばかりで』と訳しておられる。

「生死出離(しやうししゆつり)」正しい仏法によって悟りを開き、生死(しょうじ)の苦海から脱すること、涅槃の境地に入ること。

「空見(くうけん)に落ちて」(修行を疎かにしているために)中身のない空しい見解に陥ってしまい。

「僧綱(そうがう)」本来は僧尼の統轄や諸大寺の管理運営に当たる僧の上位役職の総称。僧正・僧都(そうず)・律師が「三綱」、他に「法務」「威儀師」「従儀師」を置いて補佐させたが、平安後期には形式化している。所謂、名誉称号に過ぎない。

「綾羅(りようら)」あやぎぬとうすぎぬ。美しく高価な衣服。

「嚴(かざ)り」飾り。荘厳(しょうごん)の意からもこの字を用いるのは実に皮肉が利いていると言える。

「老鼠(らうそ)を見るが如くし」「學智行德の僧」であるが故に、衣服も貧しく、貧弱に見える者もいる。そうした者を乞食か老いさらばえた今にも死にそうな鼠を見るように蔑み、おぞましい目を向ける、という実にリアルな映像表現ではないか。

「公役(くやく)」官府から課せられた軍役や夫役(ぶやく)

「白俗(はくぞく)」俗人。墨染で僧は黒衣。但し、ここは江戸時代の作者の感覚で、この時代は必ずしも黒衣ではなく、逆に僧の黒衣着用を禁じた時期もあっりしたと私は記憶する。

・「三世不可得(ふかとく)」三世(さんぜ:前世(ぜんせ)・現世・後世(ごぜ))の事物事象は認知出来ないこと。仏教では一切の存在に固定不変の実体を認めないことから、その三世(過去・現在・未来の時空間と置き換えてもよい)の本体を追求してもそれを認識することは不可能であるする。

「罪惡に自性(じしやう)なし、善法(ぜんぱふ)も著(ちやく)せざれ」先の「三世不可得」(或いは「不可得空(くう)」)の理を誤認して、「罪悪などというもの自体がもともと存在しない。従って善行を積むということも何ら身の果報とはなるもんではない!」と説法している僧さえいる、というのである。これは恐らく、当時(設定された鎌倉時代)の浄土真宗の親鸞が義絶した息子で、関東で強い勢力を持った善鸞一派のそれを誇張変形したものではなかろうかと私は推察する。因みに善鸞の生没年は建保五(一二一七)年?~弘安九年(一二八六)年?)である。

「神職(じんしよく)」神官。

「祝部(はふり)の者」「はふりべ」(ほうりべ)とも読む。神社に属して神に仕えた職の一つで、通常は神主・禰宜(ねぎ)より下級の神職を指す。

「陰陽顯冥(いんやうけんめい)の相(さう)」陰陽師(ここは幕府や神社仏閣に附属した陰陽師であろうが、それ以外にもこの頃には怪しい民間の怪しげな連中が沢山いた)連中らの下すところ吉凶の相(判断)。

「迭(たがい)に」「迭」には「入れ替える」の以外に、もともと「かわるがわる・順番に代わりあって・交代に・互いに」の意がある。

「咀(のろ)ひ」呪詛に同じい。

「たゞ殿御一人」ここで最後に時頼にヨイショ。上手いね、藤綱。

「下民、何ぞ奸(かたま)しき事なからんや」反語。上が致命的にダメなのに、民草の方は心のねじけることなく、いまわしい心の持ち主にはならないなんてことの、あるはずがあろうか! いや、ない! 人民まで十把一絡げに悪道に落ちてしまっている!

「當々(たうたう)に罪(つみ)し給ひけり」それぞれ各人にその罪に相応相当の罰をお与えになられたという。

「依るべからず」のみに限定してはいけない。

「時氏」北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二(一二三〇)年)。第三代執権北条泰時の長男。嫡子で泰時も期待していたが、惜しくも病いのために早世し、執権にはなっていない。

「經時」時頼の前の第四代執権北条経時(元仁元(一二二四)年~寛元四(一二四六)年)。

「評定は只、其家にあるが如し」評定衆は実質上、北条家だけで占めているようなものであった。

「その子孫、或は愚にして理非に迷ひ、或は奸曲有りて政道の邪魔となる。是(これ)、亡國の端(はし)にあらずや。諸人の惱(なやみ)、是(これ)に過ぐべからず」ここは「諸人」が北条の「子孫」が幕府の裁定の総てを牛耳っているのが、そのメンバーは「或は愚にして理非に迷ひ、或は奸曲有りて政道の邪魔となる」者ばかりではないか! 「是(これ)、亡國の端(はし)にあらずや」と「惱」む、のだ、これこそまさに「亡國の」の始まりである! という謂いである。かの狸親父の時頼が本当にそう言ったとしたら、少しは私も時頼が好きになるんだけど、ね。

「諸国七道」古代律令制の「五畿七道」に基づく、秋津島(日本)の全域の謂い。東海道・東山道(現在の青森・岩手・秋田・宮城・山形・福島の東北六県に栃木・群馬・長野・岐阜・滋賀の各県を合わせた地域)・北陸道・山陰道・山陽道・南海道(現在の香川・徳島・愛媛・高知の四国四県に三重県熊野地方・和歌山県・淡路島を合わせた地域)・西海道。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蝎

Kikuimusi

きくいむし 木蠹蟲

【音曷】 蝤蠐 蛣

      蛀蟲

      【和名乃牟之】

カツ

 

本綱蝤蠐即蝎也狀如蠐螬節長足短口黑無毛在朽木

中食木心穿木如錐至春雨後化爲天牛

凡似蠺而在木中食木者爲蝎 似蠶而在樹上食葉者

爲蠋 似蠋而青小行則首尾相就屈而後伸者爲尺蠖

似尺蠖而青小者爲螟蛉【蠋尺蠖螟蛉】此三蟲皆不能穴于木

至夏俱羽化爲蛾

凡蝎隨所居所食之木性味良毒不同未可一槩用也古

方用蠹多取桑柳構木者亦各有義焉

按蝎【破古木枝見之在中】和方取臭樹蠹炙用治小兒五疳保童

 圓藥中亦入用此蠹内外白而形色與柳蠹無異售者

 僞之宜辨之

 

[やぶちゃん注:ここに縦罫。]

 

柳蠹蟲【甘辛平有小毒】 至春夏化爲天牛蓋桑柳蝎共有治驚

 風及血症之功然今俗以柳蟲爲治痘瘡變症神藥予

 屢試之未見効

桑蠹蟲【甘温無毒】 其糞能治小兒胎癬先以葱鹽湯洗浄用

 桑木蛀屑燒存性入輕粉等分油和敷之凡小兒頭生

 瘡手爬處即延生謂之胎癬

桃蠹【和名毛毛乃牟之一名山龍蠹】 食桃樹蟲也殺鬼辟邪惡不祥又

 其蛀糞爲末水服則辟温疫令不相染

蒼耳蟲 生蒼耳草梗中狀如小蠶取之但看梗有大蛀

 眼者以刀截去兩頭有蛀梗多收線縛掛簷下其蟲在

 内經年不死用時取出細者以三條當一用之以麻油

 浸死收貯毎用一二枚擣傅疔腫惡毒即時毒散大有

 神効

 

 

きくいむし       木蠹蟲〔(こくそむし)〕

【音、曷(カツ)。】 蝤蠐〔(しゆうせい)〕 蛣〔(きつくつ)〕

            蛀蟲〔(しゆちゆう)〕

            【和名、「乃牟之(のむし)」。】

カツ

 

「本綱」〔に〕、蝤蠐は、即ち、蝎〔(きくひむし)〕なり。狀〔(かたち)〕、蠐螬〔(すくもむし)〕のごとく、節、長く、足、短く、口、黑くして、毛、無し。朽〔ち〕木の中に在りて、木の心を食ひ、木を穿〔(うが)〕つこと、錐(きり)のごとし。春雨の後に至りて、化して天牛(かみきり)虫と爲る。

凡そ、蠺〔(かひこ)〕に似て、木の中に在りて木を食ふ者を蝎〔(きくひむし)〕と爲す。 蠶に似て、樹上に在りて葉を食ふ者を蠋(はくひむし)と爲す。蠋に似て青く小さく、行く時は則ち、首尾、相ひ就き屈して後〔ろに〕伸〔(の)ぶ〕る者を尺蠖(しやくとりむし)と爲す。尺蠖に似て青く小さき者を螟蛉(あをむし)と爲す。【蠋。尺蠖。螟蛉。】此の三つの蟲は皆、木に穴すること能はず。夏に至りて俱に羽化して蛾と爲る。

凡そ、蝎、居る所、食ふ所の木に隨ひて、性・味、良・毒、同じからず、未だ一槩〔(いちがい)〕にして用ふるべからざるなり。古方に蠹〔(きくひむし)〕を用ふるに、多く桑・柳・構〔(かじ)〕の木の者を取る〔は〕亦、各々、義、有り。

按ずるに、蝎【古木の枝を破りて之れを見るに中に在り。】、和方〔にては〕、臭樹蠹(くさきのむし)を取りて炙りて用ひ、小兒五疳を治す。保童圓の藥中にも亦、入れ用ふ。此の蠹〔(きくひむし)は〕内外、白くして、形・色、柳の蠹と異なること無し。售〔(う)〕る者、之れを僞る。宜しく之〔れを〕辨ずべし。

 

[やぶちゃん注:ここに縦罫。]

 

柳蠹蟲(やなぎのむし)【甘辛、平。小毒、有り。】 春夏に至りて化して天牛(かみきり)虫と爲る。蓋し、桑・柳の蝎、共に驚風及び血症を治するの功、有り。然るに今、俗、柳蟲を以て痘瘡變症を治する神藥と爲す。予、屢々之れを試みるも未だ効を見ず。

桑蠹蟲〔(くはのむし)〕【甘、無。毒。】 其の糞、能く小兒の胎癬(かしらのかさ)を治す。先づ、葱鹽湯〔(ねぎしほゆ)〕を以て洗浄して桑の木の蛀屑(むしくそ)を用ひ、燒きて、性を存〔し〕、輕粉(はらや)を入れて等分に油に和して之れを敷く。凡そ小兒の頭に瘡〔(かさ)〕を生〔ぜしは〕、手を以て爬〔(か)〕く處、即ち、延生〔(えんしやう)〕す。之れを胎癬と謂ふ。

桃蠹〔(たうと)〕【和名、「毛毛乃牟之〔(もものむし)〕」。一名、「山龍蠹〔(さんりうと)〕」。】 桃の樹を食ふ蟲なり。鬼を殺し、邪惡を辟(さ)く。又、其の蛀糞(むしくそ)、末と爲し、水服すれば、則ち、温疫を辟け、相ひ染(うつ)らざらしむ。

蒼耳蟲(をなもみのむし) 蒼耳草の梗(くき)の中に生ず。狀、小〔さき〕蠶のごとく、之れを取るに〔は〕、但だ、梗を看〔(み)〕れば、大なる蛀-眼(むしあな)有る者、刀を以て兩頭を截り去るに、有る〔のみ〕。蛀〔(むし)〕あら〔む〕梗を多く收〔め〕、線(くゝ)り縛〔り〕て簷〔(のき)〕の下に掛くれば、其の蟲、内に在りて年を經ても死せず。用ひる時、取り出す。細なる者は三條を以て一〔(いつ)〕に當て、之れを用ふ。麻油を以て浸死〔(ひたしじに)させ〕、收〔めて〕貯〔ふ〕。毎用、一、二枚を擣〔(つ)き〕て疔腫(てうしゆ)・惡毒に傅〔(つ)〕く。即時に、毒、散ず。大いに神効有り。

 

[やぶちゃん注:「本草綱目」の引用部には前の「蠐螬」に出る漢字が頻繁に出て明らかに時珍を始めとする明以前の本草家が、これらを一緒くたにして平気でいた(漢方製剤に使用していた)ことが窺える。ともかくも差別化するならば、まずは、「蝎」、「木食虫」の異名を持つ生物(或いは幼体)であり、その形状は前項の「蠐螬(すくもむし)」、即ち、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属 Mimela に属するコガネムシ類の幼虫に似ている。但し、それよりもよりも有意に「節、長く、足、短く、口、黑くして、毛、無」いこと、その棲息する場所は、土中にいる「蠐螬(すくもむし)」とは異なり、「朽ち木の中に在りて、木の心を食ひ、木を穿(うが)つこと、錐(きり)のごと」く強力に食い、そして、「春雨の後に至りて、化して天牛(かみきり)虫と爲る」というのであるから、これはもう、

鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ(髪切虫・天牛)科 Cerambycidae の幼虫

としてよい。ウィキの「カミキリムシ」によれば、以下に示すように(下線やぶちゃん)、『全世界の熱帯から亜寒帯まで、陸上性の多年生植物がある所にはたいてい分布する。名前がついているものだけで』も約二万種を数え、本邦だけでも凡そ八百種ほどが知られている。『ごく一部の種を除き草食で、成虫の体は前後に細長く、触角、脚、大顎が目立つ。 幼虫成虫という一生を送る完全変態の昆虫で』、『成虫の触角は長く、英名"Longhorn beetle(長い角の甲虫)"または"Longicorn"もここに由来する。また、漢字表記の一つ「天牛」は中国語に由来し、長い触角をウシの角になぞらえたものである。触角の長さは種類やオスメスによって異なり、体長の半分くらいのものから体長の』三倍『以上に及ぶものまで変異に富む。同種では雄の方が長い』。『脚はカブトムシなどのような棘は発達しないが、長くがっしりしている。脚先に並んだ付節はハート型で細かい毛が生えており、吸盤とは構造が違うがものにくっつくという点では同じである。この付節と鉤爪があるため、垂直に立つ木の幹も、ガラス面でも歩くことができる』。『成虫は植物の花、花粉、葉や茎、木の皮、樹液などを食べる。植物の丈夫な繊維や木部組織をかじりとるため、大顎もそれを動かす筋肉もよく発達する。うかつに手で掴むと大顎で咬みつかれることがあり、大型種では出血することもあるので注意が必要である。カミキリムシという呼び名も、髪の毛を切断するほど大顎の力が強いことに由来する(「噛み切り虫」からという説もある)』。『また、カミキリムシを手でつかむと、ほとんどの種類が「キイキイ」という威嚇音を出す。多くは前胸と中胸をこすり合わせて発音するが、ノコギリカミキリ類など前翅の縁と後脚をこすり合わせて発音するものもいる』。『幼虫の食草・食樹は種類によってだいたい決まっており、卵もそれらの植物に産卵される。幼虫は細長いイモムシ状で、体色はたいてい半透明の白色をしており、日本では俗にテッポウムシ(鉄砲虫)などと呼ばれる。一般には円筒形の体で、前胸だけが大きく、腹背にやや平たい。胸部の歩脚も腹部の疣足も外見上はない。草の茎や木の幹など、植物の組織内に喰いこんでトンネルを掘り進み、大顎で植物の組織を食べながら成長する。生きた植物に食いこむものと、枯れた植物に食いこむものとがいるが、大型の種類は生木に入りこみ、数年かけて成長することが多い』。『充分に成長した幼虫は自分が作ったトンネル内で蛹になる。蛹はほぼ成虫の形をしており、触角が渦巻き状に畳まれる。羽化した成虫は大顎でトンネルを掘り進み、植物の外へ姿を現すが、羽化した段階で越冬するものもいる』。「種の多様性」の項は中略し、ここでは種によって異なる樹種を選ぶ(成虫・幼虫ともに)の生態を記載する「人間とのかかわり」を以下に引く。『カミキリムシは、草木を利用する人間の観点では害虫としての存在が大きい。幼虫(テッポウムシ)が生木に穴を開けて弱らせたり、木材そのものの商品価値をなくす。また、成虫でも木や葉、果実を食害するものがいるので、林業・農業分野においてカミキリムシ類は害虫の一つといえる』。『害虫として挙げられるおもなカミキリムシには以下のようなものがある』(一部で個人的に増やしてある。分類タクサと学名は独自に調べた)。

・カミキリムシ科フトカミキリ亜科ヒゲナガカミキリ族ゴマダラカミキリ属ゴマダラカミキリ Anoplophora malasiaca

 ――ミカン・ヤナギ・クリ・イチジク等

・フトカミキリ亜科シロスジカミキリ族クワカミキリ属クワカミキリ Apriona japonica

・フトカミキリ亜科ヒゲナガカミキリ族キボシカミキリ属キボシカミキリPsacothea hilaris

 ――両種ともクワ・イチジク等

・シロスジカミキリ族シロスジカミキリ属シロスジカミキリBatocera lineolata

・カミキリ亜科ミヤマカミキリ族ミヤマカミキリ属ミヤマカミキリMassicus raddei

 ――両種ともクリ・クヌギなど

・カミキリ亜科スギカミキリ族スギカミキリ属スギカミキリ Semanotus japonicus

 ――スギ・ヒノキ

・フトカミキリ亜科ルリカミキリ族ルリカミキリ属ルリカミキリBacchisa(Bacchisa) fortunei

・フトカミキリ亜科トホシカミキリ族リンゴカミキリ属リンゴカミキリOberea japonica

 ――サクラ・リンゴ・ナシ及びバラ科の樹木

・カミキリ亜科トラカミキリ族トラカミキリ属ブドウトラカミキリ Xylotrechus pyrrhoderus

 ――ブドウ類

・フトカミキリ亜科トホシカミキリ族キクスイカミキリ属キクスイカミキリPhytoecia(Phytoecia) rufiventris

 ――キク類

・フトカミキリ亜科ヒゲナガカミキリ族イタヤカミキリ属イタヤカミキリMecynippus pubicornis

 ――ヤナギ

・フトカミキリ亜科ヒゲナガカミキリ族ビロウドカミキリ属イチョウヒゲビロウドカミキリ Acalolepta ginkgovora

 ――イチョウ・ニワトコ・クサギ

「桃蠹」でモモが出るが、お分かりとは思うが、「桃」はバラ科 Rosaceae(モモ亜科 Amygdaloideae モモ属モモ Amygdalus persica)である。また、後で出すが、後の本文に出る「構」(カジ)はクワ科 Moraceae の、「蒼耳草」(オナモミ)はキク科 Asteraceae の植物であるから、これらで一応、本文で叙述する食害対象の樹木類をカバー出来たと思う。以下、ウィキの戻る。『また、飛んで移動できるカミキリムシの成虫は、植物の伝染病などを媒介するベクターの役割も果たす。たとえば「マツクイムシ」と呼ばれる』カミキリムシ科フトカミキリ亜科ヒゲナガカミキリ族ヒゲナガカミキリ属『マツノマダラカミキリ Monochamus alternatus は日本の在来種だが』、二十世紀『前半頃にマツを枯らす線虫の一種・マツノザイセンチュウ Bursaphelenchus xylophilus が北アメリカから日本に侵入、以降は線虫を媒介するとして線虫共々「マツクイムシ」として恐れられ、駆除が進められるようになった経緯がある』。『害虫として嫌われる一方で、大型種の幼虫は世界各地で食用にされ、蛋白源の一つにもなっている。日本とて例外ではなく、薪の中などにひそむカミキリムシの幼虫は子どものおやつとして焚き火で焼いて食べていた。ただし、これも薪などが身近にあった時代の事象になりつつある』。『総じて、大顎が下を向くフトカミキリ亜科』Lamiinae『の多くや、カミキリ亜科』Cerambycinae のトラカミキリ族トラカミキリ属トラフカミキリトラフカミキリ Xylotrechus chinensis・トガリバアカネトラカミキリ族トガリバアカネトラカミキリ属スギノアカネトラカミキリAnaglyptus(Anaglyptus) subfasciatus ・トラカミキリ族トラカミキリ属ブドウトラカミキリ Xylotrechus pyrrhoderus『等が、農林業害虫として問題視される』。『一方、あまり害虫視されていないのは』、カミキリムシ科ノコギリカミキリ亜科ノコギリカミキリ族ノコギリカミキリ属 Prionus のノコギリカミキリ類やノコギリカミキリ亜科ウスバカミキリ族ウスバカミキリ属ウスバカミキリMegopis(Aegosoma) の』系統で、これらの種の幼虫が食するのは地中に埋もれた倒木や、腐朽した木である。その意味で幼虫の生態はクワガタムシ』(多食(カブトムシ)亜目コガネムシ上科クワガタムシ科 Lucanidae)『に近いといえるが、クワガタムシほど腐朽、軟化が進行した材を食べるわけではない』。ハナカミキリ亜科 Lepturinaeの『幼虫はほぼ全種が枯死、腐朽した材を食樹とする。中でも原始的な種とされるヒラヤマコブハナカミキリ』(ハイイロハナカミキリ族ヒラヤマコブハナカミキリ属Enoploderes(Pyrenoploderes) bicolor『やベニバハナカミキリ』(ハナカミキリ族ベニバハナカミキリ属Paranaspia anaspidoides)、『ハチに擬態した』ホソコバネカミキリ亜科ホソコバネカミキリ属ホソコバネカミキリ属Necidarisの『大型種オニホソコバネカミキリ』(Necydalis gigantea)『等は、老木の芯腐れ部分を食べるという特異さから、生態がなかなか解明されなかった』。ハナカミキリ亜科ハイイロハナカミキリ族『ヒメハナカミキリ属Pidoniaの一部は幼虫の食性がさらに極端であり、腐葉土を食べている』。『また、カミキリムシはその多種多様さ、多彩さから昆虫採集の対象としても人気があり、熱心な収集家も多い。彼らは各種の花や木、伐採後の木材置き場や粗朶場(そだば : 間伐材などを積み上げた場所)、夜間の灯火などに集まったカミキリムシを採集する。木材置き場には生殖と産卵のために多くの種が集まる。また、ハナカミキリ類は小型の美麗種が多く、多くは初夏に山地の花に集まる。それもクリの花とかリョウブ』(ツツジ目リョウブ科リョウブ属リョウブ Clethra barbinervis)『など、花がふさふさとしたものに集まるものが多く、これを捕虫網ではたくようにして捕まえるのが大変な楽しみである』とある。

 

・「蝎」既に述べたが、これは漢語で蠍(サソリ)以外に地虫の類を広く指す語でもあるので注意されたい。

・「蛀」この字は現代中国でも「木食い虫」(蠹)、他に広く、虫が木や書物を対象として「食い荒らす」謂いがある。

・『和名、「乃牟之(のむし)」』。「和妙類聚抄」に、『蠹 説文云蠹【音妬和名乃牟之】木中虫也』とあるから、非常に古くからの呼称であることが判る。

・「蠋(はくひむし)」所謂、芋虫で、広く蝶・蛾の幼虫に対する漢語の俗称である。

・「尺蠖(しやくとりむし)」狭義には鱗翅目シャクガ(尺蛾:幼虫の尺取虫に由来)科 Geometridae に属するガの幼虫の名であるが、そうした運動形態を持つ幼虫は概ね、こう呼ばれてしまう(但し、通常は無毛或いは無毛に見えるものに限定されるように思う)。

・「螟蛉(あをむし)」音「メイレイ」は青虫(あおむし:蝶や蛾の幼虫の中で体に長い毛を有さず、緑色を呈しているものの総称)のこと。因みに、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科 Ammophilinae 或いはその下位の ジガバチ族 Ammophilini ジガバチ(アナバチ)類の一部が、麻酔をかけて卵を産むのを見た中国の古人が「青虫を養い育てて自分の子とする」と誤認したことから、この語には「養子」の謂いもあるのは面白い。

・「【蠋。尺蠖。螟蛉。】此の三つの蟲は皆、木に穴すること能はず。夏に至りて俱に羽化して蛾と爲る」博物学的には概ね正しいのであるが、さて、この項、「蝎(きくひむし)」の記載としてこれが相応しいかといえば、首を捻らざるを得ない。本草書ではしばしばあることではあるが、迂遠な記載ではある。しかし、読んでいて楽しくはあるから、それでよい。

・「一槩〔(いちがい)〕」一概に同じい。

・「構〔(かじ)〕の木」本邦では「梶」の漢字表記の方が一般的であるが、実際に「構」とも書く(但し、その場合は「こう」の木と音読みするようである)。イラクサ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera ウィキの「カジノキ」によれば、『樹高はあまり高くならず』、十メートルほどで、『葉は大きく、浅く三裂するか、楕円形で毛が一面に生える。左右どちらかしか裂けない葉も存在し、同じ株でも葉の変異は多い。雌雄異株』。『古い時代においてはヒメコウゾ』(クワ科コウゾ属ヒメコウゾ Broussonetia kazinoki:種小名に注目!)『との区別が余り認識されておらず、現在のコウゾ』(コウゾ属コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera)『はヒメコウゾとカジノキの雑種といわれている』(学名参照)。『また、江戸時代に日本を訪れたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもこの両者を混同してヨーロッパに報告したために今日のヒメコウゾの学名が「Broussonetia kazinoki」となってしまっている』。『なお、カジノキは神道では神聖な樹木のひとつであり、諏訪神社などの神紋や日本の家紋である梶紋の紋様としても描かれている』。『古代から神に捧げる神木として尊ばれていた為、神社の境内などに多く生えられ、主として神事に用い供え物の敷物に使われた』。『煙などにも強い植物であるため、中国では工場や鉱山の緑化に用いられる』。『葉はブタ、ウシ、ヒツジ、シカなどの飼料(飼い葉)とする。樹皮はコウゾと同様に製紙用の繊維原料とされた。中国の伝統紙である画仙紙(宣紙)は主にカジノキを用いる。 また、昔は七夕飾りの短冊の代わりとしても使われた』とある。

「各々、義、有り」それぞれの樹種の木食い虫にはその発生と食性に由来する、処方にそれなりの厳然たる区別がある、という意であろう。

・「臭樹」シソ目シソ科クサギ属クサギ Clerodendrum trichotomum。和名は葉を触わると、一種異様な臭いがすることに由来する。

・「小兒五疳」小児のひきつけ・眩暈(めまい)・悪寒・発熱などの症状の総称。

・「保童圓」本邦のオリジナルな漢方の薬方の名である。青森市公式サイトの「あおもり歴史トリビア」第五十五号二〇一三年四月二十六日配信「浪岡の桜の名所」の中に、室町時代のこの浪岡城(青森県青森市浪岡(旧南津軽郡浪岡町))の城主であった浪岡北畠氏が公家山科言継(やましなときつぐ 永正四(一五〇七)年~天正七(一五七九)年)のもとに使者を派遣し、朝廷から位を受ける許可を得ようと、さまざまな根回しをしていたことが山科の「言継卿記(ときつぐきょうき)」に残っているとある記事の中に、賄賂として送ったもの中になんと『煎海鼠(いりこ、干しナマコ)』があり、また、逆に『昆布や煎海鼠をたびたび送ってきている浪岡北畠氏の使いの者、彦左衛門に保童円(ほどうえん)三包と五霊膏(ごれいこう)三貝を遣したともあります。保童円の「円」は練り薬のことですから旅の疲れを癒すために服用するように、また五霊膏の「膏」は膏薬のことですから、疲労した脚にでも塗るように遣わしたのかもしれません。言継の旅人をいたわる心遣いがうかがわれ、身近な人のように感じてしまいます』とたまたま書かれてあったので、特に引いておきたく思う。但し、京都府京都市下京区中堂寺櫛笥町にある「寶蓮寺」の公式サイトの「歴史」の記載には、『京都寶蓮寺の十八代目までは、萬里の小路(までのこうじ)(現在の柳馬場三条下ル)に所在した境内地に住んでいた。この萬里の小路の境内には、前田という医者が住んでいて(現在の前田町の町名の起源となる)、保童円(ほどうえん)という丸薬を売り有名であったとも記録に残されている』とある。因みに、これは私自身が『博物学古記録翻刻訳注 12「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載』で注したものを援用した。そこでは記さなかったが、「保童」とある以上、もともとは小児処方薬であったものであろう(ここでの記載からもそれは判る)。

・「售〔(う)〕る」売る。

・「柳蠹蟲(やなぎのむし)」例えば先に出したイタヤカミキリMecynippus pubicornis の幼虫であろう。以下は別個に記載しないので、先の私の作成した例一覧を参照されたい。

・「驚風」小児がひきつけを起こす病気。癲癇の一種や髄膜炎の類に相当する。

・「血症」婦人の生理不順や或いは「血の道」(思春期・生理時・産褥(さんじょく)時・更年期などに訴える、眩暈・のぼせ・発汗・肩こり・頭痛・疲労感などの諸症状を含む古語で現在の自律神経失調や更年期障害に相当する)のことを指すか。

・「痘瘡變症」天然痘の症状の中でも特徴的な、水疱性発疹が化膿して膿疱となった状態を指すか。

・「小兒の胎癬(かしらのかさ)」これは当初は無気門(コナダニ)亜目ヒゼンダニ科ヒゼンダニ Sarcoptes scabiei var. hominis に感染することによって生ずる皮膚感染症である疥癬の一種かと思ったが、後に掻いた部分が延伸して痒くなるというのだから、これはもしや、現行で言うところの「アトピー性皮膚炎」ではなかろうか? 識者の御教授を乞う。

・「葱鹽湯〔(ねぎしほゆ)〕」ネギを塩茹でしたその液であろう。

・「蛀屑(むしくそ)」これは幼虫の本体(それも含むのであろうが)よりも、その食って糞となって出たもぞもぞになったものを指していると読める。

「燒きて、性を存〔し〕」東洋文庫版現代語訳は入れ替えて、『性を損なわないように焼いて』とする。意味は分かるが、どうすること? と反問したくはなる。焦がさないようにするということか。

・「輕粉(はらや)」普通に「けいふん」とも読み、古く中国から伝えられた薬品で、梅毒薬及び白粉(おしろい)の原料にした白色の粉末。塩化第一水銀(甘汞(かんこう))が主成分で水に溶けにくく毒性が弱い。「水銀粉(はらや)」などとも表記し、別に「伊勢おしろい」とも呼んだ。

・「敷く」塗布する。

・「鬼を殺し、邪惡を辟(さ)く」これは神話時代の中国からの、桃の仙木仙果思想(神仙に力を与える樹木・果実の意)に基づく謂いである。ウィキの「モモ」によれば、『昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物として親しまれている。桃で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けの、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないとなる。桃の実は長寿を示す吉祥図案であり、祝い事の際には桃の実をかたどった練り餡入りの饅頭菓子・壽桃(ショウタオ、shòutáo)を食べる習慣がある』。『日本においても中国と同様、古くから桃には邪気を祓う力があると考えられて』おり(というより、私は中国伝来のものと考えている)、「古事記」では、『伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させ』ている(私が「古事記」の中で最も偏愛する呪的逃走のシークエンスである)。『伊弉諸尊はその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与え』ている。

・「蛀糞(むしくそ)」ここも前の「蛀屑(むしくそ)」と同義である。

・「水服」「すいふく」。水で服用すること。

・「温疫」漢方では「瘟疫」とも書き、種々の急性伝染病を総称する。急性の発熱症状が激しく、伝染力が強い流行性感冒などを指す。

・「蒼耳(をななみ)」キク目キク科キク亜オナモミ属オナモミ Xanthium strumarium。聴いたことない? いや! 知ってるさ! ほら! よく人にひっつけたあのトゲトゲの楕円形のあれの仲間さ! ウィキの「オナモミによれば、『果実に多数の棘(とげ)があるのでよく知られている』。草の丈は五十センチから一メートルで、『葉は広くて大きく、丸っぽい三角形に近く、周囲は不揃いなギザギザ(鋸歯)がある。茎はやや茶色みをおび、堅い。全体にざらざらしている。夏になると花を咲かせる。雌雄異花で、雄花は枝の先の方につき、白みをおびたふさふさを束ねたような感じ。雌花は緑色の塊のようなものの先端にわずかに顔を出す』。『見かけ上の果実は楕円形で、たくさんの棘をもっている。その姿は、ちょうど魚類のハリセンボンをふぐ提灯にしたものとよく似ている。先端部には特に太い棘が』二本『ある。もともと、この』二本の『棘の間に雌花があった』のである。『見かけ上の果実は最初は緑、熟すると灰褐色となり、棘も堅くなる。その前後に根本からはずれる。この棘は防御のためというよりは、動物の毛にからみついて運んでもらうためのものと考えられる。事実、オナモミは強力なひっつき虫であり、その藪を通れば、たいていどんな服でもからみついてくる。特に毛糸などには何重にもからみついてしまう。皮膚に当たっても結構痛い。ただし、大きさがあるため、はずすのはそれほど難しくない。これらの特徴から、投げて遊ぶ目的で使用される場合もある』。『オナモミはアジア大陸原産で、日本にはかなり古くに侵入した史前帰化植物と考えられている。ただし、現在ではオナモミを見ることは少なくなっている。多くの地域では近縁種のオオオナモミ X. canadenseやイガオナモミ X. italicum などの新しい帰化種に取って代わられているからである。また、それら種の繁殖にも波があるようで、オナモミ類全体をさほど見かけない地域もあるようである。帰化植物には侵入して大繁殖しても、次第に廃れたり、種が入れ替わったりといった移ろいが見られるのが、その一つの例である』。なお、『オナモミは生物時計が精密で』、八時間三十分の『暗黒時間を経てつぼみをつける性質があるが』、八時間十五分では『つぼみをつけない』とある。

・「梗(くき)」茎。

・「蛀-眼(むしあな)」虫食いの孔。

・「刀を以て兩頭を截り去るに、有る〔のみ〕」前の「但だ」に呼応させて「のみ」を振ったが、あまり意味の通りはよくない。ここは孔を見つけて、有意に離れたその前後を小刀で切り取れば簡単に採取出来る、という謂いである。

・「麻油」胡麻(ごま)油のことであろう。中国語ではそうであり、ここは処方に関わるからそれでよいと思う。

・「擣〔(つ)き〕て」搗き潰して。

・「疔腫(てうしゆ)」汗腺または皮脂腺が化膿し、皮膚や皮下の結合組織に腫れ物を生じた症状。顔面に発症した場合の「面疔」がよく知られる。

・「惡毒」前の「疔腫」から考えて、これは毒腫(諸毒による腫れ物)或いは、進行して膿みを持った性質の悪い腫れ物の謂いであろう。]

2016/06/28

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(9) 生目八幡 /目一つ五郎考~了

 

       生目八幡

 

 日向景淸の奇拔なる生目物語を、弘く全國に流布したのは座頭であつたらうといふことは、證據はまだ乏しいが多くの人が推測する。所謂常道の饒舌なる近世記錄でも、まだ明らかにたらぬ諸點の中で、殊に興味を惹くのは雨夜皇子の事、及び日向に澤山の所領があつて、其年貢を以て養はれたといふ言ひ傳へである。德川氏の新らしい政策に因つて、京と江戸との盲人の一群が、偏頗なる保護を受けて競爭者を壓抑したが、其以前の勢力の中心は西國にあつたかと思はれる。是は社會組織の地方的異同などを參酌して、考へて見るべき問題であるが、少なくとも奧羽地方には見られぬ宗教的支援が、西へ行くほど必要になつて居るのは、久しい沿革のあつたことであらう。京都の團體でも妙音天堅牢地神の信仰を佛教に基づいて敷衍する外に、尚守瞽神だの十宮神だのと名けて、一種の獨立した神道を持つて居た。九州では肥前黑髮山下の梅野座頭を始として、僧侶よりも寧ろ神主に近い盲人が多かつたやうである。其特徴の特に顯著なるものは帶刀の風であつた。

[やぶちゃん注:「雨夜皇子」「あまよのみこ」と読み、「雨夜尊(あまよのみこと)」とも称した、「当道要集」(当道(とうどう:後述)の文献で、江戸幕府の盲人保護政策に対する奥田総検校失敗の反省を受けて寛永一一(一六三四)年に小池凡一検校らが当道の沿革などを纏めて幕府に上書すべく編集されたものの根幹をなすところの室町以来の当道資料集成。「当道」(とうどう)とは一般名詞では〈特定の職能集団が自分たちの組織〉を指す語であるが、狭義には、特に室町時代以降、〈幕府が公認した盲人たちによる自治組織〉を指す。明石覚一(覚一検校)によって組織化されたとも言われ、後に妙観・師道・源照・戸嶋・妙聞・大山の六派に分流、一種の「座」として存在したが、その内部で階級制を生じて検校・別当・勾当・座頭の別を立てた)に見える盲人たちの祖先神。自らも目が見えず、視覚障碍者の保護に努めた仁明(にんみょう)天皇の皇子である人康(さねやす)親王のこととも、また、光孝天皇の皇子のこととも言われる。「雨夜御前」「雨夜君」などとも呼称する。一九九八年新紀元社刊戸部民夫著「日本の神々―多彩な民俗神たち―」の同出版社公式サイトの解説が御霊信仰との関連を述べていて非常に参考になる。必読。

「妙音天堅牢地神」文庫版全集によって「妙音天・堅牢地神」と切れることが判る。「妙音天」はめうおんてん(みょうおんてん)」で弁財天の別名。視覚障碍者が琵琶などの音曲(おんぎょく)を生業としたことから、親しまれたものであろう。「堅牢地神」「けんらうぢしん(けんろうじしん)」は 地天(じてん)・地神(ちじん)のことで、元はインド神話の神であったが、仏教に組み込まれて世を守護する十二天の一つとなった(十二天は帝釈天(東方を守護する。以下同じ)・火天(東南)・閻魔天(南)・羅刹(らせつ)天(西南)・水天(西)・風天(西北)・毘沙門天(北)・伊舎那(いしやな)天(東北)・梵天(上)・地天(下)・日天・月天)で大地守護を司る。釈迦の成道(じょうどう:悟達)を証明して説法を諸天に告げた神とされる。あくまで私の妄想であるが、大地を守るためには地中にあるわけで、そのために視力を喪失したという解釈は可能であり、そこで視覚障碍と繋がるか。また地の神は同時に旅人の神、道教えの神であろうから、そこでも繋がるように思われる。

「守瞽神」文庫版全集では「しゆこしん」とルビする。平凡社「世界大百科事典」の呪術的信仰対象の一とする「宿神(しゅくしん)」の解説中に、この神は「守宮神」「守久神」「社宮司」「守公神」「守瞽神」「主空神」「粛慎神」「守君神」など様々な表記があるが、元来は「シャグジ」「シュグジ」『などと称された小祠の神の名だったと思われ』、『辺境の地主神であるが』、『呪術的性格の強かった密教や神道のほか荒神』(こうじん)・『道祖神など他の民間信仰と習合を果たし』、『非常に複雑なまつられ方をしている』とある。この叙述から見ると、「守瞽神」即ち「目の見えない人を守る神」の「瞽」(こ)は当て字と読めるが、考えてみれば「地主神」「荒神」「道祖神」などは琵琶法師や瞽女(ごぜ)のように旅をして芸能を見せることを生業(なりわい)とする視覚障碍者との親和性はすこぶる強いと言える。

「十宮神」「じふぐうしん(じゅうぐうしん)」は、同じく平凡社「世界大百科事典」の「宿神」の解説中に『宿神は現世利益(りやく)の霊威たけだけしい一面』。『強烈にたたる神と考えられ』、『いやがうえにも神秘化され』、『おそれ敬われた。なお』、『盲僧集団の祭祀した守瞽神』、『十宮神は同じ神であり』、『これを〈宿神〉と表記した文献もある』と出る。

「肥前黑髮山下の梅野座頭」現在の佐賀県の西部に位置する武雄(たけお)市梅野(うめの)に近い黒髪山(くろかみやま:武雄市と同県西松浦郡有田町の市町境にある。標高五一六メートル)には源為朝による大蛇退治伝説があり、それには梅野村に住んでいた海正坊或いは梅野座頭と称された盲目僧が絡んでいる。古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「為朝の大蛇退治」に詳しい。但し、彼は神主よりも僧の印象の方が強い。]

 廣益俗説辨の著者は熊本のであるが、景淸盲目の談を説明して斯んなことを言つて居る。曰く景淸が盲になつたのは、痣丸といふ太刀を帶びて居た故である、其後も此太刀を帶せし者は皆眼しひたりといふ云々とある。即ちかの地方の座頭等の間には、東へ來ると通用し難いやうな、色々な昔語が行はれて居たので、景淸の眼を抉つて再び生じたといふ神德は勿論、同じく八幡神に附隨して今も祭らるゝ後三年役の勇士の話なども、自分は却つて當初あの方面に於て醞釀したのでは無いかとさへ思ふのである。痣丸の太刀のことは謠の大佛供養に見えて居る。彼曲には母を若草山の邊にたづねて、やはり親子が再會したことを述べて居るが、人丸も無く阿古屋も無く、又目を潰したといふ話も無く、單に此太刀に由つて呪術を行ひ、霧に隱れて虛空に消え去つたといふのみである。併しそれも是も景淸といふが如き一小人物を、英雄として取扱ふ習ひある遊藝團が無かつたならば、恐らく民問文藝の題目となる機會無く、又信仰を背景とした或勢力が無かつたら、是だけの流傳を望むことは難かつたので、即ち又平家の哀曲と共に、遠く其淵源を京以西の地に尋ねなければならぬ所以である。

[やぶちゃん注:「廣益俗説辨」神道家で国学者の井澤長秀(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)が書いた考証随筆「広益俗説弁」(全四十五巻・正徳五(一七一五)年~享保一二(一七二七)年)は江戸時代非常によく読まれ、後の読本の素材源ともなったが、井澤は肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子で、「肥後地志略」などの地誌なども著わしている。

「痣丸」「あざまる」。

「あの方面」無論、地理的な西日本を指すが、同時に視覚障碍者の集団内、当道内のニュアンスも含む謂いと私は読む。

「醞釀」「うんぢやう(うんじょう)」と読み、原義の酒を醸(かも)す(醸造する)ことから転じて、人の心の中である思いが徐々に大きくなってことを意味する。

「謠の大佛供養」「謠」(うたひ(うたい))、謡曲の「大佛供養」は景清が京の清水寺へ参詣、大和国春日の里(若草山直近)に住む母を訪ねる。そこで母から旧主平家の仇敵頼朝が東大寺大仏殿を再建、大仏供養を行うということを聴き及んで、その大仏殿供養の折りに頼朝の命を狙う企てを起こす。母への別れを告げ、景清は春日の宮人に変装、頼朝に近づくも、装束の脇から鎧の金物が光ったを怪しまれて警固の武士に見破られ、自ら「平家の侍惡七兵衛景淸にて候」と名乗りを挙げ、若武者一人を切り伏せただけで姿を消すという筋である。]

 所謂光孝天皇第四の皇子の口碑は、亂暴には相異ないが彼等の大切なる家傳を、出來るだけ史實に接近しようとした努力と見れば解せられる。即ち祖神が神子であり、從つて最も惠まれたる者であつたことを述べるのは、すべての宗教に共通した宣傳法である。その單純にして自然に巧妙たるものが感動を與へて記錄せられ、しかもそれが時代と共に推移つた故に、終には相牴觸して分立してしまふのである。之を本の形に復原して見ようとする場合に、後に取附けたる固有名詞に拘泥することは誤りである。先づ共通の趣旨ともいふぺきものを見出すべきである。

[やぶちゃん注:「神子」「みこ」。

「推移つた」「うつつた」(うつった)。

「牴觸」「抵触」に同じい。]

 けだし眼を傷けた者が神の御氣に入るといふ類の話だけならば、代々盲目又は片目の一人が社に事へて居る間には、自然に發生し又成長變化したかも知らぬが、それだけでは何故に最初其樣な不具を神職に任することにしたかゞ證明せられず、且つ其祖神が特に荒々しく勇猛であつたかが分らぬ。然るに一方には天神寄胎の神話の一つに天目一神の御名があり、それと同名の忌部氏の神は作金者であつた。即ち太古以來の信仰の中に、既に目一つを要件とする場合があつたのである。宇佐の大神もその最初には鍛冶の翁として出現なされたと傳へられる。而うして御神實(おんかみだね)は神祕なる金屬であつた。譽田別天皇を祭り奉るといふ説が本社に於て既に確定して後まで、近國の支社には龍女婚姻の物語又は日の光の金箭を以て幼女を娶つた物語を存して居た。さうして近代まで用ゐられた宇佐の細男舞の歌には、播磨風土記と同系の神話を、暗示するやうな詞が殘つて居たのである。

   いやあゝ、ていでい、いそぎ行き、濱のひろせで身を淨めばや

   いや身を淸め、ひとめの神にいく、いやつかいやつかまつりせぬはや

即ち此社に於ても本は天の目一つの信仰があつた故に、關東地方からやつて來て權五郎景政が諸處の八幡社を創建し、又惡七別當が目を抉つて、後に大神の恩德を證明することになつたのでは無いかと思ふ。

[やぶちゃん注:「宇佐の大神もその最初には鍛冶の翁として出現なされた」ウィキの「宇佐神宮によれば、社伝等によれば、欽明天皇三二(五七一)年に宇佐郡厩峯(うさのこおりまきのみね)と菱形池(ひしがたいけ)の間に鍛冶翁(かじのおきな)が降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると、それが三才の童児となって、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(ほむたのすめらみことひろはたのやはたまろ:「譽田天皇」は応神天皇の諱。本文にも出る「誉田別」(ほむたわけ)も同じ)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある、と記す。

「御神實(おんかみだね)」文庫版全集では『おんかみざね』とルビを変えてある。

「金箭」暫く「かなや」と訓じておく。

「細男舞」「せいのをまひ」(せいのおまい)。古舞の一種で「さいのうのまい」「くわしおのまい」とも読み、「才男」「青農」などとも記す。春日若宮の御祭(おんまつり)では白い衣を着し、白い布で顔を覆った六人(笛二人・腰前に下げた鼓二人・所作二人)によって演じられる。春日若宮のものではあるが、それについて作曲家「平野一郎のブログ」の八幡巡礼 〜石清水の、細男舞〜に、このかなり奇体な舞は、『八幡愚童訓(ハチマングドウクン)等に記された安曇磯良(アズミノイソラ)の伝説に由来する』とされ(改行部を続けた)、『神功皇后が三韓征伐に際して、安曇磯良に海道案内を命じる。永年海中に棲み、一面貝殻だらけの醜い顔を恥じる磯良、俄には応じない。そこで皇后は策を凝らし、海の上にて磯良の好む神楽を奏したところ、磯良は己の顔を袖で隠しつつも、奇妙な舞を舞いながら、ゆっくりと海中より浮上してきた。その磯良の舞こそが、細男舞である』述べておられる。非常に、興味深い。]

 生目八幡は日向以外に、豐後にも薩摩にもあつた。さうして眼の病を禱る八幡はそればかりでは無いのである。さういふ幽かな名殘を止むるのみで、今は由緒の傳へらるゝものが無くとも、之を盲人の神に仕へた證據とすることは、もう許されるであらうと思ふ。ただ彼等が自ら進んで其目を傷ける風習が、いつ頃まで保たれて居たかは問題であるが、遺傳の望まれない身僣の特徴に由つて、或特權を世襲せんとすれぱ、世俗的必要からでも或はその儀式を甘受したかも知れぬ。若くは景淸の物語のやうに、目の復活の芝居を演じて居たか。兎に角に人の生牲といふことは放生會などよりも逢か前から、單に前半分だけを保存して後の半分は省略して居たから、一層古代の言ひ傳へが誇張せられたものと思ふ。「若宮部と雷神」の一章にも述ベた如く(二) 御靈の猛惡を怖るゝ風が強くなつて、若宮の思想は一變してしまひ、其上に實在の貴人を以て祭神と解する世になると、かの童貞受胎の教義も片隅に押遣られたが、幸ひにして御靈は本來神の子又は眷屬となつた人間の靈魂を 意味したといふことが、目一箇神の一片の舊話から窺ひ知られるのである。加藤博士の如く粗末に此資料を取扱ふのはよくないと思ふ。

[やぶちゃん注:「加藤博士」既注であるが、再掲する。宗教学者で文学博士の加藤玄智(げんち 明治六(一八七三)年~昭和四〇(一九六五)年)。陸軍士官学校教授を経て、母校東京帝国大学助教授。後に国学院大教授などを歴任し、宗教学・神道学を講義した。これ彼の、金属神の天津麻羅(あまつまら:「古事記」にのみ登場する鍛冶神)を念頭に置いて物を生み出す男性器(マラ)から天目一箇神を一つ目(片目)と見る説を述べた「天目一箇神に関する研究」での当該資料の扱い方を指すか。]

 話が長くなつたがもう一言だけ述べて結末をつける。後代化物の「目一つ五郎」とまで零落した御靈の一つ目と、魚の片目との閥係があることを證するのは、源五郎といふ鮒の名である。近江の湖岸にも魚を生牲とする祭式は多く殘つてゐるが、遠く離れて奧州の登米郡などにも、錦織源五郎鮒を近江より持つて來た口碑があつて(三) しかも方々の神池の鮒は紗目である。其中でも上沼村八幡山の麓の的沼といふ沼の鮒は、八幡太郎の流鏑馬の箭が水に落ちて、目を傷けてから今以て皆片目になつたといふ。日向の都萬神社で神の帶びたる玉の紐落ちて鮒の目を貫くといひ、加賀の橫山村の賀茂神社では汀の桃墜ちて鮒の目に當るとつたことは、曾て片目魚考の中に述べたから細説せぬ(四)其他各地の神社佛閣に武士獵人の箭に射られた、或は雞に蹴られたなどゝいつて、現に尊像の眼の傷ついたものが多いのは、到底一つ一つの偶然の口碑で無いことも明らかである。世相が一變すると僅かな傾向の差によつて、これが逆賊退治惡鬼征服の別腫の傳説にもなり得たことは、則ち亦御靈信仰の千年の歷史であつた、時代の推移を思はない人々には、古史の解説を托すべきで無いと思ふ。

[やぶちゃん注:「登米郡」「とめぐん」は現在の宮城県登米市の大部分に相当する。文庫版全集は古称である「とよま」と当てるが、明治一一(一八七八)年の郡区町村編制法の宮城県での施行の際に郡名の読みを「とよま」から「とめ」に改めており、執筆時期よりもさらにこれは遡る改名であるから正しいルビではない。口碑が伝わった頃は確かに「とよま」ではあったとしても、学術論文としては誤り或いは不適切なルビである。

「錦織源五郎」「にしこりげんごろう」は近江琵琶湖の源五郎鮒の名称由来説の一つに出る人物の名。ただの漁師とも、佐々木家或いは六角家家家臣ともする。

「上沼村八幡山の麓の的沼」現在の宮城県登米市中田町上沼字八幡山に義家所縁の八幡神社が現存し、地図で見ると、比較的近くに池(二箇所)はあるが、それがこの「的沼」かどうかは不明。

「日向の都萬神社」一目小僧(十六)に既注。

「加賀の橫山村の賀茂神社」同じく一目小僧(十六)に既注。]

(一) 故栗田博士の古謠集に、豐前志から採錄して居る。尚同じ集には玉勝間から、肥後の神樂歌として次の一章を引いて居る。

    一目のよとみの池に舟うけて のぼるはやまもくだるはやまも

此「一目」亦目一つ神であらう。

[やぶちゃん注:「故栗田博士」歴史学者で元東京帝国大学教授の栗田寛(天保六(一八三五)年~明治三二(一八九九)年)であろう。書誌に彼の編に成る「古謠集」の書名を見出せる。

「豐前志」幕末から明治期の国学者渡邊重春の著。

「玉勝間」国学者本居宣長が寛政五 (一七九三) 年から没年の享和元(一八〇一)年にかけて執筆した考証随筆。

「よとみの池」「世止命の池」。現在の熊本県山鹿(やまが)市久原(くばる)字薄野(すすきの)にある薄野一目神社境内後方に現存する。個人サイト「玄松子の記憶」の薄野一目神社を参照のこと(当該サイトでは神社名を「うすのひとつめ」と訓じているが、別サイトでは「すすきの」と地名と同じ読みをしている。孰れが正しいかは不祥)。]

(二) 「民族」二卷四號。

[やぶちゃん注:この「若宮部と雷神」なる論文は、柳田が主要論文「妹の力」や「桃太郎の誕生」でも言及する自分の論文であるが、筑摩文庫版全集には所収しない。]

(三) 登米郡史に依る。

[やぶちゃん注:藤原相之助等編「登米郡史」「とめぐんし」(大正一二(一九二三)年登米郡刊)。]

(四) 郷土研究四卷六四七頁。

[やぶちゃん注:「片目魚考」という名の論文はないが、これは大正六(一九一七)年二月の『郷土研究』の載せた「片目の魚」のことであろう。それならば、向後に電子化する予定でいる。]

        (昭和二年十一月、民族)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは底本では下一字上げインデント。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 大人國(2) 見世物にされた私

 

<二章> 見世物にされた私

 

 〔この〕家には九つになる娘がいました。年のわりには〔、〕とても器用な子で、針仕事も上手だし、赤ん坊に着物を着せたりすることも、うまいものでした。この娘と母親の二人が〔相談して、〕赤ん坊の搖籃を私の寢床に作りなほしてくれました。〔私を入れる〕搖籃を簞笥の小さな抽斗に入れ、鼠に食はれないやうに、その抽斗をつるし棚の上においてくれました。

[やぶちゃん注:章題は有意にインクが濃い。現行の改行指示に従う。現行版は改行がない。]

 私がこの家で暮してゐる間は、いつもこれが私の寢床でした。もつとも、私がみんなの〔ここの〕言葉がわかるやうになり、ものが云へやうになると、〔私は〕いろいろ〔と〕賴んで、もつと便利な寢床に〔なほ〕してもらひました。

 この家の娘は大へん器用で、私が一二度その前で洋服を脱いでみせると、すぐに私に着せたり脱がせたりすることができるやうになりました。もつとも、彼女私は娘〕に手傳つてもらはなくても〔いで、時は、私は〕自分ひとりで、着たり脱いだりすることもありました。〔していました。〕〔彼女は〕私にシヤツを七枚と、それから下着などを拵へてくれました。手にのる〔一番柔〕柔らかい布地で拵へてくれたのですが、〔そ〕れでも、ズツクよりもつとゴツゴツしてゐました。〔そして、その〕洗濯も彼女がしてくれるのでした。

 彼女は〔私の〕先生になつて、私へ言葉を教へてくれました。何でも私が指さすものを、この國の言葉で言つてくれます。そんな風にして教へられたので、二三日もすると、私はもう欲しいものを口で云えるやうになりました。

 彼女は大へん氣だてのいい娘で、年のわりに小柄で、四十呎しかなかつたのです。彼女は私に〔、〕グリルドリツグといふ名前をつけてくれました。やがて家の人人も、〔こ〕の名を使ふやうになるし、後には國中の人がみな私のことをさういつて呼びました。このグリルドリツグといふ言葉名は言葉〕は、イギリスの言葉云へば〔なら〕マニキン(小人)といふ言葉と同じ意味でした。

[やぶちゃん注:最後の「た。」は左罫紙外上部に書かれ、次の110の原稿用紙の冒頭は字空けがないが、私の判断で、一マス空け、改行と採った(現行版もここで改行している)。

「四十呎」十二メートル十九センチ。

「グリルドリツグ」原文Grildrig

「マニキン」mannikin。但し原文は“The word imports what the Latins call nanunculus, the Italians homunceletino, and the English mannikin. ”である。英語のそれは「マネキン」であるが、この英語には別に「とても小さい人、但し、他の点では歪んでいて異常な姿の人」の意がある。ここは、それ。]

 私がこの國で無事に生きてゐられたのは、一つには、この娘のお蔭でした。私たちはここにゐる間ぢう、決して離れなかつたものです。私は彼女のことを、グラムダルクリツチ(即ち、可愛いお乳母さん)と呼びました。彼女が私につくしてくれた、親切のかずかずは〔、〕特に〔、〕ここに書いておきたいと思ひます。私は是非〔、〕〔折があつたら、〕彼女に恩返ししたいと〔、〕〔心から〕 願つてゐるのです。

[やぶちゃん注:「グラムダルクリツチ」原文Glumdalclitch

「可愛いお乳母さん」「おうばさん」は妙だから「お乳母(ば)さん」と読ませているのであろうが、実は原文は“little nurse”で「小さなナース(看護婦さん)」である。]

 さて、私の主人が畑で不思議な動物を見つけたといふ噂は〔、〕だんだんひろがつてゆきました。

 その動物の大きさは、スプラクナク(この國の綺麗な動物で、長さはおよそ六呎ほど)ぐらゐで、形はまるで人間と同じ形だし、動作も人間とそつくり、何だか可愛い言葉を喋るし、それにこの國の言葉も今は少し覺えたやうだし、二本足でまつすぐ立つて步けば、〔くし、〕〔それに、この動物は〕すなほで、すなほで、呼べば來るし、言ひつけたことは何でもするし、とても、きやしやな手足をもつてゐて、顏色は三つになる貴族の娘よりもつと綺麗だ、などと〔、〕〔この〕なは口から口へ傳はつてゆきました。〔〔私の〕噂は〔ひようばんは〕だんだん拡まつてゐました。〕

[やぶちゃん注:「スプラクナク」原文“splacnuck”。原文でも訳文でも具体的にどのような生き物なのかは描出されていない。事実、後で国王がガリヴァーをこれと誤認するところから考えるなら、ヒト同様に直立二足歩行性を有している生物と推定は出来るように思われる。

「六呎」一メートル八十三センチ弱。]

 〔〔すいすぐ〕近所に住んでゐる、〕主人の親友の農夫が、この〔こと〕を聞くと、私を〔ほん〕とかどうか見にやつてせてくれと云にやつて〕來ました。私はすぐ〔早速〕〔連〕れだされて、テーブルの上に〔の〕せられました。私は云はれる〔ひつけ〕どほりに、步いて見せたり、短劍を拔ゐたり〔、〕〔おさ〕めたりしてみせました。それから、お客に向つて、うやうやしく、お辞〔じ〕ぎをして、「よくいらつしやいました。御機嫌(キゲン)はいかがですか」と、可愛い乳母さんから教へられたとほりの言葉で云つてやりました。

[やぶちゃん注:細部が現行版とかなり異なる。

   *

 ところで、主人の親友の農夫が、このことを聞くと、ほんとかどうか、見にやって来ました。私はさっそくつれ出されて、テーブルの上に乗せられました。私は言いつけどおりに、歩いて見せたり、短剣を抜いたり、おさめたりして見せました。それから、お客に向って、うやうやしく、おじぎをして、

「よくいらっしゃいました。御機嫌はいかゞですか。」

 と、可愛い乳母さんから教えられたとおりの言葉で言ってやりました。

   *]

 そのお客は年より〔寄〕で目があまり〔よく〕見えないので、もつとよく見ようと眼鏡をかけました。それを見ると〔、〕私は腹を抱へて笑はないではゐられなくなりました。といふのは、彼の目が〔、〕二つの窓から射し込む満月のやうに見えたからです。みんなは〔、〕私のをかしがるわけがわかると〔、〕一緒になつて笑ひだしました。すると〔、〕老人はムツとして顏色をかへました。

 この老人は、けちんぼうだと〔の〕評判でしたが、やはりさうでした。それで〔のため〕私はとんだ災難〔目に〕あふことになりました。ここから二十二哩ばかり、馬でなら半時間かかる、隣りの町の市日に私をつれて行つて一つ見世物にするがいい、と〔彼は〕主人にすすめたのです。

[やぶちゃん注:「二十二哩」三十五キロ四百五メートル。これはガリヴァーにとっての実測。

「市日」「いちび」と訓じておく。定期に市の立つ日の謂いである。]

 主人とその男は、時時、私の方を指して、長い間ひそひそと囁きあつてゐました。私はそれを見て、これは何か惡いことを〔相談〕し合つてるなと思ひました。さう思つて〔じつと〕〔氣〕をつけ〔てゐ〕ると、時時、もれて聞える彼等〔二人〕の言葉は〕、なんだか私にもわかるやうな氣がしました。しかし〔しかし、ほんとのことは〕、次の朝、グラムダムリツチが〔私に〕話してくれたので、それで、すつかり私にわかつたのでした。

[やぶちゃん注:「グラムダムリツチ」はママ。今までのそれを見ても、どうも原民喜は外来語の固有名詞の短期記憶がすこぶる苦手だったように思われる。]

 私が見世物にされるといふことを、グラムダムリツチは、母親から聞き出したのでした。彼女このことを知つて、彼女〕はたいへん悲しがつて〔私と別れることを〕たいへん悲しがつて〔がり〕、私を胸に抱きしめて泣きだしました。

 「見物人たちは、どんな亂暴なことをするかわかりません。あなたを押しつぶしてしまふかもしれないし、もしかすると手を取つて、あなたの手足を一本ぐらゐ折つてしまふかもわからない〔りませ〕ん。」と、彼女は私のことを心配してくれるのでした。

 「あなたは遠慮ぶかい〔、〕おとなしい〔、〕人だし〔そし〕て、氣位の高い人でせう、それなのに、見世物なんかにされて、お金のために卑しい連中の前でなぐさみにされる〔な〕んて、ほんとうに口悔しい〔こと〕でせう。お父さんもお母さんも、私にグリルドリッグはあげると〔云つて〕約束したくせに、今になつて〔、〕こんなことをするのです。去年も仔羊をあげると言つておきながら、その羊が肥えてくると、〔その〕羊が肥えてくるとすぐ肉屋に賣拂つてしまつた、あれと同じやうなことをしようとしてるのです」と、彼女は私のことを嘆くのでした。

 しかし、私は、この乳母さんほどには〔、〕心配してゐなかつたのです。いつかは〔、〕きつと自由の身になつてみせる、と私は強い希望を持つてゐました。それに、私が怪物として、あちこちで見世物にされても、私はこの國には知人一人あるわけではなし、私がイギリスに帰つてからも、なにもこのことは非難されるはずがないと思ひます。イギリスの國王でも、今の私と同じやうなことになつたら、やはり〔、〕これくらいの苦勞はするだらう〔、〕と〔私は〕思ひました。

 主人は友達の意見に從つて、私を箱に入れて、次の市日に隣りの町まで運んで行きました。私の乳母さんの、あの娘も、父親の後に乘つて一緒について來ました。〔この〕私〔の〕入れられた箱は〔、〕四方〔とも〕塞がれてゐて、ただ出入口の〔小さな〕戸口→→の〕、空氣拔きのために〔そのほかには、〕錐の穴が二つ三つあけてあるだけでした。〔空気拔きのためにつけてゐました。つけてあり〕娘は私が寢られるやうに、〔その〕箱の中に赤ん坊の蒲團を敷いてくれました。

[やぶちゃん注:現行版は以下の通り。

   *

 主人は友達の意見にしたがって、私を箱に入れて、次の市日に隣りの町まで運んで行きました。私の可愛い乳母さん(娘)も、父親の後に乗って、一しょについて来ました。私の入れられた箱は、四方とも塞ふさがれていて、たゞ、出入口の小さな戸口のほかには、空気抜きのため錐きりの穴が二つ三つつけてありました。娘は私が寝られるように、箱の中に赤ん坊の蒲団を敷いてくれました。

   *]

 この〔箱の〕旅は、たつた半時間の旅〔行〕でしたが、私は〔身躰が〕ひどく搖られたので、私はくたくたになつてしまひました。なにしろ、馬は一步に四十呎も飛んで、しかも非常に高く跳ねるので、私の箱は、まるで大暴風雨の中を、船が上つたり下つたりするやうなものでした。

[やぶちゃん注:「四十呎」一二・二メートル弱。]

 〔さて、町に着くと、〕主人は行きつけの宿屋の前で馬を降り、しばらく宿の亭主と相談してゐました。それから、いろんな準備が出來上ると、ひろめ東西広告〕屋を傭つて、町中に觸れ步か〔まはら〕しました。

[やぶちゃん注:現行版は「東西屋」(とうざいや:街頭や店頭で広告の口上を述べる宣伝業者の古い呼称。口上の初めに「東西東西」と発したことに由る。「ひろめ屋」も同じい)、併存する末尾は「觸れ步かしました」である。]

 「さあ、いらつしやい、いらつしやい、世にも不思議な生きもの、身の丈はスプラクナック(この國のきれいな動物で長さ六呎ほどのもの)ほどもないのに、頭のてつぺんから足の先まで、身躰は人間にそつくりそのまま、言葉が話せて面白い藝〔當〕を致します。さあ、いらつしやい、靑鷲亭で御覽に入れます〔いらつしやい、靑鷲亭の見世物〕」

[やぶちゃん注:現行版口上は以下。

   *

「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい、世にも不思議な生物、身の丈はスプラクナク(この国の綺麗な動物)ほどもないのに、頭のてっぺんから足の先まで、身体は人間にそっくりそのまゝ、言葉が話せて面白い芸当をいたします。」

   *]

 と、こんなふうなことをしやべらせたのです。

 私は〔宿屋で、〕三百呎四方もありさうな、大廣間につれて行かれ、テイブルの上に載せられました。私の乳母は〔、〕テーブルのそばの腰掛の上に立つて、私の面倒をみたり、〔いろいろと〕指圖をしてくれるのでした。そのうちに見物人がぞろぞろと押しかけて來ましたが、〔あまり混雜するので、〕主人は一〔回〕に三十人だけ見せることに決めました。

[やぶちゃん注:「三百呎」九十一メートル四十四センチ。]

 私は乳母の云ひつけどほりに〔、〕テイブルの上を步き𢌞つたり、私にものを云はさうとして〔、〕彼女がいろいろ質問をすると、私は力一ぱいの声で〔、〕それに答へるのでした。それから〔、〕何度も見物人の方を振り向いて、うやうやしく〔叮嚀に〕お〔じ〕ぎをして、「よくいらつしやいました」と云つたり、その他教はつたとほりの挨拶をします。そしてグラムダルクリッチが、指貫(ゆびぬき)に酒を注いで渡してくれると、〔私は〕みんなのために乾盃をしてやります。かと思へば〔、〕短劍を拔いて、イギリスの劍術使ひの眞似をして、振り𢌞します。私の乳母が藁の切れつぱしを渡してくれると、私はそれを槍のつもりにして、若い頃習つた槍の術をして見せます。

 その日の見物人は〔、〕十二組あつたので、私は十二回も、こんなくだらない眞似を繰返さねばならなかつたのです。とうとう私は疲れて腹が立つて、すつかり、へばつてしまひました。

[やぶちゃん注:現行版は最後の一文が、『そうそう、私は疲れて腹が立って、すっかり、へばってしまいました。』となっているが、原文を見ても、この「そうそう」は、この通りの「とうとう」の誤り(校正工か植字工の誤り)ではなかろうか?

 私を見た連中が、これは素晴しいといふ評判を立てたものですから、見物人はどつと押しかけて、戸もやぶれさうになりました。〔大入滿員でした。〕主人は〔、〕私の乳母以外には〔、〕誰にも私に指一本觸らせません。その上、危險を防ぐために、テーブルの周りをぐるりとベンチで取り囲んで、誰の手〔に〕も屆〔〕かないやうにしました。

[やぶちゃん注:現行版では『大入滿員でした。』と生きている。]

 それでも、いたずらの小學生が、私の頭をねらつて榛の實を投げつけたものです。あたらなかつたので助かりましたが、〔もし〕あたつてゐたら、〔私の〕頭は滅茶苦茶にされたでせう。なにしろ榛の実といつても、南瓜ぐらゐの大きさだし、〔それに〕猛烈な勢で飛んで來たのですから。しかし、このゐたずら小僧は撲られて部屋から追出されて〔しまひ〕ました。

[やぶちゃん注:「榛の實」「榛」は「はしばみ」と訓ずる。原文は“a hazel nut”であるから、これは我々が食用の「ヘーゼルナッツ」(Hazelnut)として知っているところの正真正銘のブナ目カバノキ科ハシバミ属セイヨウハシバミ Corylus avellana の実である。因みに、中国(漢文にはしばしば出る)や本邦で「榛」というと、ハシバミ属ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii(やはり実が食用にはなる)を指すが、ご覧の通り、「ヘーゼルナッツ」のそれとは同属異種であるので、注意されたい。]

 〔市日がすんで、私たちは家に戾りましたが、〕主人はこの次の市日にも、またこの見世物をやると〔いふ〕廣告をしておきました。〔出しました。〕そして、その間〔それまで〕に、私のためにもつと便利な乘り物を用意してくれました。だがそれはあたりまへのことで、なにぶんこの前の旅行で〔、〕私は非常に疲れ、八時間もぶつとほしに見世物にされたの〕で、ヘトヘトになつてしまつたので〔ひま〕した。〔私が〕元氣をとりかへすには〔少くとも〕三日はかかりました。

[やぶちゃん注:「しておきました。〔出しました。〕」の併存はママ。現行版は『出しました。』の方である。]

 ところが、私の評判を聞い〔て〕〔、〕近所〔あちこち〕の紳士たちが〔、〕百哩も先から〔、〕今度は主人の家に押しかけて來ました。私は家でも休めなくなつたのです〔りました。〕〔この〕〔家に〕やつてくる紳士たちは家族ともで三十人よりはありました。少ないことはところで主人は、家で見せる時には、相手が一家族〔毎日毎日、私は殆ど身躰の休まる暇がありませんでした。〔はなかつたのです。〕〕

[やぶちゃん注:「百哩」百六十一キロメートル弱。]

 〔これは儲かりさうだと〔、〕考へた〕主人は、今度は〔〕私を、街から街へ、連〔つ〕れ步いて見世物にすることしようと、すること〕〕〔を〕思ひつきました。長い旅行に必要な支度をとろのへ、家の始末をつけると、細君に別れを告げて、一七〇三年の八月十七日(これは私がこの國へ着いてから〔丁度〕二ケ月目でした)に主人は出發しました。主人は〔、〕この國のほぼまんなかにある〔、〕首都をめざして行くのでしたが〔、〕家からそこまで〔は、〕三千哩の道のりでした。

[やぶちゃん注:「一七〇三年」因みに、本邦では元禄十六年(グレゴリオ暦一七〇三年二月十六日から)で、前年元禄十五年十二月十四日(グレゴリオ暦では一七〇三年一月三十日)には赤穂義士の吉良屋敷夜討が発生している。

「三千哩」四千八百二十八キロメートル。]

 主人は娘のグラムダルクリッチを自分の後に乘せました。私は箱に入られ〔れら〕れ〔たのですが〕、その箱は娘の腰に結びつけて膝の上に〔ありまし〕た。彼女は箱の内側を一番柔らかい布地ですつかり張つてくれ、下には厚い敷物を入れて、その上に赤ん坊の寢台をおいてくれました。私の下着や〔シヤツ〕なにかの身の𢌞りのものも〔んかも 何不自由なく〕、みんな〔彼女が〕ととのへてくれ、何〔〕不自由なくしてくれました。私たちの後から、家の小僧が〔一人〕荷物を持つてついて來ました。

 〔この旅行は〕主人の考へでは、〔この旅は〕途中の町で見世物を開き〔、〕客のありさうな村や、貴人の家には、五十哩や百哩は寄り道するつもりだつたらしいのです。私たちは毎日〔わづかに〕百四五十哩ぐらゐづつ進み、大へん樂な旅をしました。グラムダルクリッチが私を庇ふために、馬の搖れですぐ自分の方が疲れてしまふと云つてくれたからです。私が賴むと、彼女は度々箱から出しては、外の空気を吸はせてくれたり、景色を見せてくれました。そのさうそんな〕時には〔、〕彼女はアンヨ紐でしつかり私を引張つてゐてくれるのでした。

[やぶちゃん注:「五十哩」八十一キロ弱。

「百哩」百六十一キロ弱。

「百四五十哩」二百二十六~二百四十一キロほど。]

 私たちはナイル河やガンヂス河よりも〔、〕何倍も大きな河を〔、〕五つ六つ〔も〕越したのですました。たのです〕。〔ロンドンの〕テムズ河みたいな、小さな川は一つもないのです。〔この〕旅行は十週間かかりました。その間、〔たちは〕十八の大都市〔に立ち寄り〕、〔いろそれから、澤山の〕村村や、貴人の家で、〔何十回となく〕見世物になりました。

 十月二十六日に、〔いよいよ〕私たちは國都に着きました。〔その〕國都の名はローブラルグラットとい〔はれ〕、これは「世界の誇」といふ意味でした。主人は〔、〕宮殿から程遠くない〔、〕目ぬきの大通りに〔、〕宿をとりました。そして、〔この〕私のことを〔、〕委しく書いたビラを〔、〕あちこちに貼り出しました。それから、方三四百呎もある、大きな部屋を借りて、〔そこに〕私の舞臺として、直徑六十呎ばかりのテイブルを置きました。〔そして私が〕落つこちないやうに、〔テーブルの〕緣から三呎入つたところに、高さ〔、〕三呎の柵をめぐらしました。

[やぶちゃん注:「ローブラルグラット」原文Lorbrulgrud

「三四百呎」九十二メートルから百二十二メートル弱。

「六十呎」十八メートル強。

「三呎」九十一センチメートル強。]

 私は毎日、十回づつ見世物にされましたが、人人はすつかり感心して、大満足のやうでした。私はこの頃、もう〔、〕かなりうまく言葉が使へるし〔て〕、話しかけられること〔言葉〕なら〔、〕何でもわかるやうになつてゐました。その上、家にゐる時も、旅行中も、いつもグラムダルクリッチが私の先生になつてくれたので、この國の文字もおぼえ、どころどころちよつとした文章なら〔私に〕説明することが出來るやうになつてゐ〔り〕ました。彼女はポケットに小さな本を入れてゐました。それは若い娘たちによく讀まれる本で、宗教のことが簡單に書いてあります。〔その本から、を使つて、〕彼女は私に字を教へたり、言葉を説明してくれました。

2016/06/27

甲子夜話卷之二 4 評定所庫中に有ㇾ之律條に有德廟御加筆有之事

2-4 評定所庫中に有ㇾ之律條に有德廟御加筆有之事

予中年の頃、萬年三左衞門と云し人に邂逅せしが、この人は以前評定所の留役を勤たりし者なり。其話に云、評定所の庫中には、德廟御時の律條の册あり。松平越中守【樂翁】加判勤役のとき、何かに手を入れ、諸事改正ありし頃、或時云々のことにより、誰某この御律条のこと申出たるに、越中守さらば見んと云はれて、御庫より此册を出したるに、數箇の付札あり。松平左近將監大岡越前守の輩、各存意を記して奉りしに、德廟御自筆を以て加書し給ひ、所存にはかく思候など記せられたるに、又下よりはかくかく奉存候など書たるもあり又各申所尤に存る抔の御親筆もありて、越中守も始て拜見せられて、詞もなかりしと云。

■やぶちゃんの呟き

「萬年三左衞門」同名の者は複数見られるが、不詳。

「評定所の留役」評定所書記官。

「庫中」「くらなか」と訓じておく。

「德廟」徳川吉宗。

「律條の册」法度集。

「松平越中守【樂翁】」松平定信。

「加判勤役」「くわはんつとめやく」。ここは老中のこと。

「何かに手を入れ、諸事改正ありし頃、或時云々のことにより」ここは恐らく挿入文で「或時云々のことにより諸事改正ありし頃」で、「ある時なんらかの必要から、諸事につき、改正をせねばならなくなり、具体なとある法度に手を加えることとなった際」の謂いであろう。

「誰某」「だれそれ」。ある者。

「この御律条のこと申出たるに」「このおんりつでふのことまふしいでたるに」。それについての法度細則ならば、確か、書庫にある吉宗公の定められたものの中に既に定められたものがあるはずであると申し出たので。

「數箇の付札あり」数ヶ所の附箋(後述の記載から吉宗自身がメモして貼付したもの)が附けてあった。

「松平左近將監」既注であるが、再掲しておく。老中松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに『わたり徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。後に財政をあずかる勝手掛老中水野忠之が享保一五(一七三〇)年に辞した後、『老中首座となり、後期の享保の改革をリードし』、元文二(一七三七)年には『勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭が老中に就くと、老中首座から次席に外れ』た。『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が』第九代『将軍となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年、『家重が将軍に就任すると直後に老中を解任され』、加増一万石を『没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた』(以上はウィキの「松平乗邑」を参照した)。「酒井忠恭」は「ただずみ」と読む。

「大岡越前守」江戸南町奉行(後に寺社奉行兼奏者番)大岡忠相。

「各」「おのおの」。

「存意」自分の見解や意見。

「所存にはかく思候」「思候」は「おもひさふらふ」で、各人の主張や進言に対しては、それぞれ私(吉宗)はこのように思うておる。

「下よりはかくかく奉存候」「下」は「しも」、「奉存候」は「たてまつりぞんじさふらう」で、老中松平乗邑や奉行大岡忠相よりも下位の実務役人らを指すのであろう。

「各申所尤に存る」「おのおのまうすところもつともにぞんずる」。

「抔」「など」。

譚海 卷之一 明和七年夏秋旱幷嵯峨釋迦如來開帳の事

明和七年夏秋旱幷嵯峨釋迦如來開帳の事

明和七年夏枯旱(なつがれひでり)に付、閏六月中三(ちうさん)より麥(むぎ)稗(ひえ)等ぶじき被ㇾ下(くだされ)、江戸近在家七歳已下と五十已上のものを除き、人數ごとに賜りぬ。年賦にて上納被仰付候(おほせつけられさふらふ)よし。今年梅雨(つゆ)中(うち)一切雨降(ふる)事なし。わづかに降(ふり)たる事五六日なるべし。それも日をへだてて時々降(ふり)たる計(ばかり)にて、六月閏月七月迄打(うち)つゞき日でりにて、七月十八日初(はじめ)て雨ふる。されどもおもふやうにはふらず、其後冷氣つよく段々雨降(ふる)事に成(なり)たり。夏の中(なか)夕立少し計りづつあれども、やがて晴(はれ)て旱氣(かんき)甚しき故、近郷の田(た)ひわれ、畑物(はたもの)などは一向に枯(かれ)うせたるゆへ、肴(さかな)の價(あたひ)野菜ものより却(かへつ)て賤(やす)し。近江(あふみ)湖水近き田地は、有年來(いうねんらい)未曾有(みぞう)の豐作なるよし、京都及(および)勢州東海道筋都(すべ)て旱損(かんそん)のよし、雨乞(あまごひ)度々(たびたび)あれども絶(たえ)て雨ふらざるよし飛脚の物語也。閏月の末武州神奈川いけすの鯛三千枚ほど死(しに)たりと納屋(なや)より注進に付(つき)鯛一切拂底(ふつてい)也。其外江戸近き海にが鹽(しほ)と云もの出(いで)て、魚悉く死し内川(うちかは)へうかび來る、半死の魚もおほくあり。海うなぎ・こちなどの類ひ、うかみいでて人々おびたゞしくとり得たり。されども毒あるよし、喰たる人食傷せしものおほしといふ。江戸の町に鬻(ひさ)ぐ白米鳥目(てうもく)百文に九合づつに及べり。菊・山椒・未央柳(びやうやなぎ)などの類、庭にあるみな旱死(ひでりじに)たり。八月十八日はじめて大雨珍しき事といへり。今年冬に至て狗(いぬ)おほく病死せり。今年嵯峨釋迦如來兩國囘向院(ゑかうゐん)にて、六月十五日より七月十五日まで開帳、又三十日の日延(ひのべ)ありて八月十五日まで開帳、同時下總(かづさ)布施辨才天本所壹(ひと)つ目八幡御旅所(おたびしよ)にて開帳、又京都伏見東福寺塔中(たつちゆう)海藏院の毘沙門天、囘向院にて八月十一日より開帳、後水尾院東福門院兩宮の御調度袞龍(こんりよう)の御衣(ぎよい)大嘗會御衣冠(ぎよいかん)等をはじめ、あこめ・扇子(せんす)・ゆするつき、御持念彿等種々の物披露あり。

[やぶちゃん注:調べてみると、明和七(一七七〇)年六月から八月にかけて、全国的な旱魃被害があった。この年の旧暦六月は大の月でグレゴリオ暦では六月一日が六月二十三日、しかもこの年は本文に出るように閏六月(小の月。新暦では一日は七月二十三日)があったから、七月は小の月で一日が新暦では八月二十一日、旧暦八月三十日は十月十八日に相当し、六月から八月というのは四ヶ月になることに注意されたい。

「閏六月中三(ちうさん)」中旬の三旬(週目)という謂いであろう。旧暦の当月の三旬目(十五日から二十一日)は新暦では八月六日から十二日に相当するから、平年でも暑い時期に相当する。

「ぶじき被ㇾ下」「ぶじく」という動詞は見当たらないが、これは前後から「扶持(ふち)おく」の訛りで、糧食の援助のために現物を下賜下され、の意ではあるまいか? 

「年賦にて上納被仰付候(おほせつけられさふらふ)」下賜した分は、平時に戻った際の年貢で、当該分を上納(返納)すればよいという意味か。

「六月閏月七月迄打(うち)つゞき日でりにて、七月十八日初(はじめ)て雨ふる」旧暦六月一日なら新暦六月二十三日で、旧暦七月十八日は新暦の九月七日になる。実に四十六日もの間、江戸近郊では降雨がなかったことになる。

「夏の中(なか)」夏の中旬。閏月が入るので旧暦の暦上は意味がないので(叙述が時系列通りとすると、現在の九月中旬頃を夏中旬と称していることになり、幾ら異常気象であってもそういう風には言うまいと考えたことによる)、ここまでの叙述から新暦で考えると、この前の叙述期間の半ばを指すと考える方が自然で、閏六月が新暦の七月二十三日から八月二十日に相当するので、まさにこの時期を指していると考えてよかろう。

「肴(さかな)」魚介類。

「近江(あふみ)湖水近き田地は、有年來(いうねんらい)未曾有(みぞう)の豐作なるよし」現行の不作でも見られることであるが、局地的に琵琶湖沿岸では何十年この方、記憶にないほど極めて珍しい、米の豊作であったことを例外的特異点として記載している。

「閏月の末」閏六月末日二十九日は新暦の八月二十日に相当する。

「枚」一応「まい」で読んでおくが、「ひら」と読んでいるかも知れぬ。平たいものを数える数詞。

「納屋(なや)」これは限定的に河岸(かし)に建てられた商品保管用倉庫を指し、この場合は、そうしたものを所有する大手の海産物を扱う商人らのことを指すのであろう。

「注進」急に発生した事件を急いで支配の者に報告すること。

「一切拂底(ふつてい)」物が完全にすっかりなくなってしまうこと。

「にが鹽(しほ)」「苦潮」で、現行の赤潮のこと。極端に酸素の少ない貧酸素水塊が海面に浮上して起こる現象。貧酸素水塊は水流の遅滞や多量の生活排水などの流入によって富栄養化した海で、海水面近くにプランクトン(鞭毛虫類・ケイ藻・ヤコウチュウなど)が短期間に爆発的増殖、水中の酸素が徹底的に消費されることにより、海面が赤褐色等に変わる現象。東京湾のような河川の注ぐ内湾で起こり易い。時に魚介類に大被害が発生する。魚介類の死滅は溶存酸素濃度の低下や鰓にプランクトンが詰まることによる物理的な窒息などの他、その原因プランクトン(特に有毒藻である渦鞭毛藻類などの藻類)が産生する毒素によっても起り、これらの産生する毒素は主に魚貝類(主に貝類)の体内に蓄積され、強力な魚貝毒となってそれを食べた人にも健康被害を及ぼすことがあり、ここでもそうした現象が後述されている。

「内川(うちかは)」固有名詞としての河川名「内川」(東京の南部現在の大田区に位置し、大森地区の東海道本線付近からほぼ直線的に東流し、東京湾に注ぐ二級河川)があるが、ここは所謂、河口部の潮汐に応じて川の殆んど全域が有意に水位変動を起こす東京湾(当時の江戸湾)の感潮河川群全体を指す一般名詞であろう。赤潮が発生すればこうした河川域では魚介類の大量死滅が容易に起こる。

「海うなぎ」江戸前で知られる条鰭綱新鰭亜綱カライワシ上目ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科クロアナゴ亜科アナゴ属マアナゴ Conger myriaster のことであろう。

「こち」新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目コチ亜目コチ科コチ属マゴチ Platycephalus sp. でとっておくが、分類学上は全くの別種の、形状のよく似たものも総称する語ではある。

「鳥目」元は穴のあいた銭を指したが、ここは金銭の意。

「百文に九合づつに及べり」明和年間の平均値は米一升が百文であるから、一割増しである。思ったよりは高値(こうじき)ではない。

「未央柳(びやうやなぎ)」現代仮名遣では「びようやなぎ」。キントラノオ目オトギリソウ科オトギリソウ属ビヨウヤナギ Hypericum monogynum 。中国原産で庭木として好まれる。高さは約一メートルで、よく分枝し、葉が柳のそれに似る。夏に茎頂に径約五センチメートルの黄色の五弁花をつける。多数の長い雄蕊が五群に分かれて附属し、目立って美しい。ウィキの「ビヨウヤナギ」によれば、『中国では金糸桃と呼ばれている。ビヨウヤナギに未央柳を当てるのは日本の通称名。由来は、白居易の「長恨歌」に』、

太液芙蓉未央柳  太液の芙蓉 未央の柳

芙蓉如面柳如眉  芙蓉は面のごとく 柳は眉のごとし

對此如何不淚垂  此れに對(むか)ひて如何ぞ涙垂れざらむ

『と、玄宗皇帝が楊貴妃と過ごした地を訪れて、太液の池の蓮花を楊貴妃の顔に、未央宮殿の柳を楊貴妃の眉に喩えて 未央柳の情景を詠んだ一節があり、美しい花と柳に似た葉を持つ木を、この故事になぞらえて未央柳と呼ぶようになったといわれている』。『「美容柳」などを当てることもあるが、語源は不明、単に未央を美容と置き換えたものであろう』とある。

「八月十八日」新暦では十月六日で、既に仲秋である。

「今年冬」同年の十月(旧暦ではここから冬)一日は新暦の十一月七日に当たり、十月十五日が新暦十二月一日に当たった。

「嵯峨釋迦如來」現在の京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗五台山清凉寺は「嵯峨釈迦堂」の名で知られ、中世以来、「融通念仏の道場」としても知られるが、ここの本尊釈迦如来、ウィキの「清凉寺によれば、十世紀に『中国で制作されたものであるが、中世頃からはこの像は模刻像ではなく、インドから将来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようにな』り、『こうした信仰を受け』て、本文時制の七〇年前の元禄一三(一七〇〇)年から『本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始ま』っていた。

「兩國囘向院」現在の東京都墨田区両国二丁目にある浄土宗諸宗山(しょしゅうざん)無縁寺回向院。

「六月十五日より七月十五日」同年のそれは新暦七月七日より閏六月を挟んだ九月四日までの六十日間。

「三十日の日延(ひのべ)ありて八月十五日まで」同年の八月十五日は新暦十月三日。旱魃の民草の苦しみを考慮しての日延べか。

「下總(かづさ)布施辨才天本所壹(ひと)つ目八幡」現在の東京都墨田区千歳にある江島杉山神社。ウィキの「杉山和一によれば、杉山検校の称号で知られる鍼灸師杉山和一(わいち 慶長一五(一六一〇)年~元禄七(一六九四)年:伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身。管鍼(かんしん)法の創始者として知られ、鍼・按摩技術の取得教育を主とした世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した)の『献身的な施術に感心した徳川綱吉から「和一の欲しい物は何か」と問われた時、「一つでよいから目が欲しい」と答え、その代わりに同地(本所一つ目)の方』一町(約一万二千平方メートル)を『拝領し、同地屋敷内に修業した江の島の弁天岩窟を模して祠を建て』、江島神社としたことに由来する神社である。杉山和一と江の島については、私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之六」の「福石(ふくいし)」の私の注を参照されたい。

「御旅所(おたびしよ)」神仏の祭礼(神幸祭)やこうした出開帳に於いて、神仏が巡幸の途中、休憩又は宿泊滞在する場所(或いはその目的地)を指す。

「京都伏見東福寺塔中海藏院の毘沙門天」現在の京都市東山区本町十五丁目(ここは同東山区の東南端で現在の伏見区と境を接する)にある臨済宗慧日山(えにちさん)東福寺塔頭海蔵院で本尊は聖観音菩薩であり、毘沙門天はない。調べてみると、東福寺の別の塔頭に勝林寺が現存するが、サイト「京都観光ナビ」の「勝林寺」によれば、この寺は海蔵院の鬼門に当たったことからその鎮守とされ、ここには現在も仏法と北方を守護する毘沙門天を祀り、「東福寺の毘沙門天」として知られていることが判った。ここの『毘沙門天立像は高さ百四十五・七センチメートルの等身大に近い一木造の像で、左手に宝塔、右手に三叉戟をもった憤怒相、作は平安時代十世紀後半頃に遡ると言われている。長く東福寺仏殿の天井裏にひそかに安置されていたが、江戸時代に開山・高岳令松の霊告により発見され、勝林寺の本尊として祀られたという』とあるから、この像のことを指すか?

「八月十一日」新暦では九月二十九日。

「後水尾院東福門院兩宮」後水尾天皇(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年 在位:慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)と、その中宮で徳川秀忠と正室江の五女であった東福門院徳川和子(まさこ/かずこ 慶長一二(一六〇七)年~延宝六(一六七八)年:明正天皇の生母)。

「袞龍(こんりよう)の御衣(ぎよい)」現代仮名遣「こんりょうのぎょい」。昔、天皇が着用した中国風の礼服で、上衣と裳(も)とからなり、上衣は赤地に日・月・星・龍・山・火・雉子などの縫い取りをした綾織物。即位式や大嘗会・朝賀などの儀式に用いた。直後の「大嘗會御衣」は同じことを指すか(衍字?)、或いはその「大嘗會御衣」と併せて被る専用の「冠(かん)」(かんむり)の謂いか。

「あこめ」「衵」「袙」などと書き、束帯の際に下襲 (したがさね)と単(ひとえ) との間に着用したもの。打ち衣(ぎぬ)とも称した。

「ゆするつき」「泔坏」と書き、泔(ゆする:頭髪を洗って梳(くしけず)るのに用いる湯水。古くは米の研ぎ汁などを用いた)の水を入れる器。古くは土器であったが、この頃のものは漆器や銀器である。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(8) 三月十八日

     三月十八日

 

 人麿が柿本大明神の神號を贈られたのは、享保八年即ち江戸の八代將軍吉宗の時であつた。その年の三月十八日には人麿千年忌の祭が處々に營まれて居る。即ち當時二種あつた人麿歿年説の、養老七年の方を採用したので、他の一説の大同二年では餘に長命なるべきを氣遣つたのである(一) 月日に就ても異説があり、些しも確かなることでは無かつた。「續日本記を見れば光仁天皇の御宇三月十八日失せたまふと見えたり」と、載恩記に言つて居るのは虛妄であるが、「まことや其日失せたまふよしを數箇國より内裏へ、同じ樣に奏聞したりといへり」とあるのは、筆者の作り事では無いと思ふ。即ち何れの世かは知らず、相應に古い頃から此日を人丸忌として公けに歌の會をお催し、又之に件なうて北野天神に類似した神祕化が流行したらしいのである(二)

[やぶちゃん注:「享保八年」一七二三年。

「當時二種あつた人麿歿年説」多くが生没年不詳とする。「ブリタニカ国際大百科事典」は生年は不詳とし、没年を和銅元(七〇八)年頃とする。ウィキの「柿本人麻呂」では斉明天皇六(六六〇)年頃 を生年とし、「日光山常行三昧大過去帳」により、神亀元(七二四)年三月十八日を没年月日とする。諸説では生年は大化元(六四五)年前後と見るものが多い。

「養老七年」七二三年。試みに大化元年生年説によるならば享年七十九歳となる。

「大同二年」八〇七年。試みに大化元年生年説によるならば享年百六十三歳の化け物となる。

「光仁天皇の御宇」光仁天皇の在位は宝亀元(七七〇)年十月~天応元(七八一)年四月である。試みに大化元年生年説によるならば享年百十一~百三十七歳のやはり化け物となる。

「戴恩記」「たいおんき」と読む。前章で注したが、再掲して置おくと、松永貞徳著の歌学書。全二巻。正保元(一六四四)年頃に成り、天和二(一六八二)年に刊行された。著者の師事した細川幽斎・里村紹巴らの故事やその歌学思想を平易に述べたもの。]

 そこで自分が問題にして見たいのは、假に人丸忌日は本來不明だつたとして、誰が又どうして之を想像し若くは發明したかといふことである。誰がといふことは結局我々の祖先がといふ以上に、具體的には分らぬかも知らぬが、如何にしてといふ方は、今少し進んだことが言ひ得る見込がある。我邦の傳説界に於ては、三月十八日は決して普通の日の一日ではなかつた。例へぱ江戸に於ては推古女帝の三十六年に、三人の兄弟が宮戸川の沖から、一寸八分の觀世音を網曳いた日であつた。だから又三社樣の祭の日であつた。といふよりも全國を通じて、是が觀音の御緣日であつた(三) 一方には又洛外市原野に於て、此日が小野小町の忌日であつた。九州のどこかでは和泉式部も、三月十八日に歿したと傳ふるものがある。舞の本の築島に於て、最初安部泰氏の占兆に吉日と出たのも此日であり、さうかと思ふと現在和泉の樽井信達地方で、春事(はるごと)と稱して餅を搗き、遊山舟遊をするのも此日である(四) 曆で日を算へて十八日と定めたのは佛教としても、何か其以前に暮春の滿月の後三日を、精靈の季節とする慣行は無かつたのであらうか。

[やぶちゃん注:「推古女帝の三十六年」推古天皇の没年。単純比定ではユリウス暦六二八年。

「宮戸川」「みやとがは(みやとがわ)」は浅草周辺流域の現在の隅田川の旧称。

「一寸八分」約五センチ五ミリ。

「三社樣」江戸時代までの現在の浅草神社と金龍山浅草寺(せんそうじ)の習合した祭り。前の兄弟の引き上げた観音像が浅草寺本尊(聖観音像)となったとされる。

「市原野」「いちはらの」は現在の京都市左京区中西部の一地区名。「櫟原野」とも書く。鞍馬寺参詣の鞍馬街道に沿い、早くから開けた。小野小町終焉の地と伝えられる小野寺(補陀洛(ふだらく)寺)が現存する。

「舞の本の築島」中世室町期の芸能の一種であった幸若舞曲(現在、五十曲余りが伝わる)の中から歌謡的部分を抜き出したいわゆる幸若歌謡集の一種に載る「築島(つきしま)」。現在の神戸市兵庫区南部の兵庫津に清盛が日宋貿易の拠点として大輪田泊を築港するが、その前面の防波堤とするための島を築き、船を風から守ろうとし、その人工島を「経(きょう)ヶ島」と呼ぶ(当時、築かれたとする詳しい場所は不明で、実際には源平争乱によって着手されなかったというのが定説)が、この「島」を「築」く当たって生まれた人柱伝承に基づく曲である。捕らえられた人柱の一人国春とそれを助けようとする娘名月女(めいげつにょ)、三十人の人柱の身代わりとなって経とともに海へ沈む松王という少年などが登場するという(神戸市の公式サイト何内の神戸市立中央図書館総務課作製になる「平清盛と神戸 経ヶ島(きょうがしま)」に拠った)。

「安部泰氏」「あべのやすうぢ」(あべのやすうじ)。先の幸若舞「築島」で清盛に人柱の投入を進言する陰陽師の名。

「占兆」「せんて(せんちょう)」或いはこれで「うらかた」とも読む。占いに表れた徴(しる)しのこと。

「和泉の樽井信達地方」現在の大阪府南部の泉南市樽井(たるい)及び信達(しんだ)地区。

「春事」「はるごと」。地方によっては「事祭(ことまつり」「事追い祭り」「十日坊」などとも称し、関西・中国地方で三~四月頃に行われる春の民間の祭り。餅を搗いて各家庭で御馳走を食べ、軒に箸 の簾(すだれ)を吊るしたりする。]

 此間も偶然に謠の八島を見て居ると、義經の亡靈が昔の合戰日を敍して元曆元年三月十八日の事なりしにと言つて居る。是は明かに事實で無く、又觀音の因緣でも無い。そこで立戾つて人丸の忌日が、どうして三月十八日になつたかを考へると、意外にも我々が最も信じ難しとする景淸の娘、或は黍畑で目を突いたといふ類の話に、却つて或程度までの脈絡を見出すのである。舞の本の景淸が淸水の遊女の家で捕はれたのは三月十八日の賽日の前夜であつたが、是は一つの趣向とも見られる。併し謠の人丸が訪ねて來たといふ日向の生目八幡社の祭禮が、三月と九月の十七日であつたゞけは(五) 多分偶合では無からうと思ふ。それから鎌倉の御靈社の祭禮は、九月十八日であつた(六) 上州白井の御靈宮緣起には、權五郎景政は康治二年の九月十八日に、六十八歳を以て歿すと謂つて居る。

[やぶちゃん注:「八島」世阿弥作の「平家物語」に取材した謡曲で複式夢幻能・修羅能の名作とされる。ウィキの「八島」によれば、旅の僧が讃岐八島(現在の高松市の東北に位置する南北に長い台地)の浦で『漁師にであう前段、漁師がきえた後、僧がその不思議を土地の住人にたずねる間狂言部分、主人公義経が生前の姿であらわれる後段の三部構成をとる』とある。より詳しい梗概はリンク先を参照されたい。

「義經の亡靈が昔の合戰日を敍して元曆元年三月十八日の事なりしにと言つて居る」元曆元年はユリウス暦一一八四年であるが、実際の屋島の戦いは翌元暦二年/寿永四年の二月十九日(一一八五年三月二十二日)に行われている。

「舞の本の景淸が淸水の遊女の家で捕はれた」平家の遺臣藤原悪七兵衛景清が信仰していたのが京の清水寺の観音菩薩であったが、清水坂近くの馴染みの遊女阿古王(あこおう)に密告されて捕縛されてしまう。

「賽日」「さいにち」。ここは広く神仏に御礼参りをする日のこと。

「日向の生目八幡社」現在の宮崎県宮崎市大字生目小字亀井山にある生目(いきめ)神社。景清公を主祭神とする。詳しくはウィキの「生目神社」を参照されたい。

「鎌倉の御靈社の祭禮は、九月十八日」現在も奇祭面掛行列を含む例祭は九月十八日に行われている。

「上州白井の御靈宮」「神片目」で推定した群馬県伊勢崎市太田町にある五郎神社のことか。

「權五郎景政は康治二年の九月十八日に、六十八歳を以て歿す」康治二年は一一四三年。逆算すると承保三(一〇七六)年生まれとなる。「奥州後三年記」で十六歳の頃、後三年の役(一〇八三年 ~一〇八七年)に従軍したことになっているのからはズレが生ずる。]

 私は今少しく此例を集めて見ようとして居る。若し影政影淸以外の諸國の眼を傷けた神神に、春と秋との終の月の缺け始めを、祭の日とする例が尚幾つかあつたならば、歌聖忌日の三月十八日も、やはり眼の怪我といふ怪しい口碑に、胚胎して居たことを推測してよからうと思ふ、丹後中郡五箇村大字鱒留に藤社(ふじこその)神社がある、境内四社の内に天目一社があり、祭一は天目一箇命といふ。さうして此本社の祭日は三月十八日である(七) 今まで人は顧みなかつたが、祭の期日は選定が自由であるだけに、古い慣行を守ることも容易であり、之を改めるには何かよくよくの事由を必要とし、且つそんな事由は度々は起らなかつた。故に社傳が學問によつて變更せられた場合にも、是だけは偶然に殘つた事實として、或は何物かを語り得るのである。

[やぶちゃん注:「後中郡五箇村大字鱒留に藤社(ふじこその)神社がある」現在の京都府京丹後市峰山町鱒留に現存する。名前は勿論、非常な古社である点など、かなり興味深い神社である。Kiichi Saito氏のサイト「丹後の地名・資料編」の鱒留ますどめ) 京丹後市峰山町鱒留の考証が非常に興味深い。]

(一) 大同二年八月二十四日卒すといふ説は、何の書にあるかを知らぬが、滑稽雜談と閉窓一得とに之を引用して居る。共に一千年忌より少し前に出來た本である。鹽尻卷四七には此年七月十日、竹生島に人丸の靈を崇むとある。大同二年は寺社の緣起や昔話に最も人望のある年であつたことは誰でも知つて居る。

[やぶちゃん注:「鹽尻」「しほじり(しおじり)」は江戸中期の随筆。国学者天野信景の著を、天明二(一七八二)年に尾張藩士で国学者・俳人でもあった堀田方旧(ほったまさひさ)が編んだもの。 全百巻。元禄から宝永頃に著者が和漢古今の書を引用して史伝・神仏の由来・地理・言語・風俗などについて広汎に渉猟・考証したもの。

「大同二年は寺社の緣起や昔話に最も人望のある年」ウィキの「807に、『円仁や空海、坂上田村麻呂に関連した伝承で、この年号がよく使われる。空海が日本に帰国した年がこの年と言われることも多いが、史実としてはっきりとしない』とあり、また、『東北各地の神社の創建に関する年号はこの年とされる。茨城県の雨引千勝神社の創建はこの年である。早池峰神社、赤城神社なども同様である。また福島県いわき市の湯の嶽観音も、この年の』三月二十一日に『開基されたとある。清水寺、長谷寺などの寺院までこの年に建てられたとされ、富士山本宮浅間大社も、大鳥居の前に堂々と大同元年縁起が記載されている。香川県の善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上がこの年である。各地の小さい神社仏閣にいたるまで枚挙にいとまがないほど』、大同二年『及び大同年間はそれらの創建にかかわる年号である』とある。]

(二) 日次記事三月十八日の條には、古いへ官家御影供を修す、今に於て和歌を好む人々、多く斯日歌會を修すとある。徹書記物語はまだ讀む折を得ないが、更に三百年前の書であるのに、やはり昔は此日和歌所にて歌會があつたと記して居るさうだ。

[やぶちゃん注:「日次記事」「ひなみきじ」と読む。江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書。十二巻。儒学者で医師であった黒川道祐(くろかわどうゆう)の編で、延宝四(一六七六)年の林鵞峰(はやしがほう)の序がある。月ごとに日を追って、節序・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立て、行事の由来や現況を解説してある。

「御影供」「みえく」「みえいく」などと読む。一般には仏教での儀式名で、祖師の命日にその図像 (御影) を掲げて供養する法会(ほうえ)。代表的なものに真言宗祖弘法大師御影供があり、毎月二十一日に行う法会を「月並御影供」、三月 二十一日の法会を「正(しょう)御影供」というが、ここは明らかに歌聖柿本人麻呂の図像を掲げて行う歌道のそれである。

「斯日」「そのひ」文庫全集版に準じて、かく訓じておく。

「徹書記物語」「てつしよきものがたり」は歌論書「正徹物語(しょうてつものがたり)」のこと。二巻。前半(「徹書記物語」とも)は室町中期の臨済僧で歌人としても知られた正徹自身が、後半は弟子の聞書と考えられている。文安五(一四四八)年頃又は宝徳二(一四五〇年)頃の成立。歌論と歌話を集成したもので、藤原定家に対する傾倒が著しく、その幽玄論は重要な影響力を持った(ウィキの「正徹物語に拠った)。]

(三) 但し何故に三月の十八日が、觀音にさゝげてあるかは私にはまだ明白でない。

(四) 郷土研究四卷三〇二頁。

(五) 太宰管内誌に依る、但し和漢三才圖會には此地に景淸の墓あり、水鑑景淸大居士建保二年八月十五日と記すとある。八月十五日は八幡社放生會の日である、熱田の景淸社も例祭は九月十七日である。

[やぶちゃん注:「太宰管内誌」福岡の鞍手郡古門村古物神社の神主伊藤常足が天保九(一八三八)年に完成させた、九州及び壱岐・対馬の地誌。全八十二冊。

「建保二年」一二一四年。これはお話にならない。]

(六) 但し景政で無い京都の上下御靈も、有名なる御靈會の日は昔から八月十八日であつた。大阪の新御靈は鎌倉から迎へたといふが、祭禮は九月二十八日であつた。

(七) 丹後國中郡誌稿。

[やぶちゃん注:「丹後國中郡誌稿」大正三(一九一四)年京都府丹後国中郡役所編。]

2016/06/26

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 目録 / 蠐螬 乳蟲

 

和漢三才圖會卷會第五十三之四目録

  卷之五十三

   化生蟲類

[やぶちゃん注:以下、底本は罫附きの三段で、縦一列の項目の次が次行に続く形となっているが、ここでは一段で示す。和名はルビ風に扱い、下にポイント落ちでつくそれは同ポイントで示した。]

 

蠐螬(すくもむし) きりうじ

蝎(きくいむし)

蠋(はくひむし) 芋虫(イモムシ)

蚇蠖(しやくとりむし)

螟蛉(あをむし)

腹蜟(にしどち)

蟬(せみ)

蚱蟬(むませみ)

蟬獺蛻(せんぜい)

蟪蛄(くつくつはうし)

茅蜩(ひぐらし)

田鼈(たがめ) かうやひじりむし

蜣蜋(せんちむし)

蜉蝣(せんちばち)

天漿子(くそむし)

天牛(かみきりむし)

螻蛄(けら)

螢(ほたる) 蠲(ツチボタル)

衣魚(しみ)

(よなむし) こくうそう

(おめむし)

鼠婦(とびむし)

蜚蠊(あぶらむし) 五噐嚙(ゴキカフリ)

行夜(へひりむし)

竈馬(いとど)

莎雞(きりきりす)

蟋蟀(こほろぎ)

螽斯(はたをり)

蠜螽(ねぎ)

𧒂螽(いなご)

蝗(おほねむし)

蟿螽(はたはた)

松蟲(まつむし)

金鐘蟲(すゞむし)

鑣蟲(くつはむし)

吉丁蟲(たまむし)

金龜子(こがねむし)

叩頭蟲(こめふみむし) こめつきむし

蚉蚉(ぶんぶん)

(あぶ)

蚊(か) 蟭螟(セウメイ)

孑孑(ぼうふりむし)

[やぶちゃん注:正確には下の「孑」は最後の一画が左下から右下へのだんだん太くなる(はらい)である。]

蚋子(ぶと)

竹蝨(やふじらみ)

蠛蠓(かつをむし)

蚤(のみ)

蓑衣蟲(みのむし)

守瓜(うりはへ)

菊虎(きくすひ)

 

  卷之五十四

   濕生蟲類

蟾蜍(ひきかへる) 蟾酥(センソ)

蝦蟇(かへる)

蛙(あまかへる)

蝌斗(かへるのこ)

田父(へびくいかへる)

蜈蚣(むかて)

百足(をさむし)

度古(とこ)

蚰蜒(げぢげぢ)

蠼螋(はさみむし)

蚯蚓(みゝず)

蝸牛(かたつむり)

蛞蝓(なめくぢ)

蜮(いさごむし) 鬼彈(きだん)

沙虱(すなしらみ)

水馬(かつをむし)

鼓蟲(まひまひむし)

(みから)

[やぶちゃん注:「」=「虫」+「魯」。]

砂挼子(ねむりむし)

蚘(人のむし)

唼臘蟲(しびとくらいむし)

(しびとくらいむし)

 

 

 

和漢三才圖會卷五十三

     攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

  化生類

Sukumomusi

すくもむし  1蠐 2蠐

きりうじ   乳齋  應條

蠐螬    地蠶

       【和名 須久毛無之】

【唐音】

 ツイツア

[やぶちゃん注:「1」=「虫」+「賁」。「2」=(上)「肥」+(下)「虫」。]

 

本綱蠐螬狀如蠶而大身短節促足長背有毛筋以背滾

行乃駛於脚生樹根及糞土中者外黃内黒生舊茅屋上

者外白内黯皆濕熱之氣熏蒸而化生復從夏入秋蛻而

爲蟬

按蠐蝤今俗呼名賀登者也栗根及薯蕷下多有之大

 抵寸半許似蠶而腰畧細足畧長背有皺筋以背滾行

 蛻而爲蟬但不有毛耳

一種生田園糞土中食斷草木根多爲害者俗呼名木里

 宇之其形似蠶而肥皀色或灰白或赤褐色短足大小

 不一常圓屈而如猫蟠臥狀

 

[やぶちゃん注:ここに縦罫。]
 
 

   【一名土蛹】

乳蟲

 

本綱掘地成2以粳米粉鋪入2中蓋之以草壅之以糞

[やぶちゃん注:「2」=(あなかんむり)+「告」。]

候雨過氣蒸則發開而米粉皆化成蛹如蠐螬狀取蛹作

汁和粳粉蒸成乳食味甘美補虛益胃氣明目又置黍溝

中即生蠐螬亦此類也

 

 

すくもむし  1蠐〔(ひせい)〕   2蠐〔(ひせい)〕

きりうじ   乳齋〔(にゆうせい)〕  應條〔(わうじやう)〕

蠐螬    地蠶〔(ちさん)〕

       【和名、「須久毛無之〔(すくもむし)〕」。】

【唐音】

 ツイツア

[やぶちゃん注:「1」=「虫」+「賁」。「2」=(上)「肥」+(下)「虫」。]

 

「本綱」、蠐螬は狀〔(かたち)〕、蠶のごとくして大きく、身、短く、節、促(つま)り、足、長く、背に毛筋、有り。背を以て滾(まろ)び行(ある)く。乃ち、脚より駛(はや)し。樹の根及び糞土の中に生ずる者は、外、黃にて、内、黒し。舊(ふる)き茅(かや)の屋の上に生ずる者は、外、白く、内、黯(うる)む。皆濕熱の氣、熏蒸して化生す。復た、夏より秋に入り、蛻(もむけ)して蟬(せみ)と爲る。

按ずるに、「蠐蝤〔(すくもむし)〕」、今、俗に呼んで「賀登〔がと〕」と名づくる者なり。栗の根及び薯蕷(やまいも)の下に多く之れ有り。大抵、寸半許〔り〕、蠶に似て、腰、畧(ち)と細く、足、畧〔(ち)と〕長し。背に皺(しは)筋、有り、背を以て滾(まろば)し行〔(ある)〕く。蛻〔(もむけ)〕して蟬と爲る。但し、毛、有るに〔あら〕ざらるのみ。

一種、田園・糞土の中に生じ、草木の根を食ひ斷(き)り、多く害を爲す者、俗に呼んで「木里宇之(きりうじ)」と名づく。其の形、蠶に似て肥へ、皀〔(くろ)〕色、或いは灰白、或いは赤褐色にして、短き足。大小、一つならず。常に圓屈して、猫蟠(わだまま)り臥(ふ)す狀〔(かたち)〕のごとし。

 

[やぶちゃん注:ここに縦罫。]

 

  【一名、「土蛹〔(どよう〕」。】

乳蟲〔(にゆうちゆう)〕

 

「本綱」、地を掘りて窖(あなぐら)を成す。粳米〔(うるちまい)〕の粉〔(こ)〕を以て窖の中に鋪〔(し)き〕入〔れ〕、之れを蓋〔(おほ)〕ふに草を以てし、之れを壅(ふさ)ぐに糞(あくた)を以〔てし〕、雨、過〔ぎ〕、氣、蒸(む)せるを候〔(ま)ち〕て、則ち、發-開〔ひら〕けば、米〔(こめ)〕の粉、皆、化して蛹〔(さなぎ)〕と成り、蠐螬(すくもむし)の狀〔(かたち)〕のごとし。蛹を取りて汁と作し、粳粉〔(うるちこ)〕に和(ま)ぜて蒸して乳食〔(にゆうしよく)〕と成す。味、甘美。虛を補し、胃の氣を益す。目を明にす。又、黍〔(きび)〕を溝の中に置けば、即ち、蠐螬を生ずるも亦、此の類ひなり。

 

[やぶちゃん注:良安の附言の冒頭は「蠐螬」ではなく、「蠐蝤」であるが、実はどちらも少なくとも現在の中国語では同一の生物を指していることが判ったのでママとした(東洋文庫版現代語訳は読者の困惑を考慮してか、「蠐螬」に変えてあるけれども、注もなく、褒められた仕儀ではない)。これは所謂、「地虫」、本邦では主に、

鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属 Mimela に属するコガネムシ類の幼虫

を指す。和名「すくもむし」の「すくも」とは、古くから、葦や萱(かや)などの枯れたものや、藻屑、葦の根などを指したようだが、語源は不明である。

 

・「黯(うる)む」黒ずんでいる。

・「濕熱の氣、熏蒸して化生す」トンデモ化生説であるが、そもそもこの種以降は「本草綱目」では化生(かせい:ある物質や生物が形を変えて全く別個な生物として生まれ出ること。「けしやう(けしょう)」と読む場合は厳密には仏教用語となり、自分の超自然的な力によって忽然と生ずることを意味し、天人や物怪の誕生、死者が地獄に生まれ変わることなどを指すが、中国本草ではそれらがやや混淆しており、本邦ではそれがまた一段と甚だしく、ここでも良安は「けしょう」と読んでいる可能性もあるのであるが、私個人は仏教用語と本草学用語を区別するため、本書のそれは仏教用語と限定出来る用法以外は、卵生・湿生・胎生と併せて「かせい」と読むことにしている)類なのである。

・「蛻(もむけ)して蟬(せみ)と爲る」半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科 Cicadoidea の蟬類の幼虫は、太く鎌状に発達した前脚で木の根に沿って穴を掘り進み、長い口吻を木の根に差し込んで根の道管から樹液を吸って成長するが、このヒトが「根切り虫」と称して俄然、害虫とする類いとは異なり、甚大な樹木被害を起こすとは思われない。そもそもが蟬ではない上に、こういう冤罪を書かれては、蟬も立つ瀬がなく、小便の一つもひりたくなるではないか!

・「賀登〔がと〕」「日本国語大辞典」に『昆虫「じむし(地虫)」の異名』とし、「丹波通辞」に『蠐螬(すくもむし) がと』と出るという記載がある。同書は作者不詳で明治三七(一九〇四)年刊の方言語彙集らしい。しかし、本書完成の正徳二(一七一二)年にはかく呼ばれていた事実があるのだから、この引用例よりも本篇部分を出すべきであろう。

・「薯蕷(やまいも)」単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica の自生種。

・「寸半」四・五センチメートル。

・「毛、有るに〔あら〕ざらるのみ。」要するに、毛が生えていない、というのであるが、これは何を説明しているのかと言えば、当然、蟬(普通のどんな種でも外骨格のセミにはぼうぼうと毛なんぞ生えてはおらぬ)ではなくて、幼虫のことである。毛虫とちゃう、ということか。にしてもこんな最後に突然それを言うのは、はっきり言って「ヘン」。この訓点(送り仮名)も何だかひどく「ヘン」なので迂遠にも括弧の部分を補わざるを得なかった。

・「木里宇之(きりうじ)」「根切り蛆」の謂いであろう。

・「常に圓屈して、猫蟠(わだまま)り臥(ふ)す狀〔(かたち)〕のごとし」この観察、気に入りました、良安先生。

・「乳蟲〔(にゆうちゆう)〕」実際にある歳時記に「乳虫(にゅうちゅう)」を挙げて、地虫の類いを言うらしいとあったから、相応に古くから本邦でもこういう別名で呼ばれていたらしいことが、この記載からも判る。以下の解説とは別に、白い幼虫のそれはかく呼ぶんで自然な気はする。

・「粳米〔(うるちまい)〕」米飯用として用いられる普通の米。「粳(うるち)」とは米・粟・黍などの穀類の中でも、その種子を炊いた際、粘り気の少ない品種を広く指す語である。

・「糞(あくた)」「糞」は排泄物以外に広く、「垢(あか)」とか「滓(かす)」の意味(「目糞」「鼻糞」の類い)があるので、こうした訓を振り、腐葉土などの意味で用いても、なんらおかしくはない。

・「雨、過〔ぎ〕、氣、蒸(む)せる」雨期(本邦の梅雨)終了の直後。

・「候〔(ま)ち〕て」待って。「候(うかが)ひて」と訓じることも出来る。

・「米〔(こめ)〕の粉、皆、化して蛹〔(さなぎ)〕と成り」ここもまた、トンデモ化生説。

・「乳食」ミルク状の食物の意。

・「虛」漢方で広く健全なる気力や精気が消耗している状態を指す。]

サイト「鬼火」開設11周年記念 芥川龍之介「奉教人の死」自筆原稿やぶちゃん注 附・岩波旧全集版との比較

芥川龍之介「奉教人の死」自筆原稿やぶちゃん注 附・岩波旧全集版との比較

 

[やぶちゃん注:本日公開した『芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)』(底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像)について私のオリジナルな注である。当該自筆原稿は朱の校正記号が入った決定稿(一頁目の右上罫外に朱で『二』とあるから、二校目であろう)であり、大正七(一九一八)年九月一日発行『三田文学』初出版の原稿と推定されるが、岩波旧全集の「後記」の初出についての異同記載とかなりよく一致はするものの、このままならば、その岩波旧全集の異同記載に出るべき箇所が出ていないものもあることから、ゲラ刷りで手が加えられている可能性が高い。それも踏まえて、岩波旧全集版との比較も一部で行った(細かな表記違いや読点・ルビの有無などは、よほど読み違えたり内容に関わらぬ限り、問題としなかった。私が注するのは私の気になるところであって、退屈な書誌学的校合ではないので悪しからず)。

 【 】の番号は電子化した自筆原稿の頁番号で、以下の行頭の裸のアラビア数字は当該原稿用紙(一枚十行)の各行数を示す。

 歴史的仮名遣の誤りなどは煩瑣なので、一切、挙げてない。

 この注では本格的な語注をする積りは基本的にはなかったが、朗読上の便宜としての注や、聴き慣れぬ切支丹用語の原語など、また、若い読者に誤読或いは誤植と誤認されそうな語句や箇所には煩を厭わず注することとした結果、語注とほぼ同じものとなった。

 なお、本電子テクストはブログ版『芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)』と併せて、私のサイト「鬼火」開設の11周年記念としてブログにアップすることとした。【2016年6月26日 藪野直史】]

 

【1】

右上罫外 朱で「二」。決定稿二校目の謂いであろう。

1 右罫部に朱校正(筆跡が異なり、校正工による記入と思われ、芥川龍之介のものではない)で「二行アキ」。

2 標題は有意に大きく書かれてある。朱校正で「3」ポイントの指示。言わずもがなであるが、「奉教人」(ほうけうにん(ほうきょうにん))とは広くキリスト教徒の意。

4 右罫部に朱校正で「二行アキ」。署名はマスからはみ出すやや大きめのサインであるが、よく見ると、下に一度、署名したものを削ったような跡があるのがやや不思議である。

6 「齡」「よはひ」(よわい)と読む。以下、読みのみ示す場合はこの附言は略す。なお、私が読みを附すのは私の朗読の便のためである。――私はかく読む――という表明のためである。

8 「夢幻」「ゆめまぼろし」。

8 「慶長訳 Guia do Pecador」の前後に朱校正で丸括弧。「ギヤ・ド・ペカドル」は「罪人を善に導く」の意。スペインのドミニコ会司祭ルイス・デ・グラナダ(Luis de Granada 一五〇四年~一五八八年)著のキリシタン版日本語抄訳本で二巻。漢字ひらがな交りで、救霊や修徳を説く。慶長四(一五九九)年刊。「ぎやどぺかどる」「勧善抄」など呼ばれて日本の切支丹に広く読まれた。

9 朱校正で「一行アキ」。

10 「御教」は「みをしへ」(みおしえ)、「甘味」は「かんみ」であろう。

 

【2】

1~2 「慶長訳 Imitatione Christi」の前後に朱校正で丸括弧。“De imitatione Christi”は「キリストに倣(なら)いて」と訳される。原著は中世ドイツの神秘思想家トマス・ア・ケンピス(Thomas à Kempis 一三八〇年~一四七一年)の著わした信仰の書で、クリスチャンの霊性の本として聖書に次いで最も読まれた本であるとも言われる。筑摩全集類聚版の脚注によれば、『コンテンス・ムンヂ(Contenpus Mundi 厭世経)と題し、抄訳された。現在知られているのは、慶長元』(一五九六)年『天草(?)学林刊のローマ字本と、慶長』一五(一六一〇)年の『京都原田アントニヨ印刷所刊の漢字』ひらがな交りの二書である、とする。

3 「一」の下に朱校正で「五ゴシツク三行中央」。

4 「去んぬる」筑摩書房全集類聚版など、多くは「さんぬる」と読み、辞書でもその読みが先行するが、私は断然、「いんぬる」と朗読する。

4 『或「えけれしや」』は、岩波旧全集版(以下、「現行版」と称する。私は新字体採用の岩波新全集版を「現行版」としては認めない謂いでもある)では『「さんた・るちや」と申す「えけれしや」』という教会の固有名が附加されている。これは岩波旧全集後記によれば、『改造』初出でも本原稿と同じく、「さんた・るちや」は全篇一貫して教会の一般名詞である「えけれしや」で通されている、とある。ポルトガル語“ecelesiaで「教会」「聖堂」の意。因みに「さんた・るちや」の方は筑摩全集類聚版の脚注によれば、“Santa Lucia で『イタリアのナポリ市の守護神の名。ここでは教会の名』とある。

5 ここに初出する本原稿での主人公の名(クリスチャン・ネーム)「ろおらん」は、現行では全篇一貫して「ろうれんぞ」である。これは岩波旧全集後記によれば、『改造』初出でも本原稿と同じく、「ろおらん」で通されているとある。綴りは“Laurent”か。

5~6 「伴天連」「ばてれん」。ポルトガル語“padre”で「父」「神父」「司祭」。日本に渡来したカトリックの宣教師の称。パードレ。

6 「御降誕」「ごかうたん」(ごこうたん)。

9~10 「なつたげでござる」まさにそのようになったのだそうで御座いますが。「げ」は如何にもそうした様子や状態になる、の意の接尾語。

 

【3】

1 実は原稿では、冒頭に「何時(いつ)も」とあるのであるが、これは丸く囲まれて(芥川龍之介の指示。本部と同色のインクである)二行目の「事もなげな」の頭に移すように矢印で指示されてある。電子化ではその指示に従ったもので示してある。なお、このルビ「いつ」は現行版には振られていない。作者が附したルビの有無はここでは原則、問題にしないが、作家の著作物のルビはこの当時、殆んど校正工が勝手に振っていたのが実情で、泉鏡花のような特異な作家以外は総ルビを原稿で附ける作家はまず極めて少ない。逆に、この「いつ」などもそうだろうと思われるが、後の全集などでは不要と思われるルビを編者が勝手に取捨選択してしまう。実は我々はこうした自筆原稿に対峙するという稀な経験のみに於いて、原作者が実はここだけはどうしてもかく読んで欲しい、ルビを振りたい、と考えていたものに触れることが可能となるという驚くべき現実を知るべきであると思う。

1 『「はらいそ」(天國)』ポルトガル語“paraiso”。

1~2 『「でうす」(天主)』ポルトガル語“Deus”。元はラテン語の男性単数主格であるから厳密には広汎に一人の男神を指すが、切支丹用語ではキリスト教の唯一神を指す。

2 「紛らいて」「まぎらいて」。

4 『「ぜんちよ」(異教徒)』ポルトガル語“genntio”。キリスト教から見たの意の、限定義であるので注意!

4 「輩」「やから」。

5 「靑玉(あをだま)」サファイア或いはそれに似た青色の装飾用の玉石。

5~6 『「こんたつ」(念珠)』ポルトガル語“contas”。ポルトガル語で「数える」の意。カトリック教会に於いて聖母マリアへの祈りを繰り返し唱える際に用いる、十字架やメダイ・キリスト像などのついた数珠状の祈りの用具である、ロザリオ(ポルトガル語:rosário・ラテン語:rosarium)のこと。本邦では十六世紀にイエズス会宣教師によって伝えられたが、以後の隠れ切支丹の時代まで永く「こんたつ」(マリア賛礼の「アヴェ・マリア」(ラテン語:Ave Maria)の祈禱を口にした数を数えるもの)と呼ばれてきた。「念珠」は「ねんじゆ」(ねんじゅ)でよかろうが、朗読では本文を聴者に持たせている場合は、この本文同ポイント内の割注丸括弧は総て省略して読むのがよい。

7 『「いるまん」衆(法兄弟)』ポルトガル語“irmão”。イエズス会の修道者の中で司祭職パードレを補佐する者を指す。

8 「扶持」「ふち」。助けること。生活を扶助すること。

9~10 『「すぺりおれす」(長老衆)』ポルトガル語“superiores”。教会内での名誉職(複数形)。

 

【4】

1~2 「あらうず」意味は「~であるのだろうよ」ですんなり腑に落ちるが、この「ず」は文法的に何かと考え出すと、私のような文法嫌いははたと困ってしまう。まず考えるのは推量・意志の助動詞「ず」(「むとす」推量の助動詞「む」の終止形+格助詞「と」+サ変動詞「す」)の短縮した助動詞「むず」の「む」の撥音便「ん」無表記となったもの)であるが、とすると「あらう」とダブることになり文法構造上ではおかしく、中止法のように「~であるし」の意で用いる接続助詞「ず」もピンとこない。前者の正統な用法(「今にも~となりそうな感じである」(推量)「敢えて~しようとする」(意志))は以下の文中でもしばしば見られることから、私はこれは、芥川龍之介がこの作品のために、前者のダブりを厭わずに創成した特殊な言語ではなかろうかとも考えている。国語学の識者の御意見を乞うものではある。

5~6 本作の大きなポイントである「ろおらん」の最初の具体な顔の描出に龍之介が念を入れているのがよく判る、有意な改稿部である。初案の「天童の生れかはりと云はれても僞ない程」という如何にもな朧化をやめて、「顏かたちも玉のやうに淸らかであつたに」としたが、累加の係助詞「も」は伏線のバレが気になったかと思しく、「顏かたちが」と平素な格助詞に替え、改めてその累加分を「声ざまも女のやうに優しかつたれば」の「も」で順序立てて、しかも伏線を匂わせたのである。しかしその匂わせは九行目の「弟のやうに」で強く抑止されるようにも仕組んであるのである。

8~9 「しめおん」“Simeon”。

10 「必」「かならず」。

 

【5】

3 「性得」「しやうとく」(しょうとく)。

3~4 「剛力」「がうりき」(ごうりき)。

5 「石瓦」「いしがはら」(いしがわら)。

7~8 初案の「荒鷲になづむ鳩」と決定稿の「鳩になづむ荒鷲」を比べてみると、私は面白いと思う。そもそも次に並置される「檜」と「葡萄(えび)かづら」の比喩関係の対表現を考えるならば逆であって、寧ろ「荒鷲になづむ鳩」の方が自然と言える。ところがそれを敢えてかくしたところに上手さがある。それは表現上の捻りといよりも、ここの後者は主体を「しめおん」にずらしてあって読者の視線は男らしい彼に向かい、それに寄り添う弟のような少年性が高まる。ところが前者では「鳩」に読者の意識が向かって、その「鳩」のシンボライズする女性性の方が遙かに露わになってしまい、伏線のバレが気になってくるからである。「檜」と「葡萄(えび)かづら」(バラ亜綱クロウメモドキ目ブドウ科ブドウ属エビヅル Vitis ficifolia 。通称は山葡萄(やまぶどう))は植物比喩で「花」の女性性はあるものの、動物よりはるかに性シンボルとしては弱くなるから問題ない。「花」はまた、若衆道のステロタイプでもあるから、却って安心でさえあるとも言える。

8 「ればのん」は現行版では『「ればのん」山』である。この異同は岩波旧全集には、示されていない。この後のゲラ校正で追加されたものか? “Lubnān”で、聖書に出るパレスチナの山脈名。

 

【6】

1 「三年」「みとせ」。筑摩全集類聚版に従う。

2 「年月」「としつき」。同前。

5 「ろおらん」に懸想する娘は初案では「鍛冶の娘」だったものが「傘張」(かさはり)屋の娘に変えられたことがここで判明する。原稿【19】では修正なしで「傘張」が出るところを見ると、この決定稿執筆の途中(原稿【7】が同修正の最後であるが、【8】から【18】までは彼ら(娘・翁)の記載や登場シーンがない)、全48枚の原稿の三分の一ぐらいまで書いたところで、意図は不明乍ら、「傘張」に変更したことが窺われる。

6 「翁」「おきな」。

10 「出入り」「ではひり」(ではいり。)筑摩全集類聚版に従う。

 

【7】

9 「白ひげ」「しらひげ」。筑摩全集類聚版に従う。

 

【8】

3 「頭(かしら)」は現行版にはルビがない。向後、「あたま」と読み継がれてしまうであろう。

5 冒頭に述べた通り、この注では語注をする積りは基本的にはない。ないが、しかし、この「年配」は書き加えでもあり、気になる。この場合はこれは「ある範囲内に含まれる年頃」の謂いであって、後が「信心」なのであるから、およそ女にうつつを抜かすといった色気を持つような年齢には未だ届いていないということを意味していると私は採る。この時代で、一般に少年が強い色気を持たぬように見える年齢の上限とすれば、満で十一、二歳が限度であろうか(中世・近世初期までの元服年齢を一つの基準値としてである)。ただそれでは傘張りの娘が懸想するにはやや若過ぎるし、子を孕ませたと周囲が信ずるのももちとおかしい。今少し挙げて、満十四、五か。既に【6】で『「ろおらん」はやがて元服もすべき時節となつた』とあった。概ね、この時代の男子の元服年齢は数えの十五であったのと一致する。では「ろおらん」は事実、それくらいだったかというと、それは分からぬ。「ろおらん」は見た目は実年齢より幼く見えた可能性が高い。そもそも最後に胸が露わになって老伴天連がはっとするというシーンを考えれば、当時の第二次性徴と栄養状況などから勘案しても、今少し一,二歳年齢が上であってもよいかも知れぬ。孰れにせよ、「ろおらん」は年高く見積もっても(「ろおらん」の「えけれしや」追放からコーダの死までは凡そ一年とある)満十七、八歳になるかならぬかで、天に召されたものと読んでよかろうと思う。

8 この改行は原稿にある朱校正で「行ヲ新ニセヨ」によってかく改行したもので、実際には七行目に繋がっている。これは芥川龍之介の直接の指示したものかも知れない(赤い色が他の朱校正と異なり、改行指示記号も如何にも素人っぽいからである)。

9 「とかうの沙汰」とやかく、やかましい噂。

 

【9】

2 「淫な」「みだらな」。

4 「まさかとは」これも語釈になるが、若い人のために敢えて注する。これは呼応の副詞で下に打消を伴って、打消推量・打消意志の強調形(取り立ての係助詞「は」も含めて)で、「よもや」「とてものことに」「どうしても」の謂いである。

5 「後」「うしろ」。

6 抹消の「が薔薇」はこの場面を具体に描こうとした雰囲気が匂う。薔薇の鼻の庭の「ろおらん」と「しめおん」の印象的な「えけれしや」の薔薇の植わった裏庭のシークエンスを、もう少しだけ覗いて見たかった気がする。

8 「嚇しつ賺しつ」「おどしつすかしつ」。

10 「私」は本篇ではすべて「わたし」と読みたい。

 

【10】

4 「問ひ詰つた」「とひなじつた」。詰問した。

7 「部屋を出つて行つて」は何と読むのか、ちょっと困る。現行版は「部屋を出て行つて」であるが、これについて岩波旧全集後記には、後の作品集「沙羅の花」(大正一一(一九二二)年八月改造社刊では、ここが『部屋を出(た)つて行つて』とルビされているとあり、後の作品集「報恩記」(大正一三(一九二四)年十月而立社刊・歴史物語傑作選集)及び「芥川龍之介集」(大正一四(一九二五)年四月新潮社刊・現代小説全集第一巻)によって「部屋を出て行つて」を採用した旨の記載がある。ルビもないし、「つ」は衍字の可能性もありそうではあるが、暫くは「たつていつて」(たっていって)を採用したい。

 

【11】

3 『「しめおん」の頸を抱くと』現行版の、

  『「しめおん」の頭を抱くと』

(「頭」は先例に徴せば「かしら」と訓じる)ではかなり奇異な感じを受ける。というか、

おかしいだろ?!

岩波旧全集後記には、後の作品集「戯作三昧」(大正一〇(一九二一)年九月春陽堂刊・ヴェストポケット傑作叢書)は、

  『「しめおん」の顏』

とし、死後の刊行になる岩波の普及版全集では、

  『「しめおん」の「頸(うなじ)』

となっている、とある。それ以外、初出を始めとして、総て「頭」なのである!

「顏」はやばいぞ!

感覚的に最もしっくりくるのは「頸(うなじ)」以外には、ない!

ここは「ろおらん」と「しめおん」二人が肉体的に強く接触するただ一度の大事なシーンなだけにずっと「頭」が気になっていたのである。

今回、自筆当該原稿同字を拡大してよく見てみると、

(つくり)は「頁」であるが、(へん)は「豆」ではなく、明らかに上部に三本の縦線様の筆致が見られ、芥川龍之介自身ちゃんと「頸」と書いていたことが判明した

のである!

要は初出『改造』の誤植に過ぎなかったのだ!

それがずっとこの気持ちの悪いままに底本本文化されてきてしまったのだ!

加えて、初出で龍之介自身も誤植に気づかなかったことが、さらに状況の悪化に拍車をかけた。なお、普及版はこの自筆原稿を見てまさに正しく直したのであった(しかしその経緯を細かに記載して残さなかったのが不運)が、それを次の岩波の全集(私の言う旧全集)の編者は元に戻してしまった。これがまたまた新たな不幸の繁殖の始まりとなったのであった(私は新字採用の新全集は三冊しか所持しないのでここがどうなっているかは知らない。当然、「頸」に正されて「うなじ」と振っているであろう)。目から鱗、頭から頸が落ちたわ!

4 「喘ぐ」「あへぐ」(あえぐ)。

 

【12】

1~2 「一円」ここは呼応の副詞で下に打ち消しの語を伴って、「全然~(ない)」「一向に~(せぬ)」の意。

2 「合點」「がてん」。

4 「後」「ご」。「のち」では間延びして、よくない。筑摩全集類聚版も「ご」と振る。以下も原則、そう読む。

10 「かつふつ」呼応の副詞で、後に打消の語を伴い、「まったく~(ない)」「まるで~(しない)」。

 

【13】

3~4 「伴天連の手もとをも追ひ拂はれる」は、現行では「伴天連の手もとを追ひ拂はれる」と「も」がない。これは作品集『傀儡師』(大正八(一九一八)年一月新潮社刊・芥川龍之介第三作品集。リンク先は私の作成したバーチャル・ウェブ復刻版)を底本としたためである。

4 「糊口のよすが」生きるために食い物を手に入れるよりどころ。

6~7 『「ぐろおりや」(榮光)』ポルトガル語“Gloria”。

 

【14】

4 「凩」「こがらし」。

5 「傍」「かたはら」(かたわら)。

6 「拳」「こぶし」。

9~10 ここは数少ない、「ろおらん」の台詞で、しかも神に向かって願う祈請であるから、現行の、

『御主も許させ給へ。「しめおん」は、己が仕業(しわざ)もわきまへぬものでござる』

(「己」は「おの」と読む)もよいけれど初案、

『御主も許させ給へ。兄なる「しめおん」は、なす所を知らざれば。』

も捨てがたい。初案はまるで聖書のイエスの言葉のように私には聴こえるからである。

 

【15】

2 「挫けた」「くじけた」。

3 「空」「くう」。

4~5 「とりないたれば」とりなしたので。なかに入って「しめおん」をなだめ、仲裁したので。

5 「束ねて」「つかねて」腕組みをして。

 

【16】

1 「頭」これは前例に徴せば、「かしら」であるが(筑摩全集類聚版はそう振っている)、どうもしっくりこぬ。個人的な感覚からここは私は「かうべ」(こうべ)と訓ずる。

9 「穢多(えとり)」の歴史的仮名遣は「ゑとり」が正しい。現行版は作品集「傀儡師」に基づいているので(以後、この前振りは略す)、「ゑとり」と漢字を排除して平仮名表記となっている。「餌取り」で元来は鷹・猟犬などの餌にするために牛馬などを屠殺し、またその牛馬の皮革や肉を売ることを生業とした者を指す古語で、被差別階級を指した「穢多」にそれをルビするのは当て字である。

9 「さげしまるる」の「さげしむ」は「蔑(さげす)む」に同じい古語である。

 

【17】

1~2 「刀杖瓦石」「とうじやうぐわせき」(とうじょうがせき)。

4 「七日七夜」「なぬかななよ」。筑摩全集類聚版に従う。

7 「御愛憐」ここの尊敬の接頭語は「ご」と読んでおく。

8 「施物」「せもつ」。

9 「木の実」「このみ」。

 

【18】

4 「闌〔た〕けて」「かうたけて」(こうたけて)と読む。現行版は「更闌(かうた)けて」。「更(こう)闌(た)く」はカ行下二段活用で「夜が更(ふ)ける」の意。「更」は一夜を五等分した夜時間の単位で初更・二更・三更・四更・五更とし、「闌く」は本来は太陽が高く昇る謂いで、それが、ある状態の盛りが過ぎるの意となり、夜のすっかり更けてしまうことを指す。

5 「人音」「ひとおと」。

8 「御加護」ここも尊敬の接頭語は「ご」と読んでおく。

10 「疎んじ」「うとんじ」。

 

【19】

2 「所行無慚」「しよぎやうむざん」(しょぎょうむざん)とは元来は仏教用語で、その生きざまや行動に於いて、戒や律を破り尽くして、しかも心に些かも恥じるところがないことを指す。

5 「千万無量」「せんばんむりやう」(せんばんむりょう)。濁音の方で読みたい。

 

【20】

1 「男の子」【22】で「女の子」と出るのと齟齬する。岩波旧全集の後記によれば初出以下、総て「男の子」であるが、現行版は龍之介の死後に刊行された岩波普及版全集に従って「女の子」と変えている。これは仕方がない仕儀ではある。まさか龍之介がどんでん返しで男女の「とりかへばや」を暗に示した確信犯などととるのは苦しい。寧ろ、龍之介は初期設定では傘張の娘の産んだ子は「男の子」としていたこと、それを忘れて最後に「女の子」と変え、しかもここを直すのを忘れていたこと自体を精神分析的に解釈すべきであろう。にしても、生前、誰もこの誤りを龍之介にしなかったのだろうか? していながら、それを生前の作品集で直さなかったとするならば、誤りを意識的に放置して、「とりかへばや」を後の読者に残したとするならどうか? 本作自体の典拠問題で大嘘を二重についた龍之介なら、強ちあり得ぬ話ではない気もしてはくる。

1~2 「かたくなしい」初案は「かたくなな」であるから、確信犯の古語「かたくなし」に、口語の形容詞活用をカップリングしたもので、多分に造語っぽいのであるが、龍之介は本作で試みている作品内限定の独特の創作的時代言語の中では少しも違和感がないのが不思議である。

2 「初孫」「うひまご」(ういまご)。

4 「抱き」「いだき」。

9 「暇」「いとま」。【6】での書き変えの読みに従う。

 

【21】

2 初案の「恋ひ偲」んで「居つた」を書き換えたのは、判る。「恋」では(「恋」でよく、事実「恋」なのであるが)若衆道の匂いがあまりにむんむんしてきてしまい、ちとまずかろう。

5 「気色」「けしき」。

7 『「じやぼ」(悪魔)』ポルトガル語“Diabo”。

8 「一年」「ひととせ」。

 

【22】

3 「末期」「まつご」。

3 「喇叭」「らつぱ」(らっぱ)。

3 「音」「おと」と読む。筑摩全集類聚版は「ね」とするが従えない。最後の審判の天使の吹くそれは耳を劈(つんざ)く大音響でなくてはならぬ。

8 「眷族」召使や下男。

10 「一定」「いちぢやう」(いちじょう)。これは副詞。きっと。但し、係っているかに見える「置いた」にではなく、後の「逃げのびた」に係るとしないと理屈上、おかしく、やや配置としてはおかしい。それを避けるには「忘れて」の前にこの語を置くべきであった。

 

【23】

4 「助け出さう」「たすけいださう」(たすけいだそう)。

 

【24】

8 「御計らひ」「おんはからひ」。

 

【25】

7 「眉目」「みめ」。筑摩全集類聚版に従う。

 

【26】

1 「煽つて」「あふつて」(あおって)。

7~10 後半部の最初に現われるクライマックスのプレ・ピークである。

『「しめおん」は思はず遍身に汗を流いて、空髙く「くるす」(十字)を描きながら、己も「御主、助け給へ」と叫んだが、何故かその時心の眼には、凩に落ちる日輪の光を浴びて、「えけれしや」の門に立ちきはまつた、美しく悲しげな、「ろおらん」の姿が浮んだと申す。』

現行版では(下線は私が引いた厳密な意味での異同部分。なお、「くるす」(十字)はポルトガル語“Curuz描き」は「えがき」と訓じたい。「己」は「おのれ」)、

『「しめおん」は思はず遍身に汗を流いて、空く「くるす」(十字)を描きながら、己も「御主、助け給へ」と叫んだが、何故かその時心の眼には、凩に搖るゝ日輪の光を浴びて、「さんた・るちや」の門に立ちきはまつた、美しく悲しげな、「ろおれんぞ」の姿が浮んだと申す。』

問題は「凩に落ちる日輪の光を浴びて」が「凩に搖るゝ日輪の光を浴びて」と改稿されてあるところである。私は個人的には龍之介の改稿を改悪と断ずるものである。このフラッシュ・バックは風雅で実景には即している「凩に搖るゝ日輪」というリアリズムの表現ではなく、あくまで「凩に落ちる日輪」でなくてはならないと感じている。敢えて言うなら「凩に堕ちる日輪」がよりよいとまで不遜(芥川龍之介に対して)にも思っているのである。

8 「門」【15】で「かど」と読んでいるので以下、総てかく読む。

 

【27】

2 「健気」「けなげ」。

3 「忽」「たちまち」。

6 「己が」「おのが」。

 

【28】

3 「声髙」「こはだか」(こわだか)。

5 「跪いて」「ひざまづいて」。

9 「默然」「もくねん」。清音で読みたい。筑摩全集類聚版も同じ。

 

【29】

1 「再」「ふたたび」。

4 「天くだる」「あまくだる」。

6 「俄」「にはかに」(にわかに)。

7 「煙焔」「えんえん」であるが、私は朗読する際には「けむりとほのお」と訓読した。

7~8 「迸つた」「ほとばしつた」(ほとばしった)。

9 「珊瑚」「さんご」。

 

【30】

1~2 「眩む」「くらむ」。

4 「脛」「はぎ」。

6~7 「さもあらばあれ」少し変わった用法に見える。傘張りの娘の内表現とすれば、『妾はどうなっても構わぬ! 何とでもなってもよい! あの子の命だけは!……』というニュアンスであるが、作者の語り口のそれとすると、ずっと冷静で、「そういう状況になっていた、それはそれで、ところが、その折りから」という状況転換の謂いともとれる。両方を含んでよろしい、と私は思う。

8 「生死不定」「しやうじふぢやう」(しょうじふじょう)。

10 「御知慧、御力」孰れの尊敬の接頭語も「おん」で読む。

 

【31】

6 「咽んだ」「むせんだ」。

8 「自ら」「おのづから」(おのずから)。

 

【32】

8 「びるぜん・まりや」ポルトガル語“Virgen Maria”。聖処女マリア。

8 「御子」「みこ」。

10 「ぜす・きりしと」ポルトガル語“Jesu Christo”。イエス・キリスト。

 

【33】

5 「大変」「たいへん」。一大事。大事件。

7 「舁かれて」「かかれて」。運ばれて。

 

【34】

4 『「こひさん」(懴悔)』ポルトガル語“Confissão”。

5~6 「声ざま」「こはざま」。筑摩全集類聚版に従う。

6 「眼(まなこ)」ここは龍之介がルビの「まなこ」をわざわざ抹消していることに注意しなくてはならぬ。これは実に龍之介自身が最終的にこれを「め」と読ませることを企図したからに他ならないからである。

7 「道理」【19】の読みに従い、「ことわり」と読む。

 

【35】

9 『「いんへる」(地獄)』はママ。現行は総て「いんへるの」であるからゲラ稿で直したか。ポルトガル語“Inferno”。

10 「辱くも」「かたじめなくも」。

 

【36】

8~9 『「まるちり」(殉教)』ポルトガル語“Martyrio”。

 

【37】

2 「御行跡」「ごぎやうせき」(ごぎょうせき)と読んでおく。筑摩全集類聚版も同じい。

 

【38】

1 「蹲つて」「うづくまつて」(うずくまって)。

8 「後」「うしろ」。

 

【38~41】

老伴天連の台詞から引く。後半一段落分は抹消部を削らずに示した

   *

『悔い改むるものは、幸ぢや。何しにその幸なものを、人間の手に罰しようぞ。これより益、「でうす」の御戒を身にしめて、心靜に末期の御裁判の日を待つたがよい。又「ろおらん」がわが身の行儀を、御主「ぜす・きりしと」とひとしく奉らうづ志は、この国の奉教人衆の中にあつても、類(たぐひ)稀なる德行でござる。別して少年の身とは云ひ――』ああ、これは又何とした事でござらうぞ。ここまで申された伴天連は、俄にはたと口を噤んで、あたかも「はらいそ」の光を望んだやうに、ぢつと足もとの「ろおらん」の姿を見守られた。その恭しげな容子は、どうぢや。その両の手のふるへざまも、尋常の事ではござるまい。おう、伴天連のからびた頰の上には、とめどなく淚が溢れ流れるぞよ。

 見られい。「しめおん」〔。〕見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、〕火光を一身に浴びて、声もなく橫はつ〔「えけれ〕た、■〔しや」〕の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、ふく〔清〕らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。されば〔今は〕燒けただれた面輪(おもわ)にも、自らなやさしさは、隱れようすべ〔も〕ござない〔あるまじい〕。おう、「ろおらん」は女ぢや。「ろおらん」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、ろおらん邪淫の戒を破つたに由つて 「えけれしや」を逐はれた「ろおらん」は 傘張の娘のやうな〔と同じ〕、 気髙くつつましく→眼なざしの〕あでやかなこの国の女ぢや。

   *

ここは現行版では以下のようになっている(下線及び下線太字は私が引いた厳密な意味での異同部分。なお、「御戒」は「おんいましめ」、「德行」は「とくかう(とくこう)」と読んでおく。因みに筑摩全集類聚版では「尋常」に「よのつね」とルビするが、従えない。そう読むなら、原稿や初稿以降にそれが現われていなくてはならないからである。ここはまさに尋常に「じんじやう(じんじょう)」と読めばよい。「からびた」とは「年老いて脂気を失って削げた」の意。「猛火を後にして」の「後」は「うしろ」、「戒」は「いましめ」と訓じたい)。

   *

『悔い改むるものは、幸ぢや。何しにその幸なものを、人間の手に罰しようぞ。これより益、「でうす」の御戒を身にしめて、心靜に末期の御裁判の日を待つたがよい。又「ろおれんぞ」がわが身の行儀を、御主「ぜす・きりしと」とひとしく奉らうず志はこのの奉教人衆の中にあつても、類(たぐひ)稀なる德行でござる。別して少年の身とは云ひ――』あゝ、これは又何とした事でござらうぞ。こゝまで申された伴天連は、俄にはたと口を噤んで、あたかも「はらいそ」の光を望んだやうに、ぢつと足もとの「ろおれんぞ」の姿を見守られた。その恭しげな容子は、どうぢや。その兩の手のふるへざまも、尋常の事ではござるまい。おう、伴天連のからびた頰の上には、とめどなく淚が溢れ流れるぞよ。見られい。「しめおん」。見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、もなく「さんた・るちや」の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、淸らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。今は燒けたゞれた面輪(おもわ)にも、自らなやさしさは、隱れようすべもあるまじい。おう、「ろおれんぞ」は女ぢや。「ろおれんぞ」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、邪淫の戒を破つたに由つて 「さんた・るちや」を逐はれた「ろおれんぞ」は、傘張の娘と同じ、眼なざしのあでやかなこのの女ぢや。

   *

このうち、自筆原稿の、

猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、ろおらん邪淫の戒を破つたに由つて 「えけれしや」を逐はれた「ろおらん」は 傘張の娘のやうな〔と同じ〕、 気髙くつつましく→眼なざしの〕あでやかなこの国の女ぢや。

の二箇所の空欄は龍之介の読点の打ち忘れと思われる。その証拠に後者には読点が打たれている。ところが前者は『由つて、「えけれしや」』ではなく、『「由つて「えけれしや」』である。私はここは文章の勢いから言っても、朗読のリズムから言っても、読点があるべき箇所だ、と考えている。

 まず――改行を施していない(太字下線部)現行版は――全く以ってだめ――と断じておく。芥川龍之介が、ゲラでそう指示したとしても私は採れない

 ここはどうあっても改行すべきである。私はあくまでこの自筆稿版を支持するものである。

 そうして私はこの自筆稿を判読しながら、現行の、本作最大のクライマックスのクロース・アップの画像(下線やぶちゃん)、

   *

御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、聲もなく「えけれしや」の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、淸らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。

   *

は初案を適応するなら実は、

   *

御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、声もなく「さんた・るちや」の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、燒焦げ破れた衣のひまから、ふくらかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。

   *

であったことを知って、私は異様なデジャ・ヴュを覚え、思わず、涙を流したことをどうしても告白しておきたいのである。

 

【41】

5 「邪淫の戒」モーゼ十戒の一つ、姦淫をしてはならないこと。

10 「御声」「おんこえ」と訓じておく。筑摩全集類聚版も同じい。

 

【42】

8 「自ら」「みづから」(みずから)。

 

【43】

2 「誦せられる」「ずせられる」。

3~7 『してその御経の声がやんだ時、「ろおらん」と呼ばれた、この国のうら若い女は、まだ暗い夜のあなたに、「はらいそ」の「ぐろおりや」を仰ぎ見て、安らかなほゝ笑みを唇に止めたまま、靜に息が絶えたのでござる。‥‥‥‥』岩波旧全集後記には、この最後のリーダが初出以下には、ない、とあり、死後刊行の普及版全集に拠って『………』――九点リーダ――を打っているのである。しかし、自筆原稿にはリーダがあるのである(但し、残ったマス目四マスに二点で打たれているので――八点リーダ――である)。普及版全集がこのリーダを打ったのは、『芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)』の私の冒頭に記した通り、まさに当時、南部修太郎氏所蔵であった、この「奉教人の死」の原稿を参考にしたからに他ならないのである。さらに言えば、芥川龍之介自身がゲラ刷でこのリーダを最終的に除去したか、或いは初出の編集者(校正工)がこれを意識的に外してしまったものを龍之介はよしとしたか、の孰れかである。私は、個人的にはリーダが欲しい。或いは、龍之介は架空(実は実在)の「れげんだ・おうれあ」っぽくするために、当時はなかったリーダを除去したとも考え得る。最早、「藪の中」ではある‥‥‥‥

5 「夜」「よ」と読んでおく。筑摩全集類聚版は「よる」と振るが、朗読時のリズムが悪いので採らない。

6~7 「止めたまま」「とどめたまま」。

7 「靜に」「しづかに」(しずかに)。

 

【44】

3 「一波」「いつぱ」(いっぱ)。

3 「水沫(みなは)」は歴史的仮名遣としては「みなわ」が正しく、現行版も「みなわ」となっている。

4 「最期を知るものは」は現行版では「最後を知るもの」である。初出も作品集「沙羅の花」も「最期」である。「最後」ではなくて、やはり、この「最期」が、よい。

8 「二」の下に朱校正で「五ゴシツク三行中央」とある。

9 「関る」「かかる」。

9 「耶蘇會」「やそかい」。一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio López de Loyola 一四九一年~一五五六年)や、日本に初めてキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 一五〇六年頃~一五五二年)らによって創設された、カトリック教会の男子修道会イエズス会(ラテン語: Societas Iesu)のこと。

10 「れげんだ・おれあ」はママ。現行は総て「れげんだ・おうれあ」。次注参照。

 

【45】

1 「LEGENDA AUREA」はラテン語で「黄金の伝説」。キリスト教の聖者の伝記集成としてジェノバの大司教であったヤコブス=デ=ウォラギネ(Jacobus de Voragine 一二二八年頃~一二九八年)が筆録したものが濫觴。信仰上の貴さだけでなく、文学的にも価値の高いものとして、「黄金」の名をもって呼称されるところの、広汎な意味でのキリスト教の聖人聖者の列伝を広く指す。「AUREA」はラテン語を音写しても「オーレア」とも表記出来るし、英語読みすると、「オゥレア」より「オーレア」の方が近いから、前の「れげんだ・おれあ」は決して音写としておかしくない。

2~3 この原稿は面白い。二行目の「黃金」の三行目の「彼土」(かのど:向こうの地・大陸の謂い)の「彼」を紫色のインクで囲んであり、その上部罫外に赤で「?」が三つ並べて書かれているのである(三つあるのは「黃」「金」「彼」の計漢字三つ分を指すと思われる)。これは校正工がこの字を判読出来なかったことを意味するものである。キリスト教徒でないと「黃金傳説」という語はよく判らないし、「彼」がかなり崩れた字体なので、下と併せても一般的な熟語としては判読出来にくかったのである。少し、校正工が気の毒な気はする。

4 「西教徒」「せいけうと(せいきょうと)」キリスト教教徒。

5 「福音傳道の一助たらしめん」何ら問題ないが、実は岩波旧全集後記によると、初出以下は総て「福音傳道の一たらしめん」となっている由。普及版全集に従ったとあるが、ご覧の通り、原稿はちゃんとなっている! これは『改造』植字工が落したものを校正工が見落とし、それを芥川龍之介も見落として、ずっとそれできてしまった可能性が考えられる(ゲラ刷で龍之介が削った可能性は寧ろ、低い気がする)。

6 「美濃紙摺草体交り」「みのがみずりさうたいまじり」(みのがみずりそうたいまじり)。「草体」は草書体。

8 「明」「めい」と音読みしておく。筑摩全集類聚版は「あきらか」と訓じているが、擬古文の本章の体裁にはそぐわぬ。

8~9 「羅甸字」「らてんじ」でラテン語の文字のこと。

10 「慶長→元〕年鏤刻」「鏤刻」は「るこく」と読み、本来は彫り刻むの謂いだが、広く板行(出版)の意。この訂正通りなら、前の「御出世以來千五百九十→六〕年」の一五九六年で西暦は間違っていないように見える。ところが現行版は「慶長二年三月上旬」である。慶長二年三月上旬はグレゴリオ暦(一五八二年に開始)でもユリウス暦でも一五九七年(四月上旬)である。ただ、「御出世以來」と言っているから、別に日本に数えに準ずるわけでないなら(準じた方が自然ではあるが)絶対的におかしいとは言わずともよい。ところが、この自筆稿の年号にはとんでもないおかしな部分があるのである。即ち、慶長元年には三月はないのである。この年は文禄五年だったが、旧暦十月二十七日(グレゴリオ暦一五九六年十二月十六日)に慶長に改元しているので、もし、この「れげんだ・お(う)れあ」なるものにそう書かれているとなると、これはとんでもない偽書の可能性が高いということになるのである。但し、改元の前に翻刻したが、その後に改元があったので、それを書き換えることがないというと、ないは言えない。日本の歴史書で目録を作る場合には、往々にして年中改元の場合に改元した元号の方で纏めることは普通に行われはする。しかし、改元前の翻刻のクレジットを後から書き替えるというのは如何にも不自然である。初出だけがこう(慶長元年)なっているらしいから、芥川龍之介は或いはその改元の日付を知って、それ以降を慶長二年に書き換えて辻褄を併せようとしたのかも知れない。そもそも目の前に原本を置いて実際のクレジットを見て書いている書き振りでありながら、西暦も元号も二回も書き直すなんていうのは考えられないわけで、或いは、やはり偽書であることを初めから狙った確信犯の誤記ともとれなくはない。

 

【46】

2 その上部罫外に赤で「?」が一つ書かれている。何故だろうと、この二行目をよく見てみると「頗」(すこぶる)のマスの左側に褪色した本文とは異なる色(紫?)の奇妙な記号(「!」を反転させた感じのもの)が打たれているのが分かった。この字もかなり崩れており、送り仮名もないから判読出来なかったのである。これも校正工が可哀想。

3 「掬す」「きくす」手にとって味わう。愛好・愛玩する。

7 「黃金」【45】と同じく、紫色のインクで囲んであり、その上部罫外に赤で「?」がが書かれている。

9 「雅馴」「がじゆん」(がじゅん)。文章が上品で穏やかなこと。筆づかいが正しく、文章も練れていること。

10 「間々」「まま」。副詞。それほど頻度は多くないものの、少なくもないさま。時に。

 

【47】

3 「れげんだ・おれあ」はママ。既注通り、現行は総て「れげんだ・おうれあ」。

5~7 「但し、記事中の大火」岩波旧全集後記には、初出以下総て、「記事の大火」とあるのを普及版全集で「記事中の大火」としたとあるが、おかしい。これも初出の『改造』の脱字が、そのまま底本となってしまった可能性が頗る高い。

7 この上部罫外に赤で「?」が一つ書かれている。これは何の意味かちょっと分からない。可能性としては、この五行目から七行目にかけては抹消・改稿がごちゃごちゃしているため、このままでよいのか? という確認のための「?」か、或いは、この行にある実在する書物「長崎港草」(ながさきみなとぐさ:郷土史家熊野正紹(せいしょう ?~寛政九(一七九七)年)が書いた長崎地誌。寛政四(一七九二)年成立。全十五巻)という書名の「港」の字が校正工には読めなかったからかも知れない。私自身、この「港」は(へん)が(さんずい)にはとても読めないし、「長崎港草」などという地誌もこの本作で初めて知った地誌だからである。

 

【48】

2 「云爾」「しかいふ(しかいう)」と読む。漢文(調)に於いて文章の終わりに用い、「以上にほかならない・上記の通り」という意味を表す語。この二字で「のみ」と訓じ得る。

3 「(七・八・十二)」大正七(一九一八)年八月十二日のクレジット。朱校正で前の行の末に直接六ポイントで附す指示がある。海軍機関学校勤務期であるが、この頃は既に嫌気がさしていた。新全集宮坂年譜によれば、この脱稿翌日八月十三日には「枯野抄」を起筆、とある(リンク先は私の電子テクスト)。恐るべきパワーである。

4 朱校正で右罫に「二行アキ」と指示。

5 「芥川龍之介」の左に全体を五ポイントとする朱校正の指示。

サイト「鬼火」開設11周年記念 芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)

芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認した。これは朱の校正記号が入った決定稿であり、岩波旧全集の「後記」の初出についての異同記載とかなりよく一致することから、大正七(一九一八)年九月一日発行『三田文学』初出版の原稿(決定稿であるが、ゲラ刷りで手が加えられている可能性が高い)と考えてよく、旧全集が引用する過去の普及版全集の「月報」第四号所収の「第二卷校正覺書」に『南部修太郎氏所藏の「奉教人の死」の原稿を拜借させていただけましたので、大いに參考えになりました。』とある『南部修太郎氏所藏の「奉教人の死」の原稿』と同一のものではないかと推定される。使用原稿用紙は一行字数二十字十行で、左方罫外下部に『十ノ廿 松屋製』とあるもので、全四十八枚。欠損部はない。

 なお、旧全集後記は初出との校合は行っているが、この決定稿との校合をしているわけではない

 私は既に、

岩波旧全集版準拠   「奉教人の死」

作品集『傀儡師』版準拠「奉教人の死」(上記との私の校異注記を附記)

及び、芥川龍之介が典拠とした(龍之介は実は、『『奉教人の死』の方は、日本の聖教徒の逸事を仕組んだものであるが、全然自分の想像の作品である』と明言し、『『奉教人の死』を發表した時には面白い話があつた。あれを發表したところ、隨分いろいろな批評をかいた手紙が舞ひ込んで來た。中には、その種本にした、切支丹宗徒の手になつた、ほんものゝ原本を藏してゐると感違ひをした人が、五百圓の手附金を送つて、買入れ方を申込んだ人があつた。氣毒でもあつたが可笑しくもあつた』などと書き(「風變りな作品二點に就て」(大正一五(一九二六)年一月『文章往來』)。リンク先も私の電子テクスト)、書簡(昭和二(一九二七)年二月二十六日附秦豐吉宛書簡(岩波旧全集書簡番号一五七七)の二伸では『日本版「れげんだ・あうれあ」は今から七八年前に出てゐる。但し僕の頭でね、一笑』などと平然と嘘をついているが)、

斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」

を電子化している。

 復元に際しては、当該原稿用紙の一行字数二十字に合わせて基本、改行とした。但し、芥川龍之介は鈎括弧を一マスに書かずにマスの角に打つ癖があり、また以下に示す通り、抹消と書き換えを再現しているため、結果、実際の復元テキストでは一行字数は一定しない。

 原稿用紙改頁に【 】で原稿左上罫外に書かれたアラビア数字の原稿頁番号を打って改行した。

 ルビはブログ版では( )同ポイントで示した。なお、龍之介自身が割注として本文同ポイントで示した部分がやはり( )で存在するが、特に判読に迷う箇所はないと思われる。これによって当時の芥川龍之介が原稿にどれほどのルビを振っていたかがよく判る。実はそれ以外の殆どのルビは校正工が自分勝手に振っていたのである。これはあまりよく知られているとは思われないので、特に明記しておく。最初の全集編集の際、堀辰雄が原則、ルビなしとするべきだと主張した(結局、通らなかった)のはそうした当時の出版事情があったからである。

 抹消は抹消線で示し、脇への書き換え及び吹き出し等によるマス外からの挿入は〔 〕で示した。添えの書き換えが二度(或いはそれ以上)に亙るものは、『〔がかり→ずり〕』のように示した。

 抹消し忘れと思われるものは龍之介に好意的に取消線を延ばしたが、衍字(「こひささん」など)はそのままに復元した。歴史的仮名遣の誤りもママである。

 判読不能字(龍之介の抹消は一字の場合にはぐるぐると執拗に潰すことが多いために判読が出来ないものが多い)は「■」で示した。私がほぼ確実と推定し得たもののみを示し、判読候補が複数あり、確定し辛いと判断したものは概ね判読不能で示した。なお「」としたのは空白を入れる指示を取り消したものと推定している箇所である。

 朱で入っている校正記号は原則、無視した。

 漢字は龍之介が使用しているものに近いものを選んだので略字と正字が混在している。判断に迷った字は正字で示した。

 なお、現行との重大な異同点は主人公「ろおれんぞ」が一貫して「ろおらん」である点で、これは読んでいて相当に印象が異なる。他にも、現行では『「さんた・るちや」と申す「えけれしや」』という教会の固有名がなく、一貫して教会の一般名詞「えけれしや」で通されている点、主人公に懸想する娘の当初の設定を鍛冶屋としていたことが抹消・書き換えで判明する(執筆途中で変更を行ったらしく、原稿ナンバー【19】ではそのまま「傘張」と出る)。また、龍之介が仮想的に再現しようとした当時の独特の語り口の表現に、かなり苦労している様子が抹消や書き換え・挿入ではよく伝わってくるように私には思われる。この私の原稿復元版はそうした箇所を見るだけでもかなり興味深いものと思う。これらについては、別立ての『芥川龍之介「奉教人の死」自筆原稿やぶちゃん注 附・岩波旧全集版との比較』(本テクストと同時公開)で細述した。

 なお、本電子テクストは私のサイト「鬼火」開設の11周年記念としてブログにアップすることとした。【2016年6月26日 藪野直史】]

 

 

【1】

 

 奉教人の死

 

 芥川 龍之介

 

 たとひ三百才の齡を保ち、樂〔し〕み身に余る

と云ふとも、未來永々の果しなき樂〔し〕みに比ぶ

れば、夢幻の如し。 慶長訳 Guia do Pecador

 

 善の道に立ち入りたらん人は、御教にこも

【2】

る不可思議の甘味■〔味を〕覺ゆべし。 慶長訳 Imita-

tione Christi

     一

 去んぬる頃〔去んぬる頃〕、日本長崎の〔或〕「えけれしや」(寺院)

に、「ろおらん」と申すこの国の少年がござつた。

これは或年御降誕の祭の夜、その「えけれしや」

の戸口→に〕、餓〔え〕 〔疲〕れてうち伏して居つた

を参詣の奉教人衆が介抱し、それより伴

天連の憐みにて、寺中に養はれる事となつ

たげ〔で〕ござるが、何故か〔何故か〕その身の素性〔を問へ〕ば、ひ〔たと〕包んで

【3】

故郷は「はらいそ」(天國)父の名は「でうす」

(天主)などと、何時(いつ)も事もなげな笑に紛ら〔い〕て、とん

とまことを〔は〕明した事もござ〔〕ない。なれど親の

より〔から〕「ぜんちよ」(異教徒)の輩でござら〔あら〕なんだ事

だけは、手くびにかけた靑玉(あをだま)の「こんたつ」(

珠)を見ても、知れたと申す。されば伴天連は

じめ、多くの「いるまん」衆(法兄弟)も、よも怪し

いものではござるまいと〔、〕〔おぼ〕されて、〔ねんごろに〕扶〔持〕して

く程に〔かれたが〕、その信心の堅固なは、幼いにも似ず「すぺ

りおれす」(長老衆)が舌を捲くばかりであつたに由つて〔れば〕、

【4】

一同も「ろおらん」は天童の生れがはりであらう

ずなど申し、いづくの〔生〕れ、たれの子と

も知れぬものを〔、無下に〕めでいつくしんで居つたげで

ござる。

 〔し〕て〔又〕この「〔ろ〕おらん」〔は〕、天童の生れかはりと

云はれても僞ない程〔顏かたち〔が〕玉のやうに淸らかであつたに〕、声ざまも女のやうに優

しかつたれば、一し〔ほ〕人々のあはれ〔み〕を惹いた

のでござらう。中でもこの国の「いるまん」に「し

めおん」と申したは、「ろおらん」を弟のやうにも

てなし、「えけれしや」の出入りにも、必仲よう

【5】

手を組み合せて居つた。この「しめおん」は、元

さる大名に仕へた、槍一すぢの家がらなもの

ぢや。されば身のたけも拔群なに、性得の剛

力〔であ〕つたに由つて、伴天連が「ぜんちよ」ばらの

石瓦にうたるるを■助け申し〔、防いで進ぜ〕た事も、一度二

度の沙汰ではごさない。それが「ろおらん」と睦

じうするさまは、とんと荒鷲に〔鳩に〕なづむ荒鷲の

やうであつたとも申さうか。或は「ればのん」の

檜に、葡萄(えび)かづらが纏ひついて、花咲いたや

うででもござつた〔あつたとも申〕さうず。

【6】

 さる程〔に〕三年あまりの年月は、流るるやう

にすぎたに〔由〕つて、「ろおらん」はやがて元服も

すべき時節となつた。したがその頃怪しげな

噂が傳〔は〕つたと申すは「えけれしや」から遠か

らぬ町方の鍛冶〔傘張〕の娘が、「ろおらん」と親しうす

ると云ふ事ぢや。この鍛冶〔傘張の翁〕も天主の御教を奉

ずる人故、娘ともども「えけれしや」へは參る慣で

あつたに、御祈(おんいのり)の暇(ひま〔いとま〕)にも〔、〕娘は爐をさ

た「ろおらん」の姿から、眼を離したと申す事

がござない。まして「えけれしや」〔への〕出入り

【7】

は、必髮かたちを美しうして、「ろおらん」のゐ

る方へ眼づかひをするが定(じやう)であつた。されば

〔お〕のづと〔奉〕教人衆の人目にも止り、娘が行き

ずりがかり→ずり〕に「ろおらん」の足を踏んだと云ひ出すも

のもあれば、二人が艷書をとりかはすをしか

と見とどけたと申すものも〔、〕「いるまん」衆の中

出て來たげでござる。

 由つて伴天連にも、すて置かれず思(おぼ)された

のでござらう。或日「ろおらん」を召されて、〔白ひげを嚙みながら、

「その方、 鍛冶〔傘張〕の娘と兎角の噂ある由を聞い

【8】

たが、よも〔や〕まことではあるまい。どうぢや」と

もの優しう尋ねられた。したが「ろおらん」は、

唯憂はしげに頭(かしら)を振つて、「そのやうな事は一

向に存じませやう〔に→も〕ござら→よう筈もござら〕ぬ」と、涙聲に繰返すばかり故、

伴天達もさすがに我を折られて、日頃の信心〔年配と云ひ、〕

と云ひ、日頃〕の信心と云ひ、かうまで申すものに

偽はあるまいと思(おぼ)されたげでござる。

 さて一應伴天連の疑は晴れてぢやが、「えけれしや」へ

參る人々の間では、容易にとかうの沙汰が絶

えさうもござない。されば兄弟同樣にして居

【9】

つた「しめおん」の気がかりは、〔又〕人一倍ぢや。

始はかやうな淫な事を〔、ものものしう〕詮義立てするが、お

のれにも恥しうて、「ろおらん」の顏さへ〔うちつけに尋ねよ〕うは元

より、「ろおらん」の顏さへまともには〔さかとは〕見ら

ぬ程であつたが、或時「えけれしや」の後〔の〕庭

で、「ろおらん」が薔薇〔へ宛て〕た娘の艷書を拾うたに由

つて、〔人〕氣ない部屋にゐたを幸、「ろおらん」の

前にその文をつきつけて、嚇しつ賺しつ、さ

まざまに問ひただ〔い〕た。なれど「ろおらん」は〔唯、〕美

しい顏を赤〔ら〕めたまでで、〔て、〕「娘は私に心を寄せま

【10】

したげでござれど、私は文を貰うたばか〔り〕

、とんと口を利(き)いた事もござらぬ」と申す。

したが〔なれど〕世間のそしりもある事でござれば、「し

めおん」は猶も押して、問ひ詰つたに、「ろおら

ん」はわびしげな眼で、ぢつと相手を見つめた

と思へば、「私〔は〕お主(ぬし)にさへ、譃をつきさう〔な〕

人間に見えるさうな」と、咎めるやうに云ひ

放つて、〔燕(つばくら)のやうに〔その儘〕→とんと燕(つばくら)か何ぞのやうに、その儘〕つと部屋〔を〕出つて行つてしまうた〔。〕

云ふ事ぢや。かう云はれて見れば、「しめおん」も

自分〔己〕の疑深かつたのが恥しうもなつたに

【11】

由つて、悄々(すごすご)その塲を去らうとしたに、いき

なり駈け〔こん〕で來たは、少年の「ろおらん」ぢや。

それが飛びつくやうに「しめおん」の頸を抱いて

くと、喘ぐやうに「私が悪かつた。許して下

されい」と〔、〕囁いて、こなたが一言も答へぬ間(ま)

に、淚に濡れた顏を隱さう為か、一散に元〔相手をつ〕

た方へ一散に〔きのけるやうに〕〔身を開い〕て、一散に又元來た方へ、

走つて往(い)んでしまうたげな〔と申す〕。されば〔そ〕の「私が

悪かつた」と云ふ〔囁いた〕のも、娘とのいたづらを隱し〔密通したの〕

ことが、悪かつたと云ふ〔の〕やら、或は「しめおん」に

【12】

〔つ〕れなうしたのが悪かつたと云ふのやら、〔一〕

んと〔円合〕點の致さ〔う〕やう〔が〕りない〔なかつた〕との事でござ

る。

 するとその後間もなう起つたのは、その〔傘〕

〔張〕の娘が孕(みごも)つたと云ふ騷ぎぢや。しかも腹の

子の父親は、「えけれしや」の「ろおらん」ぢやと、

正しう〔父〕の前で申したげでござる。されば〔傘〕

〔張〕〔の翁〕は火のやうに怒〔憤〕つて、〔早速→即刻〕伴天連のもとへ委細

を訴へに参つた。かうなるから〔上〕は「ろおらん」

も、〔かつふつ〕云ひ譯の致しやう〔が〕ござない。その日の

【13】

中に〔伴天連を始め、「えけれしや」の信徒〔「いるまん」衆〕一同の談合に由つて、

破門を申し渡される事になつた。元より破門

の沙汰がある上は、伴天連の手もと〔を〕も追ひ

拂はれる事でござれば、明日の生計(たつき)〔糊口のよすが〕に〔〕困るの

〔も〕目前 に見えて〔ぢや。〕したがかやうな罪人を、この儘

「えけれしや」に止めて置いては、御主(おんあるじ)の「ぐろ〔お〕り

や」(榮光)にも關る事ゆゑ、日頃親しう致し〔い〕た

人々も、 〔淚〕をのんで「ろおらん」を追ひ拂つた

と申す事でござる。

 その中でも哀れをとゞめたは、兄弟のやう

【14】

にして居つた「しめおん」の身の上ぢや。■■〔これ〕は

「ろおらん」が追ひ出されると云ふ悲しさより

も、「ろおらん」に欺かれたと云ふ腹立〔た〕しさが

一倍故、あのいたいけな少年が、折からの〔凩〕

空に、し〔が吹く中へ、〕しほしほと戸口を出かかつたに、〔傍から〕拳を

ふるうて、したたか〔その〕美しい顏を打つた。「ろお

らん」は〔〕剛力に打〔た〕れたに由つて、思はずそ

こへ倒れたが、やがて起〔き〕あがると、淚ぐん

だ眼で、空を仰ぎながら、『御主も許させ

へ。兄なる「しめおん」は、なす所を知ら れば〔己が仕業もわきまへぬものでござる〕』と、

【15】

わなゝく聲で祈つたげにござる〔と申す事ぢや〕。「しめおん」

もこれには気が挫けたのでござらう。暫くは

唯戸口に立つて、拳を空にふるうて居つた

〔が〕、その外の「いるまん」衆も、いろいろ〔と〕とり

〔い〕たれば、それを機会(しほ)に手を束ねて、嵐〔も〕

吹き出でようづ空のやうに、〔如く、〕凄じく顏を曇ら

せながら、悄(すごすご)「えけれしや」の門(かど)を出〔る〕「ろおら

ん」の後姿を、貪る〔やう〕に見送〔きつ〕と見送つて居つた。

その時居合はせた奉教人衆の話を〔傳へ〕聞けば、

からの〔時しも〕凩にゆらぐ日輪が、うなだれて步む

【16】

はてたなりはてたとの事ぢや。まし〔て步む「ろおらん」の頭のかなた、〕長崎の西の空に

沈まうず景色であつたに由つて、あの少年

のやさしい姿は、とんと〔一天の〕火焔の中に、立〔ち〕き

はまつたやうに見えたと申す。

 ま 〔その〕後の「ろおらん」は、「えけれしや」の内〔陣〕

に香爐をかざした昔とは打つて變つて、町は

づれの非人小屋に起き伏しする、世にも哀れ

な乞食(こつじき)であつた。ましてその前身は、「ぜんち

よ」の輩(ともがら)には穢多(えとり)のやうにさげしまるる、天

主の御教を奉ずるものぢや。されば町を行

【17】

けば、心ない童部に嘲らるるは元より、刀杖

瓦石の難にあはうづ遭うた〕事も、度々(どど)ござるげに聞

き及んだ、いや、嘗つては、長崎の町にはび

こつた、恐しい熱病にとりつかれて、七日

七夜の間、道ばたに伏しまろんでは、〔苦〕み

悶えたと申す事でござる。したが、「でうす」

無量無辺の御愛憐は、その都度「ろおらん」が一

命を救〔はせ〕給うたのみか、施物の米錢のない折

々には、山の木の実、海の魚貝など〔、〕を惠めその〕

給うて〔日の糧(かて)〕を惠ませ給ふのが常であつた。されば〔由つて〕

【18】

「ろおらん」も、朝夕の祈は「えけれしや」に在つた

昔を忘れず、手くびにかけた「こんたつ」も、靑

玉の色を變〔へ〕なかつたと申す事ぢや。いや〔なんの〕、

それのみか、夜毎に闌〔た〕けて人音も靜まる頃

となれば、この少年はひとり〔ひそかに〕町はづれの非人

小屋を脱け出(いだ)いて、月を踏んで住み馴れた「え

けれしや」へ、御主「ぜす・きりしと」の御加護を祈

りまゐらせに詣でて居つた。

 なれど同じ「えけれしや」に詣づる奉教人

も、その頃はとんと、「ろおらん」を疎んじはて

【19】

て、〔伴天連はじめ、〕誰一人憐みをかくるものもござらなん

だ。道理〔ことわり〕かな、破門の折から所行無慚の少年

と思けれ〔ひこん〕で居つたに由つて、何として夜ふけ〔毎に、〕

て、たつた独り「えけれしや」へ参るな〔程の〕、信心があ〔もの〕

らう〔ぢや〕とは知られうぞ。これも「でうす」〔千万無量の〕御計ら

なれば、→の一つ故、〕よしない儀とは申しながら、「ろおらん」

が身にとつて〔は〕、〔まことに〕いみじくも〔亦〕哀れな事でござ

つた。

 さる程に、こなたはあの傘張の娘ぢや。「ろ

おらん」が破門される間もなく、月も滿た

【20】

ず男の子を産み落いたが、さすがにかたくな

〔しい〕父の翁も、初孫の顏は憎からず思うたので

ござらう、娘ともども大切に介抱して、自ら

抱きもしかかへもし、時にはもてあそびの人

形などをとらせたと申す事でござる。〔翁〕は元

よりさもあらうずなれど、ことに稀有なは「い

るまん」の「しめおん」ぢや。あの「じやぼ」(悪魔)をも

挫がうず大男が、娘に子が産まれるや否や、

暇ある毎に傘張の翁を訪れて、かたくなし〔無骨な腕(かひな)に幼〕

子を抱き上げては、にがにがしげな顏に淚を

【21】

浮べて、弟と愛(いつく)しんだ、あえかな「ろおらん」の

優姿(やさすがた)を偲んで〔、〕〔思〕ひ慕つて居つたと申す。

唯、娘のみは、「えけれしや」を出〔で〕てこの方、絶

えて「ろおらん」が姿を見せぬのを、怨めしう歎

きわびた気色であつたれば、「しめおん」の訪れ

るのさへ、何かと快からず思ふげに見えた。

 この国の諺にも、光陰に関守なしと申す通

り、とかうする程に、一年あまりの年月は、

 やうに〔瞬くひまに〕過ぎたと思召されい。ここに思

ひもよらぬ大変が起つたと申すは、長崎の町〔一夜の中〕

【22】

に長崎の町のあらましを〔半ばを〕燒き拂つた、あの

大火事のあつた事ぢや。まことにその折の景

色の凄じさは、末期の御裁判(おんさばき)の喇叭の音が、

〔一天の〕火の光をつんざいて、鳴り渡つたかと思は

れるばかり、世にも身の毛のよだつた〔つ〕もので

あつた。〔ござつ〕た。その時、あの傘張の翁の家は、〔運〕

いにくの〔悪う〕風下だつ〔にあつ〕たに由つて、見る見る焔

に包れたが、さて親子眷族、慌てふため

て、逃げ出(いだ)いて見れば、娘が産んだ女の子の

姿が見えぬと云ふ始末ぢや。一定、一間(ひとま)どこ

【23】

ろに〔寢〕かいて置いたを、忘れてここまで逃

げのびたのであらうず。されば娘〔翁〕は狂気のや〔足ずりを〕

うに〔して〕罵りわめく。娘も亦、人に遮られずば、

火の中へも馳せ入つて、探し〔助け〕出さう氣色に見

えた。なれど風は益〻加はつて、焔の舌は天上

の星をも焦さうずたけ〔吼(たけ)〕りやうぢや。それ故火

を救ひに集つた町方の人々も、唯、あれよあ

れよと立ち騷いで、狂気のやうな娘をとり鎭

めるより外に、せん方も亦あるまじい。所へ

ひとり、多くの人を押しわけて、馳けつけ〔て〕

【24】

参つたは、「しめお〔あの「い〕るまん」の「しめおん」でござ

る。これは矢玉の下もくぐつたげな、逞しい

大丈夫でござれば、ありやうを見るより早

く、火の中火〔勇んで〕焔の中へ向うたが、あまりの火勢

に辟易致いたのでござらう。二三度煙をくぐ

つたと見る間に、背(そびら)をめぐらして、〔一散に〕逃げ出(いだ)い

た。して翁〔と〕娘と〔が〕佇んだ前へ來て、『これも

「でうす」万事にかなはせたもう〔まふ〕御計らひの一つ

ぢや。つつりと〔詮ない事と〕あきら〔めら〕れい』と申す。その時

翁の傍から、誰とも知らず、髙らかに「御主、

【25】

助け給へ」と叫ぶものがござつた。声ざまに聞

き覺えもござれば、「しめおん」忙しう〔〔首(かうべ)→頭(かうべ)〕をめぐらして〕、そ

の声の主をきつと見れば、如何〔いか〕な事、これは

紛ひもない「ろおらん」ぢや。淸らかに瘦せ細つ

た顏は、火の光に赤うかがやいて、風に乱れ

る黑髮も、肩に余るげに思うけ〔思はれ〕たが、哀れに

も美しい眉目のかたちは、一目見てそれと知

〔られ〕た。その「ろおらん」が、乞食の姿のまま、群

る人々の前に立つて、目もはなたず燃え

〔さか〕る家を眺めて居(を)る。と思〔う〕たのは、まことに

【26】

瞬く間〔もない程〕ぢや。一しきり焔を煽つて、恐しい風

が吹き渡つたと見れば、「ろおらん」の姿はまつ

しぐらに、早くも火の柱、火の壁、火の梁(うつばり)の

〔に〕はひつて居つた。「しめおん」は思はず遍身

に汗を流いて、空髙く十字「くるす」(十字)を描

きながら、〔己も〕「御主、助け給へ」と叫んだが、何故か

その時心の眼には、凩に落ちる日輪の光を浴

びて、「えけれしや」の門に立ちきはまつた、美

く悲しげな、「ろおらん」の姿が浮んだと

申す。

【27】

 なれどあたりに居つた奉教人衆は、「ろおら

ん」が健気な振舞に驚きながらも、破戒の昔を

忘れかねたので〔も〕ござらう。人どよめきの〔忽〕〔兎角の批判は〕風

〔に〕乘つて、人どよめ〔き〕の上を渡つて參つた。と

申すは、『さすが親子の情〔あ〕ひは爭はれぬもの

と見えた。己が身の罪を恥ぢて、このあたり

へは影も見せなんだ「ろおらん」が、今こそ一

人子の命を救はうとて、火の中へいつたぞ

よ』と、誰と〔も〕なく罵りかはしたのでござる。こ

れには翁さへ同心と覺えて、「ろおらん」の〔姿を〕眺め

【28】

てからは、心の騷ぐ怪しい心の騷ぎを隱さう

ず為か、立ちつ居つ身を悶えて、何やら愚

しい事のみを、声髙に〔ひと〕りわめいて居つ

た。ところがひとり〔なれど当の娘〕ばかりは、狂ほしく大地に

跪いて、両の手で顏をうづめながら、一心不

乱に声をしぼつて、〔祈誓を凝らして〕、身動きをする気色さへ

もござない。その空には火の粉も〔が〕、雨のやう

に降りかかる。煙も地を掃つて、面(おもて)を打つた。

したが、娘は默然と頭(かうべ)を垂れて、身も世も忘れ

た祈り三昧ぢや。

【29】

 とかうする程〔に〕、再火の前に群つた人々が、

一度にどつとどよめくかと見れば、髮をふ

り乱いた「ろおらん」が、もろ手に幼子をかい抱

いて、乱れとぶ焔の中から、天くだるやうに

姿を現〔い〕た。なれどその時、燃え盡きた梁(うつばり)の

一つが、俄に半ばから折れたのでござらう。

凄じい音と共に、一なだれの煙焔が半空(なかぞら)に迸

つたと思ふ間もなく、「ろおらん」の姿ははたと

見えずなつて、跡には唯火の柱が、珊瑚の如

くそば立つたばかりでござる。 

【30】

 あまりの凶事に心〔も〕消えて、〔「しめおん」〕をはじめ→翁〕

まで、居あはせた程の奉教人衆は、皆目の眩

む思ひがござつた。中にも娘はけたたましう

泣き叫んで、一度は〔脛〕もあらはに躍り■立つ〔立つた〕

が、やがて雷(いかづち)に打たれた人かと見えて〔のやうに〕、そ

〔まま〕大地にひれふしたと申す。さもあらばあ

れ、ひれふした娘の手には、何時かあの幼い

女の子が、半ば〔生死〕不定の姿ながら、ひしと抱か

れて居つたをいかにしようぞ。ああ、廣大無

邊なる「でうす」の御知慧、御力は、何とたたへ

【31】

奉る〔〔言(ことば)→詞(ことば)〕だに〕ござない。燃え崩れる梁(うつばり)に打たれなが

ら、「ろおらん」が必死の力をしぼつて、こなた

へ投げた幼子は、折よく娘の足もとへ、怪我

もなくまろび落ちたのでござる。

 されば娘が大地にひれ伏して、嬉し淚

に咽〔んだ〕声と共に、もろ手をさしあげて立つ

た翁の口から〔は〕、「でうす」の御慈悲をほめ奉る声

が、自らおごそかに溢れて參つた。いや、〔まさに〕溢

れようづけはひであつ〔た〕とも申さうか。それ

より先に「しめおん」は、さかまく火の嵐の

【32】

へ、「ろおらん」を救はうづ一念から、真一文字

に躍りこんだに由つて、翁の声は再気づか

はしげな、いたましい祈りの言(ことば)となつて、夜

空に髙くあがつたのでござる。これは元より

翁のみではござない。その親子を圍んだ奉教

人衆は、皆一同に声を揃へて、「御主、助

け給へ」と、泣く泣く祈りを捧げたのぢや。し

て「びるぜん・まりや」の御子、なべての人の苦し

みと悲しみとを己(おの)がものの如くに見そな

す、われらが御主「ぜす・きりしと」は、遂にこの

【33】

祈りを聞き入れ給うた。見られい。むごたら

しう燒けただれた「ろおらん」は、「しめおん」が腕(かひな)

に抱かれて、早くも奉教人衆の〔火と煙との〕ただ中に、〔から、〕救

ひ出されて参つたではないか。

 なれどその夜の大変は、これのみではござ

なんだ。息も絶え絶えな「ろおらん」が、〔とりあへず〕奉教人

衆の手に舁かれて、稍離れ〔風上にあつ〕た町の廣塲辻〔あの「えけれしや」の門へ〕橫へられた時の事ぢや。それまで幼子を胸〔に〕抱

きしめて、淚にくれてゐた傘張の娘は、折か

「えけれしや」門へ出(い)でられた伴天連の〔足もと〕に跪

【34】

くと、並み居る人々の目前で、『この女子(おなご)は「ろ

おらん」樣の種ではござな〔おじや〕らぬ。まことは〔妾(わらは)が〕

なみ隣の家隣(いへどなり)の「ぜんちよ」の子との間に、妾と→密通して、〕設〔まう〕

けた娘で〔お〕じやるわいの』と、思ひもよらぬ「こ

ひさん」(懴悔)を申し出〔仕つ〕た。その思ひつめた声

ざまの震へと申し、その泣きぬれはらいた→ぬれ〕た〔双の〕眼(まなこ)のかがやきと申し、露ばかりも偽を〔この「こひさん」に〕は、露ばかりの

僞さへ、あらうとは思はれ申さぬ。道理か

な、肩を並べた奉教人衆は、天を焦がす猛火

も忘れて、息さへつかぬやうに声を呑んだ。

【35】

 娘〔が〕泣く泣く〔淚ををさめて〕、言(ことば)で申し次いだは、『妾は日

頃「ろおらん」樣を恋ひ慕うて居つたなれど、御

信心の堅固さからあまりにつれなくもてなさ

れる故、つい怨む心も出て、腹の子を「ろおら

ん」樣の種と申し偽り、妾につらかつた口惜し

さを思ひ知らさうと致いたのでお〔じ〕やる。な

れど「ろおらん」樣の御心の気高さは、妾が大罪

をも憎ませ給はいで、今宵は御身の危さをも

うち忘れ、「いんへる」(地獄)にもましてした火焔

の中から、妾娘の一命を辱くも救はせ〔給〕うた。

【36】

その御憐み、御計らひ、まことに御主「ぜす・き

りしと」の再來かとも申し■■→お〕がまれ申す。さるに

ても妾が重々の極悪を思へば、この五体は忽

「ぢやぼ」の爪にかかつて、寸々に裂かれようと

も、中々怨む所はおじやるまい。』娘は「こひさ

さん」を致いも果てず、大地に身を投げて泣き

伏した。

 ああ、〔二重(へ)三重(へ)に〕群〔つた〕奉教人衆の間から、「まるちり」(殉

教)ぢや、「まるちり」ぢやと云ふ声が〔、波のやうに〕起つたの

は、丁度この時の事でござる。「ろおらん」は

【37】

勝にも「ろおらん」は、罪人を憐む心から、御主

「ぜす・きりしと」の御行跡を踏んで、乞食にまで

身を落〔い〕た。して父とこの〔仰ぐ〕伴天連も、兄と

たのむ「しめおん」も、皆そ〔の心〕を知らなんだ。こ

れが「まるちり」でなうて、何でござらう。

 したが、當の「ろおらん」は、娘の「こひさん」を

聞きながらも、僅に二三度頷いて見せたばか

り、髮は燒け肌は焦げて、手も足も動か〔ぬ〕上

に、口をきかう気色さへも今は全く盡き〔たげ〕でござる。

娘の「こひさん」に胸を破つた翁と「しめおん」とは、その枕が

【38】

みに蹲つて、何くれ〔か〕と介抱〔を〕致〔い〕て〔置〕つたが、

「ろおらん」の息は、刻々に細〔短〕うなるばかりでご〔つて、最期も〕

ざる。〔もは〕や遠くはあるまじい。唯、眼のみは〔日頃と変〕らぬ

のは、遙に天上を仰いで居る、星のやうな

瞳〔の色〕ばかりぢや。

 〔やがて〕娘の「こひさん」を聞き■終〔ると→■〕〔に耳をすまされ〕た伴天連は、

やがて〔吹き荒ぶ〕夜風に白ひげをなびかせながら、「えけ

れしや」の門を後にして、おごそかに申された

は、「人を判裁判くもの『悔い改むるものは、幸

ぢや。何しにその幸なものを、人間の手に罰

【39】

しようぞ。これより益、「でうす」の御戒を身に

しめて、心靜に末期の御裁判の日を待つたが

よい。又「ろおらん」がわが身の行儀を〔、〕御主

ぜす・きりしと」とひとしく奉らんと嘆く人〔うづ志は、

〔こ〕の国の奉教人衆の中にあつて〔も〕、類(たぐひ)まれ〔稀〕なる

德行ぢや〔でござる〕。別して少年の身とは云ひ――』あ

あ、これは〔又〕何とした事でござらうぞ。ここま

で申された伴天連は、俄にはたと口を噤

で、あたかも「はらいそ」の光を望んだ〔やう〕に、

ぢつと足もとの「ろおらん」の姿を見守られた。

【40】

その恭しげな容子は、どうぢや。その両の手

のふるへ〕ざまも、尋常の事ではござるまい。

おう、伴天連の〔からびた〕頰の上には、とめどなく淚

が溢れ流れるぞよ。

 見られい。「しめおん」〔。〕見られい。傘張の

翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、

光を一身に浴びて、声もなく橫はつ〔「えけれ〕

た、■〔しや」〕の門に橫はつた、いみじくも美しい少年

の胸には、焦げ破れた衣のひまから、ふく〔清〕

らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居る

【41】

ではないか。されば〔今は〕燒けただれた面輪(おもわ)にも、

自らなやさしさは、隱れようすべ〔も〕ござない〔あるまじ〕

い。おう、「ろおらん」は女ぢや。「ろおらん」は女

ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやう

に佇んでゐる奉教人衆、ろおらん邪淫の戒を

破つたに由つて 「えけれしや」を逐はれた「ろお

らん」は 傘張の娘のやうな〔と同じ〕、 気髙くつつましく→眼なざしの〕あでや

かなこの国の女ぢや。

 まことにその刹那の尊い恐しさは、あたか

も「でうす」の御声が、星の光も見えぬ遠い空か

【42】

ら、傳はつて來るやうであつたと申す。〔されば〕「えけ

れしや」の前に居並んだ奉教人衆は、風に吹か

れる穗麥のやうに、誰からともなく頭を垂れ

て、悉「ろおらん」のまはりに跪いた。その中で

聞えるものは、唯、空をどよもして燃えしき

る、万丈の焔の響ばかりでござる。いや、誰

やらの啜り泣く声も聞えたが、それは傘張の

娘でござらうか。或は又自ら兄とも思うた、

あの「いるまん」の「しめおん」でござらうか。やが

てその寂寞(じやくまく)たるあたりをふるはせて、「ろおら

【43】

ん」の上に髙く手をかざしながら、伴天連の御(おん)

経(きやう)を誦せられる声が、おごそかに悲しく耳に

はひつた。してその御経の声がやんだ時、「ろ

おらん」と呼ばれた、この国のうら若い女は、

まだ暗い夜のあなたに、「はらいそ」の「ぐろおり

や」を仰ぎ見て、安らかなほゝ笑みを唇に止め

たまま、靜に息が絶えたのでござる。‥‥‥‥

 その女の一生は、この外に何一つ、知られ

なんだ申う〔げに〕聞き及んだ。したが〔なれど〕それが、何〔事〕で

ござらうぞ。なべて人の世〔の尊さ〕は、百年も一刻刹那の尊さ

【44】

何ものにも換え難い、刹那の感動に極るもの

ぢや。暗夜(やみよ)の海にも譬へようづ煩惱心の空に

一波をあげて、未出ぬ月の光を、水沫(みなわ→みなは)の中

に捕へてこそ、生きて甲斐ある命とも申さ

うづ。されば「ろおらん」が最期を知るものは、

「ろおらん」の一生を知るものでござる。ござるまいか。はござ

はござるまいか。

     二

 予が所藏に関る、長崎耶蘇會出版の一

書、題して「れげんだ・おれあ」と云ふ。

【45】

蓋し、 LEGENDA AUREA の意なり。され

ど内容は必しも、西歐の所謂「黃金傳説」ならず。

彼土の使徒聖人が言行を録すると共に、併せ

て本邦西教徒が勇猛精進の事蹟をも採録し、

以て、福音傳道の一助たらしめ〔んとせし〕ものの如し。

 体裁は上下二巻にして、美濃紙摺草体交り

平假名文にして、印刷甚しく鮮明を缺き、活

字なりや否やを明にせず。上巻の扉には、羅

〔甸〕字にて書名を橫書し、その下に漢字にて「御

出世以來千五百九十→六〕年、慶長→元〕年三月上旬

【46】

鏤刻」■也」の二行を縱書す。年代の左右には喇叭

を吹ける天使の畫像あり。技巧頗幼稚なれど

も、亦掬す可き趣致なしとせず。下巻も扉に

「五月中旬鏤刻也」の句あるを除いては、全く上

巻と異同なし。

 兩巻とも紙數は約六十頁にして、載する所

の黃金傳説は、上巻八章、下巻十章を數ふ。

その他各巻の巻首に著者不明の序文及羅甸字

を加へたる目次あり。序文は文章雅馴なら

ずして、間々欧文を直訳せる如き語法を交

【47】

へ、一見その伴天連たる西人の手になりしや

を疑はしむ。

 以上採録したる「奉教人の死」は、該「れげんだ・

おうれあ」下巻第二章に依るものにしてなり。→にして〕、恐ら

くは当時長崎の一〔西教〕寺院に起りし、事実を〔の〕、比較

的忠実なる記録〔事実の忠実なる〕記録ならんるべしと信ず。→ならんか。〕但、〔記〕

〔事〕中の大火〔なるもの〕は、「長崎港草」以下諸書に徴するも、

その年代〔有無〕を〔すら〕明にせざるを以て、事実の正確

なる年代〔に至つて〕は、全くこれを〔決〕定するを得ず。

 予は「奉教人の死」に於て、発表の必要上、多

【48】

少の筆〔文〕飾を敢てしたり。もし原文の素朴尚古〔平易雅馴〕

なる筆致にして、甚しく毀損せらるる事ある〔な〕

〔か〕らんか、予の幸甚とする所なりと云爾。

            (七・八・十二)

 

 

          芥 川 龍 之 介

2016/06/25

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 牛蝨

Usijirami

うしのしらみ

牛蝨

ニウ スエツ

 

按牛虱與螕畧似而不同也形狀似陰虱而大也遺卵

 遍身無所不至故毛悉1脱不可療急用草烏頭汁或

[やぶちゃん注:「1」=「亢」-(頂点の第一画)。]

 烟草汁頻注之可愈

たつのしらみ

龍蝨

[やぶちゃん注:以下は、底本では「龍蝨」の下に一字下げで二行で入る。]

 三才圖會云有龍虱似2蜋而小黒色兩翅

[やぶちゃん注:「2」=「虫」+「倉」。]

   六足秋月暴風起從海上飛來落水靣或池塘

 

 

うしのしらみ

牛蝨

ニウ スエツ

 

按ずるに、牛虱と螕〔(だに)とは〕畧〔(ほぼ)〕似而て同じからず。形狀、陰虱〔(つびじらみ)〕に似て、大なり。卵を遺して、遍身、至らざる所無し。故に、毛、悉く1〔(は)〕げ脱(ぬ)けて、療すべからず。急に草烏頭(とりかぶと)の汁、或いは烟草の汁を用ひて頻りに之れを注ぐ。愈〔(い)〕ゆべし。

[やぶちゃん注:「1」=「亢」-(頂点の第一画)。]

 

たつのしらみ

龍蝨 「三才圖會」云ふ、『龍の虱、有り。「2蜋〔(さうらう)〕」に似て小さく、黒色。兩の翅。六足。秋月に暴風(はやて)起(た)つとき、海上より飛來、水靣或いは池塘に落つ。』〔と。〕

[やぶちゃん注:「2」=「虫」+「倉」。]

 

[やぶちゃん注:私はこの「牛蝨」とは非常に高い確率で、シラミでもダニでもない、先の狗蠅の注で示したウマ・ウシ・イヌ・ウサギに寄生する、

双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目シラミバエ上科シラミバエ科 Hippoboscidae Hippoboscinae亜科Hippobosca属ウマシラミバエHippobosca equina

ではないかと思われる。そこでも述べた通り、かなり強烈なのでリンクは控えるが、画像検索で見ると、彼等は寄生生活に特化しているため、体がダニかシラミのような扁平な(しかし成虫は翅があって確かに蠅)形状に変化していて、それが牛の頸部などにおぞましいほどびっしりと吸着している状態を現認出来たからである。いや、もの凄い、わ。

 

・「草烏頭(とりかぶと)」前項にも出たが、今回は三文字に分かり易い現在の和名と同じものをルビする(底本のそれはカタカナだからより和名っぽい)。モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitumの塊根を乾燥させたもので、狂言の「附子(ぶす)」(但し、生薬名では「ぶし」、毒物として使う際に「ぶす」と呼んだ)で知られる強毒性漢方薬。

・「愈〔(い)〕ゆべし」「愈」は「癒」と通じ、同義がある。

・「1〔(は)〕げ脱(ぬ)けて」(「1」=「亢」-(頂点の第一画)「禿」と同字らしい。

・「龍蝨」中文ウィキで一瞬にして氷解! 昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目食肉(オサムシ)亜目オサムシ上科 Caraboidea の数科に跨る水生昆虫ゲンゴロウ(源五郎)類のことだ(正統に和名として名にし負うのは、ゲンゴロウ科ゲンゴロウ亜科 Cybistrini 族ゲンゴロウ属ゲンゴロウ(オオゲンゴロウ)Cybister japonicus であるが、絶滅危惧類(VU)。大きな個体は四センチメートルを越える)。確かに! 「水」を掌る巨大爬虫類の龍につくシラミなら水棲で、しかもこれっくらいデッカくなくっちゃ、ね!

・『「三才圖會」云ふ』中文サイトの「三才圖會」の全文検索でいろいろやってみたが、見当たらない。良安先生、これ、本当に「三才図会」からの引用ですか?

・「2蜋〔(さうらう)〕」(「2」=「虫」+「倉」)陸生甲虫類の一種を指していることは分かる。

・「水靣」水面。東洋文庫版現代語訳は「水面」とし、「面」にママ注記を附し、割注で『田』としている。他の箇所には見られない妙な拘りが訳に感じられて面白い。

・「池塘」小さな池や沼。]

眼から鱗ならぬ頭から頸

「奉教人の死」自筆原稿への注附けを続行中――

遂に永年の咽喉に刺さった骨――疑問の箇所の不審――が抜けた!

多分、岩波新全集(私は新字採用のあれを決定版と認めないので三冊しか所持しない)ではとっくに直っているのであろうが、それを私は、今回、芥川龍之介の自筆原稿とのみ、にらめっこして、オリジナルに、遂に解明し得たのであった。

これは今回のこの作業の最大の喜びである。

ありがとう! 文春! じゃねえや、国立国会図書館!

自筆原稿復元版と注(別立て)の公開は明日のサイト「鬼火」開設十周年を予定している。乞う、御期待!

2016/06/24

未明の覚醒

実は昨日、「奉教人の死」自筆原稿の復元作業は終えた。
 
しかし、今日の未明二時過ぎに眼が覚めたとたんに、それに無性に注を附けたくなって、やおら、起き出して始めてしまった。
 
そもそも「奉教人の死」は僕の教師生活最晩年の朗読のキモだったのだ。
 
結局、翠嵐で三度やったきりであったが、僕は無性に、この朗読が好きだ。
 
朗読するうちに涙が出て来るのだ。
 
未明の「覚醒」は何だったのか?……
 
――「奉教人の死」――これは実は漱石の「こゝろ」に並ぶ、僕の秘かなライフ・ワークだったことに気づいたのだった……

2016/06/23

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 陰蝨

Tubijirami

つびしらみ

陰蝨

インスエツ

 

本綱今人陰毛中多生陰蝨痒不可當肉中挑出皆八足

而扁或白或紅古方不載醫以銀杏擦之或銀朱熏之皆

愈也

按陰蝨即陰汁濕熱氣化而生復有傳染之者噉入皮

 毛間而色與膚相同故不可見其痒也不常不速治則

 緣上腋下及眉毛遺卵急剃去陰毛用熱醋傅之草烏

 頭汁塗亦可也醫學入門方搗桃仁泥塗之

 

 

つびしらみ

陰蝨

インスエツ

 

「本綱」、今の人、陰毛の中に多く陰蝨を生ず。痒さ、當〔(た)ふ〕るべからず。肉中より挑〔(は)ね〕出せば、皆、八足にして扁たく、或いは白く、或いは紅なり。古方に醫を載せず。銀杏を以て之れを擦(す)り、或いは銀朱、之を熏ず。皆、愈ゆ。

按ずるに、陰蝨は、即ち陰汁の濕熱の氣化して生じ、復た、之れを傳染(うつ)る者、有り。皮毛の間に噉〔(く)ひ〕入りて、色、膚(はだへ)と相ひ同じき。故、見るべからず。其の痒さや、常ならず、速かに治せざれば、則ち、緣(は)い上(あ)がり、腋の下及び眉の毛に卵を遺す。急に陰毛を剃(そ)り去つて、熱〔き〕醋〔(す)〕を用ひて之れに傅〔(つ)〕け、草烏頭(うず)の汁を塗(ぬ)るも亦、可〔(よ)〕し。「醫學入門」の方に、桃仁〔(たうにん)〕を搗き、泥にて之れを塗るとあり。

 

[やぶちゃん注:「つび」とは、一般には女性生殖器及びその周縁部を含む陰部(陰門・玉門)を差す古語であるが、時には男性のそれにも用いた。ここもその広義の用法で、他にも「陰虱」「鳶虱」(「つび」を「とび」と誤認したか或いは訛りか)などとも書き、ほぼヒトの陰部に特異的に寄生する、

昆虫綱咀顎目シラミ亜目ケジラミ科ケジラミ属ケジラミ Pthirus pubis

のことを指す。ウィキの「ケジラミ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『形は左右に幅広く、カニにも似て』おり、ヒトの『陰部を生息域とする』。前項に出た同じくヒトに特異的に寄生吸血するヒトジラミ科 Pediculidaeの亜種アタマジラミ Pediculus humanus humanus と、同じく亜種コロモジラミ Pediculus humanus corporisとは科のタクサで異にし(ケジラミ科 Ptheridae)、『外形も遙かに横幅が広く、左右に張った歩脚に爪がよく発達しており、カニに似て見える。英名も Crab louse と言うが、他にPubic louse(陰部のシラミ)も使われる』。『寄生部位は陰毛の生えている部分にほぼ限定され、発達した爪で陰毛をしっかり掴んであまり移動はしない。他者への感染は、性行為の際に行われる。吸血性であり、噛まれると大変に痒い』。但し、前二種とは異なり、『病原体を運ぶといった、これ以上の害を及ぼすことは知られていない』。『体長は一・五~二ミリメートルまで、全体に淡褐色で半透明。これはヒトジラミより一回り小さい。体型としては胸部で幅広く、また歩脚を左右に張り出しているので横幅が広くなっている』。『頭部は小さくて先端は丸くなっており、成虫では触角は五節、その基部後方に一対の眼がある。胸部は前・中・後の三節が融合しており、中央部でもっとも幅広い。三対の歩脚のうち中・後脚が太く大きく発達する。三脚とも先端の附節の先端が尖って腹部側に大きく曲がり、鎌状になっている。特に中・後脚ではこれと向かい合う位置で脛節の基部に突起を生じ、この間に毛を挟み込むことで強力に把握することが出来るようになっている。腹部前方の第一節から第四節までは互いに癒合し、この部分は胸部とも癒合している。後半部の五~八節では、縁から円錐形の突起が出て、その上に数本の毛がある』。『卵長楕円形では陰毛に透明な膠状物質で貼り付けられるが、先端部に蓋があり、ここに気孔突起が十~十六個ある。この部分はヒトジラミのそれより大きくて突出している』。『幼虫から成虫まで、全て陰部で生活する。中・後脚の爪で強固に陰毛を掴み、あまり移動せず、口器を皮膚に付けて吸血する。運動は緩慢で、移動はごくゆっくりと行われる。卵も陰毛の、特に付け根付近にくっつけて産卵される。他者への感染は性行為の際に行われる』。『感染部位については陰毛以外に臑毛、胸毛、眉毛、睫毛、時に頭髪から発見された例も知られている。なお、女性では頭髪などに発生することが比較的多い。これについて、ケジラミが陰毛を住処とするのがアポクリン腺があるからとの説があったが、これを否定するものである。また、女性の髪に発生が見られるのが比較的最近に多いとのことから、性行為の方法が変化したためではないかとの観測がある』。『成虫は体温付近では九~十四時間の絶食に耐え』、摂氏十五度では『二十四~四十四時間ほど耐えられる。移動能力としては一日で最大十センチメートルという記録があり、また絶食に関してもヒトジラミよりかなり弱く、人から離れるとより早く餓死する』。『卵の期間は約七日、一齢幼虫は五日、二齢が四日、三齢が五日、その後』、『成虫になる。雌成虫は一日に数個を産卵し、生涯では四十個ほどを産卵する。成虫の寿命は二十日ほどで、世代期間はヒトジラミより短い』。『吸血されると強い痒みを生じる。特にあまり移動せずに同じ場所から繰り返し吸血するため、その痒みが強烈に感じられる。痒みのために掻いて傷を付け、そこから二次感染症を起こす例はあるが、病原体を運ぶ、いわゆるベクターとして働くことは知られていない』。但し、『ケジラミを移されるような人は淋病など他の性感染症に感染することも多いとの声もある』。『医学的にはケジラミの寄生とそれによる症状を指してケジラミ症と呼び、性感染症の一つと認める』。但し、『これが性感染症であるとの認識は普及しておらず、その分野の教科書等でも取り上げられることは少ない。これはその症例が主要な性感染症に比べて少なく、また、その予後が悪くないことが原因であろうとの声がある』。『本種の被害については精確な調査は行われていない』。但し、『数は少ないものの現在でも発生が知られ、わずかながら増加しているともいう』。『寄生箇所が陰部であるため、その被害が明らかにされることが少ない。ただ、一九七一年頃より増加に転じ、一九七八年からは増加が早くなったとの報告がある。成人男女間で発生し、家庭内感染もあると』される。『具体的な数として、オーストラリアでは性感染症の一~二%を占めるという。また、例えば東京女子医科大学の皮膚科において、一九八三年の報告では過去十年間の初診患者五万人、そのうち』、『性感染症患者は四百人で、このうちケジラミ症は七件あったという』。「逸話」の項の記載が面白い。『北杜夫はその著作「どくとるマンボウ昆虫記」に『変ちくりんな虫』という章を設け、その真打ちとして本種について触れている。この虫を『世の古き人には周知のことだが、世のいとけなき人は仰天してしまうムシ』と記し、文語調で若い頃にこれに感染したこと、その姿が『微細なる蟹に似し』『すさまじげなる気配漂ひ』と述べ、感染が主として『いかがはしきまじはり』によると文献にあることに触れて『世に例外なき法則』はないと述べている』とある。

 

・「痒さ、當〔(た)ふ〕るべからず」この「當」の訓読は力技である。実際にはこの字には「任(た)ふる」(務める)の意はあるが、「耐ふ」(耐える)の意はない。

・「八足」ケジラミの歩脚は三対であるから、頭部に有意に突き出る触角を余分に数えたものであろう。

・「古方に醫を載せず」古い医学書には駆除法や治療法を載せない。

・「銀朱」赤色顔料の「朱」のこと。水銀を焼いて作り、主に朱墨(しゅずみ)として使用する。

・「陰汁の濕熱の氣化して生じ」また変なことを言っている。卵生なのに湿気からも生ずるというのである。また先のウィキの記載からも、「陰汁の濕熱」即ち、陰部臭や腋臭のもととなるアポクリン腺(apocrine gland)にケジラミが誘引されるという見解も今は疑わしい。

・「之れを傳染(うつ)る者、有り」性感染症の観点からこれは頗る正しい。私の偏愛する「病草紙(やまいのそうし)」(平安末期から鎌倉初期に描かれた人の疾患を描いた絵巻物)には陰虱(つびじらみ)を染された男が、陰部を丸出しにして仕方なく毛を剃っており、女(この女が一夜を共にしたところの感染源であろう)が背後で笑いながら見ている図が出るから、この感染形態は非常に古くから認知されていたことがよぅく判る。

・「速かに治せざれば、則ち、緣(は)い上(あ)がり、腋の下及び眉の毛に卵を遺す」これは現行の生態からも首肯出来る、正しい記載と言える。

・「醋〔(す)〕」「酢」に同じい。

・「草烏頭(うず)」ルビは「烏頭」にのみ附されている。有毒植物の一つとして知られる、モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitumの塊根を乾燥させたもので、狂言の「附子(ぶす)」(但し、生薬名では「ぶし」、毒物として使う際に「ぶす」と呼んだ)で知られる漢方薬(但し、強毒性)である。

・「醫學入門」明の李梃(りてい)撰の医学書。全七巻・首一巻。参照した東洋文庫版の書名注に、『古今の医学を統合し、医学知識全般について述べた書』とある。ネット検索では一五七五年刊とする。

・「桃仁〔(たうにん)〕」バラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica及びスモモ亜属Amygdalus Prunus節ノモモ(野桃)Prunus davidiana の成熟した種子を乾燥した漢方薬。]

感動!!! 「奉教人の死」自筆原稿!!!

作業中の「奉教人の死」自筆原稿復元版のクライマックス!――





 見られい。「しめおん」〔。〕見られい。傘張の

翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、

光を一身に浴びて、声もなく橫はつ〔「えけれ〕

た、■〔しや」〕の門に橫はつた、いみじくも美しい少年

の胸には、焦げ破れた衣のひまから、ふく〔清〕

らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居る

 

ではないか。されば〔今は〕燒けただれた面輪(おもわ)にも、

自らなやさしさは、隱れようすべ〔も〕ござない〔あるまじい〕。おう、「ろおらん」は女ぢや。「ろおらん」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやう

に佇んでゐる奉教人衆、ろおらん邪淫の戒を

破つたに由つて 「えけれしや」を逐はれた「ろお

らん」は 傘張の娘のやうな〔と同じ〕、 気髙くつつましく→眼なざしの〕あでや

かなこの国の女ぢや。



ここは現行では前の文章からだらだら続いていて、

   *

見られい。「しめおん」。見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、聲もなく「さんた・るちや」の門に横はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、淸らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。

   *

ところが、芥川龍之介の自筆原稿ではここでちゃんと改行されており(現在は改行がない。ここは誰がどう考えても改行すべきところだろ!)、しかも――

「淸らかな二つの乳房」

は抹消改稿前は、

「ふくらかな二つの乳房」

と判読出来た!!! デジャ・ヴュだ!!! 涙が出た!!!

現在進行中

現在進行中の芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)の冒頭注をちょっと紹介する――

芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認した。これは朱の校正記号が入った決定稿であり、岩波旧全集の「後記」の初出についての異同記載とよく一致することから、大正七(一九一八)年九月一日発行『三田文学』初出版の原稿と考えてよく、旧全集が引用する過去の普及版全集の「月報」第四号所収の「第二卷校正覺書」に『南部修太郎氏所藏の「奉教人の死」の原稿を拜借させていただけましたので、大いに參考えになりました。』とある『南部修太郎氏所藏の「奉教人の死」の原稿』と同一のものではないかと推定される。なお、旧全集後記は初出との校合は行っているが、この決定稿との校合をしているわけではない

 私は既に、

岩波旧全集版準拠   「奉教人の死」

作品集『傀儡師』版準拠「奉教人の死」(上記との私の校異注記を附記)

及び、芥川龍之介が典拠とした(龍之介は実は、『『奉教人の死』の方は、日本の聖教徒の逸事を仕組んだものであるが、全然自分の想像の作品である』と明言し、『『奉教人の死』を發表した時には面白い話があつた。あれを發表したところ、隨分いろいろな批評をかいた手紙が舞ひ込んで來た。中には、その種本にした、切支丹宗徒の手になつた、ほんものゝ原本を藏してゐると感違ひをした人が、五百圓の手附金を送つて、買入れ方を申込んだ人があつた。氣毒でもあつたが可笑しくもあつた』などと書き(「風變りな作品二點に就て」(大正一五(一九二六)年一月『文章往來』)。リンク先も私の電子テクスト)、書簡(昭和二(一九二七)年二月二十六日附秦豐吉宛書簡(岩波旧全集書簡番号一五七七)の二伸では『日本版「れげんだ・あうれあ」は今から七八年前に出てゐる。但し僕の頭でね、一笑』などと平然と嘘をついているが)、

斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」

を電子化している。

 復元に際しては、当該原稿用紙の一行字数二十字に合わせて基本、改行とした。但し、芥川龍之介は鈎括弧を一マスに書かずにマスの角に打つ癖があり、また以下に示す通り、抹消と書き換えを再現しているため、結果、実際の復元テキストでは一行字数は一定しない。

 原稿用紙改頁(一行字数二十字十行・左方罫外下部に『十ノ廿 松屋製』とある)を一行空けで示した。

 ルビはブログ版では( )同ポイントで示した。これによって当時の芥川龍之介が原稿にどれほどのルビを振っていたかがよく判る。実はそれ以外の殆どのルビは校正工が自分勝手に振っていたのである。これはあまりよく知られているとは思われないので、特に明記しておく。最初の全集編集の際、堀辰雄が原則、ルビなしとするべきだと主張した(結局、通らなかった)のはそうした当時の出版事情があったからである。

 抹消は抹消線で示し、脇への書き換え及び吹き出し等によるマス外からの挿入は〔 〕で示した。

 判読不能字(龍之介の抹消は一字の場合にはぐるぐると執拗に潰すことが多いために判読が出来ないものが多い)は「」で示した。

 朱で入っている校正記号は原則、無視した。

 漢字は龍之介が使用しているものに近いものを選んだので略字と正字が混在している。判断に迷った字は正字で示した。

 なお、現行との重大な異同点は主人公「ろおれんぞ」が一貫して「ろおらん」である点で、これは読んでいて相当に印象が異なる。他にも、現行では『「さんた・るちや」と申す「えけれしや」』という教会の固有名がなく、一貫して教会の一般名詞「えけれしや」で通されている点、主人公に懸想する娘の当初の設定を鍛冶屋としていたことが抹消・書き換えで判明する。また、龍之介が仮想的に再現しようとした当時の独特の語り口の表現に、かなり苦労している様子が抹消や書き換え・挿入ではよく伝わってくるように私には思われる。この私の原稿復元版はそうした箇所を見るだけでもかなり興味深いものと思う。]

2016/06/22

ヤバシヴィッチ!

やばい!……国立国会図書館デジタルコレクションの画像にとんでもないものを見つけてしまった!……芥川龍之介の「奉教人の死」の自筆原稿(全)だ!……ほんとにヤバイ!……これは無視していられない!……
 
 
やっぱ! ヤバシヴィッチや!! これ! 冒頭から現行のものとちゃうでえ!!! 主人公は「ろうれんぞ」でない!! 「ろうらん」やで!!!


確かに、旧全集の後記には「ろうらん」となっているという記載があるけれど、これは印象大分、ちゃうなあ!
 

ブログ830000アクセス突破記念 火野葦平 水紋

[やぶちゃん注:従来通り、火野葦平(明治四〇(一九〇七)年~昭和三五(一九六〇)年)がライフ・ワークとした河童を主人公とした原稿用紙千枚を越える四十三篇からなる四季社より昭和三二(一九五七)年に刊行されたものを昭和五九(一九八四)年に国書刊行會が復刻し、平成一一(一九九九)年に新装版として再刊された正字正仮名版を底本として用いた。明らかに戦中を舞台としていることは分かるが、調べてみると、実際の執筆自体が昭和一七(一九四二)年であることが判明した。この時に、これを書いた火野葦平を、何か今、私は、内心忸怩たる思い出、しみじみ読んだ。

 「小倉にある陸軍橋からすこし上流の紫川」と出るので、ロケーションは実在する。紫川(むらさきがわ)は現在の福岡県北九州市小倉南区及び北九州市小倉北区を流れる二級河川であるが、ここに出るのは小倉駅南西一キロほどの地点に架かる「鉄の橋」、正式名を河川名を持った「紫川橋」の旧通称「陸軍橋」である。

 「遊弋」(ゆうよく)は、一般には艦船が水上をあちこち動き回って敵に備えることであるが、それに喩えて鳥魚などがあちこち動き泳ぎ回ることを言う。

 「山田の曾富騰(そほと)」大国主の国造り神話に登場する神の名で、一般には「山田の案山子」の濫觴とされる神、久延毘古(くえびこ)である。ウィキの「久延毘古によれば、「古事記」によると、『大国主の元に海の向こうから小さな神がやって来たが、名を尋ねても答えず、誰もこの神の名を知らなかった。するとヒキガエルの多邇具久』(たにぐく)『が「久延毘古なら、きっと知っているだろう」と言うので、久延毘古を呼び尋ねると「その神は神産巣日神の子の少彦名神である」と答えた』とある神である。さらに「古事記」ではこの「久延毘古とは『山田のそほど』のことである」と説明されており、『「山田のそほど」とはかかしの古名であり、久延毘古はかかしを神格化したもの、すなわち田の神、農業の神、土地の神である。かかしはその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった』とある。「くえびこ」と河童を結びつける説は必ずしもポピュラーなものとは思われないが、「くえびこ」は「崩え彦」「朽ち腐り果てた男」であり、水死体を思わせる生臭い河童のしれとは親和性があるように思われてならない。

 本テクストは本日、2016年6月23日に2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログが830000アクセスを突破した記念として公開する。 藪野直史]

 

 

   水紋

 

 曇つた日にはよくわからないが、晴れた日に、川の水面を透(す)かしてみると、恰度(ちやうど)、一錢白銅を浮かべたやうに、そこだけ丸く光つてゐる部分のあることに氣づくことがある。それはひとつの場合もあり、數個のときもあり、また、あられ模樣のやうに數をかぞへることのできない折もある。また、さめ小紋に似てあまり密集してゐるので、かへつて、それと氣づかないことも珍しくない。なほ、よく氣をつけてみると、それは小さい渦のやうに、つねに𢌞つてゐる。さういふものを、水面に認めた場合には、その下に河童が居るものと考へてよい。しかし、河童が水中に居れば、そのまうへの水面にさういふ標識があらはれるといふことは、河童自身は知らないのである。もつともすべての河童がさうであるといふのではなく、種族によつてその標識をあらはさないものもある。河童は種族によつてその出生の歷史を異にしてゐることは周知の事實であるが、その水紋をあらはすものは、概して出のよい種族の場合が多い。壇の浦に沈んで亡びた平家の末裔(まつえい)が、男は蟹となり女は河童となつたことは有名な話であるが、われわれは關門海峽の水面にこの水紋を發見することはたびたびである。

 ところで、あるとき、小倉にある陸軍橋からすこし上流の紫川の水面に、二十よりは少くない水紋がゆるやかに舞ひながら、冬には珍しく晴れわたつた太陽の光を受けて、鈍(にぶ)銀色に光つてゐた。しかしながら、橋を通る人も、岸を通る人も、たれひとりそれに注意する者はなく、そればかりではなく、さつきから傳馬船や、筏(いかだ)などがその水紋のうへを何度も往き來した。そこは川がすこし曲つてゐるところで、水流のあたる部分が深く底を掘り、淵のやうになつてゐる個所だ。そこへ、さつきから水紋と同じ數の河童たちが集つて、熱心になにか語り、とがつた嘴を鳴らしては悲しんだり、怒つたり、笑つたりしてゐた。

 まづ、彼等は自分たちの望みのかなはないことがなによりも遺憾に耐へぬ風であつた。彼等は地上で起つてゐることに對して、じつとしてゐることができず、自分たちもその鬪(たたか)ひに參加したいことを念願したのであるが實現きれなかつた。彼等は傳説による祖先の光榮を自負して、いささかの疑義もなく、現在の戰(いくさ)に參畫できることを信じたのであつたが、その希望は達せられなかつたのである。

 何日か前に、彼等のうらの思慮と勇氣とを有するものが提議した。

「いま、地上では壯大な戰爭が始まつてゐる。どんな意味の戰爭かは知らないが、われわれもこの國に棲む河童として、是が非でもこの戰に參加したい。きつと役に立つことができるに相違ない。われわれは傷を癒す術はもちろん、手足の落ちたのをつぐこともできる。またもつとも得意とする水中遊弋(いうよく)によつて、敵の部隊や艦隊の動靜をさぐり、また、そのほかのいかなる情報をも手に入れることができる。日淸、日露の兩役には、屋島に棲む九十六匹の狸が出陣して、功をあらはしたことも聞いてゐる。下賤なる狸ですらさうであるから、われわれがじつとしてゐるわけにはゆかない。われわれは落ちぶれたりとはいへ、祖先の名はあきらかに古事記にその名をとどめられてゐるのだ。山田の曾富騰(そほと)といへば、もとは山や田や水を治(をさ)める神であつた。殘念にも、子孫に心がけのよくないものが居つたために、山中では山わろになり、水中では河童になつたが、それはわれわれとはまつたく關係のないことだ。われわれは、心のなかではすこしも古事記の尊嚴を失つてゐないと確信してゐる。出陣しよう。そして、大いに鬪はう」

 ところが、彼等の希望はさかんなる意氣込みにもかかはらず實現しなかつた。彼等の代表が軍に申し出たところ、その志は壯とし協力の意は謝すも、日本軍は力が足りなくて、河童の應授まで受けたと思はれたくない、といふ理由で拒絶されたのである。それが、河童たちが悲しんでゐたわけである。

 怒つてゐたのは、このごろ、怪しい形のものが水中を徘徊して、水をにごすといふのである。それはごく最近氣づいたことであるが、このごろ、嘗て知らなかつた異樣の鳴き聲をときどき聞く。河童の聲はふたつの皿をたたくときに出る音に似てゐるのであるが、その間きなれぬ聲は、恰度、二本の木の板をゆるくかち合はしたときの音に似てゐて、鈍重で、卑屈に聞える。その正體をはじめは見たものがなかつたが、やがて、あるとき、勇敢なる河童がしきりに異樣な調子で鳴いてゐる聲をたよりに近づいていつてそれを捕へた。

 水面から光の透して來ない水底に、岩や木屑や竹片などの堆積(たいせき)した場所がある。さういふところに好んでその怪しい形のものは潛(ひそ)んでゐる。彼等はひつそりと靜まりかへつてはゐるのであるが、どうしたものか、しきりににぶい聲で鳴く。いくら隱れてゐても、聲を立てればそのありかがわかるのに、生まれつき暗愚なのか、また鳴かずに居られないのか、鳴く。そして、たれかが近づく氣配がすると、あわてて逃げだす。さういふ風に、暗いところばかりにゐて、臆病に逃げ𢌞ることを仕事にしてゐるので、その姿を明瞭に見たものがない。ただ、咄嗟(とつさ)に見た印象で、變てこな形のものであることだけはわかる。紫川の河童たらの間では、この怪しい闖入(ちんにふ)者が問題になり、時節柄、棄ておけないといふことになつた。

 そのとき、つひに捕へられたものははげしい聲で鳴きわめいた。彼のながす涙は水中に二本の靑い帶をながしたやうに、下流の方へのびていつた。龜にも似た身體に、棕櫚(しゆろ)のやうに長い毛をはやし、蛙のやうに臍のない褐色の腹をあふむけにして、短い手足をばたばたきせた。嘴は信天翁(あはうどり)に似、眼は深い毛にかくれて、どこにあるかわからなかつた。しかし、それがやはり河童にちがひないことだけは、頭に皿のあることによつて理解できたのである。

 やがて、謎がとけた。これらの怪しい恰好の河童たちは、どこか、遠い南の方から移住して來たのであつた。それは、南の方ではげしい戰爭が始まつて、身邊が危險になつて來たからである。彼等は安全地帶をもとめて右往左往し、つひに、この邊の川や沼に落ちついた。移住の途中でも、あるものは彈丸や爆彈にあたつて死に、あるものはあわてふためいて戰車に衝突してたふれた。長い恐しい旅であつた。彼等はまつたく一身の安全のために平穩の地を求めてやつて來たのであつて、なんら他意はなかつたのである。

 紫川の河童たらはこの寄るべない南方の河童たちを輕蔑した。同情するやうになつたのは、ずつと後のことである。輕蔑したのはその勇氣のなさと、自分のことより外にはなにも考へない態度に對してである。彼等も南方に棲んでゐたものであれば、何故、南方の國のために鬪はないのか。その土地と運命をともにしないか。さう考へたのだ。しかし、よく考へてみると、彼等が鬪つて殉ずべき國を持つてゐなかつたことがわかつた。彼等が生まれ育つたところは、彼等が祖先となんの關係もない者によつて犯されてゐる。遠くから來た皮膚の白い人間たちが、暴力と金力とをもつて、南方の島々を自由にしてゐたのだ。いかに河童が暗愚とはいへ、それらの者のために鬪ふことができようか。さう聞けばさうである。輕蔑した紫川の河童たちも、のちにはさう思ふやうになつた。

 ところが、この氣の毒な遠來の河童たちの態度は、紫川の河童たちの考へが變つてからも、すこしも變ることがなかつた。相かはらず陽の透さぬ場所にひそみ、癖になつたやうに鈍い聲で鳴き、ちよつとの物音にも逃げだしてゆく。これが紫川の河童たちが笑つてゐたわけである。

 やがて、話しつかれた河童たちが淀みの淵から出て、別れてゆくと、陽のあかるい水面を多くの鈍銀色の水紋が、風にふき散らされる花びらのやうに、散つていつた。

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北條九代記 卷第九 日蓮上人宗門を開く

      ○日蓮上人宗門を開く

去ぬる正嘉元年八月より、天變地妖樣々にて風雨、洪水、飢饉、疾疫、打續きければ諸寺諸社に仰せて、國家安鎭の大法を修し、祈禱の懇誠(こんぜい)を致さるれども、變災愈(いよいよ)重りて、餓莩(がへう)、野に盈(み)ちて、鳥犬(てうけん)、尸(かばね)を爭ひ、臭氣、風に乘つて、行人(かうじん)、鼻を蔽ふ。「是(これ)只事にあらず、如何樣(いかさま)、政道の邪(よこしま)なる歟(か)、理世(りせい)に私ある歟。天怒り、地怨むる所あらば、罪を一人に示し給へ。民、何の科(とが)に依(よつ)て、かゝる災禍(さいくわ)に逢ふ事ぞ」と、時賴入道、深く歎き給ひけれども、時運(じうん)の環(めぐ)る所、力及ばざる折節なり。去ぬる四月十三日に改元ありて、正嘉二年を引替て文應元年とぞ號せられける。同十八日に改元の詔書、鎌倉に到來す。同二十二日政所において、改元の吉書、行はれ、松殿(まつどのの)法印に仰せて、御祈禱の爲、千手陀羅尼(だらに)の法を修(しゆ)せらる。爰に、法華經の持者(じしや)沙門、釋(しやく)の日蓮法師とて、學智の上人あり。本姓(ほんしやう)は三國氏、安房國長狹郡(ながさのこほり)東條郷(とうでふのがう)市川村小湊(こみなと)の浦の人なり。父は貫名(ぬきなの)左衞門尉重忠、母は淸原氏、日天耀きて胸を照すと夢みて孕(はら)めり。後堀河院貞應元年二月十六日に誕生あり。十二歳にして淸澄山(きよすみさん)の道善房(だうぜんばう)の上人の弟子となり、十八歳にして出家受戒し、日蓮房とぞ號しける。虛空藏求問持(こくうざうぐもんぢ)の法を修し、其より台嶺寺門(たいれいじもん)の間に、學行修道し、三十二歳にして大道(だいだう)利生の志を起し、建長五年三月二十八日、七字の題目を唱へて、宗門を開かれし所に、淸澄の追善房、是を妬(ねた)みて、地頭(ぢとう)東條左衞門尉景信と心を合せて、寺中を追放す。力なく寺を出でて、相州鎌倉に來り、名越の松葉谷(まつばがやつ)に草菴を構へ、日每に出でて巷に立ちつゝ、七字の題目を稱揚す。是を聞く人、或は信をおこし、或は毀(そしり)を致し、其(その)名、漸く鎌倉中に隱(かうれ)なし。去ぬる正嘉元年より、今文應の初に及びて、天變妖災、暇(ひま)なく行はれて、人民、飢疫(きえき)の愁(うれへ)に罹る。日蓮即ち立正安國論一卷を作り、文應元年七月十六日に、鎌倉の奉行宿谷(しゆくやの)左衞門入道最信(さいしん)を以て、時賴入道に參せたり。時賴入道、是(これ)を聞き、見給ふ所に、「日蓮の志、我執輕慢(がしうきやうまん)の中より、宗門建立(こんりふ)の爲(ため)、書記せられ、天下この宗門を用ひざる事を憤り、世を呪咀する思(おもひ)あり。文章の趣(おもむき)、穩(おだし)からず」と讒(さかしら)申す人ありければ、打捨てられて侍りけり。又、傍(かたはら)には「日蓮法師、珍しき宗門を立てゝ、諸宗を誹謗し、鎌倉の執權、奉行、頭人(とうにん)を惡口(あくこう)し、我慢自大(がまんじだい)なる事、世の爲(ため)、人の爲、災害の根(ね)なり」と申し沙汰しければ、「かゝる惡僧ならば、鎌倉中に許し置く事然るべからず」とて、弘長元年五月十二日行年四十歳にして、日蓮法師を伊豆國伊東の浦へ流され、伊東八郎左衞門尉朝高(ともたか)にぞ預けられける。同三年五月に召返(めしかへ)さる。文永年中に、日蓮法師、名越(なごや)の草菴にありながら、諸宗を誹謗し、行德(ぎやうとく)の碩學(せきがく)を惡口し、將軍家を呪詛せらるゝ由、伊和瀨(いわせの)大輔、申し行(おこな)ふ旨、有りて、弟子檀那六人と共に宿谷(やどや)の土牢に入れたりけり。然れども、猶諸人の怒(いかり)を宥(なだ)めん爲(ため)、龍口(たつのくち)の海邊(かいへん)に引出し、斬罪(ざんざい)に行はんとす。相州、深く憐(あはれ)みて、俄(にはか)にせられけり。この法師、鎌倉近く叶ふべからず、遠島(ゑんたう)に移すべしとて、武藏〔の〕前司に仰せて、佐渡島にこそ流されけれ。同十年二月に、相州時宗、大赦(たいしや)行はれ、鎌倉に歸り入り、其より甲州に赴き、身延(みのぶ)と云ふ所に一宇を構へて、移住せらる。弘安五年九月に、武藏國に打越(うちこえ)て、 池上といふ所に行致(ゆきいた)り、同年十月十三日に遷化(せんげ)あり。其弟子日朗(らう)、日昭(せう)以下、上足の弟子等(ら)諸方に𢌞(めぐ)りて、法華經を讀誦(どくじゆ)し、題目を唱へ、不惜身命(ひしやくしんみやう)の行を勤め、漸く宗門、世に弘通(ぐつう)し、持經修道(じきやうしゆだう)の男女貴賤、諸國に今、盛(さかり)なり。

[やぶちゃん注:湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この部分は、「吾妻鏡」巻四十九の文応元(一二六〇)年四月十八日・二十二日の他、日蓮関連記載の方は「日蓮聖人註画讃」(五巻一冊・日澄著・寛永九(一六三二)年板他)に拠っており、『冒頭に天変地妖が続き、時頼の憂いとなっていたと述べ、救済者日蓮登場の前話とする』とある。

「正嘉元年」西暦一二五七年。

「懇誠(こんぜい)」真心を込めて行うこと。

「餓莩(がへう)」現代仮名遣は「がひょう」と読む。「莩」はこれだけで「飢え死に」の意。

「理世(りせい)」「治世」に同じい。

「罪を一人に示し給へ」その罪と罰は、為政者たるこの私時頼一人にお示し下されよ。

「去ぬる四月十三日に改元ありて、正嘉二年を引替て文應元年とぞ號せられける」誤り。正嘉二(一二五八)年には改元はなく、翌正嘉三年の三月二十六日に正元に改元され、正元二年「四月十三日」(ユリウス暦一二六〇年五月二十四日)に文応に改元されている。

「同十八日に改元の詔書、鎌倉に到來す」こkは正しい。「吾妻鏡」巻四十九の文応元(一二六〇)年四月十八日の条に、「今日。改元詔書到來。去十三日。改正元二年爲文應元年。」(今日、改元の詔書到來す。去ねる十三日、 正元二年を改め、文應元年と爲す。)とある。

「松殿(まつどのの)法印」(?~文永三(一二六六)年)関白藤原忠通の次男基房の孫で真言僧であった良基(りょうき)の通称。定豪(じょうごう)に学び、鎌倉で祈禱に従事した。この後の文永三年には第六代将軍宗尊親王の護身験者(げんざ)に昇ったが、親王の謀反の疑いに関係して高野山に遁れ、食を断って同年中に死去した。

「千手陀羅尼(だらに)の法」千手観音を本尊とした除災を祈請する修法(ずほう)。

「持者(じしや)沙門」一般には経典を常に持って拝読することや、寺に参って経典を読誦することを指すが、特に法華経を信読する者を「持経者」と称した。

「釋(しやく)の」ここは広く仏教者が釈迦の宗教的一族であるとして法名の上に宗教的な姓として附した語。

「本姓は三國氏」日蓮(貞応元(一二二二)年~弘安五(一二八二)年)の父は三国大夫(貫名(ぬきな)次郎(現在の静岡県袋井市の藤原北家支流の武家貫名一族を出自とする)重忠、母は梅菊とされる。日蓮は「本尊問答抄」に『海人(あま)が子なり』、「佐渡御勘気抄」に『海邊の施陀羅が子なり』(旃陀羅(せんだら)は中世の被差別民に対する呼称であるが、或いは殺生を生業とする漁師の子の謂いかも知れぬ)、「善無畏三蔵抄」には『片海(かたうみ)の石中(いそなか)の賤民が子なり』(「片海」は地名で「石中」は「磯辺」の謂いであろう)、「種種御振舞御書」では『日蓮貧道の身と生まれて』等と記している(ここは一部でウィキの「日蓮」の記載を参考にした)。

「安房國長狹郡(ながさのこほり)東條郷(とうでふのがう)市川村小湊」現在の千葉県鴨川市安房小湊。

「母は淸原氏」ウィキの「日蓮」の注に、「百家系図稿」(江戸末期から明治にかけての系図家である鈴木真年の著)『では、幼名を薬王丸、母を清原兼良の娘とする』とある。

「淸澄山(きよすみさん)」現在の千葉県鴨川市清澄にある寺で、今は日蓮が出家得度及び立教開宗した寺とされて、日蓮宗大本山千光山清澄寺(せいちょうじ)として、久遠寺・池上本門寺・誕生寺とともに日蓮宗四霊場と呼ばれているが、元は凡そ千二百年前の宝亀二(七七一)年に「不思議法師」なる僧が訪れて虚空蔵菩薩を祀って開山し、承和三(八三六)年に天台宗比叡山延暦寺の中興の祖慈覚大師円仁がこの地を訪れて修行を成して以来、天台宗の寺として栄えていた。

「道善房」日蓮の出家得度の師であり、薬王丸という名も彼から貰ったともされる。詳細な事蹟は不詳であるが、清澄寺で強い発言力を持つ僧であったらしい。日蓮は後に彼の死去の報に接した際、「報恩抄」を執筆し、その中でその真摯な感謝と追悼の思いを吐露している。

「虛空藏求問持(こくうざうぐもんぢ)の法」虚空蔵菩薩を本尊とした修法で、虚空蔵菩薩の真真言(マントラ)を「ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」を百万遍唱えつつ行うという。

「台嶺寺門(たいれいじもん)」「台嶺」は「台岳」とも称し、比叡山を中国浙江省にある仏教の聖山天台山に模して唐風に呼んだ称。「寺門」とあるから、日蓮の遊学した天台寺門宗の三井寺(園城寺)などをも含む。

「三十二歳にして大道(だいだう)利生の志を起し」ウィキの「日蓮」に、建長五(一二五三)年(年)四月八日(他に五月二十六日、六月二日説があり、本文の「三月二十八日」もその一説か)のこと、『朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める』とある。

「東條左衞門尉景信」(生没不詳)は、鎌倉前期の武将。ウィキの「東条景信」より引く。『安房国長狭郡東条郷の地頭を務めて』おり、念仏宗徒であったらしい(但し、未確認)。この時、日蓮が法華経信仰を説いた際、『景信の信仰している念仏も住生極楽の教えどころか』、『無間地獄に落ちはいる教えであると述べ、法華経のみが成仏の法であると述べたことに怒り、日蓮を殺害しようとしたが』、『清澄寺の道善坊の取り計らいで事なきを得た』(本文は道前坊を日蓮追放の首魁の如く語っているが、前に記した後の日蓮の追悼文などから見ると、この記載の方が真実味がある)。『日蓮は念仏宗を批判することをやめず、その後も他宗教排撃を弘通活動の中で盛んに行っている。景信はこの信仰上の恨みとともに、日蓮やその両親が恩顧を受けた領家の尼の所領を景信が侵略した時、日蓮が領家の尼の味方をして領家側を勝訴に導いたことなどから、一層の恨みが募ったのではないかと思われている。景信は』文永元(一二六四)年に『日蓮が天津の領主工藤吉隆のもとへ招かれた帰途を待ち伏せ』て襲撃したが』、討ちもらしている(小松原法難。これはかなり有名な法難で日蓮は額を斬られて左腕を骨折、信徒の工藤吉隆と弟子の鏡忍房日暁が殺害されている)。『景信のその後の消息に関しては現在のところ正確にはわからないが』、『一説によると』正応四(一二九一)年八月、享年六十三で『病死したとされる。法号は宝昌寺殿道悟景信大禅門と伝えている。この説によれば小松原で日蓮を襲撃してから』二十七年後に『没したことになる』とある(法名に「禅門」とあるが、融通念仏宗ではよく見られる戒名である)。

「名越の松葉谷(まつばがやつ)」現在の鎌倉市大町の名越(なごえ:現行はこちらであるが、鎌倉時代は「なごや」の訓が一般的であった)に含まれる一地域名として現存。

「日每に出でて巷に立ち」知られた辻説法である(但し、現行の小町大路の二箇所に「辻説法跡」とする記念碑が建てられてあるが、当時の幕府の位置や鎌倉市街の路線などから推理しても、特にそこでという限定は却っておかしく信ずるに足らないと私は思っている。各所で行ったとすればよろしい)。

「正嘉元年より、今文應の初」正元を挟んで凡そ三年。

「立正安國論」文応元(一二六〇)年七月十六日に得宗北条時頼(彼は執権をこの四年前の康元元(一二五六)年十一月に義兄の北条長時に譲って出家していた。嫡子時宗が未だ六歳と幼少であったことによる中押さえの代役(眼代(がんだい):代理人)であって、以前、実権は時頼にあった)に上呈している。題名は正しい正法(しょうぼう:彼の場合は法華経に基づく唯一無二の真の仏法理)を建立し、国土を安穏にするという意。日蓮は他宗を邪宗として排撃する際に「四箇格言(しかかくげん)」(念仏無間 (念仏宗徒は無間地獄に落ちる) ・禅天魔 (禅宗は天魔の行い)・真言亡国 (真言宗は国を滅ぼす元)・律国賊 (律宗は国賊そのもの) )が知られるが、同書では特に法然の念仏をやり玉に挙げ、現世を厭離(おんり)して来世に於ける極楽往生をただ冀(こいねが)うという末法思想的解釈こそが邪法であることを訴え、穢土(えど)たる現実をこそ仏国土化するという発菩提心(ほつぼだいしん)を起こすことこそ正法とする姿勢が読みとれる。

「宿谷(しゆくやの)左衞門入道最信(さいしん)」北条氏得宗家被官の御内人で当時、寺社奉行であった宿屋光則(やどやみつのり 生没年未詳」読み方は孰れもあった。本文でも後で「やどや」と読んでいる)。「吾妻鏡」では後の弘長三(一二六三)年の時頼の臨終の場で、最後の看病を許された得宗被官七名の中の一人に含まれている。ウィキの「宿屋光則」によれば、『光則は日蓮との関わりが深く』、『日蓮が「立正安国論」を時頼に提出した際、寺社奉行として日蓮の手から時頼に渡す取次ぎを担当している。また、日蓮の書状』を見ると、文永五(一二六八)年八月二十一日及び十月十一日にも『北条時宗への取次ぎを依頼する書状を送るなど、宿屋入道の名前で度々登場している』。本文に出る文永八(一二七一)年の日蓮とその一党の捕縛の際には、『日朗、日真、四条頼基の身柄を預かり』、鎌倉の長谷にある『自身の屋敷の裏山にある土牢に幽閉した。日蓮との関わりのなかで光則はその思想に感化され、日蓮が助命されると深く彼に帰依するようになり、自邸を寄進し、日朗を開山として』現存する日蓮宗行時山(ぎょうじさん)光則寺(こうそくじ)を建立している(山号は光則の父の名)。

「我執輕慢(がしうきやうまん)」自身の執心にのみとらわれており、それに慢心し、他者を一切軽んずる心に満ちていることを指す。

「書記せられ」書き記された(もので)。「られ」は受身であって尊敬ではないので、注意。

「穩(おだし)からず」「おだし」は形容詞で「穏やかだ」の意。

「讒(さかしら)」如何にも解っているという風に振る舞うこと。或いは、差し出口(でぐち)をきくこと、でしゃばること。

「頭人(とうにん)」引付衆のこと。評定衆(執権・連署とともに幕府最高意思決定機関を構成したが、鎌倉後期には有名無実化した)を輔弼して政務一般及び訴訟審理の実務に当たった中間管理職。

「我慢自大(がまんじだい)」我儘放題で、慢心し、おごり高ぶること極まりないことを指す。

「弘長元年」一二六一年。

「伊豆國伊東の浦へ流され」所謂、伊豆法難。現在の静岡県伊東市に流罪となったが、実際には伊豆到着前に伊東沖にある「俎岩(まないたいわ)」という小さな岩礁に置き去りにされている(後二漁師の弥三郎という者に助けられたという)。

「伊東八郎左衞門尉朝高(ともたか)」監視役であった伊東の地頭。幾つかのネット記載を見ると、理屈上、繋げるなら、弥三郎(或いは伴左衛門とも)に助けられた日蓮は、形式上で幕府から指示されていたのであろう伊東朝高に預けられ(俎岩放置事件を知らなかったなんてことはあり得ない。或いはそんな事件は実はなかったのかも知れぬ)、日蓮は川奈の岩屋に幽閉したというコンセプトらしい。ところが、朝高が原因不明の重病に罹って危篤となり、家臣綾部正清が幽閉された日蓮を訪ねて平癒祈願を懇願、当初は断ったものの、正清に信仰の兆しを見、祈禱を行い、目出度く快癒したというオチがあるようである。

「同三年五月に召返さる」調べた限りでは時頼の措置によって赦免状が発せられ、日蓮が鎌倉の草庵に帰ったのは弘長三(一二六三)年二月二十二日(配流から一年九ヶ月後)とある。

「文永年中」文永元(一二六四)年に先に記した「小松原法難」があったが、文永五(一二六八)年には蒙古から幕府へ国書が届き、日蓮が主張していた他国からの侵略の危機が現実となった。ウィキの「日蓮」の年譜には、この時、日蓮は執権北条時宗(時頼から継いだ第六代執権の北条長時は文永元(一二六四)年七月に第二代執権北条義時五男北条政村に執権を譲り、まさにこの文永五年三月に十八歳になっていた時宗に、やっと第八代執権職が回ってきたのであった)、内管領(うちかんれい)『平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観』(忍性の通称)『などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫』っている。文永八(一二七一)年七月には極楽寺忍性との祈雨対決での忍性の敗北を指弾、九月には、歯に物着せず盛んに、批難を浴びせてくる(宗旨だけではなく、彼らが幕府から受けていた経済活動に対しても敢然と物申した)のに業を煮やした忍性や『念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴え』、『平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れ』た(知られた「龍ノ口の法難」。時宗が死一等を減じたのは、この時に正妻(後の覚山尼)が懐妊していた(十二月に嫡男貞時を出産)ことが理由(比丘殺しは仏者には祟りが怖い)と私は踏んでいる)。翌十月に佐渡へ流罪となった。

「伊和瀨(いわせの)大輔」不詳。ある記載によれば、忍性一派による謀略上の傀儡ともする。確かに、この法難の前後は怪しいことだらけではある。

「相州」北条時宗。

「武藏〔の〕前司」恐らくは北条宣時(暦仁元(一二三八)年~元亨三(一三二三)年)のことであろう。大仏(おさらぎ)宣時とも称した。父は大仏流北条氏の祖である北条朝直。建治元(一二七七)年引付頭人になり、後の弘安一〇(一二八七)年には第九代執権北条貞時の連署を務めた。因みにかの「徒然草」の第二百十五段に現れる最明寺入道時頼が自邸でサシでかわらけに残った味噌を肴に酒を酌みをかわした相手は、実に若き日のこの宣時である。

「同十年二月に、相州時宗、大赦(たいしや)行はれ、鎌倉に歸り入り」文永十年は文永十一年の誤り。文永一一(一二七四)年二月十四日に時宗の大赦によって赦免となった。ウィキの「日蓮」の年譜には、『幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する』三度目の諌暁(かんぎょう:諌(いさ)め諭(さと)すの謂いであるが、主に信仰上の誤りについての場合に用いる)をしている。以下、記されるように、『その後、身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて身延入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山』している。因みに、この直後に蒙古が襲来(文永の役)、五年後の弘安四(一二八一)年には再襲来(弘安の役)している。

「弘安五年」一二八二年。

「日朗」(にちらう(にちろう) 寛元三(一二四五)年~元応二(一三二〇)年)は日蓮六老僧の一人(日蓮より二十三歳年下)。下総国出身。文応二(一二六一)年に日蓮を師として法を学び、文永八(一二七一)年の日蓮の佐渡流罪の際には土牢に押込めとなっている。文永一一(一二七四)年には佐渡に日蓮を八回にも亙って訪ね、最後は赦免状を携えて佐渡に渡っている。師の遷化直前(弘安五(一二八二)年)には池上宗仲の協力のもとに池上本門寺の基礎を築いた。元応二(一三二〇)年に鎌倉の安国論寺にて荼毘にふされ、逗子の法性寺に葬られた。

「日昭」(「につせう(にっしょう) 嘉禎二(一二三六)年?~元亨三(一三二三)年)は下総国の出身。日蓮六老僧の一人。ウィキの「日昭によれば、生年については師の日蓮より年長で承久三(一二二一)年とする説もあるとし、池上本門寺の土地を寄進した『池上宗仲とは親戚関係にある』。『初め天台宗の僧であったが、のちに日蓮に師事して改宗し、日蓮が配流となっている間も鎌倉を離れず』、『師日蓮の説を広めた。天台宗的な色彩を残しながらも、鎌倉浜土の法華寺を拠点として布教を行った。鎌倉幕府の弾圧に対しては自らは天台沙門徒と称するなど臨機応変に対応している』。徳治元(一三〇六)年には『越後国風間氏の庇護により相模国鎌倉に妙法寺(その後越後国に移転)を建立している。晩年比叡山戒壇と関係を持っていたことから、この派にはその影響が残された』とある。なお、「日蓮六老僧」とは日蓮が臨終に際して後継者として指名した六人の高弟を指し、この日昭と日朗の他に、日興(にっこう)・日向(にこう)・日頂(にっちょう)・日持(にちじ)がいる。

「上足」「じやうそく(じょうそく)」で弟子の中で特に優れた者を指す語。高弟。

「弘通(ぐつう)」仏教や経典が広まること。

「持經修道(じきやうしゆだう)」先に注した通り、法華宗の仏道修行を特に限定して指す語である。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第五章 野生の動植物の變異(1) 序

 

    第五章 野生の動植物の變異

 

 前章に於て述べた通り、人間の飼養する動植物には遺傳の性と變異の性とが備はつてある所へ、人間が干渉して一種の淘汰を行つた結果、終に今日見る如き著しい變種を生ずるに至つたことは疑ふべからざる事實であるが、さて野生の動植物は如何と考へると、之にもやはり同樣な事情がある。

[やぶちゃん注:「遺傳の性と變異の性」孰れも「性」は性質の意であるが、では丘先生はこれを「しやう(しょう)」と読んでいるかというと、私は甚だ疑問に思う。であれば、今までの経験から推して、先生ならルビを振られると思うからである。次のの段の冒頭で即座に正確な「遺傳性と變異性」という表現を出されている点からもここは「せい」と読んでおく。]

 先づ遺傳性と變異性とに就いて考へて見るに、野生の動植物では前にも言つた通り、親子兄弟の關係が明瞭に解らぬから、一個づゝを取つて、何れだけの性質が遺傳により親から傳はつたか、また何れだけの點は變異によつて親兄弟と違ふか、直接に調べることは出來ぬが、長い間絶えず採集しまたは同時に多數を採集して比較すれば、こゝにも遺傳及び變異の性質が備はつてあることを明に證明することが出來る。その中、遺傳の方は昔から人の少しも疑はなかつた所で、從來人の信じ來つた生物種屬不變の説も、畢竟今年採集した標本も昨年採集した標本も五年前のも十年前のも、同一種に屬するものは皆形狀が殆ど同一である所から、親の性質は悉く遺傳によつて子に傳はり、子の性質は悉く遺傳によつて孫に傳はり、何代經ても形狀・性質に少しの變化も起らぬものと考へ、之より推して天地開闢より今日まで生物の各種類は一定不變のものであると論結した次第故、野生の動植物に遺傳の性の備はつてあることは他人の證明を待つまでもなく、誰も初めより信じて居る。語を換へていへば、進化論以前の博物家は、子は寸分も親に相違せぬもの、孫は寸分も子に相違せぬものと、初めより思ひ込んで居たので、生物の變異性に氣が附かず、偶々少し變つた標本を獲ても、たゞ偶然に出來たものと輕く考へ、變異性の重大なる意味に思ひ及ばなかつたのである。

 元來野生の動植物の變異性を認めることは自然淘汰説の一要件で、若し生物に變異性がないものとしたらば、無論如何なる淘汰も行はれよう筈がない。斯く生物學上肝要な問題なるにも拘らず、野生の動植物の變異性に注意し、廣く事實を集めて確實に之を研究しようと試みたのは、殆どダーウィンが初めてである故、かのダーウィンの著した「種の起源」といふ本の中にはこの點に關する事項が割合に少い。併しその後にはこの問題は追々丁寧に研究せられ、研究の積むに隨ひて生物の變異性の著しいことが明瞭になり、今日の所では大勢の學者が力を盡して之を研究して居たので、變異性を調べる學科は生物測定學といふ名が附いて生物學中の獨立なる一分科の如き有樣となり、この學のみに關した專門の雜誌まで發行せられて居る。生物の變異性に關する知識はダーウィン時代と今日とでは殆ど雲泥の相違があると言つて宜しい。

[やぶちゃん注:「生物測定學」(バイオメトリー:biometry)は現行では生物統計学(バイオスタティクス:biostatistics)とも呼ばれる。ウィキの「生物統計学によれば、『統計学の生物学に対する応用領域で、様々な生物学領域を含む。特に医学と農学への応用が重要である。医学では生物統計学、農学では生物測定学の名を用いることが多い。古くは』「バイオメトリクス」(biometrics)の名が使用されたが、現在、これは所謂、生体認証(「バイオメトリック(biometric)認証」「バイオメトリクス認証:ヒトの身体的(生体器官上――指紋・虹彩・手の血管(静脈パターン)・音声等――)の特徴や行動特徴(所謂、癖)の情報に基づいて用いて行う個人認証システムや技術分野を意味する語に変わってしまっている。但し、これら『バイオメトリクスの基本的な理念や方法論(例えば指紋による個人識別)は古典的な生物統計学にルーツを求めることができる。また理論生物学とも密接な関係がある』。『生物統計学的な研究は、現代の生物学および統計学の成立に重要な役割を果たし』ており、『チャールズ・ダーウィンのいとこに当たる』フランシス・ゴルトン(Sir Francis Galton 一八二二年~一九一一年:イギリスの統計学者で人類学者・優生学者(「優生学」という語は彼が濫觴)。彼の母ビオレッタはエラズマス・ダーウィンの娘で、チャールズ・ダーウィンの父ロバート・ウォーリングとは異母兄妹に当たった)『や、その後継者の数学者カール・ピアソン』(Karl Pearson 一八五七年~一九三六年:イギリスの数理統計学者・優生学者。記述統計学の大成者とされる)は、十九世紀から二十世紀にかけて、『進化を数量的に研究することを試み、その過程で統計学を進歩させた』。二十世紀初頭に『メンデルの法則が再発見され、一見矛盾する進化と遺伝とをどう整合的に理解するかが、ピアソンら生物統計学者と』ウィリアム・ベイトソン(William Bateson 一八六一年~一九二六年:イギリスの遺伝学者。メンデルの法則を英語圏の研究者に広く紹介した人物で、英語で遺伝学を意味する「ジェネティクス:genetics」という語の考案者でもある。但し、彼はダーウィンの自然選択説に反対し、染色体説にさえも晩年までは懐疑的であった)『ら遺伝学者との間で重大問題として議論された。その後』、一九三〇年代までに『統一的モデルが作られ、ネオダーウィニズムが成立した。これを主導したのも統計学的研究であり、これによって統計学が生物学における重要な方法論として確立した』。ロナルド・フィッシャー(Ronald Aylmer Fisher 一八九〇年~一九六二年:イギリスの統計学者・進化生物学者・遺伝学者・優生学者)が生物学研究の過程で基本的な統計学的方法を確立し、シューアル・ライト(Sewall Green Wright 一八八九年~一九八八年):アメリカの遺伝学者)とJBS・ホールデン(John Burdon Sanderson Haldane 一八九二年~一九六四年:イギリスの生物学者)『も統計学的方法により集団遺伝学を確立した。統計学と進化生物学は一体のものとして発展したわけである』。『またこれと平行して、ダーシー・トムソン』(D'Arcy Wentworth Thompson 一八六〇年~一九四八年:イギリスの生物学者・数学者)『の行った生物の形態の数学的研究』(著書On Growth and Form(「成長と形態」一九一七年公刊)に纏められた)も、『生物学の量的研究における先駆けとなった』。但し、これらの記載から概ね想像されることと思うが、彼らの多くはヒトの優生学の発展にも大きく関与し、何人かは明白な差別主義者であったことを忘れてはいけない。名著とされる「攻撃」(Das sogenannte Böse 一九六三年)で誰もが知る、オーストリアの動物行動学者コンラート・ローレンツ(Konrad Zacharias Lorenz 一九〇三年~一九八九年)でさえ、ナチス政権下で大学教授の職を得、ナチスの「人種衛生学」を支持したことを忘れてはいけない。私は今も普通に読まれているかの「攻撃」の中にさえ、凡そ差別意識に基づく、とんでもない非生物学的な誤った考察がまことしやかに書かれていると強く感じているくらいである。]

 「種の起源」の發行後尚暫くの間は、有名な動植物學者の中にも自然淘汰の説に反對した人が澤山あつたが、その理由は孰れも生物の變異に關する知識が頗る乏しく、野生の動植物が如何程まで變異するものであるかを知らなかつたからである。今日の如くに變異性の研究の進んだ以上は最早苟も生物學を修めた者には生物進化の事實を認めぬことは到底出來ぬ。かやうに大切な事項故、本書に於ても野生の動植物の變異の有樣を成るベく十分に述べたいが、一々實例を擧げて具體的に説明しようとすると、勢ひ無味乾燥な數字ばかりの表や、弧線などを澤山に掲げなければならぬから、ここにはたゞ若干の例を引いて、大體のことを述べるだけに止める。

[やぶちゃん注:「苟も」「いやしくも」。仮にも。相応にかくも~したとならば。]

2016/06/21

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蝨

Sirami

しらみ   蝨 虱【俗】

【音瑟】【和名之良美】

      蟣

スヱツ   【和名木左佐】

 

本綱其人物皆有蟲但形各不同虱始由氣化而生後乃

遺卵出蟣也蝨六足行必向北人頭虱黒色着身變白身

虱白着頭變黒也

人將死虱離身或云取病人虱於床前可卜病如虱行向

病者必死也

虱味鹹微毒誤食之在腹中生長爲癥能斃人用敗箆敗

梳各以一半燒末一半煮湯調服即從下部出也

蝨能治脚指間肉刺瘡及脚指雞眼傅之

除蝨法【卲氏錄云呂晋伯曰】 吸北方之氣噴筆端書欽深淵默漆

五字置之於牀帳之間即盡除呂公正直非妄者

按蝨字俗作虱故稱半風初生於人身垢遺卵故毎日

 沐浴梳髮人不虱生也避頭虱以大風子油塗髮則虱

 蟣死所謂治脚指雞眼俗云惠岐禮【指裏橫文裂如皹者】

 

 

しらみ   蝨 虱【俗。】

【音、瑟〔(シツ)〕】 【和名、「之良美」。】

      蟣〔き〕

スヱツ   【和名、「木左佐〔(きささ)〕」。】

 

「本綱」、其れ、人・物、皆、蟲、有り。但し、形、各々同じからず。虱、始め、氣化に由りて生じ、後には乃ち、卵を遺し、蟣(きささ)を出だす。蝨、六足あり、行けば必ず北に向ふ。人の頭の虱は黒色なり。身に着けば、白に變ず。身の虱は白し。頭に着けば、黒に變ず。

人、將に死せんと〔すれば〕、虱、身を離る。或る人の云く、病人の虱を床(とこ)の前で取りて病ひを卜〔(うらな)〕ふべし。如〔(も)〕し、虱、行きて病者に向へば、必ず死すなり〔と〕。

虱の味、鹹〔(しほから)〕く、微毒あり。誤りて之れを食へば、腹中に在りて生長し、癥〔(ちよう)〕と爲り、能く人を斃〔(た)〕ふす。敗(ふ)る箆(たうぐし)・敗(ふ)る梳(すきぐし)を用ひて、各々一半を以て燒末し、一半を湯に煮て、調服すれば、即ち下部より出づ。

蝨、能く、脚の指の間の肉刺瘡及び脚指の雞眼を治す。之れを傅〔(つ)〕く。

蝨を除く法【「卲氏錄〔しようしろく〕」に呂晋伯〔(りよしんぱく)〕が云ひて曰く、】『北方の氣を吸ひ、筆端を噴きて「欽深淵默漆」の五字を書きて、之れを牀帳〔(しやうちやう)〕の間に置けば、即ち、盡〔(ことごと)〕く除くと云ふ。呂公は正直にして妄者に非ず。』〔と〕。

按ずるに「蝨」の字、俗に「虱」に作る。故に「半風」と稱す。人身の垢より初生して、卵を遺す。故に毎日、沐浴(ゆあ)び、髮を梳く人は、虱、生ぜず。頭虱〔(あたまじらみ)〕を避くるには、大風子の油を以て髮に塗れば、則ち、虱・蟣〔(きささ)〕、死す。謂ふ所の、脚指・雞眼を治すとは、俗に云ふ、「惠岐禮(ゑきれ)」〔なり〕。【指の裏の橫文〔(わうもん)〕の裂け皹〔(ひび)〕のごとくなる者なり。】

 

[やぶちゃん注:昆虫綱咀顎目シラミ亜目 Anoplura のうちで、ヒトに寄生して吸血するのは、

ヒトジラミ科 PediculidaeのヒトジラミPediculus humanusの、

亜種アタマジラミ Pediculus humanus humanus

亜種コロモジラミ Pediculus humanus corporis

の二亜種と、ケジラミ科 Pthiridae の、

ケジラミ Phthirus pubis

の三種類であるが、ケジラミ Phthirus pubis は既に述べた通り、次項に「陰蝨」として独立項となっているから、ここには上記ヒトジラミ二亜種に同定するのがよい。ウィキの「ヒトジラミ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『ヒトジラミはヒトだけを宿主とする外部寄生虫である。アタマジラミは頭髪、コロモジラミは衣類にいて、皮膚より吸血する。歩脚の先端は挟状になり、これで毛髪や繊維を掴み、素早く移動する。不完全変態であり、幼虫も成虫に似た形態と生態を持つ。卵も頭髪ないし衣類の繊維に張り付いた形で産み付けられ、その生涯を生息域から離れない。他者への感染は接触による。そのために集団生活する場合には広がる場合がある。成虫は条件にもよるが、数日程度は人体から離れても生存出来る』。『ヒトジラミは吸血することで痒みを与えるが、それだけでなく』、『病原体を運ぶベクターでもあり、特に発疹チフス』(真正細菌プロテオバクテリア門 Proteobacteria アルファプロテオバクテリア綱 Alphaproteobacteria リケッチア目リケッチア科リケッチア属リケッチア・プロワツェキイ(発疹チフスリケッチア)Rickettsia prowazekiiの感染による感染症。「アンネの日記」アンネ・フランク(Annelies Marie Frank 一九二九年六月十二日~一九四五年三月上旬)も強制収容所で発疹チフスによって死亡したとされている)『は伝染病として恐れられた』。『ヒトジラミの宿主はヒトに限られる。他の動物の血を吸うことが出来ても、それで生育は出来ない』。『アタマジラミは常に頭髪にいるが、コロモジラミは下着の縫い目にいて、吸血時のみ肌に移動する。成虫が一日に吸血する回数は、実験では二回とされるが、現実には四回かそれ以上と考えられる』。『人体から離れ、吸血できない状態では、コロモジラミは条件にもよるが一週間程度まで生存できる場合がある。この点でアタマジラミの方が弱く、せいぜい二日程度で死亡』してしまう。『体長は成虫で二~四ミリメートル程度、アタマジラミのほうがやや小型である。体は全体として腹背に扁平で、体表に弾力があり、全体に半透明で淡い灰白色だが、アタマジラミの方が黒みが強く、特に体の側縁に沿って黒い斑紋が入る。頭部は丸みを帯びた三角形で、口器は普段は頭部に引き込まれており、吸血する際には突出する。その上唇には歯状の突起があり、吸血する際に口器が皮膚に固着するのを助ける。触角は五節、その基部の後方に目がある』。『胸部の三体節は互いに癒合しており、三対の歩脚があるが、翅は完全に退化している。歩脚はよく発達し、先端ははっきりと爪状になる。脛節末端にある突起と先端の爪とが向き合って鋏状となっており、この間に毛や繊維を掴むことが出来る』。『腹部は九節からなり、各節の両端に側板があり、この部分は褐色をしており、またここに気門が開く。気門があるのは』第三節から『第八節である。腹部末端の節には内部に生殖器があり、雄では先端に向けて細くなるが、雌では先端が軽く二裂する』。『卵は楕円形で乳白色を呈し、先端に平らな蓋があってその中央に』一五個から二〇個の『気孔突起がある。卵は毛髪(アタマジラミ)や繊維(コロモジラミ)にセメント様の物質で貼り付けられ、産卵直後は透明で、後に黄色っぽく色づき、孵化直前には褐色になる。卵の孵化には約一週間を要する。孵化時には蓋が外れ、これが幼虫の脱出口となる』。『孵化直後の幼虫は成虫の形に似ているが、触角は三節で体が軟らかい。側板は二令から見られる。幼虫は成虫と同様に吸血しながら成長し』、七日から十六日の間に『三令を経て成虫になる。成虫の寿命は』三十二日から三十五日で、『雌成虫は約四週間の間、一日に八個、生涯で約二百個の卵を産む』。『シラミ類は動物の体表に常在するものであり、衣服のようにその外を住処とするのは異例である。衣服は人類のみが持つものであり、そこを住処とするシラミの存在、その発祥には興味の持たれるところである。コロモジラミが体毛に生息するアタマジラミとごく近縁であることは古くより認められた。分子系統の発達により、これらの近縁性が絶対的な時間を含めて論じられるようになった。それによると、本種に近縁な同属の種がチンパンジーに寄生するが、それと本種が分岐したのは五百五十万年前である。これは、宿主の種分化の時期、つまり人類の起源にほぼ相当する。ただ、問題なのは、ヒトジラミが遺伝的にはっきりした二タイプがあり、一つは凡世界的なもの、もう一つは新世界のものである。それらが分化したのが、この方法では百十八万年前となることである。これは、明らかに現生のヒト Homo sapiens の起源を大幅に上回る。ここから推察されるのは、この種分化が、現生のヒトの祖先がホモ・エレクタス H. erectus から分化してきた頃に起こったと言うことである。それから約百万年、ヒト属の二種が共存し、彼等は交雑はしなかったかも知れないが、外部寄生虫の行き来はあったであろう。この様な中でシラミの二系統が生じ、それが共存するに至ったと考えられる』。『アタマジラミとコロモジラミが分化したのは十万年前と推定されている。これは人類が衣類を身につけ始めてすぐのことであったと考えられている。アタマジラミは髪の毛に住み着いてその部位の肌から血を吸うが、毛の少ない身体の皮膚では繁殖できない。だが、衣類に生息の場を得て、コロモジラミはそれ以外の皮膚での生息が可能になった。さらに、分子系統によると、コロモジラミはアタマジラミの』汎『世界系統から複数回にわたって発生したと考えられる』とある。人類発生と文化史の中のヒトとシラミの密接な関係性と進化は非常に興味深いではないか。しかも、『ホームレスや独居老人といったシラミの温床になりやすい場が新たに生じ』たことも挙げられ、『コロモジラミではこの様な高齢化を舞台にした増殖が、アタマジラミでは幼稚園や小学校などの集団での感染拡大が見られている』のは御承知の通り。シラミを侮ってはならぬ。

 

・「木左佐〔(きささ)〕」小学館の「日本国語大辞典」に、「きささ」漢字「蟣」として、『虱(しらみ)の卵。きさし』とし、「和名類聚抄」を例文として引く古語である。語源説には、『背にギザギザ(刻々)があることから。ギザギザの略〔大言海〕』、『「風土記」に「沙虱」の訓を「耆少神」と注しているところから、キサシン(耆少神)の転か〔塵袋〕』、また、『髪に蟣が産みつけられるとカミ(髪)がシラゲル(白)ところから、カミシラシラの反〔名語記〕』とあるが、私は孰れも信じ難い。

・「氣化に由りて生じ」こういう化生的叙述は、既に議論として成立しない。時珍に失望するところである。叙述で卵生としているくせに、「化生」的叙述をする博物学者として許し難いバカ叙述だからである。

・「行けば必ず北に向ふ」敗者の方角、即ち、根源的にシラミを陰気の生物とする認識に基づく。

・「如〔(も)〕し、虱、行きて病者に向へば、必ず死すなり」これは明らかに誤った逆叙述である。「酉陽雑俎」の続集巻二の「支諾皋中」にも、

   *

相傳人將死、虱離身。或雲取病者虱於床前、可以蔔病。將差、虱行向病者、背則死。

   *

とあり、快方に向かうならシラミは病人に向かい、反対の方へ向かう(「背」)時は、死ぬとある。当然である。

・「癥〔(ちよう)〕」腹の中に出来るしこりの意。

・「敗(ふ)る箆(たうぐし)・敗(ふ)る梳(すきぐし)」原文のルビを少し改変した。「箆」は竹製の単体(一本の)簪状のものと読み、「梳」は所謂、櫛と区別した。大方の御批判を俟つ。

・「各々一半を以て燒末し、一半を湯に煮て」これは一本の簪状のものを半分に折り、櫛の方も同様に半分に折り、それをそれぞれ半分は焼いてその灰を粉末にし、残ったそれぞれを別に熱湯で煮沸せよ、と言っていると読む。

・「下部」というのは、現象的にはよく分らないが、消化器官を通してシラミが体外へ排泄されるという風にしか読めない。

・「脚の指の間の肉刺瘡及び脚指の雞眼」足の指の股に生ずる肉刺(まめ)や魚の目。

・「傅〔(つ)〕く」塗りつける。シラミ自体を擂り潰して貼付するという意。

・「卲氏錄〔しようしろく〕」東洋文庫版の「書名注」に「卲氏聞見後録」三十巻。宋の卲博撰になる随筆集とある。

・「呂晋伯〔(りよしんぱく)〕」伊川の令であることしか分からぬ。

・「北方の氣を吸ひ、筆端を噴きて」北に向かってその空気(気)を十全に吸った上で、それを一気に筆の先に吹き付けて。北の陰気を込めて筆に移す意。

・「欽深淵默漆」呪言なれば意味不詳。

・「牀帳〔(しやうちやう)〕」寝室の帳(とばり)寝台の内。

・「呂公は正直にして妄者に非ず」よう知らんが、卲博曰く、呂晋伯なる男は正直一途な人だからいい加減なことは言わぬ、これは絶大な効果があると太鼓判を押しているのである。

・『故に「半風」と稱す』「風」の字を包むはずの大事な第一画を欠字するからである。

・「大風子の油」大風子油はキントラノオ目アカリア科(最新説の分類)イイギリ属ダイフウシノキ Hydnocarpus wightiana の種子から作った油脂。、飽和環状脂肪酸であるヒドノカルピン酸(hydnocarpic acid)・チャウルムーグリン酸(chaulmoogric acid)・ゴーリック酸(gorlic acid)と、少量のパルミチン酸などを含む混合物のグリセリンエステル。古くはハンセン病治療に使われた(ここは概ねウィキの「大風子油に拠った)。

・「惠岐禮(ゑきれ)」不詳(「日本国語大辞典」の見出しにも出ない)。割注からはシラミとは無縁な水虫の症状のように私には見える。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(7) 人丸大明神

 

      人丸大明神

 

 神職目を傷くといふ古い口碑には、更に一種の變化があつた。下野芳賀郡南高岡の鹿島神社傳に、垂仁天皇第九の皇子池速別、東國に下つて病の爲に一目を損じたまひ、之に由つて都に還ることを得ず、此地に留まつて若田と謂ふ。十八代の孫若田高麿、鹿島の神に禱つて一子を得たり。後に勝道上人となる云々とある(一)此話と前に擧げた信夫の土湯の太子堂の太子像の、胡麻の稈で眼を突かれたといふ傳説とは、完全に脈絡を辿ることが出來る。野州は元來彦狹島王の古傳を始めとして、皇族淹留の物語を頻りに説く國であつた。さうして一方には又神の目を傷けた話も多いのである。例へば安蘇郡では足利中宮亮有綱、山烏の羽の箭を以て左の眼を射られ、山崎の池で其目の疵を洗ひ、後に自害をして神に祭られたといふ、京と鎌倉と二種の御靈を總括したやうな傳説がある外に、別に村々には人丸大明神を祭る社多く、其由來として俗間に傳ふるものは、此上も無く奇異である。一つの例を擧げるならぱ、旗川村大字小中(こなか)の人丸神社に於ては、柿本人丸手負となつて遁げ來り、小中の黍畑に逃げ込んで敵を遣り過して危難を免れたが、其折に黍稈の尖りで片眼を潰し、暫く此地に滯在した。そこで村民其靈を神に祀り、且つ其爲に今に至るまで、黍を作ることを禁じて居るといふ(二)

[やぶちゃん注:「下野芳賀郡南高岡の鹿島神社」栃木県真岡市南高岡の鹿島神社。個人サイト「kyonsight」のこちらに詳しい縁起が書かれてある。

「池速別」「いけはやわけ」と読む。以下に書かれた事蹟は、前注のリンク先に、後の注に掲げられてある「下野神社沿革誌」(風山広雄編・明治三六(一九〇三)年刊)の巻六からの引用があり、『社傳に曰く人皇十一代垂仁天皇第九皇子池速別命を勅使として天照大御神を伊勢の五十鈴の川上に崇め奉る 命事の縁に依り東國に下向す 後○病を煩ひ一目を損し還洛する事能はす 遂に下野の高岡の里に止まり住し若田と改め郷人となる 池速別命十八代の裔孫に若田高藤麿と云いふあり 夫婦の間に子なきを憂ひ如何にして一子を得んと朝夕神佛に祈願せしも其効なきを憂ひ大に落膽し神も佛も靈なきかとあしきなき世をかこち居たり 而るに或夜高藤麿の枕邊に白髪の翁現はれ吾は此里の名もなき神なるか汝の常に子無きを憂苦するを視るに忍ひす今汝に告く汝子を得んと欲せは常陸なる鹿島の神に祈り見よ必すその験あらんと云へ終れは忽ち夢覺めぬ 高藤麿暫し茫然たりしか手を打ちて朝夕祈りし神の我を哀み給へて今宵來りて夢に教へ給ひしかな有難しと拜伏し翌朝直に旅装を整ひて出發し幾日を重ねて漸くに常陸の鹿島に着きけれは三十七日の其間御社に齋み籠り一心に祈願しけれは結願の夜夢に妻吉田氏の懐胎するを見て大に喜ひ急き歸郷し其由を妻に告けれは果して其月より子を宿り妊月満ちて』天平七(七三五)年四月二十一日『正午出生せしは玉の如きの男子にて(幼名藤糸丸と稱し後佛門に歸し勝道上人と號す)健康無病にて生長しけれは夫婦の嬉ひ一方ならす』『鹿島に詣てつゝ御分霊を乞請けて』大同元(八〇六)年『正月七日を以て小高き岡の清地を撰みて宮殿を造営し鹿島大神を鎭祭して長へに一村の鎭守産土神と崇敬崇祭す』とある。本文にも出る「勝道上人」(天平七(七三五)年~弘仁八(八一七)年)は天台宗や華厳宗などの教団の流れを汲むと思われる名僧で、日光山の開山で知られる。

「信夫の土湯の太子堂の太子像の、胡麻の稈で眼を突かれたといふ傳説」先の「神片目」の本文及び私の注を参照。

「彦狹島王」「ひこさしまわう(おう)」と読む。崇神天皇皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の孫で、御諸別王(みもろわけのおう[)の父。ウィキの「彦狭島王」に、「日本書紀」景行天皇五十五年二月の条によれば、『彦狭島王は東山道十五国都督に任じられたが、春日の穴咋邑に至り病死した。東国の百姓はこれを悲しみ、その遺骸を盗み上野国に葬ったという。同書景行天皇』五十六年八月の『条には、子の御諸別王が彦狭島王に代わって東国を治め、その子孫が東国にいるとある』。「先代旧事本紀」の「国造本紀」『上毛野国造条では、崇神天皇年間に豊城入彦命孫の彦狭島命が初めて東方十二国を平定した時、国造に封ぜられたとしている』とある。

「淹留」「えんりう(えんりゅう)」と読み、長く同じ場所に留まるの意。

「安蘇郡では足利中宮亮有綱、山烏の羽の箭を以て左の眼を射られ、山崎の池で其目の疵を洗ひ、後に自害をして神に祭られた」「一目小僧(八)」の本文及び私の注を参照。

「旗川村大字小中(こなか)の人丸神社に於ては、柿本人丸手負となつて遁げ來り、小中の黍畑に逃げ込んで敵を遣り過して危難を免れたが、其折に黍稈の尖りで片眼を潰し、暫く此地に滯在した。そこで村民其靈を神に祀り、且つ其爲に今に至るまで、黍を作ることを禁じて居る」同じく「一目小僧(八)」の本文及び私の注を参照。]

 神が植物によつて眼を突いたといふ話は多い。其二三をいふと山城伏見の三栖神社では昔大水で御香宮の神輿が流れたとき、此社の神之を拾はうとして葦で目を突いて片目になられた。それ故に十月十二日の御出祭には、大小二本の葺の松明をともして道を明るくする(三)江州栗太郡笠縫村大字川原の天神枇社では、二柱の神が麻の畑へ天降りたまふとき、麻で御目を突いて御目痛ませたまふ故に、行末我氏人たらん者は永く麻を栽ゑるなかれといふ託宜があつた(四)同國蒲生郡櫻川村川合では、河井右近太夫麻畑の中で打死した政に、麻の栽培を忌むと謂つて居た(五)阿波の板野郡北灘の葛城大明神では、天智天皇此地に御船繫りして、池の鮒を釣らんとて上陸なされた時、藤の蔓が御馬の脚にからんで落馬したまひ、男竹で眼を突いて御痛みなされた。それ故に此村の籔には今も男竹が育たぬ(六)美濃の太田の加茂縣主神社でも、大昔加茂樣馬に騎つて戰に行かるゝ時に馬から落ちて薄の葉で日を御突きなされた。それ故に以前は五月五日に粽を作ることを忌んだ(七)信州では小谷の神城村を始め、此神樣が眼を突きたまふと稱して、胡麻の栽培を忌む例が多い(八)或は又栗のいが、松葉などを説くものもある、例のアルプス順禮路の橋場稻核(いねこき)では、晴明樣といふ易者此地に滯在の間、門松で眼を突いて大に難澁をなされ、今後若し松を立てるたらば村に火事があるぞと戒められたので、それから一般に柳を立てることになつた(九)

[やぶちゃん注:「山城伏見の三栖神社では昔大水で御香宮の神輿が流れたとき、此社の神之を拾はうとして葦で目を突いて片目になられた。それ故に十月十二日の御出祭には、大小二本の葺の松明をともして道を明るくする」「一目小僧(十)」の本文及び私の注を参照。

江州栗太郡笠縫村大字川原の天神枇社では、二柱の神が麻の畑へ天降りたまふとき、麻で御目を突いて御目痛ませたまふ故に、行末我氏人たらん者は永く麻を栽ゑるなかれといふ託宜があつた」「一目小僧(七)」の本文及び私の注を参照。

「同國蒲生郡櫻川村川合」現在の滋賀県東近江市の南西部。

「河井右近太夫麻畑の中で打死した政に、麻の栽培を忌むと謂つて居た」柳田國男「日本の伝説」にも引く。

阿波の板野郡北灘の葛城大明神」現在の徳島県鳴門市鳴門市北灘町桑田字池谷。個人サイト「神奈備」の「一言主神を祀る神社一覧」の同神社の由緒には、『天智天皇が九州に御巡幸された時、天皇に随行され阿波の沖を御通過の折、 粟田に停泊、この浜より上陸され渓谷にて鯉鮒の釣りをなされる為、 御乗馬にて登られる途中、藤葛にて馬がつまづき神は落馬され呉竹の切株にて御目を傷つけ眼病になられ、 その為天皇のお伴が出来ず、永く粟田の地にて御養生された後、御自身も眼病の苦しみを忘れる事なく、 この地の守護神として眼病の者を特に憐みお救いされるという眼病平癒の御誓いにより粟田、大浦、宿毛谷、鳥ケ丸の四ケ村では馬を飼わず、 呉竹と藤葛の生える事なく、鯉鮒の育つことのないという不思議な霊験と、その煌々とした御霊徳のおかげをうける人々限りなく、 神を信じ仰ぎ奉る善男善女は願望成就すること広く周知の如くであります』とあり、ここでは眼を突いたのは柳田が以下に言うような天智天皇自身ではなく、それに従っていた一言主神というコンセプトになっている。この方がおかしくない。

「美濃の太田の加茂縣主神社でも、大昔加茂樣馬に騎つて戰に行かるゝ時に馬から落ちて薄の葉で日を御突きなされた。それ故に以前は五月五日に粽を作ることを忌んだ」「一目小僧(七)」の本文及び私の注を参照。

「小谷の神城村」現在の長野県北安曇郡白馬村大字神城(かみしろ)。

「橋場稻核(いねこき)」現在の長野県松本市安曇の集落の一つ。ウィキの「稲核によれば、『稲核は交通の要衝であり、物資輸送の中継地であった。上流には大野川や奈川の集落しかなく、島々までは』四キロメートル『あったので宿泊する者もいた。また大野川や奈川から炭などを積み下ろす際は稲核まで運び、ここを中継地として』『運送を専門にする者に預けることが多かった。しかし』大正一一(一九二二)年に『竜島発電所が建設された際には、奈川渡』(ながわど)『ダムを用水の取入口にしたので、その資材運搬のために道路の大改修が行われ』、二年後に『発電所の工事が始まると、奈川渡まで自動車が通るようになった。このため大野川や奈川などからの荷は奈川渡まで下ろしてトラックに積めばよいことになり、物資輸送の中継地になっていた稲核はその機能を失』い、宿駅機能も同様に絶えた。『近世には、稲核を本村とする枝郷』(えだごう:中世・近世日本に於ける新田開発によって元の村(本郷・元郷)から分出した集落を指す語)『「橋場」があった。橋場は距離的には島々に近いが、稲核の枝郷とされた』。『橋場は梓川の右岸にあり、左岸との間に常時通行可能な雑炊橋があった。このため、近世以前には現在の安曇野市・大町市方面と、松本市・塩尻市方面をいつでも確実につなぐことのできる橋であり、橋場は交通上の要衝であった。このため、松本藩の番所が置かれ、旅人宿や牛宿があった』。『また、橋場の男性の多くが、曲輪(がわ)杣の仕事に従事していた。曲輪杣は、良質な板材を曲物に加工する仕事である』。明治二(一八六八)年に、『下流に新淵橋という橋が架けられたので、交通上の要衝としての地位を失い、集落の繁栄に終止符が打たれた』。二〇一二年一月現在で世帯数は十九、人口四十七人とある。

「晴明樣」以下は無論、全国に散在する怪しげな安倍晴明伝説の一つに過ぎない。]

 忌むといふことの意味が不明になつて、神嫌ひたまふといふ説明が起つたことは、もう誰でも認めて居る(一〇)多くの植物栽培の忌は、單に神用であつた故に常人の手を著けるを戒めたといふだけで、神の粗忽がさう頻繁にあつたことを意味しない。兎に角に是だけの一致は或法則又は慣行を推定せしめる。即ち足利有綱に在つては山鳥の羽の箭、景政に於ては烏海彌三郎の矢が、之に該當したことは略疑が無いのである。それよりも玆に問題となるのは、神の名が野州に於て特に柿本人丸であつた一事である。其原因として想像せられることは、、自分の知る限に於ては今の宇都宮二荒神社の、古い祭式の訛傳といふ以外に一つも無い。此社の祭神を人丸と謂つたのは、勿論誤りではあるが新しいことで無い(一一)或は宇都宮初代の座主宗圓此國へ下向の時、播州明石より分靈勸請すとも傳へたさうだがそれでは延喜式の名神大は何れの社かといふことになるから、斷じて此家の主張では無いと思ふ(一二)下野國誌には此社の神寶に夙く人麿の畫像のあつたのが誤解の原因だらうと説いて居るが、それのみでは到底説明の出來ぬ信仰がある。此地方の同社は恐らく數十を算へると思ふが安蘇郡出流原(いづるはら)の人丸社は水の神である。境内に神池あり、舊六月十五日の祭禮の前夜に、神官一人出でゝ水下安全の祈禱を行へば、其夜に限つて髣髴として神靈の出現を見ると謂つた、さういふ奇瑞は弘く認められたものか、特に社の名を示現神社と稱し、又所謂示現太郎の神話を傳へたものが多い。近世の示現神社には本社同樣に、大己貴事代主御父子の神、或は豐城入彦を配祀すとも謂つて居るが、那須郡小木須(こぎす)の同名の社などは、文治四年に二荒山神社を奉還すと傳へて、しかも公簿の祭神は柿本人麿朝臣、社の名も元は柿本慈眼大明神と唱へて居た(一三)さうして此神の勢力の奧州の地にも及んだことは、恰かも此人の末なる佐藤一族と同じであつた(一四)例へば信夫郡淺川村の自現太郎社の如きは、海道の東、阿武隈川の岸に鎭座して、神此地に誕生なされ後に宇都宮に移し奉るとさへ謂つて居る(一五)神を助けて神敵を射たといふ小野猿丸太夫が、會津人は會津に生まれたといひ、信夫では信夫の英雄とし、しかも日光でもその神偉を固守したのと、軌道を一にした分立現象であつて、獨り此二種の口碑は相關聯するのみならず、自分などは諏訪の甲賀三郎さへ、尚一目神の成長したものと考へて居るのである。

[やぶちゃん注:「宇都宮二荒神社」「うつのみやふたあらやまじんじや(じゃ)/ふたらやまじんじや(じゃ)」と読む。現在の栃木県宇都宮市馬場通りにある。東国を鎮めたとする崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祭神として古くより崇敬され、宇都宮は当社の門前町として発展してきた。また、社家から武家となった宇都宮

氏がも知られる。

「宇都宮初代の座主宗圓」藤原宗円(そうえん 長元六(一〇三三)年又は長久四(一〇四三)年~天永二(一一一一)年)のこと。ウィキの「藤原宗円」によれば、「尊卑分脈」や「宇都宮系図」などの各種系図上では藤原氏北家の関白藤原道兼の流れを汲み、道兼の孫である兼房の次男とされる人物。『前九年の役の際に河内源氏の源頼義、義家父子に与力し、凶徒調伏などで功績を認められ』、康平六(一〇六三)年に『下野国守護職および下野国一宮別当職、宇都宮座主となるが、もともと石山寺(現在の大谷寺との説もある)の座主であったとも言われ、仏法を背景に勢力を拡大したと考えられている』。またウィキの「宇都宮二荒山神社」の方には、『宇都宮氏の初代当主であり、宇都宮城を築いたとされる摂関家藤原北家道兼流藤原宗円が、当社の宮司を務めたという説もある』 とあり、『宇都宮氏は、藤原宗円が、この地の豪族で当時の当社の座主であった下毛野氏ないし中原氏と姻戚関係となり土着したのが始まりであり、当時の毛野川(当時の鬼怒川)流域一帯を支配し、平安時代末期から約』五百年の長きに亙って、『関東地方の治安維持に寄与した名家であ』ったとある。

「名神大」「みやうじんだい」と読む。神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号に由来する名神大社(みょうじんたいしゃ)のこと。ウィキの「名神大社」によれば、『日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の』一つと『され、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる』。「延喜式」巻三の『「臨時祭」の「名神祭」の条下』及び同巻九・十の『「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている』神社を指す。同書には「河内郡」に「二荒山神社」(神名帳)・「二荒神社」(名神祭)と記されてあり、現在の宇都宮二荒山神社に比定されている。

「夙く」「はやく」。

「安蘇郡出流原(いづるはら)の人丸社」現在の栃木県佐野市出流原町の湧水池である弁天池の隣りに建つ涌釜神社(わっかまじんじゃ)神社。祭神は「人丸様」とされ、この池には、人麻呂がこの地に訪れ、杖で岩をついたら水が湧いたという伝説があるという。

「示現」「じげん」と読む。神仏が霊験を示し現すこと。神仏のお告げ。現在も実際に栃木県内にこの名を冠する神社は複数確認出来る。

「示現太郎の神話」祭神としては「古事記」に出る、大国主命と宗像三女神の多紀理毘売(たきりびめ)の間の子である農業神・雷神とされる味租高比古根命(あぢすきたかひこね/あぢしきたかひこね)の異名とする記載があるが、現行では寧ろ、後に柳田が挙げる甲賀三郎の兄ともされる甲賀太郎の神格示現説話としての記載が多い。

「大己貴」「おほなむち(おおなむち)」。大国主。

「豐城入彦」(とよきいりひこ)は前にも出したが、崇神天皇皇子。東国の治定に当たったとされる。

「那須郡小木須(こぎす)の同名の社」現在の栃木県那須烏山市小木須であるが、示現神社は見当たらない。現在の那須烏山市谷浅見にはあるがかなり離れている。社名が変わったか。同地区には熊野・湯殿・浅間・稲積神社を確認出来るが、不明。「文治四年」一一八八年に「二荒山神社を奉還すと傳へて」、「公簿の祭神は柿本人麿朝臣、社の名も元は柿本慈眼大明神と唱へて居た」とあるのだから、ネット検索にかかっても不思議ではないのだが、分らぬ。識者の御教授を乞う。

佐藤一族」柳田の後注(一四)で示される彼の「神を助けた話」(大正九(一九二〇)年玄文社刊)の「五 阿津賀志山」の章で、『夙(はや)く衰えた鎮守府将軍の嫡流、後に北方に移住して無数の佐藤氏を分布した家』系が、宇都宮氏繁栄の宗教上経済上の一勢力ではなかったか、という推定をしている。その神官家系として広く栄えた『佐藤氏』なる一族を指すもののようである。

「信夫郡淺川村の自現太郎社」ロケーションと名から、現在の福島県福島市松川町浅川(あさかわ)にある磁現太郎神社と思われる。

「小野猿丸太夫」かの三十六歌仙の一人。ウィキの「猿丸太夫」に、彼には日光山にまつわる伝説があり、「日光山縁起」に拠れば、『小野(陸奥国小野郷』『のことだといわれる)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫であり、下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が互いに接する神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧めにより、女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利したという話がある』。(ここで柳田の言う「神を助けて神敵を射た」を指す)これにより、『猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったという。下野国都賀郡日光二荒山神社の神職であった小野氏はこの「猿丸」を祖とすると伝わる。また宇都宮明神(下野国河内郡二荒山神社)はかつて猿丸社とも呼ばれ奥州に二荒信仰を浸透させたといわれている』。「二荒山神伝」(江戸初期の儒学者林道春が日光二荒山神社の歴史について漢文で記したもの)にも「日光山縁起」と同様の伝承が記されてある。また、この柳田の考察と関わるものとして、柿本人麻呂と猿丸太夫についての梅原猛の「水底の歌―柿本人麻呂論」が挙げられており、知られるように彼がそこで『二人を同一人物との論を発表して以来、少なからず同調する者もいる』。『梅原説は、過去に日本で神と崇められた者に尋常な死をとげたものはいないという柳田國男の主張に着目し、人麻呂が和歌の神・水難の神として祀られたことから、持統天皇や藤原不比等から政治的に粛清されたものとし、人麻呂が』「古今和歌集」真名序では「柿本大夫」と『記されている点も取り上げ、猿丸大夫が三十六歌仙の一人と言われながら』、『猿丸大夫作と断定出来る歌が一つもないことから(「おくやまに」の和歌も猿丸大夫作ではないとする説も多い)、彼を死に至らしめた権力側をはばかり彼の名を猿丸大夫と別名で呼んだ説である』。『しかしながら』、『この説が主張するように、政治的な粛清に人麻呂があったのなら、当然ある程度の官位(正史に残る五位以上の位階)を人麻呂が有していたと考えるのが必然であるが、正史に人麻呂の記述が無い点を指摘し、無理があると考える識者の数が圧倒的に多い』とある。

「甲賀三郎」ウィキの「甲賀三郎(伝説)」より引く。『長野県諏訪地方の伝説の主人公の名前。地底の国に迷いこみ彷徨い、後に地上に戻るも蛇体(または竜)となり諏訪の神になったなど、さまざまな伝説が残されている。近江を舞台にした伝説もある』。『甲賀三郎にまつわる伝説は膨大な数にのぼる。以下はそのうちのひとつである』。『醍醐天皇の時代、信濃国望月に住む源頼重に、武勇に優れた三人の息子がいた。朝廷の命で若狭国の高懸山の賊退治に駆り出され、三男の三郎がことのほか活躍した。功が弟一人に行くことを妬んだ兄たちは三郎を深い穴に突き落として、帰国してしまった。三郎は気絶したが、息を吹き返し、なんとか生還した。驚いた兄たちは逃げ出し、三郎は兄たちの領地を引き継いで治めた。その後、承平の乱で軍功を上げたことで江州の半分を賜り、甲賀郡に移って甲賀近江守となった』。また、『神道集の「諏訪縁起事」では』、『安寧天皇の子孫に繋がる甲賀権守諏胤は東三十三国を治めていたが、三人の子(太郎・二郎・三郎)があった。三男の甲賀三郎諏方(よりかた)が三笠山明神に参詣したとき、春日権守の孫娘、春日姫と契りを結び、ともに甲賀へ帰った。ある日春日姫は伊吹山で天にさらわれて行方不明になったため、三郎は兄たちに頼んで国中を探し、信濃国蓼科の人穴の底に姫を見つけ、助け出した。しかし姫が忘れた鏡を取りに三郎が穴に戻ると、二郎が綱を切ったため、穴に取り残された。三郎は仕方なく人穴を彷徨い、数十という地底の国を訪ね歩く。最後の国の主の計らいで、鹿の生肝で作った餅を一日一枚ずつ千枚を食べ終えると、信濃国浅間に無事帰ることができた。三郎は甲賀に戻ったが、体が蛇になっていた。僧たちの協力で、三郎は春日姫と再会した。甲賀三郎は諏訪大社の上宮、春日姫が下宮と顕れ、その他の登場人物のそれぞれもさまざまな神になって物語は終了する』。]

 併し一方人丸神の信仰が、歌の德以外のものに源を登した例は、既に近畿地方にも幾つと無く認められた。山城大和の人丸寺人丸塚は、數百歳を隔てゝ始めて俗衆に示現したものであつた。有名なる明石の盲杖櫻の如きも(一六)由來を談る歌は至極の腰折れで、寧ろ野州小中の黍畑の悲劇と、聯想せられるべき點がある。防長風土記を通覽すると、山ロ縣下の小祠には殊に人丸さまが多かつた。或は「火止まる」と解して防火の神德を慕ひ、或は「人生まる」とこじつけて安産の悦びを禱つた。又さうでなければ農村に祀るわけもなかつたのである。人は之を以て文學の退化とし、乃ち石見の隣國なるが故に、先づ流風に浴したものと速斷するか知らぬが、歌聖は其生時一介の詞人である。果して高角山下の民が千年の昔に、之を神と祭るだけの理由があつたらうか。若し記錄に明瞭は無くとも、人がさう説くから信ずるに足るといふならぱ、石見では四十餘代の血脈を傳ふと稱する綾部氏(一に語合(かたらひ)氏)の家には、人丸は柿の木の下に出現した神童だといふ口碑もあつた(一六)或は柿の樹の股が裂けて、其中から生れたといふ者もあり(一七)若くは二十四五歳の靑年であつて姓名を問へば知らず、住所を問へば言ひ難し、只歌道をこそ嗜み候へと答へたとも謂ふ(一八)是では井澤長秀の考證した如く、前後十五人の人麿があつたとしても、是は又十六人目以上に算へなければならぬのである。

[やぶちゃん注:「人丸寺人丸塚」かつて奈良県吉野町吉野山子守に存在した世尊寺を指すか。明治の神仏分離により荒廃して廃寺となったが、世尊寺跡には人丸塚と呼ばれる石造物が今も残る。人丸塚はウィキの「世尊寺跡」によれば、『正体不明の仏像石で、かつてあった五輪塔か何かの一部だろうと考えられている。人丸塚の名称の由来も不明で、この石に願をかけると子供に恵まれるので「人生まる塚(ひとうまるつか)」とか、火を防ぐ呪力を秘めているので「火止まる塚(ひとまるつか)」とも伝えられている』とある。

「盲杖櫻」「まうじやうざくら(もうじょざくら)」と読む。人麻呂を祭神とする兵庫県明石市人丸町の柿本神社にある桜に纏わる伝説。ウィキの「柿本神社(明石市)」によれば、『筑紫国から参拝した盲人が、社頭で「ほのぼのとまこと明石の神ならば我にも見せよ人丸の塚」と詠じると、神験によって眼が開いたためにそれまで突いていた杖が不要となり、これを地に刺したところ、それが根付いたという桜の木』とある。

「石見の隣國なるが故に」人麻呂の出自である柿本氏は孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たるが、一説に人麻呂以降、その子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降は益田氏を称して、石見の国人となったされる。人麻呂は官人となって各地を転々としたが、最後には石見国で亡くなったともされる。

「高角」「たかつの」と読む。石見国の高角山のこと。現在の島根県江津市島の星町の中心に位置する島の星山(別名、高角山。標高四百七十メートル)に比定されている。「万葉集」巻二の人麻呂の知られた一首(第一三二番歌)、

 

石見のや高角山の木(こ)の間より我が振る袖を妹(いも)見つらむか

 

で知られる。「山下」は「さんか」と読んでおく。

「綾部氏(一に語合(かたらひ)氏)」石見国美濃郡益田にある歌聖柿本人麿を祀る柿本神社の社司は代々彼の子孫とされる綾部氏である。ブログ「神社と古事記」のこちらの同神社の記事によれば、『同名の神社が同市の高津町にもあり、当社が生誕地であるのに対して、高津柿本神社は人麻呂の終焉地にゆかりのある神社。もともとこの辺一帯は、柿本家となじみ深い小野氏が治めた小野郷』とあって、『当社には、江戸中期以後に書かれた』「柿本人丸旧記」及び「柿本従三位人麻呂記」という『二つの縁起が伝えられている。それらによれば、人麻呂は』孝徳天皇九(六五三)年九月十四日、『当地に住むカタライという夫婦のもとに突然現れたという』。『そのときの年齢は』七歳、『美童だったと伝わる。カタライ夫婦はこの少年を引き取って大切に育てた。少年は歌の天才で、その名は宮中まで聞こえた。持統天皇に召されて高位に昇り、柿本人麻呂という名を賜った。晩年、故郷に戻り』、『この地で死んだという』。『カタライ家はその遺髪を貰い受けて墓を築いたものが、今に伝わる遺髪塚だと思われる。同時に、人麻呂の像を作って社に祀った、それが当社の創祀と考えられる。社殿は神亀年間』(七二四年~七二九年)に『創建されたと伝わる』。神体は老体の人麻呂像であるが、それとは別に七体の像が存在し、一体は童子姿の人麻呂像、二体は「カタライ」夫婦像、四体は従者像であったというが、文化一四(一八一七)年の火災で焼失、現在のものは津和野藩藩命によって文政年間(一八一八年~一八三一年)に再造されたものとある。『現在ではカタライは、語らい、語家と考えられており、かのカタライ夫婦は宮司家綾部氏に連なる』とある。また、『綾部氏には、上記の縁起とは違う言い伝えが残されている。それによれば、柿本氏は語り部(かたりべ)の綾部氏を伴って大和国から石見国に下り、のち綾部氏の娘を愛して人麻呂が生まれた、とする。こちらの方が、柿本氏が大和国ゆかりと言われる通説に符合する』ともある。

「井澤長秀」(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)は神道家・国学者。号は蟠龍。肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子で、山崎闇斎の門人に神道を学んだ。宝永三(一七〇六)年の「本朝俗説弁」の出版以後、旺盛な著述活動に入り、「神道天瓊矛記」などの神道書、「菊池佐々軍記」などの軍記物、「武士訓」などの教訓書、「本朝俚諺」などの辞書、「肥後地志略」などの地誌と、幅広く活躍した。なかでも考証随筆「広益俗説弁」(全四十五巻・正徳五(一七一五)年~享保一二(一七二七)年)はよく読まれ、後の読本の素材源ともなった。また、「今昔物語」を出版しており、校訂の杜撰さが非難されるものの、それまで極めて狭い範囲でしか流布していなかった本書を読書界に提供した功績は小さくない(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」の白井良夫氏の解説に拠った)。ここに出る、「広益俗説弁」の「巻八 公卿」の「柿本人麻呂、柿木より生ずる説、附同人、上総国にながさるゝ説」を管見したが、人麻呂「十五人」の数字は見えない。柳田の引用元を御存じの方、御教授を乞う。]

 播磨の舊記峯相記の中には、明石の人丸神寶は女體といふ一説を錄して居る。因幡の某地にあつた人丸の社も、領主龜井豐前守の實見談に、内陣を見れば女體であつたといふ(一九)さうすると芝居の惡七兵衞景淸の娘の名が、人丸であつたといふ話も亦考へ合される。景淸の女を人丸といふことは、謠曲にはあつて舞の本には無い。盲目になつて親と子の再會する悲壯たるローマンスも、さう古くからのもので無いことが知れる上に、景淸目を拔くといふ物語すらも、資は至りて賴もしからぬ根據の上に立つのである。それにも拘らず日向には儼たる遺迹があつて神に眼病を禱り、又遠近の諸國には屢々其後裔と稱する者が、連綿として其社に奉仕して居る。卯ち是も亦一個後期の權五郎神であつたのである(二〇)その一つの證據は別に又發見せられて居る。

[やぶちゃん注:「峯相記」「みねあひき(みねあひき)」(但し、音読みして「ほうそうき」「ぶしょうき」とも読むらしい)は鎌倉末から南北朝期の播磨国地誌。作者不詳であるが、正平三/貞和四(一三四八)年に播磨国の峯相山(ほうそうざん)鶏足(けいそく)寺(現在の兵庫県姫路市)に参詣した旅僧が同寺の僧から聞書したという形式で記述されている。

「舞の本」は中世芸能の一種であった幸若舞(こうわかまい)の詞章を記したもの。曲舞(くせまい)の一流派の後裔。室町期に流行した。]

 

(一) 下野神社沿革誌卷六。

[やぶちゃん注:本文中に既注。]

(二) 此二件とも安蘇史に依る。

[やぶちゃん注:明治四二(一九〇九)年安蘇郡役所刊荒川宗四郎著か。]

(三) 日本奇風俗に依る。

[やぶちゃん注:明四一(一九〇八)年大畑匡山編。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像で読める。]

(四) 北野誌首卷附錄。たゞ御目痛ませたまふといふのは、現在片目では無いからであらう。しかも二柱の神といふを見れぱ明かに菅原天神では無かつた。

[やぶちゃん注:北野神社社務所編明四三(一九一〇)年刊。現在の京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町にある北野天満宮の社史。「北野神社」は同神社の旧称(同社は明治四(一八七一)年に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名、「宮」を名乗れなかったのは、当時のその条件が、祭神が基本的に皇族であること(同社の祭神は菅原道真)、尚且つ、勅許が必要であったことによる。古くより親しまれた旧称「北野天満宮」の呼称が復活したのは、実は戦後の神道国家管理を脱した後のことであった。この部分はウィキの「北野天満宮」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら当該箇所リンク)の画像で視認出来る。]

(五) 蒲生郡誌卷八。是は目を突いた例で無いが、必ず同じ話である。神輿を麻畠に迎へ申す例は方々にある。

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年滋賀県蒲生郡編「近江蒲生郡誌」であろう。]

(六)傅説叢書阿波の卷。出處を言はざるも「粟の落穗」であらう。池の鮒といふのは此社の池の魚であつて、やはり片目を説いたものらしい。

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年日本傅説叢書刊行藤澤衛彦編著「日本伝説叢書阿波の巻」。「粟の落穗」というのは、野口直道の手になる江戸末期の阿波国の地誌と思われる。]

(七) 郷土糾究四卷三〇六頁、林魁一君。

[やぶちゃん注:「林魁一」(はやし かいち 明治八(一八七五)年~昭和三六(一九六一)年)。既注であるが、再掲しておく。岐阜出身の考古学者。岐阜中学卒。坪井正五郎の指導で研究を始め、明治三十年代の初め頃から郷里の美濃東部や飛騨地方を調査して論文を発表、有孔石器・御物石器(ぎょぶつせっき/ごぶつせっき:繩文時代の磨製石器であるが、宮中に献上されたためにこの名を持つ。太い棒状であるが中央よりやや片方寄りに縊れた部分があってそこから細くなっており、全体は鉈のような形状を成す。また、文様も施されている)を発見したことで知られる。著作に「美濃国弥生式土器図集」。]

(八) 小谷口碑集一〇三頁。

[やぶちゃん注:小池直太郎編。]

(九) 南安曇郡誌。

[やぶちゃん注:長野県の旧南安曇郡(現在の安曇野市の大部分と松本市の一部)の地誌。長野県南安曇郡編纂で発行所は南安曇郡教育会。発行は大正一二(一九二三)年。]

(一〇) 始めて之を説いたのは十三年前の小著「山島民譚集」葦毛馬の條であつた。

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年刊の現在「山島民譚集(一)」とされるものの、「馬蹄石」の冒頭の「葦毛ノ駒」の中ほどであるが、実に鎌倉権五郎の名がまさに例として語られる前後に書かれている。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(当該箇所リンク)の画像で視認出来る。]

(一一) 和漢三才圖會の地理部にも、當然のやうにしてさう書いてある。、

[やぶちゃん注:「卷ノ六十六」には、

   *

宇都(ウツノ)宮大明神 在宇都宮城艮 社領千七百五十石

祭神 柿本人麻呂靈  神主  社僧【杉本坊 田中坊】

  神傳詳于播州明石下

   *

とあって「卷ノ七十七」の播州の「人丸社」には凡そ二頁分を費やして人麻呂についての記載がある。]

(一二) 下野西南部の人丸社では、今日はもう宇都宮との關係を忘れて、藤原定家此地方に來遊して、此神を祀り始めたといふ一説が行はれて居る。定家流寓の傳説は又群馬縣にも多い。無論事實では無い故に、旅の語部の移動の跡として、我々には興昧が多いのである。

[やぶちゃん注:私は定家嫌いなので触手は動かぬ。悪しからず。]

(一三) 以上すべて下野神社沿革誌に依る。

(一四) 拙著「神を助けた話」には、宇都宮の信仰の福島縣の大部分を支配して居たことを述べてある。

[やぶちゃん注:本文注で既注。]

(一五) 民族一卷五六頁及び其註參照。

(一六) 百人一首一夕話に依る。上田秋成の説らしから小説かも知れぬ。菅公が梅の本に現れたといふ、と一對の話で、我々は便宜の爲に之を樹下童子譚と呼んで居る。

[やぶちゃん注:「百人一首一夕話」(ひゃくにんいっしゅひとよがたり)は江戸後期の学者尾崎雅嘉(まさよし 一七五五年~一八二七年)が著わした異色の「百人一首」注釈書。但し、私の所持する岩波文庫版の「柿本人麻呂」の条には盲目桜についての記載はない。不審である。]

(一七) 本朝通紀前篇上。

[やぶちゃん注: 元禄一一(一六九八)年長井定宗編になる日本通史。]

(一八) 滑稽雜談卷五(國書刊行會本)にさう書いてある。

[やぶちゃん注:俳諧歳時記。京都円山正阿弥の住職四時堂其諺(しじどうきげん)著。正徳三(一七一三)年成立。類書中でも飛び抜けて詳説なもので、広く和漢の書を典拠としつつ、著者の見聞を加えて考証している。]

(一九) 戴恩紀上卷、存採叢書本。

[やぶちゃん注:「戴恩記」「たいおんき」と読む。松永貞徳著の歌学書。全二巻。正保元(一六四四)年頃に成り、天和二(一六八二)年に刊行された。著者の師事した細川幽斎・里村紹巴らの故事やその歌学思想を平易に述べたもの。]

(二〇) 景淸と景政と、同一の古談の變化であらうと説いた人はあつた。自分は必ずしも之を主張せんとせぬが、少なくともカゲもマサもキヨも、共に示現神即ち依女依童と、緣のある語であることだけは注意して置かねばならぬ。

[やぶちゃん注:「依女依童」「よりめ・よりわらは(よりわらわ)」と読む。所謂、神霊や物の怪など憑依させる「依巫(よりまし)」「依代(よりしろ)」である。これは、言霊信仰から見ても非常に肯んじ得る謂いと言える。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 大人國(1) つまみあげられた私

   大人國

    つまみあげられた私

 

 私はイギリスに戾つて二ケ月もすると、また故國をあとに〔、〕ダウンスを船出しました。一七〇二年六月二十日、〔私の乘つた〕船は、「アドベンチュア號」でした。翌年、三月、 〔船〕がマダガスカル海峽を過ぎる〔頃〕までは、無事な航海でしたが、その〔島の北の〕あたり〔から、〕海が荒れだしました。〔そして〕二十日あまりは〔、〕難儀な航海をつづけました〔。〕が、そのうち風もやむし、波もおだやかになつたので、私たちは大へん喜んでゐました。ところが、船長は、この辺の海のことをよく知つてゐる男でした。暴風雨が來るから、すぐ、その用意をするやう〔一同に〕〔にと〕命令しました。はたして、次の日から暴風雨がやつて來ました。

[やぶちゃん注:現行版では『「アドベンチュア號」でした。』で改行されている。また「〔にと〕」は、ない。]

 帆は私たちの〕船は荒れ狂ふ風と波にもまれ、私たちは一生懸命、奮鬪しましたが、〔が、〕なにしろ、恐ろしい嵐で、海はまるで気狂のやうでした。〔海はまるで氣狂のやうでした。〕船はずんずん押し流されて〔ゆきました。 やがて暴風雨がやんだ時には、〕、どこに自分たちがゐるのやら、もう見當がつかなくなりました。〔私たち〔の船は〕どこともしれない海の上を〔漂つて〔陸を求めて〕進んでゐました。〕しかし船にはまだ、〔船には〕〕食べもの〕糧も充分あ〕るし、船員はみんな元気でしたが、たゞ困るのは水でした。

 すると、ある日、マストに上つてゐた少年が陸を陸を見つけました。

 「陸が見える」

 と叫びました。それが〕一七〇三年六月十六日のことでした。した。〕翌日になると、何か大きな島か陸地らしいものが、みんなの目の前に見えて来ました。その南側に小さい岬が海に突き出てゐて、淺い入江が一つできていゐました。

[やぶちゃん注:現行版は以下。異同箇所に下線を引いた。

   *

 船は荒れ狂う風と波にもまれ、私たちは一生懸命、奮闘しましたが、なにしろ、恐ろしい嵐で、海はまるで気狂のようでした。船はずんずん押し流されて、どこに自分たちがいるのやら、もう見当がつかなくなりました。[やぶちゃん注:自筆稿改行なし。]

 私たちの船は、どこともしれない海の上を、陸を求めて進んでいました。まだ、船には食糧も充分あるし、船員はみんな元気でしたが、たゞ困るのは水でした。[やぶちゃん注:自筆稿はここで改行。]ある日、マストに上っていた少年が

「陸が見える

 と叫びました。

 それが一七〇三年六月十六日のことでした。翌日になると、何か大きな島か陸地らしいものが、みんなの目の前に見えてました。その南側に小さ岬が海に突き出ていて、浅い入江が一つ出来ていました。

   *]

 私たちは、その入江から一リーグばかり手前で〔、〕錨をおろしました。もしか水が見つかりはせぬだらうかといふので、とにかく、水がほしかつたので、みんな水を欲しがつてゐたので、〕船長は船員を十二人の船員に、武裝させて〔水桶を持たせて〕、ボートに乘せて、水さがしに出しました。私もその陸が見〔の國が見〕たいのと、何か發見でもありはしないかと思つたので、〔賴んで〕一緒にそのボートに乘せてもらひました。

[やぶちゃん注:「一リーグ」既注であるが再掲する。ヤード・ポンド法の単位であるが、時代によって一定しないが、凡そ、一リーグ(league)は三・八~七・四キロメートルの範囲内にある。本書公刊よりもずっと後であるが、イギリスで十九世紀頃に定められた現在の「一リーグ」は「三マイル」で「約四・八二八キロメートル」である。但し、海上では「一リーグ」を「三海里(nautical mile:ノーティカル・マイル:現在の国際海里では一八五二メートルに規定)」として使うこともあるので、前者ならば十四・五キロメートル弱、後者の海里換算なら五・五キロメートル強となる。ここは海里換算の方が自然な距離である。]

 ところが、上陸してみると、川もなければ、泉もなく、〔ここには〕人一人住んでゐさうな樣子〔る樣子も〕〕ないのでした。船員たちは〔、〕どこか〔淸〕水がないかと、海岸〔を〕あてもなく步き𢌞〔ま〕はつてゐましたが、私は別の方角へ一哩ばかり一人で步いて行きみました。だが、あたりは石ころばかりの荒れ地でした。面白さうなものも別に見つからないし、そろそろ疲れて來たので、私は入江の方へブラブラ引返して〔ゐ〕ました。海が一目に見わたせるところまで來てみると、今、船員たちは、もう〔ちやんと〕ボートに乘込んで、一生懸命に本船めがけて漕いでゐるのです。

 私はとても駄目とは思ひましたが、〔おい待つてくれ、と私は〕大声で呼びかけようとして、ふと氣がつきました。恐ろしく大きな怪物動物怪物大きな人間〕がグングン海をわたつて、ボートを追つかけてゐるのです。水は膝〔の〕あたりしかないのですが〔海のなかを〕、〔その男は〕〔恐〕ろしい大跨で步いてゆきます。だが、ボートは半リーグばかりも先に進んでゐたし、あたりは〔、〕鋭い岩だらけの海だつたので〔、〕この怪物も〔、〕ボートに追いつくことはできなかつたのです。

[やぶちゃん注:「大跨」「おほまた(おおまた)」と訓ずる。「大股」に同じい。

「半リーグ」前注の海里換算なら、二・七五メートル。]

 もつとも、これは後から聞いた話〔なの〕です。そのとき〔は〕、私はそんなものを見てゐるどころではありません。なかつたのです〔か、ではありません〕。〔もと來た道を〕夢中で駈けだしました。すと、し、〕〔それから私は、〕かにか〔とにかく〕嶮しい山のなかを攀ぢのぼりました。山の上にのぼつてみると、あたりの樣子がいくらかわかりました。土地はみごとに耕されてゐますが、何より私を驚かしたのは〔、〕草の長さでした。高さ大きさ大きいことです。〕そこらに生えてゐる草といふの長の高さ〕のが、〔さ〔が〕〕二十呎からあるのです。〔以上ありました。〕

[やぶちゃん注:「草といふの長の高さ〕のが、〔ささが〕」の「さ」のダブりはママ。現行版は無論、『草の高さが』となっている。

「二十呎」約六メートル十センチ弱。]

 やがて、私は國道へ出ました。〔國道〕といつても、その〔實は〔、〕〕麥畑の中の小徑なのでしたが、私には〔、〕まるで國道のやうに思へたのです。しばらく、この道を步いてみましたが、兩側とも〔、〕殆ど何も見えないのでした。とりいれも近づゐた麥が〔、〕四十呎からの高さに〔、〕伸びてゐるのです〔ます〕。一時間ばかりもかかつて、この畑の端へ出てみると、〔高さ〕百二十呎もある〔垣〕で、この畑が圍まれてゐるのがわかりました。だが、樹木などは〔、〕あんまり高いのでどれ位なのか〔私には〕見當がつきませんでした。

[やぶちゃん注:「四十呎」十二メートル二十センチ弱。

「百二十呎」三十六メートル五十八センチ弱。]

 この畑から隣りの畑へ行くのに〔通じる〕段々があり、それが四段になつてゐて、一番上の段まで行くと、一つの石を越える〔またぐ〕やうになつてゐました。一段の高さが六呎もあつて、上の石は二十呎以上もあるので、とても私には〔、〕そこは通れませんでした。

[やぶちゃん注:「六呎」一メートル八十三センチ弱。

「二十呎」約六メートル十センチ弱。]

 どこか垣に破れ目でもないか〔しら〕と探してゐると、隣りの畑にゐた〔から〔、〕一人〕の人間が一人こちらの段々の方へやつて來ました。人間といつても、〔こ〕れは、さつきボートを追かけてゐたのと同じ位の大きなもの〔怪物〕です。背の丈は〔、〕塔の高さ位はあり、一步〕あるく幅が〔、〕十ヤードからありそうでした〔す〕。私は膽をつぶして、麥畑のなかに逃げ込んで〔、身を〕隱〔し〕てました。

[やぶちゃん注:「十ヤード」三メートル強。]

 そこから見てゐると、〔その男〕は段々の上に立ち上つて、右隣りの畑の方を振向いて、何か大声で叫びました。その〔声〕のもの凄いこと、私ははじめ雷かと思つたくらゐでした。

 すると、手に手に鎌を持つた〔、〕同じやうな〔、〕七人の怪物が、ぞろぞろと集つてくるではありませんか。鎌といつても、普通の大鎌の六倍からあるのを持つてゐるのですが、が、〕この七人は、あまり身なりもよくないので、召使らしく思へました。はじめの男が何か云ひつけると、彼等は私の隱れてゐる畑を刈りだしました。

 私はできるだけ遠くへ逃げようとしましたが、この逃げ路が〔、〕なかなか難儀でした。なにしろ〔時には〕株と株との間が一呎しかないところもあります。これでは〔、〕私の身躰でも〔なかなか〕、通り〔にく〕いのでした。どうにかこうにか進んでゐるうちに、麥が風雨で倒れてしまつてゐるところへ出ました。もう、〔私は〕一步も前進できません。莖がいくつも絡みあつてゐて、潜り拔けることも出來ないし、倒れた麥の穗さきは、ナイフのやうに尖つてゐて、それが〔、〕私の洋服ごしに〔、〕私の身躰を〔、〕突き刺しさうなのです。

[やぶちゃん注:「一呎」三十センチ四十八ミリ。何故か、現行版は他では『一フート』とあるのに(単数形だからというのであろう)、ここだけ『一フィート』である。不審というより子供向けなのにこんな辛気臭い正確な英語単位の区別は混乱するだけであろう。全部、「フィート」すりゃ、いいに!]

 さうかうしてゐるうちに、鎌の音は、百ヤードとない後から〔、〕近づいて來ます。私はすつかり、へたばつて、〔もう〕立つてゐる元気力〕もなくなりました。畝と畝との間に橫になると、いつそ〔、〕このまま死んでしまひたいと思ひました。私は殘してきた〔、〕妻や子〔供〕のたちのことを〔が、〕眼に浮んできました。みんながとめるのもきかないで、航海に出たのが〔、〕今になつて 無念〔無念〕でした。ふと、私はリリハットのことも思ひ出しました。あの國の住民たちは、〔この〕私を、驚くべき怪物として、尊敬してくれましたし、あの國でなら、一艦隊をそつくり引きずつてかへることだつて出來たのです。だが、こここのここ〕では〔、〕私はこんな〔とてつもない〕大きな連中のなかでは〔にあつては〕、この私はまるで芥子粒みたいなもの〔なの〕です。今に誰かこの大きな怪物の一人に捕まへられ〔つ〕たら、私は一口に〔パクリと〕喰はれてしまうでせう。しかし、この世界の果てには、リリパットよりもつと小さな人間(画像外で不明)〕ゐるかもしれないし、今〔こ〕こ〔にゐる〕大きな人間よりもつともつと大きな人間だつてゐるかもしれないと、私は恐怖で氣が遠くなつてゐながら、まだ、ここ〕んなことを思ひつづけてゐました。

[やぶちゃん注:「しかし、この世界の果てには、リリパットよりもつと小さな人間(画像外で不明)〕ゐるかもしれないし、今こ〔こ〕この〔にゐる〕大きな人間よりもつともつと大きな人間だつてゐるかもしれないと、」の部分は、右上部罫外に左を上にして縦書されてあり、「」の訂正箇所は底本ブラウザの画像外で不明である(なお、以下の現行版を参照のこと)。

   *

 そうこうしているうちに、鎌の音は、百ヤードとない後から、近づいて来ます。私はすっかり、へたばって、もう立っている力もなくなりました。畝うねと畝との間に横になると、いっそ、このまゝ死んでしまいたい、と思いました。私は、残してきた妻や子供たちのことが、眼に浮んできました。みんながとめるのもきかないで、航海に出たのが、今になって無念でした。ふと、私はリリパットのことも思い出しました。あの国の住民たちは、この私を、驚くべき怪物として、尊敬してくれたし、あの国でなら、一艦隊をそっくり引きずって帰ることだってできたのです。

 だが、こゝでは、こんな、とてつもない、大きな連中に会っては、この私はまるで芥子粒けしつぶみたいなものです。今に誰かこの大きな怪物の一人につかまったら、私は一口にパクリと食われてしまうでしょう。しかし、この世界の果てには、リリパットより、もっと小さな人間だっているかもしれないし、その世界の果てには、今こゝにいる大きな人間より、もっともっと大きな人間だっているかもしれないと、私は恐怖で気が遠くなっていながら、こんなことを思いつゞけていました。

   *

「百ヤードとない」九十一メートルもない。]

 そのうちに、刈手の一人が〔、〕私の寢てゐる畝から〔、〕十ヤードのところまで〔、〕近づいて來ました。もう〔、〕この次には〔、〕〔私は〕足で踏み潰されるか、鎌で眞二つに切られるかと生きた気持はしませんでした。思ひました。するにちがひありません。さうでした。るかもわかりません。〕その男が動きかけると、私は思はず大声で叫びました。〔喚きちらし救けを〕求めました。

[やぶちゃん注:改稿併存はママ。現行版では、

   *

 そのうちに、刈手の一人が、私の寝ている畝うねから、十ヤードのところまで、近づいて来ました。もう、この次には、足で踏みつぶされるか、鎌で真二つに切られるかもわかりません。その男が動きかけると、私は大声でわめきちらし、助けを求めました。

   *

となっている。

「十ヤード」九メートル十四センチ強。]

 巨人(おうおとこ)は思はふと〕〔立ち〕どまつて、しばらく〔、〕あたりを見𢌞してゐましたが、ふと、私が私がふと〔、〕〕地面にひれ伏してゐる〔私〕を〔、〕見つけ〔出し〕ました。この小さな〔、〕危險な〔、〕動物を〔、〕騷がれないやうに、嚙まれないやうに〔、〕つかまへるには、どうしたらいゝのかしら、といつた顏つきで、彼はしばらく考へてゐました。私もイギリスで〔、〕いたちや鼠をつかまへるときには、ちよつとこんなふうにしたものです。

[やぶちゃん注:「巨人(おうおとこ)」現行版にはこのルビは存在しない。原民喜がかく読ませようとしていたことを知る貴重な部分である。]

 〔と〕うとう、彼は思ひきつて、人差指と拇指で、私の腰の後の方をつまみあげると、私の形をもつとよく見るために、目から三ヤードのところへ、持つて行きました。私は〔、〕彼のしてゐることがよくわかつたので、安心して落着いてゐました。かうして、地上から六十呎の高さにつまみ上げられてゐる間は、じつとしてゐようと思ひました。ただ〔、〕苦しかつたのは、私を指からすべり落すまいとして、ひどく〔、〕脇腹をしめつけられてゐることでした。

[やぶちゃん注:「六十呎」十八メートル二十九センチ弱。]

 私は〔ただ〕天を仰ぎ兩手を合せながら、〔助けてもらひたひたやうにお願いするやうに〕情ない哀れつぽい調子で〔、〕何かと言つてみました。といふのは、私たちが厭な小動蟲など殺さうとする時に〕〔す場合〕、〔それをよく〕地面にパッとたたきつけますが、〔るものですが、〕それをやられはしないかとそれを〔、〕今やられはすまいかとあんな風にあはされるのか、〕と心配でならなかつた〔から〕の〔から〕です。

[やぶちゃん注:現行版は、

   *

 私はたゞ、天を仰ぎ両手を合せながら、お願いするように、哀れっぽい調子で、何かと言ってみました。というのは、私たちが厭な虫など殺す場合、よく地面にパッとたゝきつけるものですが、あれを今やられはすまいかと、心配でならなかったのです。

   *

で、最後の一文が推敲前の形に戻っていることが分かる。]

 だが、幸いなことに、彼〔に〕は私の聲や身振りが氣に入つたやうでした。私がはつきり言葉を話すので、その意味は彼にはわからなかつたのですが、ものが云へるのに驚いて、つくづくつくづく〕〔ホウ、ものが云へるのか、と驚いたやうな顏つきで、目をみはつて〔彼は珍しげに〕私を眺めるのでした。私はさうされてゐても〔その間にも、〕〔私は、彼の指で、脇腹を〕しめつけられてゐるのが〔、〕苦しかつたくなつた〕ので、呻いたり泣いたりして、一生懸命、そのことを〔身振りで〔〕〕知らせました。

 〔すると、〕彼にもその意味がわかつたらしく、上衣の垂れをつまみ上げて、その中に〔、〕そつと私を入れました。それから大急ぎで〔、〕主人のところへ駈け〔つけ〕て行きました。主人といふのは、私が最初に畑で見た男でした。

 その主人は〔その主人は、〕召使が〔私のことを〕話すのを〔默つて〕聞〔きおはると、〕いてゐましたがから話を聞くと、が話すのを、じっと聞いてゐました〕が、杖ほどもある藁すべをとつて、それで〔、〕私の上衣の垂れを〔、〕めくつて見ました。〔りあげました。〕〔何か〕〔彼は〕この私の洋服〔は〕〔、〕私の身躰に〔、〕生れつき〔、〕くつついてゐる皮〔ものやうにのと〕か何か〕と思つたのでせう。つぎには私の〔私の〕髮〔の毛〕にフーと息をふきかけて〔それから、私にフーと息をふきかけて、髮をわけると私の髮の毛をフーと息ではらひながら〕、〔私の〕顏をしげしげ眺めました。それから、(これはあとになつてわかつたのですが)作男たちを呼びあつめると、これまでこんな小さな動物を畑で見たことがあるか〔〕と〔、〕みんなに〔、〕たづねました。それから〔、〕私を〔、〕そつと〔、〕四つ這ひのまま〔の恰好で〔、〕〕地面におろしてくれました。

[やぶちゃん注:「つぎには私の〔私の〕髮〔の毛〕にフーと息をふきかけて〔それから、私にフーと息をふきかけて、髮をわけると私の髮の毛をフーと息ではらひながら〕、〔私の〕顏をしげしげ眺めました。」の箇所の書き換えの併存はママ。現行版では、

   *

 その主人は、召使が話すのを、じっと聞いていましたが、杖ほどもある藁(わら)すべを取って、それで、私の上衣の垂れを、めくりあげました。この洋服は、私の身体に、生れつきくっついているものと思ったのでしょう。それから、私の髪の毛に、フーと息を吹きかけて、髪を分けると、顔をしげしげ眺めました。それから、(これはあとになって、わかったのですが)召使たちを呼び集めると、これまでこんな小さな動物を畑で見たことがあるかと、みんなに、尋ねました。それから、私を、そっと、四つ這いのまゝの恰好で、地面におろしてくれました。

   *

となっている。]

 私はすぐに立ち上つて、〔逃げ出すつもりのないことを見せるために〕ゆるゆるとあたりを步きまはつてみせ〔り〕ました。すると〔、〕みんなは〔、〕私の動きぶりを〔、〕よく見ようとして〔、〕私のまは〔をかこ〕んで〔、〕坐りこんでしまひました。私は帽子を取つて、百姓にていねいに〔、〕おじぎをしました。それから、ひざまづいて、兩手を高く差し上げ、天を仰いで大声で、二こと三こと話しかけました。そして、ポケットから〔、〕金貨の入つた財布を取り出して、うやうやしく彼のところへ持つてゆきました。

 彼はそれを掌で受取つてくれましたが、目のそばへ持つて行つて、何だらうかとしらべて〔、ながめて〕ゐました。〔そして、〕袖口からピンを一本拔きとつて、その先で何度も〔、〕掌の上の財布をひつくりかへしてゐましたが〔、〕〔やはり〕〔、〕何だかわからないやうでした。

 そこで、私は手眞似で、その〔掌の〕財布を下に置いてくれ、と言ひました。財布が下に置かれると私はそれを手に取つて、中を開いて、金貨をみんな彼の掌の上にこぼし〔ばらまき〕ました。四ピストルのスペイン金貨が六枚と、ほかに小さな〔錢〕が二三十枚ありました。見ると〔、〕彼は小指の尖を舌で濡しては、大きい〔方〕の金貨を一枚一枚つまみ上げてゐましたが、やはり、それがなにだか〔、〕さつぱりわからないらしいのです。

[やぶちゃん注:「四ピストルのスペイン金貨」原文は“six Spanish pieces of four pistoles”で、“pistole”(ピストーレ:スペイン語“pstols”が語源で「金属板」の意)は十七~十八世紀に西欧で流通したスペイン金貨のこと。イギリスでは何度かピストーレ金貨が鋳造されているようであるが、ここは「スペイン」と限定しているので、真正のスペイン古金貨のそれ。英和辞典には価値は2エスクード相当とあるが、当時の価値はよくわからない。しかし、ネット上の記載を見る限りでは明治初期の一円以上の価値はらくにありそうな感じである。識者の御教授を乞う。

「尖」「さき」と読ませている。現行版は『先』である。]

 彼は手まねで私に、もう一度これを財布におさめて、ポツトに入れておけ〔、〕と云ふのでした。私は何度もそのお金を彼に差出してみましたが、結局やはり彼の云ふとほりにおさめておきました。

 その時には〔そのうちに、〕もう百姓〔に〕は〔、その時には〕私が理性的な生き物〔(人間)〕だ、といふことが〔、〕わかつてゐました〔たのです〕。彼は何度も〔、〕私に話しかけましたが、その声は〔、〕まるで水車の響のよう〔で、〕私の耳は破れさうでした。私も〔、〕知つてゐるかぎりの〔いろんな〕外國語を使つて〔、〕力一ぱいの〔大〕声で〔、〕話しかけてみました。すると向は〔、〕耳をすぐ私のそばに持つて來て、〔しきりに熱心に〕きかうとする〔きいてくれる〕のですが、駄目でした。私たちの話し〔云ひ〕合つてゐる言葉は〔、〕お互に意味が通じません〔ないの〕でした。

 召使たちはまた麥刈にとりかかりましたが、主人はポケツトから、ハンカチをとりだし、二つ折りにして〔、〕左手の上にひろげ、その掌を地面の上に差しだして、この中に入つてこいと、手眞で〔手眞似で〔、〕〕私に合圖をし〔ま〕す。その掌の厚さは一呎ぐらゐでしたから、私〕もらくに〔のぼ〕れさうでした〔るのです〕。〔今は〕とにかく主人の云ふとおりにし〔てゐ〕ようと思ひました。

[やぶちゃん注:「一呎」三〇・四八センチメートル。]

 〔それで、〕私は落つこちない〔や〕うに用心しながら〔、〕ハンカチの上に長くなつて寢ころびました。すると〔、〕彼はハンカチの端で〔、〕大切私の頭のところを大切そうにくるんでしまひ、そのまま家に持つて行きました。

 家に歸ると〔、〕彼は早速、細君を呼んで〔、〕ハンカチの中の〔もの〕を見せました。〔丁度イギリスの女が〔、〕ひきかへるや、くもを見たときのやうに、〕きやあ!と細君は叫んで〔叫んで、細君は〕飛びのきました。しかし、暫く私の樣子を見てゐるうちに、〔そばで見てゐるうちに、〕私が主人の手眞似がよくわかるの〔で私がいろんな〕ことをするの〔を見て〕、細君は〔、〕すつかり感心して〔しまひました。そして〕今度は、だんだんと私にやさしくしてくれるやうになりました。

[やぶちゃん注:現行版では、

   *

 家に帰ると、彼はさっそく、細君を呼んで、ハンカチの中のものを見せました。ちょうど、イギリスの女が、ひきがえるくもを見たときのように、「きゃあ……」と叫んで、細君は跳びのきました。しかし、しばらくそばで見ているうちに、主人の手まねで私がいろんなことをするのを見て、細君はすっかり感心してしまいました。そして今度は、だんだんと私にやさしくしてくれるようになりました。

   *

である(太字の『ひきがえる』『くも』は底本では傍点「ヽ」)。私はこの現行版の『……』は実は「!」の誤植ではないかと疑っている。原文は間接話法になっており、自筆稿(鍵括弧はない)の「!」は一見、二点リーダ(「