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2016/06/08

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 支那(二章)

 

       支那

 

 螢の幼蟲は蝸牛を食ふ時に全然蝸牛を殺してはしまはぬ。いつも新らしい肉を食ふ爲に蝸牛を麻痺させてしまふだけである。我日本帝國を始め、列強の支那に對する態度は畢竟この蝸牛に對する螢の態度と選ぶ所はない。

 

       又

 

 今日の支那の最大の悲劇は無數の國家的羅曼主義者即ち「若き支那」の爲に鐵の如き訓練を與へるに足る一人のムツソリニもゐないことである。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年七月号『文藝春秋』巻頭に、前の「自由」(四章)「言行一致」「方便」「藝術至上主義者」「唯物史觀」と合わせて全十章で初出する。

 

・「螢の幼蟲は蝸牛を食ふ時に全然蝸牛を殺してはしまはぬ。いつも新らしい肉を食ふ爲に蝸牛を麻痺させてしまふだけである」「蝸牛」「かたつむり」。誰も注していないが、本当に何も注さないでこの文章は万人に十全に達意するのだろうか? そんなにホタルの生態に現代の読者は詳しいのだろうか? 「ここで芥川龍之介が言ってることは本当に正しいんだろうか?」とあなたは思いませんか? そう思われる方は、では御一緒に!
 

 日本の本土で一般大衆が普通に「螢」(ほたる)と呼んでいるのはゲンジボタル(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ホタル科ゲンジボタル属ゲンジボタル Luciola cruciata)とヘイケボタル(ゲンジボタル属ヘイケボタル Luciola lateralis)であるが(実際にはホタル科 Lampyridaeのホタル類は元来が熱帯域を主な棲息域とする種群で、日本国内には四十六種が棲息、しかも本土より南西諸島により多くの種がいる。ここはウィキの「ホタル」他に拠った)、彼らの幼虫は水中棲息であって、ゲンジボタルはカワニナ(腹足綱吸腔目カニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ(川螺) Semisulcospira libertina)、ヘイケボタルはカワニナの他、モノアラガイ(異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科モノアラガイ属イグチモノアラガイ亜種モノアラガイ(物洗貝)Radix auricularia japonica。この種は有肺目 Pulmonata である点ではカタツムリ類と仲間ではあるが、水棲のこれらを当時(一部の方言を除く)でも現在でも「蝸牛」とは呼ばない)や腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae の田螺(たにし)類等を摂餌するが、現行では腹足綱直腹足亜綱下綱異鰓上目有肺目真有肺亜目 Eupulmonataの内、柄眼下目マイマイ上科オナジマイマイ科 Bradybaenidae 及びニッポンマイマイ科Camaenidae に属する種群を代表種とする、陸生の巻貝のみを蝸牛(かたつむり)と呼ぶ(蝸牛(かたつむり)という一般的なこの呼称に相当する生物群を示すのは上のようにやや厄介であるが、民俗学上では遙かに厄介で、実は水棲のタニシなども地方によっては「かたつむり」或いは同義の「つぶ」「まいまい」と呼ぶ。私の柳田國男の「蝸牛考」を参照されたい。リンク先は(私のブログ・カテゴリ「柳田國男」)で私の注附きで全完結している)。従って、「螢」をゲンジボタルとヘイケボタルとしか読み換えることの出来ない日本人の一般大衆にとっては、芥川龍之介の「螢の幼蟲は蝸牛を食ふ時」という謂いはどうみても誤りとしか読めないことは言を俟たない。さらに言えば、本所生まれの龍之介が水中の巻貝類を以って十把一絡げに「蝸牛」と呼称したのだというのは無理があると思うのである。

 

 但し、この「蝸牛」を「まいまい」と読むというのなら、その可能性は出ては来る。いや、寧ろ、私はそれを深く疑っている。芥川龍之介は「蝸牛」と書いて「まいまい」と読み、それで水中の巻貝(腹足類)をも指しているのではないか? しかしだとすれば、向後は「侏儒の言葉」のここの「蝸牛」に「まいまい」というルビを振り、しかも、注して「ここでは水中の巻貝を指す」とでも注をしないとダメだと思う。今時、「蝸牛」を「まいまい」とは訓じないし、しかもそれを水生腹足類と読み換えて呉れる奇特な読者はいないか、或いは近い将来、いなくなるからである

 

 ただ、この龍之介の謂い――ホタルがカタツムリを食う――というのが誤っているかというと、実は誤っていないのである。

 

 何故なら、我々がホタルの代表のように思い込んでしまっているゲンジボタルやヘイケボタルはホタル類を代表する種でも何でもなく、寧ろ、上に示した通り、幼虫が水棲で淡水性巻貝類(水生腹足類)を摂餌するという種は『ホタル全体で見るとむしろ少数派』なのである(引用はウィキの「ホタル」。下線はやぶちゃん)。而して何故、龍之介の謂いが誤っていないかといえば、実はホタル科 Lampyridaeのホタル類の『多くの種類の幼虫は湿潤な森林の林床で生活し、種類によってマイマイやキセルガイなどの陸生巻貝類やミミズ、ヤスデなどといった土壌動物の捕食者として分化している』(下線やぶちゃん。特に『マイマイやキセルガイなどの陸生巻貝類』の箇所に注目)からである。この「マイマイ」はまさに陸生の「蝸牛(カタツムリ)類」のことであり、「キセルガイ」もカタツムリ類と極めて近縁の有肺目キセルガイ(煙管貝)科 Clausliidae細長い尖塔状の殻を持った陸生巻貝である(キセルガイは「蝸牛」の一種として認識されており、「蝸牛」と呼んでも何ら問題ない)。即ち、我々の知らない多くの他のホタル類は実は龍之介が言う通り、蝸牛を主な餌としているのである(なお、このキセルガイ類は腹足類(巻貝)としては珍しく、大部分が左巻きであり、しかも殻口の内奥部に「閉弁」(へいべん:Clausilium)と呼ぶ開閉式跳ね板のような特殊構造部を有する。これはウィキの「キセルガイによれば、『殻の一部が伸びて先端がスプーン状になった跳ね板扉状の構造で』、『閉弁は他に全く類を見ない極めて特殊なものである。その柄の付け根は殻口構造の中でも一番奥に位置しており、細い柄は螺旋状曲がりながら伸びて月状襞(もしくは下腔襞)の位置近くで急に下方に折れ曲がって閉弁を形成する。弁の形は丸みを帯びた平行四角形のことが多いが、これは殻の螺旋の断面がほぼそのような形になっているためである。ときに閉弁の先端部に切れ込みや刺状突起をもつ種類もある。螺旋状の柄には弾力があり、これをバネとして閉弁が跳ね板式の扉のように機能し、軟体部が殻の奥に引っ込むと自動的に閉まって外敵の侵入を阻み、貝が活動するために再び内部から出るときは、軟体に押されて殻の内壁にぴったりと押し付けられる。そのため弁は殻の内壁に沿った形に湾曲している』。科名の Clausiliidae や英名の「Door snail」もこの閉弁に因むものである)。

 

 しかし読者の中には、「芥川龍之介が、ゲンジボタルヤヘイケボタルの幼虫とは異なり、水棲でなく、陸にいて、その幼虫がカタツムリを捕食するところの、当時どころか現代でも一般大衆の知らないホタル類を知っていたはずがないだろ!」と反論される御仁があるやも知れぬ。

 

 だが――芥川龍之介がそうした種を知っていた可能性がある――のである。

 

 芥川龍之介は大阪毎日新聞社中国特派員として大正一〇(一九二一)年の五月二日から五日にかけて杭州(現在の浙江省の省都杭州市)を訪れている。それを綴った「江南游記」の、四 杭州の一夜(中)を読むと(リンク先は私の注釈附きブログ版)、彼はこの時、西湖湖畔で巨大なホタル火を見ている私はこれを推定同定して、「雌大螢火虫」(中文名)Lampyris noctiluca を候補として挙げた。今回、英文ウィキの「Lampyris noctilucaを見たところ、彼らの幼虫は陸棲でカタツムリ類を捕食することが判明した(同ウィキの画像でもそれが確認出来る。但し、言っておくが、彼らはかなりグロテスクであるので、上記リンク先のクリックは自己責任で。なお、私の全注釈附きの芥川龍之介「江南游記」全文HTML版はこちら)。

 或いはこの時、彼らの幼虫が陸生で蝸牛を食うという話を、泊まった新新旅館のホテル・マンか、或いは同宿の外国人、又は案内役として同行した村田烏江辺りから聴いた可能性があると私は思うのである。――中国の恐るべき巨大な火の蛍の、その幼虫が陸に棲み、しかも蝸牛を食う――という話を聴いたとしたら、それは龍之介ならずとも、強烈な印象として刻み込まれることは請け合いである(但し、ここは総て私の仮定ではある)。

 しかし、この龍之介の叙述には今一つ、別な問題がある。もう一度見よう(既に「蝸牛」問題は以上で私なりに片を付けたので以下のように書き換える)。

 

――「螢の幼蟲は」餌の巻貝「を食ふ時に全然」その貝「を殺してはしまはぬ。いつも新らしい肉を食ふ爲に」貝「を麻痺させてしまふだけである」――

 

 あなたはこんなことを知っていたか? 「え?! 麻酔!?」と不審に思わなかったか?

 私は凡そ救い難い馬鹿であるらしい。私は今日の今日までホタルの幼虫が巻貝に麻酔をかけて食っていたなんてさらさら知らなかったのだ! あのおどおどろしい頭を殼口から突っ込んでガリガリと貪り食らうのだとばかり思っていたのに!

 注を附さない芥川龍之介研究の国文学者というのは誰もが同時に昆虫学・ホタル学の専門家でもあるらしい! 凄い! いやさ、皮肉はこれぐらいにしとこう。本当にそうなんである!

 

――ホタルの幼虫は摂餌する際に摂餌対象の生物に麻酔をかけて食っている――

 

のである!

 まずは、お馴染みのゲンジボタルやヘイケボタルの幼虫(再度言う。彼らはかなりグロテスクである。以下のリンク先のクリックはくれぐれも自己責任で)を調べてみた。

 茨城県水戸市立国田中学校生物研究部の「ゲンジボタルの成育条件と生存率3 -上陸,羽化,産卵における光の影響 Part 2-」(PDF)によれば、ゲンジボタルの幼虫は口から出す消化液でカワニナを溶かしてそれを摂餌するとあるが、その記載中に(「6 結果」の「(1)ゲンジボタルの幼虫の飼育」の「幼虫の成長」の条)、『一頭のホタルがカワニナを食べる時間かなり長い。長いときで3日間も食べ続けている時もあった。ひとつのカワニナに何頭もの幼虫が頭をつっこみ食べているのをよく見かける』の前者の部分に眼が止まった。捕食時間が三日にも及ぶ場合、摂餌の最初にカワニナを殺してしまったら、二日目には内臓部からの腐敗が進行して食えなくなるかも知れぬと思ったからである。これは、その消化液の中にカワニナを殺さずに時間をかけてゆっくら食うための麻酔成分が含まれているとしても少しもおかしくない、と感じたからである。

 そこでさらに調べてみた。

 「ホタル 幼虫 麻酔」でネット検索をかけると、出るわ! 出るわ!

 小学館の「日本大百科全書」の「ホタル」の「生態」の項に『卵は一般に黄白色で球形、種類によっては雌の体内にあるときから発光しているのが認められる。幼虫は一部を除いて陸生で、昼間は林間の落葉下や石下などに隠れ、夜間活動する。おもにカタツムリなど貝類に鋭い大あごでかみつき、大あごの細溝を通じて消化液を注入し、液状にして吸い込むが、その際にカタツムリなどは麻酔される。種類によってはミミズやヤスデなどを襲うものもあるという。成虫が発光する種類は幼虫も発光し』、普通、第八腹節に一対の『発光器があるが、成虫がほとんど光らないクロマドボタルなど、昼間活動する種類でも幼虫が光るものが多い』とある(下線やぶちゃん)。

 レットさんのサイト「山の案内」の「ホタルの話」の「ホタルのあれこれ」(クリック同前自己責任)の記述の中に、『カワニナを食べるときは麻酔液を使うそうです』とある。カワニナとあるから、これはゲンジボタルの記載である。

 ヘイケボタルはどうか? あった。「ホタルの飼育について考える」という論文のこちらの記載に、『どうして冷凍した貝は食いや生育が悪くなるのか考えてみました。それはホタルの食性に関係があるように思えます。ゲンジボタルもヘイケボタルも獲物の(生きている)貝を見つけると、まず噛みついて麻酔液を注入します。カワニナもタニシも蓋を持った貝ですから、一旦は蓋を閉じて幼虫の攻撃から身を守りますが、再三の攻撃を受けるにつれて体がしびれ、ついには蓋を閉じることができなくなります。すると幼虫は消化液を分泌して貝の肉を溶かし、スープ状にして食べるのです。これを体外消化と言います。冷凍された貝の肉は組織が生きていませんので、生の肉に比べると消化液の働きが作用しにくいのかも知れません。またその結果として美味しく食べられないという一面も伴うのでしょう。これはあくまでも私の推測です』とある(下線やぶちゃん)。特にこの私が引いた後半部分は龍之介の「いつも新らしい肉を食ふ爲に」の部分と完全に一致しているではないか!

 

 いや! 凄い! 芥川龍之介の謂いは、以上によって、現在でも全く正確なホタルの幼虫の生態を記しているのであった!

 

・「我日本帝國を始め、列強の支那に對する態度」本章発表の大正一四(一九二五)年七月前後をウィキの「日中戦争」で見る(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。一九一〇年代後半から二〇年代前半、中国全土は分裂し、『軍閥割拠時代となった。一九一九年の五・四運動』(一九一九年のパリ講和会議のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱いた中華民国の大衆が北京で起こし、瞬く間に全国に広がった抗日・反帝国・反封建主義を掲げた大衆運動。呼称は五月四日に発生したことに由来する)『以降、中国では共産主義思想への共感が拡大』、『一九二一年には中国共産党が結成され』ている。『一九二〇年七月十四日の安直戦争』(中国の北京政府の主導権を巡って華北地方で安徽派(袁世凱の北洋軍閥の分派の一つ)の段祺瑞(だんきずい:派名は彼の出身地が安徽省だったことに因む)と直隷(ちょくれい)派(同じく北洋軍閥の分派の一つで、当初、同派を率いていた馮国璋(ふうこうしょう)の曹錕(そうこん)の対戦。五日間の戦闘で安徽派が大敗)『によって段祺瑞の政権は崩壊した。天津攻撃をおそれた日本は鉄道沿線各地に軍兵を配置した。十月二日には馬賊団が、琿春の日本領事館を全焼させ、日本人十三人を殺害、数人を拉致する。 一九二〇年十一月、張作霖の使者が日本を訪問し、支援を求める』。『一九二二年四月、孫文が北伐を開始』、『四月二十八日 には第一次奉直戦争』(直隷派の呉佩孚(ごはいふ)と奉天派(北洋軍閥の分派で中国東北部を基盤として日本の支援を受けていた総帥が張作霖及び息子の張学良)の張作霖の間で一九二二年に起った戦争。この時は直隷派が勝利したが、以下に見る通り、第二次(一九二四年)では奉天派が勝利して張作霖が政権を掌握した)が起き十月二十五日には日本軍がシベリアを撤兵、一九二三年六月には長沙事件が発生している(一九二三年(大正十二年)六月一日、湖南省長沙に於いて発生した排日運動を鎮圧するため、日本海軍陸戦隊が上陸した事件。汽船「武陵丸」の入港に反対する学生の排日運動を鎮圧することが目的とされたが、上陸を機に排日運動はさらに激化したため、鎮圧に手間取り、完全に沈静化したのは六月十九日であった。ここはウィキの「長沙事件」に拠った)。『一九二四年一月二十日、軍閥および北京政府に対抗する国共合作が成立、孫文の広東政府はコミンテルン』(ロシア語:Коминтерн/英語:Comintern)一九一九年から一九四三年まで存在した共産主義政党による国際組織。第三インターナショナルとも呼ぶ)『工作員ミハイル・ボロディンを最高顧問に迎え、ソ連の支援で国民革命軍を組織し』、一九二四年六月十六日には『軍官学校を設立した』。『一九二四年七月一日、蒋介石と汪兆銘』(おうちょうめい)『等による広東国民政府が成立。ソ連はボロディンら工作員を派遣し』、『広東などで反英運動を展開』、『一九二五年七月には蒋介石は東シベリア赤軍』『にイギリスとの武力戦争のためにロシア人顧問が必要であると伝え』ている。『一九二四年九月一八日、第二次』奉直戦争『が起こると、日本は内政不干渉を表明する一方、日本陸軍による張作霖への支援は続け、一九二五年に郭松齢』(かくしょうれい:張作霖の片腕であったが、この時、反旗を翻して張作霖討伐を画したが、結局、敗北、銃殺された)『が奉天に迫ると、満州出兵を行い、張作霖への軍事支援を実施した。一九二五年五月三十日、上海で数万の反日デモが発生、その後全市規模のストライキがコミンテルンと中国共産党の陳独秀指揮のもとで行われた。デモに対して上海共同租界当局は鎮圧にあたって発砲、十三人が死亡する五・三〇事件』(ごさんじゅうじけん)『が発生、以後、大衆運動の矛先は上海共同租界の代表であるイギリスに向けられ、香港などでも反英運動が展開した』。『その後もソ連は多額の資金を提供し、大青年反帝国主義同盟、中国プロレタリアート作家同盟、中国社会科学作家同盟などの組織が設立されていった』とある。因みに、ここに出る日本の支援を受けていた奉天軍閥の指導者張作霖が日本にとって邪魔となり、関東軍によって爆殺されるのは昭和三(一九二八)年六月四日のことである。

・「國家的羅曼主義者」「羅曼」に筑摩全集類聚版は『ロマン』とカタカナでルビする。従う。ナショナル・ロマンティシズム(National Romanticism)の訳語。ウィキの「ナショナル・ロマンティシズムより引く。『民族的ロマン主義または国民的ロマン主義とも訳され、ヨーロッパの』十八~十九世紀の『文学や政治におけるロマン主義を起源とし、美術や音楽、建築など広範囲の芸術領域に波及した潮流』。『芸術におけるナショナル・ロマンティシズムは、汎ヨーロッパ的な意味合いを持つ古典主義に対する、民族や国民国家などのアイデンティティを意識したローカリズムの主張と模索であったとひとまず考えることができる。したがって、イギリス・フランス・イタリアといったヨーロッパ文化の中心をなす国よりも、北欧・東欧・南欧(特にスペイン)などの周辺的な存在の国や地域により強く出現する傾向にあった』。『政治的には国民国家やファシズムなどの形成に影響を与えた』。

・「若き支那」ここで芥川は「少年中国学会」を意識して括弧書きしていると思われる。「少年中国学会」は一九一八年六月三十日に主に日本留学生によって企図された(正式成立は連動した五・四運動直後の一九一九年七月一日)、軍閥の専制や日本帝国主義の侵略に反対することを目的として結成された学生組織の名称。しかし当然のことながら、そこでは有意に共産主義を志向する学生が占めていた。芥川は新生中国の胎動の中にある青年の理想――共産主義の機運――を包括的に、このように呼んでいると考えてよい思われるが、そこには当然、当時の検閲を見越しての巧妙な「ぼかし」の意味もあると思われる。

・「ムツソリニ」ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini 一八八三年~一九四五年)平凡社「世界大百科事典」の北原敦氏の解説を引く(アラビア数字を漢数字に、コンマを読点に代えた)。『イタリアの政治家、ファシズム指導者。ロマーニャ地方のフォルリ近くに生まれ、鍛冶職人でアナーキスト系社会主義者の父、小学校教諭の母のもとで育ち、師範学校を出て』、『教員資格を取得。一九〇二年から約二年間』を『スイスで過ごし、社会主義者との交わりを深める。帰国後、兵役、教職を経て、一時』、『オーストリア領トレントの労働会議所の書記を務めた。一〇年社会党フォルリ支部書記となり、翌年イタリア・トルコ戦争(リビア戦争)』一九一一年から翌年にかけて、イタリアがオスマン・トルコ領リビアの領有を企図して起こした戦争)『に反対する行動で五ヵ月間投獄された。彼の思想は文化雑誌』『ボーチェ』(La Voce:「声」。一九〇八年にフィレンツェで創刊され、当時の主要な知識人が寄稿した)やソレル(Georges Sorel 一八四七年~一九二二年:フランスの哲学者・社会理論家で革命的サンディカリスム(労働組合主義)で知られ、反民主主義やファシズムに大きな影響を与えた。ムッソリーニは彼について「ファシズムの精神的な父」「私の師」「私自身はソレルに最も負っている」と発言している。ここはウィキの「ジョルジュ・ソレルに拠った)やヴィルフレド・パレート(Vilfredo Frederico Damaso Pareto 一八四八年~一九二三年:イタリアの経済学者・哲学者。社会は性質の異なるエリート集団が交互に支配者として入れ替わる循環構造を持っているとする「エリートの周流」という概念に基づく「循環史観」(歴史は同じような事象を繰り返すという考え方)を提唱、当時の社会進化論や史的唯物論を批判した。ここはウィキの「ヴィルフレド・パレート」に拠った)・『ニーチェらの書に負うところが多く、その社会主義も意志、直観、暴力の契機を重視した直接行動的性格を帯びていた。十二年社会党全国大会での改良派に対する痛烈な批判演説で脚光を浴び、指導部に選出された。さらに』党機関紙『アバンティ!』(Avanti!:「前進!」)の編集長の『ポストを与えられ、ミラノに活動の拠点を移す。ジャーナリストの才と激しい論調の革命主義の主張で党内に一派をなし、注目を集めた。第一次大戦の当初、党の方針である反戦中立の論陣を張ったが、一四年十月』、『突如として参戦論を機関紙に掲げ、十一月には独自の』日刊紙『ポポロ・ディタリア』(Il Popolo d'Italia:「イタリア人民」)を『創刊して参戦主義の活動を始めた。このため社会党から除名され、その後参戦派のサンディカリストとともに〈革命行動ファッシ〉』(Fasci Autonomi d'Azione Rivoluzionaria)『に加わって、いわゆる革命派参戦主義を唱えた。戦時中、前線勤務に就くが』、『事故で負傷して十七年に除隊、ジャーナリスト活動に戻った』。『大戦後の一九年三月〈戦闘ファッシ〉』(Fasci Italiani di Combattimento)『を結成してファシズム運動を開始し、二一年五月』、『下院議員に当選』、二二年十月に『ファシストのローマ進軍の圧力によって、国王から組閣令を引き出し、三十九歳で首相となった。以後二十年にわたって首相の地位にあり、とくに二五年一月』、『力による支配の方針を表明した後、ファシズム体制を築いて独裁的な権力を掌握した。ファシズム内の諸潮流の均衡の上に立って、その時々で大臣を交代させながら、みずからはドゥーチェ duce(ラテン語 dux に由来し、指導者の意味)として最高の地位を保持した。しかし、第二次大戦で敗色が濃くなると』、『政・財・軍各界からの批判が高まり、四三年七月二十四日』、『ファシズム大評議会で不信任の動議を突きつけられた。翌日』、『国王に逮捕され』、『山中に幽閉されたが、九月』には『ドイツ軍の救出をうけ、新たにイタリア社会共和国(サロ共和国)を樹立した』ものの、一九四五年四月には『レジスタンスの勢いが強まり、ドイツ軍にまじってスイスに逃れようとしたが、コモ湖畔でパルチザンに捕らえられ、銃殺刑に処せられた』。本章発表は大正一四(一九二五)年七月であるから、正に既にして独裁者としてイタリア・ファシズムの頂点に君臨していたわけだが、ここで龍之介が言っているのは、それ以前の「若き」日のムッソリーニの、変革への、扇動者にして先導者である旗手としてのむんむんするエネルギッシュな情熱とパワーを指している読める。而して、「若き支那」にいぶかしく首を捻った検閲官も、ここに「ムツソリニ」と出たのを見て、一人合点して笑みを浮かべ、問題なし、としたに違いない。]

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