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2016/06/29

北條九代記 卷第九 時賴入道靑砥左衞門尉と政道閑談

      ○時賴入道靑砥左衞門尉と政道閑談

最明寺時賴入道は、天下政理の正しからん事を思ひ、四海太平の世を守りて、仁を專(もつぱら)とし、德を治め給ふといへども、時既に澆薄(げうはく)に降(くだ)り、人、亦、邪智の盛なる故にや、諸國の道義、次第に廢れて、非法非禮のみ行はれ、正道正理は埋れ行きしかば、罸を受る者は日を追(おひ)て多く、誡(いましめ)を蒙る者は、月に隨ひて少からず。奉行、頭人(とうにん)と云はるゝ人々も不孝、不慈にして廉直ならず。これに依て、職を改め、所領を放(はな)たるゝ輩(ともがら)、是更(ことさら)に絶ゆる事なし。時賴入道、朝夕、是を歎き給ひ、靑砥(あをとの)左衞門尉藤綱を召して、竊(ひそか)に仰せられけるは、「汝は誠に學道を勤めて、仁義を修め廉恥を行ひ、奉公に私なく行跡に罪なしと見る故に、他人には替りて貴き人と覺ゆるなり。然るに、時賴は今、是(これ)、天下の執權として、撫民の政理(せいり)を重くし、賞罸を明(あきらか)にして、無欲を專とすといへども、無道の訴論は、年を經るに隨ひて、愈(いよいよ)重り、月を積むに任せて益々滋(しげ)し、萬民上下、猛惡の盛(さかん)なること頗る防ぎ難し。抑(そもそも)是(これ)、我が行跡(かうせき)に非ある故歟(か)、自(みづから)省(かへりみ)るに知(しり)難し。汝、靜(しづか)に見及ぶ所あらば、有(あり)の儘に申して聞(きか)せよ、直(ぢき)に諫言(かんげん)とはなしに、聖賢の示教(じけう)なりと思ひはべらん」と宣へば、藤綱、頭(かうべ)を地に付け、淚を流して申しけるは、「尩弱(わうじやく)の愚蒙(ぐもう)、元より短才(たんさい)の身にて候へば、我だにも修(をさま)り得ざる所に於いて、君に非法のおはしますべき事、爭(いかで)か見咎め奉るべき。然れども、心に存ずる趣(おもむき)を仰を蒙(かうぶ)りながら、默止(もだ)して申さざらんは、却(かへつ)て不忠の恐(おそれ)遁(のがれ)難く候へば、心に存ずる所を以て言上すべきにて候。この比、諸方の間(あひだ)に於いて、政法を輕(かろし)め、無道の行ひ多く候事は、全く御行跡に奸曲(かんきよく)ましますにもあらず。政道に誤ありとも覺えず候。但し、上下の遠きに依ての御事にこそ、國家に不孝無道の者、數を知らず、訴論、是より多く出來候と見えて候、その中に、訴論を構へ、内緣を以て、奉行、頭人に窺へば、非なるは、罪科遁るべからず。下(した)にて某(それがし)扱ひ侍らんとて、理非の訴(うつたへ)を上に通ぜず、押して中分(ちうぶん)に決せらる。理(り)あるは半分の負(まけ)となり、非あるは大に勝ち候。愚なるは、是(これ)を國法かと思ひ、智なるは歎きながらさて止(や)み候。是より遠境(ゑんきやう)の守護、目代(もくだい)等、皆、この格に習ひて、非道を行ひ、百姓を責虐(せきぎやく)し、押領(おうりやう)重欲(ぢうよく)を專とす。天下、喧(かまびす)しく、相唱(あひとな)ふといへども、更に以(もつ)て知召(しろしめ)さず。是(これ)、上下の遠くまします故にて候。凡そ步(かち)より行くものは、一日に百里を過ぎて行程(ぎやうてい)とす。堂上の事有りて、十日にして聞召(きこしめ)さゞるは、百里の情に遠(とほざか)り、堂下に事有りて、一月に及びて聞召さざるは、千里の情に遠り、門庭(もんてい)に事有りて一年まで聞召さずは、萬里の情に遠ると申すものにて候。奉行、頭人、私欲を構へ、君の耳目(じぼく)を蔽(おほひ)塞ぎ、下(しも)の情、上(かみ)に達せざれば、この御館(みたち)に座(おは)しましながら、百千萬里を遠り給ふ。每事(まいじ)、斯(かく)の如くならば、国民(くにたみ)、互(たがひ)に怨(うらみ)を含みて、その罪、必ず一人に歸し、蔓(はびこ)りては、遂に天下の亂(みだれ)となるべく候。又、當時鎌倉中に、儒學、盛(さかり)に行(はやらか)し、聖賢の經書(けいしよ)を取扱(とりあつか)ひ、講讀(かうどく)の席(せき)を啓(ひら)く事、軒(のき)を競(なら)べて聞え候。かの學者の行跡(ふるまひ)、更に故聖(こせい)の掟(おきて)を守らず、侫奸(ねいかん)重欲なる事、殆ど常人に增(まさ)り、毀譽(きよ)偏執(へんじう)を旨とし、他の善を蔽(おほひ)妬(ねた)み、惡を表して救ふことなし。况(いはん)や、佛法は是(これ)、王法の外護(げご)として、國家平治の資(たすけ)とす。道行(だいぎやう)殊勝の上人有りて、四海安穩(あんをん)の祈(いのり)を致し、生死出離(しやうししゆつり)の教(をしへ)を弘(ひろ)むるは、佛法の正理(せいり)なり。然るを今、鎌倉諸寺の僧、法師と云はるる者、多くは空見(くうけん)に落ちて、佛祖の教に違(たが)ひ、無智にして住持職を受け、僧綱(そうがう)高く進み、貪欲深く、檀那を諂(へつら)ひ、何の用ともなき器物を貯へ、茶の湯、遊興に施物(せもつ)を費し、身には綾羅(りようら)を嚴(かざ)り、食には肉味(にくみ)を喰(くら)ひ、美女を隱して濫行(らんきがう)を恣(ほしいまゝ)にす。亦、その中に學智行德の僧あるをば、妬(ねたみ)憎む事、老鼠(らうそ)を見るが如くし、王法(わうばふ)を恐れず、公役(くやく)もなし、偶(たまたま)、白俗(はくぞく)に示す所、地獄淨土を方便(ほうべん)の説とし、三世不可得(ふかとく)の理(り)を誤り、罪惡に自性(じしやう)なし、善法(ぜんぱふ)も著(ちやく)せざれと、是(これ)に依(よつ)て、檀那の心、無道に陷り、法度(はつと)を背き、道を破り、世の災害と成行(なりゆ)き候。神職(じんしよく)、祝部(はふり)の者は神道の深理(しんり)を取失(とりうしな)ひ、陰陽顯冥(いんやうけんめい)の相(さう)に惑ひ、祈禱に縡(こと)を寄せて、財寶を貪り、託宣に詞(ことば)を假(かつ)て、利欲を旨とす。武家より始(はじめ)て、儒佛神道(しんだう)に至るまで、大道、悉く廢(すた)れ、利欲、大に盛(さかん)なり。奉行、頭人より萬民まで、皆、奸曲邪欲を本として、迭(たがい)に怨(うら)み、迭に怒り、胸に咀(のろ)ひ、口に謗(そし)る。この故に、國中、頻(しきり)に喧(かまびす)し、たゞ殿(との)御一人、正道を重じ、正理を守り、御威勢強くまします故にこそ、上部(うはべ)計(ばかり)はせめて安穩(あんをん)無事の世中のやうには見えて候ものを」と語り申しければ、時賴入道は大息つきて、暫くは物をも宣はず。良(やゝ)有て、仰せられけるは、「御邊(ごへん)、かく國家政道の亂れたる事を我に知らさせける事は、誠に大忠の至り、何事か是に勝(まさ)らん。然れば、奉行、頭人、評定衆に、奸曲重欲のあらんには、下民、何ぞ奸(かたま)しき事なからんや。この罪、皆、我が身に歸(き)す。我、愚(おろか)にして、上下遠きが致す所なり」とて大に歎き給ひ、その後、正直の者十二人を撰出(えらびだ)し、密(ひそか)に鎌倉中の有樣を尋聞(たづねき)かしめらるゝ所に、靑砥左衞尉藤綱が申すに違(たが)はず、是に依て、評定衆を初(はじめ)て非道の輩(ともがら)を記(しる)さるゝに、三百人に及べり、時賴入道、是等を召出し、理非を決斷し、科(とが)の輕重に從ひて、當々(たうたう)に罪(つみ)し給ひけり。斯(かく)て仰せありけるは、「往昔(そのかみ)、義時、泰時、宣ひ置かれしは、頭人、評定衆の事、此、一家一門の人に依るべからず、智慮有りて學を勤め、正直にして道を嗜み、才覺もあらん人を撰出(えらみいだ)して定むべし」と、然るを近代、時氏、經時より以來(このかた)、評定は只、其家にあるが如し、その子孫、或は愚にして理非に迷ひ、或は奸曲有りて政道の邪魔となる。是(これ)、亡國の端(はし)にあらずや。諸人の惱(なやみ)、是(これ)に過ぐべからず」とて、器量の人を撰びて、諸国七道に使を遣し、諸方の非道を尋探(たづねさぐ)らる。探題、目代、領主たる輩(ともがら)、無道猛惡の者、二百餘人を記して鎌倉に歸る。時賴入道、是を點檢(てんけん)し、科(とが)の輕重に從ひて、皆、罪に行はる。有難かりける政道なり。

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、青砥藤綱の実在を私は認めないし(「北條九代記 卷之八 相模の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直」を見よ)、これがマクラとなっている次章の時頼諸国回国譚も、素人が「吾妻鏡」を見ても判然とする通り、あり得ない笑止千万な話である。

「澆薄(げうはく)」「澆」も薄いの意で、道徳が衰え、人情が極めて薄くなってしまうこと。

「頭人(とうにん)」ルビはママ。「たうにん」が正しい。評定衆を補佐して訴訟・庶務を取り扱った引付衆の長官。

「不慈」慈悲心が全くないこと。

「廉直ならず」正直でない。

「これに依て」酷吏の内、特に際立って孝心なく、無慈悲で、正直でない行為を繰り返すために。

「尩弱(わうじやく)」「尫弱」とも書く。現代仮名遣では「おうじゃく」。取るに足らないこと。頼りにならないこと。

「愚蒙」愚かで道理がわからないこと。「蒙」も道理を弁えない愚かなこと・無知なことを意味する。「愚昧」に同じい。

「短才の身にて候へば」「短才」は浅はかな知恵と乏しい才能の意であるが、自分の能力を遜(へいくだ)っていう語で、ここもそれ。

「我だにも修(をさま)り得ざる所に於いて」私自身をさえも自ら修養することが出来ざる愚か者である存在が。

「言上」「ごんじやう」(ごんじょう)。

「この比」「このごろ」この頃。

「奸曲(かんきよく)」心に悪しき意識があること。

「上下の遠きに依ての御事」上と下の意識があまりに遠く隔たって齟齬し、相互の意志が全く疎通しなくなっておりますこと。

「内緣を以て、奉行、頭人に窺へば」奉行や頭人といった裁定者の中に縁故のあるのをよいことに、彼らに賄賂(まいない)などを以って自分の都合によいように裁定を不当に曲げるように働きかけることがあるので。但し、次の「非なるは、罪科遁るべからず」とは上手く繋がらない。私はここは挿入文と読む。即ち、

……奉行や頭人に縁故のある者は訴訟を有利に運ぼうとするのですが――無論、そんな行為自体も非であることは火を見るより明らかであり、そうした事前に裏で手を回すことの罪科を遁れてよいはずはない――ないけれども実際には、そうした不法な取引が行われているのです。

と藤綱は言うのであろう。

「下(した)にて」そうした幕府の上級の裁きよりも下の、中・下級の裁定部署にあっては。

「某(それがし)」中・下級の官吏。以下は、本来ならば、自分よりも上の中・上位の裁定部局に通して理非を明らかにするのが当然である訴訟の場合であっても、それを通さずにその者たちが勝手に中・下級の官吏が裁定して済ましてしまうことを指している。

「押して中分(ちうぶん)に決せらる」縁故者に罪が有意にあっても、「理非」を「中分」、半々にして裁定してしまう。

「さて止(や)み候」明白な不当裁定に対して大いに論理的上の不満を抱きながらも、これが公の裁きである以上、としぶしぶあきらめて、それ以上訴訟を続行させないのです。頭のあまりよくない者は、「国の法律というものはこういうもんなんだろう。お上に逆らっちゃ罰が当たる」と思って引き下がるのとは大きな違いではる。後者の場合は、国法への不信がより深刻となり、国家自体を恨んで謀反に繋がるか、或いは正直者が馬鹿を見るのであるのが現実ならば、そうした連中よりも、さらにより巧みに悪に徹しようとする可能性が出て来るからである。

「遠境(ゑんきやう)の守護、目代(もくだい)等、皆、この格に習ひて、非道を行ひ」幕府の監視の目が届かない分、違反行為はやり放題、私腹は瞬く間に肥える一方となるからである。

「責虐(せきぎやく)」責め苦しませること。

「押領(おうりやう)」民の私有財産等の違法な押収・横領・着服。

「天下、喧(かまびす)しく、相唱(あひとな)ふといへども」失礼乍ら、実際には巷間ではこうした正しい不平不満を口々に主張し、訴えんと問題にしているのですが。

「更に以(もつ)て知召(しろしめ)さず」天皇や主君はそれを全く御存じない。ここでは敢えて形式上の謂いとして採った。実際の実権は執権にあり、この時は時頼の嫡子時宗の代となっていたとしても、訳の上では直接に時宗或いはその上の将軍家を指すとは私は読まない。後に藤綱は「堂上」を用いているのもそうした配慮があるからと私は思う。

「步(かち)より行くものは、一日に百里を過ぎて行程(ぎやうてい)とす」徒歩で旅する者は一日の行程を百里を目標上限とする。日本の中世の一里は凡そ五~六町を一里としたから(東国で使われた「坂東道」「田舎道」はそれ。鎌倉の「七里ヶ浜」はそれに基づく。但し、実際には二千九百メートルほどで半分強しかない)、これは現在の五百四十五メートルから六百五十五メートル相当で、中をとって六百メートルとすれば、六十キロメートルであるが、屈強の武士でも同一速度での歩行は無理である(武装していればなおさら)から、「百里」(六十キロメートル)を上限目安としても、事実上は時速四キロメートル+αで実動十時間、四百里(二十四キロメートル)から六百里(三十六キロメートル)ぐらいがせいぜいであろう。ここでそれを倍にしているのは、百里で示した方が後が分かり易い比喩になるからに過ぎないと思われる。

「堂上」ここは「だうじやう(どうじょう)」でよいと思うが、古くは「とうしやう」と清音で読んだ。ここは文字通り、「昇殿を許された公卿・殿上人の総称・公家・堂上方」の意で採っておく。無論、それは比喩であるから、訳す場合は「主君」(の身辺)の方が違和感はあるまい。

「百里の情に遠(とほざか)り」ごく身辺の出来事でありながら、それが十日経ってもその主君の耳に入って来ないとすれば、その事件・事情は何か奇体不可思議な理由から主君とは「百里」も隔たった心理的距離を持っている対象なのであり。

「堂下」本来は「堂上」の対語である「地下(ぢけ(じげ))」を持ってきたいところである。下々の世界。民間。

「門庭(もんてい)」教育社一九七九年刊の増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記で氏は『遠境の国々』と訳されておられるが、比喩を壊すのは私はどうかと思う。それに「下々」よりも自分の御殿の「門庭」は近い。寧ろ、ここで藤綱は身内の高官らの中に発生した事件や出来事について、一年たってもお聞き及びなられることがない、などという事態があったとすれば、その自邸内で起きた某重大事件であっても、それは万里(ばんり)の距離を隔てた事情を有する奇怪千万なものだと言いたいのではあるまいか? だからこそすぐ後の「奉行、頭人、私欲を構へ」と繋がるのだ、と私には思われる。

「君」主君。

「この御館(みたち)に座(おは)しましながら、百千萬里を遠り給ふ」ここで藤綱は比喩が五月蠅くなったのであろう、主体を実際の権力者である時頼に還元して露わに示している。

「每事(まいじ)」何事(に対しても)。

「必ず一人に歸し」主君一人。具体的には執権時宗であり、その父で実際の権力を握っている時頼一人にである。時宗と時頼は得宗で、同体として認識して問題ない。

「經書(けいしよ)」「經」は縦(たて)糸で、古今を貫く真理を載せた書物の意で、儒教の経典、四書・五経などの中国古代の聖賢の教えを記した書物全般を指す。仏教経典は含まれないので注意。

「侫奸(ねいかん)」口先では巧みに従順を装いつつも、心の中は徹底して悪賢いこと。

「毀譽(きよ)偏執(へんじう)を旨とし」増淵氏の訳は『他人の名誉をけがし偏見に執着するばかりで』と訳しておられる。

「生死出離(しやうししゆつり)」正しい仏法によって悟りを開き、生死(しょうじ)の苦海から脱すること、涅槃の境地に入ること。

「空見(くうけん)に落ちて」(修行を疎かにしているために)中身のない空しい見解に陥ってしまい。

「僧綱(そうがう)」本来は僧尼の統轄や諸大寺の管理運営に当たる僧の上位役職の総称。僧正・僧都(そうず)・律師が「三綱」、他に「法務」「威儀師」「従儀師」を置いて補佐させたが、平安後期には形式化している。所謂、名誉称号に過ぎない。

「綾羅(りようら)」あやぎぬとうすぎぬ。美しく高価な衣服。

「嚴(かざ)り」飾り。荘厳(しょうごん)の意からもこの字を用いるのは実に皮肉が利いていると言える。

「老鼠(らうそ)を見るが如くし」「學智行德の僧」であるが故に、衣服も貧しく、貧弱に見える者もいる。そうした者を乞食か老いさらばえた今にも死にそうな鼠を見るように蔑み、おぞましい目を向ける、という実にリアルな映像表現ではないか。

「公役(くやく)」官府から課せられた軍役や夫役(ぶやく)

「白俗(はくぞく)」俗人。墨染で僧は黒衣。但し、ここは江戸時代の作者の感覚で、この時代は必ずしも黒衣ではなく、逆に僧の黒衣着用を禁じた時期もあっりしたと私は記憶する。

・「三世不可得(ふかとく)」三世(さんぜ:前世(ぜんせ)・現世・後世(ごぜ))の事物事象は認知出来ないこと。仏教では一切の存在に固定不変の実体を認めないことから、その三世(過去・現在・未来の時空間と置き換えてもよい)の本体を追求してもそれを認識することは不可能であるする。

「罪惡に自性(じしやう)なし、善法(ぜんぱふ)も著(ちやく)せざれ」先の「三世不可得」(或いは「不可得空(くう)」)の理を誤認して、「罪悪などというもの自体がもともと存在しない。従って善行を積むということも何ら身の果報とはなるもんではない!」と説法している僧さえいる、というのである。これは恐らく、当時(設定された鎌倉時代)の浄土真宗の親鸞が義絶した息子で、関東で強い勢力を持った善鸞一派のそれを誇張変形したものではなかろうかと私は推察する。因みに善鸞の生没年は建保五(一二一七)年?~弘安九年(一二八六)年?)である。

「神職(じんしよく)」神官。

「祝部(はふり)の者」「はふりべ」(ほうりべ)とも読む。神社に属して神に仕えた職の一つで、通常は神主・禰宜(ねぎ)より下級の神職を指す。

「陰陽顯冥(いんやうけんめい)の相(さう)」陰陽師(ここは幕府や神社仏閣に附属した陰陽師であろうが、それ以外にもこの頃には怪しい民間の怪しげな連中が沢山いた)連中らの下すところ吉凶の相(判断)。

「迭(たがい)に」「迭」には「入れ替える」の以外に、もともと「かわるがわる・順番に代わりあって・交代に・互いに」の意がある。

「咀(のろ)ひ」呪詛に同じい。

「たゞ殿御一人」ここで最後に時頼にヨイショ。上手いね、藤綱。

「下民、何ぞ奸(かたま)しき事なからんや」反語。上が致命的にダメなのに、民草の方は心のねじけることなく、いまわしい心の持ち主にはならないなんてことの、あるはずがあろうか! いや、ない! 人民まで十把一絡げに悪道に落ちてしまっている!

「當々(たうたう)に罪(つみ)し給ひけり」それぞれ各人にその罪に相応相当の罰をお与えになられたという。

「依るべからず」のみに限定してはいけない。

「時氏」北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二(一二三〇)年)。第三代執権北条泰時の長男。嫡子で泰時も期待していたが、惜しくも病いのために早世し、執権にはなっていない。

「經時」時頼の前の第四代執権北条経時(元仁元(一二二四)年~寛元四(一二四六)年)。

「評定は只、其家にあるが如し」評定衆は実質上、北条家だけで占めているようなものであった。

「その子孫、或は愚にして理非に迷ひ、或は奸曲有りて政道の邪魔となる。是(これ)、亡國の端(はし)にあらずや。諸人の惱(なやみ)、是(これ)に過ぐべからず」ここは「諸人」が北条の「子孫」が幕府の裁定の総てを牛耳っているのが、そのメンバーは「或は愚にして理非に迷ひ、或は奸曲有りて政道の邪魔となる」者ばかりではないか! 「是(これ)、亡國の端(はし)にあらずや」と「惱」む、のだ、これこそまさに「亡國の」の始まりである! という謂いである。かの狸親父の時頼が本当にそう言ったとしたら、少しは私も時頼が好きになるんだけど、ね。

「諸国七道」古代律令制の「五畿七道」に基づく、秋津島(日本)の全域の謂い。東海道・東山道(現在の青森・岩手・秋田・宮城・山形・福島の東北六県に栃木・群馬・長野・岐阜・滋賀の各県を合わせた地域)・北陸道・山陰道・山陽道・南海道(現在の香川・徳島・愛媛・高知の四国四県に三重県熊野地方・和歌山県・淡路島を合わせた地域)・西海道。]

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