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2016/06/21

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(7) 人丸大明神

 

      人丸大明神

 

 神職目を傷くといふ古い口碑には、更に一種の變化があつた。下野芳賀郡南高岡の鹿島神社傳に、垂仁天皇第九の皇子池速別、東國に下つて病の爲に一目を損じたまひ、之に由つて都に還ることを得ず、此地に留まつて若田と謂ふ。十八代の孫若田高麿、鹿島の神に禱つて一子を得たり。後に勝道上人となる云々とある(一)此話と前に擧げた信夫の土湯の太子堂の太子像の、胡麻の稈で眼を突かれたといふ傳説とは、完全に脈絡を辿ることが出來る。野州は元來彦狹島王の古傳を始めとして、皇族淹留の物語を頻りに説く國であつた。さうして一方には又神の目を傷けた話も多いのである。例へば安蘇郡では足利中宮亮有綱、山烏の羽の箭を以て左の眼を射られ、山崎の池で其目の疵を洗ひ、後に自害をして神に祭られたといふ、京と鎌倉と二種の御靈を總括したやうな傳説がある外に、別に村々には人丸大明神を祭る社多く、其由來として俗間に傳ふるものは、此上も無く奇異である。一つの例を擧げるならぱ、旗川村大字小中(こなか)の人丸神社に於ては、柿本人丸手負となつて遁げ來り、小中の黍畑に逃げ込んで敵を遣り過して危難を免れたが、其折に黍稈の尖りで片眼を潰し、暫く此地に滯在した。そこで村民其靈を神に祀り、且つ其爲に今に至るまで、黍を作ることを禁じて居るといふ(二)

[やぶちゃん注:「下野芳賀郡南高岡の鹿島神社」栃木県真岡市南高岡の鹿島神社。個人サイト「kyonsight」のこちらに詳しい縁起が書かれてある。

「池速別」「いけはやわけ」と読む。以下に書かれた事蹟は、前注のリンク先に、後の注に掲げられてある「下野神社沿革誌」(風山広雄編・明治三六(一九〇三)年刊)の巻六からの引用があり、『社傳に曰く人皇十一代垂仁天皇第九皇子池速別命を勅使として天照大御神を伊勢の五十鈴の川上に崇め奉る 命事の縁に依り東國に下向す 後○病を煩ひ一目を損し還洛する事能はす 遂に下野の高岡の里に止まり住し若田と改め郷人となる 池速別命十八代の裔孫に若田高藤麿と云いふあり 夫婦の間に子なきを憂ひ如何にして一子を得んと朝夕神佛に祈願せしも其効なきを憂ひ大に落膽し神も佛も靈なきかとあしきなき世をかこち居たり 而るに或夜高藤麿の枕邊に白髪の翁現はれ吾は此里の名もなき神なるか汝の常に子無きを憂苦するを視るに忍ひす今汝に告く汝子を得んと欲せは常陸なる鹿島の神に祈り見よ必すその験あらんと云へ終れは忽ち夢覺めぬ 高藤麿暫し茫然たりしか手を打ちて朝夕祈りし神の我を哀み給へて今宵來りて夢に教へ給ひしかな有難しと拜伏し翌朝直に旅装を整ひて出發し幾日を重ねて漸くに常陸の鹿島に着きけれは三十七日の其間御社に齋み籠り一心に祈願しけれは結願の夜夢に妻吉田氏の懐胎するを見て大に喜ひ急き歸郷し其由を妻に告けれは果して其月より子を宿り妊月満ちて』天平七(七三五)年四月二十一日『正午出生せしは玉の如きの男子にて(幼名藤糸丸と稱し後佛門に歸し勝道上人と號す)健康無病にて生長しけれは夫婦の嬉ひ一方ならす』『鹿島に詣てつゝ御分霊を乞請けて』大同元(八〇六)年『正月七日を以て小高き岡の清地を撰みて宮殿を造営し鹿島大神を鎭祭して長へに一村の鎭守産土神と崇敬崇祭す』とある。本文にも出る「勝道上人」(天平七(七三五)年~弘仁八(八一七)年)は天台宗や華厳宗などの教団の流れを汲むと思われる名僧で、日光山の開山で知られる。

「信夫の土湯の太子堂の太子像の、胡麻の稈で眼を突かれたといふ傳説」先の「神片目」の本文及び私の注を参照。

「彦狹島王」「ひこさしまわう(おう)」と読む。崇神天皇皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の孫で、御諸別王(みもろわけのおう[)の父。ウィキの「彦狭島王」に、「日本書紀」景行天皇五十五年二月の条によれば、『彦狭島王は東山道十五国都督に任じられたが、春日の穴咋邑に至り病死した。東国の百姓はこれを悲しみ、その遺骸を盗み上野国に葬ったという。同書景行天皇』五十六年八月の『条には、子の御諸別王が彦狭島王に代わって東国を治め、その子孫が東国にいるとある』。「先代旧事本紀」の「国造本紀」『上毛野国造条では、崇神天皇年間に豊城入彦命孫の彦狭島命が初めて東方十二国を平定した時、国造に封ぜられたとしている』とある。

「淹留」「えんりう(えんりゅう)」と読み、長く同じ場所に留まるの意。

「安蘇郡では足利中宮亮有綱、山烏の羽の箭を以て左の眼を射られ、山崎の池で其目の疵を洗ひ、後に自害をして神に祭られた」「一目小僧(八)」の本文及び私の注を参照。

「旗川村大字小中(こなか)の人丸神社に於ては、柿本人丸手負となつて遁げ來り、小中の黍畑に逃げ込んで敵を遣り過して危難を免れたが、其折に黍稈の尖りで片眼を潰し、暫く此地に滯在した。そこで村民其靈を神に祀り、且つ其爲に今に至るまで、黍を作ることを禁じて居る」同じく「一目小僧(八)」の本文及び私の注を参照。]

 神が植物によつて眼を突いたといふ話は多い。其二三をいふと山城伏見の三栖神社では昔大水で御香宮の神輿が流れたとき、此社の神之を拾はうとして葦で目を突いて片目になられた。それ故に十月十二日の御出祭には、大小二本の葺の松明をともして道を明るくする(三)江州栗太郡笠縫村大字川原の天神枇社では、二柱の神が麻の畑へ天降りたまふとき、麻で御目を突いて御目痛ませたまふ故に、行末我氏人たらん者は永く麻を栽ゑるなかれといふ託宜があつた(四)同國蒲生郡櫻川村川合では、河井右近太夫麻畑の中で打死した政に、麻の栽培を忌むと謂つて居た(五)阿波の板野郡北灘の葛城大明神では、天智天皇此地に御船繫りして、池の鮒を釣らんとて上陸なされた時、藤の蔓が御馬の脚にからんで落馬したまひ、男竹で眼を突いて御痛みなされた。それ故に此村の籔には今も男竹が育たぬ(六)美濃の太田の加茂縣主神社でも、大昔加茂樣馬に騎つて戰に行かるゝ時に馬から落ちて薄の葉で日を御突きなされた。それ故に以前は五月五日に粽を作ることを忌んだ(七)信州では小谷の神城村を始め、此神樣が眼を突きたまふと稱して、胡麻の栽培を忌む例が多い(八)或は又栗のいが、松葉などを説くものもある、例のアルプス順禮路の橋場稻核(いねこき)では、晴明樣といふ易者此地に滯在の間、門松で眼を突いて大に難澁をなされ、今後若し松を立てるたらば村に火事があるぞと戒められたので、それから一般に柳を立てることになつた(九)

[やぶちゃん注:「山城伏見の三栖神社では昔大水で御香宮の神輿が流れたとき、此社の神之を拾はうとして葦で目を突いて片目になられた。それ故に十月十二日の御出祭には、大小二本の葺の松明をともして道を明るくする」「一目小僧(十)」の本文及び私の注を参照。

江州栗太郡笠縫村大字川原の天神枇社では、二柱の神が麻の畑へ天降りたまふとき、麻で御目を突いて御目痛ませたまふ故に、行末我氏人たらん者は永く麻を栽ゑるなかれといふ託宜があつた」「一目小僧(七)」の本文及び私の注を参照。

「同國蒲生郡櫻川村川合」現在の滋賀県東近江市の南西部。

「河井右近太夫麻畑の中で打死した政に、麻の栽培を忌むと謂つて居た」柳田國男「日本の伝説」にも引く。

阿波の板野郡北灘の葛城大明神」現在の徳島県鳴門市鳴門市北灘町桑田字池谷。個人サイト「神奈備」の「一言主神を祀る神社一覧」の同神社の由緒には、『天智天皇が九州に御巡幸された時、天皇に随行され阿波の沖を御通過の折、 粟田に停泊、この浜より上陸され渓谷にて鯉鮒の釣りをなされる為、 御乗馬にて登られる途中、藤葛にて馬がつまづき神は落馬され呉竹の切株にて御目を傷つけ眼病になられ、 その為天皇のお伴が出来ず、永く粟田の地にて御養生された後、御自身も眼病の苦しみを忘れる事なく、 この地の守護神として眼病の者を特に憐みお救いされるという眼病平癒の御誓いにより粟田、大浦、宿毛谷、鳥ケ丸の四ケ村では馬を飼わず、 呉竹と藤葛の生える事なく、鯉鮒の育つことのないという不思議な霊験と、その煌々とした御霊徳のおかげをうける人々限りなく、 神を信じ仰ぎ奉る善男善女は願望成就すること広く周知の如くであります』とあり、ここでは眼を突いたのは柳田が以下に言うような天智天皇自身ではなく、それに従っていた一言主神というコンセプトになっている。この方がおかしくない。

「美濃の太田の加茂縣主神社でも、大昔加茂樣馬に騎つて戰に行かるゝ時に馬から落ちて薄の葉で日を御突きなされた。それ故に以前は五月五日に粽を作ることを忌んだ」「一目小僧(七)」の本文及び私の注を参照。

「小谷の神城村」現在の長野県北安曇郡白馬村大字神城(かみしろ)。

「橋場稻核(いねこき)」現在の長野県松本市安曇の集落の一つ。ウィキの「稲核によれば、『稲核は交通の要衝であり、物資輸送の中継地であった。上流には大野川や奈川の集落しかなく、島々までは』四キロメートル『あったので宿泊する者もいた。また大野川や奈川から炭などを積み下ろす際は稲核まで運び、ここを中継地として』『運送を専門にする者に預けることが多かった。しかし』大正一一(一九二二)年に『竜島発電所が建設された際には、奈川渡』(ながわど)『ダムを用水の取入口にしたので、その資材運搬のために道路の大改修が行われ』、二年後に『発電所の工事が始まると、奈川渡まで自動車が通るようになった。このため大野川や奈川などからの荷は奈川渡まで下ろしてトラックに積めばよいことになり、物資輸送の中継地になっていた稲核はその機能を失』い、宿駅機能も同様に絶えた。『近世には、稲核を本村とする枝郷』(えだごう:中世・近世日本に於ける新田開発によって元の村(本郷・元郷)から分出した集落を指す語)『「橋場」があった。橋場は距離的には島々に近いが、稲核の枝郷とされた』。『橋場は梓川の右岸にあり、左岸との間に常時通行可能な雑炊橋があった。このため、近世以前には現在の安曇野市・大町市方面と、松本市・塩尻市方面をいつでも確実につなぐことのできる橋であり、橋場は交通上の要衝であった。このため、松本藩の番所が置かれ、旅人宿や牛宿があった』。『また、橋場の男性の多くが、曲輪(がわ)杣の仕事に従事していた。曲輪杣は、良質な板材を曲物に加工する仕事である』。明治二(一八六八)年に、『下流に新淵橋という橋が架けられたので、交通上の要衝としての地位を失い、集落の繁栄に終止符が打たれた』。二〇一二年一月現在で世帯数は十九、人口四十七人とある。

「晴明樣」以下は無論、全国に散在する怪しげな安倍晴明伝説の一つに過ぎない。]

 忌むといふことの意味が不明になつて、神嫌ひたまふといふ説明が起つたことは、もう誰でも認めて居る(一〇)多くの植物栽培の忌は、單に神用であつた故に常人の手を著けるを戒めたといふだけで、神の粗忽がさう頻繁にあつたことを意味しない。兎に角に是だけの一致は或法則又は慣行を推定せしめる。即ち足利有綱に在つては山鳥の羽の箭、景政に於ては烏海彌三郎の矢が、之に該當したことは略疑が無いのである。それよりも玆に問題となるのは、神の名が野州に於て特に柿本人丸であつた一事である。其原因として想像せられることは、、自分の知る限に於ては今の宇都宮二荒神社の、古い祭式の訛傳といふ以外に一つも無い。此社の祭神を人丸と謂つたのは、勿論誤りではあるが新しいことで無い(一一)或は宇都宮初代の座主宗圓此國へ下向の時、播州明石より分靈勸請すとも傳へたさうだがそれでは延喜式の名神大は何れの社かといふことになるから、斷じて此家の主張では無いと思ふ(一二)下野國誌には此社の神寶に夙く人麿の畫像のあつたのが誤解の原因だらうと説いて居るが、それのみでは到底説明の出來ぬ信仰がある。此地方の同社は恐らく數十を算へると思ふが安蘇郡出流原(いづるはら)の人丸社は水の神である。境内に神池あり、舊六月十五日の祭禮の前夜に、神官一人出でゝ水下安全の祈禱を行へば、其夜に限つて髣髴として神靈の出現を見ると謂つた、さういふ奇瑞は弘く認められたものか、特に社の名を示現神社と稱し、又所謂示現太郎の神話を傳へたものが多い。近世の示現神社には本社同樣に、大己貴事代主御父子の神、或は豐城入彦を配祀すとも謂つて居るが、那須郡小木須(こぎす)の同名の社などは、文治四年に二荒山神社を奉還すと傳へて、しかも公簿の祭神は柿本人麿朝臣、社の名も元は柿本慈眼大明神と唱へて居た(一三)さうして此神の勢力の奧州の地にも及んだことは、恰かも此人の末なる佐藤一族と同じであつた(一四)例へば信夫郡淺川村の自現太郎社の如きは、海道の東、阿武隈川の岸に鎭座して、神此地に誕生なされ後に宇都宮に移し奉るとさへ謂つて居る(一五)神を助けて神敵を射たといふ小野猿丸太夫が、會津人は會津に生まれたといひ、信夫では信夫の英雄とし、しかも日光でもその神偉を固守したのと、軌道を一にした分立現象であつて、獨り此二種の口碑は相關聯するのみならず、自分などは諏訪の甲賀三郎さへ、尚一目神の成長したものと考へて居るのである。

[やぶちゃん注:「宇都宮二荒神社」「うつのみやふたあらやまじんじや(じゃ)/ふたらやまじんじや(じゃ)」と読む。現在の栃木県宇都宮市馬場通りにある。東国を鎮めたとする崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祭神として古くより崇敬され、宇都宮は当社の門前町として発展してきた。また、社家から武家となった宇都宮

氏がも知られる。

「宇都宮初代の座主宗圓」藤原宗円(そうえん 長元六(一〇三三)年又は長久四(一〇四三)年~天永二(一一一一)年)のこと。ウィキの「藤原宗円」によれば、「尊卑分脈」や「宇都宮系図」などの各種系図上では藤原氏北家の関白藤原道兼の流れを汲み、道兼の孫である兼房の次男とされる人物。『前九年の役の際に河内源氏の源頼義、義家父子に与力し、凶徒調伏などで功績を認められ』、康平六(一〇六三)年に『下野国守護職および下野国一宮別当職、宇都宮座主となるが、もともと石山寺(現在の大谷寺との説もある)の座主であったとも言われ、仏法を背景に勢力を拡大したと考えられている』。またウィキの「宇都宮二荒山神社」の方には、『宇都宮氏の初代当主であり、宇都宮城を築いたとされる摂関家藤原北家道兼流藤原宗円が、当社の宮司を務めたという説もある』 とあり、『宇都宮氏は、藤原宗円が、この地の豪族で当時の当社の座主であった下毛野氏ないし中原氏と姻戚関係となり土着したのが始まりであり、当時の毛野川(当時の鬼怒川)流域一帯を支配し、平安時代末期から約』五百年の長きに亙って、『関東地方の治安維持に寄与した名家であ』ったとある。

「名神大」「みやうじんだい」と読む。神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号に由来する名神大社(みょうじんたいしゃ)のこと。ウィキの「名神大社」によれば、『日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の』一つと『され、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる』。「延喜式」巻三の『「臨時祭」の「名神祭」の条下』及び同巻九・十の『「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている』神社を指す。同書には「河内郡」に「二荒山神社」(神名帳)・「二荒神社」(名神祭)と記されてあり、現在の宇都宮二荒山神社に比定されている。

「夙く」「はやく」。

「安蘇郡出流原(いづるはら)の人丸社」現在の栃木県佐野市出流原町の湧水池である弁天池の隣りに建つ涌釜神社(わっかまじんじゃ)神社。祭神は「人丸様」とされ、この池には、人麻呂がこの地に訪れ、杖で岩をついたら水が湧いたという伝説があるという。

「示現」「じげん」と読む。神仏が霊験を示し現すこと。神仏のお告げ。現在も実際に栃木県内にこの名を冠する神社は複数確認出来る。

「示現太郎の神話」祭神としては「古事記」に出る、大国主命と宗像三女神の多紀理毘売(たきりびめ)の間の子である農業神・雷神とされる味租高比古根命(あぢすきたかひこね/あぢしきたかひこね)の異名とする記載があるが、現行では寧ろ、後に柳田が挙げる甲賀三郎の兄ともされる甲賀太郎の神格示現説話としての記載が多い。

「大己貴」「おほなむち(おおなむち)」。大国主。

「豐城入彦」(とよきいりひこ)は前にも出したが、崇神天皇皇子。東国の治定に当たったとされる。

「那須郡小木須(こぎす)の同名の社」現在の栃木県那須烏山市小木須であるが、示現神社は見当たらない。現在の那須烏山市谷浅見にはあるがかなり離れている。社名が変わったか。同地区には熊野・湯殿・浅間・稲積神社を確認出来るが、不明。「文治四年」一一八八年に「二荒山神社を奉還すと傳へて」、「公簿の祭神は柿本人麿朝臣、社の名も元は柿本慈眼大明神と唱へて居た」とあるのだから、ネット検索にかかっても不思議ではないのだが、分らぬ。識者の御教授を乞う。

佐藤一族」柳田の後注(一四)で示される彼の「神を助けた話」(大正九(一九二〇)年玄文社刊)の「五 阿津賀志山」の章で、『夙(はや)く衰えた鎮守府将軍の嫡流、後に北方に移住して無数の佐藤氏を分布した家』系が、宇都宮氏繁栄の宗教上経済上の一勢力ではなかったか、という推定をしている。その神官家系として広く栄えた『佐藤氏』なる一族を指すもののようである。

「信夫郡淺川村の自現太郎社」ロケーションと名から、現在の福島県福島市松川町浅川(あさかわ)にある磁現太郎神社と思われる。

「小野猿丸太夫」かの三十六歌仙の一人。ウィキの「猿丸太夫」に、彼には日光山にまつわる伝説があり、「日光山縁起」に拠れば、『小野(陸奥国小野郷』『のことだといわれる)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫であり、下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が互いに接する神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧めにより、女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利したという話がある』。(ここで柳田の言う「神を助けて神敵を射た」を指す)これにより、『猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったという。下野国都賀郡日光二荒山神社の神職であった小野氏はこの「猿丸」を祖とすると伝わる。また宇都宮明神(下野国河内郡二荒山神社)はかつて猿丸社とも呼ばれ奥州に二荒信仰を浸透させたといわれている』。「二荒山神伝」(江戸初期の儒学者林道春が日光二荒山神社の歴史について漢文で記したもの)にも「日光山縁起」と同様の伝承が記されてある。また、この柳田の考察と関わるものとして、柿本人麻呂と猿丸太夫についての梅原猛の「水底の歌―柿本人麻呂論」が挙げられており、知られるように彼がそこで『二人を同一人物との論を発表して以来、少なからず同調する者もいる』。『梅原説は、過去に日本で神と崇められた者に尋常な死をとげたものはいないという柳田國男の主張に着目し、人麻呂が和歌の神・水難の神として祀られたことから、持統天皇や藤原不比等から政治的に粛清されたものとし、人麻呂が』「古今和歌集」真名序では「柿本大夫」と『記されている点も取り上げ、猿丸大夫が三十六歌仙の一人と言われながら』、『猿丸大夫作と断定出来る歌が一つもないことから(「おくやまに」の和歌も猿丸大夫作ではないとする説も多い)、彼を死に至らしめた権力側をはばかり彼の名を猿丸大夫と別名で呼んだ説である』。『しかしながら』、『この説が主張するように、政治的な粛清に人麻呂があったのなら、当然ある程度の官位(正史に残る五位以上の位階)を人麻呂が有していたと考えるのが必然であるが、正史に人麻呂の記述が無い点を指摘し、無理があると考える識者の数が圧倒的に多い』とある。

「甲賀三郎」ウィキの「甲賀三郎(伝説)」より引く。『長野県諏訪地方の伝説の主人公の名前。地底の国に迷いこみ彷徨い、後に地上に戻るも蛇体(または竜)となり諏訪の神になったなど、さまざまな伝説が残されている。近江を舞台にした伝説もある』。『甲賀三郎にまつわる伝説は膨大な数にのぼる。以下はそのうちのひとつである』。『醍醐天皇の時代、信濃国望月に住む源頼重に、武勇に優れた三人の息子がいた。朝廷の命で若狭国の高懸山の賊退治に駆り出され、三男の三郎がことのほか活躍した。功が弟一人に行くことを妬んだ兄たちは三郎を深い穴に突き落として、帰国してしまった。三郎は気絶したが、息を吹き返し、なんとか生還した。驚いた兄たちは逃げ出し、三郎は兄たちの領地を引き継いで治めた。その後、承平の乱で軍功を上げたことで江州の半分を賜り、甲賀郡に移って甲賀近江守となった』。また、『神道集の「諏訪縁起事」では』、『安寧天皇の子孫に繋がる甲賀権守諏胤は東三十三国を治めていたが、三人の子(太郎・二郎・三郎)があった。三男の甲賀三郎諏方(よりかた)が三笠山明神に参詣したとき、春日権守の孫娘、春日姫と契りを結び、ともに甲賀へ帰った。ある日春日姫は伊吹山で天にさらわれて行方不明になったため、三郎は兄たちに頼んで国中を探し、信濃国蓼科の人穴の底に姫を見つけ、助け出した。しかし姫が忘れた鏡を取りに三郎が穴に戻ると、二郎が綱を切ったため、穴に取り残された。三郎は仕方なく人穴を彷徨い、数十という地底の国を訪ね歩く。最後の国の主の計らいで、鹿の生肝で作った餅を一日一枚ずつ千枚を食べ終えると、信濃国浅間に無事帰ることができた。三郎は甲賀に戻ったが、体が蛇になっていた。僧たちの協力で、三郎は春日姫と再会した。甲賀三郎は諏訪大社の上宮、春日姫が下宮と顕れ、その他の登場人物のそれぞれもさまざまな神になって物語は終了する』。]

 併し一方人丸神の信仰が、歌の德以外のものに源を登した例は、既に近畿地方にも幾つと無く認められた。山城大和の人丸寺人丸塚は、數百歳を隔てゝ始めて俗衆に示現したものであつた。有名なる明石の盲杖櫻の如きも(一六)由來を談る歌は至極の腰折れで、寧ろ野州小中の黍畑の悲劇と、聯想せられるべき點がある。防長風土記を通覽すると、山ロ縣下の小祠には殊に人丸さまが多かつた。或は「火止まる」と解して防火の神德を慕ひ、或は「人生まる」とこじつけて安産の悦びを禱つた。又さうでなければ農村に祀るわけもなかつたのである。人は之を以て文學の退化とし、乃ち石見の隣國なるが故に、先づ流風に浴したものと速斷するか知らぬが、歌聖は其生時一介の詞人である。果して高角山下の民が千年の昔に、之を神と祭るだけの理由があつたらうか。若し記錄に明瞭は無くとも、人がさう説くから信ずるに足るといふならぱ、石見では四十餘代の血脈を傳ふと稱する綾部氏(一に語合(かたらひ)氏)の家には、人丸は柿の木の下に出現した神童だといふ口碑もあつた(一六)或は柿の樹の股が裂けて、其中から生れたといふ者もあり(一七)若くは二十四五歳の靑年であつて姓名を問へば知らず、住所を問へば言ひ難し、只歌道をこそ嗜み候へと答へたとも謂ふ(一八)是では井澤長秀の考證した如く、前後十五人の人麿があつたとしても、是は又十六人目以上に算へなければならぬのである。

[やぶちゃん注:「人丸寺人丸塚」かつて奈良県吉野町吉野山子守に存在した世尊寺を指すか。明治の神仏分離により荒廃して廃寺となったが、世尊寺跡には人丸塚と呼ばれる石造物が今も残る。人丸塚はウィキの「世尊寺跡」によれば、『正体不明の仏像石で、かつてあった五輪塔か何かの一部だろうと考えられている。人丸塚の名称の由来も不明で、この石に願をかけると子供に恵まれるので「人生まる塚(ひとうまるつか)」とか、火を防ぐ呪力を秘めているので「火止まる塚(ひとまるつか)」とも伝えられている』とある。

「盲杖櫻」「まうじやうざくら(もうじょざくら)」と読む。人麻呂を祭神とする兵庫県明石市人丸町の柿本神社にある桜に纏わる伝説。ウィキの「柿本神社(明石市)」によれば、『筑紫国から参拝した盲人が、社頭で「ほのぼのとまこと明石の神ならば我にも見せよ人丸の塚」と詠じると、神験によって眼が開いたためにそれまで突いていた杖が不要となり、これを地に刺したところ、それが根付いたという桜の木』とある。

「石見の隣國なるが故に」人麻呂の出自である柿本氏は孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たるが、一説に人麻呂以降、その子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降は益田氏を称して、石見の国人となったされる。人麻呂は官人となって各地を転々としたが、最後には石見国で亡くなったともされる。

「高角」「たかつの」と読む。石見国の高角山のこと。現在の島根県江津市島の星町の中心に位置する島の星山(別名、高角山。標高四百七十メートル)に比定されている。「万葉集」巻二の人麻呂の知られた一首(第一三二番歌)、

 

石見のや高角山の木(こ)の間より我が振る袖を妹(いも)見つらむか

 

で知られる。「山下」は「さんか」と読んでおく。

「綾部氏(一に語合(かたらひ)氏)」石見国美濃郡益田にある歌聖柿本人麿を祀る柿本神社の社司は代々彼の子孫とされる綾部氏である。ブログ「神社と古事記」のこちらの同神社の記事によれば、『同名の神社が同市の高津町にもあり、当社が生誕地であるのに対して、高津柿本神社は人麻呂の終焉地にゆかりのある神社。もともとこの辺一帯は、柿本家となじみ深い小野氏が治めた小野郷』とあって、『当社には、江戸中期以後に書かれた』「柿本人丸旧記」及び「柿本従三位人麻呂記」という『二つの縁起が伝えられている。それらによれば、人麻呂は』孝徳天皇九(六五三)年九月十四日、『当地に住むカタライという夫婦のもとに突然現れたという』。『そのときの年齢は』七歳、『美童だったと伝わる。カタライ夫婦はこの少年を引き取って大切に育てた。少年は歌の天才で、その名は宮中まで聞こえた。持統天皇に召されて高位に昇り、柿本人麻呂という名を賜った。晩年、故郷に戻り』、『この地で死んだという』。『カタライ家はその遺髪を貰い受けて墓を築いたものが、今に伝わる遺髪塚だと思われる。同時に、人麻呂の像を作って社に祀った、それが当社の創祀と考えられる。社殿は神亀年間』(七二四年~七二九年)に『創建されたと伝わる』。神体は老体の人麻呂像であるが、それとは別に七体の像が存在し、一体は童子姿の人麻呂像、二体は「カタライ」夫婦像、四体は従者像であったというが、文化一四(一八一七)年の火災で焼失、現在のものは津和野藩藩命によって文政年間(一八一八年~一八三一年)に再造されたものとある。『現在ではカタライは、語らい、語家と考えられており、かのカタライ夫婦は宮司家綾部氏に連なる』とある。また、『綾部氏には、上記の縁起とは違う言い伝えが残されている。それによれば、柿本氏は語り部(かたりべ)の綾部氏を伴って大和国から石見国に下り、のち綾部氏の娘を愛して人麻呂が生まれた、とする。こちらの方が、柿本氏が大和国ゆかりと言われる通説に符合する』ともある。

「井澤長秀」(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)は神道家・国学者。号は蟠龍。肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子で、山崎闇斎の門人に神道を学んだ。宝永三(一七〇六)年の「本朝俗説弁」の出版以後、旺盛な著述活動に入り、「神道天瓊矛記」などの神道書、「菊池佐々軍記」などの軍記物、「武士訓」などの教訓書、「本朝俚諺」などの辞書、「肥後地志略」などの地誌と、幅広く活躍した。なかでも考証随筆「広益俗説弁」(全四十五巻・正徳五(一七一五)年~享保一二(一七二七)年)はよく読まれ、後の読本の素材源ともなった。また、「今昔物語」を出版しており、校訂の杜撰さが非難されるものの、それまで極めて狭い範囲でしか流布していなかった本書を読書界に提供した功績は小さくない(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」の白井良夫氏の解説に拠った)。ここに出る、「広益俗説弁」の「巻八 公卿」の「柿本人麻呂、柿木より生ずる説、附同人、上総国にながさるゝ説」を管見したが、人麻呂「十五人」の数字は見えない。柳田の引用元を御存じの方、御教授を乞う。]

 播磨の舊記峯相記の中には、明石の人丸神寶は女體といふ一説を錄して居る。因幡の某地にあつた人丸の社も、領主龜井豐前守の實見談に、内陣を見れば女體であつたといふ(一九)さうすると芝居の惡七兵衞景淸の娘の名が、人丸であつたといふ話も亦考へ合される。景淸の女を人丸といふことは、謠曲にはあつて舞の本には無い。盲目になつて親と子の再會する悲壯たるローマンスも、さう古くからのもので無いことが知れる上に、景淸目を拔くといふ物語すらも、資は至りて賴もしからぬ根據の上に立つのである。それにも拘らず日向には儼たる遺迹があつて神に眼病を禱り、又遠近の諸國には屢々其後裔と稱する者が、連綿として其社に奉仕して居る。卯ち是も亦一個後期の權五郎神であつたのである(二〇)その一つの證據は別に又發見せられて居る。

[やぶちゃん注:「峯相記」「みねあひき(みねあひき)」(但し、音読みして「ほうそうき」「ぶしょうき」とも読むらしい)は鎌倉末から南北朝期の播磨国地誌。作者不詳であるが、正平三/貞和四(一三四八)年に播磨国の峯相山(ほうそうざん)鶏足(けいそく)寺(現在の兵庫県姫路市)に参詣した旅僧が同寺の僧から聞書したという形式で記述されている。

「舞の本」は中世芸能の一種であった幸若舞(こうわかまい)の詞章を記したもの。曲舞(くせまい)の一流派の後裔。室町期に流行した。]

 

(一) 下野神社沿革誌卷六。

[やぶちゃん注:本文中に既注。]

(二) 此二件とも安蘇史に依る。

[やぶちゃん注:明治四二(一九〇九)年安蘇郡役所刊荒川宗四郎著か。]

(三) 日本奇風俗に依る。

[やぶちゃん注:明四一(一九〇八)年大畑匡山編。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像で読める。]

(四) 北野誌首卷附錄。たゞ御目痛ませたまふといふのは、現在片目では無いからであらう。しかも二柱の神といふを見れぱ明かに菅原天神では無かつた。

[やぶちゃん注:北野神社社務所編明四三(一九一〇)年刊。現在の京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町にある北野天満宮の社史。「北野神社」は同神社の旧称(同社は明治四(一八七一)年に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名、「宮」を名乗れなかったのは、当時のその条件が、祭神が基本的に皇族であること(同社の祭神は菅原道真)、尚且つ、勅許が必要であったことによる。古くより親しまれた旧称「北野天満宮」の呼称が復活したのは、実は戦後の神道国家管理を脱した後のことであった。この部分はウィキの「北野天満宮」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら当該箇所リンク)の画像で視認出来る。]

(五) 蒲生郡誌卷八。是は目を突いた例で無いが、必ず同じ話である。神輿を麻畠に迎へ申す例は方々にある。

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年滋賀県蒲生郡編「近江蒲生郡誌」であろう。]

(六)傅説叢書阿波の卷。出處を言はざるも「粟の落穗」であらう。池の鮒といふのは此社の池の魚であつて、やはり片目を説いたものらしい。

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年日本傅説叢書刊行藤澤衛彦編著「日本伝説叢書阿波の巻」。「粟の落穗」というのは、野口直道の手になる江戸末期の阿波国の地誌と思われる。]

(七) 郷土糾究四卷三〇六頁、林魁一君。

[やぶちゃん注:「林魁一」(はやし かいち 明治八(一八七五)年~昭和三六(一九六一)年)。既注であるが、再掲しておく。岐阜出身の考古学者。岐阜中学卒。坪井正五郎の指導で研究を始め、明治三十年代の初め頃から郷里の美濃東部や飛騨地方を調査して論文を発表、有孔石器・御物石器(ぎょぶつせっき/ごぶつせっき:繩文時代の磨製石器であるが、宮中に献上されたためにこの名を持つ。太い棒状であるが中央よりやや片方寄りに縊れた部分があってそこから細くなっており、全体は鉈のような形状を成す。また、文様も施されている)を発見したことで知られる。著作に「美濃国弥生式土器図集」。]

(八) 小谷口碑集一〇三頁。

[やぶちゃん注:小池直太郎編。]

(九) 南安曇郡誌。

[やぶちゃん注:長野県の旧南安曇郡(現在の安曇野市の大部分と松本市の一部)の地誌。長野県南安曇郡編纂で発行所は南安曇郡教育会。発行は大正一二(一九二三)年。]

(一〇) 始めて之を説いたのは十三年前の小著「山島民譚集」葦毛馬の條であつた。

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年刊の現在「山島民譚集(一)」とされるものの、「馬蹄石」の冒頭の「葦毛ノ駒」の中ほどであるが、実に鎌倉権五郎の名がまさに例として語られる前後に書かれている。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(当該箇所リンク)の画像で視認出来る。]

(一一) 和漢三才圖會の地理部にも、當然のやうにしてさう書いてある。、

[やぶちゃん注:「卷ノ六十六」には、

   *

宇都(ウツノ)宮大明神 在宇都宮城艮 社領千七百五十石

祭神 柿本人麻呂靈  神主  社僧【杉本坊 田中坊】

  神傳詳于播州明石下

   *

とあって「卷ノ七十七」の播州の「人丸社」には凡そ二頁分を費やして人麻呂についての記載がある。]

(一二) 下野西南部の人丸社では、今日はもう宇都宮との關係を忘れて、藤原定家此地方に來遊して、此神を祀り始めたといふ一説が行はれて居る。定家流寓の傳説は又群馬縣にも多い。無論事實では無い故に、旅の語部の移動の跡として、我々には興昧が多いのである。

[やぶちゃん注:私は定家嫌いなので触手は動かぬ。悪しからず。]

(一三) 以上すべて下野神社沿革誌に依る。

(一四) 拙著「神を助けた話」には、宇都宮の信仰の福島縣の大部分を支配して居たことを述べてある。

[やぶちゃん注:本文注で既注。]

(一五) 民族一卷五六頁及び其註參照。

(一六) 百人一首一夕話に依る。上田秋成の説らしから小説かも知れぬ。菅公が梅の本に現れたといふ、と一對の話で、我々は便宜の爲に之を樹下童子譚と呼んで居る。

[やぶちゃん注:「百人一首一夕話」(ひゃくにんいっしゅひとよがたり)は江戸後期の学者尾崎雅嘉(まさよし 一七五五年~一八二七年)が著わした異色の「百人一首」注釈書。但し、私の所持する岩波文庫版の「柿本人麻呂」の条には盲目桜についての記載はない。不審である。]

(一七) 本朝通紀前篇上。

[やぶちゃん注: 元禄一一(一六九八)年長井定宗編になる日本通史。]

(一八) 滑稽雜談卷五(國書刊行會本)にさう書いてある。

[やぶちゃん注:俳諧歳時記。京都円山正阿弥の住職四時堂其諺(しじどうきげん)著。正徳三(一七一三)年成立。類書中でも飛び抜けて詳説なもので、広く和漢の書を典拠としつつ、著者の見聞を加えて考証している。]

(一九) 戴恩紀上卷、存採叢書本。

[やぶちゃん注:「戴恩記」「たいおんき」と読む。松永貞徳著の歌学書。全二巻。正保元(一六四四)年頃に成り、天和二(一六八二)年に刊行された。著者の師事した細川幽斎・里村紹巴らの故事やその歌学思想を平易に述べたもの。]

(二〇) 景淸と景政と、同一の古談の變化であらうと説いた人はあつた。自分は必ずしも之を主張せんとせぬが、少なくともカゲもマサもキヨも、共に示現神即ち依女依童と、緣のある語であることだけは注意して置かねばならぬ。

[やぶちゃん注:「依女依童」「よりめ・よりわらは(よりわらわ)」と読む。所謂、神霊や物の怪など憑依させる「依巫(よりまし)」「依代(よりしろ)」である。これは、言霊信仰から見ても非常に肯んじ得る謂いと言える。]

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