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2016/06/02

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 小人國(7) ハイ さやうなら (その二) /「小人國」(リリパット国)~了

八章

 私がブレフスキュ島へ來てから三日目のことです。〔した。〕

 島の北東〔の〕岸をぶらぶら步いて行つてみると、沖〔の方〕に何かボートのやうな物のひつくりかへつてゐるのが見えます。早速、靴をぬいで、二三百ヤード海の中を步いてゆくと〔行つてみ〕ると、その物は潮に乘つて、だんだん近づいてくるやうに見えます。よく見ると、ほんとのボートです。たぶん、暴風雨にでも〔これはあらしに〕あつて本船から流されたのでせう。

[やぶちゃん注:「二三百ヤード」百八十三~二百七十四メートルほど。]

 私はすぐ首府へ引かへして、皇帝にお願ひして〔、〕二十隻の軍艦と三千人の水兵を借りまし〔て〕來ました。それから私は海に入つて、ボートのところへ泳いで行きました。すると水兵たちが軍艦から綱の端を投げてくれたので、それをボートの穴に結びつけ、もう一方の端は〔、〕軍艦に結びつけました。〔さらに〕私は泳ぎながらいろいろ骨を折つて、九隻の軍艦にボートの綱を結びつけました。ちようど風むきもよかつたので、私はボートを押し、水兵は引つぱり、かうして、たう〔と〕う海岸に來ました。

 それから十日ばかりかかつて、オールをこしらへ、それでやつと〔、〕ブレフスキユの港へ〔、〕ボートを漕いで入つたわけです。私が港へつくと、大変な人出で、なにしろ〔、〕あんまり大きな船なので、すつかり仰天してゐました。私は皇帝にむかひ、

 「天の助けでボートが手に入りました。これに乘つてゆけば、どこかわたし私〕の故國へ帰れるところまで行けるでせう。つきましては、それに必要な品物を〔出發の〕許可をいただいて、いろいろ準備することをお許し下さい」とお願いしました。皇帝ははじめは思ひ止まるやうに〔とどまつてはどうかと〕云はれましたが、ついに喜んで許して下さいました。

[やぶちゃん注:現行版では「天の助け」は「天の祐」(「祐」は「たすけ」と訓ずる。「天の助け」「天の御加護」「天助」を意味する「天佑」(てんゆう(歴史的仮名遣なら「てんいう」)は「天祐」とも書く)となっている。昭和二六(一九五一)年とは言え、子供向けで、これはあるまい漢字をひらがなにすることに気を使っていて、そもそもがこの自筆原稿で「天の助け」と書いている民喜が、こんな用字を決定稿でする可能性は限りなくゼロである。編集者がしたにしても奇異極まりなく、現在の子どもらもこれでは読めない極めて不審である。

 一方、〔さて、〕リリパツトの國の方か〔國で〕は、私がブレフスキュ〔國〕皇帝のところへ行つたのは、〔それは〕ただ、前の約束をはたすために行つたのだらうと思つて〔決め〕ゐました。らしいので、ので〕だから〔そして〕二三日すれば帰つて來るだらう待つて〔思つて〕ゐました。

[やぶちゃん注:現行版ではここで改行(自筆原稿は続いているが、改行校正のマークがあるので改行した)はなく、次の段に続いている。やや表記に混乱がある。現行版を以下に次の段も続けて示す。

   *

 さて、リリパット国では、私がブレフスキュ国皇帝のところへ行ったのは、それはただ、前の約束をはたすために行ったので、二三日すれば帰って来るだろう、と思っていました。ところが、いつまでたっても、私が戻らないので、とうとうやきもきして、大臣一同が会議を開きました。その相談のあげく、一人の使者が、リリパット皇帝の手紙を持って、ブレフスキュ皇帝に会いにやって来ました。その手紙は、私の手足をしばって、リリパットへ送り返してくれというのでした。

   *]

 〔ところが〔、〕〕いつまでたつても〔、〕私が戾らないので、とうとうやきもきして、大臣一同が相談〔會議〕をし〔開き〕ました。その相談の結果、〔そしての相談のあげく、〕一人の貴族〔使者〕がの〔あの〕彈劾文をもつて、こちらへ〔リリバット皇帝の命令〔手紙〕をもつ〕て、ブレフスキユ皇帝にあひにやつてきました。その手紙は、私の手足を〔しば〕つて、リリバットへ送り返して欲〔ほ〕しいと云ふのでした。

 ブレフスキユ國皇帝は〔の〕三日〔間の〕その手紙の返事はかう〔書かれました。でした。〕〔その返事はかうでした。〕あの男私〕を縛つて送り返すことが無理〔など、〕とてもできないことは、すでに貴國家でもよく御存知のはずである。〔リリバット皇帝も知られるとほり〔ですしですだし、〕それに〕それに私 それに私〔をは〕間もなく、〔私はブレフスキユ〕國を〕去ることになつてゐるので、兩國のいざこざはなくなるのでせう〔御安心下さい〕、といふのでした〔のがブレフスキユ皇帝の返事でした。〕

[やぶちゃん注:現行版では、以下の通り。

   *

 その返事はこうでした。私をしばって送り返すことなど、とてもできないことは、すでにリリパット皇帝も知られるとおりだし、それに間もなく、私はブレフスキュ国を去ることになっているので、御安心ください、というのでした。

   *]

 〔こんなことをきかされたので、〕〔とにかく〕私はなるべく早く出發しようと思ひだしました。〔ました。〕宮廷の方でも一日も早く〔私を出發して〔行つて〕もらひたかつたので、いろいろ手助けをしてくれました〔す〕。五百人の職人がかかつて、ボートにつける二枚の帆をこしらへました。私の指圖にしたがひ、一番丈夫なきれを十三枚重ねて〔、〕〔縫〕ひ合はせました。私は一番丈夫な太い綱を〔、〕十本、二十本、三十本と〔一生けんめいに、〕なひあはせました。それから海岸をかがし𢌞つて〔、〕錨のかはりになりさうな〔、〕大きな石を見つけました。ボートに塗ったり、その他いろんなことに使ふため、三百頭の牛の脂をもらひました。何より骨の折れたのは、オールとマストにするため大きな木を伐りたほすことでした。しかし、これは陛下の船大工が手傳つてくれました。〔て、〕私がただ粗けずりすれば、あとは大工がきれいに仕上げてくれました。

 一月もすると準備はすつかり出來上りました。私はいよいよ出發の許可の御命令がいただきたいと〔陛〕下に願ひました。陛下は皇族たちと一緒に宮殿から、わざわざ出て來られました。私は皇帝の手に接吻〔キス〕しようとして、うつぶしに寢ました。

 陛下は快く手を貸して下さいます。皇后も、皇子たちも、みなさう〔手に〕接吻〔キス〕を許して下さいました。〔それから、それから〕皇帝は二百スプラグ入りの金袋を五十箇と、陛下の肖像畫を〔せんべつに餞別に〕私に下さい〔賜はり〕ました。肖像畫の方は、〔い〕たまないやうに、すぐ片一方の手袋の中にしまつておきました。

[やぶちゃん注:現行版は以下の通り。

   *

 陛下は快く手を貸してくださいます。皇后も、皇子たちも、みな手にキスを許してくださいました。それから、皇帝は二百スプラグ入りの金袋を五十箇と、陛下の肖像画を私にくださいました。肖像画の方は、いたまないように、すぐ片一方の手袋の中にしまっておきました。

   *

「スプラグ」不詳。原文を確認すると、「sprugs」で御覧の通り、斜体である。リリパット国固有の貨幣単位或いは貴金属の重量単位か。]

 私はボートのなかに、牛百頭、羊三百頭の肉と、それ〔に相當する〕 〔同〕じくらゐのパンと飮みもの〔〕〔を積みこみました。〕それから四百人のコツクの手でととのへてくれた肉など〔も〕積みこみました。それから、〔生きた〕牝牛六頭と牡牛を二頭、それから〔、〕牝羊六頭と牡羊二頭を、これらは國へ持つて帰つて、飼ってみようと思ひました。その〔船の〕なかで〔食べさせ〕るために〔、〕乾草を一袋と麥を一袋〔、〕積みこみ〔用意し〕ました。

 私はこの國の人間も十人ばかりつれて行きたかつたのですが、これはどうしても陛下〔の〕〔お〕許〔し〕て下さいません〔でした〕〔が出ません〕。それどころか〔それどころか〕〔こつそりつれてゆきはしないかと〕私のポケツトをすつかり調べられましたたとへ自分から進密航者はゐ〕志願する者があつても、人民は〔決して〕〔つ〕れて行かない誓はされました。

 そんなふうに〔、〕できるかぎりの準備をととのへ、いよいよ、一七〇一年九月二十日の朝六時〔、〕私は出帆しました。風は南東だつたので、北へ向けて四リーグばかり行くと、丁度午后六時頃、小さな島の影が見えて來ました。ぐんぐん進んで行つて、その島に近づき、〔の側で、〕上陸しみましたが〔ボートの錨をおろしましたが〕、ここは〔誰も人のすんでゐない、〕無人島らしいのです私は輕い食事をすませて、ぐつすり眠りました。六時間も眠つた頃、目が〔さ〕め、それから二時間ばかりすると、夜が〔あ〕けて來ました。日の出前に朝飯をすまし、錨をあげて、風向もよかつたので、羅針盤をたよりに、〔昨〕日と同じ進路をつづけて行きました。私の考〔へ〕では、ヴアン・デイーメンの國(濠州タスマニア)の北東にある〔群〕島の、〔どれか〕一つに〔、〕辿〔たど〕りつかうと思つてゐたのでした。

[やぶちゃん注:「無人島らしいのです私は」の句点なしはママ。この段落は現行版は大きく異なる。以下に示す(下線は私が振った、大きな異同部分)。

   *

 そんなふうに、できるかぎりの準備をととのえ、いよいよ、一七一年九月二十日の朝六時、私は出帆しました。風は南東だったので、北へ向けて四リーグばかり行くと、ちょうど午後六時頃、小さな島の影が見えてきました。ぐんぐん進んで行って、その島のそばで、ボートの錨をおろしました。こゝは誰も住んでいない無人島らしいのです。私は軽い食事をすませ、ぐっすり眠りました。六時間も眠った頃、目がさめ、それから二時間ばかりすると、夜が明けました。日の出前に朝飯をすまし、錨を上げて、風向もよかったので、羅針盤をたよりに、昨日と同じ進路をつゞけて行きました。私の考えでは、ヴァン・ディーメンズ・ランドの北東にある群島の、どれか一つに、たどりつこうと思っていたのです。だが、その日はついに何も見えませんでした。

   *

「一七一年」「ガリヴァー旅行記」(Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of several Ships)の初版公開は一七二六年であるから、設定を二十五前にしてあることが分かる。因みに、一七〇一年は元禄十四年、一七二六年は享保十六年に相当する。

「四リーグ」ヤード・ポンド法の単位であるが、時代によって一定しないが、凡そ、一リーグ(league)は三・八~七・四キロメートルの範囲内にある。本書公刊よりもずっと後であるが、イギリスで十九世紀頃に定められた現在の「一リーグ」は「三マイル」で「約四・八二八キロメートル」である。但し、海上では「一リーグ」を「三海里(nautical mile:ノーティカル・マイル:現在の国際海里では一八五二メートルに規定)」として使うこともあるので、前者ならば十四・五キロメートル弱、後者の海里換算なら五・五キロメートル強となる。

「ヴアン・デイーメンの國(濠州タスマニア)」原文は「the north-east of Van Diemen’s Land」。「Van Diemen's Land」(ヴァン・ディーメンズ・ランド)はヨーロッパ人によってかつて使われていたオーストラリアの南南東海上にあるタスマニア島の旧名である。同島は一六四二年にタスマニア島最初の探検家であったオランダ人アベル・タスマン(Abel Janszoon Tasman)がオランダ東インド会社(彼の探検は同社の元で行った者)総督アントニオ・ヴァン・ディーメン(Antonio van Diemen)に因んで、「Anthoonij van Diemenslandt」と名づけられた。一八〇三年にイギリスによって流刑植民地とされた際に正式に「Van Diemen's Land」となり、植民された(その後の一八五六年になってアベル・タスマンの方に因んで「タスマニア」に改名されている)とウィキの「ヴァン・ディーメンズ・ランド」にあるが、正式呼称化の一八〇三年どころか、「ガリヴァー旅行記」公開の一七二六年の遙か以前、本文内時制の一七一年の時、既に英語圏(或いはイギリス)では、現在のタスマニアは最早、「Van Diemen's Land」と通称されていたことが分かる。]

 翌日、午后三時頃、ブレフスキユから二十四リーグばかりも來たと思へる海上で、一隻の帆船を見つけました。船は南西に向つて進んでゐます。私は大聲〔で〕呼んでみましたが、返事してくれません。しかし丁度、風が凪いだので、私の船はだんだん向へ近づいて行くのでした。私はありつたけの帆を張りました。半時間もすると、向の船でも氣がついて、〔合図〕に旗を出し鐵砲を打ちました。

[やぶちゃん注:「二十四リーグ」前掲の二種の換算では、百十六キロメートル弱か、四十四キロメートル強。]

 これで私はもう一度〔、〕故國が見られ、あの懷しい人たちともあへるのかと思ふと、〔うれ〕しさがこみあげてきました。船は帆をゆるめました。〔それで〕私〔は〕そ〔の〕〔船に〕追ひついたの〔きまし〕た。その時刻は九月二十六日の夕方の五時か六時頃のことでした。私はイギリスの國旗を見ただけで、〔胸が〕ワクワクしました。牛と羊を上衣のポケットに入れると、〔私は〕食料の小さな荷物を抱へて、向ふの船に乘り移りました。

 この船はイギリスの商船で、北海、南海を通つて、日本から帰る途中でした。船長のジヨン・ビデルはデットフッド生れで、大変親切な えらい〔男でした。〔、〕〔そして〕〔おまけに、立派な〕船乘でした。乘組員は五十人ばかりゐましたが、が〕、〔たま〕そのなかに私の以前の仲間のウイリアムがゐました〔たのです〕。このウイリアムが私のことを船長になにかと〔大変よく〕云つてくれました。

[やぶちゃん注:現行版は以下。

   *

 この船はイギリスの商船で、北海、南海を通って、日本から帰る途中でした。船長のジョン・ビデルはデットフォッド生れで、大へん親切な男でした。乗組員は五十人ばかりいましたが、そのなかに私の以前の仲間のウィリアムがいたのです。このウィリアムが私のことを船長に大へんよく言ってくれました。

   *

「日本から帰る途中」江戸初期(一六一三年~一六二三年)にイギリス(厳密には当時は国名おしての「イギリス」は存在せず、「イングランド王国」と「スコットランド王国」の同君連合国であるが、現行の通称で述べる)の東インド会社が肥前国平戸に設置したイギリス商館が存在はしたが、延宝元(一六七三)年のリターン(Return)号事件(日本で売るための羊毛を積んで江戸幕府に貿易再開を求めるために長崎に来航したイングランド船リターン号に対して江戸幕府が上陸を拒絶した事件)を以って幕府は正式にイギリス船の来航を禁じる通告を行っているから、作中時制(一七一年)に日本に来たとすればこれはもう、密貿易である。

「デットフッド」原文「Deptford」で、音写は「デプトフォード」が正しい。ロンドン中心部から少し離れた南東部にある小さな町の名で現存する。]

 船長は私 大変よく〔もてな〕してくれました。一たいそして私に一たい君は〕どこから來て、どこへ行くつもりだつたか、身の上話をきかせてくれ〔話してくれ〕 といふのでひます。ひましたふので〕、私は〕今迄のことをごく簡單に話すと〔しま〕した。だが、すると、だが、〕船長は、私が気が変になつてゐると〔の頭がどうかしてゐると〕思つたやうです。いろんな危險にあつたので頭がどうかしたと〔気が変になつ〕たらしい〕と思つて〔、〕〔ほんとにしてくれません。〕そこで私はポケツトから黒い牛や羊を出して見せてやりました。これには船長も非常に驚いて、私の云ふことが噓でないと納得したやうです〔。〕それから私は〔、〕ブレフスキュ皇帝から貰つた金貨〔や〕肖像画や〔、〕その他この國の珍しい品品をとり出して見せました。そして〔私は〔、〕〕彼には〕二百スプラグ入りの金入を〔船長に〕やり、ました。イギリスに着いたら〔、〕中の羊を一頭づつあげると約束しました。

[やぶちゃん注:現行版は、

   *

 船長は私をよくもてなしてくれました。一たい、どこから来て、どこへ行くつもりだったか、話してくれと言うので、私は今までのことをごく簡単に話しました。だが、船長は、私の頭がどうかしている、と思ったようです。いろんな危険に会ったので、気が変になったと思って、ほんとにしてくれません。そこで私はポケットから黒い牛や羊を出して見せてやりました。これには船長も非常に驚いて、私の言うことが嘘でないと納得したようです。それから私は、ブレフスキュ皇帝からもらった金貨や肖像画や、その他いろいろ珍しい品を取り出して見せました。私は二百スプラグ入りの金袋を船長にやりました。

   *

細部が微妙に違うことが分かり、最終文(無論、原文にある)が丸ごとカットされてしまっている。]

 船は無事に穩かに進み、一七〇二年四月十日、私たちはダウンスに着きました。ただ、途中一つ〔ちよつと〕不幸な事が起きました。それは船にゐる鼠どもが私の羊を一頭、引いていつてしまつたことです。〔そして、〕きれいに肉をむ〔しりと〕られた羊の骨〔は〕、穴の中でみつかりました。

[やぶちゃん注:現行版は、

   *

 船は無事におだやかに進み、一七〇二年四月十日、私たちはダウンスに着きました。ただ、途中でちょっと不幸な事件が起きました。それは船にいる鼠どもが、私の羊を一頭、引いて行ってしまったことです。きれいに肉をむしりとられた羊の骨は、穴の中で見つかりました。

   *

である。しかし例えば、「鼠どもが私の羊を」の読点の除去などは民喜としては珍しく、ちゃんと「トル」と指示しているのである。

「ダウンス」原文「Downs」で「ダウンズ」が正しい。小学館「日本大百科全書」の小池一之氏の解説を引く。『イギリス、イングランド南部、西のハンプシャー県から東のドーバー海峡にかけて続く白亜紀のチョーク質の丘陵。サウス・ダウンズは海岸沿いを東西に延びるケスタ性の丘陵で、南に緩く傾き、北に急斜面をもつ。短毛の肉用ヒツジ、サウスダウン種の原産地。ノース・ダウンズは、ロンドン南方を東西に延び、北方へ緩斜しつつロンドン盆地へ向かって下り、南に急斜面をもち、東方はドーバーの白い崖(がけ)で終わっている。両丘陵とも牧羊地となっており、両丘陵間の地域はウィールドThe Wealdとよばれる農業地帯となっている』。]

 殘りの家畜はみな無事にイギリスへ〔も〕つてもどりました。私はそれをグリニツヂの球場の芝生に放してやりました。〔はじめ〔こ〕ここの草〔でも〕食べるかしら、と心配でしたが、〕〔ここに放してみると〕家畜たちは、この〔〔こ〕この〕草がきれいなので、喜んで食べるやうになりました。〔のでした。〕

 私が長い航海の間、この家畜を無事に飼つたのは、全く船長のおかげでした。私は船長から特別製のビスケツトを分けてもらひ、それを水でこね〔粉にして〕水でこねて、〔家畜に〕食べさせてゐたのです。私はイギリスに暫く滯在してゐる間に、〔私は〕この家畜を見世もの〔物〕にして、かなりお金をもうけました〔。〕が二度目 二度目 〔また、私は〕航海に出ることになつて、〔その〕六百ポンド〔で〕賣りはらひました。

[やぶちゃん注:「六百ポンド」現在(二〇一六年六月二日現在)の一ポンドはたった百五十九円であるが、ネット上の信頼出来る金に拠る換算データでは、一七〇〇年代の一ポンドは、実に二千七百万円以上はあるという。従って「六百ポンド」は軽く十六億二千万円以上はあることになる。これならガリヴァー君、世界の涯まで、確かに行けそうだわ。]

 私が妻子と一緒に暮したのはたつた二ケ月でした。〔もつともつと〕外國を見たいといふ氣持がうづうづして、どうしても、私は家にじつとしてゐられなくなりました。そこで、私は商船「アドヴヱンチュア」号〔の〕乘組員になりました。この航海の話は、〔次に〔に語りますの〕第二篇を讀んで下さい。次の第次の大人國→■〕を讀んで下さい。次の「大人國」で述べます。〕

[やぶちゃん注:「小人国」の最後、自筆原稿八十五枚目は以下五行空き(但し、推敲案は一行後までマス目に無関係にはみ出してはいる)。最後の「を讀んで下さい。次の「大人國」で述べます。」の併存はママ。現行版は以下。

   *

 私が妻子と一しょに暮したのは、たった二カ月でした。もっともっと外国を見たいという気持がうずうずして、どうしても、私は家にじっとしていられなくなりました。そこで、私は商船『アドベンチュア号』乗組員になりました。この航海の話は、次の『大人国』を読んでください。

   *]

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