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« 享年三十六歳 | トップページ | 芥川龍之介氏の俳句   飯田蛇笏 »

2016/06/30

俳人芥川龍之介   飯田蛇笏

[やぶちゃん注:底本は飯田蛇笏「俳句文芸の楽園」(昭和一〇(一九三五)年交蘭社刊)を国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像を視認して電子化した。踊り字「〱」は正字化した。句の表示の字配は再現していない。また、芥川龍之介「芭蕉雑記」の引用部では、全体が一字下げとなっているが、ここは無視したので引用終了箇所に注意されたい。以下、少し語注を施しておく。なお、蛇笏が多く引用している「芭蕉雑記」及び草稿を含めた全文を私が電子化しているので、未読の方は参照されたい。

 形式第一段落の「遉に」は「さすがに」と訓ずる(「流石に」に同じい)。

 同段落の小穴隆一の「二つの繪」の強烈な回想引用の中の「縊り」であるが、原本(昭和三一(一九五六)年中央公論社刊)を私は所持するが、これは同書の「死ねる物」の一節乍ら、原文は、『芥川が首縊りの眞似をしてゐるのをみてゐたときよりも、押入の中で、げらげらひとりで笑つてゐたというふ話を聞いたときのはうが凄く感じた』で正確な引用ではなく、脚色がなされている。なお、この原文により、「縊り」は「くびくくり」と読むのが正しいことが判る。

 同段落の「羸弱」は「るいじやく(るいじゃく)」で、衰え弱ることを意味する。

 同段落末の「流眄」は「りうべん(りゅうべん)」で、流し目で見ることの意。

 第二段落に出る「西谷勢之介」(明治三〇(一八九七)年~昭和七(一九三二)年)は詩人で、『大阪時事新報』『大阪毎日新聞』『福岡日日新聞』などで記者を続け、大正一二(一九二三)年に大阪で『風貌』を創刊主宰、翌年、詩集「或る夢の貌」を発表。昭和初期にかけては佐藤惣之助の『詩の家』や中村漁波林の『詩文学』に属す一方、『文芸戦線』『不同調』などに詩や随筆を寄稿、昭和三(一九二八)年に発表した「虚無を行く」が野口米次郎に認められ、師事した。著書に詩集「夜明けを待つ」の他、「俳人漱石論」「俳人芥川龍之介論」(昭和七(一九三二)年立命館出版部刊)「天明俳人論」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」等に拠る)。

 「三つの窻」「窻」は「窓」。自裁直前の昭和二(一九二七)年七月一日発行の『改造』に発表された私の偏愛する作品。本文に出る他の作品に比べると知名度はやや落ちると思われるので、電子テクストであるが、リンクさせておく。

 第五段落「犬牙錯綜」犬の牙の如くに互いに食い違ったり、入り組んだりしていること。

 同「剔刳」は「てつこ(てっこ)」で、「刳」も「えぐる」で「剔抉(てっけつ)」に同じい。

 第六段落「如上」は「じよじやう(じょじょう)」で、前に述べた通り、の意。

 同「前者は最後まで表面化さなかつた」はママ。「前者」即ち「運命的な哲理を奧深くひそめて鉛のやうに重くしづみきつた思想」「は最後まで」俳句作品には「表面化さ」せ「なかつた」の意である。「せ」の脱字が疑われる。

 同「決河の勢」「けつかのいきほひ(けっかのいきおい)」と読み、河川の水が溢れて堤防を切る如き猛烈な勢いの意で、勢いの甚だ強いことの譬えである。

 同「唾咳みな金玉抵に」「唾咳」は「だがい」で、「つばき」と「せきばらい」で普段の日常的で些末な感懐の比喩であるが、一般には「咳唾(がいだ)」である。「抵に」(ていに)はそれらと相当にの意で、一茶の句作が日常茶飯の月並句と珠玉の句の創作の滅茶苦茶な玉石混淆状態にあることを指す。

 同「終ひに行くに所な足疲れ衣破れて」ママ。「行くに所なく」の「く」の脱字であろう。

 第九段落「韓紅」は濃い赤色で、普通なら「からくれなゐ(からくれない)」と訓ずるところだが、飯田蛇笏はお読み戴ければ分かる通り、極めて佶屈聱牙な読みを好む俳人であるからして(俳句作品でも然り)、ここは敢えて「かんこう」と音読みしておく。その方が、本文の文脈にもしっくりくる。

 同「波濤が卷き起つてゐる海洋への突つ鼻に常識外の巨きな耳を持つた怪物が首垂れてゐる圖」この自画像は芥川龍之介の絵画作品の中では自画像でありながら、最も知られていない異様な一枚と思う。面倒なので引用元は明かさないが(文化庁は平面的に写真に撮られたパブリック・ドメインの絵画作品の写真には著作権は発生しないと規定している)、日本近代文学館蔵の当該元画を以下に示す。

 Ryunosuke_self_portrait1921104yugaw  


 同「第二の繪の北斗七星が一つ缺け落ちてゐる、それに賛して、/霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉   龍之介/と沈痛に吟じてゐる」は、「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五」で現物画像を見ることが出来るので、是非参照されたい。

 第十一段落『「龍之介は詩人ではない」と云ふ蔭口をきいた人物があつたのを耳にして彼は直ちに起つて家の子郎黨をひきぐしてから、その人物の居宅につめよつたと云ふ巷間の説であつた』の「人物」とは萩原朔太郎であり、ここに記されたことは「噓説」なんぞではなく、概ね事実である(但し、「蔭口」ではない)。何よりも当の詰め寄られた萩原朔太郎が「芥川龍之介の死」の「11」で描いているからである(リンク先は私の古い電子テクスト)。未読の方は、是非参照されたい。

 第十三段落「寧ろ龍之介的芭蕉を現出餘りに是れ力めんとする氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。」の一文はやや読み難いが、――「寧ろ」、「龍之介的芭蕉を現出」せしめんとして、「餘りに是れ」を「力」(つよ)「めんとする」過剰にして異常なる「氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。」――という謂いであろうと読む。

 第十五段落「灼耀」「しやくやく」光り輝くさま。「赫奕(かくやく)」に同じい。

 最終段落冒頭の「決河の勢ひで漲り出た――」のダッシュは後半が空白になっている。植字ミスと断じてダッシュを延した。

 同前「燦」「さん」。輝いて鮮やかなさまを謂う。]

 

 

      俳人芥川龍之介

 

 重患のはげしい痛苦で、泣きわめきながら文稿をつゞつた不敵な魂の持主である正岡子規と、どうした因緣か齡を同じうして現世を去つていつたのは芥川龍之介であつた。子規と龍之介といふ人物との對照は、又別に相常興味ある問題を構成し得べきものでもあるのだが、それはそれとして、一脈相通ふところのものが看破されるのは、その不敵なたましひの有りやうである。遉に龍之介も子規といふ人物のそのたましひに次第にひかれてゆく心のすがたを見せた。小穴隆一氏の「二つの繪」によると、げにも「精も根も盡きはてた」又、「縊りの眞似をする彼よりも、押入の中でげらげら、獨りで笑つてゐる彼のはうに凄さがある」ところの龍之介であつたがために、此の羸弱と而して、ヂャールやべロナールが愈々助長せしめる慘憺たる心身の崩潰が、子規の如きそれへ流眄をはげしくしたにちがひなかつたらうことも肯ける。

 芥川龍之介の思想の中には、絶ず兩つの極面が向ひあつてゐて、それが、時に人知れぬ火花を散らすことがあつたと同時に、又多くは明鏡の如くはつきり文藝作品の上に立像を現出し來つたものゝやうである。いさゝか物故した者へ鞭觸れるかの感じで、愉快ではないけれども、故人西谷勢之介の如き、よく龍之介を理解し、龍之介を惜しむに人後に落ちなかつたものであることは、その遣著「俳人芥川龍之介論」に照らして明瞭なことであるわけだが、名の示すその通りに、餘りに俳句に觸れてのみものを云うた點にも因ることだらうけれども、龍之介の思想を觀察、檢討して其の點に觸るゝ所が見えなかつたことが、吾人をして若干の遺憾を感ぜしめた。しかも勢之介は云つてゐる。

 「傳へきくところによれば、芥川龍之介はその文人としての本領を俳道に置いてゐたとのことである。小説家としての彼が、大正昭和の文壇に最も光榮ある足跡をのこし去つたことを想ひ見るとき、右の言葉は誇張されてゐるやうであり、疑惑せずに居られぬ向もあるけれども、その凡ゆる文藝作品とよくよく吟味すれば、筆者必ずしも不當とは考へられないのである。(「俳人芥川龍之介論」緒言)と。

 この邊の觀察力に缺くるところなく油斷ない彼の研究をもつてしてゞある。

 龍之介の思想に於ける兩つの極面の現はれとして、具體的な證左をあげて云へば、一つは「三つの窻」のやうな運命的な哲理を奧深くひそめて鉛のやうに重くしづみきつた思想であり、一つは「羅生門」乃至「鼻」。いよいよ圓熟の域にすゝんで猶同系たる「鼠小僧次郎吉」のやりな、技巧畢竟天衣無縫の感あらしめるところの彼が明鏡的天才の絢爛さをかき抱く純悴に文藝的な思想である。さうして、此の間に介在して犬牙錯綜、血みどろな人生の葛藤を剔刳するところのものは、彼が漱石的影響のもとに、そのおほらかな天分に乘じた「鼻」の如き初期の作品から、世間彼をめざして云ふこころの所謂、「私小説」への轉換期作品に、たまたまこれを觀るのであるが、その最も顯著なるものゝ一つとして永遠に人心を衝くところのものは 「藪の中」である。であるから、龍之介の思想的全面容から見て、彼が漱石から出て常に漱石を思ひ漱石を忘れなかつたにも拘はらずその作品の或る深刻さが、哲理的背景をひそめて、どこやらに詩的な香味をたゞよはす點に於て、(例ヘば「二つの窻」の如き)故國木田獨步を思はせるものがあつた。「偸盜」や「河童」のやうな作品をのぞく以外には、多く短篇に於てその天分を發揮したことも相通ずるものがあつたのである。

 そこで、世間これを餘技と稱し、龍之介自ら微苦笑をもつて迎へながら、時に甘んじて餘技的態度をかまへながら、その実、滿を引いてはなつに怠りなかつたところの彼の俳句に就いて見るのだが、素より龍之介の俳句は龍之介なりに、幾分でも、龍之介が心臟からつたはつて流れいづるところの血潮そのもので血塗られぬ筈はないであらう。この故に、如上龍之介が思想的背景のもとに、俳句作品の二つの面影は生涯の扉を閉めた内にあざやかな姿をとゞめて鑑賞をほしいまゝにせしめてをる。だが、ここに最も注意すべきことは、前者は最後まで表面化さなかつた。これは俳人芥川龍之介に見る驚くべき事實であつた。(驚くべきことであつてその實彼にとつては驚くべからざることである所以はこの稿の終りに至りて了解し得ると信ずる)だが、さきに事實に就いてだけ云へば、これは斷末魔に至つて、決河の勢をもつてはち切れてゐるのである。俳人として左樣な例は決して多くはない、けれども少くとも小林一茶に就いて見れば的確なるものを示してゐる。一茶が天分を恣にして唾咳みな金玉抵に(この點龍之介は正反對であるが)濫作をつゞけて、終ひに行くに所な足疲れ衣破れて、郷里信濃の柏原の里にたどりついたとき、

   これがまあ終ひの栖か雪五尺   一茶

と、滂沱たる萬斛の血淚をしつてゐる。その人とその藝術の違ひこそあつたにせよ、各、個々の思想を背景として、斷崖の上に起ち、全裸のすがたをぶち出し、眞つ赤な心臟を割つて見せた點に至つては斷じて機を一つにする。龍之介にも亦これがある。

 龍之介の俳句を批判するとして彼自らの作品を直下に論ずべきは當然すぎる當然である。と同時に克明に彼が俳句道に生くる根本義を物語りその識見を披き得るところのものは、俳句史上、最大の標的松尾芭蕉に對する彼の見地に照らすことが第一である。幸にも彼は「芭蕉雜記」といふ好文献を遺してをる。就いてこれを見ると、

(一)「芭蕉の説に從へば、蕉風の集を著はすのは名聞を求めぬことであり、芭蕉の集を著はすのは名聞を求めることである。然らば、如何なる流派にも屬せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう? 且又この説に從へば齋藤茂吉氏の『アララギ』へ歌を發表するのは名聞を求めぬことであり『赤光』や『あら玉』を著はすのは『これは卑しき心より我上手なるを知られんと……』である。

と、及び、

(二)「しかし又芭蕉はかう云つてゐる。――『我俳諧撰集の心なし。』芭蕉の説に從へば、七部集の監修をしたのは名聞を離れた仕業である。しかもそれを好まなかつたと云ふのは何か名聞嫌ひの外にも理由のあつたことゝ思はなければならぬ。然らばこの『何か』は何だつたであらう?』

と、及び、最後に、

(三)「芭蕉は大事の俳諧さへ『生涯の道の草』と云つたさうである。すると七部集の監修をするのも『空』と考へはしなかつたであらうか? 同時に又集をあらはすのさへ、實は『惡』と考ヘる前に『空』と考へはしなかつたであらうか? 寒山は木の葉のやうに詩を題した。がその木の葉を集めることには餘り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千餘句の俳諧は流轉に任せたのでなかつたであらうか? 少くとも芭蕉の心の奥には、いつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかつたであらうか?」

とで結んでゐる。

 (一)(二)(三)は筆者が假りに之れが段階を追ふの順序として、はつきりさせる爲だけに附けたものであつて、「芭蕉雜記」の筆者の爲業ではない。近代に生を享けて、小説家著述業者芥川龍之介が彼のぎらぎらした心頭に、鬼才龍之介の盛名はよし微塵であれ、芭蕉のこの流轉的心像に逢着してこれが深くも深く關心を買ふべく餘儀なくせられたのは、まことに當然のなりゆきでなければならぬ。龍之介が俳句道にたちあがるや、彼の不敵なる魂が、氣壓さるべきでないと手向ふものゝ、さうした精進にひるみは見せないものゝ、いつしか、此の流轉的心像にぶちあたつて不覺にも泣きぬれたる姿であるのである。

 小穴氏稿するところの限りない悲哀「二つの繪」が示す、その奧底に渺々として橫たはる所のものは果して何であつたか? 死直前の作「齒車」を賞讃する批評家もあつたし、その他、若干のベロナール乃至ヂャールをブラスする阿修羅の作品によつて鵜呑みされる甚だ非阿呆(?)の龍之介ファンが尠なからず散在したやうに見受けられもしたが、其等の盛名的外郭によることよりも故人龍之介が韓紅なる心臟を裂いて、はつきりと示すところのものは、小穴氏の主觀は小穴氏の主觀として、一事實としての盤上に盛られた「二つの繪」そのものでなければならなかつた。第一の繪の、波濤が卷き起つてゐる海洋への突つ鼻に常識外の巨きな耳を持つた怪物が首垂れてゐる圖と第二の繪の北斗七星が一つ缺け落ちてゐる、それに賛して、

   霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉   龍之介

と沈痛に吟じてゐるのである。

 だが、「芭蕉雜記」は總ての速斷をゆるさない。

 更に、同記第四項「詩人」に於て例の、

   人聲の沖にて何を呼やらん   挑鄰

   鼠は舟をきしる曉       翁

の「曉」の附句で、許六がこれを、

 「動かざること大山の如し」と賞讃したとき、芭蕉が起き上りて曰ふことに、

 「此曉の一字聞きとゞけ侍りて、愚老が滿足かぎりなし、此句はじめは「須磨の鼠の舟きしるおと」と案じける時、前句に聲の字有て、音の字ならず、依て作りかへたり、須磨の鼠とまでは氣を𢌞し侍れども、一句連續せざると宜へり。予が云ふ、是須磨の鼠よりはるかにまされり(中略)曉の一字つよきこと、たとへ侍るものなしと申せば、師もうれしく思はれけん。これほどに聞てくれる人なし、唯予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる貌のみにて、善惡の差別もなく、鮒の泥に醉たるごとし、其夜此句したる時、一座のものども我遲參の罪あると云へども、此句にて腹を醫せよと自慢せしと宜ひ侍る。」

 と云ふ、此處の消息に就いて、龍之介はどう觀てゐるかといふと、

 「知己に對する感激、流俗に對する輕蔑、藝術に對する情熱、――詩人たる芭蕉の面目は、ありありとこの逸話に露はれてゐる。殊に『この句にて腹を醫せよ』と大氣熖を擧げた勢ひには――世捨人は少時問はぬ、敬虔なる今日の批評家さへ辟易しなければ幸福である。」

と云ふのが彼の論斷である。凡そ、この種の論稿に於て一とくさりの皮肉は忘れることのなかつた彼にして、正直正銘、ひらき直つた態度で、かうまで喝破したものは、果して幾何か有り得る? と云へようと思ふ。實に是れは芭蕉その人を物語るよりも、龍之介彼自身を多く物語るものでなければならぬ。文人龍之介といふものゝ眞骨頂を、爰に分明に認らるゝのである。前に、不敵なたましひの持主として筆を起した、その不敵さ――彼云ふところの流俗に對する輕蔑、藝術に對する惰熱それは直ちに轉換してもつて、彼の面上に冠すべきものであるのではないか。筆者は、さうした古典味から類推することよりも、もつと生ま生ましい、人間龍之介を描き得る自信をもつ。彼、元氣旺盛なりし頃「龍之介は詩人ではない」と云ふ蔭口をきいた人物があつたのを耳にして彼は直ちに起つて家の子郎黨をひきぐしてから、その人物の居宅につめよつたと云ふ巷間の説であつた。善哉河童居士、よし、その擧は空しい噓説であつたにしたところで、寒骨、鶴のごとき瘦軀を指して臆面ない、熾烈なる詩人的たましひの嚴存は、分明に居士に認めて餘りあるものである。

 閑話休題として、さて龍之介の「雜記」は、

 「芭蕉も亦世捨人になるには餘りに詩魔の飜弄を蒙つてゐたのではないだらうか? つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか? 僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる」と、結んでゐるのである。

 芭蕉をば十分に理解してゐる龍之介ではあるに相違ない。それは、前掲(一)(二)(三)の説述に照らしても合點されるところでなければならぬ。而も、その「詩人」(第四)の項に於て、「俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり」とは、芭蕉の惟然に語つた言葉である。その他俳諧を輕んじた口吻は時々門人に洩らしたらしい。これは人生を大夢と信じた世捨人の芭蕉には寧ろ當然の言葉である。――とする龍之介その人の矛盾に照らして見ても、芭蕉のそれを、我自身に結ばうとする、――一歩をすゝめて云へば、寧ろ龍之介的芭蕉を現出餘りに是れ力めんとする氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。即ち、芭蕉文藝が搔き抱く流轉相に對して反撥する彼自身の矛盾をば、敬虔に、素直に熱をこめて、而して賢明に告白するところのものでなければならぬ。鏡に向へば、忽然として其處に、「羅生門」なり「黃雀風」なり、「傀儡師」なり「夜來の花」「沙羅の花」「邪宗門」等々々斷翰零墨も亦「點心」たり「百艸」たることに於て、天下百萬の愛讀者を擁する彼れ龍之介が、彼の面前に現はれ出るのであつた。枯枝に點ずる鴉を見、人生を大夢と觀ずる飄々たる風羅坊と相對して、餘りにも絢爛たる存在の龍之介がこの豪勢さである。然もよく是を理解しこれに深く共鳴し、その途をさへたどらうとする龍之介その人であればこそであつた。

 龍之介一代の俳句作品を通じて、誰でもが直下に見得るところのものは、素晴らしい表現的技巧の冴えであつた。俳句以外の文藝作品に於て、彫心鏤骨の形容詞を賞讃の上に冠せられたことは、事新たに説くまでもないことだが、この形容詞は俳句作品の方面にも亦最もしつくりと据わるものでなければならなかつた。(否、寧ろそれに過ぎてあたら珠玉に血塗つたことさへ筆者はよく知つてゐる。)一々例を擧げて云へば、その的確なるものは枚擧に遑ないことであるが、この稿にはさうした煩はしいことを避ける。だが、唯、早く發表され若しくは上梓を得た其等のものゝ中から如何に多く次ぎ次ぎに現はれ來つた彼の著述の中に改竄されたそれを發見し得るかと云ふことだけを述ベておく。

 小説に於て金石文字たり、俳句に於て天衣無縫たらしめよりとする、その彫心鏤骨の精進にあたつて、絶えず心を來往する灼耀たるもの影の一つに、俳人芭蕉その人があつたことは、既に述べた通りである。而してその芭蕉的影響が、近代人の中に聳えた近代人龍之介の雙びない尖鋭の神經に美妙にも若干のゆとりを加へ、若しくはめまぐるしく拍車を加へた。彼謂ふところの「僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる」心境から、巖をしぼれる雫のやうに、滴りおちた彼の俳句作品であるに相違なかつた。彼が、人生の大團圓に於て、日常文人生活の惱みであり、さうして、實に前述の「二つの繪」である大關門の扉が細目に突つ放なされたとき、そこに、

   水洟や鼻の先だけ暮れのこる   龍之介

かぎりない寂然たる天地が覗かれた。

 これ即ち、決河の勢ひで漲り出た――と云ふよりもむしろ潜みに潜んだ鬼才龍之介の、最も恐るべき、驚くべき方面の、一極面の思想を背景とするものが、玉の如く凝つて如實にぶち出されたのである。尚、一度「二つの繪」によれば、「二つの繪」の筆者がこの天才の最後の場面、納棺に際してちらつと一瞥したところ、胞衣と一緒にした幼名が「龍之介」ではなく「龍之助」であつたかもしれぬ、と云ふ。それを讀んだとき、果然、芥川龍之介は最後を燦として此方へ光つた。筆者はあくまでも「龍之介」に左袒するものである。(昭和九、九、二一)

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