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2016/06/08

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 小説

 

       小説

 

 本當らしい小説とは單に事件の發展に偶然性の少ないばかりではない。恐らくは人生に於けるよりも偶然性の少ない小説である。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に、後の「文章」(二章)「女の顏」「世間智」(二章)「恒産」「彼等」「作家所生の言葉」と合わせて全九章で初出する。これは後の芥川龍之介の谷崎潤一郎との論争に端を発して書かれた、「文藝的な、餘りに文藝的な」(昭和二(一九二七)年)の『一 「話」らしい話のない小説』を読むに若くはない。私の「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」から引用する。二以降の谷崎への反論は結局、この二人の作家の立ち位置の強烈な違いから、相互に嚙み合わないのであって、私は余り面白いとは思わないので、お読みになりたい方はリンク先でお読みあれ。因みに、私は谷崎潤一郎がはなはだ嫌いである。

   *

       一 「話」らしい話のない小説

 

 僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。從つて「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言はない。第一僕の小説も大抵は「話」を持つてゐる。デツサンのない畫は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は「話」の上に立つものである。(僕の「話」と云ふ意味は單に「物語」と云ふ意味ではない。)若し嚴密に云ふとすれば、全然「話」のない所には如何なる小説も成り立たないであらう。從つて僕は「話」のある小説にも勿論尊敬を表するものである。「ダフニとクロオと」の物語以來、あらゆる小説或は叙事詩が「話」の上に立つてゐる以上、誰(たれ)か「話」のある小説に敬意を表せずにゐられるであらうか? 「マダム・ボヴアリイ」も「話」を持つてゐる。「戰爭と平和と」も「話」を持つてゐる。「赤と黒と」も「話」を持つてゐる。……

 しかし或小説の價値を定めるものは決して「話」の長短ではない。況や話の奇拔であるか奇拔でないかと云ふことは評價の埒外(らちぐわい)にある筈である。(谷崎潤一郎は人も知る通り、奇拔な「話」の上に立つた多數の小説の作者である。その又奇拔な「話」の上に立つた同氏の小説の何篇かは恐らくは百代(だい)の後にも殘るであらう。しかしそれは必しも「話」の奇拔であるかどうかに生命を託してゐるのではない。)更に進んで考へれば、「話」らしい話の有無さへもかう云ふ問題には沒交渉である。僕は前にも言つたやうに「話」のない小説を、――或は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。しかしかう云ふ小説も存在し得ると思ふのである。

 「話」らしい話のない小説は勿論唯(ただ)身邊雜事を描(ゑが)いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙かに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。が、若し「純粹な」と云ふ點から見れば、――通俗的興味のないと云ふ點から見れば、最も純粹な小説である。もう一度畫(ゑ)を例に引けば、デツサンのない畫は成り立たない。(カンディンスキイの「即興」などと題する數枚の畫は例外である。)しかしデツサンよりも色彩に生命を託した畫は成り立つてゐる。幸ひにも日本へ渡つて來た何枚かのセザンヌの畫は明らかにこの事實を證明するのであらう。僕はかう云ふ畫に近い小説に興味を持つてゐるのである。

 ではかう云ふ小説はあるかどうか? 獨逸(ドイツ)の初期自然主義の作家たちはかう云ふ小説に手をつけてゐる。しかし更に近代ではかう云ふ小説の作家としては何びともジユウル・ルナアルに若かない。(僕の見聞する限りでは)たとへばルナアルの「フィリツプ一家の家風」は(岸田國士氏の日本譯「葡萄畑の葡萄作り」の中(うち)にある)一見未完成かと疑はれる位である。が、實は「善く見る目」と「感じ易い心」とだけに仕上げることの出來る小説である。もう一度セザンヌを例に引けば、セザンヌは我々後代のものへ澤山の未完成の畫を殘した。丁度ミケル・アンヂエロが未完成の彫刻を殘したやうに。――しかし未完成と呼ばれてゐるセザンヌの畫さへ未完成かどうか多少の疑ひなきを得ない。現にロダンはミケル・アンヂエロの未完成の彫刻に完成の名を與へてゐる!……しかしルナアルの小説はミケル・アンヂエロの彫刻は勿論、セザンヌの畫の何枚かのやうに未完成の疑ひのあるものではない。僕は不幸にも寡聞の爲に佛蘭西(フランス)人はルナアルをどう評價してゐるかを知らずにゐる。けれども、わがルナアルの仕事の獨創的なものだつたことを十分には認めてゐないらしい。

 ではかう云ふ小説は紅毛人以外には書かなかつたか? 僕は僕等日本人の爲に志賀直哉氏の諸短篇を、――「焚火」以下の諸短篇を數へ上げたいと思つてゐる。

 僕はかう云ふ小説は「通俗的興味はない」と言つた。僕の通俗的興味と云ふ意味は事件そのものに對する興味である。僕はけふ往來に立ち、車夫と運轉手との喧嘩を眺めてゐた。のみならず或興味を感じた。この興味は何であらう? 僕はどう考へて見ても、芝居の喧嘩を見る時の興味と違ふとは考へられない。若し違つてゐるとすれば、芝居の喧嘩は僕の上へ危險を齎さないにも關らず、往來の喧嘩はいつ何時危險を齎らすかもわからないことである。僕はかう云ふ興味を與へる文藝を否定するものではない。しかしかう云ふ興味よりも高い興味のあることを信じてゐる。若しこの興味とは何かと言へば、――僕は特に谷崎潤一郎氏にはかう答へたいと思つてゐる。――「麒麟」の冐頭の數頁(すうページ)は直ちにこの興味を與へる好個の一例となるであらう。

 「話」らしい話のない小説は通俗的興味の乏しいものである。が、最も善い意味では決して通俗的興味に乏しくない。(それは唯「通俗的」と云ふ言葉をどう解釋するかと云ふ問題である。)ルナアルの書いたフィリツプが――詩人の目と心とを透して來たフィリツプが僕等に興味を與へるのは一半(ぱん)はその僕等に近い一凡人である爲である。それをも亦通俗的興味と呼ぶことは必しも不當ではないであらう。(尤も僕は僕の議論の力點を「一凡人である」と云ふことには加へたくない。「詩人の目と心とを透して來た一凡人である」と云ふことに加へたいのである。)現に僕はかう云ふ興味の爲に常に文藝に親しんでゐる大勢の人を知つてゐる。僕等は勿論動物園の麒麟に驚嘆の聲を吝(を)しむものではない。が、僕等の家にゐる猫にもやはり愛着(あいちやく)を感ずるのである。

 しかし或論者の言ふやうにセザンヌを畫の破壞者とすれば、ルナアルも亦小説の破壞者である。この意味ではルナアルは暫く問はず、振り香爐の香(か)を帶びたジツドにもせよ、町の匂ひのするフィリツプにもせよ、多少はこの人通りの少ない、陷穽(かんせい)に滿ちた道を歩いてゐるのであらう。僕はかう云ふ作家たちの仕事に――アナトオル・フランスやバレス以後の作家たちの仕事に興味を持つてゐる。僕の所謂「話」らしい話のない小説はどう云ふ小説を指してゐるか、なぜ又僕はかう云ふ小説に興味を持つてゐるか、――それ等は大體上に書いた數十行の文章に盡きてゐるであらう。

 

   *]

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