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2016/06/07

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自由(四章)

 

       自由

 

 誰も自由を求めぬものはない。が、それは外見だけである。實は誰も肚の底では少しも自由を求めてゐない。その證據には人命を奪ふことに少しも躊躇しない無賴漢さへ、金甌無缺の國家の爲に某某を殺したと言つてゐるではないか? しかし自由とは我我の行爲に何の拘束もないことであり、即ち神だの道德だの或は又社會的習慣だのと連帶責任を負ふことを潔しとしないものである。

 

       又

 

 自由は山巓の空氣に似てゐる。どちらも弱い者には堪へることは出來ない。

 

       又

 

 まことに自由を眺めることは直ちに神々の顏を見ることである。

 

       又

 

 自由主義、自由戀愛、自由貿易、――どの「自由」も生憎杯の中に多量の水を混じてゐる。しかも大抵はたまり水を。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年七月号『文藝春秋』巻頭に、後の「言行一致」「方便」「藝術至上主義者」「唯物史觀」「支那」(二章)と合わせて全十章で初出する。

 

・「肚」「はら」と訓ずる。

・「無賴漢」この「金甌無缺」(次注参照)「の國家の爲に某某を殺したと言つてゐる」殺人者というのは、龍之介には具体にイメージされており、そうして読者も一読、「ああ、あいつのことを言ってるな。」と合点出来るところの、殺人事件或いは謀殺事件であるように思われる。しかし、私は近現代史に疎く、また諸本も一切注されていないので、全く分からない。何方かお教え願えまいか?

・「金甌無缺」「きんおうむけつ」と読む(後半を訓じて「金甌欠くる無し」と読む場合もある)。傷のない黄金の甕(かめ)のように、完全で欠点のないこと。完全無欠。もともとは国家が強固で、外国の侵略を受けたことがないことを指す比喩である。「南史」の「朱异(しゅい)伝」の「我國家猶若金甌、無一傷缺」から出た故事成句。戦前の日本ではしばしば用いられた。後の昭和一二(一九三七)年に閣議決定された「國民精神総動員」の方針の下に「國民が永遠に愛唱すべき國民歌」として同年に組織された内閣情報部(後の情報局)によって歌詞公募されて作られ、盛んに歌われた「愛国行進曲」(原作詞・森川幸雄/作曲・瀬戸口藤吉)の一番の歌詞にもある。参照したウィキの「」から一番のみを正字化して引く。

   *

見よ 東海の空明けて

旭日高く輝けば

天地の正氣 潑溂と

希望は踊る大八洲(おおやしま)

おお晴朗(せいろう)の朝雲(あさぐも)に

聳ゆる富士の姿こそ

金甌無缺搖るぎなき

わが日本(にっぽん)の誇りなれ

   *

・「某某」「ぼうぼう」。誰それ。

・「山巓」「さんてん」と読む。「山顚」とも書く。山の頂(いただ)き。山頂。

・「まことに自由を眺めることは直ちに神々の顏を見ることである。」この一章だけは一見、難解に見える。いや、そう思われず、容易に私の【解1】に辿り着く人も多かろうとは思う。しかし、私の迂遠な考察につき合って戴こう。それはまた、この「自由」全体に対する私の全解釈へと繋がるからである。

 まず、本章を解く一つの鍵は、これ以外の章が孰れも、顕在的に「自由」の存在に対して批判的否定的である点にある。第一章は、

 

――「誰も」が『「自由を求め」ている』と公言する。が、「それは外見だけであ」って、「實は誰も」腹「の底では少しも」真の「自由を求めて」などいない。「その證據に」、「人命を奪」う「ことに少しも躊躇しない」、即ち、〈殺したいから殺すのであって、殺しに建前や大義名分など要らぬ〉という、謂わば、何ものからも教唆指示を受けず、自身の「自由」意志による、如何なる外的権力からも束縛されない「自由」な〈殺しの美学〉に生きているはずの「無賴漢さ」え、「金甌無缺の國家の爲に」こそ誰それを俺は「殺したと」、お為ごかしの義憤などほざいては、殺人を天下「國家」と御「爲」であったなどと、さも、神の、天子さまの御寛恕でも得たいかの如く、さもしくも、社会的に正当化しようとしているではないか? 「しかし」、真の「自由とは」、「我我の行爲に何の拘束もないこと」なのであって、「即ち」、「だの道德だの或」い「は」また、「社會的習慣だのと」いったような有象無象の五月蠅く下らないものと「連帶責任を負」うことなど、これ、決して許さぬ、極めて厳粛な絶対の存在なのである。

 

〈具体的例示〉を挙げて「自由」を定義 している。それを受ける続く第二章では、

 

――以上のように、真の「自由」というものは、極めて人間の個体の生身にとっては厳しい世界なのである。喩えるなら、高い「山」の頂上「の空氣に似」たようなものと言える。高い山の上というものは酸素が有意に少ないため、ちょっと小走りしただけでも息が切れ、拍動が増し、場合によっては高山病(高度障害)となって、身動き出来ずなって疲労凍死したり或いは餓死したり、脳浮腫や肺水腫を起こして遂には命を落とすことさえもある。即ち、「自由」も、高い「山」の頂上の酸素の薄い「空氣」も、「どちらも弱い」人間「には堪へることは出來ない」、すこぶる苛酷な環境なのである。

 

〈比喩〉する。そしてこの一章を挟んだ上で、最後の章では、

 

――確かに、我々の周囲の世界には「自由」の文字がゴロゴロしている。『「自由」主義』・『「自由」恋愛』・『「自由」貿易』……美事にはなばなしき「自由」を大安売りするキャッチ・コピーが蔓延・氾濫している。だがしかし、その『どの「自由」も』、これ、生憎(あいにく)、本来のネクターたる銘醸酒のはずの「自由」が注がれてあるはずの、その「杯(さかずき:歴史的仮名遣:さかづき)」の中には「多量の水」がたっぷりと「混じて」(「こんじて」:混入して)いて、本当の「自由」という美酒は数万倍にまで希釈されてしまっており、味も香りも分からずなってしまっているのである。しかも、それのみに止まらず、「大抵は」その水増しに用いられた水は「たまり水」、滞留して流れない腐ったそれ、飲用出来ないばかりでなく、飲めば誰もが腹を下し或いは恐ろしい感染症に罹って命を落とすこと請け合いの毒「水」なのである

 

と〆てあって、結果して龍之介は、〈換喩〉によって、危険な病いの感染源に対して注意を促していると言える。即ち、この第三章の前後は

 

社会に蔓延している似非「自由」病の強毒性・致死性をガッシと固めている

 

のである。

 さすれば、この、「まことに自由を眺めることは直ちに神々の顏を見ることである。」という第三章も、到底、「自由」の真実の姿や肯定的なアフォリズムであろうはずは毛頭なく、やはり前後と同様に、真の「自由」というものの実体を人間が捉えることは至難の技であること、即ち、現実世界に於ける「自由」というものが、一見、強い幻想性を帯びているように見えることを述べているに違いないことは明白である。

 ここまでは異論のある方は、あるまい。そうして今一度、虚心にこの三章を見てみる。

 

――まことに自由を眺めることは直ちに神々の顏を見ることである。

 

すると、何のことはない、

「まことに」~するという「ことは」~するという「ことである」

という構文は、

実に~するという動態は~するという動態と同じ「ことである」

というメタファー、〈隠喩〉であることに気づく(既に多くの方は「そんなことはいまさら言われずとも、最初から気づいていた」と言われるであろう。しかしここまで読まれたなら、さても最後までおつき合い戴こう。多分、私が考えている〈その先と同じ地平〉まで考えておられる方は、必ずしも多いとは、思われぬから)。

 ともかくも言い換えてみよう。

 

――実に、そうした――真の「自由」の様態を「眺めること」(対象として視認し、その全体像を把握すること)――が出来ることがあるとするならば、それは丁度――「直ちに」、今日只今はっきりやすやすと、眼前に実際の「神々」と対峙し、その「顏を見ること」(神々の垂迹した仮の姿や偶像や絵画や彫刻の写像なんぞではない、本物実物の神々の実相としての御尊顏に対面して有り難くも拝顔し申し上げること)――と同じく、極めてあり得ぬことなの「である」。

 

であろう。要するにこれは、このわざわざ一章立てとしたそれも結局、

 

――第一章の「無賴漢」の〈例示〉(これも個別例を提示する〈比喩〉の一種である)やら、第二章の「山巓の空氣」の〈直喩〉やら、第四章の水増し合成酒「銘醸 自由」の〈換喩〉やらと並列の、〈隠喩〉に過ぎない――

 

ということになる――なる? 「本当にそうだろうか? レトリックの天才である以前に、読者を飽きさせないストリー・テラーたるはず芥川龍之介が、そんな退屈の連射をするだろうか?」

 

私の最初の素朴な佇立、立ちどまりは「そこ」にあったのである。

 

――そんな屋上屋の、分かり切った、ゴテゴテの比喩の蔵(くら)を芥川龍之介は決して建てぬ

 

というのが、私の龍之介に対する絶対の信頼感から引き出される結論だったからである。

 そこから私の神経症的なグルグルが始まる。……

 

……この「眺める」というところが、このアフォリズムのミソではないか?……真の「自由」を己(おの)が手に摑むのではなくて「眺める」……というのはこれ……実際にそれが「在る」ということを意味していない……「在るかのように」「眺める」ことが出来る、という意味にも採れるのえはないか?……というか、そういう意味を含意すると言えはしまいか?……

 

 また、翻って、この謂いを逆に辿って考えてもみる。……

 

……「神々の顏を見」たことがある人間はいるだろうか?……私は見たことがない。当たり前だ、神(も仏も)を信じていないから。……しかし、日本には八百万神(やおよろずのかみ)がいて、祖霊の皆、神になるはずなのだかから、その神となった者の顔を日常的に見ているはずなのに、その神となった御尊顔について私は聴いたことがない。現人神(あらひとがみ)は昭和天皇自身が否定したし、心(神)霊写真もアイコラ時代になって急速に人気を失ったから信ずるに及ばず、無数に神がいるはずの現在の本邦でさえ、圧倒的多数の人は「神々の顏」を見たことがないのではあるまいか?……三位一体説でキリストがヤハウェと同じ顔だなどと言うに至っては、理屈としても阿呆臭くて議論の俎上に持ち出す気にもならない……そもそもが原始キリスト教と濫觴を同じくするイスラム教では偶像を排斥するのは正しいとさえ私は思う……ウィトゲンシュタイン流に言うなら、神は「名指す」ことは出来ても、「示す」ことは出来ないのであり、だからこそ「神」なのである、と神を信じぬ、人でなしの私でさえ、思うからである……そもそもが「ヤハウェ」という尊名自体、キリスト者は神聖にして冒すべからざるものとして口にしてはいけないのだ……神は実は「名指す」ことさえも禁忌なのだ……

……しかしだ、有史以来、ごく少数の者は「神々の顏」(或いは一神教ならば「神」「の顏」)を見ているはずである……例えば、イエス・キリストは「神」の「顏」を見ているはずである……見ていなくてはおかしい……見ているとしなければキリスト教は成り立たぬ……と私は思う……

……そこで私は読みかえす……芥川龍之介「西方の人」を……

※[やぶちゃん補注:「西方の人」は彼の自裁の翌月、昭和二(一九二七)年八月発行の『改造』に載った。しかしこれは彼の遺稿ではない。自死するまさに直前(前日二十三日の深夜。薬物の服用は翌日になった二十四日午前二時前後と推定され、芥川龍之介は寝床で聖書を読みながら最後の眠りに就いた。かかりつけ医で友人の下島勲による死亡確認は同日朝七時過ぎであった)に続編まで含めて脱稿した最後の作品である。実は彼は、これが書き上がらなかったために、自死を遅らせていたのである(甥の葛巻義敏には、二十二日に死ぬと告げていたが、「續 西方の人」が完成していなかったためにその日の決行は中止したという(葛巻談。昭和二九(一九五四)年『明治大正文学研究』所収の葛巻義敏と吉田精一の対談「芥川龍之介を語る」より。但し、以上は新全集の宮坂覺氏の年譜記載とデータに拠った)。以下、私の電子テクスト「西方の人(正續完全版)」から引く。下線は私が引いた。]

……すると……第二十章の「エホバ」が眼にとまる……

   *

 

       20 エホバ

 

 クリストの度たび説いたのは勿論天上の神である。「我々を造つたものは神ではない、神こそ我々の造つたものである。」――かう云ふ唯物主義者グウルモンの言葉は我々の心を喜ばせるであらう。それは我々の腰に垂れた鎖を截りはなす言葉である。が、同時に又我々の腰に新らしい鎖を加へる言葉である。のみならずこの新らしい鎖も古い鎖よりも強いかも知れない。神は大きい雲の中から細かい神經系統の中に下り出した。しかもあらゆる名のもとにやはりそこに位(くらゐ)してゐる。クリストは勿論目のあたりに度たびこの神を見たであらう。(神に會はなかつたクリストの惡魔に會つたことは考へられない。)彼の神も亦あらゆる神のやうに社會的色彩の強いものである。しかし兎に角我我と共に生まれた「主(しゆ)なる神」だつたのに違ひない。クリストはこの神の爲に――詩的正義の爲に戰ひつづけた。あらゆる彼の逆説はそこに源を發してゐる。後代の神學はそれ等の逆説を最も詩の外に解釋しようとした。それから、――誰(たれ)も讀んだことのない、退屈な無數の本を殘した。ヴオルテエルは今日では滑稽なほど「神學」の神を殺す爲に彼の劍(つるぎ)を揮つてゐる。しかし「主なる神」は死ななかつた。同時に又クリストも死ななかつた。神はコンクリイトの壁に苔の生える限り、いつも我々の上に臨んでゐるであらう。ダンテはフランチエスカを地獄に墮した。が、いつかこの女人を炎の中から救つてゐた。一度でも悔い改めたものは――美しい一瞬間を持つたものはいつも「限りなき命」に入つてゐる。感傷主義の神と呼ばれ易いのも恐らくはかう云ふ事實の爲であらう。

 

    *

……これで、龍之介もイエスは神の顔を見ていたと考えていることが分かる……彼は直に悪魔と遇っている、悪魔に遇っている者が直に神に逢っていなかったなどということは、凡そ考えられないことだ、と龍之介は言っているのである……

※[やぶちゃん補注:この「西方の人」の強烈な逆説を含んだ一章は非常に興味深いものである。そこで彼は――「神は人間が造った」という命題を論理的に認めながら、その神が今も死なずに絶対化され、現在に至るまで人間を現に支配している――と語っているからである。ただ、この一章を解析するだけでも膨大な時間を必要とするので、ここではその内容について語るのはやめておく。しかし敢えて言えば、下線部の後の「彼の神も亦あらゆる神のやうに社會的色彩の強いものである」という謂いは、このアフォリズム「自由」に直に通底すると私は考えている。]

……こんなことを考える……

……神の顔に過(よ)ぎってまことに存在するかの如く見える真の「自由」とは絶対の「自由」である……

……神の顔は凡愚には見られぬものである……

……絶対大多数の凡愚の大衆に見えもせず、認識も享受も出来ない真の「自由」など、存在しないも同じである……

……そもそもが、社会的多数集団の中にあってのみ、「自由」は問題にされるものである……

……たった一人の人類になった人間には最早、「孤独」は……ない……

……と同時に、「自由」も……ない…………

 

(最後までお読み戴いた奇特な読者に対し、ここで私から謝意を表して、この迂遠な実際家である私の、牛の涎れのような注を終りと致す)]

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