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2016/06/28

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(9) 生目八幡 /目一つ五郎考~了

 

       生目八幡

 

 日向景淸の奇拔なる生目物語を、弘く全國に流布したのは座頭であつたらうといふことは、證據はまだ乏しいが多くの人が推測する。所謂常道の饒舌なる近世記錄でも、まだ明らかにたらぬ諸點の中で、殊に興味を惹くのは雨夜皇子の事、及び日向に澤山の所領があつて、其年貢を以て養はれたといふ言ひ傳へである。德川氏の新らしい政策に因つて、京と江戸との盲人の一群が、偏頗なる保護を受けて競爭者を壓抑したが、其以前の勢力の中心は西國にあつたかと思はれる。是は社會組織の地方的異同などを參酌して、考へて見るべき問題であるが、少なくとも奧羽地方には見られぬ宗教的支援が、西へ行くほど必要になつて居るのは、久しい沿革のあつたことであらう。京都の團體でも妙音天堅牢地神の信仰を佛教に基づいて敷衍する外に、尚守瞽神だの十宮神だのと名けて、一種の獨立した神道を持つて居た。九州では肥前黑髮山下の梅野座頭を始として、僧侶よりも寧ろ神主に近い盲人が多かつたやうである。其特徴の特に顯著なるものは帶刀の風であつた。

[やぶちゃん注:「雨夜皇子」「あまよのみこ」と読み、「雨夜尊(あまよのみこと)」とも称した、「当道要集」(当道(とうどう:後述)の文献で、江戸幕府の盲人保護政策に対する奥田総検校失敗の反省を受けて寛永一一(一六三四)年に小池凡一検校らが当道の沿革などを纏めて幕府に上書すべく編集されたものの根幹をなすところの室町以来の当道資料集成。「当道」(とうどう)とは一般名詞では〈特定の職能集団が自分たちの組織〉を指す語であるが、狭義には、特に室町時代以降、〈幕府が公認した盲人たちによる自治組織〉を指す。明石覚一(覚一検校)によって組織化されたとも言われ、後に妙観・師道・源照・戸嶋・妙聞・大山の六派に分流、一種の「座」として存在したが、その内部で階級制を生じて検校・別当・勾当・座頭の別を立てた)に見える盲人たちの祖先神。自らも目が見えず、視覚障碍者の保護に努めた仁明(にんみょう)天皇の皇子である人康(さねやす)親王のこととも、また、光孝天皇の皇子のこととも言われる。「雨夜御前」「雨夜君」などとも呼称する。一九九八年新紀元社刊戸部民夫著「日本の神々―多彩な民俗神たち―」の同出版社公式サイトの解説が御霊信仰との関連を述べていて非常に参考になる。必読。

「妙音天堅牢地神」文庫版全集によって「妙音天・堅牢地神」と切れることが判る。「妙音天」はめうおんてん(みょうおんてん)」で弁財天の別名。視覚障碍者が琵琶などの音曲(おんぎょく)を生業としたことから、親しまれたものであろう。「堅牢地神」「けんらうぢしん(けんろうじしん)」は 地天(じてん)・地神(ちじん)のことで、元はインド神話の神であったが、仏教に組み込まれて世を守護する十二天の一つとなった(十二天は帝釈天(東方を守護する。以下同じ)・火天(東南)・閻魔天(南)・羅刹(らせつ)天(西南)・水天(西)・風天(西北)・毘沙門天(北)・伊舎那(いしやな)天(東北)・梵天(上)・地天(下)・日天・月天)で大地守護を司る。釈迦の成道(じょうどう:悟達)を証明して説法を諸天に告げた神とされる。あくまで私の妄想であるが、大地を守るためには地中にあるわけで、そのために視力を喪失したという解釈は可能であり、そこで視覚障碍と繋がるか。また地の神は同時に旅人の神、道教えの神であろうから、そこでも繋がるように思われる。

「守瞽神」文庫版全集では「しゆこしん」とルビする。平凡社「世界大百科事典」の呪術的信仰対象の一とする「宿神(しゅくしん)」の解説中に、この神は「守宮神」「守久神」「社宮司」「守公神」「守瞽神」「主空神」「粛慎神」「守君神」など様々な表記があるが、元来は「シャグジ」「シュグジ」『などと称された小祠の神の名だったと思われ』、『辺境の地主神であるが』、『呪術的性格の強かった密教や神道のほか荒神』(こうじん)・『道祖神など他の民間信仰と習合を果たし』、『非常に複雑なまつられ方をしている』とある。この叙述から見ると、「守瞽神」即ち「目の見えない人を守る神」の「瞽」(こ)は当て字と読めるが、考えてみれば「地主神」「荒神」「道祖神」などは琵琶法師や瞽女(ごぜ)のように旅をして芸能を見せることを生業(なりわい)とする視覚障碍者との親和性はすこぶる強いと言える。

「十宮神」「じふぐうしん(じゅうぐうしん)」は、同じく平凡社「世界大百科事典」の「宿神」の解説中に『宿神は現世利益(りやく)の霊威たけだけしい一面』。『強烈にたたる神と考えられ』、『いやがうえにも神秘化され』、『おそれ敬われた。なお』、『盲僧集団の祭祀した守瞽神』、『十宮神は同じ神であり』、『これを〈宿神〉と表記した文献もある』と出る。

「肥前黑髮山下の梅野座頭」現在の佐賀県の西部に位置する武雄(たけお)市梅野(うめの)に近い黒髪山(くろかみやま:武雄市と同県西松浦郡有田町の市町境にある。標高五一六メートル)には源為朝による大蛇退治伝説があり、それには梅野村に住んでいた海正坊或いは梅野座頭と称された盲目僧が絡んでいる。古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「為朝の大蛇退治」に詳しい。但し、彼は神主よりも僧の印象の方が強い。]

 廣益俗説辨の著者は熊本のであるが、景淸盲目の談を説明して斯んなことを言つて居る。曰く景淸が盲になつたのは、痣丸といふ太刀を帶びて居た故である、其後も此太刀を帶せし者は皆眼しひたりといふ云々とある。即ちかの地方の座頭等の間には、東へ來ると通用し難いやうな、色々な昔語が行はれて居たので、景淸の眼を抉つて再び生じたといふ神德は勿論、同じく八幡神に附隨して今も祭らるゝ後三年役の勇士の話なども、自分は却つて當初あの方面に於て醞釀したのでは無いかとさへ思ふのである。痣丸の太刀のことは謠の大佛供養に見えて居る。彼曲には母を若草山の邊にたづねて、やはり親子が再會したことを述べて居るが、人丸も無く阿古屋も無く、又目を潰したといふ話も無く、單に此太刀に由つて呪術を行ひ、霧に隱れて虛空に消え去つたといふのみである。併しそれも是も景淸といふが如き一小人物を、英雄として取扱ふ習ひある遊藝團が無かつたならば、恐らく民問文藝の題目となる機會無く、又信仰を背景とした或勢力が無かつたら、是だけの流傳を望むことは難かつたので、即ち又平家の哀曲と共に、遠く其淵源を京以西の地に尋ねなければならぬ所以である。

[やぶちゃん注:「廣益俗説辨」神道家で国学者の井澤長秀(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)が書いた考証随筆「広益俗説弁」(全四十五巻・正徳五(一七一五)年~享保一二(一七二七)年)は江戸時代非常によく読まれ、後の読本の素材源ともなったが、井澤は肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子で、「肥後地志略」などの地誌なども著わしている。

「痣丸」「あざまる」。

「あの方面」無論、地理的な西日本を指すが、同時に視覚障碍者の集団内、当道内のニュアンスも含む謂いと私は読む。

「醞釀」「うんぢやう(うんじょう)」と読み、原義の酒を醸(かも)す(醸造する)ことから転じて、人の心の中である思いが徐々に大きくなってことを意味する。

「謠の大佛供養」「謠」(うたひ(うたい))、謡曲の「大佛供養」は景清が京の清水寺へ参詣、大和国春日の里(若草山直近)に住む母を訪ねる。そこで母から旧主平家の仇敵頼朝が東大寺大仏殿を再建、大仏供養を行うということを聴き及んで、その大仏殿供養の折りに頼朝の命を狙う企てを起こす。母への別れを告げ、景清は春日の宮人に変装、頼朝に近づくも、装束の脇から鎧の金物が光ったを怪しまれて警固の武士に見破られ、自ら「平家の侍惡七兵衛景淸にて候」と名乗りを挙げ、若武者一人を切り伏せただけで姿を消すという筋である。]

 所謂光孝天皇第四の皇子の口碑は、亂暴には相異ないが彼等の大切なる家傳を、出來るだけ史實に接近しようとした努力と見れば解せられる。即ち祖神が神子であり、從つて最も惠まれたる者であつたことを述べるのは、すべての宗教に共通した宣傳法である。その單純にして自然に巧妙たるものが感動を與へて記錄せられ、しかもそれが時代と共に推移つた故に、終には相牴觸して分立してしまふのである。之を本の形に復原して見ようとする場合に、後に取附けたる固有名詞に拘泥することは誤りである。先づ共通の趣旨ともいふぺきものを見出すべきである。

[やぶちゃん注:「神子」「みこ」。

「推移つた」「うつつた」(うつった)。

「牴觸」「抵触」に同じい。]

 けだし眼を傷けた者が神の御氣に入るといふ類の話だけならば、代々盲目又は片目の一人が社に事へて居る間には、自然に發生し又成長變化したかも知らぬが、それだけでは何故に最初其樣な不具を神職に任することにしたかゞ證明せられず、且つ其祖神が特に荒々しく勇猛であつたかが分らぬ。然るに一方には天神寄胎の神話の一つに天目一神の御名があり、それと同名の忌部氏の神は作金者であつた。即ち太古以來の信仰の中に、既に目一つを要件とする場合があつたのである。宇佐の大神もその最初には鍛冶の翁として出現なされたと傳へられる。而うして御神實(おんかみだね)は神祕なる金屬であつた。譽田別天皇を祭り奉るといふ説が本社に於て既に確定して後まで、近國の支社には龍女婚姻の物語又は日の光の金箭を以て幼女を娶つた物語を存して居た。さうして近代まで用ゐられた宇佐の細男舞の歌には、播磨風土記と同系の神話を、暗示するやうな詞が殘つて居たのである。

   いやあゝ、ていでい、いそぎ行き、濱のひろせで身を淨めばや

   いや身を淸め、ひとめの神にいく、いやつかいやつかまつりせぬはや

即ち此社に於ても本は天の目一つの信仰があつた故に、關東地方からやつて來て權五郎景政が諸處の八幡社を創建し、又惡七別當が目を抉つて、後に大神の恩德を證明することになつたのでは無いかと思ふ。

[やぶちゃん注:「宇佐の大神もその最初には鍛冶の翁として出現なされた」ウィキの「宇佐神宮によれば、社伝等によれば、欽明天皇三二(五七一)年に宇佐郡厩峯(うさのこおりまきのみね)と菱形池(ひしがたいけ)の間に鍛冶翁(かじのおきな)が降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると、それが三才の童児となって、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(ほむたのすめらみことひろはたのやはたまろ:「譽田天皇」は応神天皇の諱。本文にも出る「誉田別」(ほむたわけ)も同じ)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある、と記す。

「御神實(おんかみだね)」文庫版全集では『おんかみざね』とルビを変えてある。

「金箭」暫く「かなや」と訓じておく。

「細男舞」「せいのをまひ」(せいのおまい)。古舞の一種で「さいのうのまい」「くわしおのまい」とも読み、「才男」「青農」などとも記す。春日若宮の御祭(おんまつり)では白い衣を着し、白い布で顔を覆った六人(笛二人・腰前に下げた鼓二人・所作二人)によって演じられる。春日若宮のものではあるが、それについて作曲家「平野一郎のブログ」の八幡巡礼 〜石清水の、細男舞〜に、このかなり奇体な舞は、『八幡愚童訓(ハチマングドウクン)等に記された安曇磯良(アズミノイソラ)の伝説に由来する』とされ(改行部を続けた)、『神功皇后が三韓征伐に際して、安曇磯良に海道案内を命じる。永年海中に棲み、一面貝殻だらけの醜い顔を恥じる磯良、俄には応じない。そこで皇后は策を凝らし、海の上にて磯良の好む神楽を奏したところ、磯良は己の顔を袖で隠しつつも、奇妙な舞を舞いながら、ゆっくりと海中より浮上してきた。その磯良の舞こそが、細男舞である』述べておられる。非常に、興味深い。]

 生目八幡は日向以外に、豐後にも薩摩にもあつた。さうして眼の病を禱る八幡はそればかりでは無いのである。さういふ幽かな名殘を止むるのみで、今は由緒の傳へらるゝものが無くとも、之を盲人の神に仕へた證據とすることは、もう許されるであらうと思ふ。ただ彼等が自ら進んで其目を傷ける風習が、いつ頃まで保たれて居たかは問題であるが、遺傳の望まれない身僣の特徴に由つて、或特權を世襲せんとすれぱ、世俗的必要からでも或はその儀式を甘受したかも知れぬ。若くは景淸の物語のやうに、目の復活の芝居を演じて居たか。兎に角に人の生牲といふことは放生會などよりも逢か前から、單に前半分だけを保存して後の半分は省略して居たから、一層古代の言ひ傳へが誇張せられたものと思ふ。「若宮部と雷神」の一章にも述ベた如く(二) 御靈の猛惡を怖るゝ風が強くなつて、若宮の思想は一變してしまひ、其上に實在の貴人を以て祭神と解する世になると、かの童貞受胎の教義も片隅に押遣られたが、幸ひにして御靈は本來神の子又は眷屬となつた人間の靈魂を 意味したといふことが、目一箇神の一片の舊話から窺ひ知られるのである。加藤博士の如く粗末に此資料を取扱ふのはよくないと思ふ。

[やぶちゃん注:「加藤博士」既注であるが、再掲する。宗教学者で文学博士の加藤玄智(げんち 明治六(一八七三)年~昭和四〇(一九六五)年)。陸軍士官学校教授を経て、母校東京帝国大学助教授。後に国学院大教授などを歴任し、宗教学・神道学を講義した。これ彼の、金属神の天津麻羅(あまつまら:「古事記」にのみ登場する鍛冶神)を念頭に置いて物を生み出す男性器(マラ)から天目一箇神を一つ目(片目)と見る説を述べた「天目一箇神に関する研究」での当該資料の扱い方を指すか。]

 話が長くなつたがもう一言だけ述べて結末をつける。後代化物の「目一つ五郎」とまで零落した御靈の一つ目と、魚の片目との閥係があることを證するのは、源五郎といふ鮒の名である。近江の湖岸にも魚を生牲とする祭式は多く殘つてゐるが、遠く離れて奧州の登米郡などにも、錦織源五郎鮒を近江より持つて來た口碑があつて(三) しかも方々の神池の鮒は紗目である。其中でも上沼村八幡山の麓の的沼といふ沼の鮒は、八幡太郎の流鏑馬の箭が水に落ちて、目を傷けてから今以て皆片目になつたといふ。日向の都萬神社で神の帶びたる玉の紐落ちて鮒の目を貫くといひ、加賀の橫山村の賀茂神社では汀の桃墜ちて鮒の目に當るとつたことは、曾て片目魚考の中に述べたから細説せぬ(四)其他各地の神社佛閣に武士獵人の箭に射られた、或は雞に蹴られたなどゝいつて、現に尊像の眼の傷ついたものが多いのは、到底一つ一つの偶然の口碑で無いことも明らかである。世相が一變すると僅かな傾向の差によつて、これが逆賊退治惡鬼征服の別腫の傳説にもなり得たことは、則ち亦御靈信仰の千年の歷史であつた、時代の推移を思はない人々には、古史の解説を托すべきで無いと思ふ。

[やぶちゃん注:「登米郡」「とめぐん」は現在の宮城県登米市の大部分に相当する。文庫版全集は古称である「とよま」と当てるが、明治一一(一八七八)年の郡区町村編制法の宮城県での施行の際に郡名の読みを「とよま」から「とめ」に改めており、執筆時期よりもさらにこれは遡る改名であるから正しいルビではない。口碑が伝わった頃は確かに「とよま」ではあったとしても、学術論文としては誤り或いは不適切なルビである。

「錦織源五郎」「にしこりげんごろう」は近江琵琶湖の源五郎鮒の名称由来説の一つに出る人物の名。ただの漁師とも、佐々木家或いは六角家家家臣ともする。

「上沼村八幡山の麓の的沼」現在の宮城県登米市中田町上沼字八幡山に義家所縁の八幡神社が現存し、地図で見ると、比較的近くに池(二箇所)はあるが、それがこの「的沼」かどうかは不明。

「日向の都萬神社」一目小僧(十六)に既注。

「加賀の橫山村の賀茂神社」同じく一目小僧(十六)に既注。]

(一) 故栗田博士の古謠集に、豐前志から採錄して居る。尚同じ集には玉勝間から、肥後の神樂歌として次の一章を引いて居る。

    一目のよとみの池に舟うけて のぼるはやまもくだるはやまも

此「一目」亦目一つ神であらう。

[やぶちゃん注:「故栗田博士」歴史学者で元東京帝国大学教授の栗田寛(天保六(一八三五)年~明治三二(一八九九)年)であろう。書誌に彼の編に成る「古謠集」の書名を見出せる。

「豐前志」幕末から明治期の国学者渡邊重春の著。

「玉勝間」国学者本居宣長が寛政五 (一七九三) 年から没年の享和元(一八〇一)年にかけて執筆した考証随筆。

「よとみの池」「世止命の池」。現在の熊本県山鹿(やまが)市久原(くばる)字薄野(すすきの)にある薄野一目神社境内後方に現存する。個人サイト「玄松子の記憶」の薄野一目神社を参照のこと(当該サイトでは神社名を「うすのひとつめ」と訓じているが、別サイトでは「すすきの」と地名と同じ読みをしている。孰れが正しいかは不祥)。]

(二) 「民族」二卷四號。

[やぶちゃん注:この「若宮部と雷神」なる論文は、柳田が主要論文「妹の力」や「桃太郎の誕生」でも言及する自分の論文であるが、筑摩文庫版全集には所収しない。]

(三) 登米郡史に依る。

[やぶちゃん注:藤原相之助等編「登米郡史」「とめぐんし」(大正一二(一九二三)年登米郡刊)。]

(四) 郷土研究四卷六四七頁。

[やぶちゃん注:「片目魚考」という名の論文はないが、これは大正六(一九一七)年二月の『郷土研究』の載せた「片目の魚」のことであろう。それならば、向後に電子化する予定でいる。]

        (昭和二年十一月、民族)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは底本では下一字上げインデント。]

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