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2016/06/27

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(8) 三月十八日

     三月十八日

 

 人麿が柿本大明神の神號を贈られたのは、享保八年即ち江戸の八代將軍吉宗の時であつた。その年の三月十八日には人麿千年忌の祭が處々に營まれて居る。即ち當時二種あつた人麿歿年説の、養老七年の方を採用したので、他の一説の大同二年では餘に長命なるべきを氣遣つたのである(一) 月日に就ても異説があり、些しも確かなることでは無かつた。「續日本記を見れば光仁天皇の御宇三月十八日失せたまふと見えたり」と、載恩記に言つて居るのは虛妄であるが、「まことや其日失せたまふよしを數箇國より内裏へ、同じ樣に奏聞したりといへり」とあるのは、筆者の作り事では無いと思ふ。即ち何れの世かは知らず、相應に古い頃から此日を人丸忌として公けに歌の會をお催し、又之に件なうて北野天神に類似した神祕化が流行したらしいのである(二)

[やぶちゃん注:「享保八年」一七二三年。

「當時二種あつた人麿歿年説」多くが生没年不詳とする。「ブリタニカ国際大百科事典」は生年は不詳とし、没年を和銅元(七〇八)年頃とする。ウィキの「柿本人麻呂」では斉明天皇六(六六〇)年頃 を生年とし、「日光山常行三昧大過去帳」により、神亀元(七二四)年三月十八日を没年月日とする。諸説では生年は大化元(六四五)年前後と見るものが多い。

「養老七年」七二三年。試みに大化元年生年説によるならば享年七十九歳となる。

「大同二年」八〇七年。試みに大化元年生年説によるならば享年百六十三歳の化け物となる。

「光仁天皇の御宇」光仁天皇の在位は宝亀元(七七〇)年十月~天応元(七八一)年四月である。試みに大化元年生年説によるならば享年百十一~百三十七歳のやはり化け物となる。

「戴恩記」「たいおんき」と読む。前章で注したが、再掲して置おくと、松永貞徳著の歌学書。全二巻。正保元(一六四四)年頃に成り、天和二(一六八二)年に刊行された。著者の師事した細川幽斎・里村紹巴らの故事やその歌学思想を平易に述べたもの。]

 そこで自分が問題にして見たいのは、假に人丸忌日は本來不明だつたとして、誰が又どうして之を想像し若くは發明したかといふことである。誰がといふことは結局我々の祖先がといふ以上に、具體的には分らぬかも知らぬが、如何にしてといふ方は、今少し進んだことが言ひ得る見込がある。我邦の傳説界に於ては、三月十八日は決して普通の日の一日ではなかつた。例へぱ江戸に於ては推古女帝の三十六年に、三人の兄弟が宮戸川の沖から、一寸八分の觀世音を網曳いた日であつた。だから又三社樣の祭の日であつた。といふよりも全國を通じて、是が觀音の御緣日であつた(三) 一方には又洛外市原野に於て、此日が小野小町の忌日であつた。九州のどこかでは和泉式部も、三月十八日に歿したと傳ふるものがある。舞の本の築島に於て、最初安部泰氏の占兆に吉日と出たのも此日であり、さうかと思ふと現在和泉の樽井信達地方で、春事(はるごと)と稱して餅を搗き、遊山舟遊をするのも此日である(四) 曆で日を算へて十八日と定めたのは佛教としても、何か其以前に暮春の滿月の後三日を、精靈の季節とする慣行は無かつたのであらうか。

[やぶちゃん注:「推古女帝の三十六年」推古天皇の没年。単純比定ではユリウス暦六二八年。

「宮戸川」「みやとがは(みやとがわ)」は浅草周辺流域の現在の隅田川の旧称。

「一寸八分」約五センチ五ミリ。

「三社樣」江戸時代までの現在の浅草神社と金龍山浅草寺(せんそうじ)の習合した祭り。前の兄弟の引き上げた観音像が浅草寺本尊(聖観音像)となったとされる。

「市原野」「いちはらの」は現在の京都市左京区中西部の一地区名。「櫟原野」とも書く。鞍馬寺参詣の鞍馬街道に沿い、早くから開けた。小野小町終焉の地と伝えられる小野寺(補陀洛(ふだらく)寺)が現存する。

「舞の本の築島」中世室町期の芸能の一種であった幸若舞曲(現在、五十曲余りが伝わる)の中から歌謡的部分を抜き出したいわゆる幸若歌謡集の一種に載る「築島(つきしま)」。現在の神戸市兵庫区南部の兵庫津に清盛が日宋貿易の拠点として大輪田泊を築港するが、その前面の防波堤とするための島を築き、船を風から守ろうとし、その人工島を「経(きょう)ヶ島」と呼ぶ(当時、築かれたとする詳しい場所は不明で、実際には源平争乱によって着手されなかったというのが定説)が、この「島」を「築」く当たって生まれた人柱伝承に基づく曲である。捕らえられた人柱の一人国春とそれを助けようとする娘名月女(めいげつにょ)、三十人の人柱の身代わりとなって経とともに海へ沈む松王という少年などが登場するという(神戸市の公式サイト何内の神戸市立中央図書館総務課作製になる「平清盛と神戸 経ヶ島(きょうがしま)」に拠った)。

「安部泰氏」「あべのやすうぢ」(あべのやすうじ)。先の幸若舞「築島」で清盛に人柱の投入を進言する陰陽師の名。

「占兆」「せんて(せんちょう)」或いはこれで「うらかた」とも読む。占いに表れた徴(しる)しのこと。

「和泉の樽井信達地方」現在の大阪府南部の泉南市樽井(たるい)及び信達(しんだ)地区。

「春事」「はるごと」。地方によっては「事祭(ことまつり」「事追い祭り」「十日坊」などとも称し、関西・中国地方で三~四月頃に行われる春の民間の祭り。餅を搗いて各家庭で御馳走を食べ、軒に箸 の簾(すだれ)を吊るしたりする。]

 此間も偶然に謠の八島を見て居ると、義經の亡靈が昔の合戰日を敍して元曆元年三月十八日の事なりしにと言つて居る。是は明かに事實で無く、又觀音の因緣でも無い。そこで立戾つて人丸の忌日が、どうして三月十八日になつたかを考へると、意外にも我々が最も信じ難しとする景淸の娘、或は黍畑で目を突いたといふ類の話に、却つて或程度までの脈絡を見出すのである。舞の本の景淸が淸水の遊女の家で捕はれたのは三月十八日の賽日の前夜であつたが、是は一つの趣向とも見られる。併し謠の人丸が訪ねて來たといふ日向の生目八幡社の祭禮が、三月と九月の十七日であつたゞけは(五) 多分偶合では無からうと思ふ。それから鎌倉の御靈社の祭禮は、九月十八日であつた(六) 上州白井の御靈宮緣起には、權五郎景政は康治二年の九月十八日に、六十八歳を以て歿すと謂つて居る。

[やぶちゃん注:「八島」世阿弥作の「平家物語」に取材した謡曲で複式夢幻能・修羅能の名作とされる。ウィキの「八島」によれば、旅の僧が讃岐八島(現在の高松市の東北に位置する南北に長い台地)の浦で『漁師にであう前段、漁師がきえた後、僧がその不思議を土地の住人にたずねる間狂言部分、主人公義経が生前の姿であらわれる後段の三部構成をとる』とある。より詳しい梗概はリンク先を参照されたい。

「義經の亡靈が昔の合戰日を敍して元曆元年三月十八日の事なりしにと言つて居る」元曆元年はユリウス暦一一八四年であるが、実際の屋島の戦いは翌元暦二年/寿永四年の二月十九日(一一八五年三月二十二日)に行われている。

「舞の本の景淸が淸水の遊女の家で捕はれた」平家の遺臣藤原悪七兵衛景清が信仰していたのが京の清水寺の観音菩薩であったが、清水坂近くの馴染みの遊女阿古王(あこおう)に密告されて捕縛されてしまう。

「賽日」「さいにち」。ここは広く神仏に御礼参りをする日のこと。

「日向の生目八幡社」現在の宮崎県宮崎市大字生目小字亀井山にある生目(いきめ)神社。景清公を主祭神とする。詳しくはウィキの「生目神社」を参照されたい。

「鎌倉の御靈社の祭禮は、九月十八日」現在も奇祭面掛行列を含む例祭は九月十八日に行われている。

「上州白井の御靈宮」「神片目」で推定した群馬県伊勢崎市太田町にある五郎神社のことか。

「權五郎景政は康治二年の九月十八日に、六十八歳を以て歿す」康治二年は一一四三年。逆算すると承保三(一〇七六)年生まれとなる。「奥州後三年記」で十六歳の頃、後三年の役(一〇八三年 ~一〇八七年)に従軍したことになっているのからはズレが生ずる。]

 私は今少しく此例を集めて見ようとして居る。若し影政影淸以外の諸國の眼を傷けた神神に、春と秋との終の月の缺け始めを、祭の日とする例が尚幾つかあつたならば、歌聖忌日の三月十八日も、やはり眼の怪我といふ怪しい口碑に、胚胎して居たことを推測してよからうと思ふ、丹後中郡五箇村大字鱒留に藤社(ふじこその)神社がある、境内四社の内に天目一社があり、祭一は天目一箇命といふ。さうして此本社の祭日は三月十八日である(七) 今まで人は顧みなかつたが、祭の期日は選定が自由であるだけに、古い慣行を守ることも容易であり、之を改めるには何かよくよくの事由を必要とし、且つそんな事由は度々は起らなかつた。故に社傳が學問によつて變更せられた場合にも、是だけは偶然に殘つた事實として、或は何物かを語り得るのである。

[やぶちゃん注:「後中郡五箇村大字鱒留に藤社(ふじこその)神社がある」現在の京都府京丹後市峰山町鱒留に現存する。名前は勿論、非常な古社である点など、かなり興味深い神社である。Kiichi Saito氏のサイト「丹後の地名・資料編」の鱒留ますどめ) 京丹後市峰山町鱒留の考証が非常に興味深い。]

(一) 大同二年八月二十四日卒すといふ説は、何の書にあるかを知らぬが、滑稽雜談と閉窓一得とに之を引用して居る。共に一千年忌より少し前に出來た本である。鹽尻卷四七には此年七月十日、竹生島に人丸の靈を崇むとある。大同二年は寺社の緣起や昔話に最も人望のある年であつたことは誰でも知つて居る。

[やぶちゃん注:「鹽尻」「しほじり(しおじり)」は江戸中期の随筆。国学者天野信景の著を、天明二(一七八二)年に尾張藩士で国学者・俳人でもあった堀田方旧(ほったまさひさ)が編んだもの。 全百巻。元禄から宝永頃に著者が和漢古今の書を引用して史伝・神仏の由来・地理・言語・風俗などについて広汎に渉猟・考証したもの。

「大同二年は寺社の緣起や昔話に最も人望のある年」ウィキの「807に、『円仁や空海、坂上田村麻呂に関連した伝承で、この年号がよく使われる。空海が日本に帰国した年がこの年と言われることも多いが、史実としてはっきりとしない』とあり、また、『東北各地の神社の創建に関する年号はこの年とされる。茨城県の雨引千勝神社の創建はこの年である。早池峰神社、赤城神社なども同様である。また福島県いわき市の湯の嶽観音も、この年の』三月二十一日に『開基されたとある。清水寺、長谷寺などの寺院までこの年に建てられたとされ、富士山本宮浅間大社も、大鳥居の前に堂々と大同元年縁起が記載されている。香川県の善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上がこの年である。各地の小さい神社仏閣にいたるまで枚挙にいとまがないほど』、大同二年『及び大同年間はそれらの創建にかかわる年号である』とある。]

(二) 日次記事三月十八日の條には、古いへ官家御影供を修す、今に於て和歌を好む人々、多く斯日歌會を修すとある。徹書記物語はまだ讀む折を得ないが、更に三百年前の書であるのに、やはり昔は此日和歌所にて歌會があつたと記して居るさうだ。

[やぶちゃん注:「日次記事」「ひなみきじ」と読む。江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書。十二巻。儒学者で医師であった黒川道祐(くろかわどうゆう)の編で、延宝四(一六七六)年の林鵞峰(はやしがほう)の序がある。月ごとに日を追って、節序・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立て、行事の由来や現況を解説してある。

「御影供」「みえく」「みえいく」などと読む。一般には仏教での儀式名で、祖師の命日にその図像 (御影) を掲げて供養する法会(ほうえ)。代表的なものに真言宗祖弘法大師御影供があり、毎月二十一日に行う法会を「月並御影供」、三月 二十一日の法会を「正(しょう)御影供」というが、ここは明らかに歌聖柿本人麻呂の図像を掲げて行う歌道のそれである。

「斯日」「そのひ」文庫全集版に準じて、かく訓じておく。

「徹書記物語」「てつしよきものがたり」は歌論書「正徹物語(しょうてつものがたり)」のこと。二巻。前半(「徹書記物語」とも)は室町中期の臨済僧で歌人としても知られた正徹自身が、後半は弟子の聞書と考えられている。文安五(一四四八)年頃又は宝徳二(一四五〇年)頃の成立。歌論と歌話を集成したもので、藤原定家に対する傾倒が著しく、その幽玄論は重要な影響力を持った(ウィキの「正徹物語に拠った)。]

(三) 但し何故に三月の十八日が、觀音にさゝげてあるかは私にはまだ明白でない。

(四) 郷土研究四卷三〇二頁。

(五) 太宰管内誌に依る、但し和漢三才圖會には此地に景淸の墓あり、水鑑景淸大居士建保二年八月十五日と記すとある。八月十五日は八幡社放生會の日である、熱田の景淸社も例祭は九月十七日である。

[やぶちゃん注:「太宰管内誌」福岡の鞍手郡古門村古物神社の神主伊藤常足が天保九(一八三八)年に完成させた、九州及び壱岐・対馬の地誌。全八十二冊。

「建保二年」一二一四年。これはお話にならない。]

(六) 但し景政で無い京都の上下御靈も、有名なる御靈會の日は昔から八月十八日であつた。大阪の新御靈は鎌倉から迎へたといふが、祭禮は九月二十八日であつた。

(七) 丹後國中郡誌稿。

[やぶちゃん注:「丹後國中郡誌稿」大正三(一九一四)年京都府丹後国中郡役所編。]

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