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2016/06/01

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 可能

 

       可能

 

 我々はしたいことの出來るものではない。只出來ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社會も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出來なかつたであらう。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「親子」全四章と、後の「ムアアの言葉」「大作」「わたしの愛する作品」の全八章で初出する。冒頭の「我々」はママ(他の二箇所は「我我」であるのに、である)。

 ここまでで「侏儒の言葉」は八十三章(「又」を一回に数えて)になるが、私は幸いと言うか、ただのマニアックな拘りというか、まだ一度も書誌情報だけで注せずに阿呆のように、この『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)』を掲げたことは、ない。しかし、私はこの語注も不要に見える、分かり切ったアフォリズムを書誌情報のみで終わらせて次に流そうとも思ったものである。しかし、どうも気になる。このアフォリズムは、言わずもがなであるが、

 

○「我々はしたいことの出來るものではない。」

●「我々」という存在は何人(なんぴと)も――「したいこと」――やりたいこと、願望し、熱望すること――を人生に於いて実現「出來る」存在ではない。

○「只出來ることをするものである。」

「我々」という存在は何人(なんぴと)も――ただ「出來ること」――「した」くもない「こと」、やりたくないこと、これっぽちっも望んでなどはいないこと――を人生に於いて成している存在である。

○「これは我我個人ばかりではない。我我の社會も同じことである。」

●このまことに残念なおぞましい事実は「我我個人ばかり」に見られる事実ではない。「我我の社會も同」様で、現実社会国家というものも、ただ「出來ること」――「した」くもない「こと」、やりたくないこと、「社會」を構成している誰一人として、これっぽっちも望んでなどはいないこと――をやっているのである。

○「恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出來なかつたであらう。」

●そうしてその命題は社会国家からより外縁へと敷衍されるであろう。即ち――この世界宇宙を塑像した「神」でさえ「も」、「希望通りに」は「この世界を造ることは出來なかつた」――「神」は創「造」したくもない世界を、「造」りたいなんぞとは微塵も思いもしなかった宇宙を、たまたま――ただ「出來ること」を成すのみである――というこの蒼ざめた真理に基づいて創「造」したに過ぎなかった――という真理である。

 

という極めて救いがたい厭世主義として読める。ところが、ふと気がつくと、この原理は既に提出された「親子」の個別命題にフィード・バックするように読めるのである(この号は巻頭が前の「親子」全四章でその後にこのアフォリズムが来る)。謂い方を変えるなら、帰納法的にこの「可能」の真理命題が引き出されるかのように龍之介は書いていると言えるのではあるまいか?

 試みに煩を厭わず、「親子」と「又」「可能」を総て「*」に代えて再現してみる。

 

   *

 親は子供を養育するのに適してゐるかどうかは疑問である。成程牛馬は親の爲に養育されるのに違ひない。しかし自然の名のもとにこの舊習の辯護するのは確かに親の我儘である。若し自然の名のもとに如何なる舊習も辨護出來るならば、まづ我我は未開人種の掠奪結婚を辨護しなければならぬ。

   *

 子供に對する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に與へる影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。

   *

 人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる。

   *

 古來如何に大勢の親はかう言ふ言葉を繰り返したであらう。――「わたしは畢竟失敗者だつた。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」

   *

 我々はしたいことの出來るものではない。只出來ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社會も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出來なかつたであらう。 我々はしたいことの出來るものではない。只出來ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社會も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出來なかつたであらう。

 

これを、最後の「可能」の命題を用いて私なりに書き直してみるならば、

 

【「親子」第一章】「親は子供を養育するのに適してゐるかどうかは疑問である」。何故なら、「子供を養育」したいと思って子供を産んだのではないからである。我々は「只出來ることを」した結果として子供を産んだに過ぎないからである。「未開人種の掠奪結婚」に象徴されるような性的欲求の充足の結果として子供は生まれるとも言える。「これは我我個人ばかりではない。我我の」現代「社會も同じことである」。《但し、芥川龍之介の名誉のために言っておくと、「未開人種の掠奪結婚」は人間の獣性の単なる比喩に過ぎない。寧ろ、私などは、生物学的遺伝学的に考えるならば、同族内による繁殖は滅亡に至るリスクが一気に高まるから、後世の下らぬ倫理などを無視するならば、他の族からの掠奪婚の有用性を、私は「辯護」することが出来ると言える。なお、ここで殊更に龍之介が「牛馬」を出すのは、子が親の使役の道具として生まれさせられ、将来の親の養育という使役に駆り立てられることを隠喩しているようにも私には読めることをここで言い添えておく》

【「親子」第二章】「「我々はしたいことの出來るものではない。只出來ることをする」のみである。その結果として、自らの腹を痛めて生んだ「子供に對」して、「母親」というものは、ある意味、最も不可思議な心性を持つものである。即ち、彼女が捧げるところの「最も利己心のない愛」である。「が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に與へる影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかであ」って、結果として「子」自身の不幸、或いは「我我の社會」にとって甚大な禍(わざわ)いとなる。「最も利己心のない愛」という神聖な「愛」が、個人はおろか、「社會」国家も宇宙までも滅亡の危機に陥れる虞れがあるとしたら――それはまさに「神も希望通りにこの世界を造ることは出來なかつた」という命題が真であることの証しと言えるのである。

【「親子」第三章】「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる」。何故なら、「我々はしたいことの出來るものではない。只出來ることをするもの」だからである。子が生まれて親となった時、「子」の方は、小説「河童」で私芥川龍之介が皮肉に描いた如く、自身の生まれたいという願望に従って生まれたのではない、という厳然たる事実がある。また、「親」は、現象としては性行為という性的欲求の充足の結果として「子」が出現した。それを「養育」すれば、将来の自身を「養育」してくれる、するのが当たり前である、それが「只出來ることをする」しかない我々人間「社會」の常であるからである。そうした荒涼たる景色の中には互いに笑い合うようなことは一時だに存在しない。だからこそ「人生」そのものが壮大で退屈な、しかも窮屈な椅子に縛り付けられて見続けなければならぬ「悲劇」なのである。

   *

【「親子」第四章】「我々はしたいことの出來るものではない。只出來ることをするものであるこれは我我個人ばかりではない。我我の社會も同じことである」。いや、「恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出來なかつた」のである。だからこそ、「古來」、「大勢の親は」、『わたしは畢竟失敗者だつた。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。』」と「言ふ言葉を繰り返」さざるを得なかったのである。そんな見当違いの誤った、誰にも――神にも――実現不可能な絶望的な願望を抱かねばならぬ/その願望を義務として背負わされる対象者とならねばならぬからこそ、「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる」とも言えるのである。

 

となろう。

 いや――そうして――そうして私が今回、驚愕したのはこの、標題である。「可能」というそれである。

 芥川龍之介はその遺書(私の二〇〇九年に作成した「芥川龍之介遺書全六通 他 関連資料一通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」で全文が読める)の『□4 「わが子等に」遺書』の末尾を次のように擱筆している。因みに、龍之介の自死は昭和二(一九二七)年七月二十四日未明で、本章の発表から二年半後のことである。

 

八汝等の父は汝等を愛す。 (若し汝等を愛せざらん乎、 或は汝等を棄てて顧みざるべし。 汝等を棄てて顧みざる能はば、 生路も亦なきにしもあらず)

 

要らぬことかも知れぬが、敢えて口語訳しておこう。

 

第八条 お前たちの父である私は、お前たちを愛している。(もし、お前たちを愛していなかったとしたなら、或いは、お前たちを棄てて一顧だにしないことも可能であろうお前たちを棄てて顧みぬことが可能であるとしたならば、或いは生き残る道もまた、ないわけではない、のである)

 

……私が戦慄した意味が、諸君にもお分かり戴けるものと信ずる。…………]

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