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2016/06/22

ブログ830000アクセス突破記念 火野葦平 水紋

[やぶちゃん注:従来通り、火野葦平(明治四〇(一九〇七)年~昭和三五(一九六〇)年)がライフ・ワークとした河童を主人公とした原稿用紙千枚を越える四十三篇からなる四季社より昭和三二(一九五七)年に刊行されたものを昭和五九(一九八四)年に国書刊行會が復刻し、平成一一(一九九九)年に新装版として再刊された正字正仮名版を底本として用いた。明らかに戦中を舞台としていることは分かるが、調べてみると、実際の執筆自体が昭和一七(一九四二)年であることが判明した。この時に、これを書いた火野葦平を、何か今、私は、内心忸怩たる思い出、しみじみ読んだ。

 「小倉にある陸軍橋からすこし上流の紫川」と出るので、ロケーションは実在する。紫川(むらさきがわ)は現在の福岡県北九州市小倉南区及び北九州市小倉北区を流れる二級河川であるが、ここに出るのは小倉駅南西一キロほどの地点に架かる「鉄の橋」、正式名を河川名を持った「紫川橋」の旧通称「陸軍橋」である。

 「遊弋」(ゆうよく)は、一般には艦船が水上をあちこち動き回って敵に備えることであるが、それに喩えて鳥魚などがあちこち動き泳ぎ回ることを言う。

 「山田の曾富騰(そほと)」大国主の国造り神話に登場する神の名で、一般には「山田の案山子」の濫觴とされる神、久延毘古(くえびこ)である。ウィキの「久延毘古によれば、「古事記」によると、『大国主の元に海の向こうから小さな神がやって来たが、名を尋ねても答えず、誰もこの神の名を知らなかった。するとヒキガエルの多邇具久』(たにぐく)『が「久延毘古なら、きっと知っているだろう」と言うので、久延毘古を呼び尋ねると「その神は神産巣日神の子の少彦名神である」と答えた』とある神である。さらに「古事記」ではこの「久延毘古とは『山田のそほど』のことである」と説明されており、『「山田のそほど」とはかかしの古名であり、久延毘古はかかしを神格化したもの、すなわち田の神、農業の神、土地の神である。かかしはその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった』とある。「くえびこ」と河童を結びつける説は必ずしもポピュラーなものとは思われないが、「くえびこ」は「崩え彦」「朽ち腐り果てた男」であり、水死体を思わせる生臭い河童のしれとは親和性があるように思われてならない。

 本テクストは本日、2016年6月23日に2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログが830000アクセスを突破した記念として公開する。 藪野直史]

 

 

   水紋

 

 曇つた日にはよくわからないが、晴れた日に、川の水面を透(す)かしてみると、恰度(ちやうど)、一錢白銅を浮かべたやうに、そこだけ丸く光つてゐる部分のあることに氣づくことがある。それはひとつの場合もあり、數個のときもあり、また、あられ模樣のやうに數をかぞへることのできない折もある。また、さめ小紋に似てあまり密集してゐるので、かへつて、それと氣づかないことも珍しくない。なほ、よく氣をつけてみると、それは小さい渦のやうに、つねに𢌞つてゐる。さういふものを、水面に認めた場合には、その下に河童が居るものと考へてよい。しかし、河童が水中に居れば、そのまうへの水面にさういふ標識があらはれるといふことは、河童自身は知らないのである。もつともすべての河童がさうであるといふのではなく、種族によつてその標識をあらはさないものもある。河童は種族によつてその出生の歷史を異にしてゐることは周知の事實であるが、その水紋をあらはすものは、概して出のよい種族の場合が多い。壇の浦に沈んで亡びた平家の末裔(まつえい)が、男は蟹となり女は河童となつたことは有名な話であるが、われわれは關門海峽の水面にこの水紋を發見することはたびたびである。

 ところで、あるとき、小倉にある陸軍橋からすこし上流の紫川の水面に、二十よりは少くない水紋がゆるやかに舞ひながら、冬には珍しく晴れわたつた太陽の光を受けて、鈍(にぶ)銀色に光つてゐた。しかしながら、橋を通る人も、岸を通る人も、たれひとりそれに注意する者はなく、そればかりではなく、さつきから傳馬船や、筏(いかだ)などがその水紋のうへを何度も往き來した。そこは川がすこし曲つてゐるところで、水流のあたる部分が深く底を掘り、淵のやうになつてゐる個所だ。そこへ、さつきから水紋と同じ數の河童たちが集つて、熱心になにか語り、とがつた嘴を鳴らしては悲しんだり、怒つたり、笑つたりしてゐた。

 まづ、彼等は自分たちの望みのかなはないことがなによりも遺憾に耐へぬ風であつた。彼等は地上で起つてゐることに對して、じつとしてゐることができず、自分たちもその鬪(たたか)ひに參加したいことを念願したのであるが實現きれなかつた。彼等は傳説による祖先の光榮を自負して、いささかの疑義もなく、現在の戰(いくさ)に參畫できることを信じたのであつたが、その希望は達せられなかつたのである。

 何日か前に、彼等のうらの思慮と勇氣とを有するものが提議した。

「いま、地上では壯大な戰爭が始まつてゐる。どんな意味の戰爭かは知らないが、われわれもこの國に棲む河童として、是が非でもこの戰に參加したい。きつと役に立つことができるに相違ない。われわれは傷を癒す術はもちろん、手足の落ちたのをつぐこともできる。またもつとも得意とする水中遊弋(いうよく)によつて、敵の部隊や艦隊の動靜をさぐり、また、そのほかのいかなる情報をも手に入れることができる。日淸、日露の兩役には、屋島に棲む九十六匹の狸が出陣して、功をあらはしたことも聞いてゐる。下賤なる狸ですらさうであるから、われわれがじつとしてゐるわけにはゆかない。われわれは落ちぶれたりとはいへ、祖先の名はあきらかに古事記にその名をとどめられてゐるのだ。山田の曾富騰(そほと)といへば、もとは山や田や水を治(をさ)める神であつた。殘念にも、子孫に心がけのよくないものが居つたために、山中では山わろになり、水中では河童になつたが、それはわれわれとはまつたく關係のないことだ。われわれは、心のなかではすこしも古事記の尊嚴を失つてゐないと確信してゐる。出陣しよう。そして、大いに鬪はう」

 ところが、彼等の希望はさかんなる意氣込みにもかかはらず實現しなかつた。彼等の代表が軍に申し出たところ、その志は壯とし協力の意は謝すも、日本軍は力が足りなくて、河童の應授まで受けたと思はれたくない、といふ理由で拒絶されたのである。それが、河童たちが悲しんでゐたわけである。

 怒つてゐたのは、このごろ、怪しい形のものが水中を徘徊して、水をにごすといふのである。それはごく最近氣づいたことであるが、このごろ、嘗て知らなかつた異樣の鳴き聲をときどき聞く。河童の聲はふたつの皿をたたくときに出る音に似てゐるのであるが、その間きなれぬ聲は、恰度、二本の木の板をゆるくかち合はしたときの音に似てゐて、鈍重で、卑屈に聞える。その正體をはじめは見たものがなかつたが、やがて、あるとき、勇敢なる河童がしきりに異樣な調子で鳴いてゐる聲をたよりに近づいていつてそれを捕へた。

 水面から光の透して來ない水底に、岩や木屑や竹片などの堆積(たいせき)した場所がある。さういふところに好んでその怪しい形のものは潛(ひそ)んでゐる。彼等はひつそりと靜まりかへつてはゐるのであるが、どうしたものか、しきりににぶい聲で鳴く。いくら隱れてゐても、聲を立てればそのありかがわかるのに、生まれつき暗愚なのか、また鳴かずに居られないのか、鳴く。そして、たれかが近づく氣配がすると、あわてて逃げだす。さういふ風に、暗いところばかりにゐて、臆病に逃げ𢌞ることを仕事にしてゐるので、その姿を明瞭に見たものがない。ただ、咄嗟(とつさ)に見た印象で、變てこな形のものであることだけはわかる。紫川の河童たらの間では、この怪しい闖入(ちんにふ)者が問題になり、時節柄、棄ておけないといふことになつた。

 そのとき、つひに捕へられたものははげしい聲で鳴きわめいた。彼のながす涙は水中に二本の靑い帶をながしたやうに、下流の方へのびていつた。龜にも似た身體に、棕櫚(しゆろ)のやうに長い毛をはやし、蛙のやうに臍のない褐色の腹をあふむけにして、短い手足をばたばたきせた。嘴は信天翁(あはうどり)に似、眼は深い毛にかくれて、どこにあるかわからなかつた。しかし、それがやはり河童にちがひないことだけは、頭に皿のあることによつて理解できたのである。

 やがて、謎がとけた。これらの怪しい恰好の河童たちは、どこか、遠い南の方から移住して來たのであつた。それは、南の方ではげしい戰爭が始まつて、身邊が危險になつて來たからである。彼等は安全地帶をもとめて右往左往し、つひに、この邊の川や沼に落ちついた。移住の途中でも、あるものは彈丸や爆彈にあたつて死に、あるものはあわてふためいて戰車に衝突してたふれた。長い恐しい旅であつた。彼等はまつたく一身の安全のために平穩の地を求めてやつて來たのであつて、なんら他意はなかつたのである。

 紫川の河童たらはこの寄るべない南方の河童たちを輕蔑した。同情するやうになつたのは、ずつと後のことである。輕蔑したのはその勇氣のなさと、自分のことより外にはなにも考へない態度に對してである。彼等も南方に棲んでゐたものであれば、何故、南方の國のために鬪はないのか。その土地と運命をともにしないか。さう考へたのだ。しかし、よく考へてみると、彼等が鬪つて殉ずべき國を持つてゐなかつたことがわかつた。彼等が生まれ育つたところは、彼等が祖先となんの關係もない者によつて犯されてゐる。遠くから來た皮膚の白い人間たちが、暴力と金力とをもつて、南方の島々を自由にしてゐたのだ。いかに河童が暗愚とはいへ、それらの者のために鬪ふことができようか。さう聞けばさうである。輕蔑した紫川の河童たちも、のちにはさう思ふやうになつた。

 ところが、この氣の毒な遠來の河童たちの態度は、紫川の河童たちの考へが變つてからも、すこしも變ることがなかつた。相かはらず陽の透さぬ場所にひそみ、癖になつたやうに鈍い聲で鳴き、ちよつとの物音にも逃げだしてゆく。これが紫川の河童たちが笑つてゐたわけである。

 やがて、話しつかれた河童たちが淀みの淵から出て、別れてゆくと、陽のあかるい水面を多くの鈍銀色の水紋が、風にふき散らされる花びらのやうに、散つていつた。

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