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2016/06/17

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

 

       わたし

 

 わたしは三十歳を越した後、いつでも戀愛を感ずるが早いか、一生懸命に抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必しも道德的にわたしの進步したのではない。唯ちよつと肚の中に算盤をとることを覺えたからである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年満三十二歳だった芥川龍之介は、この年の七月二十二日に初めて軽井沢の鶴屋旅館に避暑に赴いた(一ヶ月後の滞在で同年八月二十三日に田端帰着)。その七月二十七日、同じく避暑に来ていた山本有三を同地のグリーン・ホテルに訪ねて一泊した際、歌人でアイルランド文学の翻訳家であった片山廣子(明治一一(一八七八)年二月十日~昭和三二(一九五七)年三月十九日:翻訳家としてのペン・ネームは「松村みね子」。芥川龍之介より十四歳年上で当時四十六歳)と再会した。

 なお、これははっきりしておきたいのであるが、多くの資料は彼女とこの時に初めて接触したかのように記しているものが多いが、それは全くの誤りである。歌人片山廣子の第一歌集「翡翠(かわせみ)」は大正五(一九一六)年三月二十五日に佐佐木信綱主宰の結社『心の花』の出版部門である竹柏会出版部から『心の花叢書』の一冊として刊行されたが、この歌集が何らかの関係で芥川龍之介に献本されている(大正六(一九一七)年六月十日附芥川龍之介片山廣子宛礼状有り。「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡」の「書簡1」を参照されたい)。ともかくも龍之介は大正五(一九一六)年六月発行の雑誌『新思潮』の「紹介」欄に「翡翠 片山廣子氏著」という歌集「翡翠」評を書いている。この時廣子は三十九歳で夫の日本銀行重役片山貞次郎も健在、既に二人の子持ちであった。龍之介の方は二十五歳独身(但し、既に文とは婚約しており、翌年二月二日に挙式している)で、横須賀海軍機関学校英語学教授嘱託として、鎌倉和田塚(現在の鎌倉市由比ヶ浜)にあった海浜ホテル隣の野間クリーニング店の離れに下宿していた。翌七月二十四日にも龍之介は廣子に手紙を認めている(同前「書簡2」)。また、それから二年後の大正八(一九一九)年二月十七日に龍之介はインフルエンザに罹患して発熱、鎌倉(妻文との借新居)から田端の実家に移って療養、海軍機関学校も翌月初旬まで休んでいる(実はこの二日前の二月十五日に大坂毎日新聞社入社が内定していた)が、その間の大正八(一九一九)年二月二十八日(推定)、廣子は田端に龍之介の病気見舞に訪れている(その礼状が同前「書簡3」)。ただ、廣子がこの時に芥川に実際に対面したかどうかは不明。病気見舞であるから玄関先での挨拶で逢わなかった可能性もある。しかし、この「書簡1」から「書簡3」の内容を見る限り、その間に『心の花』などの公的な会の場で龍之介と廣子は直接逢っている可能性がすこぶる高いと私は踏んでいる。即ち、芥川龍之介と片山廣子はこの頃(大正八(一九一九)年時点)、既に面識はあったと考えるのが自然である。さらに廣子はこの時四十一歳であったが、この翌年大正九(一九二〇)年三月十四日に夫貞次郎が病死している。

 話を大正一三(一九二四)年夏に戻す。

 これ以降、芥川龍之介は十四年上の未亡人の才媛片山廣子に強く惹かれてゆくのである。その経緯などは私のブログ・カテゴリ「片山廣子」や私の小攷山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲をなどを参照されたいが、苦悩の末、龍之介は廣子への思いを無理矢理截ち切って、従容と自裁へと向かったのであった。それは、遺稿「或阿呆の一生にも、

   *

 

       三十七 越し人

 

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

 

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。

 

   *

と記されてある(この「越し人」が片山廣子のことを指すことに異論を挟む研究者はいない。ただ、この呼び名の由来は不明である。私の考証はやぶちゃんの片山廣子の「越し人」考を)。

 なお、このアフォリズムで「一生懸命に」作った「抒情詩」とは上記だけではなく、膨大な量に及ぶ。例えば、越びと 旋頭歌二十五首(大正十四(一九二五)年三月『明星』所載。リンク先は私の電子テクスト)、

   *

 

   一

 

あぶら火のひかりに見つつこころ悲しも、

み雪ふる越路のひとの年ほぎのふみ

 

むらぎものわがこころ知る人の戀しも。

み雪ふる越路のひとはわがこころ知る。

 

現(うつ)し身を歎けるふみの稀になりつつ、

み雪ふる越路のひとも老いむとすあはれ。

 

   二

 

うち日さす都を出でていく夜ねにけむ。

この山の硫黃の湯にもなれそめにけり。

 

みづからの體温守(も)るははかなかりけり、

靜かなる朝の小床(をどこ)に目をつむりつつ。

 

何しかも寂しからむと庭をあゆみつ、

ひつそりと羊齒(しだ)の卷葉(まきば)にさす朝日はや。

 

ゑましげに君と語らふ君がまな子(ご)を

ことわりにあらそひかねてわが目守(まも)りをり。

 

寂しさのきはまりけめやこころ搖(ゆ)らがず、

この宿の石菖(せきしやう)の鉢に水やりにけり。

 

朝曇りすずしき店(みせ)に來よや君が子、

玉くしげ箱根細工をわが買ふらくに。

 

池のべに立てる楓(かへで)ぞいのちかなしき。

幹に手をさやるすなはち秀(ほ)をふるひけり。

 

腹立たし身と語れる醫者の笑顏(ゑがほ)は。

馬じもの嘶(いば)ひわらへる醫者の齒ぐきは。

 

うつけたるこころをもちて街(まち)ながめをり。

日ざかりの馬糞(ばふん)にひかる蝶のしづけさ。

 

うしろより立ち來る人を身に感じつつ、

電燈の暗き二階をつつしみくだる。

 

たまきはるわが現(うつ)し身ぞおのづからなる。

赤らひく肌(はだへ)をわれの思(も)はずと言はめや。

 

君をあとに君がまな子(ご)は出でて行きぬ。

たはやすく少女(をとめ)ごころとわれは見がたし。

 

言(こと)にいふにたへめやこころ下(した)に息づき、

君が瞳(め)をまともに見たり、鳶いろの瞳(め)を。

 

   三

 

秋づける夜を赤赤(あかあか)と天(あま)づたふ星、

東京にわが見る星のまうら寂しも。

 

わがあたま少し鈍(にぶ)りぬとひとり言(ごと)いひ、

薄じめる蚊遣線香(かやりせんこ)に火をつけてをり。

 

ひたぶるに昔くやしも、わがまかずして、

垂乳根(たらちね)の母となりけむ、昔くやしも。

 

たそがるる土手の下(した)べをか行きかく行き、

寂しさにわが摘みむしる曼珠沙華(まんじゆしやげ)はや。

 

曇り夜のたどきも知らず歩みてや來(こ)し。

火ともれる自動電話に人こもる見ゆ。

 

寢も足らぬ朝日に見つついく日(ひ)經にけむ。

風きほふ狹庭(さには)のもみぢ黑みけらずや。

 

小夜(さよ)ふくる炬燵の上に顋(あご)をのせつつ、

つくづくと大書棚(おほしよだな)見るわれを思へよ。

 

今日(けふ)もまたこころ落ちゐず黃昏(たそが)るるらむ。

向うなる大き冬樹(ふゆき)は梢(うら)ゆらぎをり。

 

門(かど)のべの笹吹きすぐる夕風の音(おと)、

み雪ふる越路(こしぢ)のひともあはれとは聞け。

 

   *

詩「相聞」でも(引用はやぶちゃん版芥川龍之介詩集より。異同のある別稿(?)もあるのでリンク先を参照されたい)、

   *

 

あひ見ざりせばなかなかに

空に忘れてすぎむとや。

野べのけむりもひとすぢに

命を守(も)るはかなしとよ。

 

   *

や、芥川龍之介の絶唱とも言える、

   *

 

また立ちかへる水無月の

歎きを誰にかたるべき。

沙羅のみづ枝に花さけば、

かなしき人の目ぞ見ゆる。

 

   *

がある。さらには芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.の半分近くも、実際には片山廣子を想って詠んだものと私は考えている。

 

・「肚」「はら」。

・「算盤」「そろばん」。]

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