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2016/06/03

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 藝術家の幸福

 

       藝術家の幸福

 

 最も幸福な藝術家は晩年に名聲を得る藝術家である。國木田獨步もそれを思へば、必しも不幸な藝術家ではない。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、前の『「虹霓關」を見て』「經驗」「アキレス」と、後の「好人物」(二章)「罪」「桃李」「偉大」と合わせて全九章で初出する。芥川龍之介は本章を書いた時は満三十二歳、彼が「鼻」で夏目漱石から激賞されたのは満二十三歳、その直後に文壇の寵児となっている。芥川龍之介の自死は、このアフォリズムが発表されてから僅か二年五ヶ月後、満三十五歳と五ヶ月弱の後のことであったから、彼のこの時の確かな「名聲」は結果として彼の言う通り、「晩年」であったのである。とすれば、芥川龍之介はこのアフォリズムに合わせるように、自死したとも言えるのである。これは偶然でも皮肉でも言葉の遊びでも何でもないのだ。芥川龍之介は大真面目にそれを自ら進んで確信犯で実行したということに気づかなければ、あなたは芥川龍之介を真に知ったことにはならぬ、と私は声を大にして言いたいのでもある。

 

・「國木田獨步」(明治四(一八七一)年~明治四一(一九〇八)年)はジャーナリストにして小説家で本邦に於ける自然主義の先駆者に位置づけられる作家である。以下、ウィキの「国木田独歩」から主節を引きつつ、不明な箇所は私の所持する、個人全集としては頗る優れたものと思う、昭和五三(一九七八)年(増訂版)学研刊「定本 国木田独歩全集」の第十巻の年譜などに拠って記載する。断わっておくと、私は独歩を愛すること、龍之介に劣らぬ。ここは、今までのようによく知らないから注するのではなく、偏愛する作家ゆえに詳述するのである。読むのが面倒な方は下線部(総て私が引いた)のみを拾い読みするされんことをお薦めする。以下、梗概部。『田山花袋、柳田國男らと知り合い』、「独歩吟」(明治三〇(一八九七)年)『を発表。詩、小説を書いたが、次第に小説に専心』し、「武蔵野」忘れえぬ人々」(孰れも明治三四(一九〇一)年民友社刊の作品集「武蔵野」所収。以上二つのリンク先は私の電子テクスト。表紙画像もある)・「牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)」(明治三四(一九〇一)年)『などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」』(明治三七(一九〇四)年)・「号(明治三九(一九〇六)年。リンク先は私の電子テクスト)・「竹の木戸」(没年の明治四一(一九〇八)年)『などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編』「巡査」(明治三五(一九〇二)年)を『絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた』。以下、詳細事蹟。幼名は国木田亀吉(後に哲夫と改名)。千葉県銚子生まれ。父専八は、旧龍野藩士で榎本武揚討伐後に銚子沖で難破し、銚子の吉野屋という旅籠でしばらく療養していたが、『そこで奉公していた、まんという女性と知りあい、独歩が生まれた。このとき専八は国元に妻子を残しており、まんも離縁した米穀商の雅治(次)郎との間にできた連れ子がいたとされる。独歩は、戸籍上は雅治郎の子となっているが、その他の資料から判断して、父は専八であるらしい』。明治七(一八七四)年、『専八はまんと独歩を伴い上京し、東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に一家を構えた』。明治三二(一八九九)年『頃、専八は司法省の役人となり、中国地方各地を転任したため、独歩は』五歳から十六歳まで『山口、萩、広島、岩国などに住んだ』。『少年期、学校の成績は優秀で読書好きである反面、相当な悪戯っ子で喧嘩のとき相手を爪で引っ掻くことからガリ亀と渾名された。自らの出生の秘密について思い悩み、性格形成に大きく影響したとみられる』。明治二〇(一八八七)年、学制改革で編入規則が不服であったのために『退学すると、父の反対を受けた』ものの、『上京し、翌年に東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科に入学。吉田松陰や明治維新に強い興味を持ち学生運動にも加わる。徳富蘇峰と知りあい』、『大いに影響を受けると、その後一転して文学の道を志し』、明治二二(一八八九)年十九歳の時、処女作「アンビシヨン(野望論)」『を『女学雑誌』に発表するほか、『青年思海』などの雑誌に文章を寄稿するようになる。さらにこの頃から教会に通うようになり、日本基督教会の指導者・植村正久を崇拝する』ようになった。明治二二(一八八九)年七月に『哲夫と改名』し、翌年九月には『英語政治科へと転科した』。この頃は』ワーズワース・ツルゲーネフ(私はその点に於いてなら、若き日より耽読しており、独歩に引けはとらぬと秘かに自負している。私の「心朽窩新館」のツルゲーネフの電子テクスト群を御覧戴きたい)・『カーライルなどを好んだという。明治二四(一八九一)年一月に『植村正久より洗礼を受けた。この年、学校改革と校長・鳩山和夫への不信のために同盟休校を行ない』、まもなく退学している(退学願書提出は三月三十一日)。同年五月一日、麻郷村(おごうむら:現在の山口県熊毛郡田布施町(たぶせちょう))の『家族が移り住んでいた吉見家に身を寄せ、しばらく釣りや野山の散策をして過ごす。月琴という弦楽器が上手で月夜の晩によく奏でていたという。近所の麻郷小学校で英語の教鞭を執ることもあったようだ。吉田松陰の門弟で狷介な老人として知られる富永有隣を訪ね、刺激を受けて廃校となった小学校の校舎を借りて波野』(はの:学校のあった村の名)『英学塾を開設し、弟の収二や近隣の子供を集めて英語や作文などを熱心に教えた。後に富永有隣をモデルとした』「富岡先生」(明治三五(一九〇二)年)を著している。八月に田布施町麻里府(まりふ)村に『仮住し、石崎家に家庭教師として出入りするうち、石崎トミと恋仲となった。翌年トミに求婚するがトミの両親に反対されて思いを遂げられず、後、失意のうちに弟と共に上京した。独歩が余りにも熱狂的なクリスチャンだったことが原因とされる』。その後、「帰去来」(明治三四(一九〇一)年)や「酒中日記」(明治三五(一九〇二)年。私の好きな作品である)『など田布施を舞台にした作品を多数発表している』。明治二六(一八九三)年年初に新聞記者になる決意をし、『徳富蘇峰に就職先の斡旋を依頼』したが、まずは『蘇峰の知人でジャーナリストの矢野龍渓から紹介された、大分県佐伯の鶴谷学館に、英語と数学の教師として赴任し』(同年十月)、『熱心に教育を行』ったが、『クリスチャンである独歩を嫌う生徒や教師も多く、翌』年六月末を以って退職している(なお、ジャーナリストたらんとした明治二十六年二月三日からは没後に出版されることになる日記「欺かざるの記」を書き始めている。因みに芥川龍之介の出生はこの前年明治二十五年三月一日である)。明治二七(一八九四)年二十四歳の時、『青年文学』に参加し、民友社に入って徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となった。この年に『起きた日清戦争に海軍従軍記者として参加し、弟・収二に宛てた文体の「愛弟通信」をルポルタージュとして発表し、「国民新聞記者・国木田哲夫」として一躍有名となる』(但し、この時、彼の名が初めて世間に流布したのは「記者」としてであって「小説家」としてではない点に注意されたい)。『帰国後、日清戦争従軍記者・招待晩餐会で、日本キリスト教婦人矯風会の幹事佐々城豊寿』(ささき とよじゅ 嘉永六(一八五三)年~明治三四(一九〇一)年:女性。女権運動家。)の長女信子(豊寿が医師で伊東家の婿であった伊東友賢と密通して出来た子。後に友賢は伊東家から離縁されて佐々城本支となって入籍している)『と知りあう。熱烈な恋に落ちるが、信子の両親から猛烈な反対を受けてしまう。信子は、母・豊寿から監禁された上、他の男との結婚を強要されたという。独歩は、信子との生活を夢見て単身で北海道に渡り、僻地の田園地帯に土地の購入計画をする』。「空知川の岸辺」(明治三五(一九〇二)年。本作もとてもよい)は『この事を綴った短編である』。明治二八(一八九五)年十一月、『信子を佐々城家から勘当させることに成功し、徳富蘇峰の媒酌で結婚。逗子で二人の生活が始まったが、余りの貧困生活に耐えられず』、帰郷、『両親と同居する』も、翌年に信子が失踪、『協議離婚となり、強い衝撃を受ける。この顛末の一部は後に有島武郎によって』「或る女」(明治四四(一九一一)年一月創刊の『白樺』に「或る女のグリンプス」の題で連載を開始、大正二(一九一三)年三月まで十六回続くが、これは前半のみで、その後に後半を書き下ろし、「或る女」と改題して大正八(一九一九)年になって全篇刊行となった)『として小説化された。一方、信子側からの視点では、信子の親戚の相馬黒光が手記「国木田独歩と信子」を書いており、独歩が理想主義的である反面』、『かなり独善的で男尊女卑的な人物であったと記されている』(私は個人的に有島の「或る女」が有意に好きである。反対に、独歩自身が同じシチュエーション(鎌倉滑川での信子との数奇な再会)を描いた「鎌倉夫人」(明治三五(一九〇二)年)は私の偏愛する鎌倉、独歩、の作品であり乍ら、「嫌い」である)。『傷心の独歩は、蘇峰や内村鑑三にアメリカ行の助言を受け』たものの、実現していない。明治二九(一八九六)年に『渋谷村(現東京都渋谷区)に居を構え、作家活動を再開』、同年十一月、『田山花袋、柳田國男(当時は新体詩人・松岡国男)らを知り』、明治三〇(一八九七)年に『「独歩吟」を『国民之友』に発表。さらに花袋、国男らの詩が収められた』「抒情詩」(宮崎湖處子編・同年民友社刊)が『刊行されるが、ここにも独歩の詩が収録された』。八月には小説「源叔父」(後の作品集「武蔵野」では「源おぢ」と表記変更)を発表している(なお、日記「欺かざるの記」の記述はこの頃迄)。翌明治三一(一八九八)年、『下宿の大家の娘・榎本治(はる)と結婚する。治は、後に国木田治子の名前で小説を発表し、独歩社の解体までを描いた「破産」を『萬朝報』に寄稿』(明治四一(一九〇八)年)、『『青鞜』の創刊にも参加している』。この明治三十一年に、二葉亭四迷の訳「あひゞき」(ツルゲーネフの「猟人日記」の一篇)に影響され(リンク先は明治二一(一八八八)年版の私の注附き電子テクスト。他に同じ二葉亭明治二九(一八九六)年改稿版も作成している)、「今の武蔵野」(後に「武蔵野」に改題)を発表、『浪漫派として作家活動を始める』。その後、明治三四(一九〇一)年に、今や近代文学の名著と讃えられる、初の作品集たる「武蔵野」を刊行するも、実は『当時の文壇で評価はされなかった。さらに「牛肉と馬鈴薯」「鎌倉夫人」「酒中日記」を書』き、明治三六(一九〇三)年に発表した「運命論者」「正直者」を以って『自然主義の先駆となった。これらの作品はのちに』、作品集「独歩集」(明治三八(一九〇五)年)や「運命」(翌明治三十九年)に纏められ、高く評価されはしたものの、『作品発表当時の文壇はまだ「紅露時代」であり、時代に早過ぎた独歩の作品はあまり理解されず、文学一本では生計を立てられなかった』のが現実であった。明治三二(一八九九)年には『再び新聞記者として『報知新聞』に入社。翌年には政治家・星亨の機関紙『民声新報』に編集長として入社する。編集長としても有能だったが、すぐに星が暗殺され』(星は衆議院議長や立憲政友会の結成に参加したり、第四次伊藤内閣の逓信大臣なども勤めたが、東京市会議長在職中に暗殺された)、明治三四(一九〇一)年に『『民生新報』を退社。再び生活に困窮して、妻子を実家に遣り、単身、その頃知遇を得ていた政治家・西園寺公望のもとに身を寄せる。その後、作家仲間の友人達と鎌倉で共同生活を行った』(由比ヶ浜近くの坂ノ下にある御霊神社境内などに寓居している)。明治三六(一九〇三)年には、『矢野龍渓が敬業社から創刊を打診されていた、月刊のグラフ雑誌『東洋画報』の編集長として抜擢され』た『が、雑誌は赤字だったため』、直に『矢野龍溪が社長として近事画報社を設立し、雑誌名も『近事画報』と変更した』。明治三七(一九〇四)年、日露戦争が開戦すると、月一回の発行を月三回にし、『戦時画報』と誌名を変更、『戦況を逸早く知らせるために、リアルな写真の掲載や紙面大判化を打ち出すなど有能な編集者ぶりを発揮し、また派遣記者の小杉未醒の漫画的なユニークな絵も好評で、最盛期の部数は、月間』十万部を『超えた。また、戦争終結後のポーツマス条約に不満な民衆が日比谷焼き打ち事件を起こすと、僅か』十三日後には、『その様子を克明に伝える特別号『東京騒擾画報』を出版し』ている。明治三八(一九〇五)年五月の『日本海海戦で、日露戦争の勝利がほぼ確実になると、独歩は戦後に備えて、培ったグラフ誌のノウハウを生かし』、翌年『初頭にかけて新しい雑誌を次々と企画・創刊する。子供向けの『少年知識画報』『少女知識画報』、男性向けの芸妓の写真を集めたグラビア誌『美観画報』、ビジネス雑誌の『実業画報』、女性向けの『婦人画報』、西洋の名画を紹介する『西洋近世名画集』、スポーツと娯楽の雑誌『遊楽画報』など。多数の雑誌を企画し』、十二誌もの『雑誌の編集長を兼任した。だが、日露戦争の終結後、『近事画報』の部数は激減。新発行の雑誌は売れ行きのよいものもあったが、社全体としては赤字であり』、明治三九(一九〇六)年、『矢野龍渓は近事画報社の解散を決意した』。『そこで独歩は、自ら独歩社を創立し、『近事画報』など』五誌の『発行を続ける。独歩の下には、小杉未醒』(彼は後に芥川龍之介と親しく交際した)『をはじめ、窪田空穂、坂本紅蓮洞、武林無想庵ら、友情で結ばれた画家や作家たちが集い、日本初の女性報道カメラマンも加わった。また、当時人気の漫画雑誌『東京パック』にヒントを得て、漫画雑誌『上等ポンチ』なども刊行。単行本としては、沢田撫松』(ぶしょう:明治四(一八七一)年~昭和二(一九二七)年:新聞記者・小説家。『二六新報』『国民新聞』『読売新聞』等で司法記者を勤め、犯罪の実話物語を『中央公論』『婦人倶楽部』などに発表した)『編集で、当時話題となった猟奇事件・臀肉事件』(明治三五(一九〇二)年三月に東京府麹町区下二番町(現在の千代田区二番町)で発生した未解決殺人事件。少年が何者かに殺され、尻の肉を切り取られたもので以下の野口男三郎はこの少年殺害と他二件(義兄の野口寧斎殺害及び薬局主人殺害)の容疑者であった。裁判の結果、少年と義兄殺しについては証拠不十分で無罪とされたが、薬局主人殺し及び文書偽造で有罪とされて死刑に処された。この事件には複雑な背景がある。詳しくはウィキの「臀肉事件を参照されたい)『の犯人・野口男三郎の』センセーショナルな告白手記「獄中之告白」を売らんかな主義で明治三九(一九〇六)年に発売したりしている。しかし、翌明治四〇(一九〇七)年に『独歩社は破産。独歩は肺結核にかかる。しかし皮肉にも、前年に刊行した作品集『運命は』が高く評価され、独歩は自然主義運動の中心的存在として、文壇の注目の的になっていた』。その後、『神奈川県茅ケ崎にある結核療養所の南湖院で療養生活を送る。「窮死」「節操」(以上、明治四十年)「竹の木戸」(明治四十一年)などを発表するが、病状は悪化していき』、明治四一(一九〇八)年六月二十三日に満三十六歳で死去した(南湖院で療養生活では妻も愛人も一緒で妻妾同衾と揶揄もされた。因みに、芥川龍之介の自死は既に述べた通り、満三十五歳であった)。絶筆は「二老人」である。『葬儀は当時の独歩の名声を反映して、多数の文壇関係者らが出席し、当時の内閣総理大臣、西園寺公望も代理人を送るほどの壮大なものであった。友人の田山花袋は、独歩の人生を一文字で表すなら「窮」であると弔辞で述べている』とある。彼の没した年、龍之介は十六歳、府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の第四学年であった。
 
 芥川龍之介は
「文藝的な、餘りに文藝的な」(昭和二(一九二七)年)で一章を割いて、独歩への親近感を述懐している。以下、私の電子テクスト(リンク先)より、全文を引く。

   *

 

       二十八 國木田獨歩

 

 國木田獨歩は才人だつた。彼の上に與へられる「無器用」と云ふ言葉は當つてゐない。獨歩の作品はどれをとつて見ても、決して無器用に出來上つてゐない。「正直者」、「巡査」、「竹の木戸」、「非凡なる凡人」……いづれも器用に出來上つてゐる。若し彼を無器用と云ふならば、フィリツプも亦無器用であらう。

 しかし獨歩の「無器用」と云はれたのは全然理由のなかつた訣ではない。彼は所謂戲曲的に發展する話を書かなかつた。のみならず長ながとも書かなかつた。(勿論どちらも出來なかつたのである。)彼の受けた「無器用」の言葉はおのづからそこに生じたのであらう。が、彼の天才は或は彼の天才の一部は實にそこに存してゐた。

 獨歩は鋭い頭腦を持つてゐた。同時に又柔かい心臟を持つてゐた。しかもそれ等は獨歩の中に不幸にも調和を失つてゐた。從つて彼は悲劇的だつた。二葉亭四迷や石川啄木も、かう云ふ悲劇中の人物である。尤も二葉亭四迷は彼等よりも柔かい心臟を持つてゐなかつた。(或は彼等よりも逞しい實行力を具へてゐた。)彼の悲劇はその爲に彼等よりもはるかに靜かだつた。二葉亭四迷の全生涯は或はこの悲劇的でない悲劇の中にあるかも知れない。…………

 しかし更に獨歩を見れば、彼は鋭い頭腦の爲に地上を見ずにはゐられないながら、やはり柔かい心臟の爲に天上を見ずにもゐられなかつた。前者は彼の作品の中に「正直者」、「竹の木戸」等の短篇を生じ、後者は「非凡なる凡人」、「少年の悲哀」、「畫の悲しみ」等の短篇を生じた。自然主義者も人道主義者も獨歩を愛したのは偶然ではない。

 柔い心臟を持つてゐた獨歩は勿論おのづから詩人だつた。(と云ふ意味は必しも詩を書いてゐたと云ふことではない。)しかも島崎藤村氏や田山花袋氏と異る詩人だつた。大河に近い田山氏の詩は彼の中に求められない。同時に又お花畠に似た島崎氏の詩も彼の中に求められない。彼の詩はもつと切迫してゐる。獨歩は彼の詩の一篇の通り、いつも「高峰(かうほう)の雲よ」と呼びかけてゐた。年少時代の獨歩の愛讀書の一つはカアライルの「英雄論」だつたと云ふことである。カアライルの歴史觀も或は彼を動かしたかも知れない。が、更に自然なのはカアライルの詩的精神に觸れたことである。

 けれども彼は前にも言つたやうな鋭い頭腦の持ち主だつた。「山林に自由存す」の詩は「武藏野」の小品に變らざるを得ない。「武藏野」はその名前通り、確かに平原に違ひなかつた。しかしまたその雜木林は山々を透かしてゐるのに違ひなかつた。德富蘆花氏の「自然と人生」は「武藏野」と好對照を示すものであらう。自然を寫生してゐることはどちらも等しいのに違ひない。が、後者は前者よりも沈痛な色彩を帶びてゐる。のみならず廣いロシアを含んだ東洋的傳統の古色を帶びてゐる。逆説的な運命はこの古色のある爲に「武藏野」を一層新らしくした。(幾多の人びとは獨歩の拓いた「武藏野」の道を歩いて行つたであらう。が、僕の覺えてゐるのは吉江孤雁氏一人だけである。當時の吉江氏の小品集は現世の「本の洪水」の中に姿を失つてしまつたらしい。が、何か梨の花に近い、ナイイヴな美しさに富んだものである。)

 獨歩は地上に足をおろした。それから――あらゆる人々のやうに野蠻な人生と向ひ合つた。しかし彼の中の詩人はいつまでたつても詩人だつた。鋭い頭腦は死に瀕した彼に「病牀錄」を作らせてゐる。が、かう云ふ彼は一面には「沙漠の雨」(?)と云ふ散文詩を作つてゐた。

 若し獨歩の作品中、最も完成したものを擧げるとすれば、「正直者」や「竹の木戸」にとどまるであらう。が、それ等の作品は必しも詩人兼小説家だつた獨歩の全部を示してゐない。僕は最も調和のとれた獨歩を――或は最も幸福だつた獨歩を「鹿狩り」等の小品に見出してゐる。(中村星湖氏の初期の作品はかう云ふ獨歩の作品に近いものだつた。)

 自然主義の作家たちは皆精進して歩いて行つた。が、唯一人獨歩だけは時々空中へ舞ひ上つてゐる。…………

   *]

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