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2016/06/26

サイト「鬼火」開設11周年記念 芥川龍之介「奉教人の死」自筆原稿やぶちゃん注 附・岩波旧全集版との比較

芥川龍之介「奉教人の死」自筆原稿やぶちゃん注 附・岩波旧全集版との比較

 

[やぶちゃん注:本日公開した『芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)』(底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像)について私のオリジナルな注である。当該自筆原稿は朱の校正記号が入った決定稿(一頁目の右上罫外に朱で『二』とあるから、二校目であろう)であり、大正七(一九一八)年九月一日発行『三田文学』初出版の原稿と推定されるが、岩波旧全集の「後記」の初出についての異同記載とかなりよく一致はするものの、このままならば、その岩波旧全集の異同記載に出るべき箇所が出ていないものもあることから、ゲラ刷りで手が加えられている可能性が高い。それも踏まえて、岩波旧全集版との比較も一部で行った(細かな表記違いや読点・ルビの有無などは、よほど読み違えたり内容に関わらぬ限り、問題としなかった。私が注するのは私の気になるところであって、退屈な書誌学的校合ではないので悪しからず)。

 【 】の番号は電子化した自筆原稿の頁番号で、以下の行頭の裸のアラビア数字は当該原稿用紙(一枚十行)の各行数を示す。

 歴史的仮名遣の誤りなどは煩瑣なので、一切、挙げてない。

 この注では本格的な語注をする積りは基本的にはなかったが、朗読上の便宜としての注や、聴き慣れぬ切支丹用語の原語など、また、若い読者に誤読或いは誤植と誤認されそうな語句や箇所には煩を厭わず注することとした結果、語注とほぼ同じものとなった。

 なお、本電子テクストはブログ版『芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)』と併せて、私のサイト「鬼火」開設の11周年記念としてブログにアップすることとした。【2016年6月26日 藪野直史】]

 

【1】

右上罫外 朱で「二」。決定稿二校目の謂いであろう。

1 右罫部に朱校正(筆跡が異なり、校正工による記入と思われ、芥川龍之介のものではない)で「二行アキ」。

2 標題は有意に大きく書かれてある。朱校正で「3」ポイントの指示。言わずもがなであるが、「奉教人」(ほうけうにん(ほうきょうにん))とは広くキリスト教徒の意。

4 右罫部に朱校正で「二行アキ」。署名はマスからはみ出すやや大きめのサインであるが、よく見ると、下に一度、署名したものを削ったような跡があるのがやや不思議である。

6 「齡」「よはひ」(よわい)と読む。以下、読みのみ示す場合はこの附言は略す。なお、私が読みを附すのは私の朗読の便のためである。――私はかく読む――という表明のためである。

8 「夢幻」「ゆめまぼろし」。

8 「慶長訳 Guia do Pecador」の前後に朱校正で丸括弧。「ギヤ・ド・ペカドル」は「罪人を善に導く」の意。スペインのドミニコ会司祭ルイス・デ・グラナダ(Luis de Granada 一五〇四年~一五八八年)著のキリシタン版日本語抄訳本で二巻。漢字ひらがな交りで、救霊や修徳を説く。慶長四(一五九九)年刊。「ぎやどぺかどる」「勧善抄」など呼ばれて日本の切支丹に広く読まれた。

9 朱校正で「一行アキ」。

10 「御教」は「みをしへ」(みおしえ)、「甘味」は「かんみ」であろう。

 

【2】

1~2 「慶長訳 Imitatione Christi」の前後に朱校正で丸括弧。“De imitatione Christi”は「キリストに倣(なら)いて」と訳される。原著は中世ドイツの神秘思想家トマス・ア・ケンピス(Thomas à Kempis 一三八〇年~一四七一年)の著わした信仰の書で、クリスチャンの霊性の本として聖書に次いで最も読まれた本であるとも言われる。筑摩全集類聚版の脚注によれば、『コンテンス・ムンヂ(Contenpus Mundi 厭世経)と題し、抄訳された。現在知られているのは、慶長元』(一五九六)年『天草(?)学林刊のローマ字本と、慶長』一五(一六一〇)年の『京都原田アントニヨ印刷所刊の漢字』ひらがな交りの二書である、とする。

3 「一」の下に朱校正で「五ゴシツク三行中央」。

4 「去んぬる」筑摩書房全集類聚版など、多くは「さんぬる」と読み、辞書でもその読みが先行するが、私は断然、「いんぬる」と朗読する。

4 『或「えけれしや」』は、岩波旧全集版(以下、「現行版」と称する。私は新字体採用の岩波新全集版を「現行版」としては認めない謂いでもある)では『「さんた・るちや」と申す「えけれしや」』という教会の固有名が附加されている。これは岩波旧全集後記によれば、『改造』初出でも本原稿と同じく、「さんた・るちや」は全篇一貫して教会の一般名詞である「えけれしや」で通されている、とある。ポルトガル語“ecelesiaで「教会」「聖堂」の意。因みに「さんた・るちや」の方は筑摩全集類聚版の脚注によれば、“Santa Lucia で『イタリアのナポリ市の守護神の名。ここでは教会の名』とある。

5 ここに初出する本原稿での主人公の名(クリスチャン・ネーム)「ろおらん」は、現行では全篇一貫して「ろうれんぞ」である。これは岩波旧全集後記によれば、『改造』初出でも本原稿と同じく、「ろおらん」で通されているとある。綴りは“Laurent”か。

5~6 「伴天連」「ばてれん」。ポルトガル語“padre”で「父」「神父」「司祭」。日本に渡来したカトリックの宣教師の称。パードレ。

6 「御降誕」「ごかうたん」(ごこうたん)。

9~10 「なつたげでござる」まさにそのようになったのだそうで御座いますが。「げ」は如何にもそうした様子や状態になる、の意の接尾語。

 

【3】

1 実は原稿では、冒頭に「何時(いつ)も」とあるのであるが、これは丸く囲まれて(芥川龍之介の指示。本部と同色のインクである)二行目の「事もなげな」の頭に移すように矢印で指示されてある。電子化ではその指示に従ったもので示してある。なお、このルビ「いつ」は現行版には振られていない。作者が附したルビの有無はここでは原則、問題にしないが、作家の著作物のルビはこの当時、殆んど校正工が勝手に振っていたのが実情で、泉鏡花のような特異な作家以外は総ルビを原稿で附ける作家はまず極めて少ない。逆に、この「いつ」などもそうだろうと思われるが、後の全集などでは不要と思われるルビを編者が勝手に取捨選択してしまう。実は我々はこうした自筆原稿に対峙するという稀な経験のみに於いて、原作者が実はここだけはどうしてもかく読んで欲しい、ルビを振りたい、と考えていたものに触れることが可能となるという驚くべき現実を知るべきであると思う。

1 『「はらいそ」(天國)』ポルトガル語“paraiso”。

1~2 『「でうす」(天主)』ポルトガル語“Deus”。元はラテン語の男性単数主格であるから厳密には広汎に一人の男神を指すが、切支丹用語ではキリスト教の唯一神を指す。

2 「紛らいて」「まぎらいて」。

4 『「ぜんちよ」(異教徒)』ポルトガル語“genntio”。キリスト教から見たの意の、限定義であるので注意!

4 「輩」「やから」。

5 「靑玉(あをだま)」サファイア或いはそれに似た青色の装飾用の玉石。

5~6 『「こんたつ」(念珠)』ポルトガル語“contas”。ポルトガル語で「数える」の意。カトリック教会に於いて聖母マリアへの祈りを繰り返し唱える際に用いる、十字架やメダイ・キリスト像などのついた数珠状の祈りの用具である、ロザリオ(ポルトガル語:rosário・ラテン語:rosarium)のこと。本邦では十六世紀にイエズス会宣教師によって伝えられたが、以後の隠れ切支丹の時代まで永く「こんたつ」(マリア賛礼の「アヴェ・マリア」(ラテン語:Ave Maria)の祈禱を口にした数を数えるもの)と呼ばれてきた。「念珠」は「ねんじゆ」(ねんじゅ)でよかろうが、朗読では本文を聴者に持たせている場合は、この本文同ポイント内の割注丸括弧は総て省略して読むのがよい。

7 『「いるまん」衆(法兄弟)』ポルトガル語“irmão”。イエズス会の修道者の中で司祭職パードレを補佐する者を指す。

8 「扶持」「ふち」。助けること。生活を扶助すること。

9~10 『「すぺりおれす」(長老衆)』ポルトガル語“superiores”。教会内での名誉職(複数形)。

 

【4】

1~2 「あらうず」意味は「~であるのだろうよ」ですんなり腑に落ちるが、この「ず」は文法的に何かと考え出すと、私のような文法嫌いははたと困ってしまう。まず考えるのは推量・意志の助動詞「ず」(「むとす」推量の助動詞「む」の終止形+格助詞「と」+サ変動詞「す」)の短縮した助動詞「むず」の「む」の撥音便「ん」無表記となったもの)であるが、とすると「あらう」とダブることになり文法構造上ではおかしく、中止法のように「~であるし」の意で用いる接続助詞「ず」もピンとこない。前者の正統な用法(「今にも~となりそうな感じである」(推量)「敢えて~しようとする」(意志))は以下の文中でもしばしば見られることから、私はこれは、芥川龍之介がこの作品のために、前者のダブりを厭わずに創成した特殊な言語ではなかろうかとも考えている。国語学の識者の御意見を乞うものではある。

5~6 本作の大きなポイントである「ろおらん」の最初の具体な顔の描出に龍之介が念を入れているのがよく判る、有意な改稿部である。初案の「天童の生れかはりと云はれても僞ない程」という如何にもな朧化をやめて、「顏かたちも玉のやうに淸らかであつたに」としたが、累加の係助詞「も」は伏線のバレが気になったかと思しく、「顏かたちが」と平素な格助詞に替え、改めてその累加分を「声ざまも女のやうに優しかつたれば」の「も」で順序立てて、しかも伏線を匂わせたのである。しかしその匂わせは九行目の「弟のやうに」で強く抑止されるようにも仕組んであるのである。

8~9 「しめおん」“Simeon”。

10 「必」「かならず」。

 

【5】

3 「性得」「しやうとく」(しょうとく)。

3~4 「剛力」「がうりき」(ごうりき)。

5 「石瓦」「いしがはら」(いしがわら)。

7~8 初案の「荒鷲になづむ鳩」と決定稿の「鳩になづむ荒鷲」を比べてみると、私は面白いと思う。そもそも次に並置される「檜」と「葡萄(えび)かづら」の比喩関係の対表現を考えるならば逆であって、寧ろ「荒鷲になづむ鳩」の方が自然と言える。ところがそれを敢えてかくしたところに上手さがある。それは表現上の捻りといよりも、ここの後者は主体を「しめおん」にずらしてあって読者の視線は男らしい彼に向かい、それに寄り添う弟のような少年性が高まる。ところが前者では「鳩」に読者の意識が向かって、その「鳩」のシンボライズする女性性の方が遙かに露わになってしまい、伏線のバレが気になってくるからである。「檜」と「葡萄(えび)かづら」(バラ亜綱クロウメモドキ目ブドウ科ブドウ属エビヅル Vitis ficifolia 。通称は山葡萄(やまぶどう))は植物比喩で「花」の女性性はあるものの、動物よりはるかに性シンボルとしては弱くなるから問題ない。「花」はまた、若衆道のステロタイプでもあるから、却って安心でさえあるとも言える。

8 「ればのん」は現行版では『「ればのん」山』である。この異同は岩波旧全集には、示されていない。この後のゲラ校正で追加されたものか? “Lubnān”で、聖書に出るパレスチナの山脈名。

 

【6】

1 「三年」「みとせ」。筑摩全集類聚版に従う。

2 「年月」「としつき」。同前。

5 「ろおらん」に懸想する娘は初案では「鍛冶の娘」だったものが「傘張」(かさはり)屋の娘に変えられたことがここで判明する。原稿【19】では修正なしで「傘張」が出るところを見ると、この決定稿執筆の途中(原稿【7】が同修正の最後であるが、【8】から【18】までは彼ら(娘・翁)の記載や登場シーンがない)、全48枚の原稿の三分の一ぐらいまで書いたところで、意図は不明乍ら、「傘張」に変更したことが窺われる。

6 「翁」「おきな」。

10 「出入り」「ではひり」(ではいり。)筑摩全集類聚版に従う。

 

【7】

9 「白ひげ」「しらひげ」。筑摩全集類聚版に従う。

 

【8】

3 「頭(かしら)」は現行版にはルビがない。向後、「あたま」と読み継がれてしまうであろう。

5 冒頭に述べた通り、この注では語注をする積りは基本的にはない。ないが、しかし、この「年配」は書き加えでもあり、気になる。この場合はこれは「ある範囲内に含まれる年頃」の謂いであって、後が「信心」なのであるから、およそ女にうつつを抜かすといった色気を持つような年齢には未だ届いていないということを意味していると私は採る。この時代で、一般に少年が強い色気を持たぬように見える年齢の上限とすれば、満で十一、二歳が限度であろうか(中世・近世初期までの元服年齢を一つの基準値としてである)。ただそれでは傘張りの娘が懸想するにはやや若過ぎるし、子を孕ませたと周囲が信ずるのももちとおかしい。今少し挙げて、満十四、五か。既に【6】で『「ろおらん」はやがて元服もすべき時節となつた』とあった。概ね、この時代の男子の元服年齢は数えの十五であったのと一致する。では「ろおらん」は事実、それくらいだったかというと、それは分からぬ。「ろおらん」は見た目は実年齢より幼く見えた可能性が高い。そもそも最後に胸が露わになって老伴天連がはっとするというシーンを考えれば、当時の第二次性徴と栄養状況などから勘案しても、今少し一,二歳年齢が上であってもよいかも知れぬ。孰れにせよ、「ろおらん」は年高く見積もっても(「ろおらん」の「えけれしや」追放からコーダの死までは凡そ一年とある)満十七、八歳になるかならぬかで、天に召されたものと読んでよかろうと思う。

8 この改行は原稿にある朱校正で「行ヲ新ニセヨ」によってかく改行したもので、実際には七行目に繋がっている。これは芥川龍之介の直接の指示したものかも知れない(赤い色が他の朱校正と異なり、改行指示記号も如何にも素人っぽいからである)。

9 「とかうの沙汰」とやかく、やかましい噂。

 

【9】

2 「淫な」「みだらな」。

4 「まさかとは」これも語釈になるが、若い人のために敢えて注する。これは呼応の副詞で下に打消を伴って、打消推量・打消意志の強調形(取り立ての係助詞「は」も含めて)で、「よもや」「とてものことに」「どうしても」の謂いである。

5 「後」「うしろ」。

6 抹消の「が薔薇」はこの場面を具体に描こうとした雰囲気が匂う。薔薇の鼻の庭の「ろおらん」と「しめおん」の印象的な「えけれしや」の薔薇の植わった裏庭のシークエンスを、もう少しだけ覗いて見たかった気がする。

8 「嚇しつ賺しつ」「おどしつすかしつ」。

10 「私」は本篇ではすべて「わたし」と読みたい。

 

【10】

4 「問ひ詰つた」「とひなじつた」。詰問した。

7 「部屋を出つて行つて」は何と読むのか、ちょっと困る。現行版は「部屋を出て行つて」であるが、これについて岩波旧全集後記には、後の作品集「沙羅の花」(大正一一(一九二二)年八月改造社刊では、ここが『部屋を出(た)つて行つて』とルビされているとあり、後の作品集「報恩記」(大正一三(一九二四)年十月而立社刊・歴史物語傑作選集)及び「芥川龍之介集」(大正一四(一九二五)年四月新潮社刊・現代小説全集第一巻)によって「部屋を出て行つて」を採用した旨の記載がある。ルビもないし、「つ」は衍字の可能性もありそうではあるが、暫くは「たつていつて」(たっていって)を採用したい。

 

【11】

3 『「しめおん」の頸を抱くと』現行版の、

  『「しめおん」の頭を抱くと』

(「頭」は先例に徴せば「かしら」と訓じる)ではかなり奇異な感じを受ける。というか、

おかしいだろ?!

岩波旧全集後記には、後の作品集「戯作三昧」(大正一〇(一九二一)年九月春陽堂刊・ヴェストポケット傑作叢書)は、

  『「しめおん」の顏』

とし、死後の刊行になる岩波の普及版全集では、

  『「しめおん」の「頸(うなじ)』

となっている、とある。それ以外、初出を始めとして、総て「頭」なのである!

「顏」はやばいぞ!

感覚的に最もしっくりくるのは「頸(うなじ)」以外には、ない!

ここは「ろおらん」と「しめおん」二人が肉体的に強く接触するただ一度の大事なシーンなだけにずっと「頭」が気になっていたのである。

今回、自筆当該原稿同字を拡大してよく見てみると、

(つくり)は「頁」であるが、(へん)は「豆」ではなく、明らかに上部に三本の縦線様の筆致が見られ、芥川龍之介自身ちゃんと「頸」と書いていたことが判明した

のである!

要は初出『改造』の誤植に過ぎなかったのだ!

それがずっとこの気持ちの悪いままに底本本文化されてきてしまったのだ!

加えて、初出で龍之介自身も誤植に気づかなかったことが、さらに状況の悪化に拍車をかけた。なお、普及版はこの自筆原稿を見てまさに正しく直したのであった(しかしその経緯を細かに記載して残さなかったのが不運)が、それを次の岩波の全集(私の言う旧全集)の編者は元に戻してしまった。これがまたまた新たな不幸の繁殖の始まりとなったのであった(私は新字採用の新全集は三冊しか所持しないのでここがどうなっているかは知らない。当然、「頸」に正されて「うなじ」と振っているであろう)。目から鱗、頭から頸が落ちたわ!

4 「喘ぐ」「あへぐ」(あえぐ)。

 

【12】

1~2 「一円」ここは呼応の副詞で下に打ち消しの語を伴って、「全然~(ない)」「一向に~(せぬ)」の意。

2 「合點」「がてん」。

4 「後」「ご」。「のち」では間延びして、よくない。筑摩全集類聚版も「ご」と振る。以下も原則、そう読む。

10 「かつふつ」呼応の副詞で、後に打消の語を伴い、「まったく~(ない)」「まるで~(しない)」。

 

【13】

3~4 「伴天連の手もとをも追ひ拂はれる」は、現行では「伴天連の手もとを追ひ拂はれる」と「も」がない。これは作品集『傀儡師』(大正八(一九一八)年一月新潮社刊・芥川龍之介第三作品集。リンク先は私の作成したバーチャル・ウェブ復刻版)を底本としたためである。

4 「糊口のよすが」生きるために食い物を手に入れるよりどころ。

6~7 『「ぐろおりや」(榮光)』ポルトガル語“Gloria”。

 

【14】

4 「凩」「こがらし」。

5 「傍」「かたはら」(かたわら)。

6 「拳」「こぶし」。

9~10 ここは数少ない、「ろおらん」の台詞で、しかも神に向かって願う祈請であるから、現行の、

『御主も許させ給へ。「しめおん」は、己が仕業(しわざ)もわきまへぬものでござる』

(「己」は「おの」と読む)もよいけれど初案、

『御主も許させ給へ。兄なる「しめおん」は、なす所を知らざれば。』

も捨てがたい。初案はまるで聖書のイエスの言葉のように私には聴こえるからである。

 

【15】

2 「挫けた」「くじけた」。

3 「空」「くう」。

4~5 「とりないたれば」とりなしたので。なかに入って「しめおん」をなだめ、仲裁したので。

5 「束ねて」「つかねて」腕組みをして。

 

【16】

1 「頭」これは前例に徴せば、「かしら」であるが(筑摩全集類聚版はそう振っている)、どうもしっくりこぬ。個人的な感覚からここは私は「かうべ」(こうべ)と訓ずる。

9 「穢多(えとり)」の歴史的仮名遣は「ゑとり」が正しい。現行版は作品集「傀儡師」に基づいているので(以後、この前振りは略す)、「ゑとり」と漢字を排除して平仮名表記となっている。「餌取り」で元来は鷹・猟犬などの餌にするために牛馬などを屠殺し、またその牛馬の皮革や肉を売ることを生業とした者を指す古語で、被差別階級を指した「穢多」にそれをルビするのは当て字である。

9 「さげしまるる」の「さげしむ」は「蔑(さげす)む」に同じい古語である。

 

【17】

1~2 「刀杖瓦石」「とうじやうぐわせき」(とうじょうがせき)。

4 「七日七夜」「なぬかななよ」。筑摩全集類聚版に従う。

7 「御愛憐」ここの尊敬の接頭語は「ご」と読んでおく。

8 「施物」「せもつ」。

9 「木の実」「このみ」。

 

【18】

4 「闌〔た〕けて」「かうたけて」(こうたけて)と読む。現行版は「更闌(かうた)けて」。「更(こう)闌(た)く」はカ行下二段活用で「夜が更(ふ)ける」の意。「更」は一夜を五等分した夜時間の単位で初更・二更・三更・四更・五更とし、「闌く」は本来は太陽が高く昇る謂いで、それが、ある状態の盛りが過ぎるの意となり、夜のすっかり更けてしまうことを指す。

5 「人音」「ひとおと」。

8 「御加護」ここも尊敬の接頭語は「ご」と読んでおく。

10 「疎んじ」「うとんじ」。

 

【19】

2 「所行無慚」「しよぎやうむざん」(しょぎょうむざん)とは元来は仏教用語で、その生きざまや行動に於いて、戒や律を破り尽くして、しかも心に些かも恥じるところがないことを指す。

5 「千万無量」「せんばんむりやう」(せんばんむりょう)。濁音の方で読みたい。

 

【20】

1 「男の子」【22】で「女の子」と出るのと齟齬する。岩波旧全集の後記によれば初出以下、総て「男の子」であるが、現行版は龍之介の死後に刊行された岩波普及版全集に従って「女の子」と変えている。これは仕方がない仕儀ではある。まさか龍之介がどんでん返しで男女の「とりかへばや」を暗に示した確信犯などととるのは苦しい。寧ろ、龍之介は初期設定では傘張の娘の産んだ子は「男の子」としていたこと、それを忘れて最後に「女の子」と変え、しかもここを直すのを忘れていたこと自体を精神分析的に解釈すべきであろう。にしても、生前、誰もこの誤りを龍之介にしなかったのだろうか? していながら、それを生前の作品集で直さなかったとするならば、誤りを意識的に放置して、「とりかへばや」を後の読者に残したとするならどうか? 本作自体の典拠問題で大嘘を二重についた龍之介なら、強ちあり得ぬ話ではない気もしてはくる。

1~2 「かたくなしい」初案は「かたくなな」であるから、確信犯の古語「かたくなし」に、口語の形容詞活用をカップリングしたもので、多分に造語っぽいのであるが、龍之介は本作で試みている作品内限定の独特の創作的時代言語の中では少しも違和感がないのが不思議である。

2 「初孫」「うひまご」(ういまご)。

4 「抱き」「いだき」。

9 「暇」「いとま」。【6】での書き変えの読みに従う。

 

【21】

2 初案の「恋ひ偲」んで「居つた」を書き換えたのは、判る。「恋」では(「恋」でよく、事実「恋」なのであるが)若衆道の匂いがあまりにむんむんしてきてしまい、ちとまずかろう。

5 「気色」「けしき」。

7 『「じやぼ」(悪魔)』ポルトガル語“Diabo”。

8 「一年」「ひととせ」。

 

【22】

3 「末期」「まつご」。

3 「喇叭」「らつぱ」(らっぱ)。

3 「音」「おと」と読む。筑摩全集類聚版は「ね」とするが従えない。最後の審判の天使の吹くそれは耳を劈(つんざ)く大音響でなくてはならぬ。

8 「眷族」召使や下男。

10 「一定」「いちぢやう」(いちじょう)。これは副詞。きっと。但し、係っているかに見える「置いた」にではなく、後の「逃げのびた」に係るとしないと理屈上、おかしく、やや配置としてはおかしい。それを避けるには「忘れて」の前にこの語を置くべきであった。

 

【23】

4 「助け出さう」「たすけいださう」(たすけいだそう)。

 

【24】

8 「御計らひ」「おんはからひ」。

 

【25】

7 「眉目」「みめ」。筑摩全集類聚版に従う。

 

【26】

1 「煽つて」「あふつて」(あおって)。

7~10 後半部の最初に現われるクライマックスのプレ・ピークである。

『「しめおん」は思はず遍身に汗を流いて、空髙く「くるす」(十字)を描きながら、己も「御主、助け給へ」と叫んだが、何故かその時心の眼には、凩に落ちる日輪の光を浴びて、「えけれしや」の門に立ちきはまつた、美しく悲しげな、「ろおらん」の姿が浮んだと申す。』

現行版では(下線は私が引いた厳密な意味での異同部分。なお、「くるす」(十字)はポルトガル語“Curuz描き」は「えがき」と訓じたい。「己」は「おのれ」)、

『「しめおん」は思はず遍身に汗を流いて、空く「くるす」(十字)を描きながら、己も「御主、助け給へ」と叫んだが、何故かその時心の眼には、凩に搖るゝ日輪の光を浴びて、「さんた・るちや」の門に立ちきはまつた、美しく悲しげな、「ろおれんぞ」の姿が浮んだと申す。』

問題は「凩に落ちる日輪の光を浴びて」が「凩に搖るゝ日輪の光を浴びて」と改稿されてあるところである。私は個人的には龍之介の改稿を改悪と断ずるものである。このフラッシュ・バックは風雅で実景には即している「凩に搖るゝ日輪」というリアリズムの表現ではなく、あくまで「凩に落ちる日輪」でなくてはならないと感じている。敢えて言うなら「凩に堕ちる日輪」がよりよいとまで不遜(芥川龍之介に対して)にも思っているのである。

8 「門」【15】で「かど」と読んでいるので以下、総てかく読む。

 

【27】

2 「健気」「けなげ」。

3 「忽」「たちまち」。

6 「己が」「おのが」。

 

【28】

3 「声髙」「こはだか」(こわだか)。

5 「跪いて」「ひざまづいて」。

9 「默然」「もくねん」。清音で読みたい。筑摩全集類聚版も同じ。

 

【29】

1 「再」「ふたたび」。

4 「天くだる」「あまくだる」。

6 「俄」「にはかに」(にわかに)。

7 「煙焔」「えんえん」であるが、私は朗読する際には「けむりとほのお」と訓読した。

7~8 「迸つた」「ほとばしつた」(ほとばしった)。

9 「珊瑚」「さんご」。

 

【30】

1~2 「眩む」「くらむ」。

4 「脛」「はぎ」。

6~7 「さもあらばあれ」少し変わった用法に見える。傘張りの娘の内表現とすれば、『妾はどうなっても構わぬ! 何とでもなってもよい! あの子の命だけは!……』というニュアンスであるが、作者の語り口のそれとすると、ずっと冷静で、「そういう状況になっていた、それはそれで、ところが、その折りから」という状況転換の謂いともとれる。両方を含んでよろしい、と私は思う。

8 「生死不定」「しやうじふぢやう」(しょうじふじょう)。

10 「御知慧、御力」孰れの尊敬の接頭語も「おん」で読む。

 

【31】

6 「咽んだ」「むせんだ」。

8 「自ら」「おのづから」(おのずから)。

 

【32】

8 「びるぜん・まりや」ポルトガル語“Virgen Maria”。聖処女マリア。

8 「御子」「みこ」。

10 「ぜす・きりしと」ポルトガル語“Jesu Christo”。イエス・キリスト。

 

【33】

5 「大変」「たいへん」。一大事。大事件。

7 「舁かれて」「かかれて」。運ばれて。

 

【34】

4 『「こひさん」(懴悔)』ポルトガル語“Confissão”。

5~6 「声ざま」「こはざま」。筑摩全集類聚版に従う。

6 「眼(まなこ)」ここは龍之介がルビの「まなこ」をわざわざ抹消していることに注意しなくてはならぬ。これは実に龍之介自身が最終的にこれを「め」と読ませることを企図したからに他ならないからである。

7 「道理」【19】の読みに従い、「ことはり」(ことわり)と読む。

 

【35】

9 『「いんへる」(地獄)』はママ。現行は総て「いんへるの」であるからゲラ稿で直したか。ポルトガル語“Inferno”。

10 「辱くも」「かたじめなくも」。

 

【36】

8~9 『「まるちり」(殉教)』ポルトガル語“Martyrio”。

 

【37】

2 「御行跡」「ごぎやうせき」(ごぎょうせき)と読んでおく。筑摩全集類聚版も同じい。

 

【38】

1 「蹲つて」「うづくまつて」(うずくまって)。

8 「後」「うしろ」。

 

【38~41】

老伴天連の台詞から引く。後半一段落分は抹消部を削らずに示した

   *

『悔い改むるものは、幸ぢや。何しにその幸なものを、人間の手に罰しようぞ。これより益、「でうす」の御戒を身にしめて、心靜に末期の御裁判の日を待つたがよい。又「ろおらん」がわが身の行儀を、御主「ぜす・きりしと」とひとしく奉らうづ志は、この国の奉教人衆の中にあつても、類(たぐひ)稀なる德行でござる。別して少年の身とは云ひ――』ああ、これは又何とした事でござらうぞ。ここまで申された伴天連は、俄にはたと口を噤んで、あたかも「はらいそ」の光を望んだやうに、ぢつと足もとの「ろおらん」の姿を見守られた。その恭しげな容子は、どうぢや。その両の手のふるへざまも、尋常の事ではござるまい。おう、伴天連のからびた頰の上には、とめどなく淚が溢れ流れるぞよ。

 見られい。「しめおん」〔。〕見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、〕火光を一身に浴びて、声もなく橫はつ〔「えけれ〕た、■〔しや」〕の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、ふく〔清〕らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。されば〔今は〕燒けただれた面輪(おもわ)にも、自らなやさしさは、隱れようすべ〔も〕ござない〔あるまじい〕。おう、「ろおらん」は女ぢや。「ろおらん」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、ろおらん邪淫の戒を破つたに由つて 「えけれしや」を逐はれた「ろおらん」は 傘張の娘のやうな〔と同じ〕、 気髙くつつましく→眼なざしの〕あでやかなこの国の女ぢや。

   *

ここは現行版では以下のようになっている(下線及び下線太字は私が引いた厳密な意味での異同部分。なお、「御戒」は「おんいましめ」、「德行」は「とくかう(とくこう)」と読んでおく。因みに筑摩全集類聚版では「尋常」に「よのつね」とルビするが、従えない。そう読むなら、原稿や初稿以降にそれが現われていなくてはならないからである。ここはまさに尋常に「じんじやう(じんじょう)」と読めばよい。「からびた」とは「年老いて脂気を失って削げた」の意。「猛火を後にして」の「後」は「うしろ」、「戒」は「いましめ」と訓じたい)。

   *

『悔い改むるものは、幸ぢや。何しにその幸なものを、人間の手に罰しようぞ。これより益、「でうす」の御戒を身にしめて、心靜に末期の御裁判の日を待つたがよい。又「ろおれんぞ」がわが身の行儀を、御主「ぜす・きりしと」とひとしく奉らうず志はこのの奉教人衆の中にあつても、類(たぐひ)稀なる德行でござる。別して少年の身とは云ひ――』あゝ、これは又何とした事でござらうぞ。こゝまで申された伴天連は、俄にはたと口を噤んで、あたかも「はらいそ」の光を望んだやうに、ぢつと足もとの「ろおれんぞ」の姿を見守られた。その恭しげな容子は、どうぢや。その兩の手のふるへざまも、尋常の事ではござるまい。おう、伴天連のからびた頰の上には、とめどなく淚が溢れ流れるぞよ。見られい。「しめおん」。見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、もなく「さんた・るちや」の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、淸らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。今は燒けたゞれた面輪(おもわ)にも、自らなやさしさは、隱れようすべもあるまじい。おう、「ろおれんぞ」は女ぢや。「ろおれんぞ」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、邪淫の戒を破つたに由つて 「さんた・るちや」を逐はれた「ろおれんぞ」は、傘張の娘と同じ、眼なざしのあでやかなこのの女ぢや。

   *

このうち、自筆原稿の、

猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、ろおらん邪淫の戒を破つたに由つて 「えけれしや」を逐はれた「ろおらん」は 傘張の娘のやうな〔と同じ〕、 気髙くつつましく→眼なざしの〕あでやかなこの国の女ぢや。

の二箇所の空欄は龍之介の読点の打ち忘れと思われる。その証拠に後者には読点が打たれている。ところが前者は『由つて、「えけれしや」』ではなく、『「由つて「えけれしや」』である。私はここは文章の勢いから言っても、朗読のリズムから言っても、読点があるべき箇所だ、と考えている。

 まず――改行を施していない(太字下線部)現行版は――全く以ってだめ――と断じておく。芥川龍之介が、ゲラでそう指示したとしても私は採れない

 ここはどうあっても改行すべきである。私はあくまでこの自筆稿版を支持するものである。

 そうして私はこの自筆稿を判読しながら、現行の、本作最大のクライマックスのクロース・アップの画像(下線やぶちゃん)、

   *

御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、聲もなく「えけれしや」の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、淸らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。

   *

は初案を適応するなら実は、

   *

御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、声もなく「さんた・るちや」の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、燒焦げ破れた衣のひまから、ふくらかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。

   *

であったことを知って、私は異様なデジャ・ヴュを覚え、思わず、涙を流したことをどうしても告白しておきたいのである。

 

【41】

5 「邪淫の戒」モーゼ十戒の一つ、姦淫をしてはならないこと。

10 「御声」「おんこえ」と訓じておく。筑摩全集類聚版も同じい。

 

【42】

8 「自ら」「みづから」(みずから)。

 

【43】

2 「誦せられる」「ずせられる」。

3~7 『してその御経の声がやんだ時、「ろおらん」と呼ばれた、この国のうら若い女は、まだ暗い夜のあなたに、「はらいそ」の「ぐろおりや」を仰ぎ見て、安らかなほゝ笑みを唇に止めたまま、靜に息が絶えたのでござる。‥‥‥‥』岩波旧全集後記には、この最後のリーダが初出以下には、ない、とあり、死後刊行の普及版全集に拠って『………』――九点リーダ――を打っているのである。しかし、自筆原稿にはリーダがあるのである(但し、残ったマス目四マスに二点で打たれているので――八点リーダ――である)。普及版全集がこのリーダを打ったのは、『芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)』の私の冒頭に記した通り、まさに当時、南部修太郎氏所蔵であった、この「奉教人の死」の原稿を参考にしたからに他ならないのである。さらに言えば、芥川龍之介自身がゲラ刷でこのリーダを最終的に除去したか、或いは初出の編集者(校正工)がこれを意識的に外してしまったものを龍之介はよしとしたか、の孰れかである。私は、個人的にはリーダが欲しい。或いは、龍之介は架空(実は実在)の「れげんだ・おうれあ」っぽくするために、当時はなかったリーダを除去したとも考え得る。最早、「藪の中」ではある‥‥‥‥

5 「夜」「よ」と読んでおく。筑摩全集類聚版は「よる」と振るが、朗読時のリズムが悪いので採らない。

6~7 「止めたまま」「とどめたまま」。

7 「靜に」「しづかに」(しずかに)。

 

【44】

3 「一波」「いつぱ」(いっぱ)。

3 「水沫(みなは)」は歴史的仮名遣としては「みなわ」が正しく、現行版も「みなわ」となっている。

4 「最期を知るものは」は現行版では「最後を知るもの」である。初出も作品集「沙羅の花」も「最期」である。「最後」ではなくて、やはり、この「最期」が、よい。

8 「二」の下に朱校正で「五ゴシツク三行中央」とある。

9 「関る」「かかる」。

9 「耶蘇會」「やそかい」。一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio López de Loyola 一四九一年~一五五六年)や、日本に初めてキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 一五〇六年頃~一五五二年)らによって創設された、カトリック教会の男子修道会イエズス会(ラテン語: Societas Iesu)のこと。

10 「れげんだ・おれあ」はママ。現行は総て「れげんだ・おうれあ」。次注参照。

 

【45】

1 「LEGENDA AUREA」はラテン語で「黄金の伝説」。キリスト教の聖者の伝記集成としてジェノバの大司教であったヤコブス=デ=ウォラギネ(Jacobus de Voragine 一二二八年頃~一二九八年)が筆録したものが濫觴。信仰上の貴さだけでなく、文学的にも価値の高いものとして、「黄金」の名をもって呼称されるところの、広汎な意味でのキリスト教の聖人聖者の列伝を広く指す。「AUREA」はラテン語を音写しても「オーレア」とも表記出来るし、英語読みすると、「オゥレア」より「オーレア」の方が近いから、前の「れげんだ・おれあ」は決して音写としておかしくない。

2~3 この原稿は面白い。二行目の「黃金」の三行目の「彼土」(かのど:向こうの地・大陸の謂い)の「彼」を紫色のインクで囲んであり、その上部罫外に赤で「?」が三つ並べて書かれているのである(三つあるのは「黃」「金」「彼」の計漢字三つ分を指すと思われる)。これは校正工がこの字を判読出来なかったことを意味するものである。キリスト教徒でないと「黃金傳説」という語はよく判らないし、「彼」がかなり崩れた字体なので、下と併せても一般的な熟語としては判読出来にくかったのである。少し、校正工が気の毒な気はする。

4 「西教徒」「せいけうと(せいきょうと)」キリスト教教徒。

5 「福音傳道の一助たらしめん」何ら問題ないが、実は岩波旧全集後記によると、初出以下は総て「福音傳道の一たらしめん」となっている由。普及版全集に従ったとあるが、ご覧の通り、原稿はちゃんとなっている! これは『改造』植字工が落したものを校正工が見落とし、それを芥川龍之介も見落として、ずっとそれできてしまった可能性が考えられる(ゲラ刷で龍之介が削った可能性は寧ろ、低い気がする)。

6 「美濃紙摺草体交り」「みのがみずりさうたいまじり」(みのがみずりそうたいまじり)。「草体」は草書体。

8 「明」「めい」と音読みしておく。筑摩全集類聚版は「あきらか」と訓じているが、擬古文の本章の体裁にはそぐわぬ。

8~9 「羅甸字」「らてんじ」でラテン語の文字のこと。

10 「慶長→元〕年鏤刻」「鏤刻」は「るこく」と読み、本来は彫り刻むの謂いだが、広く板行(出版)の意。この訂正通りなら、前の「御出世以來千五百九十→六〕年」の一五九六年で西暦は間違っていないように見える。ところが現行版は「慶長二年三月上旬」である。慶長二年三月上旬はグレゴリオ暦(一五八二年に開始)でもユリウス暦でも一五九七年(四月上旬)である。ただ、「御出世以來」と言っているから、別に日本に数えに準ずるわけでないなら(準じた方が自然ではあるが)絶対的におかしいとは言わずともよい。ところが、この自筆稿の年号にはとんでもないおかしな部分があるのである。即ち、慶長元年には三月はないのである。この年は文禄五年だったが、旧暦十月二十七日(グレゴリオ暦一五九六年十二月十六日)に慶長に改元しているので、もし、この「れげんだ・お(う)れあ」なるものにそう書かれているとなると、これはとんでもない偽書の可能性が高いということになるのである。但し、改元の前に翻刻したが、その後に改元があったので、それを書き換えることがないというと、ないは言えない。日本の歴史書で目録を作る場合には、往々にして年中改元の場合に改元した元号の方で纏めることは普通に行われはする。しかし、改元前の翻刻のクレジットを後から書き替えるというのは如何にも不自然である。初出だけがこう(慶長元年)なっているらしいから、芥川龍之介は或いはその改元の日付を知って、それ以降を慶長二年に書き換えて辻褄を併せようとしたのかも知れない。そもそも目の前に原本を置いて実際のクレジットを見て書いている書き振りでありながら、西暦も元号も二回も書き直すなんていうのは考えられないわけで、或いは、やはり偽書であることを初めから狙った確信犯の誤記ともとれなくはない。

 

【46】

2 その上部罫外に赤で「?」が一つ書かれている。何故だろうと、この二行目をよく見てみると「頗」(すこぶる)のマスの左側に褪色した本文とは異なる色(紫?)の奇妙な記号(「!」を反転させた感じのもの)が打たれているのが分かった。この字もかなり崩れており、送り仮名もないから判読出来なかったのである。これも校正工が可哀想。

3 「掬す」「きくす」手にとって味わう。愛好・愛玩する。

7 「黃金」【45】と同じく、紫色のインクで囲んであり、その上部罫外に赤で「?」がが書かれている。

9 「雅馴」「がじゆん」(がじゅん)。文章が上品で穏やかなこと。筆づかいが正しく、文章も練れていること。

10 「間々」「まま」。副詞。それほど頻度は多くないものの、少なくもないさま。時に。

 

【47】

3 「れげんだ・おれあ」はママ。既注通り、現行は総て「れげんだ・おうれあ」。

5~7 「但し、記事中の大火」岩波旧全集後記には、初出以下総て、「記事の大火」とあるのを普及版全集で「記事中の大火」としたとあるが、おかしい。これも初出の『改造』の脱字が、そのまま底本となってしまった可能性が頗る高い。

7 この上部罫外に赤で「?」が一つ書かれている。これは何の意味かちょっと分からない。可能性としては、この五行目から七行目にかけては抹消・改稿がごちゃごちゃしているため、このままでよいのか? という確認のための「?」か、或いは、この行にある実在する書物「長崎港草」(ながさきみなとぐさ:郷土史家熊野正紹(せいしょう ?~寛政九(一七九七)年)が書いた長崎地誌。寛政四(一七九二)年成立。全十五巻)という書名の「港」の字が校正工には読めなかったからかも知れない。私自身、この「港」は(へん)が(さんずい)にはとても読めないし、「長崎港草」などという地誌もこの本作で初めて知った地誌だからである。

 

【48】

2 「云爾」「しかいふ(しかいう)」と読む。漢文(調)に於いて文章の終わりに用い、「以上にほかならない・上記の通り」という意味を表す語。この二字で「のみ」と訓じ得る。

3 「(七・八・十二)」大正七(一九一八)年八月十二日のクレジット。朱校正で前の行の末に直接六ポイントで附す指示がある。海軍機関学校勤務期であるが、この頃は既に嫌気がさしていた。新全集宮坂年譜によれば、この脱稿翌日八月十三日には「枯野抄」を起筆、とある(リンク先は私の電子テクスト)。恐るべきパワーである。

4 朱校正で右罫に「二行アキ」と指示。

5 「芥川龍之介」の左に全体を五ポイントとする朱校正の指示。

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