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2016/06/27

甲子夜話卷之二 4 評定所庫中に有ㇾ之律條に有德廟御加筆有之事

2-4 評定所庫中に有ㇾ之律條に有德廟御加筆有之事

予中年の頃、萬年三左衞門と云し人に邂逅せしが、この人は以前評定所の留役を勤たりし者なり。其話に云、評定所の庫中には、德廟御時の律條の册あり。松平越中守【樂翁】加判勤役のとき、何かに手を入れ、諸事改正ありし頃、或時云々のことにより、誰某この御律条のこと申出たるに、越中守さらば見んと云はれて、御庫より此册を出したるに、數箇の付札あり。松平左近將監大岡越前守の輩、各存意を記して奉りしに、德廟御自筆を以て加書し給ひ、所存にはかく思候など記せられたるに、又下よりはかくかく奉存候など書たるもあり又各申所尤に存る抔の御親筆もありて、越中守も始て拜見せられて、詞もなかりしと云。

■やぶちゃんの呟き

「萬年三左衞門」同名の者は複数見られるが、不詳。

「評定所の留役」評定所書記官。

「庫中」「くらなか」と訓じておく。

「德廟」徳川吉宗。

「律條の册」法度集。

「松平越中守【樂翁】」松平定信。

「加判勤役」「くわはんつとめやく」。ここは老中のこと。

「何かに手を入れ、諸事改正ありし頃、或時云々のことにより」ここは恐らく挿入文で「或時云々のことにより諸事改正ありし頃」で、「ある時なんらかの必要から、諸事につき、改正をせねばならなくなり、具体なとある法度に手を加えることとなった際」の謂いであろう。

「誰某」「だれそれ」。ある者。

「この御律条のこと申出たるに」「このおんりつでふのことまふしいでたるに」。それについての法度細則ならば、確か、書庫にある吉宗公の定められたものの中に既に定められたものがあるはずであると申し出たので。

「數箇の付札あり」数ヶ所の附箋(後述の記載から吉宗自身がメモして貼付したもの)が附けてあった。

「松平左近將監」既注であるが、再掲しておく。老中松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに『わたり徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。後に財政をあずかる勝手掛老中水野忠之が享保一五(一七三〇)年に辞した後、『老中首座となり、後期の享保の改革をリードし』、元文二(一七三七)年には『勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭が老中に就くと、老中首座から次席に外れ』た。『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が』第九代『将軍となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年、『家重が将軍に就任すると直後に老中を解任され』、加増一万石を『没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた』(以上はウィキの「松平乗邑」を参照した)。「酒井忠恭」は「ただずみ」と読む。

「大岡越前守」江戸南町奉行(後に寺社奉行兼奏者番)大岡忠相。

「各」「おのおの」。

「存意」自分の見解や意見。

「所存にはかく思候」「思候」は「おもひさふらふ」で、各人の主張や進言に対しては、それぞれ私(吉宗)はこのように思うておる。

「下よりはかくかく奉存候」「下」は「しも」、「奉存候」は「たてまつりぞんじさふらう」で、老中松平乗邑や奉行大岡忠相よりも下位の実務役人らを指すのであろう。

「各申所尤に存る」「おのおのまうすところもつともにぞんずる」。

「抔」「など」。

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