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2016/07/08

芥川龍之介 手帳2―11

《2-11》

○(サイダの廣告を拜(オガ)む狂人)

[やぶちゃん注:「オガ」はルビ。このシチュエーションは結局、使用されていないものと思う。]

 

○(鐡嶺丸船中にコレラ起り馬關に上陸を禁ず 故に船中花歌骨牌をなす(莫連女二人))

[やぶちゃん注:「鐡嶺丸」明治三八(一九〇五)年の旅順開城とともに満州開発の先駆として日満航路(大阪大連線)が開設就航されたが、翌年、追加就航した旅客船に「鉄嶺丸」二千百四十三トンが神戸基隆線から配転されたことが須藤康夫氏のサイト「百年の鉄道旅行」の日満航路から確認出来る。なお、この船は明治四三(一九一〇)年七月二十二日(大連発大阪行)に木浦沖の海域で沈没、約二百人が亡くなっている。

「馬關」山口県下関の古称。中心部である下関港周辺は古く「赤間関(あかまがせき)」と呼んだが、これを「赤馬関」とも書いたことに由来する。

「花歌骨牌」「はながるた」と読む。花札。

「莫連女」「ばくれんをんな(ばくれんおんな)」と読み、すれていてずるがしこい女のこ「あばずれ」「すれっからし」と同義であるが、そもそも「莫連」自体がそうした不良少女や悪婦に用いられることが多い。語源は「連なふ莫(なか)れ」というこの語の訓読に由来する。]

 

○女 男が己を戀せるものと思ひ夫にそれをつぐ 夫男と絶ゆ 女後にそれを悔ふ 而して己のその男を戀せるを知る

[やぶちゃん注:「悔ふ」はママ。旧全集では「悔う」と訂されてある。この構造式をまともにとると、龍之介作品にはありそうで、ない。]

 

○三等切符で二等へのつたハイカラを車掌へ密告する海軍大尉夫人の話

[やぶちゃん注:「三等切符で二等へのつた」というシチュエーションだけならば、佳品「蜜柑」(大正八(一九一九)五月)に使われるが、ここに出る構想全体はあまり面白そうでない。]

 

     妻

○子供<  >adultery 子供の告白

    靑年

[やぶちゃん注:「adulteryは姦通。当該作は、ない。]

 

○聖母マリア吉原の女郎となる話 道中の途中より昇天す

[やぶちゃん注:個人的には、これは是非とも書いて欲しかった。]

 

○鎌倉の宮の案内人の話を噓なりと云ふ女の話

[やぶちゃん注:「鎌倉の宮」これは鎌倉市二階堂にある鎌倉宮のことであろう。ここにかつて後醍醐天皇皇子護良(もりなが)親王が「土牢(つちろう)に幽閉された」と伝え、現在もその復元された土牢があるが、これは嘘っぱちで(ここに建てられた通常の御所への軟禁)、この「噓」とよく響き合う。私の植田孟縉(うえだもうしん)著「鎌倉攬勝考七」の「大塔宮ノ土牢」から私の注も含めて引く。

   *

大塔宮ノ土牢 東光寺跡の山麓にあり。窟にはあらず。土穴なり。其中を覘(のぞ)き見るに、二階に掘て二間四方あまり、又一段低き所は凡九尺四方も有べき所。深さ六尺許、上の二間四方許の所も深さ七八尺、みな赤き地なり。【太平記】の作者、みだりに、尊氏將軍の爲に潤飾を設て、武威は嚴盛なることを書たるものなり、將軍の在世の内に、【太平記】全部出來し、將軍の一覽にも備へしといふこと、今川了俊が記にものせたり。夫ゆへ兵部卿親王を、地中の牢へ入奉ると記せしより、土俗口碑に傳へて、土穴の中、入置奉りしことにおもへり。是【太平記】の説に因て、此妄談は起りたるものならん。是に限らず、これに擬て造れるもの、所々の舊跡に多く見へたり、【保暦間記】【梅松論】等も、尊氏將軍の爲に書たるものゆへ、潤飾多けれども、是等の書には土の牢とはしるされず、藥師堂谷の御所にとめおけども、又は牢の御所ともかけり。四面を禁錮し入置奉れば、牢の御所なることは勿論なり。【保暦間記】にいふ、尊氏兵權をとらば、むかしの賴朝にも替るべからず。此次に誅罸せらるべしと、大塔宮申されけるを、帝、さしもの軍忠の人をとらへ、其儀なし。彼宮種々の謀を廻し、尊氏を討んとせしかど、東國の武士多く尊氏方なりし上に、譜代の武勇なれば、輙もうたれずと云云。此親王は、尊氏の武將の機あることを、能見給ひしゆへなり。武き親王にて渡らせ給へば、その思食立れしも謂れなきにしもあらず。尊氏やがて其叔母にして、准后につかへ申せしを、帝遂にまとひ給ふより、護良王の災厄となれり。尊氏將軍ならびに直義には、主君なれば、たとへおのれが讐敵なる親王にもせよ、帝より預り奉りければ、土中へ入置奉り、飮食滓穢(おんじきしわい)をひとつにすべきや。また弑し奉れることは、其翌年七月、凶徒鎌倉へ攻入しかば、上野親王成良〔十二歳。〕・義詮〔六歳。〕此人々を伴ひ出れば、兵部卿宮は容易に請ひかたく、且は足利家の仇にてましませば、直義が時に取ての幸ひとして、淵邊伊賀守義博に下知して弑し奉りしなり。直義が主君を失ひし罪惡、終には天の譴(せめ)を得て、おのれも毒殺せられ、跡たえけり。

[やぶちゃん注:「輙も」は「たやすくも」と訓じている。「飮食滓穢をひとつにすべきや」『いくらなんでも、親王を、飲食と排泄を一緒くたにするような劣悪なる土牢の中に籠め置くなんどということがあり得ようか、いや、ない』の意である。「滓穢」の「滓」もけがれの意で、「滓穢」で『けがれ』の意の熟語である。排泄の忌み言葉として用いている。大塔宮の土牢は、現在、鎌倉宮の中の「あったとされる場所」に、私の出た國學院大學の故樋口清之氏の「復元」によって、「リアルに再現」されている。植田の土牢への疑義にもある通り、この「復元」された土牢は、郷土史研究家の間ではすこぶる付きで評判が悪い、ということは付け加えておきたい。]

   *

これも鎌倉好きの私としては、是非、書いて欲しかったな、龍ちゃん!]

 

○小石川2719

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