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2016/07/24

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   金剛山の古跡

    金剛山(こんがうせん)の古跡


Konogousenokoseki

一時(じ)、河州(かしう)に徘徊して金剛山にのぼり、峰つゞき西につたひて、千破屋(ちはや)の城跡を見るに、楠正成が對陣の年星(ねんせい)、既に百六十餘年に及ぶといへども、修羅鬪靜(とうじやう)のちまたとて、小笹(をざゝ)の根萩(ねはぎ)の葉陰に髑(され)たる髏(かうべ)、苔に朽ちたる屍(しかばね)、爰かしこに散亂したる、其の時有樣見る心ちに哀れなり。誠に、世にある人は、しるしの塚を、嚴重(いかめし)く石を疊み、木をうゑてだに、去ものは疎(うと)く成りもて行きて、果(はて)は農業の爲めに耕(しきか)へされ、或は家作の地に移りかはるに、ゆかりの人もなく、跡とふ子孫ももたぬ身の、古郷(こきやう)をさへ遠く離れ來て、刄(やいば)の錆に身を破られ、名利(みやうり)の爲めに死を輕(かろ)くして、山野、海岸の知らぬ境に埋(うも)れ果(はて)なん、哀れにも淺ましく覺ゆ、萬靈平等の廻向(ゑかう)をなし、猶ほ西に步むに、一とせ、正成が、時を謀りて蟄居したる。觀心寺(くわんしんじ)も、西にちかし、ときけば、詣なんと、九折(つゞらをり)を凌ぎて、一所の松の茂みに入る。爰に二十計りの若侍と半百の男と、鎧、物具(ものゝぐ)、長短の太刀、十文字によこたへ、甲(かぶと)は着(き)ず、髮をからわにとり上たるが、只今、人と戰ひたるとみえて、所々、血にそみ、草座(さうざ/クサ)に擲足(なげあし)して大息つぐさま、無下(むげ)の仲間若黨などゝはみえず、かゝる所へ行きかゝらんより、道をかへんにはしかじ、孤路(こみち)によらずとこそいへ、と立歸らんとするに。侍は早(はや)、疾(とく)より見つけたると覺えて詞をかけていふ。御僧は世を塵芥(ぢんがい/チリ)に準(なぞら)へて、かろく捨てゝ、命を泡沫(はうまつ)に定めて後をまたず。行脚の行先を身の終ふる所と悟る身の、今、此の刃傷(にんじやう)のさまをけうとく怖(おそろ)しと逃去り給ふや。何ぞ一句一文の佛教を示し給はぬ、と恥しめたる、我ながらのがるゝに所なく立歸り、抑(そも)此の山中にかゝるふるまひは、と問ふ。されば只今の過言(くわごん)、申す所、必ず腹ばし立て給ふな、とかくして佛談教法(けうはふ)の道を聞き、諸罪造惡(ざうあく)の身の後の世を助からんと思ふより、一向(ひたすら)に呼返(よびか)し侍り、されば、人に物申さんに、身の上をあかさずば、いかに打ちとけ給はん。いで、我をかたり申さん。抑(そもそ)も元弘の帝(みかど)、東夷を減ぼし給はんとて。近臣より始めて、諸國の武士に密勅の御賴(おんたの)みあつて、日本國中、靜ならず。戰場の巷となつて、動亂、更に止む時なし。爰に楠正成は、別して御夢の告げによつて賴み思召たりといへど、御夢の事は全く跡なき事にて、正成は數代、禁庭につかへ奉る士也。兼々、勅を蒙りて無二の御方(みかた)なりといへ共、不將(ぶしやう)の身なれば、諸人、侮りて下知に隨ふ事、難かるべしと、謀つて密かに奏し申し、楠といふ字訓によつて勅使を下されければ、扨は楠は神慮佛意にも叶たる侍ぞ、と、諸勢、心を合す。是、正成が智謀の始め、此の後ち、はや赤坂天王寺、所々の戰ひに刄(やいば)をぬかずして士卒を亡ぼし、追はずして敵を百里の外(ほか)に拂ふ。方便(てだて)、更に凡慮の及所に非ず。神仙術師も何ならぬ謀(はかりごと)にのみ、人を誑かし、無量の命(めい)を取しに依つて、衆人の恨一人に歸して、修羅の戰場を暫くも赦されず、魔王の奴となつて、縱橫に責めつかはるゝ、身、不肖ながら、我れ我れ々一人は和田氏一人は恩地(おんぢ)何某(なにがし)、楠一家の氏族たりし罪惡に報ひて、晝夜修羅の戰ひに隙(ひま)なく、敵(かたき)にうたれ、味方を討ち、或は身の肉(しゝむら)をさきなど、今、朝庭、威(ゐ)、衰へ、武運、日々に盛んに、一度、官軍たりしもの、子孫、悉く山野にまよひ、先祖の爲め、供佛施僧の營みもなし。適(たまたま)旅僧の廻向(ゑかう)の聲に、暫く息をつぐの暇(いとま)有りて、淺間しき形を見(まみ)えぬ。相構へて、楠一家の後生善所(ごしやうぜんしよ)を祈り給へと掌(たなごゝろ)を合はせける。其の聲、初めはいとしとやかに、なかばは高聲(かうじやう)に、後(のち)は次第に弱く成りて、偏へに寢おびれたるものゝごとし。祇、打諾(うちうなづ)き、心安かれ、と領掌(りやうじやう)し、いで、此の人々の今すむ所の有樣、なす所の諸行(しよぎやう)、尋ねとはんと、二つ三いひ出るに、二人ながら目前に消失する事、朝日にむかふ霜のごとくなり行きて、宗祇ひとり、忽然と草の莚(むしろ)に殘る、げに有(う)といふ身上さへ、あるに定めぬ世の中なるに、此幻のおもかげの、いつ迄殘り果つべきなれど、かゝる恠しき事もこそ、と思ふに、今更、世のはかなさの身にそゝげり。正(まさ)しく爰に居て、と、いひしかく語りしなど、見めぐれど、二度(ふたたび)、其の形ちなく、其の聲もきこえず。只、松栢、木高(こだか)く、風に動き、荻、薄の、露やどしたるのみ也。

   おもかげははかなく消えて跡にだに

        いつ迄やどる草の葉の露

といひ捨てゝ、殊更、此人々の菩提、念頃(ねんごろ)に𢌞向(ゑかう)し、其の夜は觀心寺の堂前に、經、ずして、明かしにけり。

 

 

■やぶちゃん注

・本話は後の上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年)の、西行が讃岐の陵墓で崇徳院の怨霊に逢う「白峯」や、俳諧を嗜む隠居が豊臣秀次や連歌師里村紹巴の亡霊に遭遇して危うく修羅道へ連れて行かれそうになる「仏法僧」に通底するものを感じさせる。

・「金剛山」現在の奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境にある、金剛山地の主峰で標高千百二十五メートル。

・「觀心寺」金剛山山頂からは西南西七・二キロの位置にある、現在の大阪府河内長野市寺元の真言宗檜尾山(ひのおざん)観心寺。ウィキの「観心寺」によれば、観心寺は楠木氏の菩提寺で、楠木正成(永仁二(一二九四)年~延元元/建武三(一三三六)年:「湊川の戦い」(現在の兵庫県神戸市)で足利軍と戦って敗れ、弟正季とともに自害した。享年四十三)及び南朝所縁の寺としても知られている。正平一四(一三五九)年には当寺が後村上天皇の行在所となっており、境内には後村上天皇檜尾陵がある。『境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている』とある。

・「半百」「はんはく」で「半白」に同じい。白髪まじりの頭髪、ごましお頭のことであるが、誤字ではなく、漢語にあって文字通りの百の半分であるから、人生五十で白髪と通底する語と言える。

・「髮をからわに」「からわ」は「唐輪」で、これは通常は「唐子髷(からこわげ)」(中世から近世へかけて元服前の子供の髪の結い方の一つで、唐子のように髻 (もとどり) から上を二つに分けて頭の上で二つの輪に成したもの。近世には女性の髪形となった)を指すが、ここは乱闘によって大童となった髪を唐輪のような感じに引き上げて括っていると読む。

・「孤路(こみち)によらずとこそいへ、」これは「論語」雍也篇に由る「行不由徑」(行くに径(こみち)に由らず」の謂い。即ち、この故事成句の原義は「裏道や小道などを通らない」ことから、「常に正道を歩いて公明正大である」ことの譬えであるが、見るからに妖しげな彼等(宗祇は既に現実の不審者ではなく怪異・亡霊として捉えているのである)を見て、確かに、「常にどっしりとして心を落ち着け、行く道を堂々と歩いて行かねばならぬ」、とはいうものの(妖異と不測の事態を考えてそこを避けんとした自身の弱さを行間に滲ませつつ、である)で、それを「こそ」已然形の逆接用法で上手く表現したのである。

・「けうとく」この場合は形容詞を修飾してその程度の甚だしいさまを意味する語ととる。

・「必ず腹ばし立て給ふな」「ばし」は副助詞で、下に禁止の表現を伴って、「~など決して……するな」の謂いであるから、「どうか決してお腹立てなさいまするな」の謂い。

・「抑(そも)」ここは宗祇が新たまって胆を据えて質す際の発語の辞で、一方、後の侍の「抑(そもそ)も」は、自身の因縁を徐ろに語り出す発語の辞として訓を使い分けている。細かいところだが、リアルで実によい。

・「恩地(おんぢ)何某」楠正成の執事に恩地(おんち)左近正俊(生没年未詳)という人物がいる。河内恩地神社の神職であったが、兵法家でもあり元弘元/元徳三(一三三一)年に正成に従い、河内赤坂城に籠城して幕府軍と闘い、建武元(一三三四)年の紀伊飯盛山の攻撃では先鋒として活躍、延元元/建武三年には父正成と別れた正行(まさつら 嘉暦元(一三二六)年?~正平三/貞和四(一三四八)年:後の河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた「四條畷(なわて)の戦い」に於いて足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北、弟の正時と共に自害した)を伴って河内に帰り、彼をよく支えた。「軍用秘術聴書」「楠兵記」などの楠木流兵法の伝書を残している(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

・「寢おびれたる」「寢おびる」は「夢を見て怯える」の意。

・「領掌」「りやうしやう(りょうしょう)」と清音でも表記する。ここは、承諾すること、了承の意。
 
 画像は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正したもの。

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