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« 芥川龍之介 手帳3―17~20 | トップページ | 女中天下の家   梅崎春生 »

2016/07/18

税金払って腹が立つ   梅崎春生

 

 私の家のすぐ近くを環状七号線が通っている。通っていると言っても、完全に開通しているわけでない。千五百メートルぐらいが舗装されているだけで、その先は尻つぼまりになり、自動車も通れない。

 こちら側の方はどうかというと、練馬の十三間道路と交叉するあたりからがたがた道と相成り、これまた使用出来ない。

 では、その千五百メートルの完全舗装路は、何に使われているか。何にも使われていない。子供がローラースケートをして遊んでいるのみである。

 つまり都は巨費を投じて、無料のローラースケート場をこしらえたことになる。巨費と言っても、もちろん都知事が私財を提供したのではない。われわれ都民からしぼり上げた税金である。

 十日ほど前も税吏が私の家にやって来て、特別区民税をむりやりにもぎ取って行った。もぎ取られる分には差支えないけれども、それがこんな具合に使われているかと思うと腹が立つ。

 私は小学校の頃、人間は恥を知らなければならぬと教わった。彼等のやり方は恥知らずである。

 その千五百メートルだって、完成までに実に時間がかかった。私が今の家に引越して来たのは六年前だが、その時から、ちゃんと道のような恰好をしていた。

 ただし整地も舗装もしてないので、風が吹くと黄塵天に達し、だからここら近所の家々では洗濯物を干すことが出来ず、洗濯屋だけが大儲けをした。

 その道路らしき遊休地に、のろのろと整地作業が始まり、のろのろと舗装工事が終ったのが昨年のことで、おどろくべしその間に五年もかかっている。その揚句がローラースケート場である。もう税金を払うのはよそうではないか。

 などと八つ当りをするのがこの小文の目的ではない。

 実は昨日私はこの舗装路を散歩していた。春先のこととて風が吹いて、道はぬめぬめとしている。ぼんやりと歩いている中に、アスファルトの上にたばこの吸殻が一本落ちている。吸殻と言っても先の方五分の一ぐらい吸って捨てたものらしい。

「しめた!」

 と思ったのか、

「あ。もったいない!」

 と思ったのか覚えはないけれども、私は腰をかがめてそれを拾おうとして、はっと気がついた。今は終戦直後ではない。たばこも巷(ちまた)にあふれている。そのことに気がついたのだ。条件反射的に拾おうとしたなんて、我ながらよほどぽかんとしていたものとみえる。

 うちへ戻ってから、いろいろ連想をたぐって見た。

 あのぬめぬめ道は日比谷あたりの舗装路に似ている。捨てられていたたばこも丸々ふとっていて、洋モクの如き感じがした。終戦直後の日比谷は占領軍兵士がよく往き来していて、実に彼等は惜しげもなくたばこを投げ捨てた。その光景が時空を越えて今の私にむすびつき、つい腰をかがめようとするに到ったらしい。

 我ながらあさましい話だと思うが、戦争の惨禍、は大げさかな、戦争の爪跡みたいなのが、まだ強く私の心に残っている。夢の中ではよく出て来るけれども、白日夢のような放心状態ででも、そいつはこっそり私を訪れて来るのだ。

 放心して裏街を歩いている。芥溜(ごみため)に残飯がごっそり捨ててある。残飯と言ってもくさっているやつではない。真白にぴかぴか光ったのが惜しげもなく捨ててある。

「あ。なんてもったいないことを!」

 思わず前後左右を見廻しそうになって、初めて気がつく。めしが捨ててあろうとなかろうと、おれとは何の関係もないことだと判るまでに、一秒やそこらはかかる。うなされるような気持で現実に戻るのだ。

 実際あの頃は売り屋さんがたいへんいばっていた。たばこ屋さんにしても、配給というからには配って歩くのが本筋だと思うが、取りに来させた。

 ピース、コロナなんてたばこが自由販売になる。朝七時から売り出すと掲示する。われわれは六時頃行って行列し、寒いから足踏みをしながら待っている。

 やがて七時になる。着ぶくれたたばこ屋のおやじがやおら現われて、すぐ売るかと言えばそうでない。表戸を全部のろのろとあける。それからお茶の一杯も飲んで、飲みびらかすようにして飲み終えて、やっと売り出す。

 われわれの握りしめた金は湯気が立っている。おつりなどを要求すると、おやじに怒られるから、きちんとそろえて差し出し、やっと一箇をいただいて家に戻る。

 外食券食堂なんてのもそうだった。外食券に金をそえて差し出す。食うのは当然の権利であるが、実状はそうでない。食を乞うという言葉がぴったりする。

 つまり向うではわれわれに食わせてくれるのであって、こちらはありがたくいただくという恰好である。

 あの頃は食事の時間もきまっていた。午後三時頃腹がへったから、食堂に行って食べようなどというのは現在のことであって、あの頃は時間を外すと絶対に食えなかった。

 時間内でも、いろいろ種類があるというのではない。水団(すいとん)なら水団、それ一色である。他には何も食えない。今日は腹具合が悪いから、水団はやめて、お粥(かゆ)にしたいと言っても通らないのである。

 時間切れを心配しつつ食堂にかけつけると、無情や表戸はおろされて、内をのぞくと従業員たちが食事をしているのが見える。幾度涙を呑み、空腹を押さえて、家に引き返したか判らない。

 外食券食堂のねえちゃんたちの肉付きのよかったこと、われわれがやせ細って膝ががくがくしているのに、彼女らは血色もよく、顎なんか二重になっているのもいた。

 そう言えばたばこ屋のおやじも、しよっちゅうくわえたばこで、街を歩いていたような気がする。思うに彼等も恥を知らざる徒であったのだろう。

 そんな恥知らずの世界の中で、ある裁判官はヤミを拒否し、その結果栄養失調で死亡した。

 何だか話が回顧的になったが、今年(昭和三十六年)の三月八日、米屋さんが決起大会を開くのだそうである。

 何故大会を開くか。豊作でめしが食えないからだ。十五年前は国民の方がめしが食えなかったが、今は米屋さんがめしが食えないのである。

 豊作であるからして、誰も米屋から配給米は買わない。配給米はまずい。役人のやりくり操作が不手際で、古米がまじっているし、したがって栄養価も低い。闇米の方がずっとおいしく、値段も時としては配給米を下廻る。

 誰が配給米なんか食ってやるもんか、という気持になるのも当然だろう。

 ふつう豊作なら、商品が活発に動いて、それを取り扱う米屋さんは大いに儲かり、血色もよくなる筈だが、そうならないところに現在のふしぎ、いや、歪(ゆが)みがある。

 その歪みをつかさどる官庁のために、われわれは税金を払っているのだと思えば、またむらむらと腹が立って来る。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第四十八回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年三月十九日号掲載分。因みに当時の東京都知事は東京大学名誉教授で医学博士であった東龍太郎(あずま りょうたろう 明治二六(一八九三)年~昭和五八(一九八三)年:都知事在任は昭和三四(一九五九)年から二期で昭和四二(一九六七)年)。因みに彼の住所は東京都練馬区下石神井で、梅崎春生の居住地練馬区豊玉中(とよたまなか)とそう遠くない(因みに私は幼稚園から小学一年の途中まで練馬区大泉学園で過ごした)。

「ある裁判官はヤミを拒否し、その結果栄養失調で死亡した」佐賀県出身の裁判官で、敗戦後の食糧難の中、闇市の闇米を拒否、食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続けて栄養失調によって餓死した山口良忠(大正二(一九一三)年~昭和二二(一九四七)年)氏のことである。ウィキの「山口良忠」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『佐賀県杵島郡白石町に、小学校教師の長男として生まれる。鹿島中学校(旧制)・佐賀高等学校(旧制)・京都帝国大学を卒業。大学院に進み宮本英脩・佐伯千仭に師事、高等文官試験司法科試験に合格、判事となる。一九四二年(昭和十七年)に東京民事地方裁判所に転任後、一九四六年(昭和二十一年)十月に東京区裁判所の経済事犯専任判事となる。この部署では、主に闇米等を所持していて食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた』。『食糧管理法違反で起訴された被告人を担当し始め、配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのにそれを取り締まる自分が闇米を食べていてはいけないのではないかという思いにより、一九四六年(昭和二十一年)十月初め頃から闇米を拒否するようになる』。『山口は配給のほとんどを二人の子供に与え、自分は妻と共にほとんど汁だけの粥などをすすって生活した。義理の父親・親戚・友人などがその状況を見かねて食糧を送ったり、食事に招待するなどしたものの、山口はそれらも拒否した。自ら畑を耕してイモを栽培したりと』、『栄養状況を改善する努力もしていたが、次第に栄養失調に伴う疾病が身体に現れてきた。しかし、自分が職を離れたら「担当の被告人百人をいつまでも未決でいさせなければならない」ことになると療養も拒否した。そして、一九四七年(昭和二十二年)八月二十七日に地裁の階段で倒れ、九月一日に最後の判決を書いたあと、やっと故郷の白石町で療養する事となる。同年十月十一日、栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核)のため』、三十三歳の若さで『死去した』。『死後二十日ほど経った十一月四日に、山口の死が朝日新聞で報道され、話題を集めた』。なお、『その自らに厳しい態度から、食糧管理法違反で逮捕された人々に対しても過酷であったのではないかと思われがちであるが、むしろ同情的であり、情状酌量した判決を下す事が多かったと言われる』。『この事件から、闇米を食べなければ生きて行く事それ自体が不可能であり、食糧管理法それ自体が守る事が不可能な法律であったという意見もあり、食糧管理法違反事件ではしばしば期待可能性・緊急避難の法理の適用が主張されたが、裁判所によってことごとく退けられていた』。『食糧管理法を遵守して餓死した者として、山口の他には東京高校ドイツ語教授亀尾英四郎、青森地裁判事保科徳太郎の名が伝えられている』。『敗戦によって満州・朝鮮・台湾といった穀物の供給源を失い、またそれら外地からの引揚者によって人口が激増、日本の食糧事情は極めて劣悪なものとなっていた』。『それでも、例えば「食えないための一家心中」といったような記事は、社会不安を煽り、占領政策がうまく行っていないことを印象づけるおそれのあるものとしてGHQ』(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers:連合国軍最高司令官総司令部)『の検閲基準により報道できないものとされていたこともあって、餓死について報道がなされることはほとんどなかった』。『ところが、一九四五年(昭和二十年)十月、幣原内閣の大蔵大臣であった渋沢敬三は、米国UP通信記者に対して、一九四六年(昭和二十一年)度内に餓死・病死により一千万人の日本人が死ぬ見込みであると語り、国際的ニュースとなった。これに対し、同年十二月二十一日』、GHQ公衆衛生福祉局長衛生局長クロフォード・サムス(Crawford Sams 一九〇二年~一九九四年:医学博士で米国陸軍軍医准将。占領化の日本で医療政策に多大な影響を及ぼしたが、昭和二六(一九五一)年の陸軍元帥で連合国軍最高司令官であったダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur 一八八〇年~一九六四年)の更迭とともに同グループであった彼も辞任・帰国し、翌年のマッカーサーの大統領再出馬失敗によって以後の出世は閉ざされた。ここはウィキの「クロフォード・F・サムスに拠った)は、『「日本がいまや飢餓線上にあるとか、病院は飢餓患者で満員だとか、上野駅だけでも毎晩数十人の餓死者を出しているというのは、巧妙な流言戦術である。それはアメリカから食糧をもっと送らせようとして、故意に事実をねじ曲げていることなのだ」と批判』。『結局、日本側は、成人一人一日当りの栄養摂取量を千五十キロカロリーという生命維持に必要な最低ぎりぎりの限界(現在の平均摂取量の半分以下)まで絞って食糧輸入を要請、このままでは追加の軍隊派遣が必要になると踏んだアメリカ側の判断により、輸入が許可された』。『また、農家による食料供給の意欲の減退も食糧危機の要因であったことから、農林大臣副島千八の決断により、全農家に対して強権的に米を供出させる緊急勅令第八六号を発動するなどしている』。『一方で、上記のようなGHQ側からの批判に応えるため、一九四六年(昭和二十一年)七月十五日には勅令第三百十一号「連合国占領軍の占領目的に有害なる行為に対する処罰等に関する件」を公布・施行。食糧統制に違反する行為は、単なる経済犯ではなく、占領軍に対する敵対行為の中に含まれるという公権的な解釈が確立、ほとんど必罰主義による解釈適用がなされるようになる』。『加えて、当時の裁判官の地位は非常に低く、ヤミ物資を買うにも十分な給与があるとは言い難く、複数の裁判官が栄養失調に苦しんでいる状態であり、過労や結核に栄養不足が加わって死ぬ者も少なくなく、裁判官の給料では到底食えぬとして、弁護士に転職する者が非常に多く、個々の裁判官の負担をますます重いものとしていた』。『山口の死を伝えた朝日新聞の第一報(西日本版)は、社会面トップに「食糧統制に死の抗議 われ判事の職にあり ヤミ買い出来ず 悲壮な決意つづる遺書」との四段ぬきの大見出しで報道され、死の床につづられた日記の一節であるとして以下の文章が掲載された』。――『食糧統制法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せなければならない。自分はどれほど苦しくともヤミの買出なんかは絶対にやらない。従つてこれを犯す奴は断固として処断する。自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつつも、その法律のために潔く刑に服した精に敬服してゐる。今日法治国の国民には特にこの精神が必要だ。自分はソクラテスならねど食糧統制法の下喜んで餓死するつもりだ。敢然ヤミと闘つて餓死するのだ。被告の大部分は前科者ばかりだ。自分等の心に一まつの曇があり、どうして思ひ切つた正しい裁判が出来やうか。弁護士連から今の判検事諸公にしてもほとんどが皆ヤミの生活をされてゐるではないか、としばしばつき込まれたではないか。自分はそれを聞かされた時には心の中で実際泣いたのだ。公平なるべき司直の血潮にも濁りが入つたなと。願はくば天下にヤミを撲滅するために、よろこんでギセイとなることを辞せない同志の判官諸公があつて、速かに九千万国民を餓死線上から救ひ出したいものだ。家内も当初は察してくれなかつた。それもそのはずだ。六つと三つのがん是ない子をもつ母親として「腹がへつた、何かくれないか」と要求される度に全く断腸の思ひをし、夫が判官の精神を忘れること、世のたとへに言ふ「親の心は盲目だ」で、ついアメの一本でもと思つたのも実に無理もなかつたであらう』。――『翌五日の東京版では文面が異なっている』。――『食糧統制法は悪法だ、しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せねばならない、自分はどれほど苦しくともヤミ買出しなんかは絶対にやらない、従つてこれをおかすものは断固として処断せねばならない、自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつつもその法律のためにいさぎよく刑に服した精神に敬服している、今日法治国の国民にはとくにこの精神が必要だ、自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで餓死するつもりだ、敢然ヤミと闘つて餓死するのだ、自分の日々の生活は全く死の行進であつた、判検事の中にもひそかにヤミ買して何知らぬ顔で役所に出ているのに、自分だけは今かくして清い死の行進を続けていることを思うと全く病苦を忘れていい気持だ』。――『この病床日記は、スクープした分部照成』(「わけべてるなり」と読むか。当時の『朝日新聞』佐賀支局記者であった)『によれば、山口の父から受け取ったものであるという。しかし、山口の妻子はこの日記の存在を承知しておらず、他の判検事を悪し様に批判し、自己の価値観を押し付けるかのごとき過激な文面が生前の言動と矛盾するとして、真贋に疑問を呈している。これに対して、分部は、我が身を鼓舞するためにあえてそのように書いたのではないかとしている』。『なお、妻矩子』(「のりこ」と読むか)『の回想によれば、山口は生前以下のように語ったという』。『人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない。闇にかかわっている曇りが少しでも自分にあったならば、自信がもてないだろう。これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい』。

「今年(昭和三十六年)の三月八日、米屋さんが決起大会を開く」確認出来なかった。識者の御教授を乞う。]

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