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« 俳人芥川龍之介   飯田蛇笏 | トップページ | 其の後の虛子、龍之介、二氏の俳句   飯田蛇笏 »

2016/07/01

芥川龍之介氏の俳句   飯田蛇笏

[やぶちゃん注:末尾のクレジットから発表は大正一二(一九二三)年八月四日(初出記載なし)。底本は飯田蛇笏「俳句道を行く」(昭和八(一九三三)年素人社書屋(そじんしゃしょおく)刊)を国立国会図書館デジタルコレクションの同書当該パートの画像で視認して電子化した。傍点「ヽ」は太字とし、踊り字「〱」は正字化した。句の表示の字配は再現していない。また、諸文章等の長い引用部では、全体が一字下げとなっているが、ここは無視したので、引用終了箇所には注意されたい。以下、少し語注を施しておく。

 冒頭に出る「永田靑嵐」は兵庫出身の政治家永田秀次郎(明治九(一八七六)年~昭和一八(一九四三)年)の俳号。第十八代三重県知事、第八代(在任中の関東大震災では復興に尽力した)及び第十四代東京市長、貴族院議員。第九代拓務大臣・第十八代鉄道大臣を歴任した。

 形式第二段落の「それは俳壇外の人で而も知名な人物であつてから」の「あつてから」は「あつたから」の誤植がやや疑われるが、しばらくママとする。

 第三段落の「若尾瀾水」(らんすい 明治一〇(一八七七)年~昭和三六(一九六一)年)は子規庵句会に加わったりした俳人であったが、子規没直後に俳誌『木兎(づく)』で「子規子の死」を発表したが、そこで激しい子規批判と俳句復興運動の「写生」論などの独自性を否定をするなどし、それが受け入れらずに俳壇から一時期、追放された形となった。大正期に俳誌『海月』を主宰している。

 同「最う」は「もう」と読む。

 同「中村樂天」(慶応元(一八六五)~昭和一四(一九三九)年)は本名を中村修一といった兵庫県出身のジャーナリストで俳人。明治一八(一八八五)年に上京、徳富蘇峰主宰の『国民新聞』記者から『国民之友』の編集に従事、後に『和歌山新報』『二六新報』に勤めた。正岡子規・高浜虚子に俳句を学び、晩年、俳誌『草の実』を創刊・主宰した。

 同「篠原溫亭」(明治五(一八七二)年~大正一五(一九二六)年)は俳人で小説家。熊本県出身。本名は英喜。京都本願寺文学寮(現在の龍谷大学)に学んだ後に上京、『國民新聞』」に勤めて活躍する傍ら、『ホトトギス』同人となって子規・虚子らに俳句を学んだ。大正一一(一九二二)年には俳誌『土上(どじょう)』を嶋田青峰らと共刊した。小説に「不知火」「二年越」「昔の宿」など。

 同「年齡からいうても靑嵐氏とは多分の相違があらう」芥川龍之介の生年は明治二五(一八九二)年三月一日であるから、凡そ十六歳年下になる。因みに筆者飯田蛇笏は明治一八(一八八五)年四月二十六日生まれであるから、龍之介より七つ年上である。

 『俳句が「ホトトギス」雜詠などに見え始めたのが凡そ四五年前からのことである』現在、『ホトトギス』「雜詠」欄に載った最初期の芥川龍之介の句は、大正七(一九一八)年五月刊の『ホトトギス』の、

   熱を病んで櫻明りにふるへ居る

   冷眼に梨花見て轎(かご)を急がせし

と考えられているが、この署名は「椒圖」であったため、蛇笏は認識していないと思われる(岩波旧全集でさえこれを落していた。一九九六年の新全集で初めて所収された。但し、同一の句が「我鬼窟句抄」の「大正七年」のパートには出る)。蛇笏が最初に眼をとめだしたのは恐らく、

   裸根も春雨竹の靑さかな

   蜃氣樓見むとや手長人こぞる

   暖かや葩しべに蠟塗る造り花

(以上三句・大正七年六月刊『ホトトギス』。以下、同じ)

   干し傘を疊む一々夕蛙

   水面たゞ桃に流れ木を湖へ押す

(以二句・大正七年七月号)

   鐵條(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな

   日傘人見る砂文字の異花奇鳥

   靑簾裏畑の花を幽かすかにす

(以上三句・大正七年八月)

の辺りであるが、後で「鐵條(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな」のところで記されるが、蛇笏はこの署名「我鬼」が、かの芥川龍之介の俳号とは知らずに無名の者の力作の逸品と褒めたことが出、その後の叙述からも、それから後もかなり長い間、「我鬼」が龍之介だとは知らず、作家芥川龍之介の句として認識して注目し出すのは実は翌大正八年の後半ぐらいまでずれ込むようである。但し、この叙述は蛇笏の作者龍之介認知ではなく、実際に芥川龍之介が『ホトトギス』へ投稿し出した時期を客観的に述べているのであって、本執筆の大正一二(一九二三)年八月より「凡そ四五年前」ならば、大正七(一九一八)年五月刊の『ホトトギス』の初出とはよく一致する。なお、芥川龍之介俳句の初出の経緯詳細は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」を参照されたい(以上の引用もそこから)。

 第五段落「恁麼」は多く禅宗の仏語(その場合、多くは音の「いんも」で)として使用される疑問詞や指示語であるが、ここは後者の用法で「かくなる」と訓じていると読む。後に複数出る「恁う」も「かう(こう)」で同じく指示語である。

 同前「撤排」撤廃に同じい。

 同前「下し得る哉」の「哉」は「や」という軽い疑問(推量)で読むべきである。「かな」では幾ら俳誌主宰者とは言え、「かな」などと詠嘆されたのでは、私が読者なら、だったら同人なんど撤廃するがよかろう、と言いたくなるからである。

 同前「企及」(ききふ(ききゅう)」はここでは「肩を並べること・匹敵すること」の意。

 第六段落「原月舟」(明治二二(一八八九)年~大正九(一九二〇)年)東京生まれ。慶応義塾大学理財科卒。明治末年から『国民新聞』に投句、松根東洋城の選を受く。大正初期の虚子の俳壇復帰とともに『ホトトギス』に投句し始めて頭角を現わし、大正三(一九一四)年には同誌の募集俳句選者の一人となった。大正七年十月からは同誌に「写生は俳句の大道であります」を連載して〈『ホトトギス』流写生論〉を鼓吹したが、一方ではその瑣末な写生が批判された(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

 同「久米正雄氏との對話」(小谷野敦「久米正雄・詳細年譜」によって、これは大正八(一九一九)年二月にインタビューが行われていることが判った。蛇笏の言うように、これが『ホトトギス』の十一月号に載るとは、これどういうことか?! 季語を絶対とする守旧派でありながら年初の対談を年末に載せるたぁ! 如何にも人を馬鹿にした話じゃねぇかい!)の引用部は底本の字下げを無視して電子化した(直接話法箇所が二行に亙る箇所では発言者の柱の下までしか二行目以降は上がってこない字配となっている)。また、引用の最初の「久米」の柱の後にある「(一讀して微笑と共に)」は底本では割注で、ポイント落ち二行表記である。

 同段落同引用中の「普羅」は前田普羅(明治一七(一八八四)年~昭和二九(一九五四)年)。大正元(一九一二)年に俳句界の新人として高浜虚子に激賞されて『ホトトギス』の一翼を荷った。

 同段落のその後に蛇笏が引く「靑蛙汝もペンキ塗りたてか   我鬼」は、

   靑蛙おのれもペンキぬりたてか

が正しい(「おのれ」「塗りたて」)。大正八年三月『ホトトギス』に載る。なお、この時点でも蛇笏は作者を芥川龍之介とは認識していなかった。

 第八段落の虚子の評に出る龍之介の句と並べられた「炎天や大地濁して煙影」は語彙の選び方といい、私もなかなか佳句と思うが、この句も作者の「泊露」なる人物も、まさに無名人の中に埋もれてしまったらしい。情報があれば是非とも御教授を乞う。

 第九段落の「我鬼氏の座談」は正確には「我鬼氏の座談のうちから」である。大正九(一九二〇)年一月の『ホトトギス』に無署名で掲載されている。幸い、私が電子化した『「芥川龍之介氏座談我鬼氏の座談のうちから」芥川龍之介氏座談』があるので、是非、参照されたい。蛇笏が述べているように、ここに出るのは、そこで龍之介の述べた俳句論の柱の部分だけだからである。

 同段落に出る「天の川の下に天智天皇と臣虛子と」という如何にもおぞましい句は無論、高浜虚子の句である。大正六(一九一七)年に太宰府を参拝し、その夜、都府楼址に佇んで懐古した句とする。言っておくが、私はの虚子嫌いであるので、悪しからず。

 同段落の芥川龍之介の引用句の「ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏」の句は大正一〇(一九二一)年五月の中国特派の途中、漢口での嘱目吟である。「巴旦杏」は本来、中国語ではバラ目バラ科サクラ属ヘントウ(扁桃)Prunus dulcis、「アーモンド」のことを指す。しかし、どうもこの句柄から見て、漢口という異邦の地とはいえ、果肉を食さないずんぐりとした毛の生えたアーモンドの実が籠に盛られているというのは、相応しい景ではない。実は中国から所謂、「李(すもも)」が入って来て以降(奈良時代と推測される)、本邦ではこれには「李」以外にも「牡丹杏」(ぼたんきょう)や「巴旦杏」(はたんきょう)という字と呼称が当てられてきた経緯があり、ここで芥川はバラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicinaの意でこれを用いていると考えるのが妥当であり、蛇笏自身の後の観賞文でもそう理解して評していることが判る。因みに「すもも」としての「巴旦杏」の季語は春である。なお、私の「雜信一束 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「二 支那的漢口」をも必ず参照されたい。

 同じ引用句の最後の「笋の皮の流るゝ薄暑かな」の「笋」は、龍之介自身が「たかんな」或いはカタカナで「タカンナ」と振っている。引用する以上、読みの振れる漢字にルビを振るのは最低の礼儀である。それでなくても佶屈聱牙なる語彙を平気で自句で使う蛇笏にしてこの為体(ていたらく)! レッド・カード!

 「白桃の」句評中の「大川秀薰」は日本画の女流作家であるが、事蹟不祥。識者の御教授を乞う。この絵を見てみたい。

 「癆痎の」の句は大正七(一九一八)年十二月の作であるが、蛇笏の「内容は鼠小僧の次郎吉を書いたもの」、即ち、芥川龍之介の「鼠小僧次郎吉」初出は大正九(一九二〇)年一月の『中央公論』であるから、時系列では句の成立の方が二年も早い。また、同文中の「胡坐」は「あぐら」と読む。

 「あらあらし霞の中の山の襞」句評中の「強ひ」は、「しひ」(しい)。強引の謂いであろう。なおここで蛇笏は「作者相當に得意なものであらうことが見透かされる」と述べているが、事実、本句は芥川我鬼自身、会心の作として自負していた一句である。大正一〇(一九二一)年九月二十三日附久米正雄宛書簡に載るものが最も古いクレジットの明確なものでありそこではまさにこの通りの表記「あらあらし霞の中の山の襞」で記されている。句の前に「人あり因に問ふ 如何か是藝術 我鬼先生答へて曰」とあることからもその自信が窺われよう。因みに小島政二郎はこの句を芥川の俳句開眼と見ている。やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句 (明治四十三年~大正十一年迄)の岩波旧全集書簡番号九四三に昭和五十二(一九七七)年読売新聞社刊の小島政二郎「長編小説 芥川龍之介」から本作誕生のリアルな映像が語られている。未見の方は、是非、お読みあれかし。

 「笋の」句評中の「底力」は実は底本では「庭力」。誤植と断じて異例に訂した。

 第「二」部の「水の面」の句評中の「意嚮」は「いかう(いこう)」で「意向」に同じい。

 最後から三番目の段落「即ち蜃氣樓といふものを……」の段落の内、「遂に芥川氏の詩的才能が、大空の蜃氣樓に對して憧憬……」とある箇所の「大空の蜃氣樓」は底本では「大空の蜃 樓」と脱字している。補った。

 引用句「白南風の」の「白南風」は「しらばえ」と読み、南風(はえ:南方から来る風の意であるが、漁師や水夫はこれを天候の変化の前兆として警戒する)の中でも梅雨が明ける六月末頃から吹き始める南風を指す。

 最後のクレジットは、底本では本文から改行され、下一字空けインデントで載る。]

 

 

      芥川龍之介氏の俳句

 

        一

 玄人ならざる玄人として見ることが出來る句作に秀でた技能をもつた人が現代に二人ある。その一人は永田靑嵐氏で他の一人は芥川龍之介氏である。

 折にふれて發表されるこの二人の作句には何時も敬愛の念をもつて接した。而うしてかすかなこゝろもちではあるが、何故か知ら作句が發表されてくることを心待ちにまつやうな自分であつた。それは俳壇外の人で而も知名な人物であつてから、俳句に指を染めて居るといふことに多分の興味をそゝられて居ることでもあつたが、それよりは專門に研究して居る俳人連中の作句ををさをさしのぎ氣味であるところの佳作が強く心をひくものであつた。

 永田靑嵐氏は俳歷からいふと芥川氏よりは非常に古く、すでに靑嵐氏は土佐の若尾瀾水氏等と一緒に高等學校に居た時分から俳句をやつて居たといふ話であるから、之を俳檀へひつぱつて來るとしても、最う中村樂天氏や篠原溫亭氏等と同樣に俳壇の古老として遇せられるのであるが、芥川氏は其の點はまだ古くはない、年齡からいうても靑嵐氏とは多分の相違があらうと思ふが、俳句が「ホトトギス」雜詠などに見え始めたのが凡そ四五年前からのことである。それ以前に於てひそかに研究されて居つたものであるかどうかそれは知らないが、少くとも吾人の眼に映じた俳人我鬼氏はその頃からである。

 靑嵐氏に就ては嘗て少しばかり書いたこともあるし、瀾水氏の「海月」でも一寸靑嵐氏に言及したことがあるので、玆には同氏に就ては何も云はぬこととして、芥川氏の作句に就て少しばかり思ふことを言うて見たいとおもふのである。

 大正八年の七月發行の「雲母」へ私は山廬漫筆と題して恁麼ことを書いた。

 (前略)各〻居城を異にしてその砦をまもり旗幟を飜しては居るやうなものの、仔細に之を見ると、その居城を異にするところがより多く人間と人間とを埓したるかすかな分界を意味したるもののみで、潜在した作品の内容に於ける價値如何を論究する場合に當つては寧ろこの居城を撤排してやうやく鳥瞰的論斷を下し得る哉の感がある。(中略)むしろその新しとなし古きと斷ぜんとするものの眞に俳句の大道を潤歩して磐石の重きをなし千古にその價値を傳へんとするものは、彼の居城を撤排したる大平野に於て之を見得るかの傾向が看取される。

 (中略)現俳壇に於て、私の主張する靈的表現であり主觀的寫生として愛誦措く能はざる作品は其の數相當の多きに上るであらうと思ふが、わけても「ホトトギス」雜詠に發表された、

  鐡條(ゼンマイ)に似て蝶の舌暑さかな   我鬼

の如きは其の代表的なものとして擧ぐるに躊躇せぬものである。

 俳壇知名の士が駄作はしばらく措き、無名の俳人によつて力作さるゝ逸品が選者の鋭い吟味と深い考慮とによつて世上に公表さるゝ事は嚴肅な尊い文藝界の慶事として他の何物にも企及し難い誇りを示すものである。選者はすべからく之の自受なくして可ならんやである。(下略)

 文中「無名の俳人によつて力作さるゝ逸品」などとして、芥川氏を無名呼ばはりしたりしたのは、我鬼といふ一俳人が芥川龍之介氏であつたといふことを知らなかつた頃のことで、私としても可笑しさに堪へない。

 其の後、その年の「ホトトギス」十一月號へ、原月舟君が「久米正雄氏との對話」と題して、その俳句に關する對話を掲げた。

 月舟「芥川さん(我鬼)の靑蛙の句が大分評判ですが貴方はどうお思ひでせうか、普羅さんの書かれたものがこれです。」

 久米氏(一讀して微笑と共に)「へえ、そんなに新時代を劃すと云ふ程の句とは思へませんね、私には。」

 月舟「蛇笏さんはキララでこの句を評されて、かゝる無名の一作者がかゝる佳作を發表し得るのは選者と云ふ者を必要とする俳句の一特色である、とか云ふ意味の事を書かれました。」

といふのがそれだ。常時月舟君がどう感違ひして居たのか、私の推奬したの句と普羅君が何かへ書いたといふ靑蛙の句とは同じではなかつた。靑蛙の句といふのは、たしか、

   靑蛙汝もペンキ塗りたてか   我鬼

といふ句であつたと思ふ。

 月舟君のこの書きものは少しく心に逆ふものがないでもなかつたが、發表したりして月舟君をきまり惡い思ひをさせるほどのこともないと思つたからして、當時私信で月舟君へ宛てて私の推獎した句とは違つて居る旨を告げて、多少の意見を加へて置いたまでのことだつた。

 つい先頃『ホトトギス』四月號に於て虛子翁も、

 「寫生句の中に、

   炎天や大地濁して煙影     泊露

   鐡條に似て蝶の舌暑さかな   我鬼

等の句がある。

 「鐡條」の句は、蝶々の舌を見ると、細く長く而も曲つてある、あの優しい蝶々の舌であるから、その舌もなよなよと優しいかと思ふと、どうしてく針金で拵へた堅い鐡條のやうに見える舌である。それを發見した時の感じが暑いやうな心持がしたといふのである。蝶々の舌を描き出すことが已に奇な上に、それか鐡條の如しと見たる作者の心持も決して平凡でない。併しながらこの句を讀んで感ずることは、如何にも正しい寫生句だと云ふことだ。寫生でなければ想像もつかないことである。併しながら寫生するに當つてその蝶の舌を鐡條に似たと感ずることは作者の特異な境地である。前の「大地濁して」の句の濁すと感ずることもやはり作者の主觀であるが、この鐡條に似たと感ずることは一層作者の主觀であるといはねばならぬ。云々」

として此の芥川氏の句を推獎して居られる。道理のことと思ふ。

 芥川氏の作にはこの「鐡條」の句のみでなく、恁うした主觀的寫生に立脚した句が甚だ多くこの句境に於て主として成功を收めて居るのである。嘗て「我鬼氏の座談」として「ホトトギス」誌上へ掲げられた同氏の意見のうちにも「僕は俳句を作るには三つの態度があると思ふ」として

 一、一つはありのまゝにうつす純客観の態度で写生といふのは大體これに當る。

 一、次は自然や周圍が自分に與へる印象なり感じなりを捉へて現はすもの。

 一、最後は純主觀で「天の川の下に天智天皇と臣虛子と」のやうな句がそれである。

と説き、「三つのうちでどれがいゝかと云ふことは一概に云へないけれど、私は中の態度を採る」と斷定して居る。即ちこの態度からして生ずるのが「鐡條に似て蝶の舌暑さかな」なのであつた。猶これに屬すべき氏の作句を擧げてみよう。

   裸根も春雨竹の靑さかな    我鬼

   白桃の莟うるめる立ち枝かな  同

   癆痎の頰うつくしや冬帽子   同

   夏葱にかそけき土の乾きかな  同

   靑簾裏畑の花を幽かにす    同

   古草にうす日たゆたふ土筆かな 同

   あらあらし霞の中の山の襞   同

   ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏  同

   笋の皮の流るゝ薄暑かな    同

等の如きは皆それである。

 「裸根も」は春雨のふりそゝぐ春竹が根をあらはにして靑々として居る。やはらかな感じで居て、而もどこやら餘寒の幽かにたゞようて居るおもむきが出て居るところが命である。

 「白桃の」は、直ぐだちした白机の枝に點々と着きならんだ莟がうるんで見えるといふおもむきで、一見極めて平凡と見えるうちに云ひしらぬ味ひをもつ句である。「うるめる」は言ふまでもなく「潤める」で、莟の白色であるべきと思ふのが澄明でなくやゝ曇りを帶て光澤を遠ざけて居るといふであらう。今春上野の日本畫會とか云つた展覽會で大川秀薰といふ人の鳩か何かを配した白桃の畫を見たが、その畫がやゝ之に近い感じを表はして居る畫であつたことを思ひ出す(たゞ畫中に配された鳩は困つたもので、何故にあんな蛇足をそへたかと思うた。生一本に白桃を畫きぬいて呉れたらよかつた)。其の畫が、莟のほころぴかゝつたうるみ色がついついと伸びきつた靑い枝に點じて居るところから貴く高い匂ひをはなつて魅するやうな氣分を與へた。この句と藝術の上の一致點をもつたものであらうといふやうなことが思ひ出される。

 「癆痎の」の句は之も感じを主とした句で、わづらうて瘦せおとろへた靑年の頰が冬帽を被つた風情美しく橫合ひから眺められるといふ、ことにやつれの見える頰のあたりを主觀的に描き出したところにうまみが見えるのである。

 私は芥川氏の創作をば多くは讀んでは居ないが、嘗て中央公論か何かで一寸讀んだことのある短篇――標題は何といつてあつたか忘れたが内容は鼠小僧の次郎吉を書いたものであつた。それが、東海道のある旅籠屋で一人の鼠小僧が賊をはたらいて旅籠屋の者に捕つてしまひ、繩か何かでからげられてから、土間にひき据ゑられて啖呵をきつて居る。俺は何をかくさう今江戸で名高い鼠小僧の次郎吉だといふやうなことを言ふ。と、それを本物の次郎吉が二階で眼をさまして胡坐か何かでのぞきこんで居るといふやうなもので、こだはりなくあつさりとやつてのけて居るうちに、あの太ッ腹の義賊次郎吉が克明に描き出されて居たことを思ひ出す。この作などを透して見ることが出來るよき藝術上才氣といふものが、矢張り俳句の方へ斯うした「癆痎の」の内容のうまみを持ち來たすものであらうと思ふ。

 「夏葱に」は、夏葱の培はれてある土の幽かに上(うは)乾きした感じを命とするもので、

 「靑簾」は、句意にむづかしいところはない、やはり平凡の形といへばいふことも出來る句である。而うして誰でも一寸やれば出來るといつたやうな句境であるが、併しいざやつてみるとなると出來るものではない。やはりこの幽かにすのうまみは凡手では出來難い。一讀颯爽たる涼味を感じ來るところに強味があるのである。

 「古草に」も、土筆を取かこんで古草にたゆたうて居るうすうすした日影にひきつけられる。

 「あらあらし」は、作者相當に得意なものであらうことが見透かされる。多少の強ひ加滅がないでもないが、感じは十分に出て居る句で、やはり佳作たるを失はぬ。

 「ひと籠の」も、巴旦杏が籠の中に夏日の暑氣をうけて照り光つて居るといふ句で可たり強い感じを與へる句であるが、さうかと云うて腐れ爛れるといふやうな程度の極度な感じをうちつけて來るものではない。既に句として扱ふ根本の取材に於て、それが巴旦杏であり、又實に一と籠の巴旦杏であるだけそれだけ、どこやらすつきりしたところのあることを見逃がすわけにはゆかぬ。やはり芥川氏らしいところを十分に認める。

 「笋の」は、前置きに「加茂川」としてある句で、恐らく加茂川邊に遊んだときの實感から得られたものであらう。加茂川の水の流るゝ上を筍の皮がちつてはながされてゆく初夏の光景から薄暑のたゞようて居る感じをあらはしたもので、可なり細い線をもつて描いてゆく裡に底力をもつた感じがはつきりとよく出て居る句である。

 

        二

 

 前掲述べ來つたところは芥川氏の自ら主張もし其の努力が鮮明に表現されて居るもので、珠玉と倣すべきものであることは云ふまでもないことであるが、其外に又前にあげたものの第一項に屬すべき句、即ち物象をありのまゝにうつす純客觀の寫生の態度から産れたもので、佳作として推奬すべきものも尠くない。

   殘雪や小笹にまじる龍の髯    我鬼

   水の面たゞ桃に流れ木を湖へ押す 同

   星赤し人なき路の麻の丈ケ    同

   炎天に上りて消えぬ箕の埃り   同

   秋の日や竹の實垂るゝ垣の外   同

   野茨にからまる萩の盛りかな   同

      湯河原の宿

   三月や茜さしたる萱の山     同

   蒲の穗はほゝけそめつゝ蓮の花  同

   線香を干したところへ桐一葉   同

   日傘人見る砂文字の異花奇鳥   同

   燭臺や小さん鍋燒を仕る     我鬼

などの如きは其の實例として見るべきものである。

 「殘雪や」は、龍の髯が小笹の中にまじつて生えて居る山地などに、春先きの殘雪が鹿の子まだらに見えるといふ寫生である。

 「水の面」は、句法が少しくごたごたしては居るが、一と通り讀み終つてしまふと滑かに心ひゞいて來る句境で、「水の面たゞ」というた「たゞ」にかすかな作者の主觀的意嚮がうごいて居ないこともないが、それは枝葉のことで大體に於て、湖上へ向つて流れ木の流動する客觀描寫がひつくるめて扱はれて居る。

 「星赤し」も、亦同じやうな客觀で「人なき路の」の「人なき」はやゝ觀察しうるものがないでもないが、これも「たゞ」の程度で先づ純寫生と見て差支ない。唯「星赤し」の「赤し」が、光り澄むとか若しくは白く輝くべきであるのを餘程強く主觀を加味したものではないかといふことも疑へば疑へるが、併し實際からいうて夏の夜の星は水蒸氣か何かの關係でひどく赤光を帶びて見えることがある。其の實景に可なりふかく興味を見出して寧ろ忠實に寫生したものと見るベきであらう。この異常な實景が呼ぶ感じは此の句としての價値に可なり重石づけるわけである。

 「炎天に」は、極めて平明な客觀的句境で何等惑ふ餘地もない。

 「秋の日や」は、これも秋の日に竹の實が熟して垣外へ垂れ下つて居るといふ寫生で、誰にもよくわかる佳作である。

 「野茨に」は、野萩が眞盛りに吹きさかつて野茨に纒ひついて居るといふ光景をありの儘に寫生した句で、自然のすがたながら情味あるかの趣きにすつきりした美感を誘はれるのである。

 「三月や」は、湯河原の宿といふ前置きのある句で、作者が湯河原の温泉宿に遊んで居て恁うした實景に接して作つたものであらう。平明なよい寫生句である。

 「蒲の穗」の句咳これも無論寫生。句であるが、これまで列擧した作とは少し違つた句法に出て居るので、少しでも俳句を學んだ人にとつては何でもないが、初學の人にはやゝ解しにくく自然その趣きをも會得出來兼ねがちかもしれぬ。

 併し成る可く簡單に解をくだして「蒲の穗はほゝけつゝあり、あたりに圓盤のやうな靑い廣葉をひろげた蓮が今や其の淸楚な花を開いて居る」といふやうに觀てとればそれでいゝのである。

 「蒲の穗は」の「は」は「の」といふほどの意味である。一見して机上の作のやうにも思へるが併し此の句境は實景に接して深く心頭に刻んだ感激から發せなければ得られぬものである。

 「線香を」は、秋をむかへた桐一葉が線香を干しならべたところへ落ちたといふので、線香を拵へて居る家の庭などと思つて思へないこともないが、それよりは寺院もしくは在家でもいゝ、少し濕氣のきた線香を庭へ干した。すると其處へゆらゆらと桐の落葉がした、といふおもむきが作者の心をうごかしたところであらうと思ふ。少しもたくらむやうなところのない實景を展じて趣にうつたへた、いやみのない佳作である。

 「日傘人」は、先年「ホトトギス」の俳談會にも話題にのぼつて兎や角言はれた句で、句意は夏日路傍かどこかで砂文字をやつて色々な花や鳥など畫いて居るのを、日傘を翳した人が珍しくのぞき込んで居るといふので、その砂畫きの異花奇鳥に心をひきつけられて、恐らく小髮あたりへは汗をにじませて居るだらうほどの、暑苦しい感じなり氣分なりを出さうとした作者の意圖がうかゞはれるものである。

 この句などは果して芥川氏が今恁うした實景に接して作つたものであるかどうかは疑はしいが併したとひ實景に接したものでないとしたところで、恁うした物を客觀的に取扱ふ點からいふと同じ系統に屬して屬せられないことはないものであつて、やはり俳句一方の領域を占むるものとして存置すべき必要は十分に認むるものである。

 「燭臺や」は、又恐らく實見から來たもので、これをありのまゝにいつて倣し得た句であらうと思はれる。即ち例の落語の小さんが燭臺にともる燈に照されながら、落語三昧に入つて居る。私は落語の事はよくは知らないが、「鍋燒」といふのは、小さんの最も得意とする落語の一つである。その小さんの妙技を聽き入つてから「小さん鍋燒をつかまつる」と敍したところに、作者得意の心持も窺はれるし、又其處が寫し得て讀者を共鳴せしむるに十分であるのである。

 斯う列擧して吟味して見ても、其の句々の中に――かゝる殆ど主觀が影をひそめた客觀的寫生の作句にさへ、何れも漲りわたつて居るのは其の才氣である。此の才氣がある爲に、なまじ下手な主觀によるよりもたくみに客觀にゆかうといふ、それが構へたるものでなしに心情自らなる流露として作句の上にあらはれるものではなからうかと思はれる。

 芥川氏の主觀の句といふのをさがして見ても殆ど出逢ふことがない。或は發表しないものの中などには有るにはあるであらうが、私の僅かに見出し得たところの佳句では、

   元日や手を洗ひ居る夕心    我鬼

くらゐのもので、外にはやゝ主觀めいた、

   白南風の夕浪高うなりにけり   我鬼

   薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな  同

といつたやうたものがあつても、矢張これは前掲第二項の主觀的寫生即ち自己對自然の印象なり感じなりを表はし來つたといふ方面に傾くものであることを否むことは出來ない。

 唯、この外芥川氏の句として留意すべきものは、

   蜃氣樓見むとや手長人こぞる   我鬼

といふやうな句のあることである。前にあげた「日傘人見る砂文字の異花奇鳥」と同系のものであるといへば言へぬこともないが、其の句よりは更に進んで行つて「手長人」といふやうな空想の人間を持ち出して來て居るところに一層色彩の濃厚な或るものがある。

 即ち蜃氣樓といふものを實見したかどうかは別として、大空の中に現出するといふ珍しい蜃氣樓の光景を如何にかして之をさながらに描出しようとするとき、遂に芥川氏の詩的才能が、大空の蜃氣樓に對して憧憬もしくは讃美の情をあらはす人物を配してみたのである。即ち大空へ向つて諸ろ手をのばしきり長くさしのばして上體をば傾き加減に、人々がこぞつて居るといふ繪畫などが人々に與へる同じやうな印象をもたらすものである。

 恁うなつて來ると、此の極端さは、俳句に盛るべき内容として俄かに吾人の贊同をゆるさぬ所がないでもないが、併し此の大膽なる描寫といひ、奇拔なる着想といひ、さうして之が幼稚でなく滑稽でなく案外上滑りしてゆかぬところに吾人の相當考慮を促されるものがあるのである。

 猶、普羅君の推奬したといふ、

   靑蛙汝もペンキ塗りたてか    我鬼

の作については、私としても、殆ど他の企て及ばない芥川氏の敏感さを認め得べきものとして此の點に多大の敬意をはらふものであることを言ひ添へておきたい。要するに創作界の才人芥川龍之介氏は、やはり俳句界へ足跡を印する才人芥川我鬼として認めらるべきものであらう。   (大正一二、八、四)

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