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2016/07/21

芥川龍之介 手帳4―1・2

芥川龍之介 手帳4

 

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年の丸善株式会社発行の手帳。

 底本は現在最も信頼の於ける岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻を用いつつ、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を参考にして正字化して示す。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改頁の相当箇所には「*」を配した。適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。

 なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものは画像(特に注のないものは底本の新全集)で示した。各パートごとに《4-1》というように見開きごとに通し番号を附け、必要に応じて私の注釈を附してその後は一行空けとした。「○」は項目を区別するために旧全集・新全集ともに一貫して編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。判読不能字は底本では字数が記されているが、ここでは「■」で当該字数を示した(画像で私が判読出来ない字も■で示した)。

 本「手帳4」の記載推定時期は底本後記には示されていないが、構想メモのある決定稿作品から推すなら、大正六(一九一七)年(「偸盜」同年七月『中央公論』)から「おぎん」(大正一一(一九二二)年九月『中央公論』)をまず措定出来るが、下限の方は未定稿(旧全集仮題「天主の死」は末尾に『(大正十二年)』とクレジットする)から翌大正十二年まで延伸し得る。]

 

《4-1》

professor

 文鳥(tamed

 Sneers of the merchant

 But I found the bird’s happy. 'tis something.

[やぶちゃん注:「tamed」人に飼い馴らされた、人に馴れた。「Sneers of the merchant」商売人の冷笑・嘲笑。商人(あきんど)が人を鼻であしらうこと。「'tis」は「It is」の短縮形。ベルギーの劇作家モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)の童話劇(五幕十場)「青い鳥」(L'Oiseau bleu 一九〇八年)をインスパイアしようとしたものか。]

 

〇夏の夕暮午後 女中 恒子 靜子 人が呼ぶ 靜子去る 恒子 一人のこるmonologue) 子供來る(antipathy) 恒子去る 子供と女中(note をのこす) 靜子來る 恒子暫くして follows. 二人談話――夕立 恒子去る 靜子 monologue 恒子バルコンより來る Monologue

[やぶちゃん注:「antipathy」は「反感・毛嫌い・性に合わないこと」の意であり、子が自律的に来て恒子が去るのであれば、これはその「子」(静子の子か)に対する恒子の生理的忌避感と捉えるべきであろう。「note をのこす」というのは、次の《4-2》の頭から子どもの帳面に何かを「書き残した」という意味である。]

 

《4-2》

子供の note へ手紙をかく 直人音に慌てて去る 靜子子供來る 子供來る 靜子手紙をことづく 靜子手紙をよむ 虹

[やぶちゃん注:前項から続いて、かなり具体な場面構想で、しかも細部に亙ったソリッドなシチュエーションであるが、現行の決定稿や未定稿にはこうしたシークエンスを持つものは見当たらない(なお、細かいことを言っておくと、英語の“note”には“notebook”の意味はない)。]

 

○噓を御つきになつた 噓はつかないよ

○共同の evil を犯すものは親密なり

[やぶちゃん注:この後者は、既に亡くなった仏教徒の実父母が「いんへるの」にいるのに自分だけが「はらいそ」に行くことは出来ないとして棄教する「おぎん」、それを聴いた切支丹の養父母の養母「おすみ」も自分はただ夫の「お供」をするだけだと告解するに至り、「おぎん」の「お父樣! いんへるのへ參りませう。お母樣も、わたしも、あちらのお父樣やお母樣も、――みんな惡魔にさらはれませう。」という呼びかけに、遂には養父「孫七」も堕落して棄教してしまい、それを知った『惡魔はその時大歡喜のあまり、大きい書物に化ばけながら、夜中(よぢう)刑場に飛んでゐたと云ふ。これもさう無性に喜ぶ程、惡魔の成功だつたかどうか、作者は甚だ懷疑的である』と結ぶところの、切支丹物の佳品「おぎん」(大正一一(一九二二)年九月『中央公論』)の構想のように私には思われる。]

 

大事件の omen として a crowd of butterflies を見る事

[やぶちゃん注:「omen」前兆。「a crowd of butterflies蝶の群れ。本邦では古えより、妖し蝶の群飛するは凶兆(オーメン)とした。そもそも蝶は人の死体にさえも群がったのである。いろいろなテクストで繰り返し既に何度も述べているが再掲しておくと、実は古来、蝶は必ずしも美しく愛でるものとして一般に認知されていたわけでは実は、ない。例えば、一九七八年築地書館刊の今井彰氏の「蝶の民俗学」によれば(私の長い愛読書の一冊である)、「万葉集」には蝶を直接歌った歌がない。即ち、古えには蝶はなんらかの不吉なシンボルとして認識されていた可能性が極めて高いということである。蝶が多く棲息するのは市中ではなく、相対的に緑の多い都会の辺縁部であって、そこは古くはイコール、死んだ者の亡骸を遺棄・風葬し、埋葬するべき触穢の時空であり、死と生の境界であった。そこに白く空を浮遊する対象物は容易に死者の霊魂を想起させたと思われる。遺体の体液を吸うために蝶が群がるというシークエンスもなかったとは言えない。清少納言や「虫愛ずる姫君」の虫女(むしじょ)カルチャー以前に、死後の世界や霊界とアクセスする回路の虚空を――白昼夜間も問わず――こそ、蝶や蛾は――実は跳梁していたのではなかったか? と私は思うのである。

 

○心中せんとする男女――汽車心中の男女をひく 心中を思ひとまる

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