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2016/07/13

靑い眼   アポリネエル 堀辰雄譯

 

[やぶちゃん注:ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 一八八〇年~一九一八年)の短篇小説L'Œil bleu(一九〇三年:音写するなら「ル・ウィュ・ブルゥー」。「Œ」はフランス語他で用いられる「O」と「E」の合字)の堀辰雄による全訳である。二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」の解題によれば初出は以下の底本である。

 底本は昭和一一(一九三六)年山本書店刊の堀辰雄の訳詩集「アムステルダムの水夫」を、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認した。傍点「ヽ」は太字とした。

 第三パートの第一段落の「級中(クラス)」の「クラス」のルビは前記の岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」では「級」のみに振られているが、底本は「ス」が「中」の右上半分まで占めているので、「級中」全体のルビと採った。以下、少し、いらぬ語注を附しておく。

「彌撒」老婆心乍ら、「ミサ」と読む。

「フランソア一世」(François Ier 一四九四年~一五四七年)はヴァロワ朝(dynastie des Valois)第九代フランス王(在位:一五一五年~一五四七年)。フランス・ルネサンス期を代表する国王。

「シヤルマァニユ」(七四二年~八一四年)はフランス語で「シャルルマーニュ(Charlemagne)」、ドイツ語で「カール大帝(Karl der Große)」と呼称した、フランク王国(フランス語:Royaumes francs/ドイツ語:Fränkisches Reich:五世紀~九世紀に西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国で現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア及びスロベニアを領土とし、最大版図(はんと)はイベリア半島とイタリア半島南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域に及んだ。国名はゲルマン系フランク人であるサリー・フランク族が建国したことに由来する。首都は五〇八年にパリに置かれが、このカール大帝時代は現在のベルギー国境に近いドイツ西端のアーヘン(Aachen)に王宮が置かれ、ここが事実上の首都となっていた)の国王(在位:七六八年~八一四年)。

「ルイ一四世」(Louis XIV 一六三八年~一七一五年)はブルボン朝(dynastie des Bourbons)第三代フランス王国国王(在位:一六四三年~一七一五年)。言わずもがな医、王朝の最盛期を築いて「太陽王」(Roi-Soleil)と呼ばれた王である。以上の三人の人物の事蹟を踏まえて戴くと、堀辰雄の、「フランソア一世は誰の後継者かと質問されたとき、それはシヤルマァニユです、と出まかせに、自信もなく、答ヘました。すると私の知らないことを教へてくれることになつてゐた私の隣席の者が、彼はルイ一四世の後を繼いだのだと密告してくれました。佛蘭西の王樣の年代を考へることなどより、もつと他にすべきことが私たちにはあつたのでした。」という訳がやや不親切であることが判る。原文は“comme on me demandait à qui avait succédé François Ier, je dis à tout hasard, mais sans conviction, que c’était à Charlemagne, et ma voisine, chargée d’éclairer mon ignorance, fut d’avis qu’il avait succédé à Louis XIV. On avait bien autre chose à faire que de penser à la chronologie des rois de France :”であるが、例えば、一九七九年青土社刊「アポリネール全集Ⅱ」の窪田般彌氏の訳では、ここは『フランソワ一世は誰のあとを継いだかときかれて、何の確信もないままに、ほんの出まかせにシャルルマーニュ大王と答えたりしました。そして、わたしの無知を教えただす役目の隣りの娘(こ)は、フランソワ一世はルイ一四世のあとを継いだと思いこんでいました。誰の頭にもフランス王家の年代記のことなどはまったくなく、別のことを思いめぐらしていたのです。』となっており、本来、語っている老婦人が少女であった頃のこと、本来ならいつも正しい答えをこっそり教えて呉れていた、博識の救いの天使であった隣りの席の少女でさえ、とんでもない誤りを口にしてしまったほどにクラス中の少女たちが皆、上の空だった、というのである。高校時代に世界史を選択した方には釈迦に説法であろうが、私は生憎と地理と政経であったので(極めて珍しい。高校時代の所属した演劇部の顧問であった世界史の先生からは「藪野君、それじゃ、大学に受かりませんよ」と言われたものだった)、蛇足の注を敢えて附した。悪しからず。]

 

 

   靑い眼

 

 私は老婦人たちが彼女らの少女だつた時分のことを話すのを聞くのが好きだ。

「私が十二の時でした、私は南佛蘭西の或る修道院に寄宿してをりました。(と記憶のいい老婦人の一人が私に物語るのであつた。)私たちは、その修道院に、世間から全く離れて、暮らしてをりました。私たちに會ひに來られたのは兩親きりで、それも一月に一遍宛といふことになつてゐました。

「私たちは休暇中も、その廣い庭園と牧場と葡萄畑にとりかこまれた修道院の中で過したのでした‥‥

「私はその幽居には八つの時から入つてゐましたが、やつと十九になつた時、結婚をするため、はじめて其處を出たやうなわけでした。私はいまだにその時のことを覺えてゐます。宇宙の上に開いてゐるその大きな門の閾を私が跨いだ刹那、人生の光景や、自分の呼吸している何だかとても新しいやうな氣のする空氣や、いままでになかつたはど輝かしく見える太陽や、それから自由が、遂に、私の咽喉をしめつけたのでした。私は息がつまりさうになつて、もしその時腕を組んでゐた父が私を支へて其處にあつたべンチヘ連れて行つてくれなかつたら、私はそのままぼうと氣を失つて倒れてしまつたでせう。私はしばらくそのべンチに坐つてゐるうち、やつと正氣を取戾したのでした。

 

       *

     *

       *

 

「さて、その十二の時のことですが、私はいたつて惡戯好きな、無邪氣な少女でした。そして私の仲間もみんな私のやうでした。

「授業と遊戯と禮拜とが私たちの時間を分け合つてゐました。

「ところが、コケツトリイの魔が私のゐた級(クラス)のうちに侵入してきたのは、丁度その時分でありました。そして私は、それがどんな策略を用ひて、私たち少女がやがて若い娘になるのだといふことを、私たちに知らせたかを忘れたことはありません。

「その修直院の構内には誰もはひることが出來ませんでした。彌撒をお唱へになつたり、説教をなさつたり、私たちの微罪をお聽きになつたりする司祭樣を除いては。その他には、三人の年老いた園丁が居りました。が、私たちに男性といふ高尚な觀念を與へるためには殆ど何の役にも立たないのでした。それから私たちの父も私たちに會ひに來ました。そして兄弟のあるものは、彼等をまるで超自然的なもののやうに語るのでした。

「或る夕方、日の暮れようとする時分に、私たちは禮拜堂から引き上げながら、寄宿舍の方へ向つて、ぞろぞろと步いてゐました。

「突然、遠くの方に、修道院の庭園をとりまいてゐる塀のずつと向うに、角笛の音が聞えました。私はそれをあたかも昨日の事のやうに覺えてゐます。雄々しい、そしてメランコリツクなその角笛の亂吹が、黃昏どきの深い沈默のなかに鳴りひびいてゐる間中、どの少女の心臟も、これまでになかつたくらゐ激しく打ちました。そして木魂となつて反響しながら、遠くの方に消えていつたその角笛の亂吹は、なにやら知らず、神話めいた行列を私たちに喚び起させるのでした‥‥

「私たちはその晩、それを夢にまで見ました‥‥

 

       *

     *

       *

 

 翌日、教室からちよつと出てゐたクレマンス・ド・パムブレといふ名前の、小さなブロンドの娘が、眞靑になつて歸つてきて、隣席のルイズ・ド・プレセツクに耳打ちしました、いま薄暗い廊下でばつたり靑い眼に出會つたと。そしてそれから間もなく級中(クラス)の者が、その靑い眼の存在を知つてしまひました。

「歷史を私たちに教へくれてゐる修道院長の言葉も、もう私たちの耳にははひりませんでした。生徒たちは今は突拍子もない返事をしました。そしてこの學科のあんまり得意ではなかつた私自身も、フランソア一世は誰の後継者かと質問されたとき、それはシヤルマァニユです、と出まかせに、自信もなく、答ヘました。すると私の知らないことを教へてくれることになつてゐた私の隣席の者が、彼はルイ一四世の後を繼いだのだと密告してくれました。佛蘭西の王樣の年代を考へることなどより、もつと他にすべきことが私たちにはあつたのでした。私たちは靑い眼のことを夢見てゐたのでした。

 

       *

     *

       *

 

「そして一週間足らずのうちに、私たちは誰もかも、その靑い眼に出會ふ機會をもちました。

「私たもはみんな眩暈をもつたのでした。それに違ひはありません。が、私たちはみんなそれを見たのでした。それはすばやく通り過ぎました、廊下の暗い蔭へ美しい空色の斑點をつくりながら。私たちはぞつとしました、が、誰一人それを尼さんたちに話さうとはしませんでした。

「私たちはそんな恐しい眼をしてゐるのは一體誰なのか知らうとして隨分頭を惱ませました。私たちのうちの誰だつたか覺えてゐませんが、或る一人のものが、それはきつと、まだ私たちの記憶の中にその泣きたくなるまでに抒情的(リリカル)な響が尾を曳いてゐる、あの數日前の角笛の亂吹の眞中になつて通り過ぎた獵人らの中ので一人の眼にちがひないといふ意見を述べました。そしてそれにちがひないといふ事に一決いたしました。

「私たちは皆、その獵人の一人がこの修道院の中にかくれてゐて、靑い眼は彼の眼であることを認めました。私たちは、そのたつた一つの眼が片眼(めつかち)なのだとは思ひませんでしたし、それから古い修道院の廊下を眼が飛ぶのでもなければ、彼等の身體から拔け出してさまよふのでもないと考ヘました。

「そんなうちにも、私たちはその靑い眼と、それが喚び起させる獵人のことばかり考へてをりました。

「とうとうしまひには、私たもはその靑い眼を怖がらなくなりました。それが私たちを見つめるため、ぢつとしてゐればいいとさへ思ふやうになりました。そして私たちはときどき廊下の中へ唯一人で、いりのまにか私たちを魅するやうになつたその不思議な眼に出會ふために、出てゆくやうなことまでいたしました。

 

       *

     *

       *

 

「やがてコケットリイの魔がさしました。私たちは誰一人として、インキだらけの手をしてゐる時など、その靑い眼に見られたがらなかつたでしたらう。みんなは廊下を橫ぎるときは、自分がなるたけ好く見えるやうにと出來るだけのことをしました。

「修道院には姿見も鏡もありませんでした。が、私たちの生れつきの機轉がすぐそれを補ひました。私たちの一人は、踊場に面してゐる硝子戸のそばを通る度毎に、硝子の向うに張られてゐる黑いカアテンの垂れを卽製の鏡にして、そこにすばしつこく自分の姿を映し、髮を直したり、自分が綺麗かどうかをちよいと試したりするのでした。

 

       *

     *

       *

 

「靑い眼の物語は約二ケ月ばかり續きました。それからだんだんそれに出會はなくなりました。そしてとうとうごく稀にしか考へなくなりましたが、それでもときたまそれに就いて話すやうなことがありますと、やはり身顫ひしずにはゐられませんでした。

「が、その身顫ひの中には、恐怖と、それからまたあの快樂――禁斷の事物について語るあの祕やかな快樂に似た或る物がまざつてゐたのでした。」

 君たちは決してそんな靑い眼の通るのを見たことなんぞはなからうね、現代の少女諸君!

 

[やぶちゃん注:原文を見ると、最後の一行の前には、例のアスタリスクによる行間が空けられてある。空けるべきである。最後の一文の原文を見ておこう。

 Vous n’avez jamais vu passer l’œil bleu, ô petites filles d’aujourd’hui !

 

 なお、底本ではこの後に堀辰雄による「ノオト」がある。以下に電子化しておく。

   *

 アポリネエルは一八八〇年八月羅馬に生れた。母はポオランドの或る將軍の娘であつたが、彼はその私生兒であつた。彼は少年時代をモナコとニイスとで送つた。暫く南獨逸に遊んだこともある。それから巴里に行つて、彼は詩や小説や美術批評などを書き出した。一九一四年、彼も戰爭に行つた。そこから彼は一九一六年に重傷を負ふて歸つて來た。戰地でも彼は詩を書いて、謄寫版刷りの詩集を出したりした位であつた。そして彼は一九一八年十一月に死んだ。それはしかしスペイン感冒のためであつた。

   *]

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