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2016/07/10

芥川龍之介 手帳2―17

《2-17》

○明科(松本の先) 明科製材所ノ職工新村忠雄(兄善兵エ――村長) 巡査 勳八等白色桐葉章 桂首相(停車場) 爆彈7 fusils 裝塡三個

[やぶちゃん注:非常に具体な設定であるが、作品とはならなかった。

「明科」「あかしな」と読む。現在の長野県安曇野市明科中川手附近。幸徳事件の事実上の首謀者とされ、大逆罪で処刑された十二名の一人でアナーキストの宮下太吉(たきち 明治八(一八七五)年~明治四四(一九一一)年)が同志の新村忠雄(後注参照)とともにここで事前の爆裂弾の実験を行ったとされる。宮下太吉はウィキの「宮下太吉によれば、『山梨県甲府市若松町の出身。実業補習学校卒。東名阪など各地で機械工として働く』。明治四一(一九〇八)年、愛知県知多郡亀崎町(現在の半田市内)の『「亀崎鉄工所」で働いていた頃に秋水の『平民新聞』を読んで社会主義に感化された。平民社の人士と関わるようになり、赤旗事件の後、内山愚童の『無政府共産』を読んで、天皇崇拝を否定する考えを固め、一九〇九年、長野県東筑摩郡中川手村(現・安曇野市)の官立「明科製材所」に移った頃、当地で明治天皇を暗殺するためとして爆裂弾を試作、爆破実験を行ったという』。翌年五月二十五日、『爆発物取締罰則違反の容疑により長野県で逮捕され(明科事件)、宮下は管野スガ、新村忠雄、古河力作の三名と共に天皇暗殺の計画したとされ、官憲はこれをもとにしてフレームアップし、多数が秋水を首領に天皇暗殺を企てたとして幸徳事件(大逆事件)の端緒とした』。『秋水や宮下らは大逆罪で有罪となり』、明治四四(一九一一)年一月二十四日に処刑された。享年三十五であった。「松本・安曇野・塩尻・木曽をカバーする地域新聞 市民タイムス」公式サイト内の臼井吉見安曇野歩くの赤羽康男氏の七十六章「大逆事件の始まり」に、以下のようにある(アラビア数字を漢数字に代えた)。『明治四十二年六月十日、中川手村(現・明科町)の篠ノ井線明科駅に一人の男が降り立った。近くの官営明科製材所に勤めるためで、製材所は長野大林区署の直轄工場として、この秋から操業開始の運びとなっていた』。『男は宮下太吉と言い、甲府生まれの三十三歳。宮下は十六歳のときに郷里を離れ、機械工として技術を磨き、明科製材所には腕を買われて愛知県半田の鉄工場から移って来た。身分は臨時工だが、事実上の職工長だった』。『折り紙付きの社会主義者(無政府主義者)ゆえ、明科入りした当初から県警の徹底した監視下に置かれた。松本警察署は巡査に宮下の行動報告を義務づけたほか、巡査の息子を製材所に雇わせたり、元巡査を製材所の守衛に配した』。『宮下は明科に来る四カ月ほど前、東京巣鴨の平民社で幸徳秋水に会い、ある計画を打ち明けて賛同を得ようとした。しかし、秋水は「いずれ将来は、その必要があるかもしれない」と語るだけで、仲間入りをためらった』。『宮下の計画とは、爆裂弾を製造し、天皇に投げつけて暗殺するという過激なものだった』。『のちの彼の供述調書によると、明治四十年一月ころ、日刊平民新聞を講読以来、社会主義者となり、関係書物を読み尽くした。赤旗事件後は尋常な手段では主義の実現は困難だと思った。そこで、元首で生き神とされる天皇も同じ血の出る人間であることを国民にわからせ、迷信を打ち破るため、爆裂弾で天皇をやっつ ける決心をしたのだという』。『それによって社会主義革命が起きるとはとても思われないが、窮地に追い込まれた宮下ら青年たちはそう考えた』。明治『四十二年十一月三日、明科入りして五カ月ほどたった宮下は爆裂弾の試験を敢行する。この日は天長節(天皇誕生日)で、製材所は休み。彼は慎重に薬品を調合し、石粒二十個を混ぜてブリキの小缶に入れた。夜、山道を東に向かい、会田川の河原で対岸の絶壁を見上げる場所に立ち、岩肌をめがけて爆裂弾を投げつけた。瞬間、青い光を発し、爆風と耳をつんざくばかりの爆音が起きた。宮下は「呼吸が止まり、後ろに倒れんとする」くらいになって、慌てて逃げ帰った』。『この夜は松本で花火が打ち上げられており、爆発音は村人たちに花火の音と勘違いされ、怪しまれなくて済んだようだ。(『松本市史 歴史編Ⅲ近代』)。彼は翌日、成果のほどを現場に見に行こうとも思ったが、警戒してそれっきり近づかなかった』と実景をリアルに再現しておられる。

「新村忠雄」(にいむらただお 明治二〇(一八八七)年~明治四四(一九一一)年)は幸徳事件で処刑された一人で、宮下太吉とともに計画の首謀者ともされる。ウィキの「新村忠雄によれば、長野県埴科(はにしな)郡屋代町(まち)(現在の千曲市内)出身で、『生家は豪農。小学校、補習科一年卒』、『郷里で信仰に疑問を持って無神論者となり』、明治三九(一九〇六)年に『クロポトキンの『無政府主義の哲学』を読んでアナキズムを知った。同じ頃、幸徳秋水と堺利彦の『平民新聞』で社会主義思想にふれてその読者となって、講習会に出るために上京し』ている。その翌年頃から『長野市の「黒潮会」や上田市の「社会主義談話会」等の地方同志と盛んに交流するようになり、「高原文学」を発行。自身を直接行動論者と称した』。『後に友人の紹介で書生として秋水の平民社に住み込むが、赤旗事件などで同社は解散。この復讐の機会をうかがっていた。同志の宮下太吉らと皇太子の暗殺を計画して、爆発物を造る目的で塩酸カリを入手する。宮下が勤めていた明科製材所の近くで爆発実験を行った。しかし新村は予てより警察の尾行をうけていたために露見』、宮下太吉と同時に『長野県の自宅で爆発物取締罰則違反の容疑により逮捕され』宮下太吉らとともに処刑執行された。享年二十三歳であった。『事件を重大視した警察は、宮下太吉、管野スガ、古河力作ら』二十六名が『天皇暗殺の構想を抱いていたと断定したが、実際の暗殺計画は少なくとも当初は皇太子を標的としていて、宮下と新村が中心となって長野県で準備されていた。湯河原町(神奈川県)で湯治をしていた秋水や管野は、計画の具体的な関与はなかった。このため警察によるフレームアップ』として批判されることとなった。

「兄善兵エ――村長」新村忠雄実兄で富農の新村善兵衛(一八八一年~一九二〇年)は宮下に爆薬製造用の薬研(やげん)を貸与した容疑で、炸裂弾用のブリキ缶製造容疑の新田融とともに逮捕されて裁判にかけられたが、大審院判決では大逆罪を承知していたという調書は信用出来ないとして二人には爆発物取締罰則のみが認定された(この二人以外は全員死刑)。善兵衛は懲役八年の判決を受けて、大正四(一九一五)年に出獄している。「村長」とあるが、確認出来なかった。

「勳八等白色桐葉章」(くんはっとうはくしょくとうようしょう)は日本最初の勲章である旭日章(きょくじつしょう:「國家又ハ公共ニ對シ勲績アル者」に与えられる)の最下位。現在は七等とともに廃止されて存在しない。

「桂首相」当時の内閣総理大臣桂太郎(かつら たろう、弘化四(一八四八)年~大正二(一九一三)年)。在職はこの時は第二次で明治四一(一九〇八)年七月~明治四四(一九一一)年八月まで。彼は第一次と第三次で延べ二千八百八十六日に及び、歴代では最長在職期間記録を持つ。

「爆彈7 fusils 裝塡三個」大逆事件で製造され押収された炸裂弾の数は確認出来なかった。「fusil(フュゥーザァル)後の「装塡」から、広義の「小銃」の謂いであるが、彼らの爆裂弾はブリキ缶製でかなり大きいように感じるから、それを三個も装填出来る弾倉を持つ当時の小銃というのは私にはちょっと想像が出来ない。それとも散弾並に小さくしたものか? 識者の御教授を乞う。]

 

○フアウストの序曲を模すべし。

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の戯曲「ファウスト」(Faust 第一部は一八〇八年、第二部はゲーテの死の翌年の一八三三年に発表)の「天上の序曲」(Prolog im Himmel)。]

 

every manmorarity)の狂言化

               >

○踏繪の話の短篇

[やぶちゃん注:ここはご覧の通り、「>」で繋げてある。しかし編者は後者に「○」を附している。これは編者が前とは繋がらない独立項と認めたものにのみ、附す記号である。「>」があるなら、それは連続した記載ではないのか? 不審極まりない。この「踏繪」という題名はしばしばメモや書簡に出るのであるが、遂に書かれなかった幻しの作品である。思うに比喩的な題ではなく、切支丹物の実際の踏み絵を素材にしたものであったように私には思われ、ちょっとそのシーンを妄想すると、芥川龍之介の文章で読みたかった気がしてくるのである。]

 

○古侍の元祿武士評

[やぶちゃん注:「或日の大石藏之助」は大正六(一九一七)年九月発表なので、手帳の推定記載時期(大正七~八年)より前になるので違う。]

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