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2016/07/08

芥川龍之介 手帳2―12

《2-12》

○自分の尊敬する人の自分に對する評價を當てにして自信を保つてゐる男 相手の評價が實はnegativeなるを知ると共に自信を失ふ

[やぶちゃん注:「negativeは否定的で、尊敬する彼の評価は皮肉なものであったのであり、それに気づかずに「尊敬」もし、自身の「自信」としていた訳で、第三者見れば滑稽にして失笑せざること能わざるものであるが、それ以上に自身にとって救いようがない絶望である。芥川龍之介好みの主題であり彼の諸作の設定中にしばしば垣間見られるものではあるが、そのまま直球では作品たり得ない。]

 

○二人の友の話

[やぶちゃん注:ずっと後の短篇に「二人の友」(大正一五(一九二六)年二月)がある。一高で芥川龍之介がドイツ語を習った福間博先生が、実は森鷗外の小倉三部作の第三作とされる「二人の友」(大正四(一九一五)年)に登場する「F君」であることを最初に明かし、当時の福間先生の洒落の好きな好ましい人柄を親友久米正雄らをダシにして面白く語りつつ、福間先生が亡くなった折りの葬儀の導師を勤めたのは、まさにやはり鷗外先生の「二人の友」の今一人の友(書生)であった「若い僧侶」、鷗外の家内では「安国寺さん」と呼んでいた人物であった、と明かすという、実に洒落た小品である。しかし既に、龍之介には自裁計画が構想されていた時期の追懐文の一つでもある。]

 

○日本の歷史にもクリスト出現の當時奇蹟ありしを語る(或はオリンプス時代ありしをも)文書――南蠻僧に成るもの 或は

[やぶちゃん注:「オリンプス時代」Olympus」ギリシャの神々がその山頂に住んだオリンポス山からギリシャ神話の時代の意。キリストどころかギリシャ神話も日本にあったとする日ユ同祖論(これ自体は明治期に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウド(ノーマン・マクラウド(Nicholas McLeod Norman McLeod 一八六八年~一八八九年)が日本と古代ユダヤとの相似性に気づいて調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化している。詳しくはウィキの「ユ同祖論を参照されたい)もぶっとんだ、日本神話とギリシャ神話を同一視する、私の愛する漫画家諸星大二郎と星野之宣をごった煮にして遙かに超える構想か!? 面白い! 読みたかった!!!]

 

うるがん伴天連京都へ入る話――美しき惡魔の告白

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年六月発表の「悪魔」の構想メモ。これは私の好きな短篇でごく短いので、注の後に電子化しておく(底本は岩波旧全集を用い、傍点「ヽ」は太字とした)。

「うるがん伴天連」は戦国末期の日本で宣教活動を行ったイタリア人宣教師でカトリック司祭(イエズス会員)グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(Gnecchi Soldi Organtino 一五三三年~慶長一四(一六〇九)年)のこと。ウィキの「グネッキ・ソルディ・オルガンティノによれば、『人柄が良く、日本人が好きだった彼は「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ』、三十年に亙って『京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者と』もなった。。元亀元(一五七〇)年五月一五日(ユリウス暦六月十八日)に来日、『天草志岐にその第一歩をしるし』、『まず日本語と日本の習慣について学』んだ後、天正元(一五七三)年から天正二(一五七四)年に『かけて法華経を研究した』。『オルガンティノははじめから京都地区での宣教を担当し、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事』、実に天正五年から三十年の永きに『わたって京都地区の布教責任者をつとめた。持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気があった。パンの代わりに米を食べ、仏僧のような着物を着るなど、適応主義を取ったことで日本人からの受けがよく、着任』三年にして『近畿地方における信者数を』千五百人から一万五千人に『増やしたという』。最後は長崎で病いに倒れ、そのまま七十六歳で没している。

   *

 

 惡魔

 

 伴天連うるがんの眼には、外の人の見えないものまでも見えたさうである。殊に、人間を誘惑に來る地獄の惡魔の姿などは、ありありと形が見えたと云ふ、――うるがんの靑い瞳を見たものは、誰でもさう云ふ事を信じてゐたらしい。少くとも、南蠻寺の泥烏須如來を禮拜する奉教人の間には、それが疑ふ餘地のない事實だつたと云ふ事である。

 古寫本の傳ふる所によれば、うるがんは織田信長の前で、自分が京都の町で見た惡魔の容子を物語つた。それは人間の顏と蝙蝠の翼と山羊の脚とを備へた、奇怪な小さい動物である。うるがんはこの惡魔が、或は塔の九輪の上に手を拍つて踊り、或は四つ足門の屋根の下に日の光を恐れて蹲る恐しい姿を度々見た。いやそればかりではない。或時は山の法師の背にしがみつき、或時は内の女房の髮にぶら下つてゐるのを見たと云ふ。

 しかしそれらの惡魔の中で、最も我々に興味のあるものは、なにがしの姫君の輿の上に、あぐらをかいてゐたと云ふそれであらう。古寫本の作者は、この惡魔の話なるものをうるがんの諷諭だと解してゐる。――信長が或時、その姫君に懸想して、たつて自分の意に從はせようとした。が、姫君も姫君の双親も、信長の望に應ずる事を喜ばない。そこでうるがんは姫君の爲に、言を惡魔に藉りて、信長の暴を諫めたのであらうと云ふのである。この解釋の當否は、元より今日に至つては、いづれとも決する事が容易でない。と同時に又我々にとつては、寧ろいづれにせよ差支へのない問題である。

 うるがんは或日の夕べ、南蠻寺の門前で、その姫君の輿の上に、一匹の惡魔が坐つてゐるのを見た。が、この惡魔は外のそれとは違つて、玉のやうに美しい顏を持つてゐる。しかもこまねいた兩手と云ひ、うなだれた頭と云ひ、恰も何事かに深く思ひ惱んでゐるらしい。

 うるがんは姫君の身を氣づかつた。双親と共に熱心な天主教の信者である姫君が、惡魔に魅入られてゐると云ふ事は、唯事ではないと思つたのである。そこでこの伴天連は、輿の側へ近づくと、忽尊い十字架(くるす)の力によつて難なく惡魔を捕へてしまつた。さうしてそれを南蠻寺の内陣へ、襟がみをつかみながらつれて來た。

 内陣には御主耶蘇基督の畫像の前に、蠟燭の火が煤ぶりながらともつてゐる。うるがんはその前に惡魔をひき据ゑて、何故それが姫君の輿の上に乘つてゐたか、嚴しく仔細を問ひただした。

 「私はあの姫君を墮落させようと思ひました。が、それと同時に、墮落させたくないとも思ひました。あの淸らかな魂を見たものは、どうしてそれを地獄の火に穢す氣がするでせう。私はその魂をいやが上にも淸らかに曇りなくしたいと念じたのです。が、さうと思へば思ふ程、愈墮落させたいと云ふ心もちもして來ます。その二つの心もちの間に迷ひながら、私はあの輿の上で、しみじみ私たちの運命を考へて居りました。もしさうでなかつたとしたら、あなたの影を見るより先に、恐らく地の底へでも姿を消して、かう云ふ憂き目に遇ふ事は逃れてゐた事でせう。私たちは何時さうなのです。墮落させたくないもの程、益墮落させたいのです。これ程不思議な悲しさが又と外にありませうか。私はこの悲しさを味ふ度に、昔見た天國の朗な光と、今見てゐる地獄のくら暗とが、私の小さな胸の中で一つになつてゐるやうな氣がします。どうかさう云ふ私を憐んで下さい。私は寂しくつて仕方がありません。」

 美しい顏をした惡魔は、かう云つて、涙を流した。……

 古寫本の傳説は、この惡魔のなり行きを詳にしてゐない。が、それは我々に何の關りがあらう。我々はこれを讀んだ時に、唯かう呼びかけたいやうな心もちを感じさへすれば好いのである。……

 うるがんよ。惡魔と共に我々を憐んでくれ。我々にも亦、それと同じやうな悲しさがある。

   *

「泥烏須」は「でうす」と読む。]

 

○姦通されし夫とその妻(姦夫を憎める)とその姦夫(夫を憎める)とのtriangle 最後に夫、妻と姦夫とを殺す。

○村の習俗として姦夫姦婦を罪す 古代

[やぶちゃん注:「古代」「村の習俗として姦夫姦婦を罪す」とあるのが、古墳時代以前に遡る男女の三角関係構想だとすると(この頃の龍之介は実際、前の記載を見れば判る通り、神代物に強い関心を示していたことは事実である)、これまた、仮想龍之介ワールドが広がってくるぞ!]

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