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« 芥川龍之介氏の俳句   飯田蛇笏 | トップページ | 眞面目な時 Ernste Stunde (Rainer Maria Rilke) 立原道造譯 »

2016/07/02

其の後の虛子、龍之介、二氏の俳句   飯田蛇笏

[やぶちゃん注:末尾のクレジットから発表は昭和二(一九二七)年一月二十一日(初出記載なし)。底本は飯田蛇笏「俳句道を行く」(昭和八(一九三三)年素人社書屋(そじんしゃしょおく)刊)を国立国会図書館デジタルコレクションの同書当該パートの画像で視認して電子化した。傍点「ヽ」は太字とし、踊り字「〱」「〲」は正字化した。句の表示の字配やポイント違いは再現していない。また、諸文章等の長い引用部では、全体が一字下げとなっているが、ここは無視したので、引用終了箇所には注意されたい。以下、少し語注を施しておく。私は高浜虚子が嫌いなので、本テクストも専ら芥川龍之介についての後半部にのみ興味があり、虚子について述べた前半部を省略することも考えたぐらいに虚子嫌いであるが、それでは飯田蛇笏氏に失礼に当たるし、内容面でも読解にやや難が出る箇所があるのでやめた。当初は注もあまり附さない気でいたが、結局、バランス上、同じように注を附さざるを得ない仕儀となった。

〈高浜虚子パート〉

 第一段落「どべこべに」不詳。どれもこれも(ただ)の、意か。

 同「炳たる」「へいたる」で、光り輝いている、疑う余地がないほどに明らかな、の意。

 同「儼乎」「げんこ」で、おごそかなさま・いかめしいさま。

 第二段落「瞭かな」「あきらかな」。

 同「新俳句」明治三一(一八九八)年民友社刊の正岡子規を首魁とする子規派初の大規模な選集。

 同「卷を蓋ふ」「くわんをおほふ(かんをおおう)」一書を覆い尽くす(ほどに)。

 虚子の句の「菌山」は「きのこやま」。

 同「梭」は織物を織る際に経糸(たていと)の間に緯糸(よこいと)を通すのに使われるシャトル状の道具で、本来はこれは「ひ」ある。しかし音数律がおかしいので、ここは虚子は「をさ(おさ)」と訓じていると思われる。但し、「おさ」は「筬」が正しく、同じ織機具の一つながら、竹の薄片を櫛の歯のように並べて枠をつけたものを指し、織物の幅と経糸を整え、梭(ひ)で打ち込まれた緯糸を押さえ、織り目の密度を決める道具である。但し、これらは混同して呼ばれたり、字が通用されたした経緯はある。

 同「彈初」「ひきぞめ」。新年になって初めて琴・三味線などを弾くこと。

 四段落「意嚮」は「いかう(いこう)」で「意向」に同じい。

 同「偖て」「さて」。

 同「這の」指示語。「この」。実はこれは元を糺すと全くの誤用であって、宋代に「これ」「この」という意味の語を「遮個」「適個」と書いたが、その「遮」や「適」の草書体を誤って「這」と混同したことに基づく。

 第五段落「庶幾」「しよき(しょき)」或いは「そき」と読み、心から願うこと。

 第六段落「本間久雄」(明治一九(一八八六)年~昭和五六(一九八一)年)は山形出身の英文学者・国文学者。本篇公開当時は早稲田大学講師で『早稲田文学』主幹。後に早稲田大学名誉教授。「民衆芸術の意義及び価値」(『早稲田文学』大五(一九一六)年八月)〈民衆芸術論〉の口火を切ったことで知られるが、この「藝術に於ける眞について」は初出不明。

 第八段落(本間の引用の次)「枉ぐ」「まぐ」曲げる。

 虚子パート最終段落部の「輓近」は「ばんきん」で、近頃・最近・近来の意。「輓」自体、時代が遅い、の意があり、それは結局、時間が現在に近い、の言いとなる。

 同段落の芭蕉の句「明日は粽難波の枯葉夢なれや」は「(あすはちまき なにはのかれはゆめなれや」と読み、西行の「津ノ國の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり」(「山家集」)をインスパイアしたもの。――明日は五月五日で端午の節句……人は皆、粽を作って食べる……その粽は葦の葉で包む……上人の歌ったように……その葦の葉は一場の夢の如く一瞬にして枯葉となるのであろう――延宝五(一六七七)年、芭蕉三十四歳の時の作であるが、この年に芭蕉は俳諧宗匠として立机(りっき:生業(なりわい)としての本格的な俳諧師となること)したと考えられている。

〈芥川龍之介パート〉

 第一段落『近著「梅、馬、鶯」』「梅・馬・鶯」(そのまま「うめ うま うぐひす」と読む。本体背と表紙にはひらがなで「うめうまうくひす」と記す。装幀は佐藤春夫で龍之介のたっての依頼による。それは既に自裁を決していた彼の、友への別れの記念のつもりだったと言われている)は随筆集。新潮社から大正一五(一九二六)年十二月二十五日、大正天皇崩御、昭和改元の当日に刊行されたものである。

 同「蕪雜」「ぶざつ」は雑然としていて整っていないこと。「蕪」はもと「荒蕪」と使うように、雑草が茂って荒れている荒れ地を指し、そこから粗雑で入り乱れているの意を派生した。

 引用句「お降りや」の「お降りや」は「おさがり」と読む。元日三ヶ日の雨又は雪を言う。新年の季語。

 「一游亭」龍之介無二の盟友で洋画家の小穴隆一(おあなりゅういち 明治二四(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)。芥川が自死の意志を最初に告げた人物、遺書で子らに「父と思え」と言い残した人物でもある。一游亭の号を持ち、俳句もひねった。芥川の二男多加志の名は彼の「隆」の訓を貰ったものである。

 第七段落「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」の引用の直前の「冒頭におかれてある。」の句点はママ。

 同句引用の直後の「曩に」は「さきに」と訓ずる。また、同じ箇所の「またに」のママ。

 第八段落「だれ」とあるが、所謂、動詞の「だれる」の名詞化した謂いであろう。気持ちに張りや締りがなくなること・気が緩みだらけること・退屈な雰囲気になる・新鮮味が失われることの意ととっておく。

 同「些々たり」「ささたり」とは、僅(わず)かばかりである、の意。

 第九段落「芥川氏は、久保田萬太郎氏を書くに當つて」大正十三(一九二四)年六月一日発行の雑誌『新潮』に掲載された「微哀笑」、後に「久保田万太郎氏」と改題される芥川龍之介の短評(蛇笏は「萬」とするが、岩波旧全集でも当該テキスト中では一貫して「万」である)。久保田万太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三八(一九六三)年)は小説家・劇作家にして俳人。芥川龍之介とも仲が良かった(万太郎の方が三つ年上)。「傘雨」は「さんう」で彼の俳号。東京市浅草区田原町(現在の東京都台東区)に生まれ、慶応義塾大学文学部卒(大正三(一九一四)年)。明治四四(一九一一)年に小説「朝顔」・戯曲「遊戯」が『三田文学』に発表され、また『太陽』に応募した戯曲「Prologue」が当選、作家としてデビュー、翌年に「浅草」を刊行後、小説・戯曲・俳句の各面で幅広く活躍した。大正期の代表作として「末枯」「寂しければ」などがあり、昭和初年代の作品としては「大寺学校」「春泥」、昭和十年代の作品として「釣堀にて」「花冷え」、戦後の作品として「市井人」「三の酉」などがある(「三の酉」は昭和三二(一九五七)年に読売文学賞受賞)。昭和七(一九三二)年に築地座が結成されてからは舞台演出も手掛けるようになり、昭和一二(一九三七)年には岸田国士・岩田豊雄らと文学座を結成、没するまで幹事を務めている。俳句の面でも、昭和二(一九二七)年五月「道芝」を刊行しているが(ここまでは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」を参照した)、最晩年の芥川龍之介が記したこの句集「序」が万太郎文学世界の的確な評となっていて実に素晴らしい。

 同引用文中の「曩日」は「なうじつ(のうじつ)」で先日の意。

 「風落ちて曇り立ちけり星月夜」ここで述べた内容とほぼ同じ内容と引用を私は全く偶然にもやぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句のこの句のオリジナル注に附している。参照されたい。

 最終クレジットは底本では改行せずに最終行の下一字空けインデントで配されてある。]

 

 

      其の後の虛子、龍之介、二氏の俳句

 

 虛于翁は、近詠百二十一句――大正十五年八月から同十二月までの句稿のうちから自選されたものを、「ホトトギス」二月號に發表してある。いずれも、纔かな文字で綴られてある短い形式の俳句ことである。進むというてもとゞまるというても、極めて微かなところにあるのは當然である。日頃、俳句といふものに、指を染めて居ない側の人に見させたなら、恐らく、芭蕉の句でも、蕪村の句でも、子規の句でも、虛子の句でも、どべこべに唯俳句として見過ごすことであらう。否、山鳥の尾のながながしく文子をつゞりつける癖づけられて居る創作家其の他の、作中の個人性や、創作態度などをやかましく云ふ人々の間にあつても、之をどべこべに觀ることなしに鋭く、深く、さうして明瞭に觀、味うてゆくことは、決して易々たることであるとのみ言ひ難からう。俳句にたづさはる者が、之を觀照し翫味する上に、自意識の強きに過ぐることは嗤ふべきことだとしても、他の作品に對して、其の、縫針の光端を見るやうな、炳たる一閃の中に、儼乎として存する、悠揚たる而して又實に惨憺たる藝術的苦心をば、十分に敬虔な心持をもつて、透徹鐡を貫くの氣で、熟讀翫味することの同じ藝術奉仕者として義務があらうかと考へる。この義務を荷ふことに、俳句にたづさはり甲斐もあらうといふものである。

 虛子翁の句が、總じて、近年主唱されるごとく、平靜な、吾人からこれを見れば大いに澁味のある寫生的作風に移つて來たことは、瞭かな事實である。寫生といふことは、今日や昨日に始まつたことではなく、遠くその源を、子規生前に發するのであるが、當時の「新俳句」にも勿論卷を蓋ふ寫生句を見、それから引きつゞいて今日に至るまで、ひつきりなしに、寫生といふことは俳句として、繼續され來つて居るのである。が、同じ寫生というても「新俳句」時代の寫生句といふものと、今日の寫生としての俳句とは、其の内容實質に於て遠い隔りがあるのである。虛子翁の作句そのものが即ちそれで、其の沿源から過程を敍述することは他に機を得るとして、今日見るありの儘に於て、俳壇一般と云はんより、尠くとも虛子翁その人の句それ自體に、寂び澄んで來て居ることを、あきらかに發見せしめられるのである。

 近業百二十一句中には、やはり通りいつぺんの寫生としての作句もあることではある。例へば

   馬遠く繋ぎてあるや淸次茶屋    虛子

   絲つむぐ車の下やちゝろ鳴く    同

   頂上に大きな旗や菌山       同

   稻刈て婆が茶店もあらはなり    同

   町並の梭の響や鵙の晴       同

のやうなもので、此等は、いづれ一と通り立派な俳句で、勿論別に難すべき箇所とてもなく、それだけ又、俳句とは忿うしたものであるといふむきに、これから俳句を學んでみようといふ側の人に、示したりするには良い手引であるのだが、同時に又、それは、前々から、虛子翁自身の作にも澤山にあつた句境で、別に進轉のあとをとゞめたものとして見ることは出來ないといふことにもなる。

 寧ろ、虛子翁これまでの主張に添ふところは、

   彈初の姊のかげなる妹かな     虛子

   徐々と掃く落葉箒に從へる     同

   行く我に戾る君あり寒げいこ    同

   ところどころ多田の道の缺けてなし 同

のごとき作で、一見したところでは、奈邊にその面白味が、といふよりは其の價値が存するかをせんさくするに苦しむ體をもつものである。が、直ちに判らないなら判らないとしても、寫生といふことに、眞に忠實であれといふ意嚮から推して考へ、深く此等の句を一々吟味してみると、その極めて平凡な事柄と思はれる裡に、一脈通ずる何物かがある。例へば最初の「彈初」の句にしても、姊の後ろに妹が坐つて居る。姊妹の禮節からいつても普通のことだし、後ろであるから妹が姊のかげであることもあたり前のことである、と然う云つてしまへば何でもないが、偖てそこに虛子翁の主張があるところで、彈初をして居る姊が、得意になつて三味か何か樂器を彈いて居る。妹は小さい態(なり)で――この小さい態といふことが、平凡といへば平凡だが作者は中々平凡とは思はぬのである。妹のちつぽけな顏が、到底姊にはかなはぬといつた表情で、若しくは、なに糞ッ負けるものかといつた表情で、ちんまりとひかへたところがみものではないかと云ふ所である。それをあらはに強調せず、有るが儘に、實態を寫して、讀者の豐かな想像にまかそようとするのである。以下解説は煩はしいので略すが、這の句、這の主張は、これから俳句といふものをやつてみようといふやうな人、若しくは少しばかりやり出した極めて初歩の人々にとつてとしては暫く措き、すでに、ながらく俳句にたづさはつて居て、惡達者に、駄作を連發する人々、或はなまじ低級の主觀を弄して、漸く月並に陷らんとするやうな側の人々にとつては、最大にして無比の救ひでなければならぬ。この點に於て、子規が、過去に、客觀を尊び、寫生句を主張した事に考へ合せてみて、虛子翁のこの主張なり作句なりは、より明瞭(はつきり)して居り、より確乎(しつかり)したものと認むることが出來る。

 けれども、此の近業に於て虛子翁は、更に一歩を瞭かに踏み出して居ると私は觀るのである。即ち大成に庶幾した作品の少くとも數句を私は認めぬわけにはゆかぬ。

 同じ自然界の事象を客觀的に寫生するとした所で、個々の實在を、鹽梅し、とり入れて來るのは、自己自體の心の動かし方である。心の動かしがなかつたならば、俳句、藝術、總て何の創作もがあり得ないと同時に、其の動かしの如何に價値標準は決まるべきである、最近、本間久雄氏は「藝術に於ける眞について」と題して此處を明瞭に言つて居るので、試にとり入れてみよう。

 「藝術は、少くとも理論としては、明かに假想の世界の創造である。決して自然そのまゝ、現實そのまゝの徹底的な寫實などといふことはあり得ない。自分では、どんなに徹底した寫實だと思つて居ても、これはその作家の心内の幻象の描寫にほかならない。作家は、j自然や現實の世界から材料を得て來て、これを自己の主觀の坩堝に溶かし込み、新しい別た世界――藝術の世界として讀者の前に提供する。だから、同じ材料でも、これを主觀の坩堝に溶かし込む、その溶かし込み方によつて、全く味ひの異つた作品の生れて來るのは當然なことだ。忌憚なき眞實の描寫といふことは文字通りの意味では斷じてあり得ない。もし、あつたらそれは藝術ではなく、生活の單なる寫眞に過ぎない。」

といふのである。無論、藝術として取扱はるべき俳句が、論を他に枉ぐべき筈はないのである。當然、又、俳句の進步發達の度合は、作者その人の心の動かし方によらなければならぬ。一草一木の微を、俳句として取り入れることも、作者の心は、仔細の注意力をもつて動くので、單なる土くれ、單なる草びらが、その儘實在として、紙上へ持ち來たされるやうに考へてはならぬことの反面に、その土くれ草びらを取扱ふ作者の心の動かし方を、仔細に、透徹した觀方で、觀、味はなけれぱならぬのである。

   土近く朝顏咲くや今朝の秋     虛子

   三日月のたちまち見えぬ甍かな   同

   大石に倚れば靜かや秋日和     同

   棚ふくべあらはれいでぬ初あらし  同

   月いでゝ色に出る紅葉かな     同

      たけし息洋の袴着

   袴着や我もうからの一長者     同

の如きは、輓近、虛子翁の大成をものがたるものとして、讚歎に値するものと云ふを憚らぬ。解説の煩は敢て見合せ、左の樣に云ひたい。松尾芭蕉の宗房時代初步の作、

   月ぞしるこなたへいらせ旅の宿   芭蕉

から、桃靑時代の作、

   あすは粽難波の枯葉夢なれや    芭蕉

ヘ轉じ、更に、

   古池や蛙とび込む水の音      芭蕉

の芭蕉時代となつて、

   六月や峰に雪おく嵐山       芭蕉

   秋もはやはらつく雨に月の形    同

といつた、爛熟期の、靜かにして幽寂そのもののやうな、澄みわたつた寫生境へと進み入つたそれに對比して、私(ひそか)に我が虛子翁の爲に祝福の情を禁じ得ないもののあることを見出すのである。

 

 芥川龍之介氏から、近著「梅、馬、鶯」を贈られたので、それの俳句についてだけ、蕪蕪雜な思ひつきだけを述べておきたい。

 ひつくるめて、この發表を、近業といふは、いさゝか當らぬかもしれぬ。大正六年より同十五年に至ると、句集終りにも附してあるが、既に、一度發表されたもので、それに對し嘗て私見をのべたものも多く散見する。けれども近業というても、全然觸れて居ないでもない。

 嘗ても云うた如く、今の俳人以外の人々で、創作家其の他に、俳句に指を染めて居る人たちは相當澤山の數に上ることであるが、その中で、氏の句境の如きは、まさに群を拔くものであることは、獨り私のみの見解ではなからうことのやうに思ふ。

 で、芥川氏の近作であるが、氏の其の後の句が、おしなべて、虛子翁の句などと同樣に、尠くとも其の姿態に於て、なだらかな調子を帶び、より平明にして穩健な風をもつて來て居ることは見のがすことの出來ない事實である。それとも一つ、傾向的に一種の寂びをふくんで見えるのである。この「寂び」は、芥川氏の創作に於ける一つの力で、事々しい發見でもあるまいと苦笑するむきもあるかもしれぬが、これまでに發表された俳句として見る時、此處に言及するの必要をずるのである。

   臘梅や枝まばらなる時雨ぞら      我鬼

   お降りや竹深ぶかと町のそら      同

      一游亭來る

   草の家の柱半ばに春日かな       同

   初秋の蝗つかめば柔かき        同

   桐の葉は枝の向き向き枯れにけり    同

   糸萩の風軟かに若葉かな        同

   さみだれや靑柴積める軒の下      同

   かげろふや棟も落ちたる茅の屋根    同

の如き、一々解説づけるまでもない。

 恁うした全部七十四句。その中、一進境を示したものとして、私をして擧げしめるならば、私は躊躇なく左の五句を擧げる。

   春雨や檜は霜に焦げながら       我鬼

   臘梅や雲うち透かす枝のたけ      同

   雨ふるやうすうす燒くる山の形     同

      震災夜增上寺のほとりを過ぐ

   松風をうつゝに聞くや夏帽子      同

      趙後より來れる婢當歳の兒をたんたんと云ふ

   たんたんの咳を出したる夜寒かな    我鬼

用意周到の氏は、自作に何囘となく眼を通して改作すべきは、十分の改作を加へて、發表されたであらうことが、句集全般を透して、よく窺へる。

 その中の一つ、冒頭におかれてある。

   蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな     我鬼

に就て云ふと、此の句は、曩に「ホトトギス」へ發表された時とは違つて、またに改作されてある。前にはたしか、

   鍼條(ゼンマイ)に似て蝶の舌暑さかな 我鬼

であつたと記憶する。この句を改作した氣持、及びこの句の改作が持つ姿態は、近業全般へ流れて居るもので、價値の比較は別としても、よく一句が、近業としての證左を示すに足るものでもあるのである。

 が、他は他でよいとしても、此の句だけに於ては私は改作をとらない。この句は、我鬼といふ作者が芥川龍之介氏であることを知らなかつた時に私が推賞し、虛子翁も之を「ホトトギス」誌上で推賞したものである。その事あるが爲に、徒らに言葉ぞ盲進させるものでは斷じてないが、虛子翁の意見としては知らず、私一個としては、斯う調子をなだらかに落して、却つて失敗したと思ふ。即ち「似る」がいけないと思ふ。所謂「だれ」に陷ちたのである。この句のいゝところは、調子を出來るだけ緊張させ、矢繼早に、すさまじく讀者に迫るところにあるので、思ひ設けたい(作者は如何に思ひ設けたというても)奇なあの鐡條(ゼンマイ)を、蝶の舌なりと觀る(この場合、蝶の舌が鐡條に似たのでなく、鐡條は實に蝶の舌に似て居たのである)作者の感激は、些々たりとも碎(こは)してはならない機微なところで、その鋭い針の先きのやうな所に、明敏群を拔く芥川氏の感受性の働きがあり、當代一流の技巧家たる氏の叡智によつて表現さるゝところとなつた點に、俳句としての近代的傾向を見、芥川其の人の所謂大正の「調べ」として、敬愛措きがたいものとしたいのである。また不思議に、鐡條としてゼンマイと假名つけたりしたところに、一抹の妙味をふくまないでもない、ことほど左樣に前句を主張したい私である。

 改竄せぬとしたところで、此の句が何等芥川氏の大成を傷つけるものではないと私は信ずる。

 併し、も一つ附加へる。曩に、芥川氏は、久保田萬太郎氏を書くに當つて、恁ういうて居た。「小説家久保田萬太郎君の俳人傘雨宗匠たるは、天下の周知する所なり。僕、曩日久保田君に

  うすうすと曇りそめけり星月夜      我鬼

の句を示す。傘雨宗匠善と稱す。數日の後、僕前句を改めて、

  冷え冷えと曇り立ちけり星月夜      我鬼

と爲す。傘雨宗匠頭を振つて曰く、いけません。然れども僕畢に後句を拾てず。久保田君亦畢に後句を取らず。僕等の差を見るに近からん乎。」

と。更に又、今度發表の句集について見ると、

  風落ちて曇り立ちけり星月夜       我鬼

の一句を見出す。果して、前身は「冷え冷えと」ではなかつた歟を想ふ。

 前句「蝶の舌」の改竄を否定する私は、この芥川氏の「風落ちて」を、逡巡することたしに肯き得るものである。   (昭和二、一、二一)

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