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2016/07/11

ヒルデスハイムの薔薇   アポリネエル 堀辰雄譯

[やぶちゃん注:ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 一八八〇年~一九一八年)の短篇小説La Rose de Hildesheim ou les Trésors des Rois mages (一九〇三年)の堀辰雄による全訳である。二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」の解題によれば、初出は雑誌『山繭』(昭和二(一九二七)年五月刊の通巻第二十号)である。なお、原題はご覧通り、「ヒルデスハイムの薔薇或いは東方三博士の財宝」が正しい。

 底本は昭和一一(一九三六)年山本書店刊の堀辰雄の訳詩集「アムステルダムの水夫」を、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認した。傍点「ヽ」は太字とした。

 「ヒルデスハイム」“Hildesheim”はニーダーザクセン(Niedersachsen)州南部の都市で、北部ドイツの最高峰ブロッケン(Brocken)山(標高一一四一メートル)などがあるハルツ(Harz)山地の北方、北ドイツ平原の南、現在のドイツ連邦共和国の中央やや北に位置する。中世から近世にかけては聖俗両面に於いて有力な都市で、学問の分野でも「中心地」と目された。第二次世界大戦によって『歴史的建造物を含む街の多くが破壊されたが、現在までにその多くが再建され、かつての中世風の町並みも再現されている』。(ここはウィキの「ヒルデスハイム」に拠った)。ここはヒルデスハイム聖マリア大聖堂(Hildesheimer Dom St. Mariä Himmelfahrt)及びヒルデスハイム聖ミヒャエル聖堂(St. Michael zu Hildesheim)で知られ(初期ロマネスク様式の荘厳美を持った二つのこの聖堂も、やはり一九四五年の空襲によって孰れも完全に破壊されたが、戦後に再建されている)、ウィキの「ヒルデスハイムの聖マリア大聖堂と聖ミカエル聖堂によれば、前者の『大聖堂には中庭があり』、一三二一年に『建造されたゴシック様式のアンネのチャペルがある。大聖堂の後陣の中庭側の壁には』、樹齢千年のバラが『茂っている。このバラはヒルデスハイムの繁栄を象徴していると信じられており、伝説によると』、このバラが繁茂する限り、ヒルデスハイムは繁栄すると伝える。一九四五年に『この大聖堂が爆撃されたときもバラの根は残り、現在も毎年花を咲かせている』とある。ドイツ語版ウィキの“Hildesheimer Dom” (前の日本語版とはリンクしていないので注意)によれば、この薔薇はDer Tausendjährige Rosenstock(千年の薔薇の木)・Hildesheimer Rose(ヒルデスハイムの薔薇)と呼ばれていることが判る。なお、この小説の主人公の女性の名はドイツ語「イルゼ」Ilseであるが、これはフランス語や英語のElisabethで、その語源はギリシャ語の「Elis(s)avet」に由来し、元は「旧約聖書」の登場人物アロンの妻に当たるエリシェバ(Elisheva)に濫觴する。ヘブライ語の「エリシェバ」の「エリ」は「我が神」、「シェバ」は「誓い」「守り続けること」を意味し、併せて「我が神は我が誓い」「我が神は我が支え」の意となり、また、洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ:ラテン:Ioannes Baptista)の母エリサベトにもちなんでいる(ここは主にウィキの「エリザベス」に拠った)。

 因みに冒頭で堀辰雄は、ここを「ハンノワに近い」と訳しているが(原文は“à Hildesheim, près de Hanovre,”)、“Hanovre”はヒルデスハイムの西北三十キロメートルほどのところにあるハノーファー(Hannover)のこと。ライネ(Leine)川沿いにある北ドイツの主要都市で現在のニーダーザクセン州の州都である。また、主人公の発音を「ハンノワのアクセント」と言っているが、これは所謂、低地ドイツ語(Niederdeutsch:低ザクセン語Niedersächsisch)のオストファーレン語(Ostfälisch)と呼ばれる方言ではあるが、参照したウィキの「低地ドイツ語」によれば、『発音に関してはハノーファー都市部の発音が最もドイツ語の標準語に近いとされる』とある。]

 

 

   ヒルデスハイムの薔薇

 

 前世紀の末、ハンノワに近いヒルデスハイムにイルゼといふ一人の少女がいた。彼女の薄いブロンドの髮はすこし金色の反射をして月光のやうな印象を與へた。彼女の身體はすらりとしてゐた。彼女の顏は明るくて愛嬌があつて、笑ふときにはそのふつくらした下顎にすばらしい靨が出來た。鼠色の眼はそんなに美しくはなかつたが、彼女の姿にはよく似合つて、小鳥のやうにたえず動いてゐた。彼女の優しさには比べるものがなかつた。彼女は、大抵のドイツ娘がさうであるやうに、家政や裁縫が非常に下手だつた。家事を終へてしまふと、彼女はピアノの前に坐つて、人魚について物語られてゐることを唄ふのだつた。でなければ彼女は本を讀むのだつた。その時の彼女は一人の女詩人を思はせた。

 彼女が話すときには、馬の言葉だと言はれてゐるドイツ語も、婦人の言葉であると言葉はれるイタリイ語よりいつそう優美になつた。それに彼女はハンノワのアクセント( S が決して Ch の音をしない)を持つてゐるので、彼女の會話は、實に魅惑的であつた。

 ずつと前に、アメリカへ行つてゐたことのある彼女の父は、そこでイギリスの女と結婚し、それから數年の後、親ゆづりの家に住むため故郷へ歸つて來たのである。

 ヒルデスハイムは、世界の中で最も美しい小都會の一つである。その町は、並はずれた屋根のある、異樣な恰好の、彩られた家々とともに、まるで妖精物語から拔け出して來たやうであつた。その町役場の前の廣場の風景は、いかなる旅人も、忘れることが出來ないであらう。實に、それは、詩の額緣をつけるために描かれた一枚の繪であつた。

 イルゼの兩親の住居もヒルデスハイムの多くの家のやうに非常に高かつた。ほとんど垂直である屋根は正面(ファサード)全體より高まつてゐた。鎧扉のない窓がそとに向つて開かれていた。窓はいくつもいくつもあつた。そしてその窓と窓との間には、わづかしか空間が無いのであつた。門と梁との上には、敬虔なのや顰め顏をしている像が彫刻されてあつた。それには古い獨逸語の詩か、それとも羅典語の銘かで註釋がついてゐた。對神三德、最高四德、七大罪、四福音書著者聖徒、乞食に外套を與ふる聖マルタン、聖女カテリイヌと車輪、鵠、楯形、等等がそこにあつた。それらすべては靑と赤と綠とで彩られてゐた。上の階が下の階よりも突き出してゐるので、家全體はさかさまの階段のやうだつた。それは多彩な、愉快な家であつたのである。

 イルゼはごく小さい時分からこの住居に移つて來て、ここで大きくなつたのであつた。彼女が十八の頃には、彼女の美しいといふ評判はハンノワまで擴がり、そこからさらにベルリンにまで達してゐた。千年の薔薇の木や寺院の寶物を見るためにヒルデスハイムの美しい町を訪れる者で、「ヒルデスハイムの薔薇」といふ綽名をつけられてゐるこの少女を讃美しに來ないものはなかつた。彼女は何度も結婚を申込まれた。しかしいつも、いま歸つて行つたばかりの求婚者の長所を賞めちぎつてゐる父に向つて、彼女は眼を落しながら答へるのであつた。自分はもつと娘でゐて自分の若さをたのしみたいのだと。すると父は言ふのであつた。

 ――お前は間違つてゐる。だが、お前の好きなやうにするがよい。

 そして求婚者は忘れられていつた。

 イルゼが散步から戻つて來ると、家の上に浮彫にされていゐるすべての像は、彼女に、お歸りなさいと云ふかのやうに微笑むのだつた。そして、「諸罪」らは合唱しながら、彼女にこう叫ぶのだつた。

 ――私たちを御覽なさい、イルゼ。私たちは七大罪を象徴しているのです。しかし私たちを浮彫にして彩つた人たちは、私たちを恕すべからざる罪とするほどの惡意は、私たちには持つてゐなかつたのです。私たちを御覽なさい。私たちは恕さるべき七つの罪です。ごく輕い罪なのです。私たちはあなたを誘惑しようとは思ひません。むしろ反對です。私たちはこんなにも醜いのですから。

 そして「諸德」らは、輪舞をするためのやうに手と手をとりあひながら、かう歌ふのだつた。

 ――リンゲル、リンゲル、ライエ(踊れ、踊れ、輪になつて踊れ。)私たち七人の者はあなたの德を象徴してゐるのです。だが、私たちを御覽なさい。私たちのどの一人だつて、あなたほど美しくはありません。リンゲル、リンゲル、ライエ。

 

       *

     *

       *

 

 ところが、イルゼには、ハイデルベルヒで勉強をしている一人の從兄があつた。彼はエゴンと言つた。彼は大きくて、金髮で、肩幅が廣く、そして空想家だつた。休暇中、ドレスデンで暮してゐるうちに、この若い二人はお互に愛し合つた。彼等はその戀をラフアエルの讃美すべきマドンナ・シクスチイヌの畫の前で打ち明けたのであつた。その時から、イルゼはいくらか天使に似た優しい顏だちを持つやうになつた。

 エゴンはイルゼとの結婚を申込んだ。しかし彼女の父は、もちろん財産と地位とを要求した。そこで、この靑年はハイデルベルヒに歸つてからは、勉強とヒルシユガツセの決鬪との閑暇さへあれば、城のほとりの哲學者の小徑へ行つては、自分に從妹を娶(めと)らせてくれる財産を手に入れるための手段を夢みるのであつた。

 

       *

     *

       *

 

 一月の或る日曜日、彼が説教を聞きに行つたとき、牧師が、馬槽のなかの基督のところへ訪ねて行つた東の博士たちのことを話した。牧師はマタイ傳福音書の一節を引用した。そのとき牧師は、基督のために黃金や乳香や沒藥を持つて行つた博士たちの數や身分については少しも觸れなかつた。

 それからと云ふもの、エゴンは東の博士たちのことを考へずにはゐられなかつた。彼は新教徒ではあつたが、カトリツクの傳説に從つて、王冠をかぶつたガスパルとバルタザルとメルヒオルとの三人を想像した、それらの東の博士たちは、黑人を眞中にして彼の前を練り步くのであつた。彼には彼等が三人とも黃金を携へているごとくに思はれた。それから數日過ぎると、彼はもはやその三人を、通りすがりにあらゆるものを黃金にしてしまふ魔法使の、錬金術師の顏だちと服裝との下でしか、見ないようになつた。

 かういふあらゆる幻覺は、從妹と自分とを結婚させてくれる、黃金を愛するがためにのみ生じたのであつた。彼はそのために食ふことも飮むことも忘れた。恰もこの新しいマイダスは、その食物としては、ケルンの本寺がその殘骸を所持していることを誇りとしてゐる、あの占星家らによつて變質せられた地金以外には、何も持つてゐないかのやうであつた。

 彼は圖書館を漁つて、三人の東の博士たちを問題にしてゐる、あらゆる書物を讀んだ。ヴエネラブル・ベエド、古傳説、福音書の眞正を論じた現代のあらゆる著書等。それから步きながら、彼はその金色の空想を走らせるのであつた。

 ――そのすばらしい黃金の寶は、測り知れない價格になるに違いない。そしてその寶が、分配されたとか、使用されたとか、消費されたとか、盜まれたとか、又は發見されたとか云ふやうなことは、何處にも書かれてはいないのだ。

 遂に或る晩、彼は自分が東の博士たちの寶を欲しがつてゐると云ふことを自覺した。それを發見することは彼に、戀人としての幸福のほかに、動かしがたい名譽をも與へるであらう。

 

       *

     *

       *

 

 彼の奇異な振舞はやがてハイデルベルヒの教授や學生たちを氣づかはせだした。彼の仲間でないものは、彼を狂人と呼ぶのに躊躇しなかつた。彼の仲間のものは彼を辯護した。それがために決鬪の果しない連續が生じたくらゐであつた。(ネツカ河畔ではそれはいまだに物語られてゐるのである。)それからまた彼に關するさまざまな逸話が擴がつた。彼が田舍を散步しているとき、或る學生が彼の後をつけていつた。そしてその學生は、エゴンが一匹の牛に近よつて行つてこんな風に話しかけてゐたと告げるのであつた。

 ――僕は小天使(ケルビム)を探してゐるのだ。それに似てゐるものは僕を感動させる。僕は一匹の牛を見つけたぞ。小天使(ケルビム)は、もつとも翼のある牛なのだが。‥‥だが、どうか僕に言つておくれ、草を食んでゐる美しい牛よ、‥‥氣立のいいお前はきつとあの天使の中でも最高階級に屬する動物どもの知識の一部を保存してゐるだらう。どうか僕に言つておくれ、お前たちの種族の間ではクリスマスの慣例はすこしも續けられてゐないのか? それにしてもお前はお前の仲間の一人が馬槽のなかの幼兒をその息で温めてやつたことを名譽としてはいないのか? それにしてもお前はきつと知つてゐるだらう。小天使(ケルビム)に型どつてつくられた氣高い動物よ、お前は知つてゐるだらう、東の博士たちの寶が何處にあるのか? 僕は、僕を神聖な財産で富ましてくれるその寶をば探してゐるのだ。ああ、返事をしておくれ、牛よ、僕の唯一の希望よ! 僕はそれを駿馬にも聞いて見たのだがあいつらは獸(けだもの)に過ぎないのだ。そうしていかなる天使にも似てはゐないのだ。ああ、あいつら精力的な動物どもの知つてゐた返事といつたら、唯、しやがれた獨逸語の肯定詞だけだつたのだ。

 それは丁度黃昏が終らうとする時分だつた。遠くの家々の中にはランプがともされてゐた。そして村々は四方にかがやきはじめてゐた。牛はしづかに首を動かしてモオモオと唸つた。

 

       *

     *

       *

 

 ヒルデスイムでは、イルゼはすつかり信賴して、從兄からの狂ほしい愛の手紙を受取つてゐた。彼女とその兩親は、エゴンが財産をつくりかけてゐるのだと思つてゐた。

 冬になつた。雪がふつた。それは見たところ白鳥のうぶ毛のやうに溫かさうであつた。家々の彫刻した聖人らは、雪に掩はれながら寒さにふるへてゐるやうに見えた。クリスマスがやつて來た。そしてきらめいてゐる木のまはりで人々は唄ふのだつた。

    クリスマスの木は

     木のなかで一番美しい木だ

    なんと不思議な木よ

    なんと綺麗な花の咲いてゐることよ

     小さな花がきらきらしてゐる

     小さな花がきらきらしてゐる

      ああ きらきらしてゐる

 

       *

     *

       *

 

 小さな町の中を橇が滑り出した結氷期の或る朝、エゴンの兩親の住んでゐるドレスデンの消印のある一通の手紙が屆いた。イルゼの父は眼鏡が見つからなかつたので、それをイルゼに高い聲で讀ませたのであつた。その手紙は短かつた。しかし悲しかつた。エゴンの父は、彼の息子が戀のために氣の狂つてしまつたことを告げるのであつた。そして彼の息子がどうしても東の博士たちの寶を欲しがつてゐることを、彼の發作が彼を餘儀なく隱れ家のなかへ閉じ込めさせてゐることを、それから彼が發作中たえずイルゼの名前を繰り返してゐることを告げるのであつた。

 イルゼは、その手紙以來、急に衰弱していつた。頰は瘦せ、唇は靑ざめ、眼はいつそう光を增した。彼女は家事や針仕事をすつかり止めてしまつた。そしてすべての時間をピアノの前で過すか、または、ぼんやりと夢見てゐるのであつた。そして二月の半頃になると、彼女も床へつかなければならなくなつた。

 

       *

     *

       *

 

 その同じ頃、一つの噂がヒルデスハイムの全町民を動搖させてゐた。その町の創立のふしぎな立會人、あの千年の薔薇の木が、寒氣と老齡とのために死んでしまつたのである。本寺の裏の、閉鎖された墓地の中を匍ひまはつてゐた、その古い木が、枯れてしまつたのである。人々は心痛した。町役場では最も熟練した植木屋たちに救助を依賴した。しかし、どの植木屋も自分にはそれを蘇らせることは出來ないと言ふのであつた。遂に、ハンノワから一人の植木屋がそれを療治にやつて來た。彼は彼の技術の中で最も巧妙な手段を用ひた。すると三月の始めの或る朝、ヒルデスハイムの町中に、突然大きな歡聲が起つた。人々はみんな近づきあつてお互に祝ひ合ふのだつた。

 ――薔薇の木が蘇つた。ハンノワの植木屋が牛の血を巧妙に利用して、あの木に再び生を與へたのだ。

 

       *

     *

       *

 

 その同じ朝、イルゼの兩親は、戀のために死んだ娘の棺の側で泣いてゐた。白い布で掩はれた棺が持ち運ばれていつたとき、彩られた浮彫の聖人らは、雪に掩はれながら、古びた家の正面(ファサード)の上に震へて、啜り泣いてゐるかのやうに見えた。

 ――リンゲル、リンゲル、ライエ。(踊れ、踊れ、輪になつて踊れ。)さようなら、イルゼ、永久に。さようなら、お前の德義に適つた諸罪よ、お前より美しくはなかつたお前の諸德よ。さようなら、イルゼ、永久に。

 その葬列の前を、軍隊が通つた。太鼓と軍笛(ファイフ)とが輕快な悲しい音樂を奏してゐた。女たちは目たたきをしながら言ふのだつた。

 ――傳説の薔薇の木は蘇された。それだのにヒルデスハイムの薔薇は埋められてしまふのだ。

 

 

[やぶちゃん注:「そうして」「さようなら」など一部の表記に歴史的仮名遣でないものが混じるが、面倒なので注記しないこととした。以下、原文は仏語サイトのこちらを参照した。

「家事を終へてしまふと、彼女はピアノの前に坐つて、人魚について物語られてゐることを唄ふのだつた。」これは堀辰雄に悪いが、語訳の類いである。原文は“Les travaux domestiques terminés, elle se mettait au piano et chantait qu’on eût dit d’une sirène,”で、一九七九年青土社刊「アポリネール全集」の窪田般彌氏の訳では『家事を片づけてしまうと、かの女はピアノに向い歌うのだったが、それは』セイレーン(人魚)の『歌声をきくようだった。』と訳しておられ、読んでいても躓きがない(引用途中のセイレーン(人魚)の箇所は窪田氏は『シレノス』と訳された上で、割注で『半人半魚の魔女。その美声は船人を難破させたという』と附しておられる)。

「對神三德」原文は“les Trois Vertus Théologales”。同前の窪田氏の訳では『三つの神徳』とあり、割注で『信仰、希望、慈悲のこと』とされておられる。

「最高四德」原文は“les Quatre Vertus Cardinales”。同前の窪田氏の訳では『四つの主徳』とあり、割注で『慎み、正義、節制、能力のこと』とされておられる。

「七大罪」原文は“les Péchés Capitaux”。同前の窪田氏の訳では『七つの大罪』とあり、割注で傲り(「倣り」とあるので外して示した)、『吝嗇、淫蕩、妬み、大食、怒り、怠惰の七つの罪』とされておられる。ウィキの「七つの大罪」によれば、『キリスト教の正典の中で七つの大罪について直接に言及され』たものはなく、これは四世紀の『エジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコスの著作に八つの「枢要罪」として現れたのが起源である』とある。『八つの枢要罪は厳しさの順序によると「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」である』。六世紀後半、ローマ教皇グレゴリウス一世によって『八つから現在の七つに改正され、順序も現在の順序に仕上げられた。「虚飾」は「傲慢」に含まれ、「怠惰」と「憂鬱」は一つの大罪となり、「妬み」が追加された』とある。

「乞食に外套を與ふる聖マルタン」原文は“l saint Martin donnant son manteau au mendiant”。同前の窪田氏の訳では『乞食にマントを与える聖マルタン』とあり、割注で『フランスで最も尊敬されている聖人。ツールの司祭だった』とされておられる。ウィキの「トゥールのマルティヌスによれば、ラテン語で“Sanctus Martinus Turonensis”、また「マルタン」「マルチノ」とも音写され、『キリスト教の聖人で』、『殉教をせずに列聖された初めての人物で』『ヨーロッパ初の聖人でもある』。『日本のカトリック教会では聖マルチノ(ツール)司教』『と表記される』とし、三一六年頃、『ローマ帝国領パンノニア州(現ハンガリー)サバリア』生まれで、三九七年(一説には四〇〇年)に『トゥーレーヌのカンドで没。ローマ帝国軍の将校であった父の転任で、子供の頃パヴィーアへ移住し、のちにローマ軍に入隊した。所属する連隊が、しばらくしてガリアのアミアン』(Amiens:現在のフランス北部の都市(コミューン:commune))『に派遣された時、「マントの伝説」が起こる』。『ある非常に寒い日、アミアンの城門で、マルティヌスは半裸で震えている物乞いを見た。彼を気の毒に思ったマルティヌスは、マントを』二つに『引き裂いて、半分を物乞いに与えた。この物乞いはイエス・キリストであったといわれ』、『これが受洗のきっかけとなり、その後軍を除隊した。マルティヌスが持っていたほうの半分は、「聖マルティヌスのマント」として、フランク王国の歴代国王の礼拝堂に保管された』。『ちなみに、フランクの王朝「カペー朝」は、マントを意味する「cape」にちなんでいる。礼拝堂(英 chapel、仏chapelle も、もともとはマントを保管した場所という意味である』。『除隊すると、マルティヌスは、聖ヒラリウスの弟子となるためにポワティエ』(Poitiers:現在のフランス西部の都市)『に向かうも、その前に、両親のいるロンバルディアに行こうとした。しかしアリウス派の信奉者が多く、カトリックを敵視していたため、ガリアへ戻ろうとしたが、アリウス派の勢力により聖ヒラリウスが追放されたことを知り、ティレニア湾に浮かぶガリナリア島(現アルベンガ島』(Albenga:現在のフランス国境に近いイタリア共和国リグーリア州サヴォーナ県)『)に逃れた』。『その後の勅令により、聖ヒラリウスがガリアに戻ったのを知ったマルティヌスは、ポワティエに急ぎ』、三六一年、『ポワティエから少し離れた地域(現リグージェ』(Liguge:フランスのポワトゥー=シャラント地域圏のヴィエンヌ県)『)を教化する許可を得て、多くの修道士が彼の周りに集まった』。『これが、西方教会初の修道院、リグージェ修道院である』。『マルティヌスは、伝道活動も積極的で、病気を治療したともいわれている』。三七一年(または三七二年)にトゥール』(Tours:現在のフランス中部にある都市でトゥーレーヌ(Touraine)州州都にしてアンドル=エ=ロワール県の県庁所在地)『の二代目の『司教である聖リドリウスが亡くなり、聖職者たちは、マルティヌスに新たな司教への就任を求めたが、あまり乗り気でなかったため、策略が施された。あるトゥールの市民がマルティヌスのもとを訪れ、死期が近い妻に会ってやってほしいと言って、共にトゥールの町に入ったところを、人々の喝采が出迎えたのである』。『司教となった後も、彼は、マルムーティエ修道院を作り、トゥーレーヌ一帯のキリスト教化の拠点とした』。『また、司教管区を離れて、現ドイツ領のトリーアに足を運ぶこともあった。ここはローマの皇帝たちが屋敷を構えたところで、ここで、皇帝に、犯罪者への赦しを請うこともした。異端者とされたイベリア半島の聖職者、プリスキリアーヌスへの赦しをも願ったが、結局は斬首の刑に処せられ、マルティヌスはそのことを大いに嘆いたという』。『ローマへの最後の訪問の後、マルティヌスはカンドに行き、そこで』八十一歳で没している。『その謙遜と禁欲を重視した生き方は、人々の崇拝の対象となり、偉大な聖人とたたえられた。存命中、あるいは死後に起きた奇跡についての記録も多く、多くの教会や礼拝堂が奉納され、また聖マルティヌスにちなんだ地名も多い』。『フランス、ドイツの守護聖人であ』り、『また、騎士や兵士、毛織物関連業者、靴屋、物乞い、家畜、そしてホテル経営者の守護聖人でもある。ロワール川流域でのブドウ栽培の先駆者としても知られ、イタリアではワインの守護聖人ともなっている。また、酩酊を避けたい時にも、この聖人に祈りを捧げる』とあるから、向後、私もこの聖人に祈りを捧げよう。

「聖女カテリイヌと車輪」原文は“sainte Catherine et sa roue”。同前の窪田氏の訳では『聖女カトリーヌとその車輪』とあり、『聖女カトリーヌ』の割注で『アレキサンドリアの聖女。車輪の拷問をうけた』とされておられる。ウィキの「アレクサンドリアのカタリナ」より引く。聖カタリナ又はアレクサンドリアのカタリナ(ラテン語:Sancta Catharina Alexandrina 二八七年~三〇五年)は『キリスト教の聖人で殉教者』。『正教会では聖大致命女エカテリナとして敬われ、ローマ・カトリックでは伝統的に『十四救難聖人』の一人とされている。ジャンヌ・ダルクと話したとされる聖人の一人』。『彼女の象徴として、壊れた車輪、剣、足下の王冠、霰、花嫁のヴェールと指輪、鳩、鞭、本、異教の哲学者と論争する女性、などが用いられる。キリスト教の弁証者、車輪作りの職人(陶工と紡績業者を含む)、記録保管係、教育者、研ぎ職人、弁護士、少女、機械工、製粉業者、看護師、図書司書、学者など多くの分野の守護聖人』などとされる。『聖カタリナの生涯は多くの種類の伝説で成り立っている。最も知られる話は以下のとおりである。カタリナはエジプト・アレクサンドリア知事コンストゥスの娘だった。彼女は当時最高の教育を受けたと言われる。カタリナは両親に向かって、名声、富、容姿と知性で自分を超える男でなければ結婚しないと宣言した。カタリナの母は秘密裡にキリスト教に改宗しており、娘を隠者の元へ送り出した。その隠者はカタリナに「その方(キリスト)の美は太陽の輝きよりも勝り、知性は万物を治める。富は世界の隅々にまで広がっている」と説いたという』。『幻視をした彼女は洗礼を受け、キリスト教徒となった。彼女は幻想の中で天国へ運ばれ、そこで聖母マリアによってキリストと婚約させられたという(神秘の結婚)』。『皇帝を訪問して話したいというカタリナの物語は時のローマ皇帝マクセンティウスの元にも届き、彼女は皇帝にキリスト教徒を迫害するやり方は間違っていると説こうとした。伝説では、カタリナは皇后を改宗させることに成功し、彼女は皇帝が送り込んだ』五十人の『異教の賢者たちを論破したため、彼らの多くはすぐに殺されてしまった。皇帝はカタリナに言い寄って失敗すると、彼女を牢へ入れるよう命じた。彼女が改宗させた人々がカタリナを訪問すると、彼女は車輪に手足をくくりつけられて転がされるという拷問が命じられた。しかしカタリナが車輪に触れるとひとりでに壊れてしまったため、彼女は斬首刑にされた』。『伝説は後にさらに推敲され、天使がカタリナの遺体をシナイ山に運んだという。そこには』六世紀、東ローマ皇帝ユスティニアヌス一世によって聖カタリナ修道院が建立され、この『修道院は今も残り、初期キリスト教芸術、建築、輝かしい手書き写本など有名な所蔵品』がある。『彼女の第一の象徴となるのは釘打ちされた車輪である。このことから、『カタリナの車輪』として知られるようになり、多くのキリスト教会で』十一月二十五日の『カタリナの祝祭日が祝われる』。但し、『歴史家たちはカタリナは実在しなかったと信じており、彼女は歴史上の人物というよりは理想化された人物像であったとみなしている。彼女は、異教徒の哲学者ヒュパティア』(Hypatia 三五〇年から三七〇年頃~四一五年:ローマ帝国アエギュプトゥス(ラテン語: Aegyptus:古代のエジプトがローマ帝国の属州だった時代の地名。エジプト(Egypt)の語源)の数学者で天文学者・新プラトン主義哲学者であった女性。「ハイパティア」「ヒパティア」とも呼ばれる。キリスト教徒によって異教徒として虐殺された)『と相対する像として作り上げられたというのである。カタリナがその目的のために特別に創造されたとするのは疑わしい。ヒュパティアのように、カタリナは高い知性を持ち(哲学と神学において)、非常に美しく、汚れなき処女であったと伝えられており、ヒュパティアの死ぬ』一〇五年前に『むごたらしく殺されたことも共通している』とする。一九六九年に『ローマ・カトリック教会は』『彼女の実在が歴史的根拠に欠けるという理由から』『典礼秘蹟省が発行する聖人の祝日を記載した暦から』カタリナの祝日十一月二十五日を一度除いたが、二〇〇二年になって『カタリナの祝日は再び暦に記載され』ている。『多くの場所で、カタリナの祝日は最上の厳粛さを持って祝われている。フランスのいくつかの司教区では』、十七世紀初頭から『聖なる日の義務とされてきた。数え切れない数の礼拝堂が彼女を守護聖人としており、カタリナ像はほとんどの教会のほど近くで、彼女の拷問の道具であった車輪を象徴化した姿の像が見つけられる。その間、カタリナの生涯に起因する象徴化が進み』、『聖カタリナは乙女と女学生の守護聖人となった。釘打ちされた車輪は聖人の象徴となり、車輪製造者と機械工の守護聖人となった。また車輪はケンブリッジ大学セント・キャサリンズ・カレッジなどの紋章になっている』とある。

「鵠」「くぐひ(くぐい)」。白鳥の古い名。但し、原文は“des cigognes”で、“cigogne”はフランス語でコウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana を指す。同前の窪田氏の訳でも『こうのとり』とあり、割注で『敬愛と感謝の象徴』とされておられる。但し、ウィキの「コウノトリ」によると、『ヨーロッパでは、「赤ん坊はコウノトリのくちばしで運ばれてくる」「コウノトリが住み着いた家には幸福が訪れる」という言い伝えがあるが、生物学的にはコウノトリ Ciconia boyciana ではなく』、同じコウノトリ属のシュバシコウ(朱嘴鸛)『Ciconia ciconia である(ヨーロッパにコウノトリはいない)』とある。ウィキの「シュバシコウ」にも、『高い塔や屋根に営巣し雌雄で抱卵、子育てをする習性からヨーロッパでは赤ん坊や幸福を運ぶ鳥として親しまれている。このことから欧米には「シュバシコウが赤ん坊をくちばしに下げて運んでくる」または「シュバシコウが住み着く家には幸福が訪れる」という言い伝えが広く伝えられている。日本でもこのため「コウノトリが赤ん坊をもたらす」と言われることがある』と記す。ともかくも、堀辰雄はせめて「鸛(こうのとり)」とするべきであったとは思う。

「楯形」原文は“des écussons”。これは「エキソン」で「楯形紋地」、西洋でよく見かける武具の楯の形をした紋章のことである。

「リンゲル、リンゲル、ライエ」原文は斜体でRingel, Ringel, Reihe.。これはドイツの遊び唄の題名でもあり、調べたところ、一八四八年に出版された本に既に載るとする。短いが、その童謡はこちらの動画で少女たちの遊び方と一緒に視聴出来る。

「ラフアエルの讃美すべきマドンナ・シクスチイヌの畫」原文は“le tableau de Raphaël, l’admirable Madone Sixtine,”。最盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi 一四八三年~一五二〇年)がその晩年の一五一三年から一五一四年頃に、祭壇画の一翼として描いた「システィーナの聖母」(Madonna Sistina:ドイツ語:Sixtinische Madonna)。ラファエロが描いた最後の聖母マリア像であり、ラファエロが自分だけで完成させた最後の絵画でもある。一七五四年にドイツのドレスデン(Dresden)に持ち込まれ、その後、ドイツの美術界に大きな影響を与え続けた。第二次世界大戦後にモスクワへと持ち去られたが、十年後にドイツに返還され、現在はアルテ・マイスター絵画館の最重要なコレクションの一つになっている。『聖シクストゥスと聖バルバラを両脇にして、聖母マリアが幼児キリストを抱きかかえている。マリアは曖昧に描かれた何十もの天使を背景に雲の上に立ち、画面下部には両翼を持つ、頬杖をついた特徴的な天使が描かれている』。『アメリカ人作家、歴史家リック・スティーヴス』(Rick Steves 一九五五年~)は、『通常では慈愛に満ちた表情で描かれるマリアがこの絵画では厳しい顔をして描かれているのは、もともとの祭壇画では中央にキリスト磔刑画が描かれていたことを反映しているためではないかとしている』。(以上はウィキの「システィーナの聖母」に拠った)。

「ヒルシユガツセの決鬪」原文“les duels de la Hirschgasse”。ハイデルベルク(Heidelberg)にあるヒルシュガッセの森は、十九世紀にドイツの大学で盛んに行われた、「学生決闘」などと訳される、一種の学生の通過儀礼的な疑似決闘行為である「メンズーア」(ドイツ語:Mensur)の決闘場所としてすこぶる有名であった。ウィキの「メンズーア」によれば、『決闘の方法は、二人の参加者が剣を持ち合い、フェンシングのようなスタイルで戦うというものである。当事者の片方に一定の負傷、流血が認められれば、決闘は終了となる。決闘の際には、審判を務める学生および医学の講師が立ち会う。決闘は規律に則って行われるが、あくまでも学生の通過儀礼あるいは喧嘩の延長のようなものだとみなされており、スポーツだと考えられることは少ない。また、体育の授業とは異なり、大学は医務室を開放するほかは積極的に関与していない』。『メンズーアは、学生同士の口論や暴力を発端として開始された。誰かと決闘したい、または上級生から決闘を命じられているが自分から喧嘩を仕掛けるのが憚られる場合には』、“Du bist ein dummer Junge!”(ドイツ語:「この馬鹿たれ小僧!」)『という合言葉を掛けることにより、申し込みをしたものとみなされた』。一八五〇年代に『なると、体力的に等しい者が平等に戦えるよう、学生団体同士で参加者を斡旋し合う制度が生まれてきた。また、大学によっては、あらかじめ複数の学生団体の幹部が協議を重ね、面識も反目の経験もない互いの構成員同士を決闘させる、一種の腕試しのようなことも行われた』。『一人の学生が在学中にメンズーアを経験する回数は』決闘しない者から、多い者では三十回から五十回ほどで』、フリードリヒ・バクマイステル(Friedrich Bacmeister 一八四〇年~一八八六年:同人のドイツ語版ウィキで確認)という学生は、実に在学中、百回もの『学生決闘を成し遂げたことで歴史に名を遺している。メンズーアに参加するか否かは当事者の意思に委ねられたが、郷友会やサークルの上級生によって無理やり参加させられる例もあったという。特に郷友会は、新入生に対して最低でも』一回は『メンズーアを経験する義務を課しているところが多かった。カトリックの学生団や文芸サークルなど、決闘とは縁の薄い団体は、しばしば価値の劣る存在だとみなされた。学生時代に幾度もメンズーアを経験した者は、軍隊において優遇され、早期に昇進することができた』とある。

哲學者の小徑」ハイデルベルク城の対岸に当たる河畔からハイリゲンベルク(Heiligenberg)山(聖人山)をやや上ったところをハイデルベルク旧市街アルトシュタット(Altstadt)を望みながら通る散歩道。後期ロマン派のドイツの小説家で詩人のヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(Joseph von Eichendorff 一七八八年~一八五七年)はこの道からハイデルベルクを眺めながら、新しい作品のインスピレーションを得たと言われる。二十数年前、私もたった一度だけ歩いたことがあるが、忘れ難い素敵な小道であった。

「馬槽」そのままでは「うまぶね」であるが「かいばおけ」と当て読みしたい。馬の飼料を入れる桶 ・飼い葉桶・秣(まぐさ)入れのことである。

「乳香」「にゆうかう(にゅうこう)」はムクロジ目カンラン(橄欖)科ボスウェリア属のボスウェリア・カルテリィ Boswellia carterii などの同属の北アフリカ原産の常緑高木から採取される樹脂。芳香があり、古代エジプト以来、薫香料として用いられた。

「沒藥」「もつやく」も同じくカンラン科の低木コミュフォラ(ミルラノキ)属コミフォラ(ミルラ) Commiphora abyssinica から採取されるゴム樹脂。堅い塊状をなし、黄黒色で臭気が強い。エジプトでミイラ製造の防腐剤や薫香料に用いた。痛み止め・健胃・嗽(うがい)薬などにも利用される。

「ガスパルとバルタザルとメルヒオル」「新約聖書」に於いて、イエスの生誕の際にやって来て、礼拝した東方三博士(はかせ)(個人的には私は「東方三賢人」の方がしっくりくる)の名。ウィキの「東方の三博士」によれば、Casper(カスパール)は没薬に対応し、「将来の受難として死」の象徴で老人の姿で、Melchior(メルキオール)は黄金に対応し、「王権」の象徴で青年の姿で、Balthasar(バルタザール)は乳香に対応し、「神性」の象徴で壮年姿の賢者で描かれるとある。一般にはバルタザールが黒人として描かれるが、地域によってはメルキオールが黒人である場合もある。

「マイダス」原文“Midas”。ギリシア神話に出る、プリュギア(Phrygia:古代アナトリア(現在のトルコ)中西部の地域名)の都市ペシヌス(Pessinus)の王ミダスのこと。触れたもの全てを黄金に変える能力がったことで知られている。

「ケルンの本寺がその殘骸を所持していることを誇りとしてゐる、あの占星家らによつて變質せられた地金」ゴシック様式の建築物としては世界最大を誇るケルン大聖堂(Kölner Dom:正式名「ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂」(Dom St. Peter und Maria:「聖ペトロとマリア大聖堂」)にある、同聖堂の最も大事な聖遺物とされる、中央祭壇にある東方三博士の頭蓋骨を納めた「柩」のことか。添乗員サイト「新婚旅行~ヨーロッパ|世界遺産を巡る旅」のこちらの記事によれば、三賢人の頭蓋骨は一一六四年にミラノからケルンに齎されたもので、これによってケルン大聖堂はヨーロッパでも最も重要な教会の一つとなったとある。高さ一・五三メートル、幅一・一メートル、長さ二・二メートルの木製で、金細工を施した銀・銅板が張られ、一千個の宝石と真珠、三百以上の準宝石とカメオが取り付けられており、彫刻は「新約聖書」が「旧約聖書」に基づく正当なものであることを示し、全面の中央には幼子イエスを抱いたマリアを礼拝する三賢人の彫刻が施してあって、聖櫃の中に王冠を被った三賢者の頭蓋骨が収められてあるという。私も見たはずなのだが、とんと記憶にない。氷の柱のようにそそり立った聖堂に慄然とした感覚だけが残っているばかりである。

「ヴエネラブル・ベエド」原文“le vénérable Bède”“vénérable”「尊(たっと)い・貴(とうと)い」の意で、これはイングランドのキリスト教聖職者で歴史家でもあった「尊者」ベーダ(BedaBadeBæda 六七二年又は六七三年~七三五年)のことである。ウィキの「ベーダ・ヴェネラビリス」によれば、カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会では聖人とされ、九世紀以降からは「尊敬すべきベーダ」(ラテン語:Beda Venerabilis)と呼ばれる。現代の英語では、名は「Bede」と綴られ「ビード」と発音される。『ベーダは北イングランドの方ノーサンブリアのウェア河口に生まれ、生涯タイン川河口の町ジャローから出ることはなかった。イングランド教会史を齢』五十九歳で『書き終えていると自ら書いており、また校了は』七三一年頃とされる事から彼の生年は六七二年乃至六七三年頃と推定される。『彼が高貴な生まれであったかは分かってはいないが』、七歳で修道院に入り、三十歳で司祭となっている。『ノーサンブリア貴族出身の修道士ベネディクト・ビスコップと彼の後継者チェオフリドにギリシア語とラテン語、詩作、ローマの主唱を学ぶ。古いアイルランド出身の先師たちが築いた伝統により、聖書解釈に進んだ。在世時のベーダの名声も、主として聖書解釈の方面にあった』。『ベーダは多くの著作を残した。その記述は多岐にわたる。ギリシア・ローマの古典はベーダによって初めてイングランドで再生し、スコラ学の先駆者となった。ギリシア・ローマの古典を引用し、天文・気象・物理・音楽・哲学・文法・修辞・数学・医学に関してその時イギリスで集められるかぎりの文献を渉猟した。ベーダが引用した文献はプラトーンやアリストテレス、小セネカ、キケロ、ルクレティウスやオウィディウス、ウェルギリウスなどである。その絶大な勤勉さによって、弟子たちにとっては、ベーダ自身が百科事典の役割を果たしたように思われる』。『今日ベーダの主著として知られるのは』「イングランド教会史」(ラテン語:Historia ecclesiastica gentis Anglorum/英語:Ecclesiastical History of the English People)五巻で、『この書はしばしば彼の名を付して『ベーダ』とのみ呼ばれる。これは現存する最古のイングランドの通史であり、ベーダはイギリス最初の史家として』も知られる。『ベーダはブリタンニアの地理・住民とローマの支配を概括することからはじめ、聖人たちの業績や修道院の歴史を縦糸とし、イングランド各王国の盛衰を横糸として、その間にいくつかの奇跡(火災や難病治療についての)や教会内部の問題をつづり、最後に事件を年代記風に整理して、自己の略歴と著作を記して終わる。このときベーダが模範としたのは、ヨセフスの古代ユダヤを扱った歴史書、またエウセビウスの教会史であった』。この「イングランド教会史」は『イングランド初期のキリスト教の発達についてだけでなく』、七世紀初めから八世紀前半にかけての『信頼すべき史料となっている。ローマ支配下のブリタンニア、カンタベリーのアウグスティヌスの伝道、テオドルス、チャド、ウィルフリッドなど偉大な司教たちの事績や、サクソン人やジュート人の進入、スコットランド・アイルランドの当時の状況について、平易なラテン語で詳細で迫力ある叙述をおこない、文学としても高く評価されている』とある。

「ネツカ河畔」ネッカー(Neckar)川はドイツ中南部の流域を流れるライン川の支流。ハイデルベルク城はネッカー渓谷に建つ。なお、「ネッカー」の名はケルト語由来で「荒れた川」の意である。

「小天使(ケルビム)」(ラテン語 cherub/複数形:cherubin, cherubim)は天使の一種で「智天使」などとも訳される。ウィキの「智天使によれば、天使の九階級では第二位に位置づけられている(但し、出典は偽書)。「旧約聖書」の「創世記」によれば、『主なる神はアダムとエバを追放した後、命の木への道を守らせるためにエデンの園の東に回転する炎の剣とともにケルビムを置いたという。また、契約の箱の上にはこの天使を模した金細工が乗せられている。神の姿を見ることができる(=智:ソフィア)ことから「智天使」という訳語をあてられた』。「旧約聖書」の「エゼキエル書」十章第二十一節によれば、『四つの顔と四つの翼を持ち、その翼の下には人の手のようなものがある。ルネッサンス絵画ではそのまま描写するのではなく、翼を持つ愛らしい赤子の姿で表現されている。これをプット(Putto)という』。『「彼はケルブに乗って飛び、」』(「サムエル記」の下の二十二章十一節)『「主はケルビムの上に座せられる」。』(「詩篇」九十九編第一節)『といった記述があり「神の玉座」「神の乗物」としての一面が見られる』。その『起源はアッシリアの有翼人面獣身の守護者「クリーブ(kurību)」といわれている』。『旧約聖書によるとケルビムの姿は「その中には四つの生き物の姿があった。それは人間のようなもので、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。その顔は人間の顔のようであり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔を持っていた。生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた。ケルビムの全身、すなわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた(知の象徴)ケルビムの一対の翼は大空にまっすぐ伸びて互いにふれ合い、他の一対の翼が体をおおっていた(体をもっていないから隠しているという)またケルビムにはその翼の下に、人間の手の手の形がみえていた(神の手だという)」とされている』。『なお絵画表現において、セラフィム』(ラテン語:Seraph, Seraphim:先の階級説では最上位の天使とされ、「熾天使(してんし)」などと訳す。三対六枚の翼を持ち、二つで頭を、二つで体を隠し、残り二つの翼で羽ばたく。「熾」(やく)はヤハウェへの愛と情熱で体が燃えていることに由来する)『と混同されて描かれているものもある』とある。

「ああ、あいつら精力的な動物どもの知つてゐた返事といつたら、唯、しやがれた獨逸語の肯定詞だけだつたのだ。」原文は“Hélas ! ces énergiques animaux ne savent qu’une réponse : la rauque affirmation. germanique.”で、青土社刊「アポリネール全集」の窪田般彌氏の訳では、『ああ! あの元気のいい動物ときたら、たった一つの返事しかできないんだからな。「ヤア」というドイツ語のしゃがれた肯定語を繰り返すだけさ。』と訳しておられ、腑に落ちる。

「彼の發作が彼を餘儀なく隱れ家のなかへ閉じ込めさせてゐることを、」原文では“puis ses fureurs qui l’avaient fait interner dans un asile,”の箇所だが、このアジール(asile)はある種の収容所・保護施設、ここでなら、精神病院のことであろう。同前の窪田般彌氏の訳でも、『狂乱状態のかれをさる精神病院に軟禁したが、』と訳しておられ、やはり腑に落ちる。

――リンゲル、リンゲル、ライエ。(踊れ、踊れ、輪になつて踊れ。)さようなら、イルゼ、永久に。さようなら、お前の德義に適つた諸罪よ、お前より美しくはなかつたお前の諸德よ。さようなら、イルゼ、永久に。」ここは原文の響きが実に哀しく美しい。以下に掲げる。

 « Ringel, Ringel, Reihe. Adieu, Ilse, pour toujours. Adieu, tes péchés vertueux et tes vertus moins belles que toi. Adieu, pour toujours. »”

「軍笛(ファイフ)」原文“les fifres”“fifre”は横笛。]

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